暴走族から山口組、そして更生支援へ 黒川洋司が語る「寄り添い」の限界と負の連鎖
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜大阪で20年にわたり美容室を経営する黒川洋司さんは、13年前から少年院や刑務所を出た人たちを支援する会社を運営している。仕事の支援、住居の支援、そして特に力を入れている教育の支援の3つを柱に、株式会社として活動している。経営する居酒屋では元受刑者や少年院出院者が働いている。
黒川さん自身は、10代で暴走族に入り、その後山口組系の組織に所属した。覚醒剤に手を出し、組から逃げ、自ら指を落として足を洗った過去を持つ。現在54歳の黒川さんが、自分の生い立ちから更生支援の現場で直面した壁までを順に語った。中心にあるのは、どうすれば犯罪を繰り返す人を減らせるのかという問いである。黒川さんは、自分が続けてきた「寄り添う支援」だけでは足りないと気づいた経緯を話している。
父の浮気と家庭の崩壊
黒川さんは大阪市城東区の下町で、黒川家の長男として生まれた。京橋に隣接し、自転車で15分あれば大阪駅に行ける場所だ。母親は鹿児島出身で、20歳で大阪に出てきて大阪生まれの父親と出会い、24歳で黒川さんを産んだ。父親は祖母が立ち上げた印刷会社で働いていた。兄弟全員が従業員という法人にもなっていない小さな会社で、父親も元暴力団ではなかったという。
物心がついた4歳ごろから、夫婦喧嘩が激しくなった。原因はほとんどが父親の浮気だった。家は裕福ではなく、黒川さんは押し入れを2段ベッドのようにして上段で寝ていた。下には3歳下の妹がいた。喧嘩が始まると最初は様子をうかがい、激しくなると顔を出して「やめて」と泣き叫んだという。幸い父親が黒川さんを殴ることはなく、泣き叫ぶと気まずそうに喧嘩をやめた。しかし女性関係は直らなかった。最終的に父親は飲み屋の女性と親しくなって家を出て、離婚して再婚した。その女性との間に14歳下の異母弟がいる。
母親は昼間に午後4時ごろまでのパートをし、夜には内職をした。黒川さんがよく覚えているのは、夕食のころに車が来て、スーツのような服が何百着も届く光景だ。ボタンやチャックを付ける仕事で、1つ付けても1円にもならないだろうと黒川さんは振り返る。ただ、ひどい貧乏ではなかったという。住んでいた家は祖母の兄弟たちが建てた物件で、生活費の代わりに家賃を払わずに済んでいた。市内のど真ん中で家賃がかからないことは大きかったと黒川さんは言う。
父がいなくなって「自由になった」少年時代
父親がいなくなったことについて、黒川さんは「逆に自由になった」と感じていた。小学3年生で野球を始め、水泳もしていた。5、6年生になると体も大きくなり、喧嘩でもそう負けない自信がついた。そのころから少しずつ道を外れ始め、5年生で万引きもするようになった。
背景として黒川さんが挙げるのは、母親が心配性だったことだ。子どもとしては信用してほしいのに母親は心配する。それがうっとうしく、構われるほど「100倍返し」で暴言を吐いた。本心ではないことまで言っていたという。母親はすぐ泣いたが、逃げたり、食事を作らなくなったり、仕事をやめたりすることはなかった。黒川さんは、自分はその愛情に甘えていたのだと振り返っている。
盗んだ単車から暴走族「城東連合」へ
中学1、2年までは野球を続けていたが、やめると隣町の不良と付き合うようになり、単車の乗り方や盗み方を教わった。進学した中学はかなり荒れた学校だった。黒川さんが小学6年生のとき、中学の先輩が単車で小学校に乗り込んでくることもあった。最初は驚いたが、だんだん慣れていった。タバコは当たり前になり、原付の直結から始まって、盗むバイクは50cc、100ccと大きくなっていった。
単車に乗っていると、すでに卒業した先輩たちが暴走族をやっていて、卒業すると「一緒に来い」と誘われた。地元の暴走族「城東連合」は、上の世代にいったんあったものが消滅し、黒川さんの1学年上の先輩たちが復活させた。その初代が立ち上がり、黒川さんたちは2代目にあたる。第2次ベビーブーム世代で人口がそもそも多く、多いときには100台ほどになった。黒川さんは出身中学の支部で特攻隊長を務め、前の方を走った。走るときはスピードを出すのではなく、集団でゆっくり走る。パトカーが来ると前に行かせないようにし、最後は細い道やパトカーが入れない場所に誘導して逃げた。他の地域の暴走族との小競り合いはあったが、黒川さんの知る限り表立った大きな衝突はなかったという。
暴走族を見に交差点に集まるギャラリーの中には、中学2、3年生だった妹もいた。妹はいつの間にか金髪になり、高校には行かなかった。黒川さんは「僕のせい」だと言う。ただ妹は中学卒業後にスナックで働き、そこで知り合った今の夫と、3人の子どもと仲良く暮らしている。すぐに更生したという。
少年院に行かなかった理由と母親の存在
中学卒業後は働かず、夕方まで寝て、夜に起きて朝近くまで暴走する生活だった。芋づる式に大がかりな一斉検挙を受けたこともある。乗っていた単車のほとんどが盗品だったためそれも発覚し、母親はかなりの被害弁償を払ったと黒川さんは考えている。
それでも黒川さんは少年院には入っていない。交通関係で保護観察を2回受けただけだった。理由として黒川さんが強調するのは、捕まるたびに母親が家庭裁判所に来て「私が悪かった、きちんと指導し直すので少年院は許してほしい」と言ってくれたことだ。大きな罪を犯せば別だが、窃盗程度であれば、家庭裁判所は親の存在や更生できる環境がどれだけあるかをよく見ると黒川さんは言う。少年事件ではこの違いが非常に大きいというのが黒川さんの考えで、この点は後半の支援の話にもつながっていく。
引退式3回、そして山口組の三次団体へ
当時はヤンキーが流行っていた時代で、高校卒業の18歳までは許されるが、それを過ぎてもふらふらしているのは格好悪いという空気があった。黒川さんは未練が強く、引退式を3回もやった。後輩を引き連れて走り続けていた黒川さんに「そろそろ腹をくくれ」と声をかけたのが、城東連合の初代総長だった。
この初代総長はすでに暴力団に入っており、当時は三次団体の組長の秘書をしていた。19歳から人夫出しを始め、元請けから1人あたり1万5000円から1万8000円を受け取り、黒川さんたちには8000円や9000円で働かせて差額を取っていた。競馬の「呑み屋」もしていた。正規のレースの結果を使いながら、JRAではなく組織の人間が馬券を引き受ける。客にとっては100円分を90円で買えるうえ、ツケも利く。ツケにさせた方が客をはめやすいのだという。頭が良く、勢いもあったので親分たちにかわいがられ、出世していった。
黒川さんも引退式を3回やって後輩を連れ回すのはそろそろまずいと感じていた時期で、「決めてやります」と応じた。入ったのは山口組系の三次団体である。母親にはさすがに言えなかった。
部屋住み6カ月と「使いっぱしり」の日々
入るとすぐに部屋住みが始まった。組事務所に住み込み、組織の最低限の作法を学ぶ期間で、組によっては1年、2年かかるが、黒川さんの組は6カ月だった。外には出られず、成人式にも出させてもらえなかった。半年も帰らなければ母親が心配するため、出る前に「仕事で半年行くから心配しないで」とだけ言い、荷物を持って家を出た。
仕事は電話番、お茶くみ、親分や来客の食事作り、事務所の前の掃除などだった。防犯カメラで車が止まるのを見ると飛び出して、ドアを開けに行く。寝るのは事務所の大きな和室で、環境としては「一応いい事務所」だったという。夜中に親分たちが麻雀をしている間は、後ろにずっと立って灰皿を替えたりコーヒーを入れたりした。部屋住みの間は犯罪どころではなく、ただの使いっぱしりだったと黒川さんは言う。一緒に入ったのは、引退式を共にした「兄弟分」だった。組員は50人もいなかったが、繁華街の京橋が地盤で羽振りは良く、若い黒川さんたちは重宝された。
部屋住みを終えると、黒川さんはいったん実家に戻った。母親は何も言わなかった。しばらくは実家から通う組員だったという。
「いい思いをした記憶は1つもない」兄貴分の暴力
組員として通うようになると、黒川さんは初代総長だった兄貴分の一番近い部下になった。兄貴分は本部の親分の秘書になって忙しく、黒川さんは運転手を務めながら「これをやっておけ」「何時に起こしに来い」といった用事に追われた。家にはほとんど帰れなくなった。
黒川さんは「いい思いをした記憶は1つもない」と言う。毎日のように殴られた。兄貴分はせっかちで渋滞が大嫌いだった。神戸に弁当を届けるときに阪神高速が混んでいると、救急車が来たときのようにクラクションを鳴らして前の車をどかせろと言う。当時は目立つ車に乗っていたので、たいていの車はヤクザが来たと思って避けた。避けない車があると、降りて運転手を引きずり出せと命じられる。それをしなければ黒川さんが殴られた。起こしに来いと言われて起こしに行ったのに殴られることもしょっちゅうだった。「殺したいと思うときも、正直ありましたよ」と黒川さんは語る。
覚醒剤との出会いと組織のタブー
そんな時期に、地元の中学の2学年下で当時17歳の後輩が「いいものがある」と夜中に声をかけてきた。出てきたのは覚醒剤だった。しんどい、やめたい、殺したいと思っていた時期でもあり、黒川さんはいきなり注射で打った。「スーパーサイヤ人みたいに」髪の毛が逆立つかのような感覚で、はまったという。
しかし兄貴分は覚醒剤を嫌っていた。山口組も、隠れて使う人は多いものの、表向きは覚醒剤をご法度にしている。使うと食事がとれなくなるため、やりすぎると気づかれる。黒川さんは兄貴分がいない隙を狙い、月1回程度に抑えていた。バレたら殺されるという恐怖の方が勝っていたからだ。給料はなく、小遣い程度しかもらえなかった。今振り返ると勢いで入ってしまったという思いが強く、部屋住みの6カ月間から毎日、どうすればやめられるかばかり考えていたという。
兄弟分の逮捕、逃亡、そして指を落とす
黒川さんが覚醒剤を教えた兄弟分も使うようになっていた。兄弟分は三次団体の親分の運転手で、親分は当時逆輸入されたばかりのセルシオ(レクサス)に乗っていた。親分を送り届けた後、駐車場に入れるまでの間は自分で乗れる。19、20歳でその車に乗れるのがうれしく、兄弟分は自分の車のように大阪・ミナミを流していた。そこで職務質問を受け、ダッシュボードから覚醒剤が見つかった。兄弟分は逮捕され、車も警察に押収された。
