ひろゆきの「嘘を嘘と見抜ける人でないと」はどこが問題か 戦争の言葉から考える言語行為論
ゆる言語学ラジオゆる言語学ラジオの水野太貴と堀元見が「戦争と言葉」をテーマに話した回である。水野は冒頭で、ひろゆきの「嘘を嘘であると見抜ける人でないと(匿名掲示板を使うのは)難しい」という発言を取り上げる。この発言は正論としてよく引用されるが、水野は「ある点では問題がある」と考えている。その理由を説明するために、まず戦争で人が人を殺せるようになる条件を確認し、次にルワンダの虐殺で言葉が果たした役割、最後に言語哲学の言語行為論へと話を進めた。
殺人への抵抗を減らす「4つの距離」
前回の回では、グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』をもとに、人には本来殺人への抵抗があり、8割ほどの兵士は発砲すらしなかったこと、ベトナム戦争で発砲率が上がったのは条件づけを応用したためであることが語られた。今回、水野は条件づけ以外にも殺人への抵抗を減らす要素があると紹介する。グロスマンはそれらを4つに分け、すべて「距離」として説明しているという。
1つ目は文化的距離で、人種や民族の違いを指す。2つ目は倫理的距離で、自分たちは復讐や制裁をしている、倫理的に正しい側にいると固く信じることである。水野によれば、戦争では一般に地元側が有利だとされ、その理由として、家や家族や国を守るという倫理的な優越感が伴うことが挙げられている。堀元は、漫画『キングダム』で城にいる家族を守るために奮戦する場面が多いことを例に出した。3つ目は社会的距離で、階層化された社会で特定の階級を人間以下と見なすことである。4つ目は機械的距離で、レーダー、暗視装置、テレビ画面などを通すと、相手が人間であることを忘れやすくなる。暗視装置で見ると、表情のある人間がただの緑色の像にしか見えなくなるという説明だった。
堀元はこれを身近な例に置き換え、Zoom越しの方が値段交渉で強気に出られる、メールならさらに言いやすい、対面だと遠慮してしまうと話した。水野はそれを機械的距離だと認めた。
水野はさらに重い例として処刑を挙げた。ナチスなどによる共産主義者の処刑は、伝統的に後頭部を撃つ方法で行われてきた。相手の顔を見えなくするためである。絞首刑などで囚人に目隠しやフードをかぶせるのも、表情が見えると人間だと感じてしまうので、できる限り非人間化するためだという。水野は、フードをかぶせられた誘拐被害者は殺される危険性が大きく上がるという研究や、戦場で背中を向けると殺されやすいという話も紹介した。
ルワンダの虐殺に見る「言葉の3段階」
ここから水野は戦争と言葉の関係に入る。取り上げたのは1994年のルワンダでの大量虐殺と、それを研究した言語哲学者の論文である。水野の説明によると、ルワンダは1962年にベルギーから独立した。それまでは少数派のツチが統治者側に立っていたが、独立後は多数派のフツに主導権が移り、フツ中心の政権はツチを虐げる政策をとった。その結果、30年後には軍人だけでなく一般市民までが、かつての隣人だったツチの人々を大量に殺すようになった。論文は、この過程に言語が関わっており、それは3つの段階を踏んだと主張している。
第1段階は「言葉を与える」ことだ。フツとツチは違う民族だという概念を流通させ、もともと隣人だった人々に「民族としては違う」と思わせる。水野は日本に置き換えて、関東人と関西人の違いを強調する言葉を40年間使い続ければ、本当に違う人たちなのかもしれないと感じるようになるだろうと説明した。ルワンダではこれが40年ほどかけて浸透したという。
第2段階は、少数派ツチへの蔑称が多数派のあいだに広まることだ。ツチはゴキブリだ、ツチは蛇だ、といった言い換え、つまりメタファーが流通する。第3段階では、蔑称を経由した婉曲表現が使われる。「ゴキブリは駆除しなければならない」という婉曲な言い方で、ジェノサイドが呼びかけられた。
水野はこれを先ほどの距離の話に結びつける。ツチは違う民族であり同じ人間ではないとされることで文化的距離が生まれ、人間以下の階層と見なされることで社会的距離も生まれる。ポイントは「あの人はツチだから殺そう」とはならないことだと水野は言う。「あの人たちはゴキブリだ」「ゴキブリは駆除すべきものだ」「だからあの人たちを駆除しよう」という論理をたどるのである。
ゴキブリという比喩にも根拠らしきものがあった。ゴキブリは夜に活動する害虫で、次々に繁殖する。反政府ゲリラも夜間に暗躍し、どこからでも湧いてくる。そこから「反政府ゲリラはゴキブリだ」という比喩が成立する。そして「ゴキブリは駆除すべきものだ」という社会通念があるので、殺害の呼びかけへのハードルが下がる。呼びかけが社会通念に沿っているからだ。
蛇の比喩についても同じ構造が説明された。フツの少年がツチの人の首を切っているという衝撃的な写真が出回ったことがあり、水野はその背景として、ルワンダには男の子が大人になる通過儀礼として蛇の首を切り落とす慣習があったことを挙げる。「あいつらの首を切ってこい」とは言わなくても、「あいつらは蛇だ」と「蛇の首を切るのは通過儀礼だ」が組み合わさると、人は残虐な行為ができてしまうという。
堀元が、平和な感覚からするとそんな比喩で人を殺す気になるとは思えないと言うと、水野は、ルワンダはかなりエスカレートした果ての例だとしつつ、関東大震災のときに外国人が井戸に毒を入れたというデマが広まったことを挙げ、日本でも起きていることだと答えた。
「殺せ」と言わずに殺させる婉曲表現
水野は、ルワンダでも直接「殺せ」と煽る表現はあまりなかったようだと話す。ラジオが虐殺を呼びかけていたことは有名だが、その呼びかけも「ゴキブリを駆除しよう」のような一見カジュアルな言葉で行われ、「あいつらは最悪だ、殺してやれ」のような強い言い方ではなかったという。
堀元はこれに関連して、フランス革命の頃に「街灯に吊るせ」というスローガンがあったことを挙げた。民衆が貴族や王族を殺そうと呼びかける言葉で、「殺せ」では強すぎて皆が引いてしまうが、婉曲な表現なら受け入れやすかったので広まったのではないかと推測した。水野はカルト教団の「ポアする」も同じで、魂を浄化するという一応ポジティブな意味の言葉として使われていたと付け加えた。はっきり「殺せ」と言われると人はためらうが、言葉を一つ挟むと簡単にできてしまう、というのが水野のまとめである。
堀元は『プロパガンダ戦史』を読んだときの話もした。この本では、プロパガンダの本質はいかに皆が自分を正義だと思える名づけをするかにあり、戦争に突入しようとする独裁者ほど「私たちは戦争などしたくない、奴らが愚かなせいで戦争になる」と言う、どの独裁者もほぼ同じ論法になる、と書かれていたという。堀元は、やりやすい言葉づかいを選ぼうとすると誰の言葉も似てくるのだろうと解釈した。
水野はここでベトナム戦争の話に戻る。発砲率が上がったもう一つの理由は、敵は自分とは異質な人間であり、それどころか人間ですらないと考えさせる手法(字幕上は「脱感」、脱感作)だったという。フツがツチをゴキブリと呼んだのと同じ現象で、戦争では敵兵を蔑称で呼ぶのが普通になる。水野は、アメリカ側の「ジャップ」と日本側の「鬼畜米英」を例に挙げ、敵にラベルを貼って同じ人間だと思わない価値観を強めるのはよくあることだと述べた。堀元は、みんな自分の心を守りたいのかもしれないと応じた。
言語行為論:発話は「世界への働きかけ」
水野によると、こうした現象は言語哲学の言語行為論を学ぶのにぴったりの題材だという。言語行為論とは、人の発話を真か偽かで判定できるものとして扱うのではなく、世界への働きかけとして捉えるべきだという、20世紀半ばの考え方である。水野自身、最初にテキストで読んだときは「何も働きかけていないけど」と思ったが、勉強を進め、今回『戦争における「人殺し」の心理学』を読んだことで、言いたいことがかなりわかったという。
言語行為論が出てくる前は、文は事態を記述するもので、世界と対応しているかどうかで真偽を決められるという立場が主流だった。「コップ」という言葉が現実のコップに対応していれば真、ぬいぐるみを見て「あれはコップだ」と言えば偽、というのが言葉の意味だとされ、真偽を問えないものは副次的なものとされていた。水野は、理屈で厳密にやろうとする論理実証主義の人たちにとって、真偽を問えない言葉は扱いにくいものだったと説明する。堀元は「ファミレス行こう」のような発話は真でも偽でもなさそうだと言った。
