色の語彙が白と黒しかない言語の話者に、世界はどう見えるのか――サピア=ウォーフ仮説の実験が示す「小さな影響」とその使い道

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概要

ゆる言語学ラジオの水野太貴と堀元見は、過去の回で二つの話題を扱っている。一つは、白と黒しか基本色彩語を持たないダニ語のように、色の語彙が言語ごとに大きく違うという話。もう一つは、使っている言語が世界の認識に影響するというサピア=ウォーフ仮説である。今回の問いは、その影響が実際にどの程度なのかだ。白と黒の語彙しかない言語の話者と日本語話者とでは、見えている世界がどう違うのか。水野は心理学の実験を順に紹介し、「影響はある。ただし小さい」と答える。そのうえで、この小さな影響がなぜ一部の研究者にとって重要なのかを説明する。

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ウォーフの議論から心理実験へ

以前の回で水野は、ウォーフの論証にはレトリックや誇張が含まれ、ウォーフ自身は実験をしていなかったと話していた。その後、認知心理学者がこの仮説に関心を持ち、実験で確かめようとした。水野が最初に挙げるのは、ロッシュがダニ語話者を対象に行った実験である。

この実験にはマンセルカラーシステムを使う。色相・明度・彩度に基づいて色をマス目状に並べた図で、赤から黄色、緑、青を経て明るい赤に戻るグラデーションになっている。この図から小さな色のチップを選んでダニ語話者に見せ、あとで「さっき見たチップはどれか」と尋ねる記憶テストを行った。たとえば青を見せたあとに緑を見せる。ダニ語には青と緑を区別する語彙がないので、話者は間違えたり「同じ色だった」と答えたりすると予想できる。堀元もそう予想した。ところが結果では、ダニ語話者の成績は英語話者と変わらなかった。

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語彙がなくても違いは分かる

水野は、この結果に驚かない人もいるだろうと言う。過去の回で、人間は色の語彙は細かいのに味覚の語彙はそれほど細かくない、という話をしていたからだ。そこで水野は考え方のこつを示す。ある言語に区別のない語彙があると聞いたら、日本語の味覚語に置き換えて考えればよい。

例として、熟した夕張メロンを食べたあとに、マスクメロンの皮に近い部分を食べたとする。日本語ではどちらも「甘い」で済むが、片方は典型的な甘さで、もう片方は甘さと苦さの中間に近い。両者が同じ味だったかと聞かれたら、馬鹿にするなと思うだろう。語彙を持っていることと、違いが分かることはまったく別の話だ、と水野は言う。

堀元は椅子を買ったときの体験を重ねる。座り比べのできる専門店で、座り心地を表す語彙がないので「いいですね」としか言えなかった。それでも、さっきの椅子のほうがいいという感覚ははっきりあった。目隠しで二脚に座らされて同じ椅子かどうかを聞かれれば、語彙がなくても答えられる。ダニ語話者の結果はこれと同じ構造だと二人は確認する。

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典型的な色と非典型的な色の名前の覚えやすさ

水野が次に紹介するのも、ダニ語話者を対象にした実験だ。英語で基本色彩語が当てはまる典型的な色と、典型から外れた色に、実在しない人工的な名前をつけて覚えさせる。典型的な赤には「あいう」、赤と呼べなくはないが典型からは離れた朱色のような色には「かきく」、といった具合である。ダニ語には赤と朱色を区別する語彙はない。

結果は、典型的な色につけた名前は覚えやすく、非典型的な色の名前はよく覚えられなかった。堀元は、子供の頃に赤とオレンジの中間のような色の名前を覚えたのはずっと後だった、優先度が低いと感じていたのと同じではないか、と言い、水野もそれに同意する。水野は解釈の一つとして、人間の知覚システムに基づいて、典型的な赤はどの文化圏の人にとっても知覚しやすいと考えることもできる、と述べる。