その知らせを兄弟分の彼女から聞いた瞬間、黒川さんは殺されると思った。ご法度の覚醒剤が親分の車から出てきたのである。13歳からずっと一緒にやんちゃをしてきた兄弟分の覚醒剤使用を知らなかったとは言えない。それまでのやめたいという気持ちも重なって、何かがぷつんと切れ、黒川さんは逃げた。
潜伏先は大阪府豊中市にあった。口の堅い後輩2、3人にだけ連絡し、食料やお金を運んでもらった。地元では覚醒剤がかなり出回っていて、来る後輩たちとも一緒に使った。それが3カ月ほど続いた。兄貴分や親分という怖い存在がいなくなり、歯止めが利かなくなった。1回打つと24時間、追い打ちをすれば30時間ほど眠れず、食事もとれない。鏡を見るとひどく痩せていた。
黒川さんはこのままではまずいと考えた。親分の車を押収されたのは兄弟分で、自分は覚醒剤を使っていたこと自体はだめだが、組に直接の迷惑はかけていない。逃げているのがばかばかしくなり、地元にも帰りたかった。そこでけじめをつけることにした。後輩に頼んで、マグロの骨も落とせるような出刃包丁を8000円ほどで買ってきてもらった。黒川さんは以前、兄貴分が指を落とすのを手伝ったことがあり、作法を知っていた。そのときと同じやり方で左手の小指を落とした。裏の情報で知っていた、そうした処置をしてくれる病院で縫ってもらい、兄貴分に電話した。
すぐに来いと言われて出向き、謝罪したうえで、組をやめたいと切り出した。半殺しにされる覚悟だったが、そうはならなかった。逃げている間に聞いた話では、兄貴分は周囲に「俺はやりすぎた」「あいつには迷惑をかけた」と漏らしていたという。黒川さんは、ずっとそばにいた人間が急にいなくなって寂しかったのだろうと推測している。説得はされたが、最終的には破門とし、二度と裏の業界と関わらず、地元で普通に働くことを条件に足を洗うことが認められた。22歳になる直前で、組にいたのは2年半ほどだった。
足を洗っても変わらなかった気性と「グレーな仕事」
約束どおり、友人の紹介で道路のアスファルト舗装の会社に就職した。時間ではなく「ここまでやったら終わり」という仕事が向いていたようで、昼夜働けば日当3万5000円ほどになることもあり、それなりに満足していた。それでも覚醒剤はやめられず、休みの日に月1回程度、自分への「ご褒美」として使っていたという。
気性も変わらなかった。クラクションを鳴らされればすぐ車を降りる。23歳ごろ、肩がぶつかった相手に「兄ちゃん、痛いのう」と言われ、過剰にやり返した。1週間後、自宅に警察が来て留置場に連行された。成人後の初犯で、母親が保釈金をかき集めてくれたため勾留は長引かずに保釈され、判決は傷害で懲役1年、執行猶予3年だった。
執行猶予中には、留置場で知り合った相手などから「いい仕事がある」という話が回ってきた。特殊な携帯電話を発信状態にしてパチンコ台のそばに置くと、電波の影響で台が誤作動し、デジタルが回り続けるという手口だった。情報を持ってきた人物はヤクザではなかったが、売り上げの3割を持ってくるよう求めた。10万円や15万円稼いだときにきちんと3割を渡していると、ごまかす人間が多い中で信用され、さらに情報が回ってくるようになった。そうなると真面目に働けなくなり、舗装の仕事もやめてしまった。こうした仕事は、ネタが途切れた時期を挟みながら27歳ごろまで続けたという。
長男の誕生と美容室経営の始まり
当時一緒に暮らしていたのが、現在の妻である。8歳下の地元の後輩で、ヤンキーになったばかりの時期に、高校に行かず黒川さんのところに住みつくようになった。結婚生活は約30年になるという。覚醒剤は妻にだけは絶対に知られないようにし、使う日は出張だと言ってホテルにこもっていた。
黒川さんが27歳、妻が19歳のときに妊娠がわかり、28歳で長男が生まれた。初めて父親になり、わが子は想像以上にかわいかった。さすがにこのままではいけないと思い、多少の貯金をもとに、一緒にやんちゃをしていた後輩に「そろそろやめよう」と持ちかけた。後輩はもともと建築の会社を持っていたので、それを法人化し、黒川さんは役員になった。
その頃、美容師の友人が独立したいが勇気もお金も必要だと話していた。損得で生きていた当時の黒川さんは「儲かる」と考え、自分がお金を出すので会社の美容部門として店長をやってほしいと提案した。千林の手前の地域に13坪ほどの小さな店を借りて準備を進めたが、開店前にその美容師と揉め、相手はやめてしまった。店舗も決まり、資金も投じていたため、黒川さんも意地になって美容師を募集した。4人が応募し、アルバイトも含めて全員を採用した。
黒川さんはお金だけ出して任せるのは嫌で、受付に立っていた。その中で、7歳年上の男性美容師だけが素人目にもずば抜けていた。仕上がりを鏡で見る客の表情が違ったという。その人を店長にすると店は一気に繁盛し、黒川さんは初めて接客業を楽しいと感じた。それでも当時は損得しか考えておらず、すぐに後輩に物件を探させ、大阪市福島区の商店街にセット面10台、シャンプー台3台の中型店を出した。これも大当たりし、1日に50人を断った日もあったという。
母の死と「生き直し」
3号店の出店を準備していた年末、病院から電話がかかってきた。母親が急に倒れ、集中治療室にいるという。1週間前に普通に会ったばかりだった。駆けつけると母親は横たわったままぴくりとも動かず、黒川さんは泣き叫んだ。親孝行らしいことは何もしておらず、孫を2人見せたくらいだった。都合のいいときだけ神様に頼むようにして回復を祈ったが、母親は20年前の12月30日、59歳で亡くなった。
黒川さんは、母親の愛情はほとんど無条件だったと言う。妻であっても何らかの条件はあるが、母親の子どもへの愛は条件抜きに近い。そういう人が世界に1人もいなくなったとき、強い不安に襲われた。35歳で経営者としてそれなりに成功しているつもりだったが、結局はまだ母親から自立できていなかったのだろうと黒川さんは振り返る。ショックと申し訳なさで食事がとれなくなり、覚醒剤を使い続けていたときのように7キロほど痩せた。
それでも、いくら泣いても母親は戻らない。家から注射器が出てきても、傷害で逮捕されても、母親は最後まで味方でいてくれた。そう自覚している黒川さんは、自分が7キロも痩せたら母親が心配すると考え、残りの人生は母親に恥ずかしくないようにまともに生きてみようと決めた。どう変わればいいかわからなかったので、ゴミ拾いやトイレ掃除、靴をそろえるといった、それまでやったことのない行動から始めた。
本屋でも、それまでは金儲けの本しか手に取らなかったが、このとき京セラ創業者・稲盛和夫氏の『生き方』が目に留まった。会社は金儲けのためではなく、世のため人のため、従業員の幸せのために経営するものだという考えに、黒川さんは衝撃を受けた。本には仏教の「自利」と「利他」という言葉が出てくる。自分は自利でしか頑張ってこなかったと気づいた。以前なら響かなかっただろうが、母親を亡くして心がまっさらになっていたので素直に入ってきたという。稲盛氏がボランティアで開いていた「盛和塾」に入り、12、3年ほど在籍した。そこで関わる人たちが変わり、東北の復興支援で子どもたちに笑顔を届ける活動にも参加した。まだいい人ではないが、感謝されるうちに少しずつ「いい人」のような気持ちになっていったと黒川さんは語る。
このころ美容室は4店舗ほどになっていた。子どもの問題に関心を持っていた黒川さんは、大阪にも児童養護施設で保護されている子どもが大勢いると知り、すぐ施設に電話してボランティアのカットを申し出た。毎月スタッフ3人を連れて通い、約6年続けた。
千房会長との出会いと職親プロジェクト
転機になったのは、大阪のお好み焼きチェーン・千房の会長の講演だった。勉強のつもりで聞きに行くと、会長が元受刑者や少年院出院者を雇用していると話した。大阪でも大きなチェーンがそうした人たちを雇っていることに黒川さんは驚き、普段は消極的なのに、講演後すぐ会長のもとへ行って感動を伝え、名刺を交換した。自分にも昔とんでもない経歴があると少しだけ話した。1週間後に電話があり、少年院や刑務所を出た人の再犯を防ぐ「職親プロジェクト」のメンバーにならないかと誘われた。13年前のことだ。
活動は刑務所や少年院に出向き、面会や2時間ほどの講演をするところから始まった。黒川さん自身は刑務所に入ったことはない。講演を続けると「黒川さんのところで働きたい」「美容師になりたい」という応募が来るようになった。
黒川さんによると、再犯率は47%で、再犯者の7割が無職だという。だから就労支援は非常に重要になる。一方で、元不良の黒川さんの周りで何度も捕まる人たちを見てきた経験から、共通点は地元に戻り、同じ友人関係と環境を変えないことにあると考えた。そこで仕事に加えて、環境を変えるための住居、さらに自分がさまざまな場所で学んで物事を考えられるようになった経験から、再教育が必要だと考えた。美容室の会社「プログレッシブ」とは別に、仕事、住居、教育の3つを支援する会社として「良心塾」をつくった。
職親プロジェクトの会議でも黒川さんは、仕事の支援だけでは絶対にだめで、就労と福祉の間にあたる中間的な施設がなければ、いきなり雇っても失敗すると訴え続けた。しかし企業側は「その間の経費をどうするのか」となり、なかなか進まない。そのため黒川さんは独自に中間的な支援を続けていた。職親プロジェクトは日本財団のプロジェクトで、その部長が黒川さんの活動を見ており、中間施設はとても大事だから全体でもやらないかと声をかけてくれた。日本財団から多額の支援を受け、ぼろぼろの3階建ての賃貸物件をリニューアルし、法人化して株式会社良心塾として拠点を移した。関わった人数は100人を超えるが、実際に雇用したのは20人以下だという。美容室や居酒屋などで雇用してきた。寄せられる依頼の多くは、雇ってほしいというより、1人を更生させるのは大変なので支援してほしいというものだという。
支援の現場で出会った「虐待を受けた子どもたち」
黒川さんが「今回いちばん訴えたい本筋」として語ったのがこの点だ。黒川さんの時代に少年院や刑務所に行くのは、反射的に他人に暴力を振るうような活発な若者が多かった。ところが活動を始めて最も衝撃を受けたのは、幼少期に虐待を受けた人が非常に多いことだった。熱湯をかけられた、1週間食事を与えられなかった、義理の父親から性暴力を受けたといった、日本でこんなことがあるのかと思うような体験をした子ばかりだったという。