これに対し、言語行為論を最初に考えたオースティンは、勧誘(「ファミレス行こう」)、謝罪(「悪いことをした、申し訳ない」)、選手宣誓(「スポーツマンシップにのっとって競技することを誓います」)のように、真偽を問えない発話が日常にはとても多く、そちらを考えるべきではないかと主張した。水野はここで、選手宣誓はサッカーのファウルの演技や野球のカット戦法を見れば偽だと冗談を言い、堀元が「それは違う話だ」と突っ込んでいる。
オースティンによれば、こうした発話は謝る、宣誓する、勧誘するといった行為を、発話を通して行っている。だから「言語行為論」と呼ばれる。堀元は、真偽を述べているというより行為をしていることの方が多いかもしれないと納得した。
命名・謝罪・約束はどう世界を変えるのか
「働きかけ」という言葉がまだ大げさに聞こえるという堀元に対して、水野は命名の例を出す。「この船をエリザベス号と名付ける」と宣言しても、船には物理的に何の変化もない。しかし周りの人がそれを聞いて了解した瞬間から、物理的世界とは別の、私たちが認識する現実世界ではその船はエリザベス号になる。これが現実世界への働きかけだという。
堀元は謝罪も世界への働きかけだと感じると言い、自分が水野に謝るのも、YouTubeで謝罪動画を出すのはなおさらそうだと話した。水野は、一対一の謝罪を「世界への働きかけ」と呼ぶのは大げさだが、企業の謝罪会見やYouTuberの不祥事の謝罪は世界への働きかけだと整理した。約束も同じで、堀元と個人的に指切りするのとは違い、「私水野太貴は2026年10月31日に大きなイベントをやると約束します」と仮に言えば、視聴者への働きかけになる。それでも物理的な世界は何も変わっていない。水野はここがポイントだと言う。堀元は、フジテレビの謝罪会見が13時間ほど続いて長すぎると怒られたのを、「働きかけすぎ」のケースだと茶化した。
すれ違いの多くは「行為」を読み損ねることから生じる
水野は、この考え方で言語のすれ違いの多くを説明できると考えている。こちらは何かを要求したつもりなのに、相手は真偽で返してくる、ということがよくあるという。堀元は「今日暑くない?」を例に挙げた。これをクーラーをつけてほしいという意味だと受け取るか、単に「確かに暑いですね」と返すかの違いである。堀元は、理屈っぽい人間は10代後半ごろにこれに驚き、文字どおりの意味ではなく行為に注目しなければいけないと気づくことがあると話した。
堀元は痴話喧嘩もこれに近いと言う。個別の論点に反論しても問題は解決せず、その奥にある「こういうことを汲み取ってもらえなくて寂しかった」という意図を探らなければならない。「待ち合わせに10分遅れるなんてひどい」は、10分遅れたことのひどさを言っているのではなく、「私のことを考えてほしい」と働きかけているのだという。
水野は、オースティンや、その理論を発展させたサールが今の例を言語行為論と呼ぶかはわからないと留保した。ただ、発話内容の真偽ではなく、その先にあるニュアンスや意図を考えるという広い意味ではその通りだと認めた。また、文そのものの意味を扱うのは意味論で、文の先にある意図や状況に応じた意味を扱うのは言語学の語用論の分野だと補足した。
言葉は世界を写すのではなく作り替える
水野はルワンダの話に戻り、言語行為論の見方で何が起きていたのかを説明する。「ツチはゴキブリだ」「蛇だ」と表現することで、フツの人々の中で世界がそのようになった。ツチの人々は物理的には何も変わっていないが、そう言った時点で世界は作り替えられ、彼らの世界ではツチは駆除すべきものになり、残虐な行為が起きた。これが言語的に見たルワンダ内戦の核心だと水野は言う。言語行為論に従えば、言葉は世界を写し取っているのではなく、言葉を通じて世界を作り替えているのである。
水野は、以前ゆる言語学ラジオに出演した和泉先生の説明も紹介した。ドラえもんの「そっくりクレヨン」(字幕では「クレオン」)は、普通のクレヨンのように現実を絵に写すのではなく、現実のほうを描いた絵に近づける道具である。和泉先生は、オースティンの主張はまさにこれだと言っていたという。人間をゴキブリとして描けば、ゴキブリになってしまうのである。
堀元はこれを番組内のあだ名に当てはめ、水野の顔に「チベットスナギツネ」というコメントがついて以来そうとしか見えなくなったと言った。水野は、実際に似ているだけだと反論した。逆に水野は、堀元に「ナス」と言った視聴者がいた結果、堀元が紫の服を着るようになったと指摘した。堀元も、何も言われなければナスには見えなかったはずで、今は自分からナスに寄せていると認めた。
「嘘はお前が見抜け」の何が問題か
準備が揃ったところで、水野は冒頭の問いに答える。オースティンの見解をもう少し深めると、言葉は道具ではなく行為だという主張になる。従来の考え方では、言葉は中立的な道具で、現実世界をきれいに写し取るものであり、世界との対応関係を考えればよかった。オースティンは、言葉は発した時点で行為だと主張した。
水野によれば、ひろゆきの「嘘を嘘であると見抜ける人でないと匿名掲示板を使うことは難しい」は、オースティン以前の世界観に立った発言である。嘘を見抜くとは、発言が現実と対応しているかどうかを見分けることであり、嘘を言った人は現実と対応しないことを言っただけで悪くない、という前提がある。言葉が中立的なものなら、嘘を言う人がいても見抜ける人がいれば問題はない。しかしオースティンの立場では、嘘を言うこと自体によって世界は作り替わる。発話そのものが行為であり、働きかけなのである。
堀元は、2ちゃんねるでは嘘が放置され続けたが、最近のTwitter(X)には嘘を取り締まるコミュニティノート機能が実装されたと指摘し、SNSもオースティンの側に寄ってきている、フェイクニュースで世界を惑わすのを放置してはまずいから止めようとしている、と話した。
水野は、和泉先生がヘイトスピーチや悪口を研究しているのもこのためだと説明した。ヘイトスピーチは世界を作り替え、悪口は世界の序列を作り替える言語行為だからである。ゲスト出演時には関係がなさそうに思えた、という堀元は、ここでようやく和泉先生の研究の意味がわかったと言い、あのときその場で説明してほしかったと水野に冗談を言っている。
青汁の「個人の感想です」と広告規制
堀元はこの理屈を広告に当てはめた。青汁の広告で「これを飲んでから毎日体が健康です」と言いつつ「※個人の感想です」と書くのは、健康効果があるという世界を作っておきながら、個人の感想だと言って逃げており、ずるい感じがするという。タレントがCMという文脈で出てきて「個人の感想です」と言うのは、言語行為論的に気になる現象だと水野も同意した。
堀元はもう一つ、ゆるコンピュータ科学ラジオでビットコイン関連の広告を扱ったときの経験を挙げた。「個人的には絶対買った方がいいと思います」も推奨にあたるのでやめてほしいと言われ、「意見の表明です」という言い訳は通らないのだと思ったという。水野もこれは言語行為論的な話だと認めた。
水野は、言語行為論では行為に分類があり、発話することで行う行為を「発話内行為」と呼び、命名、約束、謝罪などがあると補足した。ただ、中途半端に知ったせいで、今の例がどれに当たるのかを考えてしまい、歯切れが悪くなっていると明かした。
言論の責任と、言葉が道具であるとき
堀元は、この話を踏まえると言論にはいっそう責任があると感じるという。どんな些細な発言も世界を作り替える働きかけだと思うと、うかつには言えなくなる。そこで今後は自分が確信を持って責任を取れる範囲のことだけ言う、と宣言したうえで、その内容が「選手宣誓は嘘だ、サッカーはスポーツマンシップにのっとっていない」だった、というのがこの場の笑いになっている。話はラグビーの痛がらなさや、脳しんとうの際にアンモニアをかがせるという話に脱線していった。
締めくくりで水野は議論を整理した。人は文化的距離や社会的距離があれば殺人へのためらいが減り、暗視スコープや、前回話したドローンのような機械もその距離を作る。しかし、もっと手軽に距離を作れるのが言葉だという。ルワンダでは「あいつらは人間ではない」というメタファーが実際に流通させられ、敵兵を蔑称で呼ぶことは戦争ではよく見られる。堀元は、SNSでも特定の属性の人を「人間ではない」と言う言説が多く、批判されると「僕がそう思っただけ」と言い訳するが、そこには発言が世界への働きかけだという視点が欠けていると述べた。
