ひろゆきの「嘘を嘘と見抜ける人でないと」はどこが問題か 戦争の言葉から考える言語行為論

YouTubeで開く ↗
概要

ゆる言語学ラジオの水野太貴と堀元見が「戦争と言葉」をテーマに話した回である。水野は冒頭で、ひろゆきの「嘘を嘘であると見抜ける人でないと(匿名掲示板を使うのは)難しい」という発言を取り上げる。この発言は正論としてよく引用されるが、水野は「ある点では問題がある」と考えている。その理由を説明するために、まず戦争で人が人を殺せるようになる条件を確認し、次にルワンダの虐殺で言葉が果たした役割、最後に言語哲学の言語行為論へと話を進めた。

17分で読めます
0:32

殺人への抵抗を減らす「4つの距離」

前回の回では、グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』をもとに、人には本来殺人への抵抗があり、8割ほどの兵士は発砲すらしなかったこと、ベトナム戦争で発砲率が上がったのは条件づけを応用したためであることが語られた。今回、水野は条件づけ以外にも殺人への抵抗を減らす要素があると紹介する。グロスマンはそれらを4つに分け、すべて「距離」として説明しているという。

1つ目は文化的距離で、人種や民族の違いを指す。2つ目は倫理的距離で、自分たちは復讐や制裁をしている、倫理的に正しい側にいると固く信じることである。水野によれば、戦争では一般に地元側が有利だとされ、その理由として、家や家族や国を守るという倫理的な優越感が伴うことが挙げられている。堀元は、漫画『キングダム』で城にいる家族を守るために奮戦する場面が多いことを例に出した。3つ目は社会的距離で、階層化された社会で特定の階級を人間以下と見なすことである。4つ目は機械的距離で、レーダー、暗視装置、テレビ画面などを通すと、相手が人間であることを忘れやすくなる。暗視装置で見ると、表情のある人間がただの緑色の像にしか見えなくなるという説明だった。

堀元はこれを身近な例に置き換え、Zoom越しの方が値段交渉で強気に出られる、メールならさらに言いやすい、対面だと遠慮してしまうと話した。水野はそれを機械的距離だと認めた。

水野はさらに重い例として処刑を挙げた。ナチスなどによる共産主義者の処刑は、伝統的に後頭部を撃つ方法で行われてきた。相手の顔を見えなくするためである。絞首刑などで囚人に目隠しやフードをかぶせるのも、表情が見えると人間だと感じてしまうので、できる限り非人間化するためだという。水野は、フードをかぶせられた誘拐被害者は殺される危険性が大きく上がるという研究や、戦場で背中を向けると殺されやすいという話も紹介した。

4:34

ルワンダの虐殺に見る「言葉の3段階」

ここから水野は戦争と言葉の関係に入る。取り上げたのは1994年のルワンダでの大量虐殺と、それを研究した言語哲学者の論文である。水野の説明によると、ルワンダは1962年にベルギーから独立した。それまでは少数派のツチが統治者側に立っていたが、独立後は多数派のフツに主導権が移り、フツ中心の政権はツチを虐げる政策をとった。その結果、30年後には軍人だけでなく一般市民までが、かつての隣人だったツチの人々を大量に殺すようになった。論文は、この過程に言語が関わっており、それは3つの段階を踏んだと主張している。

第1段階は「言葉を与える」ことだ。フツとツチは違う民族だという概念を流通させ、もともと隣人だった人々に「民族としては違う」と思わせる。水野は日本に置き換えて、関東人と関西人の違いを強調する言葉を40年間使い続ければ、本当に違う人たちなのかもしれないと感じるようになるだろうと説明した。ルワンダではこれが40年ほどかけて浸透したという。

第2段階は、少数派ツチへの蔑称が多数派のあいだに広まることだ。ツチはゴキブリだ、ツチは蛇だ、といった言い換え、つまりメタファーが流通する。第3段階では、蔑称を経由した婉曲表現が使われる。「ゴキブリは駆除しなければならない」という婉曲な言い方で、ジェノサイドが呼びかけられた。