そうした子たちは他人に暴力を振るうのではなく、リストカットやオーバードーズなど自分を傷つける。少年院を出るのが不安だ、社会に適応できる自信がないと訴える。黒川さんの時代には、少年院を出たくない不良などいなかったし、人としての尊厳を踏みにじられるほどの虐待を受けた仲間もいなかった。彼らは「死にたい」と言い、やる気が出ず、お金を稼ぐことにも興味がない。
昭和の人間である黒川さんは当初、「少年院や刑務所に行ったかもしれんけど頑張ろう、頑張れば結果は出る」と思いだけで接していた。それがはまる子もいたが、黒川さんによれば、愛着障害や発達障害を抱えたネガティブな子がほとんどで、いきなりそうした働きかけをすると逆効果だった。当時の黒川さんにはそれがわからなかった。うまくいったと思った矢先にいなくなる子もいれば、再犯した子も4人ほどいるという。
養女と、その夫の再犯
8年前、黒川さんは17歳の少女を少年院から受け入れた。虐待家庭に育ち、家庭は機能不全の状態で、父親が3人も4人も変わった。施設を行き来しながら虐待を受け、罪は重くなかったが15、16歳で少年院に入った。来てからもリストカットを繰り返し、夜中の2時や3時に血まみれの写真をLINEで送ってきた。黒川さんはこれを、夜中でも来てくれるかを試す「お試し行動」だと説明する。それが延々と続き、黒川さんにとってもつらかった。愛着障害のため、他の子が入ってきて自分だけを構ってもらえなくなると、あの手この手で出ていこうとした。心の傷がかなり深かったため、黒川さんは彼女が20歳のときに養女にした。
彼女の夫も刑務所を出た人で、厳しい環境で育ち、出所後は千房で働き、その後黒川さんのところの教育の場に通っていた。そこで彼女と知り合い、現在6歳、4歳、3歳の子どもがいる。来た当時より人格形成も愛着形成もだいぶ整ってきたと感じていた矢先、夫が再犯した。
もともと車上荒らしのような犯罪で服役していた人で、出所して千房を辞めた後は黒川さんのところで働き、父親としてもきちんとしていた。とても真面目で、一番再犯しないと思っていたという。ところが約2年半前、警察が来て、何件かの犯罪に関わっている可能性があると告げられ、実際に関わっていた。当時一番下の子は生後3カ月だった。罪を犯したことはだめだが、子どもが小さく、出所から7、8年たっていることもあり、黒川さんたちは被害弁償をして執行猶予を得られるよう尽力した。弁護士は刑務所に行くかどうかは半々だと見ていた。ところが裁判が終わるまであと2カ月ほどというとき、保釈中に再び逮捕された。
なぜやってしまったのか。黒川さんは、子どもが3人いて稼いでもらわないと困るという妻側の事情など、いろいろあったのだろうと推測するにとどめている。前科があり、しかも裁判中だったにもかかわらずである。
「寄り添い型の支援では脳は成長しない」
この件で、黒川さんは教育の師匠にあたる原田塾長に連絡した。そこで言われたのは、寄り添い、人と出会わせ、仕事の機会を与える黒川さんの支援はすごいが、寄り添い型の支援では心は安定しても脳は成長しない、ということだった。本当に再犯を防ぐには、トラブルや困難にぶつかったとき、これまでとは違う考え方で、法の範囲内でどう解決するかという能力を身につけさせる必要がある。それが本当の教育であり、黒川さんがやっているのは教育ではなく指導と支援だ。それも必要だが、それだけではだめだと言われたという。
原田塾長は「心のスポンジプログラム」という教育プログラムで特許を取っている。黒川さんの説明では、生きづらさを抱える人には共通する脳の癖があり、特に幼少期に不遇な環境にいた人はそれが扁桃体に染み込んでいる。プログラムはそれを改善するためのもので、受刑者だけでなく、社員の離職や人間関係のトラブルなどの解決にもつながるという。ある少年刑務所ではすでに実施されており、95人が受講した。5年間追跡している中で再犯は現在0だと黒川さんは話している。
漢字の「変」から考える教育
方法について黒川さんは、考えさせる教育だと説明する。学校教育は正解のある答えを記憶させる偏差値重視だが、このプログラムは教材と講師の問いかけによって、これまで使っていなかった脳を使う方向へ自然に持っていくという。黒川さんの説明では、本来は扁桃体の反応の後、前頭前野が「ここで殴ったら捕まる」「カメラもある」といった理性的なブレーキをかける。しかしカッとなる人は、その信号が届く前に手が出てしまう。リストカットする人にも同じ共通点があるといい、そこを鍛える。脳トレに似ているが、まったく違うものだという。
具体例として黒川さんは「変わる」という漢字を挙げた。黒川さんによると「変」の由来は関係性を断ち切ることだという。人は普段何も考えず経験だけで自動的に暮らしており、由来を知らないまま「変わりたい」「変わりました」と言っている。では関係性を簡単に断ち切れるかと問われると、親との関係のように切れないものが多く、できないと答える人が多くなる。そこで「じゃあ何ならできるのか」と考えさせると、時間はかかるが、ほとんどの人が最終的に「成長」にたどり着く。人は変われなくても成長はできる。昨日1段しか跳べなかったのが2段跳べるようになる、といった形ならイメージできる。普段考えないことを、まったく違う方向から考えていく訓練の一例だという。
このプログラムは学研とコラボして教材も作っており、今後全国の少年院や刑務所への配布を目指している。ただし教材を使いこなす指導者が必要で、黒川さんと、取材に同席した社団法人の代表がその指導者として広めていく考えだ。黒川さん自身、組をやめて一般人になってもカッとなる癖や自分中心の考え方は変わらなかった。自分はたまたま母親の死というきっかけがあったから変われたかもしれないが、そういうきっかけはなかなかない。それを教育で再現できる仕組みを作ったのが原田塾長だ、と黒川さんは位置づけている。
家族の支えという分かれ目と、負の連鎖を断つこと
全員を養子にしてつきっきりで支えることには限界がある、と黒川さんも認める。最終的なゴールは自立だ。家庭環境に問題を抱えながら、養子縁組などをせずに自立した人も大勢いる。黒川さんのもとを円満に離れた形ではなくても、辞めた先でいい場所を見つけて更生している人もいるという。
更生が早い人の共通点として黒川さんが最も確かだと言うのは、家族の存在だ。刑務所に入っていても迎えに来て、職親プロジェクトに預けながら一緒に暮らしたり応援したりする父親や母親、身内がいる人は更生が早い。これは黒川さんのところだけでなく、職親プロジェクト全体でも見られる傾向だという。ただ、良心塾に来るのはほとんどが身寄りのない人たちだ。家族の協力を得られない人たちをどう支えるかは社会の課題だと黒川さんは言う。
この活動は「天命なんでしょうね」と黒川さんは語る。少年院や刑務所に行くことにはそれなりの意味があるのかもしれないが、行くということは、単独の犯罪以外ではほぼ必ず被害者を出している。子どもたちを被害者にも加害者にもしたくない。自分たちの活動は物事が起きてからの対症療法であり、家庭環境や教育が変われば少年院や刑務所に行く子は必ず減ると黒川さんは考えている。未然に防ぐ側の取り組みは他の人たちが頑張っているので、自分は負の連鎖を止める側を担う。ここで立ち直った人は、自分の負の連鎖を子どもや周囲の次の世代に受け継がせない。それは対症療法でありながら、未然防止の1つにもなっていると黒川さんは言う。
黒川さんには実の子どもも3人いる。自分は中卒で勉強を教えたわけでもないが、安心して暮らせる環境と、妻をはじめ優しい人たちに囲まれて育ったことで、息子たちは犯罪をしなくても生きていけるとわかっているはずだと言う。孫たちも、やんちゃくらいはあるかもしれないが、テレビをにぎわせるような犯罪を起こすことは「100%ない」と言い切れるという。立ち直った人たちが父親や母親になれば、自分の子どもを虐待しない。それをみんなに広げていきたいと語った。
暴走族とか暴力団に所属してたっていうところから。はい。13年前から少年刑務所出た子たちの支援する会社を立ち上げて。僕は元々、自分のやんちゃ経験があったので。そういう単車、当時は原チャリを直結するとこから始まるんですよ。
卒業してる先輩がもう暴走族をすでにやってますから、そこにいつの間にか所属してるみたいな感じです。それで後輩引き連れてやってたら、「お前そろそろあれやろ、腹決めろ」みたいに言ってきたのが、その。
山口組の系列。山口組の三次団体に。そうですね。なんせね、いい思いした記憶は一つもないんですよ。毎日というぐらい兄貴に殴られてたんで、渋滞してたら、こうやって言うんです。降りて引きずり出すとか。それをしなかったら僕が殴られるんですよ。しょっちゅう。ほんまにね、殺したいなと思う時もありましたよ。正直。
だから僕、そのぐらいの時に、たまたま地元の後輩が「黒さん、ええもんあるで」って夜中に言ってくれたんで、パッて行ったらシャブ出してきてね。それでやっちゃったんですよ。ただね、うちの兄貴、シャブ嫌いなんですよ。もちろんダメなんですよ。僕の兄弟分もシャブやってたんですよ。その僕の兄弟分は、僕らの直々の親分の運転手してたんですよ。そん時に職質されて、出てきたんですよ、シャブが。もうこれは殺されると思ったんですよ。糸が切れたんです、プチンって。今で言うたら飛んだんですよ。
すいません。よろしくお願いします。はい、お願いします。黒川さん、結構、異色の経歴と言いますか、元々暴走族とか暴力団に所属してたっていうところから、お仕事的には何やられてるんですか、今。
仕事はね、元々美容室を20年経営してるんですよ。今、その美容室の経営と、13年前から少年刑務所出た子たちの支援する会社を立ち上げて、仕事の支援と、住むところがない子が多いんで住居の支援と。あと、特に力入れてるのは教育の方の支援で、かなり力入れてて。こっちは株式会社でやってるんですよ。居酒屋を経営させてもらってて、そこに元受刑者とか少年院出た子たちも、そこで働いてもらったりみたいな。
そうなんですね。生まれてから順番に、この経歴を聞かせてもらうっていう流れなんですけど、年齢は今何歳なんですか。
今54歳で、55歳の年ですね。生まれは大阪市の城東区っていうところで、京橋と隣接する、本当に隣みたいなところで。下町なんですけど、自転車15分で大阪駅まで行けるみたいな。