水野は注意点も添えた。言語行為論は言葉が道具ではないと言っているのではなく、言葉は道具でしかないという考え方がおかしいと言っているだけで、言葉は行為の時もあれば道具の時もある。学術書や教科書、「見て、あそこに猿がいる」のような発話は真偽がはっきりわかる道具的な使い方だという。このあと二人は、芸能人の炎上騒動を例に、事実と異なる説明も「世界を作り替えようとする行為」だったのかもしれない、と冗談交じりに話している。
メタファーは「AはBのようなもの」を「AはBだ」に変える
最後に堀元が気になったと語ったのが、メタファーの怖さである。何かを社会的に排除されるものに例えること自体の危険性もあるが、人は「AはBのようなものだ」という言説を「AはBである」と取り違えやすい、と堀元は言う。何かをゴキブリに例えたとき、実際にはゴキブリと対応する部分としない部分があるはずなのに、比喩を導入すると「ゴキブリは駆除すべきだから、それも駆除すべきだ」と、検証されないまま論理が飛躍してしまう。例えることですべてに対応関係があるように感じ、対応していない部分まで対応しているように思えてしまうのが怖いという。
水野が、ナスの比喩なら堀元は光合成しなければならなくなると茶化すと、堀元は「言葉にそこまでの力はない、ナスっぽく見えてきたぐらいのレベルだ」と返した。
堀元はいつかメタファー特集をやってほしいと水野に頼んだ。水野も関心はあるが、比喩を言葉の面ではなく認知の面から扱う『メタフォリカル・マインド』という本が出たばかりで、それを読まないとメタファーは語れないと考えると課題がどんどん溜まると話した。
水野が振り返る「批判のノート」
水野は、今回もオースティンの『言語と行為』や語用論の入門書を読んだが、理解が不十分で、ある例がどの発話内行為に当たるかがわからず、途中まで話すのを控えていたと明かした。詳しい人からの間違いの指摘も怖く、参考文献は10冊程度では足りないと感じているという。
堀元が、番組初期に受けた批判で水野が作り替えられたのではないかと言うと、水野はその批判について語った。『Quick Japan』の特別号の取材で番組の歩みを振り返る機会があり、初期にゆる言語学ラジオの誤りを指摘したnoteを読み返したという。当時は、そこまでの水準を求めるのは酷ではないかという声もあった。しかし水野は、その著者を「心の中に飼った」おかげで、番組の内容は昔よりかなりましになり、目も当てられないほどひどいものは減ったと感じている。あの批判がなければ、正確でないことを言って受けを狙い、アカデミズムからのチェックが効かない状態で話し続け、インプレッションを稼ぐ「インターネット言論人」になっていたかもしれないと話し、それが怖いと語った。
批判を受け入れるのは2〜3年ほどつらかったが、その過程で伸びた部分が大きく、研究者に理解してもらえるようになったのもそのおかげで、今思えばあの人がいちばん貢献したのではないかと思うほどだと水野は言う。批判の直後は全然その水準に達していなかったが、多少はましになったと思うので、いつかその人が見て「ましになった」と思ってくれたら嬉しい、と話して本編を終えた。
ゆる言語学ラジオ。今回のテーマは戦争と言葉ですね。重たいテーマ。そしてこの問題を考えると、ひろゆきさんの「嘘を嘘だと見抜ける人でないと匿名掲示板を使うことは難しい」っていうあの発言が、なぜおかしいのかっていうことについても語れるようになります。ある点では問題だと思いますね。ひろゆきさんの名言として、バッと正論言ったぞっていう意味で貼られること多いけど、ある点では問題があると。だと思いますね、という話をしていきたいと思います。
前回、『戦争における「人殺し」の心理学』を元にして、殺人をすることには本来、人は抵抗があるのだって話をしてきましたね。8割ぐらいの人は銃も撃たないっていうね。そしてベトナム戦争になると急に発砲率が上がる。なぜ発砲率が上がるかというと、条件づけというのを応用したのだって話をしたんですけど、この条件づけ以外にも兵士が殺人の抵抗を減らす方法というか、要素がいくつかあるんですね。まずちょっとそれを説明します。
だから人を撃ちやすくする方法ってことだね。そうですね。要素と言った方がいいかな。大きく著者のグロスマンは4つに分けていて、全部なんとか的距離っていう距離に還元してるんですね。1つは文化的距離。人種とか民族的な違いとかですね。2つ目が倫理的距離ですね。これは復讐とか制裁を今しているのだって言って、自分が倫理的に正しいのだっていうことを固く信じるということです。
あいつらが悪いって思ってたら撃ちやすくなるかもね。だから戦争って一般に地元が有利だと言われていて、それは自分の家とか国家とか家族を守ることっていうのは、倫理的な優越感が伴うからだという説明ですね。それを活用して『キングダム』でもね、城を守るみたいなシーンめっちゃ出てくるもんね。そうですか。この城にいる家族たちを守ろうっていうので、めちゃくちゃ人を鼓舞するシーンとかありますもんね。それはまさに今の倫理的距離ということですね。
3つ目が社会的距離。それよくわかんない。これは社会的に階層化された環境において、特定の階級を人間以下と見なすっていうやつですね。もうこいつらは人間じゃないから殺してもいいんだ、みたいな話ね。というのが社会的距離。
そして4つ目が機械的距離ですね。これは例えばレーダーで人を見るとか、暗視装置とか、あるいはテレビ画面とか、そういう機械的な緩衝物が介することで、犠牲者が人間だということを忘れることができるということですね。暗視装置なんか使うと、本当は表情がある人なのに、ただの緑色にしか見えないわけですよ。そうすると撃ちやすくなるということで、この文化、倫理、社会、機械の4つの距離が挟まると、人は戦争の時に殺人を遂行しやすくなるということですね。
なんかZoom越しの方が値段交渉強気でいける気するんですよ。なるほど。人間が目の前にいちゃうと、それ人間すぎるから、ちょっと悪いな、この値段言うの、みたいなのもあるんだけど、やっぱZoom越しだとさ、ちょっとあんま相手を人間だと思わなくて済むみたいなのがあって。なるほど。割と強めにいけるって。これ機械的距離かもしれない。機械的距離ですね、それは。俺の普段の生活、戦場だった、もしかして。
メールだとめっちゃしやすいわけでしょ。メールがしやすいな、一番な。メールだともう吹っかけ放題。吹っかけ放題。いっぱい吹っかけられて嬉しい。で、対面だと遠慮しちゃう。そう。悪いな、こんな何百万ももらうの悪いなって気持ちになっちゃうから。相手を人間だと思わないの、商談でも大事かもしれない。もう1回言って。相手を人間だと思わないの、商談で大事です。その方が堂々と吹っかけられるから。倫理観とかない。ないですよ。利益を最大化する装置だから、俺。条件反射で利益を最大化しようとしてる。
前回何聞いた? マジで? 前回。そうだ。俺、前回そういう条件づけで人間を操るみたいなの良くないですよってめっちゃ言ってたわ。それ生理的に無理ですわって言ってました。二枚舌外交しないでください。今の堀元さんの話の後にするにはヘビーなんですけど。やべえ、進行むちゃくちゃしてしまった。したくなくなってきたかってぐらいきつい話すると、処刑ですね。
例えば共産主義者の処刑をナチスとかがしていた時っていうのは、伝統的に後頭部に銃弾を撃ち込むという方法で行われてきたと。それはなぜかというと、相手の顔を見えないようにすると。処刑執行人が罪悪感感じないためってことかな。そう。だから絞首刑とか死刑ですね、する時に囚人に目隠しをしたりフードを被せるっていうことをよくするんですけど、これなんかも表情見えちゃうとより人間だと思うから、できる限り非人間化をするためにフードを被せたり、後頭部から銃弾を撃ち込むってことをしていると。
だからある研究によると、誘拐の犠牲者はフードを被せられてる時、殺される危険性がずっと上がるっていう話が出てきたりだとか、あとは戦場でも背中を向けると殺されやすくなってしまうっていう話が出てきた。顔見えない方が撃ちやすいんだな。
ここで戦争と言葉の関わりの話をしますと、ルワンダの内戦、1994年に起きましたけれども、この時にルワンダ内で大量虐殺が起きたんですね。これに関して研究した言語哲学者がいまして、その人の論文の内容をちょっと紹介します。まずこのルワンダの内戦の流れを少しだけ説明すると、ベルギーから62年にルワンダは独立しました。分割統治の手段として、元々統治者側に立っていた少数派のツチっていう民族がいて。フツ族とツチ族かなんかの戦いだったよね。