水野はこれを先ほどの距離の話に結びつける。ツチは違う民族であり同じ人間ではないとされることで文化的距離が生まれ、人間以下の階層と見なされることで社会的距離も生まれる。ポイントは「あの人はツチだから殺そう」とはならないことだと水野は言う。「あの人たちはゴキブリだ」「ゴキブリは駆除すべきものだ」「だからあの人たちを駆除しよう」という論理をたどるのである。

ゴキブリという比喩にも根拠らしきものがあった。ゴキブリは夜に活動する害虫で、次々に繁殖する。反政府ゲリラも夜間に暗躍し、どこからでも湧いてくる。そこから「反政府ゲリラはゴキブリだ」という比喩が成立する。そして「ゴキブリは駆除すべきものだ」という社会通念があるので、殺害の呼びかけへのハードルが下がる。呼びかけが社会通念に沿っているからだ。

蛇の比喩についても同じ構造が説明された。フツの少年がツチの人の首を切っているという衝撃的な写真が出回ったことがあり、水野はその背景として、ルワンダには男の子が大人になる通過儀礼として蛇の首を切り落とす慣習があったことを挙げる。「あいつらの首を切ってこい」とは言わなくても、「あいつらは蛇だ」と「蛇の首を切るのは通過儀礼だ」が組み合わさると、人は残虐な行為ができてしまうという。

堀元が、平和な感覚からするとそんな比喩で人を殺す気になるとは思えないと言うと、水野は、ルワンダはかなりエスカレートした果ての例だとしつつ、関東大震災のときに外国人が井戸に毒を入れたというデマが広まったことを挙げ、日本でも起きていることだと答えた。

9:13

「殺せ」と言わずに殺させる婉曲表現

水野は、ルワンダでも直接「殺せ」と煽る表現はあまりなかったようだと話す。ラジオが虐殺を呼びかけていたことは有名だが、その呼びかけも「ゴキブリを駆除しよう」のような一見カジュアルな言葉で行われ、「あいつらは最悪だ、殺してやれ」のような強い言い方ではなかったという。

堀元はこれに関連して、フランス革命の頃に「街灯に吊るせ」というスローガンがあったことを挙げた。民衆が貴族や王族を殺そうと呼びかける言葉で、「殺せ」では強すぎて皆が引いてしまうが、婉曲な表現なら受け入れやすかったので広まったのではないかと推測した。水野はカルト教団の「ポアする」も同じで、魂を浄化するという一応ポジティブな意味の言葉として使われていたと付け加えた。はっきり「殺せ」と言われると人はためらうが、言葉を一つ挟むと簡単にできてしまう、というのが水野のまとめである。

堀元は『プロパガンダ戦史』を読んだときの話もした。この本では、プロパガンダの本質はいかに皆が自分を正義だと思える名づけをするかにあり、戦争に突入しようとする独裁者ほど「私たちは戦争などしたくない、奴らが愚かなせいで戦争になる」と言う、どの独裁者もほぼ同じ論法になる、と書かれていたという。堀元は、やりやすい言葉づかいを選ぼうとすると誰の言葉も似てくるのだろうと解釈した。

水野はここでベトナム戦争の話に戻る。発砲率が上がったもう一つの理由は、敵は自分とは異質な人間であり、それどころか人間ですらないと考えさせる手法(字幕上は「脱感」、脱感作)だったという。フツがツチをゴキブリと呼んだのと同じ現象で、戦争では敵兵を蔑称で呼ぶのが普通になる。水野は、アメリカ側の「ジャップ」と日本側の「鬼畜米英」を例に挙げ、敵にラベルを貼って同じ人間だと思わない価値観を強めるのはよくあることだと述べた。堀元は、みんな自分の心を守りたいのかもしれないと応じた。

11:39

言語行為論:発話は「世界への働きかけ」

水野によると、こうした現象は言語哲学の言語行為論を学ぶのにぴったりの題材だという。言語行為論とは、人の発話を真か偽かで判定できるものとして扱うのではなく、世界への働きかけとして捉えるべきだという、20世紀半ばの考え方である。水野自身、最初にテキストで読んだときは「何も働きかけていないけど」と思ったが、勉強を進め、今回『戦争における「人殺し」の心理学』を読んだことで、言いたいことがかなりわかったという。