おかんは鹿児島出身で、20歳の時に大阪に出てきて、大阪生まれ育ちのおとんと出会って。おかんが僕産んでくれたのが24歳ですね。僕は黒川の長男として、大阪市の城東区の、村っていう、それこそ下町なんですけど、そこで生まれまして。父親もやんちゃな経歴は多かったと思うんですけど、別に元暴力団でもないし、母親も田舎から出てきた普通の女性だったんで。おとんは、おばあちゃんが立ち上げた印刷の会社を、黒川家として印刷の会社やってたんですよ。兄弟全員が従業員みたいな、法人にもなってないちっちゃい会社なんですけど。
お母さんは専業主婦ですか。おかんは当時は専業主婦してたと思うんですけど、僕が物心つくのって大体4歳ぐらいですかね。覚えてる記憶的に、そのぐらいから夫婦喧嘩が激しくなって。元の原因をたどると、おとんの浮気で。
普通にバレてるぐらい、結構盛んだったってことなんですか。夜中に帰ってきて。決して裕福じゃなかったんで、僕、部屋もそんな広くないじゃないですか。押し入れで寝てたんですよ。二段ベッドみたいな感じでね。押し入れで寝るのがすごい楽しくて、押し入れで寝てたんですよ。妹は下の方のところで寝てて。聞こえるじゃないですか、喧嘩しだしたら。初めは僕も様子うかがって、見て聞いてるんですけど、激しくなってくると、ちょっと開けて、「ちょっとやめて」みたいな感じで泣いてね。「喧嘩やめてや」みたいな感じにしてたのは、めっちゃ覚えてて。
ただ、幸いなことに、僕が仲裁したことに関して、おとんが僕を逆に殴ってきたとか、よくあるじゃないですか。それはなかったんですよ。それはないんですか。それはなかったんですよ。一応、僕が「やめて」って泣き叫んだら、ちょっとばつ悪そうな感じで、それはやめてくれてたんですよ。
ただ、おとんのいわゆる女性関係は治らなくて、最終的に飲み屋の女性と親しくなって、出てったんですよ。何歳の時ですか。僕、小一ぐらいの時はほとんど帰ってきてなかったんで、最終的に離婚して、おとんは新しい女性と結婚して。14歳年下に弟がいてるんですよ。その新しい奥さんのもとで生まれた子。なるほど。兄弟は。妹が3歳下にいてるんですよ。
そっから、お母さんどうやって食っていくんですか。おかんは昼間はパートして。当時はまだ少なかったんで、僕は鍵っ子で、家には一人で開けてたんですけど。でも、やっぱりまだ小学校1年生、2年生なんで、おかんも早く帰ってくるじゃないですか。なので、4時ぐらいに終わるパートをしてたと思います。
仕事は多分、いろいろ転々としてたと思うんですけど、めっちゃ覚えてんのは、仕事が終わって僕らが飯食うぐらいに、家に車がボーンと来て、スーツの服みたいなんが何百って届くんですよ。要は内職ですよ。ボタンつけたりとかチャックつけたり。多分1円にもならないと思うんですよ、一つつけても。それやってました。
それでもやっぱり、生活的にだいぶ、その、してたんですか。いや、めちゃくちゃ貧乏ではないと思います。幸いなことに、住んでた家がおばあちゃんが兄弟でみんな建てた物件やったんで、ちょっと慰労的な感じで家賃は払わんでよかったんですよ。おとんの生活費はないけど、家賃を払わんでいいみたいな感じで、おとんが出てったんで。なので家賃払わんでよかったっていうところが。大きいんですね。大きいと思いますよ。市内の、言うてもど真ん中なんで。
どういう気持ちでいたんですか、その父がいないっていう状況って。逆に、おとんがいなくなったんで自由になったみたいな感じで。小学校3年生から野球をやりだしたんで、友達もいっぱいできるじゃないですか。ちょっとやんちゃとか始めて。逆におとんがいてない分、おかんももちろん3年生、4年生の時は怖かったですけど、5年生、6年生ぐらいになると体も大きくなってくるし、僕も野球とか水泳とかやってたんで。小学校ではそんなに喧嘩も負けないぐらい自信あったんで、ちょっとずつ道に外れていく傾向が、それぐらいから出てきて。
それって、周りの友達の影響でそれてくんですか。気持ち的には。やっぱりおかんしかいなかったっていうことと、おかんがすごい心配性なので。ガキの頃って、僕からしたら信用してほしいところで、逆に、大阪のおかんって特に心配するじゃないですか。当時はそれがうざくて。だから、構われることに対して100倍返しするわけです。「お前が勝手に産んで、勝手な」みたいな。もう小学校5年生ぐらいで、バーッて言ってたんで。思ってないですよ。思ってないけど、言われるとそれぐらいの暴言を吐いてたんですよ。
5年生ぐらいから、万引きとかもするようになってたんで。6年生、中1ぐらいになると、結構いろいろやってたので。それでも母親もよく泣く、すぐ泣くんですけど、それやからって逃げたりとか、食事を作らないとか、仕事をしないみたいなところはなかったんで。それは僕は、その愛に甘えてたみたいなところが、やっぱりすごいあるんかなと思いますね。
僕が中1、中2ぐらい、まだ野球やってたから。野球やってるからって言っても、知れてるじゃないですか。でも野球をやめたぐらいになった時に、隣町の不良とか仲良くなったりとか。単車の盗み方とか教えてくれるんですよ、乗り方、盗み方。そもそも中学自体がすごい悪い中学だったんで。僕らが6年生の時に、先輩が、僕ら小学生ですよ、小学校にシンナー吸いながら来るんですよ。小学生やから、やっぱりびっくりするじゃないですか、当時はね。
それでも初めはびっくりするけど、だんだん馴染んでくるんですよ。タバコはもう普通でしょ。「おい、シンナー」みたいな。そういう単車の盗み方とかね。当時は原チャリを直結するとこから始まるんですよ。それが、初めは原チャリやったのに、50cc、100ccとかで変わっていくんです。そうやって乗ってたら、卒業してる先輩がもう暴走族をすでにやってますから。「おい」みたいな感じで。卒業した時は、「一緒にお前らこっち来い」みたいな感じで。
いわゆる僕らの地元で、城東連合っていう暴走族がね。僕らの城東連合っていうのは、僕らの1個上が作ったんですよ。そこにいつの間にか所属してるみたいな感じです。そんな、もう流れみたいな。そうなんです。僕、中三から単車とかを覚えてね、先輩のケツ乗せてもらって暴走とか参加するんで、勉強もちろんしないですよね。
城東連合は何人ぐらいいるんですか。台で言えばね、僕らもう本当に第二次ベビーブームの世代なんで、めちゃくちゃそもそも人口多いんですよ。そこの中の不良が結構集まってくるじゃないですか。なので多い時とかって、100台ぐらいになるんですよ。1個上の先輩が作って、そこまででかくなるんですね。
もっと初めに、もっと上の世代で城東連合ってあったんですけど、一度ちょっと消滅的なことになって。それで再度立ち上げたのが僕らの1個上なんですよ。復活させたんですね。復活させて、初代城東連合っていうのが立ち上がって。僕ら、言うたら二代目なんです。黒川さんはその。二代目なんですよ。二代目なんですか。
他の地域とも戦ったりもするんですか。戦ったり、小競り合いはあるんですけど。僕らの初代の、最後、僕が反社に入る時の兄貴分が初代の総長なんですよ。そうなんですよ。結構イケイケやったんで、できるだけうちの兄貴と揉めたくないみたいな。
大阪を統一しようぜ、みたいな感じにはならないんですか。そこまではなかったですね。揉めてもあれですけど、当時やっぱり生野連合とかも大きかったんで。向こうは向こうで、それこそイケイケどんどんの子たちがいっぱいいたんで、表面的にぶつかるようなことはなかったですかね、僕の知ってる限りでは。
集団で走ってるのがメインですかね。走る時はスピード出すんじゃなくて、本当にのろのろ走って。そういう感じなんですね。パトカーが来ても、前に行かさないように。最終的には細い道に行ったりとか、パトカーが入れないところに誘導して逃げていくみたいな感じですよね。
僕はその、蒲生中学っていうところなんで、蒲生支部、城東連合蒲生支部っていうところで。一応、特攻隊長っていうので、前の方で結構走るみたいな感じですね。支部があるんですね、さらに。そうなんです。城東区でも中学があるので。
妹さんもグレてくるんですか。妹は元々、それこそ普通に育ってたんですけど。当時、暴走族がすごく流行ってて、ちょっと女の子にもモテたんですよ。女の子たちとか後輩とかが交差点で、ギャラリーって言うんですけど、その暴走族が来るのを待ってるんですよ。そこに僕らが現れて、写真を撮ったりビデオ撮ったりとか。その時に、うちの妹がもう中2、中3なんですよね。見るんですよね、やっぱり僕の姿を。ちょっとずつ妹も、いつの間にか金髪になってたりとか。
最終的に妹も中卒で。僕のせいです、申し訳ないんですけど。ただ、高校は行かなかったですけど、中学卒業してすぐ、普通のスナックで働いて。そこで最終的に知り合った今の旦那さんと、今も仲良く3人の子供と暮らしてるんで。すぐに更生しました、妹は。
中学出たら、しばらく暴走族のみの期間が。暴走族、プー太郎だから、夕方まで寝て、夜起きて、また何らかして走って。朝近くまで暴走して、朝方帰ってきて寝るみたいな感じですよね。
その時ぐらいには、お母さんとの関係はどんな感じなんですか。今考えたら、おかんもつらかったと思いますよ。反抗するだけじゃなくて、暴走族して、人に迷惑をかける行為まで始めてますから。最終的に、現行犯で捕まったことはないけど、芋づる式に大がかりにみんなで捕まった時もあって。その時なんかで言うたら、もちろんプー太郎なんで買えない。ほとんど盗み物、要は窃盗物の単車持ってたので、そんなんとかも全部めくれるじゃないですか。被害弁償とか、結構払ってると思いますね。
少年院に入ったんですか。少年院はないんですよ。保護観察、交通で2回あるんですけど、少年院は入ってないんですよ。これも最後の話にちょっとつながるかもしれないんですけど、捕まっても母親が家庭裁判所でね、「私が悪かった」ということと、「ちゃんと更生するのに、私も指導を改めてやりますから、少年院は許してくれ」って、一応言ってくれるじゃないですか。これ、めっちゃ大きいんですよ。
少年犯罪は特に、とんでもない犯罪したらダメですよ。でも、ちょっとした盗みぐらいのことであれば、親の存在、更生できる環境がどれぐらいあるのかっていうのは、すごい家庭裁判所は見るので。そういう指導してくれる人がいるかどうかで、だいぶ。全然違います。少年は特に全然違います。
プー太郎で暴走族だけやってる期間はどれぐらいだったんですか。僕らの時代は、ヤンキーみたいなんが流行ってた時代で。一応、高校で18歳で卒業じゃないですか。なので18歳までヤンキーはまだいいみたいな。でも18過ぎてやんちゃしてたら、ちょっとダサい的な感じで。プラプラしてると、「お前何してんねん」みたいな。「いや、まだ仕事してないです」みたいな。「もう引退したんちゃうんか」「引退したけど、まだたまに単車乗ってます」みたいな。引退式3回やったんですよ。後輩引き連れて。