そうですね。多数派がフツだったんですね。こっちに主導権が移ると。この多数派の政権は少数派であるツチを虐げる政策を取ったと。その結果、30年後にはフツの軍人のみならず一般市民までもが、かつて隣人だったツチの人たちを大量に虐殺するようになったっていうのがざっくりとした流れなんですよ。ここに関わってたのが言語だというのがこの論文の主張でして、大きく3つの段階を踏んでいたんだというんです。
1つ目の段階っていうのが、言葉を与えるというステップで、これ、そのフツとかツチっていう、我々は違う民族なのだっていう価値観というか、そういう概念が流通すると。元々全然隣人とかだったのに、民族としては違うんだねっていうふうに思わせるっていうのがファーストステップ。それは言葉でってこと? そうですね。日本に直すんだったら関西人と関東人みたいな。別に本質的じゃないんだけれども、違いを強調する言葉を使ったってこと。
そう。それがルワンダで40年間ぐらいかけて浸透していったから、ざっくり言うと、関東と関西は全く人が違うんだっていうのを40年間続けたら、本当に違うのかもっていう感じになりそうですよね。なるほど。言葉のニュアンスとして関西人と関東人で全然違うイメージになっていったわけだ。
その後、多数派の間で少数派ツチへの侮蔑語が浸透すると。例えばツチというのはゴキブリだと。それからツチというのはヘビだというような言い換え、ないしはメタファーが流通していくと。これがセカンドステップ。最後のステップで、侮蔑語を経由して婉曲表現を使うと。だから「ゴキブリは駆除せねばならない」っていう婉曲表現によってジェノサイドが呼びかけられる。
っていうステップを踏むと、言語のレベルでどんどんジェノサイドの心理的抵抗が減っていってるってことですね。まさにそうで、これ、さっきの文化的距離とか倫理的距離とか挙げましたけど、文化的距離と倫理的距離に関わってるんですね。つまり文化的距離っていうのは人種の違いだっていうことを言ってましたから、フツからするとツチは違う民族であって、同じ人間ではないっていうようなふうにして、文化的距離がまず生まれます。それから社会的距離っていうのもありました。
カーストみたいな。そうですね。階層化された環境で特定の階級を人間以下だと見なすっていう慣習。これもだからかかるわけですよね。こいつらはもう人間じゃない階層なんだっていうね。だからポイントはね、あの人はツチだから殺そうとはならないっていうのがポイントで、あの人たちはゴキブリなのだと。そしてゴキブリは駆除すべきものだと。よってあの人たちは駆除しようっていう論理を。怖い論理みたいなのがね。踏むんですよね。
そのゴキブリって例えてるのにも一応根拠と言えるものはあって、まずゴキブリって夜に活動する害虫で、そして次々と繁殖しますよね。反政府ゲリラっていうのも夜間に暗躍してどこからでも湧いてくるっていうところから、反政府ゲリラっていうのはゴキブリであるっていうふうにして、あいつらゴキブリなのだっていうのが成立し、そして社会通念としてゴキブリって駆除すべきものだよねっていう通念があるので、この人たちを殺そうっていう呼びかけに対してハードルが下がるんですよ。なんでかっていうと社会通念に沿ってるから、ゴキブリは駆除すべきだっていうのは。そこに合わせるちょうどいい例えを考えちゃったってわけですね。そういうことですね。
他にも先ほどの多数派のフツの少年が、ツチの人の首を狩ってるっていう。グロい話。ショッキングな写真が出回ったことがあるんですよ。なんでそんな残虐なことができるんだというと、ルワンダの部族の中では男の子が大人になる通過儀礼として、ヘビの首を切り落とすという慣習があったからなんです。さっきゴキブリじゃなくてヘビって呼ぶ場合もあるって言ってたけど、それだ。社会通念に合わせたんだ。
そう。だからあいつらの首を狩ってこいとは言わなくても、あいつらはヘビである、そしてヘビの首を狩るというのは通過儀礼であるっていうのが組み合わさると、人は残虐なことができてしまうっていう話なんです。なるほどな。そんなんさ、我々の平和ボケした感覚だとさ、いや、そんな例えで無理だろ、人を殺そうってなるのっていう気するけど、意外とできちゃうって話なのかな。
これはかなり行き着いた、エスカレートした果てだと思いますけど、例えばね、日本だって関東大震災があった時に外国人が井戸に毒を入れたって言って。デマが広まったみたいですね。別に日本でも起きていることだと思いますね。
ということで、ここまでの話をまとめると、人は言葉を介すると残虐な行為もしてしまうのだっていう話だったんです。まず我々と奴らっていう線引きをして、さらにその線引きっていうのは後から変えることができないのだっていうフェーズを踏んで、社会的に定着してる、ゴキブリって害虫だよねとか、ヘビって危険だから首を落としたら勇敢な大人になれるよとか、そういった社会通念に関わる言葉遣いをすることで行動を呼び起こすっていうステップを踏んでたわけですね。
実際ルワンダでも直接的に殺せっていう扇動ってあまりなかったみたいで、これラジオが虐殺を呼びかけてたっていうことも1つ有名な事実としてあるんですけど、これも「ゴキブリを駆除しよう」みたいな、一見するとカジュアルな言葉で呼びかけられているわけで、「あいつらは最悪だ、殺してやれ」みたいなきつい言葉遣いでは言われていなかったということですね。
フランス革命直後かなんかにさ、「街灯に吊るせ」っていうフランスのスローガンがあったんですよ。要は民衆が革命起こした後に、今まで暴利をむさぼってた貴族階級とか王族とかを殺そうっていうことを言うために、「街灯に吊るせ」っていうスローガンになった。これも多分似てて、殺せっていう言葉とかってちょっと強すぎてみんな引いちゃうんだけど、「街灯に吊るせ」っていう婉曲表現だったら受け入れやすかったから流行ったのかなって気しましたね。
そうですね。今の話聞いて思い出したのは、カルトの言葉とかもそうですよね。「ポアする」とかっていうのも魂を浄化させるみたいな、一応ポジティブな意味として言ってたわけですよね。殺すみたいなのを婉曲表現で言い換えることで、みんな受け入れやすくするのかな。だからやっぱり「あいつを殺せ」とかってはっきり言うのはすごいはばかられるけれども、1個挟むと人はそういうことを簡単にできるようになっちゃうっていうことだと思いますね。
言葉、効いてんだね。てかそれ『プロパガンダ戦史』って本読んだ時に出てきてさ、プロパガンダはやっぱ基本それで、いかにみんな自分が正義だって思える名付けをするかってことこそがプロパガンダの本質だから。だからね、特に戦争に突入しようとする独裁者こそ「私たちは戦争などしたくない」って言うと。自分たちが正義だっていうことをうまいこと言わなきゃいけないから、みんな「俺たちは戦争したくないのに、奴らが愚かであるせいで戦争に突入するんだ」って、全員同じ論法になるみたいなこと書いてて。
みんな判を押したような同じ形になるの面白いなと思ったんだけど、これそういうことですよね。そうですね。やりやすい言葉遣いをみんな選ぼうとしたら似てくるって話だわ。だからベトナム戦争で発砲率が跳ね上がったもう1個の理由が、脱感作という手法で。何? 脱感作? これは敵は自分とは異質の人間で、それどころか人間ですらないんだっていうふうに考えさせることを脱感作という。
一緒だよね。フツ族がツチ族のことをゴキブリって呼ぶようにしたのと同じ現象ですよね。これが戦争になると、みんな敵兵士のことを蔑称で呼ぶんです、やっぱり。例えばジャップですよね。日本は日本で鬼畜米英って言っているし、敵の兵士とか敵国に対してラベルをつけて、同じ人間、同じ人種だと思わないっていう価値観を強化しようとするっていうのは、もうよくあることなんですよね。みんな自分の心を守りたいのかもしれないね。っていうことですね。
こうした現象が、言語哲学における言語行為論っていうのを学ぶのにぴったりな題材なんですね。言語行為論ってなんですか? 人の発話っていうのは真偽で問えるようなタイプのものとして扱うべきじゃなくて、世界への働きかけとして捉えるべきなのだという、20世紀半ばの考え方ですね。世界への働きかけなんですか?