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仮説の旗色は悪いのか

この二つの実験をまとめると、青と緑の語彙がなくても違いは分かり、語彙がなくても典型的な赤は典型的な赤として扱われている。仮説どおりなら、赤という語彙を持たない人には典型的な赤と非典型的な赤が同じになるはずだが、そうはならなかった。堀元は「今日から撤廃しましょう」と冗談を言う。水野は、話には続きがあると応じる。

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タラフマラ語:語彙があるほうが引っ張られる

次の実験の対象は、メキシコ北部のタラフマラ語だ。この言語は緑と青を区別せず、同じような名前で呼ぶ。実験では、青、緑、その中間の色のチップ3枚をタラフマラ語話者と英語話者に見せ、真ん中のチップはどちらに似ているかを尋ねた。英語話者の多くは、この中間色をグリーンとみなしやすい。

予想どおり、英語話者は中間色を緑に似ていると答えた。タラフマラ語話者の回答は、完全にランダムで半々に分かれた。ダニ語の実験とは違い、この結果は仮説を支持するものだと水野は説明する。堀元は、直感とは逆の方向に支持していると指摘する。区別する語彙を持つ人のほうが鋭く感じ取れると思っていたが、実際には語彙のない人のほうがありのままに見ていて、語彙のある人はそのカテゴリーに引っ張られていた。水野は、中立的だった世界が言語によって偏った認識になっている、と言い換える。

ここで二人は、名前をつけることの弊害を雑談でふくらませる。堀元は19歳で上京したとき、愛知出身の知人が3人続けて話の面白くない人だったので、「愛知の人は話がつまらない」と自分の中で言語化してしまったという。その後に会う愛知出身者も、そういう目で見るようになった。のちに話の面白い愛知出身者に続けて会い、偏見から解放されたそうだ。愛知出身の水野は抗議しつつ、雑に言語化するとそれに引っ張られることはあるのだろうと受け止めた。

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影響は「境界を少し歪める」程度

ここまでの理解として水野は、サピア=ウォーフ仮説は一定程度は正しいと述べる。ただし、その影響は広範囲で本質的なものではない。カテゴリーの境界を少し歪めたり、分類のときに注目する情報が少し変わったりする程度だという。英語話者が青と緑の区別を失うわけではなく、中間色を緑と判断する人が増える程度にすぎない。白と黒の語彙しか持たない人にも世界が白黒に見えるわけではなく、我々と同じように見えている。

水野はここで今井むつみの見方を紹介する。今井は、言語を獲得したあとの、異なる言語の話者どうしの認識の違いは重要なポイントではないとする。核心は、言語を学ぶことで起こる子供から大人への認識の変化のほうだという。英語話者の色カテゴリーが少しずれる程度の差に比べれば、言語を持たない子供と言語を持った大人の認識の違いははるかに大きい。言語は世界を認識するときのフレーミングを与えているからだ。堀元は、英語と日本語の違いのほうがキャッチーなので注目が集まるのだろうと言い、水野も、とんでもないことが起きているという驚きがあるから広まりやすいが、今の研究者が考えているのはもっとミニマムなことだと話す。

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条件を少し変えると効果が消える

水野は、仮説が思ったより小さいと感じさせたところから、話を面白い方向へ転じる。まず、タラフマラ語と英語の実験の追試が紹介される。条件を変え、3枚を一度に見せるのではなく、隣り合う2枚しか同時に見られないようにした。すると、英語話者に見られた色名の効果が消えた。3枚を一度に見るとブルーとグリーンが同時に目に入るが、隣り合う2枚だけだとブルーとブルー、グリーンとグリーンにしか見えない。わずかな工夫で、英語話者はタラフマラ語話者と同じ反応に戻ったという。