未練がすごかったんですね。未練がめちゃすごくて、3回やってるんですね、僕。それで後輩引き連れてやってたら、「お前そろそろあれやろ、腹決めろ」みたいに言ってきたのが、城東連合の初代総長で。当時、反社に入ってて。反社の、まだその時は三次団体の組長でしたけど、その組長の秘書してたんですよ。
そうなんですか。超スピード出世。やっぱり頭もいいし、19歳から人夫出し始めて。僕らみたいなのを使うんですよ。1万5000円、1万8000円とかもらえるでしょ、元請けから。それで僕らとかには9000円とか8000円とかで働かせて、ピンハネして。そんなことから、あとはノミ屋ね。競馬の、普通に通常やってるJRAじゃなくて、普通に自分が受けるんですよ。
そう、ノミ屋みたいな。でも通常のレースを参考にするんですよ。それをJRAに賭けるか、その元が組織の人間がやってるかだけの話です。ノミ屋って言うんですけど。なんで組織に賭けるのがメリットがあるんですか、何か。それね、1枚100円を90円でできるんですよ。10円お得なんですよ。10円も安いし、どうせ博打する人からしたら、その場でできるし、最悪、ツケみたいなのもできる時もあるじゃないですか。はめるために、ツケにさせた方がはまるじゃないですか。そういうことしてた。
結構、金儲けもうまかったし、頭もよかったのと、イケイケどんどんやったんで、親分連中からもすごい可愛がられて、出世だったので。その兄貴が、僕も車乗って、暴走族から知ってますから。正直、ちょっと戸惑いはありましたけど、このまま、引退式3回やって後輩引きずり回すのもそろそろやばいなと思ってた時期だったんで。「決めてやります」みたいな感じで。部屋住みですね。部屋住みっていうのがあるんですよ。
山口組ですか。系列、はい。山口組の三次団体にいてたんで。お母さんに言うんですか。さすがに僕もそれは言えなかったんで。入ると同時に部屋住みしなあかんかったんです。当時、その組に住み込みで。長い組とかだったら1年、2年とかあるんですけど、うちの組は6か月でよかったんですよ。6か月間、事務所にいて、事務所当番とかお茶くみとか、最低限の組織の、あるじゃないですか、そういうのを学ぶんですよ。
それを住み込みでやらなあかんので、帰れないんですよ。出れないんですよ。成人式も僕、出してもらえなかったですからね。成人式も出させてもらえなかったぐらいなんですよ。半年、さすがに帰ってけえへんかったら、おかん心配するから、行く前にだけ、「半年間、ちょっと訳あって仕事で行くから、心配せんとってくれ」って、そのまま荷物だけ持って行くみたいな。おかんからしたら何のこっちゃ、みたいな感じですよね。
6か月の間には、基本的には周りの兄貴分の。いや、お茶くみ、電話当番で、親分とか事務所に来られる方の食事作ったりとか、事務所の前掃除したりとか。車来たら、昔なんかカメラがあるもんですから、車が止まったらバーッと出てって、開けてみたいな。そういうのを徹底的に覚えて。ヤクザの作法みたいな。作法ですね。
事務所で寝泊まりするんですよ。それ結構、環境としてはだいぶ劣悪ですか、人が生活するには。いや、一応いい事務所でした。なので、寝るのとかもちゃんと和室の大きい部屋で。そういうのあるんですね。ただ、夜中まで麻雀とかしてても、麻雀のとこの灰皿を替えたりとかね。親分たちが麻雀をやるじゃないですか。ずっと立ってて、コーヒー言うたらコーヒー入れたり、灰皿替えたりとかするんですよ。だから要は、そこにいてる間は犯罪なんかできないじゃないですか。ただの使いっ走りですよ。
部屋住みを一緒にやってるのは、何人ぐらいおられたんですか。その時、僕と一緒に引退式3回やってた兄弟がいてるんですけど、こいつと一緒に入ったんですよ。三次団体の組員自体は何人ぐらいいたんですか。そんなに多くなかったですよ。ただ、地元が城東区、京橋ってところ、結構繁華街なんですよ。ミナミとか心斎橋とか、あの辺まではないですけど。言うたら地上げ的なこともいっぱいあったし、お金回りはよかった組だったんで。でも、言うても50人もいてないんちゃいますかね。なので若い僕らは、可愛がられたっていうか、重宝されましたよ。
その半年、部屋住み終わったらどうなるんですか。一応、本当に組員として、通いで。もちろん事務所当番もするし、組の用事も参加する。部屋住みから解放されて一人暮らしするんですか。僕ね、それ一回家帰ったんですよ。実家に帰ったんですよ。お母さんに何て言うんですか。帰ってきたで、って感じで、何も言わず。何も言わずに、通いの実家住みヤクザになるんですよ。ちょっとの間ですけどね。
基本、ほとんど兄貴、初代の総長の兄貴の、僕は第一秘書みたいな、子分になってたんで、常に兄貴に付きっきりして。兄貴は兄貴で、今度は本部の親分の秘書になったんで、忙しいでしょ。それに対して、兄貴が親分についてる間に、「これやっとけ、これしとけ」みたいな。たまに「起こしに来い」とかね。それこそ車の運転手しながら、毎日殴られるみたいな。
そっからまた家帰らなくなるし、みたいな。帰れないっていうかね、ほとんど組事とか兄貴事が大きかったですね。なんせね、いい思いした記憶は一つもないんですよ。毎日というぐらい兄貴に殴られてたんで。イラチでね、まず渋滞が大嫌いなんですよ。阪神高速とかって2車線じゃないですか。ちょっと速度、気持ち的にあるでしょ。例えば神戸に弁当を届けなあかん時に、渋滞してたら、こうやって言うんですよ。「横走れ」って言うんですよ。
道の脇。阪神高速、ほんまにこんなんしかないので、どかさないとダメなんですよ。要は、救急車が来たら寄るじゃないですか。そんな感じでクラクションをバーンと。その時、すごい車乗ってたんで、大概はヤクザが来たと思って避けるんですよ。たまに避けない方がおられるんですよ。そしたら降りて、引きずり出すとか。それをしなかったら、僕が殴られるんですよ。しょっちゅう。
今やからこんな、笑えますけど、ほんまにね、殺したいなと思う時もありましたよ。正直。理不尽なこと。「起こしに来い」って言うから起こしに行ってんのに、逆に起こしたのに殴られたりとかね。しょっちゅうあったんですよ。それでも可愛がられてたっていう。いや、だから急変したんですよ。本当に組に入って、急変しだして。
だから僕、そのぐらいの時に、たまたま地元の後輩が「黒さん、ええもんあるで」って夜中に言ってくれたんで、パッて行ったらシャブ出してきてね。「黒さん、これめっちゃええねん」みたいに言われて。でも僕もしんどいし、やめたいし、殺したいし、みたいな思いがあった時期もあったんで。それでポンとやっちゃったんですよ。
それは同業の方に勧められた。それは普通の中学の後輩なんです。2個下の後輩に誘われたんですよ。その子まだ17でしたからね。いきなり注射したんです。今で言うたらスーパーサイヤ人みたいに、髪の毛がもう本当に逆立ってるんちゃうかぐらいになって。「なんじゃこれ」みたいな感じになって、はまるっていうか、いいわと思って。
ただね、うちの兄貴、シャブ嫌いなんですよ。もちろんダメなんですよ。一応、しのぎとしても使用もダメなんですよ。一応、山口組は御法度。隠れてやってる人いっぱいいてますけど、一応、法度なんですね。なのでバレないように。でも、やると食べれなくなるんで、たまに行ったら「お前、飯食え」「いや、ちょっと今日なんか」って。あんまりやりすぎるとバレるんで、兄貴といない時とか、そういう隙間を縫ってやってた。セーブはできてたんですよ。やっぱりバレたら殺されるっていう、そっちの恐怖が。そこでも勝つんですね。
給料っていうので言ったら。給料なんか何もないんちゃいます、そんなん。じゃあ、小遣いちょっとみたいな。小遣いちょっと、みたいな感じで。正直、今思えば、勢いで入ってしまったなっていうのが強いんですよ。入って6か月も経たないうちから、毎日、どうやったらやめられるかしか考えてなかったですから。嫌で嫌で、殴られるし、きついし、理不尽なこと言われるし、疲れてくるじゃないですか。
別に僕、元々気違いではないんで。でもそんなことやってると、だんだんしんどくなってきた時に、僕の兄弟分もシャブやってたんですよ。僕が教えたんですけどね。あまりにもよくてね。僕の兄弟分は、僕らの直々の親分の運転手してたんですよ。
当時、セルシオがレクサス、初めて海外から逆に入ってきてね。それを親分が乗ってたんですよ。そんなもん19、20歳で乗ってるからうれしいじゃないですか。一応、親分の運転手とはいえ、うれしいじゃないですか。親分を送ったら、車を駐車場に入れたあとは、自分でちょっと乗れるんですよ。それをそいつが、うれしいから、その車を乗ってミナミを流すんです、自分の車のように。大阪ミナミをね、パトロール行ってくるみたいな感じ。
その時に職質されて、ダッシュボードから出てきたんですよ、シャブが。それ、親分の車に自分のをその時に置いてたんですか。置いてたんですよ。それをまず彼女に聞いたんですよ。兄弟の彼女が、「捕まったと。しかもシャブ出てきて、車も没収された」と。警察に。そりゃそうでしょ。暴力団の車から覚醒剤が出てきたみたいな感じ。一応、関連性調べるじゃないですか。聞いた時に、もうこれは殺されると思ったんですよ。
やばいでしょ。だって元々、覚醒剤御法度やのに、親分の車の中からシャブ出てきたっていう。「知らん」で通用しないじゃないですか。僕だって、13の時からずっとやんちゃしてるのに、その兄弟分が覚醒剤やってたの知らんって言えないでしょ。でも今までやめたかったのと、これやったらほんまに殺されると思って、糸が切れたんです、プチンと。今で言うたら飛んだんですよ。飛んだんですね。飛んだんですよ。
彼女から連絡入った瞬間、ポッてなった。もうこれあかんと思って。その時どこにいたんですか。その時、たまたま豊中のところで潜伏するところがあったんですよ。大阪でも広いんで、そんな派手にせえへんかったら、どこにいるか分からないじゃないですか。豊中にそういうとこあったんで、真っ先に豊中に行って。絶対に口の割らへん後輩2、3人にだけ声かけて、「俺、飛んでもうたと。覚醒剤で兄弟がパクられたんで、俺もうやばいと。しばらくここに潜伏してるから」って言って、食料持ってきてもらったり、金持ってきてもらったりしてたんです。