ピンとこないよね。俺もさ、最初にこれ、テキストの時さ、何、世界への働きかけって、働きかけてないけどって思ったんですよ、僕。勉強進めるうちにちょっとずつ分かっていって、今回の『戦争における「人殺し」の心理学』読んで、かなり自分の中で言いたいことが分かった。なるほど。というトピックです。ちょっとまず前半のね、人間の発話は真偽で問える云々のところ説明しますね。
これ要は言語行為論が出てくる前に主流だった立場なんです。文っていうのは事態を記述していて、これは真偽で決められる。つまり世界と対応してるのか対応してないのかの2択で問えるのだっていう立場がめっちゃ流行ってたんです。だからコップの意味って何ですかって言われたら、現実世界のコップに対応が取れるんだったらそれは真だし、例えばぬいぐるみを見て「あれはコップだ」って文は現実世界の対応関係が取れないので偽である、みたいなのが言葉の意味であり、それ以外の、こういうのが問えないものっていうのはあくまで副次的なものなんだよねと。
それが言語行為論の前に言われてたことね。前に言われてたことですね。その真偽で問えないものってさ、ガチガチに理屈でやろうとしてる論理実証主義の人たちからすると、考えたくないというか、ようわからんわけ。「ファミレス行こう」みたいなやつとかかな。そうだね、それも。真でも偽でもなさそうだね。そうですね、まさに。
それに対して、言語行為論っていうのをまず最初に考えたのがオースティンっていう人なんですけど、この人が言ってたのは、例えばさっきの勧誘ですよね。「ファミレス行こう」って。勧誘、真偽問えないけどな。例えば他にも「悪いことした、申し訳ない」っていうとか。真偽もないか。ないなとか、あるいは「宣誓、僕たち私たちはスポーツマンシップに則った競技をすることを誓います」っていう選手宣誓とかって、真か偽かどっちですか?
偽ですね。だって彼らって反則すれすれの行為やるから。サッカーとか分かりやすいですけどね。あんなんもう全然ファウル受けてないのに、ファウル食らいましたよみたいな嘘ついて、全然スポーツマンシップに則って行動しないから、あれは偽です。とか、相手のピッチャーを疲弊させるために、ギリギリバントだと言われないレベルでカットをひたすらし続けるっていうね。せこい。だからスポーツマンシップに全然則ってないですよ。偽です、選手宣誓は。選手宣誓は偽なんですけど、それは明確。全員が認めることなんで、ちょっとそれは違う話だと思います。全員認めるかな。
ともかく、こういう真とか偽とかじゃないやつすごい多くないかと、日常生活において。そうだね。そっちのこと考えた方がいいんじゃないのかっていうのが、オースティンが言い出したことなんです。言語の方向ね。じゃあこの宣誓とか謝罪とか勧誘とかっていうのは、真偽を問えないんだったら何をしてるのかというと、謝るとか宣誓するとか勧誘するっていう、発話を通して行為を行ってるのだと言ったんです。
勧誘とか行為っぽいか。謝罪も行為じゃないですか? そうだね。真偽っていうよりは「申し訳ない」って言って謝罪という行為をしてるんだって。許してもらおうっていう行為だね。だから言語行為論っていう名前がついてるわけです。確かにそっちの方がしっくり来るかも。真か偽かを言ってるんだっていうよりは、行為してることの方が多いかも。行為はピンときますよね。働きかけって言われると、働きかけてるかなって。世界に働きかけてる、大げさな、なんかな。
思うんだけど、これも例えば命名とかって分かりやすくて、「この船をエリザベス号と名付ける」って宣言したとするじゃない。これ物理的にはこの船に対して何も変化起きてないわけよ。でも「エリザベス号と命名する」って誰かが言って、周りの人がそれを聞いて「うん、分かった」って言った瞬間に、物理的世界とは別の現実世界ではその船はエリザベス号になりますよね。これって現実世界に対して働きかけてますよね。
それはなんとなく分かるよ。てか言われて思ったけど、やっぱ謝罪も世界に働きかけてるなって気するもん。それでみんなに許してもらおうみたいなのってさ。僕が水野さんに謝ってるのも世界に働きかけてる感じするし、YouTubeを通して謝罪動画出すとか、もっと世界に働きかけてる感じするわ。そうですね。だから1対1の関係で謝るって世界への働きかけっていうと大げさだけど、企業の謝罪会見とかYouTuberの不祥事の謝罪とかっていうのは世界への働きかけですよね。
約束とかもそうですよね。指切りげんまんで堀元さんと個人的にするのはあんま世界への働きかけがないけれども、「私、水野太貴は2026年10月31日に大きなゆる言語学ラジオのイベントをやります」ってお約束しますって言ったら、それは視聴者への働きかけですから、現実世界への働きかけ。でも物理的な世界は何も変わっていない。ここがポイントですね。
フジテレビはね、謝罪会見で13時間ぐらい世界に働きかけてね、働きかけすぎて長いよって怒られてましたもんね。あれ、働きかけすぎによる怒られですよね。やってたな。あれ長かったな。誰も最後まで見れないっておなじみのね、あまりにも長いやつ。あれ働きかけすぎてたケースですね。あれね、質問を受けて答えてたな。謝罪を13時間するっていう。質問答えてたな。
なるほど。だからこれ、言語のすれ違い結構説明できると思っていて、多くのすれ違いって、私は例えばなんとかだと言って何かを要求したつもりでいたのに、向こうは真偽で返してきたなってめっちゃあるんですよ。言語行為論的なのか、その前の論理実証主義的なのかで、すれ違っちゃってるってことかな。「今日さ、暑くない?」って言ったのに対して、クーラーをつけろってことって思うか、今日暑いなって思うかってことよね。「はい、確かに暑いです」みたいなね。
めっちゃあるね。めっちゃあるし、我々みたいな理屈っぽい人間は10代後半ぐらいでそれにびっくりするよね。「今日暑くない?」って、「今日暑くない?」って解釈しちゃいけなくて、クーラー入れてほしいなって意味のことがあるんだっていう、行為に注目しなきゃいけないんだって思うことあるな。だからこの言語行為論、最初ね、言語の発話は、論理表示をしてるのを通じて世界に働きかける行為なんだっていう説明、なんかあんまよく分かんないんだけど、すごい身近で散々っぱら起きていることだと僕は思うんですね。
言うたら痴話喧嘩とかもそれに近くてさ、個別でいっぱい出てくる話に反論しててもなんらその問題は解決しなくて、その奥にある意図としては、こういうことが汲み取れなくて寂しかったんだな、この人はとか、これがやれてなかったのが問題なんだなみたいなのを探んなきゃいけない。それって言語行為論っぽい発想だよね。言ってること字義通り解釈してもだめで、奥にある意図を考えてほしいっていうのが本当の叫びだったりするよね。
そうね。言語行為論に限定すると、この人はどういう行為を今、発話を通してしてるのかっていうところを見ろっていう話だと思いますけど。まさにそうだと思いますね。「待ち合わせに10分遅れるなんてひどい」っていう話って、待ち合わせに10分遅れたひどさを言及してるわけじゃなくて、私のことを考えてほしいなって働きかけてるみたいな話よね。
言語行為論を考えたオースティンとか、あるいはそれを発展させたサールっていう人とかが、今の話を言語行為論だって言うかはちょっと分からんけれども、広く取るとそういうこと。発話内容の真偽に注目するのではなくて、その真偽の先にあるニュアンスとか、意図することっていうのを考えようっていうレベルで見たら、その通りだと思います。だから今の話は、言語学でジャンルでいう語用論っていう。これが語用論なのか。そうです。文自体の意味は意味論がやってるから、文自体の意味の先の意図とか、状況とかに合わせた意図みたいなね。これは語用論がやる分野ですね。
さあ、ちょっと話を戻しましょう。先ほどのルワンダの内戦っていうのを言語行為論的に見ると、何が起きてたのかというと、あいつらツチはゴキブリだとかヘビだっていうふうに表現することで、フツの中で世界がそのようになったわけです。実際ツチは何にも物理的には変わっていないんだけど、あいつらゴキブリだとかヘビだって言った時、世界が実際に作り替えられるわけなんですね。その結果、彼らの世界の中では駆除すべきものだとかっていうふうになっていって、とんでもない残虐なことが起きたというのが、言語行為論的に見たこのルワンダ内戦の肝だと思います。