もう一つは言語干渉課題である。たとえば奇数を1から順に「1、3、5、7」と声に出し続けさせながら、色の課題をやらせる。すると、言語カテゴリーによる効果がやはり消える。見た色を覚えて同じかどうか答える際に、「さっきの色は青」といった言語ラベルの処理が邪魔されて働きにくくなるためだ、と水野は説明する。最初の実験で見られた効果は、手元にある言語ラベルという基準に沿って答えたというレベルの話であり、しゃべらされるだけで消えてしまう。堀元は、もともとの影響がごく小さいから、ちょっとしたことでなくなるのだとまとめた。

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バナナと信号機の色

水野は、似た現象をさらに挙げる。色のチップを並べて「バナナの色はどれか」と選ばせると、実際のバナナより明るい色を選んでしまう。「バナナは黄色」という言葉のラベルに影響されて記憶しているからだという。

信号機の真ん中の色も例になる。日本語では黄色と呼ぶが、オランダではオレンジと呼ぶ。真ん中の色を、オレンジから黄色まで6段階に変えたものを用意し、オランダ人と、黄色と呼ぶドイツ語の話者に本当の信号の色を選ばせた。ドイツの人は黄色寄り、オランダの人はオレンジ寄りを選んだ。バナナと同じく、言語に引きずられた選択である。(ここでは信号の並び順を堀元が覚えておらず、日本の信号の「青」は緑ではないかという言い合いになったが、本題とは関係しない。)

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ベリンモ語の記憶実験

水野は、ネイチャーに載ったというニューギニアのベリンモ語の研究も紹介する。この言語の基本色彩語は五つで、青と緑を一つにまとめたカテゴリー(英語圏の言い方で「グルー」)を持つ。一方で、黄色と明るい緑を指す別の語があるという。英語は青と緑を区別するが明るい緑と暗い緑は区別しない。ベリンモ語は青と緑をまとめるが、明るい緑は別の語で呼ぶ。境界線の引き方が英語とは違っている。

実験では、チップを1枚見せ、30秒後に似た2枚からさっきと同じものを選ばせた。英語話者は、緑を見せて選択肢が緑と青なら間違えにくいが、暗い緑と明るい緑なら混同しやすい。ベリンモ語話者はその逆で、緑と青の選択では正答率が下がり、明るい緑と暗い緑の選択では違う名前で呼んでいるので間違えにくい。水野は、言語によって視覚のカテゴリー知覚や記憶の保持に影響が出ることがきれいに示された例だと位置づける。堀元は、我々はかなりの部分を言語にして記憶しているのだと感想を述べた。

23:28

色名を先に聞かせると弁別精度が上がる

小さなレベルの話として、水野はもう一つ実験を挙げる。円を4つ見せ、3つは同じ色、1つだけ違う色にして、違う円を選ばせる課題だ。円が表示される1秒前に関連する色名を聞かせると、参加者の弁別の精度が10%上がったという。水野は、色の弁別に使われる部位のようなものがあるとすれば、それが事前に活性化したのではないかと推測する。

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なぜ小さな差が「ご馳走」なのか

ここまでの結果は、信号の色が少し黄色に引っ張られる、といった派手さのない話だった。水野は、こうした小さな影響が一部の研究者にとってはご馳走のようなものだと言う。意識と無意識について知りたい研究者である。

水野の整理はこうだ。色を知覚すること自体は言語がなくてもできる。ダニ語話者も赤と緑の違いが分かった。一方で、色の分類や判断は言語の影響を受け、グリーンという語を知っているとグリーンに引っ張られる。30秒前に見たものと同じかを判断するような記憶では、言語ラベルがあると成績が上がる。つまり、色を見ること、区別すること、思い出すことは、それぞれ異なる認知的タスクだという。

水野はさらに、色を見るのは無意識的な処理で、記憶するときには「これはブルーだ」と言語を使うので意識的な処理だ、と説明する。言語干渉課題で言語ラベルの効果が消えたのは、無意識的な処理に戻ったからだという。堀元はこれを、無意識に見たあとに言語というソフトが処理を一度挟むが、干渉課題でそのソフトがふさがると無意識の知覚に戻る、と言い換えた。水野の言い方では、言語は無意識と意識の境界線を少しだけ動かしている。意識はとらえどころがなく、取り出すことも観察することもできない。しかし言語を使えば境界が少しずれるので、そのずれた部分は取り出せる意識だ、ということになる。