その時、うちの地元は結構覚醒剤が蔓延してたんですよ。後輩もやってたんで、僕の潜伏先にみんな来た時に、みんなでやるじゃないですか。そんなことを3か月ぐらいずっとやってたんですよ。今まで兄貴と親分にバレたらあかんっていうので、自分なりに1か月に1回みたいにしてましたけど、怖い存在がいなくなって。スーパーサイヤ人になるような薬使ってますから、やめられなくなるんですよ。その時に鏡パッて見た時に、めっちゃ痩せてね。
どんな生活なんですか、それ。まず打ったら24時間は寝れないんで。追い打ちとかも入れたら、24時間とか30時間とか寝れないじゃないですか。ご飯も食べられへんし、水分だけ取って。これはちょっとまずいなと自分で思って。よくよく考えたら、兄弟はシャブで親分の車没収されてます。僕は何もしてないじゃないですか。言うても覚醒剤してたことはダメですけど、でも僕は迷惑かけてないし、逃げてんのも馬鹿らしくなったんですよ。
やっぱり地元に帰りたいなっていうのもあったんで、逃げてるぐらいやったら、けじめつけようと思って。その時、いろいろ悩んだんですけど、もうええわと思って、来てた後輩に「来る途中に出刃包丁買ってきてくれ」って。マグロの骨とかゴーンって落とせるような、寿司職人用のやつあるんですよ。実は僕、それで兄貴の指を落とす時に手伝ってるんですけどね。なので、その作法、兄貴の指を落とした時のやり方を知ってるんですよ。
兄貴の指を落とすんですね。1回落としてるんです。落としてるんですよ、その手伝ってるんですよ。そのやり方知ってたんで、指飛ばそうと思ったんですよ。指飛ばしてやめようと思って、後輩に電話して、大体8000円ぐらいで買ってきてもらって。兄貴とやった時と同じような感じで落としたら、本当にすごい包丁なんで、スポンと落ちるんですよ。
落として、とりあえず輪ゴムで止めてるけど、ずっとそのままなのもちょっとあれやったんで。それを普通にやってくれる病院って裏情報で知ってたんで、そこの病院行って、とりあえず縫ってもらって。縫ってもらってから兄貴に電話して。僕、洋司って言うんで、「洋司です。すみませんでした。ちょっとお話があります」って言って。「今すぐ来い」って言われて。行ったら分かりますよね。「すいませんでした」って言って、「実はもうやめさせていただきたいんです」って。僕はそれで半殺しにされるのも覚悟で言ったんですけど、半殺しにされなくてですね。
どうだったんですか。逃げてる間、いろいろ聞いてたら、「俺はやりすぎてた、やりすぎた」って周りに言ってたらしいんですよ。やっぱり僕が、こんだけずっと一緒におった人間が急にいなくなるから、寂しかったのはあったんでしょうね。「あいつにはちょっと迷惑かけた」とか、「あいつがこんだけついてくれたのに、俺はな」みたいな。一応、嘆いてたらしいんですよ。僕からしたら、それ聞いて「嘘つくな」って思ってたんですけど。実際に行ったら、ほんまにそんな感じで。いろいろ説得されましたけど、最終的には「分かった」と。
その代わり、もちろん破門を出すっていうことと、二度とそういう裏の業界と関わらないっていう条件で、地元に戻ってきて普通に働くっていうので、堅気にさせてもらったんですよ。それが何歳の時ですか。指飛ばしたのが、22になる直前やったと思うんですよ。僕、指が長いんで、めっちゃ目立つんですよ。自分、元々指長いんでしょ。確かに、この左手の小指ですね。そうですね。なので2年半ぐらい在籍してたはずなんですよ。
そっから約束どおり、友人に紹介してもらって、道路の舗装業あるんですけど、その辺のアスファルトを作る工事に就職させてもらって。この仕事は結構楽しくて。めっちゃ楽しかった。時間じゃなくて、道路ここまでやったら終わりみたいな。向いてたんでしょうね。給料も昼と夜とか働くと、3万5000円とかもらえたりとか。大きいじゃないですか。それなりに満足してたんですけど、でも気性ってあんまり変わらないじゃないですか。シャブも再開してましたし。
そこはやっぱりやめられてなかったんですね。やめられてない。ただ、僕は結構制御はできるので、親分がいてた時ぐらいな感じで、1か月に1回とか、休みの日みたいな時に、自分なりにご褒美みたいな感じで。僕らの周り、結構セックスの時にそれを使うのが多いんですよ。やっぱり全然機能が変わるんで。それはあんまりやってなかったんですか。いや、それはやってたんです。それやってて、ちゃんと抑えられてたんですね。その時だけみたいな感じ。
でも気性は兄貴にも鍛えられてるし、イケイケの気性が、それこそ急に変わらないでしょ。染みついてしまってますから、クラクション鳴らされたらすぐ降りていくし。23ぐらいの時に、よくある肩がポンとぶつかるみたいな時に、「兄ちゃん、痛いの」みたいな感じで言われて。それで過剰防衛みたいになって。1週間後にチャイムがピンポンって鳴って、開けたら警察の方が。「1週間前、お前どこどこで喧嘩してるやろ」みたいな感じで。そのまま、もちろん帰れないじゃないですか。署っていうところがあるんですけど、そこに連行されて。
結局、捕まったのは20歳越してから初犯なんで、執行猶予ですよね。その時もおかんが保釈金かき集めてくれたんで、それこそ30日、40日も勾留されてないはずですよ。すぐ保釈で出てきてるんで。最終的に判決が執行猶予3年で、傷害の罪が1年なので、3年間何もしなかったら、その罪は免じますっていうことですよね。
執行猶予中は別に何のことも起きず。執行猶予中も、いわゆる中で知り合った子とかと連絡取ったりすると、せっかく外で真面目に働いてたけど、今度は「いい仕事あるで」みたいな話が回ってくるんですよ。ちょっとグレーな仕事。グレーな仕事。仕事真面目にしてるけど、「え、マジで」みたいになるじゃないですか。当時、まだまだ頭は悪かったので。
いきなり言われたのが、当時、携帯電話を発信状態にずっとしてたら、パチンコ台が延々に回るんですよ。要は、玉が入ったら普通回るじゃないですか。ブーンってデジタル回るんですよ。ある特殊な携帯電話しか無理なんですけど、その携帯電話を懐に隠して、自分の家の電話にずっと鳴った状態にするんですよ。電波が反応して。反応するんです。バグってるんですよ。ずっと入ってる状態になるみたいな。
その売り上げの3割持ってこいっていう。ヤクザじゃなかった、その人はヤクザじゃないけど、そういう情報がすごく入る人やって。「3割ちゃんと持ってこいよ」って。「分かりました」みたいな感じで。僕、そういうのすごい真面目なんで、10万とか15万とか上がった時に、3割を、5万渡してたら。みんな、ごまかすやつが多いじゃないですか。でもそういうのちゃんとしてたんで、「黒ちゃんは信用できるわ」みたいな感じで、そういう情報を教えてくれる。だったら、仕事できなくなるじゃないですか。最終的に仕事もやめちゃったんですよ、僕。
そういう界隈にいたら、そういう情報が入ってくるんですか。そうなんですよ。僕の周りが「黒ちゃん、こんなんあるで」みたいに来るんですよね。だから執行猶予中もそんなことやってましたよ。そういうのは何年ぐらいやってたんですか。ずっとではないですけど、飛び飛びとかでも考えたら、ネタが途切れた時とかはやってないですけど、トータルで言うと27ぐらいまでやってたと思いますね。
その時、今の奥さんなんですけど、彼女と一緒に住んでたんで。その彼女がまだ19歳、僕が27の時に、長男を妊娠したんですよ。それ、何で出会ったんですか。8歳離れてるけど、後輩なんですよ、僕の。地元の後輩。後輩で、彼女もちょうどヤンキーになったんやで。高校行かずに、最終的に僕のところに住みつくみたいな。今考えたら、とんでもないことしてたなと思うんですけど。でも今も一応、仲良く結婚生活30年。
一緒に覚醒剤やってましたか。さすがにこれは、本当に嫁にだけは絶対バレへんようにしてたんですよ。絶対に。じゃあ、外で別の女の人たちとだったんですか。僕ね、自分でやるのもいいんですよ。自分でいたすのも僕らの中では流行ってたんですよ。奥さんには絶対バレへんようにしてたのと、やる日は出張行くって言って、2、3日会わないようにしてたんですよ。それこそホテルで閉じこもってやってたりとか。
妊娠が発覚して、28になって長男が生まれて。さすがにお父さんになったし、想像以上にやっぱり可愛かったですよ、我が子。初めて父親になりましたけど、こんなことしてたらさすがにあかんなと思って。多少の貯金はしてたので、当時一緒にやんちゃしてた後輩に、「これ、そろそろやめへん」って言って。「ろくでもないし、それなりにある程度、なんか会社やろうや」って。元々、その相棒の方が建築の会社持ってたんですよ。
その建築の会社を法人にしましょうか、みたいな感じで。全然儲かってない会社ですけど、これから大きくしていこうや、みたいな感じで。「じゃあ俺も役員にしてや」みたいな感じになって、僕、そこの建築会社の役員にしてもらったんですよ。基本はその建築でやっていくっていうところに、たまたま僕の友人が美容師さんやって。
独立する云々やけど、やっぱなかなか独立すんのって勇気いるし、金もいるじゃないですか。そん時僕って、それこそ得で生きてたんで、当時やっぱりお金のことに対して執着がすごい大きかったんで、「これはちょっと儲かるな」と思ったんですよ。
美容師、その美容室をオープンしたいって時に、「俺、金出すから、会社で店長してくれへん」って言って。その本人も利害が一致するから、やるみたいな感じで。結局「じゃあ、やりましょう」みたいな感じで、元々建築会社やってたけど、その美容の部門っていうので、僕が責任者として。大阪の森小路っていうところがあるんですよ。千林の手前なんですけど、そこにちっちゃい13坪ぐらいのお店を借りて、オープン準備を始めてたぐらいに、その美容師さんと最終的に揉めたんですよ。
オープン前に? オープン前。もうやれへんみたいになって。もう店舗も決めてるし、突入してるんで、もうやめるからつって、僕もやめれないんで。僕もプライドもあって、むきになって、「もうええわ、俺の方でやるわ」みたいな感じで、募集かけたんですよ。美容師の募集。4人ぐらい募集に来てくれたんですよ。
それで、ちっちゃいお店だけど、一応4人ともアルバイトも含めて採用して。その中の1人、おっちゃんやったんですけど、僕よりも7歳年上の。素人の僕が見てても、できるんです。僕、フロントで立ってたんですよ。やっぱりお金だけ出して任せるっていうのも嫌やったんで、もちろん現場にもいてる中で、その1人だけがすっごい仕事できるし、お客さんの表情がね。できた後、お客さん鏡見てるじゃないですか。もうお客さんの表情がちゃうんすよ。「え?」みたいな。「ありがとう」みたいな感じで。「この違いは何やねん」みたいな。やっぱ見てたら分かるじゃないですか。