言語行為論が出てくる前は、文は事態を記述するもので、世界と対応しているかどうかで真偽を決められるという立場が主流だった。「コップ」という言葉が現実のコップに対応していれば真、ぬいぐるみを見て「あれはコップだ」と言えば偽、というのが言葉の意味だとされ、真偽を問えないものは副次的なものとされていた。水野は、理屈で厳密にやろうとする論理実証主義の人たちにとって、真偽を問えない言葉は扱いにくいものだったと説明する。堀元は「ファミレス行こう」のような発話は真でも偽でもなさそうだと言った。

これに対し、言語行為論を最初に考えたオースティンは、勧誘(「ファミレス行こう」)、謝罪(「悪いことをした、申し訳ない」)、選手宣誓(「スポーツマンシップにのっとって競技することを誓います」)のように、真偽を問えない発話が日常にはとても多く、そちらを考えるべきではないかと主張した。水野はここで、選手宣誓はサッカーのファウルの演技や野球のカット戦法を見れば偽だと冗談を言い、堀元が「それは違う話だ」と突っ込んでいる。

オースティンによれば、こうした発話は謝る、宣誓する、勧誘するといった行為を、発話を通して行っている。だから「言語行為論」と呼ばれる。堀元は、真偽を述べているというより行為をしていることの方が多いかもしれないと納得した。

15:06

命名・謝罪・約束はどう世界を変えるのか

「働きかけ」という言葉がまだ大げさに聞こえるという堀元に対して、水野は命名の例を出す。「この船をエリザベス号と名付ける」と宣言しても、船には物理的に何の変化もない。しかし周りの人がそれを聞いて了解した瞬間から、物理的世界とは別の、私たちが認識する現実世界ではその船はエリザベス号になる。これが現実世界への働きかけだという。

堀元は謝罪も世界への働きかけだと感じると言い、自分が水野に謝るのも、YouTubeで謝罪動画を出すのはなおさらそうだと話した。水野は、一対一の謝罪を「世界への働きかけ」と呼ぶのは大げさだが、企業の謝罪会見やYouTuberの不祥事の謝罪は世界への働きかけだと整理した。約束も同じで、堀元と個人的に指切りするのとは違い、「私水野太貴は2026年10月31日に大きなイベントをやると約束します」と仮に言えば、視聴者への働きかけになる。それでも物理的な世界は何も変わっていない。水野はここがポイントだと言う。堀元は、フジテレビの謝罪会見が13時間ほど続いて長すぎると怒られたのを、「働きかけすぎ」のケースだと茶化した。

16:28

すれ違いの多くは「行為」を読み損ねることから生じる

水野は、この考え方で言語のすれ違いの多くを説明できると考えている。こちらは何かを要求したつもりなのに、相手は真偽で返してくる、ということがよくあるという。堀元は「今日暑くない?」を例に挙げた。これをクーラーをつけてほしいという意味だと受け取るか、単に「確かに暑いですね」と返すかの違いである。堀元は、理屈っぽい人間は10代後半ごろにこれに驚き、文字どおりの意味ではなく行為に注目しなければいけないと気づくことがあると話した。

堀元は痴話喧嘩もこれに近いと言う。個別の論点に反論しても問題は解決せず、その奥にある「こういうことを汲み取ってもらえなくて寂しかった」という意図を探らなければならない。「待ち合わせに10分遅れるなんてひどい」は、10分遅れたことのひどさを言っているのではなく、「私のことを考えてほしい」と働きかけているのだという。

水野は、オースティンや、その理論を発展させたサールが今の例を言語行為論と呼ぶかはわからないと留保した。ただ、発話内容の真偽ではなく、その先にあるニュアンスや意図を考えるという広い意味ではその通りだと認めた。また、文そのものの意味を扱うのは意味論で、文の先にある意図や状況に応じた意味を扱うのは言語学の語用論の分野だと補足した。