堀元は、中間色を緑と認識する話がなぜ意識と無意識の境界の話になるのかと問い返した。水野は、2枚ずつ見せる条件と3枚まとめて見せる条件の違いで説明する。2枚だけなら言語に引きずられずに見えるが、3枚まとめて見るとブルーとグリーンという言語的な処理が入り、認識もそれに引っ張られる。前者は無意識の世界、後者は意識の世界だ、と水野は自分の理解として述べた。

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物理学の比喩とリバースエンジニアリング

水野は、監修者の福田純也によるたとえを紹介する。物理学では、大金をかけて設備を整え、無重力空間などで実験した結果、粒子がほんの少しずれたことが大発見になる。サピア=ウォーフ仮説の実験もこれに近い。設備はいらないが、異なる言語、つまり異なるソフトを積んだ人々を集め、反応時間が少し遅れたり脳波が少し違ったりすることを見る。意識と無意識を見たい人にとって、それは大きな差になるという。

人間の認知に、最初にこういう処理が走り、その上にこういう処理がある、というモデルがあったとする。言語を使った実験で、その通りだったか、違うらしいかが間接的に分かる。堀元は、仮説そのものが目的なのではなく、人間の認知システムに迫る手段としてすごいのだとまとめ、水野も同意した。

水野によれば、言語を研究する人には大きく2種類いる。言語そのものが好きな人と、人間を知りたくて、その材料として言語がいちばん適しているから使う人である。今井や福田は後者だろうという。言語学の一分野は脳のリバースエンジニアリングや鍵のピッキングに近く、実験の反応から触れられない内部構造を復元しようとしている。堀元は、脳を分解できないから動きから予想するしかないのだと受け止めた。

具体例を求められた水野は、色名を先に聞かせる実験と言語干渉課題を対にして挙げる。前者は言語による色処理の効果をその場でオンにするスイッチ、後者はオフにするスイッチにあたる。物理的には同じ刺激を見せながら、言語カテゴリーの作用を強めたり弱めたりでき、その結果が反応時間などに現れる。そのため、感覚入力そのものと、その後に言語が上乗せする効果を分けて見ることができる。研究者は、感覚入力のあとに言語が一度割り込み、それでカテゴリー認識がずれるという実装になっているのではないか、と考えているという。

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冒頭の問いへの答え

締めくくりに、堀元が自分の体験を話した。映画をぼんやり見ていると何の話か分からなくなるので、なるべく言語化しながら見るようにしている。ところが「これは事実を元にしたフィクションである」と表示されると、ぼんやり見ない傾向に気づいたという。色名の先行刺激と同じように、何かのスイッチが入るのではないかと堀元は考えた。水野は、実際の実験はもっと細かいレベルの話だが、大きくとらえればそういうことだと応じた。

冒頭の問い、白と黒の語彙しかない言語の話者に世界はどう見えているのかについて、水野の答えはこうだ。色の知覚は我々と同じである。ただし、ごく細かな違いを当てさせたり、さっきと同じ色を思い出させたりすると、成績が少し落ちるかもしれない。その程度の差である。そしてその小さな差こそが、人間が世界をどう見ていて、そこに言語というソフトがどう関わっているのかを切り分けて調べる手がかりになる。

参考文献として、今井むつみ『ことばと思考』、ケイレブ・エヴェレット『無数の言語、無数の世界』、言語と思考の章を含む『朝倉心理学講座5』、福田純也『外国語学習に潜む意識と無意識 新装改訂版』が紹介された。『朝倉心理学講座5』の章には、言語が思考を規定するわけではないとはっきり否定する節があるという。福田の本は抽象的で読みやすくはないと水野は認めつつ、今回の後半の話にいちばん近い内容だと勧めていた。