そん時に、その一番仕事できる人に「じゃあ、もう君、店長になってよ」ということで、この人を店長にしたら、店がめっちゃはやり出したんですよ。そしたらすごい美容の仕事っていうか、接客業が初めて楽しくなってきて。この楽しくなったぐらいの時に、僕はその時、得しか考えてないから、「これは儲かる」と思って、速攻、後輩に物件探させて。大阪の福島区っていう商店街があるんですけど、そこにいい物件見つけたんで、そこで即決して、今度はセット台も10台、シャンプー台も3台入れて、結構中型のサロンやったんですよ。
これがもう大流行りしたんですよ。1日、僕ね、50人断ったことあるんですよ。この勢いで、売上も上がるし、スタッフも、調子乗ってくるじゃないですか。いよいよ3号店も同じような感じで出そうとした時に、ちょうど年末、仕事終わって、言うても疲れるんで、ふっとばーっとこうしてたら、電話かかってきて。「お母さんですか」みたいな。「はい」みたいな。「あなたのお母さんが今、急に倒れられて、集中治療室にいてるんで、すぐ来てください」って言われて。
「倒れるも何も、1週間前に普通に会ってるけど」みたいな感じで。大阪のセンターってあるんですけど、そこに行ったら、もうおかんが集中治療室で横たわって。僕も泣き叫んだんですよ。今でも覚えてますけど。でもね、ぴくりとも動かないんですよ。このピコピコみたいなんも、弱まってる感じで。今まで親孝行らしいこと一切してないし、孫を2人見せたぐらいが唯一の親孝行かもしれないんですけど、このまま死んだら困るじゃないですか。まだ59歳やったんで。必死に、それこそそんな時だけ神様にお願いして、「頼むから、おかん、生き返ってくれ」みたいな、しんどくて泣いてたんですけど、最終的に20年前の12月30日に死んだんですよ。59歳で。
やっぱり今考えたら、あんだけ無条件で愛してくれるっていうか、母親って条件抜きじゃないですか、ほとんど。奥さんとかって言うても何らかの条件があるじゃないですか。条件なしで奥さんってなかなかないじゃないですか。でも母親は子供に対して結構無条件なんですよ。そういう無条件で自分のことを愛してくれる人が、もうこの世に1人もいなくなったって時に、不安感とか。一応35歳で、経営者としてそれなりに成功してるつもりでしたけど、結局まだまだ親離れできてなかったんでしょうね。形には一瞬、自立してるけど。
でも、どうしても生き返ることはないんで。その時に、あまりのショックなのと、おかんに対する申し訳なさで、ご飯もあんまり食べれなくなって。僕、今痩せてるでしょう。本当にシャブいきまくってる時ぐらい痩せたんですよ。7キロぐらい。こっから7キロぐらい痩せたんです。もう食べれなくなって。毎日落ち込んでたんですけど、でも命って蘇らないじゃないですか。僕がいくら泣いても、おかん帰ってけえへんし。このまま泣いてても、おかんは絶対喜ばへんと思ったんですよ。
なんでかって、あんだけ僕、悪かって、家から注射器出てこようが、傷害でパクられようが、やっぱり最後まで僕の味方でいてくれたし、僕のことを愛してくれたっていう自覚があるんで。僕がこんなショックで7キロも痩せたら、おかん絶対心配するなと思ったんで、残りの人生はちょっとおかんに恥ずかしくないっていうか、おかんに恩返しできひんかったけど、ちょっとまともに生きてみようと思って。ゴミとかトイレ掃除とか、今まで全くやったことないこと。なんせ僕、頭ほんまによろしくないんで、変わり方って分からなかったんで、「もう何でもいいわ」と思って、ゴミ拾いしたりとか便所掃除とか、いろんなことをやり出したんですよ。そっから初めて僕、生まれ変わりが始まったっていうか、生き直しが始まって。そうやって、まずは行動から変えていったんですよ。靴揃えたりとか。
そしたら本屋さん行っても、今までやったら金儲けの本とかしか行かなかったんですけど、その時にたまたま『生き方』っていう本に目が合って。その『生き方』っていう本を取ったら、京セラの創業者の本やったんですよ。稲盛和夫さんっていう方の。その方の本を読んだ時に、それこそ会社っていうのは金儲けのためじゃなくて、世のため人のためとか、従業員の幸せを考えるために会社経営してるんやと。考えたこともなかったですね。よく仏教の言葉を使われるんですけど、利己とか利他とかね。僕はずっと利己やったんですよね。自分の利益になることには頑張ってたけど。でも利他っていうのは、他人に利益になることをやっていく。それが仏教みたいなことを書いててね。昔やったら多分全然入ってこなかったと思うんですけど、やっぱりおかんが亡くなったことによって、自分の心が真っさらになってるじゃないですか。
なのですごいその言葉が入ってきて、「俺、この人のもとで学びたいな」と思った時に、盛和塾っていう塾をボランティアでやってるっていうことを本に書いてたんで。僕、その盛和塾っていうところに12、3年ぐらい所属することになるんですけど、そこに通わせてもらったら、やっぱり全然関わる人たちが変わってきて。一番衝撃的だったのが、「復興支援で東北の復興支援、一緒に行こうや」みたいなね。昔のところに多分そんな話、一切なかったと思うんですけど。子供たちに笑顔を届ける活動なんですけど、東北のがれきなところでやったりとか。そんなことをしてると、まだまだ全然いい人ではないんですけど、いい人になってるようなマインドになっていったんです。ちょっとずつ。喜んでもらってる人に感謝されてるみたいな。
そん時に、当時も美容室4店舗ぐらいになってたんで。ちょうど僕、子供に対してすごい問題意識持ってたんで、調べたら大阪にも児童養護施設に保護されてる子供たちがいっぱいいてるって知ったんで、この子たちにボランティアでカットしに行こうと思って。速攻施設に電話したら、「すぐ来てください」って言ってくれたんで、毎月3人スタッフ連れて、これも6年ぐらい行きました。6年ぐらい児童養護施設にずっと通わせていただいて、子供たちのカットをさせてもらって。
そんな中で、大阪にお好み焼きの千房っていう会社があるんですけど、会長が講演してたんですよ。僕、勉強のつもりで、千房の会長って有名だったんで講演に参加したら、元受刑者を雇用してるって、講演の中で言ってきたんですよ。千房って言うたら、お好み焼きの大阪でも大きいチェーン店やのに、それが受刑者とか少年院出院者を雇ってるって聞いた時に、びっくりしたんですよ。もう僕、いても立ってもいられなくなって。
その講演が終わった後に、僕、結構消極的なんです、そういうところは。でもそん時は真っ先に会長のところ行って、「めちゃくちゃ感動した。本当にすごいですね」みたいな感じで、「名刺交換させてください」って名刺渡したんですよ。「実は僕も昔やんちゃで、とんでもない経歴があって」って、ちょっとだけ自己紹介したんですよ。そしたら1週間後に電話かかってきて。少年院とか刑務所出た子たちの再犯を防止するプロジェクト、職に親って書いて「職親プロジェクト」って言うんですけど、その職親プロジェクトのメンバーになるかって言っていただいたんですよ。「ぜひぜひ、ならせてください」っていうことで、すっ飛んで行ったんですよ。
それで、その受刑者の支援。そうなんです。そっから始めたのが、ちょうど13年前で。一番初めに行くところから始まるわけですよ。刑務所で面会とか、講演活動から始まる。僕は刑務所には入ったことないんでね。刑務所行って、直に受刑者の方と面会したりとか、講演活動してると、やっぱり応募が来るじゃないですか。「黒川さんのところで働きたい」とか、「この前の話、感動しました」とか、「僕も実は美容師になりたいんです」みたいな応募がいっぱい来るようになって。
そっから僕は、元々やっぱり自分のやんちゃ経験があったので。就労の支援、仕事の支援ってすごい大事なんですよ。今、再犯率47%で、その人の7割が無職なんですよ。なので、仕事に就いてるか就いてないかっていうのはすごい再犯にも関わってくるので、仕事の支援をするっていうのはすごい大事なんですけど。僕は元不良だったんで、僕の周りがね、例えば、僕のこの前言うたうちのね、僕この前、刑務所行ったんですけどね。
そうなんです。やっぱり再犯して何回も捕まる子の共通点が、地元に帰ってくる、同じ友達、環境を変えないっていう人たちが、やっぱりほとんど再犯をしてたんで。僕は仕事の支援プラス、環境を変えるため、やっぱり住居ですか。帰る場所もない人もいてるので、住居の支援と、あとは教育ね。僕もいろんなところで学ばせてもらって、今までこう、そういうこと、物事を考えることができるんだので、やっぱり再教育も絶対しなあかんと思ってたので。
僕は会社の方、美容室の方がプログレッシブって言うんですけど、今回、良心塾っていう会社は、仕事と住居と教育、この3つの支援をする会社を作ろうっていうことで、良心塾を作ったんですよ。僕はその職親プロジェクトの会議でも、「仕事の支援だけじゃ絶対駄目ですよ」と。その中間的な、就労と福祉の間じゃないけど、中間的な施設がないと、いきなりぶっつけ本番でそういう人たちを雇っても絶対失敗しますよって、ずっと言ってたんですけど。なかなかみんな企業なんで、「その間の経費どうすんねん」みたいになるじゃないですか。なので僕は、自分でオリジナルでやってたんですよ。
それの、僕のオリジナルでやってた中間的な支援ですよね。日本財団さんが見ててくれてたんですよ。僕たちの職親プロジェクト、日本財団さんのプロジェクトなんですよ。僕の活動を日本財団さんの部長さんがずっと見てくれてて、「黒川さんのやってる中間支援施設ってすごい大事ですね」みたいになって。「これ、職親プロジェクト全体でもやりませんか」って言われたんですよ。日本財団さんから結構多額の支援をいただいて、3階建てのぼろぼろの賃貸なんですけど、そこを本当にリニューアルしてもらって。そこで法人化して、株式会社良心塾で、今もその拠地あるんですけど、その本社に移動して。
関わった子で言うと、もちろん100人は超してますけど、実際に雇用した子は20人以下ですかね。うちの美容室で雇った子とか、うちの産廃の方で雇った子と、居酒屋で雇った子ですね。直に雇った。
システムで言うと、「雇ってください」っていうのが来るっていうのがメインなんですか? 「雇ってください」っていうか、1人更生するって大変なんで、「支援してください」みたいなところですね。それ、親御さんが言うパターンが多いっていうか、本人から来るんですか?