18:40

言葉は世界を写すのではなく作り替える

水野はルワンダの話に戻り、言語行為論の見方で何が起きていたのかを説明する。「ツチはゴキブリだ」「蛇だ」と表現することで、フツの人々の中で世界がそのようになった。ツチの人々は物理的には何も変わっていないが、そう言った時点で世界は作り替えられ、彼らの世界ではツチは駆除すべきものになり、残虐な行為が起きた。これが言語的に見たルワンダ内戦の核心だと水野は言う。言語行為論に従えば、言葉は世界を写し取っているのではなく、言葉を通じて世界を作り替えているのである。

水野は、以前ゆる言語学ラジオに出演した和泉先生の説明も紹介した。ドラえもんの「そっくりクレヨン」(字幕では「クレオン」)は、普通のクレヨンのように現実を絵に写すのではなく、現実のほうを描いた絵に近づける道具である。和泉先生は、オースティンの主張はまさにこれだと言っていたという。人間をゴキブリとして描けば、ゴキブリになってしまうのである。

堀元はこれを番組内のあだ名に当てはめ、水野の顔に「チベットスナギツネ」というコメントがついて以来そうとしか見えなくなったと言った。水野は、実際に似ているだけだと反論した。逆に水野は、堀元に「ナス」と言った視聴者がいた結果、堀元が紫の服を着るようになったと指摘した。堀元も、何も言われなければナスには見えなかったはずで、今は自分からナスに寄せていると認めた。

21:16

「嘘はお前が見抜け」の何が問題か

準備が揃ったところで、水野は冒頭の問いに答える。オースティンの見解をもう少し深めると、言葉は道具ではなく行為だという主張になる。従来の考え方では、言葉は中立的な道具で、現実世界をきれいに写し取るものであり、世界との対応関係を考えればよかった。オースティンは、言葉は発した時点で行為だと主張した。

水野によれば、ひろゆきの「嘘を嘘であると見抜ける人でないと匿名掲示板を使うことは難しい」は、オースティン以前の世界観に立った発言である。嘘を見抜くとは、発言が現実と対応しているかどうかを見分けることであり、嘘を言った人は現実と対応しないことを言っただけで悪くない、という前提がある。言葉が中立的なものなら、嘘を言う人がいても見抜ける人がいれば問題はない。しかしオースティンの立場では、嘘を言うこと自体によって世界は作り替わる。発話そのものが行為であり、働きかけなのである。

堀元は、2ちゃんねるでは嘘が放置され続けたが、最近のTwitter(X)には嘘を取り締まるコミュニティノート機能が実装されたと指摘し、SNSもオースティンの側に寄ってきている、フェイクニュースで世界を惑わすのを放置してはまずいから止めようとしている、と話した。

水野は、和泉先生がヘイトスピーチや悪口を研究しているのもこのためだと説明した。ヘイトスピーチは世界を作り替え、悪口は世界の序列を作り替える言語行為だからである。ゲスト出演時には関係がなさそうに思えた、という堀元は、ここでようやく和泉先生の研究の意味がわかったと言い、あのときその場で説明してほしかったと水野に冗談を言っている。

23:41

青汁の「個人の感想です」と広告規制

堀元はこの理屈を広告に当てはめた。青汁の広告で「これを飲んでから毎日体が健康です」と言いつつ「※個人の感想です」と書くのは、健康効果があるという世界を作っておきながら、個人の感想だと言って逃げており、ずるい感じがするという。タレントがCMという文脈で出てきて「個人の感想です」と言うのは、言語行為論的に気になる現象だと水野も同意した。

堀元はもう一つ、ゆるコンピュータ科学ラジオでビットコイン関連の広告を扱ったときの経験を挙げた。「個人的には絶対買った方がいいと思います」も推奨にあたるのでやめてほしいと言われ、「意見の表明です」という言い訳は通らないのだと思ったという。水野もこれは言語行為論的な話だと認めた。

水野は、言語行為論では行為に分類があり、発話することで行う行為を「発話内行為」と呼び、命名、約束、謝罪などがあると補足した。ただ、中途半端に知ったせいで、今の例がどれに当たるのかを考えてしまい、歯切れが悪くなっていると明かした。