つまり言語行為論の見方に従うと、言葉って世界を映し取ってるわけではないと。だって船に名付けるとかって世界映し取ってないからね。勝手につけてるだけだね。だから何してるのかというと、言葉を通じて世界を作り替えてるのだって主張してるんです。それが世界への働きかけであると。
ドラえもんのそっくりクレヨンっていうひみつ道具が。知らねえ。あって、これは普通のクレヨンって現実世界があって、クレヨンで描き取るじゃん。じゃなくて、そっくりクレヨンは現実を絵の方に近づける道具なんですね。だからクレヨンで描くと、現実がそのクレヨンで描いたようになると。このオースティンの『言語と行為』の主張はまさにこれなのだって、ゆる言語に以前出てくれた和泉先生は言っていて。
だってさ、物理世界と別で我々は現実世界っていうのを認識していて、言葉であいつらゴキブリだっていうことで本当に世界がそうなるわけだから、これってそのそっくりクレヨンの世界ですよね。人間なのにそれをゴキブリとして描いたらゴキブリになるわけですね。そう。我々は喋りながら世界を作り替えてるのだということですね。
そうね。僕もね、水野さんの顔に対してチベットスナギツネっていうコメントがついて以来ね、チベットスナギツネにしか見えなくなってきたからね。本人は一切チベットスナギツネに似てないのに、チベットスナギツネにしか見えないなって。これやっぱ世界を作り替えてますよね。でもそれ作り替えてる? 作り替えてるか? いや、チベットスナギツネに似てんのよ、あんた。作り替えてる。作り替えてるじゃなくて、ちゃうちゃう。実際に似てるのよ。実際に、ほらほら、チベスナ顔。これがチベスナ顔ってコメント欄で書かれるやつですね。実際似てるからそう見えてるだけっていう気がするんですけどね。世界作り替えてんですかね。作り替えてます。そうかな。
でもさ、堀元さんのことを歩くナスって言ってきた視聴者がいましたよね。その結果、堀元さんって実際にナスになったじゃないですか。なってない。なってないです。人間です。ホモサピエンス。めっちゃホモサピエンス。作り替えて、ナスの中で出荷されたんじゃないですか。だいぶ作り替えたんです、それはね。いや、作り替えてないですけど。でもこれでナスに見えてきたってみんな結構言ってるから、俺多分何も言われなかったらそんなにナスに見えてないから、だいぶ世界作り替えてるかも。
そうですよ。実際、紫色の服とか着るの増したわけでしょ。そう。なんなら俺がナスに寄せにいってるからね、自分で。そう。それだから作り替えてます、実際。そうだね。あれ言語行為論だったんだ。言語行為論です。すごいな。
さあ、ここまでで準備は出揃いました。このオースティンの考えをもう少しだけ深く掘ると、言葉って道具ではなくて行為なのだという主張になる。道具ではなく行為。道具っていうのは、要は現実世界っていうのがあって、それを綺麗に映し取るっていうのが言葉なのだっていうのが従来の考え方。でもさっき言ってたのは全然違うよね。言葉で言った方に世界を寄せる。これ全然違うの分かります? 全然違う。
言葉は中立的であって、世界との対応関係がどうかっていうので考えればいいんだっていう従来の世界観から、いや、じゃないですよと。言葉を発した時点でそれは行為なんですよっていうのがオースティンの主張だったと。そうすると、「嘘であると見抜ける人でないと匿名掲示板を使うことは難しい」という主張って、オースティン以前の世界観の話なんですよ。そうなんだ。だって嘘を嘘であると見抜くって、要は現実世界と対応してるかどうかが分かるって話でしょ。
その嘘を言った人は、別にただ現実世界と対応しないものを言っただけで、その人自体は悪くないですよっていう主張ですよね。そうだね。ひろゆきさんの主張まっすぐ言うと、いや、嘘なんだからそれはお前が見抜けよって話になっちゃうもんな。それはオースティン以前の価値観ではそれで良かったかもしれない。つまり言葉っていうのは中立で、嘘を言う人もいます。でもそれを嘘だって見抜ける人がいれば何もないでしょうっていう世界観ですよね。
でもオースティンが言ってるのは、嘘を言うことで世界は作り変わりますよと。だから言葉を中立的に扱って、ただ現実世界に対応してないものを対応してないって言っただけですよっていう、その発話自体が行為ですよと、働きかけですよって言ってるわけです。
そして面白いね。実際に2ちゃんねるでは嘘が放置され続けていたけど、最近のTwitterとかでは嘘を取り締まるためのコミュニティノート機能が実装されてますよね。だから結局オースティンの方にSNSも寄ってるわ。これ世界をフェイクニュースで惑わそうとしてる、ほっといちゃまずいってことで止めようとしてるから、ひろゆき以後の世界になってますね。
だから和泉先生はヘイトスピーチのことを研究したって言ったわけよ。なるほど。こういうことなんです。ゲストでね、お越しになった時それ言っててね、関係なさそうだけどなって無邪気に思ったけど、そういう話だったのか。だってヘイトスピーチは世界を作り替えるからね。だからあの人は悪口の研究もしてるわけです。悪口も世界の序列を作り替える言語行為だから。なるほどね。すごい、それで理解できたわ、和泉先生がやってることが。
ごめんね、ちょっとお待たせしました。なるほど。だいぶ時間かかったな。あの時リアルタイムでそれ言ってくれたら、こいつ説明うめえってなるのに。2、3年越しにやっとね。和泉、説明足りないじゃなくて、お前がそれコミュニケーターとして役割をやれよ。これだから和泉は。違う違う違う。お前のせい、お前のせい。お前がその仕事してくれよ。そうそう、君の仕事それ。あなたがやってほしい。遅れてやってきました。お待たせしました、皆さん。でもやらないよりずっといいからな。2、3年遅れでやってくれてありがとう。いい仕事。ありがとうございます。
その理屈で言うとあれだね、青汁とかさ、飲んで「これを飲んでからは毎日体が健康です」に対して、「※個人の感想です」って書いてるじゃん。あれずるいな。確かにね。だってこれ飲んでから体が健康ですって言ってる時点で、この青汁には健康効果がありますっていう世界作ってるわけじゃん。それを個人の感想ですって逃げてるの、ちょっといまいちずるい感じしますよ。
確かにね。ちゃんと勉強すると分類がいくつかあるんですよ。こういうことを言ったことによる発話内行為とか言うんですけど。言語行為論の中でも行為が分類されてる。それが命名とか約束とか謝罪とかあって、僕は生半可にそういうのをちょっと知ったせいで、今のやつはどれに入るんだろうとか思って歯切れが悪くなってるんだけど。青汁っていう区分でしょうね。約束とか謝罪とかと一緒に青汁っていう区分をオースティン立ててるはずだから。健康効果だろ。青汁、下分類いくらなんでも下手か。
すごいね。オックスフォードとかすんごい賢いところの哲学者が、青汁、本に書いてる。アホすぎるでしょ。アホだね。でも確かにタレントさんみたいな人がCMみたいな文脈で出てきたのに、この感想は個人のものですっていうのは、言語行為論的に気になる現象な気がする。
てかさ、以前ゆるコンピュータ科学ラジオでビットコインとかの広告関係やった時にさ、「個人的には絶対買った方がいいと思います」とかもだめです。それもう買いなさいっていう推奨だから、それやめてくださいって言われて、意見の表明ですっていう言い訳通らないんだって思ったんですけど、やっぱそれもちょっと言語行為論っぽい話ですよね。だと思う。和泉先生、全体的に歯切れ悪いな。来てよ。なんで今、愛知県にいるわけですか。今すぐ。お仕事あるから愛知県にいるの普通だろ。そうか。
あの時にやれたらよかったね。3人で雑談回の時に、これ言語行為論になるんですか、みたいな話。誰? あのローランドの「俺か、俺以外か」を和泉先生に解釈させるとか考えてたやつ。ちょっと違ったかもしんないな。違ったな。こういうのやった方が良かったかもしれない。この話ありきでまた来てもらってね、これらの話とかしてもらったら、多分悪口の話の解像度めっちゃ上がるぞ。面白いね。だからだめなんだって分かりそう。