25:51

言論の責任と、言葉が道具であるとき

堀元は、この話を踏まえると言論にはいっそう責任があると感じるという。どんな些細な発言も世界を作り替える働きかけだと思うと、うかつには言えなくなる。そこで今後は自分が確信を持って責任を取れる範囲のことだけ言う、と宣言したうえで、その内容が「選手宣誓は嘘だ、サッカーはスポーツマンシップにのっとっていない」だった、というのがこの場の笑いになっている。話はラグビーの痛がらなさや、脳しんとうの際にアンモニアをかがせるという話に脱線していった。

締めくくりで水野は議論を整理した。人は文化的距離や社会的距離があれば殺人へのためらいが減り、暗視スコープや、前回話したドローンのような機械もその距離を作る。しかし、もっと手軽に距離を作れるのが言葉だという。ルワンダでは「あいつらは人間ではない」というメタファーが実際に流通させられ、敵兵を蔑称で呼ぶことは戦争ではよく見られる。堀元は、SNSでも特定の属性の人を「人間ではない」と言う言説が多く、批判されると「僕がそう思っただけ」と言い訳するが、そこには発言が世界への働きかけだという視点が欠けていると述べた。

水野は注意点も添えた。言語行為論は言葉が道具ではないと言っているのではなく、言葉は道具でしかないという考え方がおかしいと言っているだけで、言葉は行為の時もあれば道具の時もある。学術書や教科書、「見て、あそこに猿がいる」のような発話は真偽がはっきりわかる道具的な使い方だという。このあと二人は、芸能人の炎上騒動を例に、事実と異なる説明も「世界を作り替えようとする行為」だったのかもしれない、と冗談交じりに話している。

31:37

メタファーは「AはBのようなもの」を「AはBだ」に変える

最後に堀元が気になったと語ったのが、メタファーの怖さである。何かを社会的に排除されるものに例えること自体の危険性もあるが、人は「AはBのようなものだ」という言説を「AはBである」と取り違えやすい、と堀元は言う。何かをゴキブリに例えたとき、実際にはゴキブリと対応する部分としない部分があるはずなのに、比喩を導入すると「ゴキブリは駆除すべきだから、それも駆除すべきだ」と、検証されないまま論理が飛躍してしまう。例えることですべてに対応関係があるように感じ、対応していない部分まで対応しているように思えてしまうのが怖いという。

水野が、ナスの比喩なら堀元は光合成しなければならなくなると茶化すと、堀元は「言葉にそこまでの力はない、ナスっぽく見えてきたぐらいのレベルだ」と返した。

堀元はいつかメタファー特集をやってほしいと水野に頼んだ。水野も関心はあるが、比喩を言葉の面ではなく認知の面から扱う『メタフォリカル・マインド』という本が出たばかりで、それを読まないとメタファーは語れないと考えると課題がどんどん溜まると話した。

33:33

水野が振り返る「批判のノート」

水野は、今回もオースティンの『言語と行為』や語用論の入門書を読んだが、理解が不十分で、ある例がどの発話内行為に当たるかがわからず、途中まで話すのを控えていたと明かした。詳しい人からの間違いの指摘も怖く、参考文献は10冊程度では足りないと感じているという。

堀元が、番組初期に受けた批判で水野が作り替えられたのではないかと言うと、水野はその批判について語った。『Quick Japan』の特別号の取材で番組の歩みを振り返る機会があり、初期にゆる言語学ラジオの誤りを指摘したnoteを読み返したという。当時は、そこまでの水準を求めるのは酷ではないかという声もあった。しかし水野は、その著者を「心の中に飼った」おかげで、番組の内容は昔よりかなりましになり、目も当てられないほどひどいものは減ったと感じている。あの批判がなければ、正確でないことを言って受けを狙い、アカデミズムからのチェックが効かない状態で話し続け、インプレッションを稼ぐ「インターネット言論人」になっていたかもしれないと話し、それが怖いと語った。

批判を受け入れるのは2〜3年ほどつらかったが、その過程で伸びた部分が大きく、研究者に理解してもらえるようになったのもそのおかげで、今思えばあの人がいちばん貢献したのではないかと思うほどだと水野は言う。批判の直後は全然その水準に達していなかったが、多少はましになったと思うので、いつかその人が見て「ましになった」と思ってくれたら嬉しい、と話して本編を終えた。