もう1回読み返したら面白いかも。『悪口ってなんだろう』とか。あと最近新刊出されましたから。和泉先生の本読んだらいいかもしんないね。理解変わると思いますね。てかこの話踏まえるとさ、より一層言論には責任があるんだっていう話になる気するな。どんな些細な。なんだよね。もう世界を作り替える働きかけなのだって思うと、迂闊には言えなくなりますよね。
だから今後はね、変なこと言わないように慎重に、ちゃんと僕は責任取れる範囲のことだけ言おうと思ってて、選手宣誓は嘘です。スポーツマンシップに則ってやってないです。でも高校球児とかはさ、暑い中にさ、一生懸命練習して声出してさ、校歌とか歌って、フェアプレーの限りを尽くしてますよね。そうですね。だからあそこに青春を捧げることは美しいと思うんですけど、それはそれとして、うまいことだまくらかして点取ってやろうみたいな感覚はあるから、あいつらには。スポーツマンシップには則ってないですよね。
それより許せない、やっぱサッカーだよね。全然ファウル受けてないのに、今こいつにぶつかられたせいでこけましたよみたいなアピールしたりしてね、大げさに痛がったりするよ。スライディングとかさ、やったら絶対めっちゃ痛いもんね、あれね。めっちゃ痛いみたいな顔してるね、全然実際には痛くないのにね。審判がそれ取らないなって思ったら、平気な顔して立ち上がって走り出すでしょ、あいつら。あれ最悪ですよね。選手宣誓嘘やんけって思うもんね。あの光景見た瞬間に、こいつら嘘ばっかついとんなって思いますもんね。
今でもワールドカップとかやっててね、もう一生懸命。侍ブルーやなって思いますよ。いや、あいつらもファウル取られようと必死だから。ファウルを取られるっていう戦略が、なぜかサッカーで推奨されてるんだから。それも技術のうちですって、サッカーオタクに聞いたら言ってはんの。わけわからんの、あれ。嘘つくの技術のうちです言うて。どういうスポーツなんだそれっていうね。正々堂々やりなさいよっていう。選手宣誓嘘やんかって、ファンが認めてるよね。選手宣誓が嘘であること。高度なね、やっぱり。違いますけどね。
だからちょっとダブルスタンダード気に入らないなみたいなことは、今後も言っていこうって思いました。責任取れる範囲、僕がその確信を持って喋れることに関してだけ喋っていこう。サッカーはだめだと。サッカーはスポーツマンシップに則ってないですよっていうことはね、ちょっと言っていきたいですよね。
ラグビー部の友達も同じこと言ってました。ラグビーってあんな痛そうなのにあんな痛がらないらしくて、ぶっ飛んだらすぐってぶつかりにいくから。そのサッカーのやつが痛いわけないと。サッカーよりはるかに痛そうな俺たちが痛くないんだから、サッカーのやつ痛いわけない。当然ね、ラグビーはその防具はつけてますよ、つけてますけど、あんなすごいスピードででっかい体がボーンとかってぶつかってさ、脳震盪とか起きてるスポーツなのに、ファウル取られたらラッキーみたいな感覚なくて、普通に立ち上がっていく。ラグビーはラグビーでもうちょい痛がっていいと思いますけどね。ちょうどいい塩梅ありそうですけど、そこ。
それで思い出したけどさ、ラグビー部ってさ、アンモニアかなんか常備してるよね。ぶつかって軽い脳震盪起きた時とか、アンモニア嗅がせるとショックで復活するから、復活させる用にアンモニア持ってるらしいですぜ。マネージャーさんとか。そうそう、急いで嗅がせて蘇らせる。リスポーンを早めるみたいな。そうですね。
だからこれは自信持って言いたいですけど、ラグビーはスポーツやめた方がいいかもしれない。でもスポーツマンシップに則って。そういう問題じゃなくて危なすぎるって。アンモニア嗅がせて蘇らせるスポーツ。それはそれで何? 健全じゃないよ、それはそれで。水かけたりとかもするけど。だからそれもやめた方がいいって。ラグビーはやめた方がいい気するけどな。危なすぎる。
脳も結構復活の仕方覚えるみたいな、なんかそういうこと言ってた気がする。そうなんだ。うまくなっていくんだ、復活。脳震盪慣れする。それは危ないけどな。やめた方がいいけどな、そのスポーツ。
ということで、今回は戦争と言葉の関わり合いっていうのに関して話してきました。殺人というのは、文化的な距離や社会的な距離があれば人はためらいが減ると。そしてそれを減らすために機械を使ったりもできる。例えば暗視スコープを用意するとか。前回喋ったドローンとかもそうだろうね。ドローンもそうですね。ただもっと手軽なものがある。それが言葉なのだという話をここまでしてきました。言葉によってめっちゃ距離取れるもんな。
ルワンダであれば、あいつらは人間じゃないというメタファーを流通させるっていうことが実際に行われたし、そしてそれは敵兵のことを蔑称で呼ぶとか、あいつらなんて人間じゃないっていうワードは戦争においてはよく見られる。てかもっと言うとSNSとかにもめっちゃある。あるね。特定の人種に対して、まるまる人は人間じゃないとか、特定の属性の人たちに対してそういう言説があるんですけど、例えばそういう発言が炎上して批判を受けると、でも僕がそう思っただけですからね、みたいなことを言うんだけど、それは世界への働きかけなのだという視点が欠けているよという話が後半でしたね。
言語行為論っていう言語哲学における1つの理論を紹介して、従来の言語観っていうのは言葉イコール道具だと。だから中立的なものであって、そこに善悪はないのだと。だから嘘を言う人っていうのも、ただ対応してないことを言っただけなのだっていう考え方ではなく、言葉というのは行為なのだっていう考え方を持って生きようよという話をしてきました。
一応注意しておくと、言葉は道具ではないと言ってるわけじゃないですからね。道具でもあるってことかな。そう。言葉は道具でしかない、全て道具であるという考え方はおかしいと言ってるだけで。でもある。そう。行為の時もあるし道具の時もあるっていうことを一応注意しておきますね。現実をただ映してるだけの時もある。そうですね。学術書とか学校の教科書とか、「見て、あそこに猿がいる」とか、こんなのは。真偽ははっきり分かることですね。そう、道具的な使用だと思いますね。
だからしょこたんがSwitch 2を友達からもらったっていうのも、真か偽か分かること。てか真ですもんね、あれは。ですよ。明らかに真ですもんね。値札が貼ってあったみたいなね、転売した時のシールが貼ってあったみたいな話とかありましたけど。そんなわけないもんね。そんなわけないもんね。友達からもらったもんね、そうやって。そう、友達からもらったんですよって言ったから。それが、あるいはあれ世界への働きかけだったのかもしれないですね。
転売ヤーから買ったものを、友達からもらったんだっていう世界を作り替えようとする行為だったのかもしれない。しょこたんは言語行為論の徒だったかもしれない。働きかけたんだ、世界に。そう。あれはYouTubeを通して働きかけて、これは転売ヤーから買ったものだけど、友達からもらったものという名前をつけようっていう、そういう営みだったのかもしれないですね。
あとあれ、ひとしきり炎上してちょっと落ち着いた後に、編集者の厚介さんが、しょこたんにSwitchあげたの僕ですって言って、そのせいで余計にまた炎上するってこと。そう、あれはもう1回火つけてましたけどね。だからあれも世界に働きかけてたのかもしれないですね。実際にはしょこたんにあげたの自分じゃないんだけど、そう言うことによってそういう世界になれっていう、そういう祈りだったかもしれない。あれ祈りですよね。よりいい世界になってほしいっていう、しょこたんに僕があげてた世界であってほしいっていう祈り。優しさですよね。
迷惑だよ、しょこたんの気持ちになったら。せっかく収まってきた時もう1回火つけられて、なんだ。あれ面白かったね。
今回の話でもう1個僕が気になったのは、メタファーって怖いなっていうことでもある。
族の人をゴキブリって呼ぶみたいなことだよね。そうです。
何が怖いって、当然、何かを社会的に嫌悪されるものに例えるっていうのも危険性がどうって話もそうなんだけど、我々は「AはBのようなものです」っていう言説を、すぐ「AはBである」に勘違いしがちなんですね。例えば、丸々はゴキブリだって例えた時に、当然そのゴキブリと対応してる部分と対応してない部分があるわけだけど、比喩を導入すると、ゴキブリというのは駆除すべきなのだから、丸々というのも駆除すべきだっていう、検証しないまま論理が飛躍していくってことも起きて、これもすごい怖いなと思う。
堀元さんはナスのようだっていう比喩を言った瞬間に、堀元さんナス科の植物になっちゃうわけじゃないですか。なっちゃうな、じゃない。現実が変えられすぎている。そんな力ない。
そうそう。光合成をさせなければまずいって言って、収録の途中で日光浴びさせる。しない、してない、してない。そんな行動してないぞ、あなたは。言葉にそこまでの力ないんで。さすがにちょっと、確かに形ナスっぽく見えてきたわ、ぐらいよ。世界作り替えてるってそのレベル。
そう。秋になると実ってくる。ならない、ならない。俺、光合成できるようにならない。葉緑体がないから、してないです。そのレベルで作り替えてないね。
でも例えることで、全てが対応関係があるように感じて、例えの中で対応してない部分も対応してるように感じちゃうっていうこととかも、すごい怖いな。なので、ちょっとゆる言語学ラジオでもいつか、メタファースペシャル。やってほしい。メタファー面白いわ。俺やっぱ例えの話好きだから、失敗例え個人的に収集してたりとか、いろいろやってますんで、話いっぱい聞きたいね。
じゃあちょっと、また2、3年後かな。これは大体のもの、こいつ2、3年後に回収するからな。ちょっとこの前出た『メタフォリカル・マインド』とか読みたいから。知らないです。『メタフォリカル・マインド』が出たんすか? 『メタフォリカル・マインド』出ました。例える精神みたいなこと。
多分、比喩っていうのを言葉の面に注目するんじゃなくて、その認知の面に注目するっていうアプローチの本が出て、これ読まないとメタファー語れないなとか思うと、もうどんどん溜まっていくね。先そう。5年後かな。比喩と認知ね。なんか大変そう。600ページとか700ページぐらい分厚いのがあって。長いの読まないと喋っちゃだめでしょ、多分。
ちょっと水野さん勉強しすぎな気しますね。やりすぎてる気がする。今回も今もう、オースティンの『言語と行為』とか語用論の入門書読んだけど、ちゃんと理解してないせいで、今のやつって発話内のどれなんだろうとか思っちゃって、ずっと喋るのやめといたんだけど、どうしても勢い余って喋っちゃったので、この後やっぱ詳しい方からの「いや、それ間違ってますよ」って批判とかも怖いし、やっぱもっと調べなきゃいけなかったなって思うし、もっと参考文献ってやっぱ10冊ぐらいじゃ始まんないなみたいなと思って。
うん。だいぶゆる言語学ラジオ、「間違ってますよ」っていう批判に対して、水野さん作り替えられすぎちゃったかもしんないね。だいぶ改造されてる感じしますね、今ね。
うん。でも、ちょうどこの前、クイック・ジャパン、ゆる言語学ラジオの特別号出していただくってことで、取材を受けたじゃないですか。この歩みを振り返りましょうっていう時間を設けていただいた時に、あの批判やっぱでかかったなってマジで思いますね。
うん。ゆる言語学ラジオが初期に「間違ってますよ」って批判されたnoteとかのことかな。それをこの前とか昨日読み返したんですよ。あのnoteに対して「いや、そんな水準まで求めるのって酷なんじゃないですか」とかもいろいろ見られたんですけど、僕はあの人を心の中に飼ったおかげで、昔に比べてだいぶマシになったと思う。ゆる言語学ラジオが話してる内容っていうのも、そこまで目を覆わんばかりのひどさのものは減ったと思うんです。あの批判がなかったらと思うと、めっちゃ怖いの。
うん、そうね。全然正確じゃないことを言って、ウケる発言をして、アカデミズムからのチェック・アンド・バランスみたいなのが効かない状態で喋り続けてたら、多分俺インターネット芸人になってると思う。言いまくってインプレッション稼いでると思う。その状態になった俺怖いと思って。
うん。だからあのnoteを受け入れて、その著者さんを心の中に飼うっていうのは、すごい2、3年ぐらいきつかったんですけど、そのステップがあったことで伸びた伸び代めっちゃでかかったから。こうやっていろんな研究者の先生に理解してもらえるようになったわけで、あの人が一番貢献してんじゃねえのかって思うぐらい、今思うと大きかったなと思いますね。
そうね。あの人が働きかけてくれてありがとうって感じですね。そうですね。確か、こういうような番組であってほしい的なこと、最初のnoteかなとかにはちょっと書いてくれたりとかしていて。もちろん批判受けた直後は全然その水準になってなかったけど、多少マシになったんかなって思うから、いつかあの人が見て「マシになったんじゃない」って、嬉しいなと思いながらやってますね。
そんな水野さんがここ数年間を振り返るきっかけになったクイック・ジャパン別冊が、今もう発売しておりますので、皆さんお買い上げいただけます。ぜひお買い上げください。我々、クイック・ジャパンという雑誌で特別号ということで、丸ごと1冊扱っていただける。天下のカルチャー誌であるクイック・ジャパン様が我々を特集していただけるという、非常にいい1冊になっておりまして。我々も何日もかけて撮影したりとか、がっつり取材受けたりとかしましたよね。あとアンケートも答えたりとかしてね。かなり我々も気合い入れて協力したクイック・ジャパンの特別号が、概要欄、固定コメントに購入リンクございますので、皆さんぜひそちらお買い上げいただけると嬉しいです。
僕の参考文献、概要欄にあります。それもあります。それもありますが、一番上にクイック・ジャパンを載せておきますので、皆さんクイック・ジャパンをお買い上げいただけると。すごい編集部の方が頑張って作っていただけた、素晴らしい出来になっております。
でもそれはそう。フォトグラファーの方とかが、めっちゃいろいろ我々に察してくれてね。あのフォトグラファーさん、水野さんのこといじっていいんだって爆速で見分けて、めちゃくちゃいじってたよね。
はいはいはい。そんな意図を持ち込まないと。「じゃあこのまま、すぐ歩いてきてください」「え、ちょっと、なんでこっちガン見するんすか? わかるでしょ、普通」ってめっちゃ言ってましたよね。「目線外さないと変でしょ。こっちガン見しながら歩いてきたら、その写真どうやって使うんすか?」って、めちゃくちゃいじられてましたよね。うん。「指示を待たない」って言われました。指示待つだろ。
だから俺あれ見て感動してさ、そのフォトグラファーさん、僕には言わないの、それ。そこまでボロカス。だから水野さんって会った瞬間にいじっていいんだなって、やっぱ見分けられる。野生の本能で察知される、いじられキャラの素質があるんだなって思いました。
俺だって今朝さ、ペダンティック社のAIにいなされましたからね。ああ、いなされてたね。AIに「自己弁護のジョークですね」。そういうのいいですよ、みたいな、なんか冷たかったよね。そう、本当そうなの。その他のペダンティックの人って普通に対等にしてんのに、俺のことだけ舐めてんの。「はいはい、自己弁護の、またそういうつまんないやつね」って。もうやだよ。すごい天性のいじられキャラですよね。
でもそうか。っていうことをバシバシ言われながら、でも水野さんはそれでうまいことニコニコ笑顔で写真撮られてまして、すごくいい写真に仕上がってますので、皆さんよろしければそちらをお買い上げいただけると嬉しいです。
こちらなんと発売日が本日になっております。本日から全国の書店にも並んでおりますし、通販でもお買い上げいただけます。ぜひコメント欄には、こちら読んでいただいた感想でもいいですし、本日の回について思ったことあればお書きいただいても結構でございます。以上、今回はここまでにしましょう。ありがとうございました。はい、ありがとうございました。
堀元さん、うまく話せなくて悩むことってありません? よくあります。そんな悩みを抱える方にぴったりな本を書きました。タイトルは『会話の0.2秒を言語学する』。会話のわずかな間にフォーカスした1冊です。ぜひ皆さん買ってください。
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