ここが僕の今回すごく訴えたい本筋なんですけど、僕らの時代って結構、僕もそうですけど、反射的に他人に暴力振るったりとか、活発な子たちがやっぱり多かったんですよ。少年院とか刑務所に行くって、覚醒剤の人もそうですけど。僕がこの活動を始めて一番衝撃的やったんが、幼少期に虐待受けてる子がめちゃくちゃ多かったんですよ。それこそ熱湯かけられたりとか、1週間ご飯食べさせてもらえないとか、義理の父親からの性暴力とか。「そんなこと日本であんの?」っていうような虐待を受ける子ばっかりで。
そういう子たちの特徴が、他人に暴力振るうんじゃなくて、自分にリストカットしたりとか、オーバードーズしたりとか、こんな子がめっちゃ多かったんですよ。「少年院出るのが不安」とかね。「僕、社会で適応していく自信がないんです」みたいな。僕らの時代で、少年院出たくないとか、出るのが不安なんか言うような不良いなかったし、人間としての尊厳をそこまで踏みにじられるような、いわゆる虐待をされてたやつなんか、僕の周りではいなかったんで。でも「死にたい」とか、要はやる気が出ないんですよ。お金儲けにも興味ない。それがすごく衝撃的で。
なので僕が、言うても昭和の古い人間なんで、「そんなこと言わんと、頑張っていったら結果出せるんやって。少年院や刑務所に行ったかもしれんけど、頑張っていこうや」って、本当に思いだけ先行でやってたんですよ。もちろん、たまにはまる子もいてますけど、やっぱりそういうネガティブな子とか、今で言うたら愛着障害とか発達障害の子がほとんどだったんですけど、逆効果なんですよ。その子たちにいきなりそういうことやると。でも、そんなん僕、当時分からないじゃないですか。なので、なかなかうまくいったなと思った時にいなくなったりとか、それこそ再犯した子も4人ぐらいいてますからね。
そんな最中に、8年前に受け入れた女の子がいててね。この子も17歳の時に、僕、少年院から受け入れたんですけど。どんな罪だったんですか? この子はね、虞犯っていうか、犯罪を起こす可能性がある。親がもちろん虐待家庭やったんで、もう正常に機能してないんですよ、家庭が。機能不全家族って言うんですか、今で言うたら。
父親も3人も4人も変わるような環境の中で、施設も行ったり来たりみたいな。虐待されまくって、最終的に罪はそんなに重たくないんですよ。でも15、16手前で少年院に入って、最終的に17でうちに来てるんですけど。来た時もそれこそリストカットしょっちゅうする。夜中の2時、3時にLINEで送ってくるんですよ、血まみれの映像。要は、来るかどうか試してるんですよ、僕が。分かります? 夜中でも血まみれの写真を送ってきて、来るんのかみたいな。要はお試し行動って言うんですけど、それを延々にやるんですよ。もうそれが僕からしたらつらいじゃないですか。
それと、そういうお試し行動だけじゃないんで、やっぱり自分が来てて、他の子が入ってきたら、この子、言うたら愛着障害なんで、他の子が入ってきたら自分1人に構えないじゃないですか。だから自分1人に構うように、あの手この手で出ていく方法をやるわけですよ。そんなことをずっとやってく中で、かなり重症やったのもあったし、心の傷がかなり深かったんで、僕、二十歳の時に最終的に養女にしてるんですよ。養女にして。養女にしてます。
今、その旦那さんもいてるんですけど、その旦那さんも刑務所から出てきて。彼も不遇の環境の中で、最終的には就職は千房さんで働いて、うちの教育の方で学びに来てて。それでうちの養女と知り合って、今6歳の子供と4歳と3歳の子供がいてるんですね。来た当時よりだいぶ人格形成っていうか、愛着の形成もだいぶ整ってきたなっていう矢先に、旦那さんが再犯したんですよ。
元々、車上荒らしの常習犯みたいな感じで刑務所入ってたんですよ。それで1回、刑務所から出て、千房さん辞めてからはうちで勤めて。子供も産んで、父親としてもちゃんとしてたし、本当に真面目なんで、一番再犯せえへんかなと思ってた子なんですけど。その子がちょうど2年半前ぐらいですかね。ピンポンってなって、警察がばーって来て。「お宅の従業員さんが犯罪に関わってる可能性」みたいな。何件か車上荒らしあって、それは実際にやってたんですよ。
子供も言うても、まだ一番ちびは3か月やったんで。3か月、2歳と3歳かな。やっぱり罪を犯したことはもう駄目ですけど、できるだけ子供も小さいから執行猶予でね。出てきて7年も8年も経ってるから、執行猶予をもらえるように、被害弁償をさせてもらって、なんとか刑務所行けへんように僕らも尽力してたんですけど。尽力してる中で、弁護士さんからも「半々ぐらいですかね」って、刑務所に行くかどうかも。その中で裁判があと2か月ぐらいで終わるかなって時に、もう1回ピンポンってなったんです。その保釈中に、またかばん取ったんですよ。
そうなんですよ。そしたら、なんでやっちゃった? そこなんですよ。もちろん多分、うちの娘もちょっと詰めるところがあるんで。子供3人いてるからね、やっぱり稼いでもらわんと困るんで、ちょっといろいろあったと思うんですよ。とはいえ、前科もあり、しかも裁判中でしょ。
それで僕の師匠に当たる教育の師匠がいてるんですよ。その教育の師匠に連絡した時に、「黒川君のやってる、いわゆる寄り添ったりとか、いろんな人と出会って仕事の機会を与えたり、支援はすごいんやけど、寄り添い型の支援で心は安定するけど、脳は成長せえへん」って言われたんですよ。「本当に再犯を防止しようと思ったら、そういうトラブルとか困難にぶち当たった時に、今までとは違う思想とか考えで、そのトラブルに対して、どうやって法の中で問題を解決していくかっていう能力を身につけさすのが、本当の教育やで。黒川君のやっているのは教育ではなくて指導で、支援。これもちろん必要なんですけど、それだけでは駄目だ」って言われたんですよ。
僕の師匠、原田塾長って言うんですけど、原田塾長が今、教育プログラムで特許取ってるんですよ。「心のスポンジプログラム」って言うんですけど、「この教育を黒川君も真剣にやっていけ」と。元受刑者の人たちだけじゃなくて、生きづらさを抱えてる人たちは共通の脳の癖みたいな、特にそういう幼少期に不遇の環境にいた子っていうのは、結構インプットされて、それが扁桃体に染み込んでるらしいんですよ。それを改善するための教育プログラムやから、これは受刑者だけじゃなくて、社員の離職が多かったりとか、人間関係のトラブル、あらゆる問題、人間関係のトラブル全ての解決につながる教育プログラムになってるんで。
これをこれからはもっと広げていこうかなと思ってるのと、今、佐賀少年刑務所とかでも実施されてて、95人、この心のスポンジプログラムを受けてるんですよ。95人。今この5年間追跡してるんですけど、再犯が今ゼロなんですよ。
それ、どういう方法? どういう方法っていうか、要は考えさす教育なんですよ。どっちかっていうと学校教育って、正解のある答えに対してそれを記憶して、偏差値重視っていうか、記憶重視じゃないですか。でも原田先生が生み出した心のスポンジプログラムは、今まで考えてなかった脳を使うように、無理やり、無理やりじゃないですけど、その教材がそっちに勝手に持っていくんですよ。あとは先生の問いかけによって。
そうすることによって、僕たち、前頭葉が結構、人間の理性的な、例えばカッとなって、もう2秒後には、僕も昔そうですけど、カッとなった瞬間、手が出てるのも、本来であれば扁桃体がね。「ここで、でもカメラあるし、ここで殴ったら捕まるよね」とか、理性的な役割がこの前頭前野にあるんですけど、ここにちゃんと信号が行く前に、そういうことをやってしまうんですよ。リストカットする人たちも多分同じ共通点なんですけど、それを鍛える。脳トレとはまたちょっと違うんです。脳トレとよく似てるんですけど、また脳トレとは全く違う。
具体的には、実際その授業の場でこんなことやってますみたいな、言えるものありますか? 漢字でも、例えば「変わる」っていう字を、僕らは普通に「変わる」、もう「変」って読めますよね。それで覚えるんですけど、この漢字の「変」っていう由来、知ってます?
ちょっとすぐに分かんないです。僕たち、実は普段何も考えてないんですよ。今までの経験のことだけ、オートマチックに暮らしてるんですけど、要は関係性を断ち切るっていうことが、本当の「変わる」っていうことの由来らしいんですよ。じゃあ、昔の関係性とか、簡単に断ち切れます? 「僕は変わりたいんです」とか、「変わる、変わる」って言ってるけど、本当の「変わる」の由来の意味分かってなくて、みんな「変わる、変わる」って言ってるんですよ。自分なりの「あ、変わるってこうやろな」っていうことで、「僕、変わりました」とか「変わります」って言うじゃないですか。でも本来の由来は「断ち切る」ってことなんですよ。
っていうこととか考える。考えて脳を使うっていうのが、さっき言ってたような、それも1つってことですね。最終的に「じゃあ、変わるってことは、それできない」っていう人の方が多くなるんですよね。結局、言うても親との関係性とか簡単に切れないじゃないですか。でも「じゃあ、どういうことだったらできる」って言って、こういくと最終的にね、ほとんどの人は、これ時間かかるんですけど、「成長」ってなるんですよ。
人は変われなくても成長するってなると、「成長やったら、昨日1段しか跳べなかったのが2段跳べるようになったりとかね」。昨日よりも成長ってなると、イメージできるようになるじゃないですか。「成長やったらできる」っていうところにもなっていくんですよ。そういうのから、本来は漢字の由来を全く考えなかったことを考えるようになって、本当の漢字の意味をまた違う形で持っていけるみたいなところも、それも1つなんですよ。普段考えてないことを、全然違う方向で考えていくみたいな。
実はこのプログラムが学研さんともコラボすること、教材も作ったんですよ。そうなんです。そうです。そのプログラムの教材を今後全国の少年刑務所にも配布して。ただ、ちゃんとその教材を使える指導者が必要なんで、その指導者の中の1人が僕と、今日来られてる、うちの社団法人の代表なんですけど。ちゃんとこれから広めていこうかなと。
だから僕も、反社はやめて一般的になっても、やっぱりカッとする癖っていうのは変わってなかったじゃないですか。自分志向で物事考えるっていうのも変わってなかったんですよ。僕はたまたま母親のそういうきっかけとかがあったから変わったかもしれないんですけど、なかなかそういうきっかけってないじゃないですか。それをちゃんと教育でやれるような仕組みを作ってくれたのが原田塾長で、これが特許も取ってるんですよ。教育で、このプログラム。
確かに、全員を養女にして、つきっきりでってなるのは難しいです。いや、もう限界ありますし。だから最終的な更生のゴールが何かっていうところにもよるじゃないですか。そうですよ。だから最終的に自立さすことがね。っていうことですよね。完全に黒川さんの手から。そう、そう。それが本来の目的なので。
そういう家庭環境とか生い立ち持ってる人で、養女とか養子にせずに、完全に黒川さんの手から離れて、今ちゃんと自立してやられてる人もいますか? いてます。もちろんいてます。もちろん、それがちゃんと円満退社じゃなくて、うちを辞めたところで、でもそこでいいところを見つけて、更生してる子もいっぱい出てますよ。
共通点みたいなのあるんですか、そういう人たち。やっぱり一番大きい、間違いないのは、そういう子は断然、うちに、良心塾に来るのはほとんど身寄りのない子が来るんで、これすごい実感。でも少なくともやっぱり、母ちゃん、父ちゃん、身内が一緒に更生を支えてくれる人がいてる。これは更生早いです。これは僕だけじゃなくて、職親プロジェクト全体でも出てます。本当の父ちゃん、母ちゃんが最後まで寄り添って、刑務所に行っててもちゃんと迎えに来てくれて、職親プロジェクトに預けてるけど、ちゃんと一緒に暮らしてたりとか、一緒に応援してくれてる。これは早いです、更生。
なるほど。そこ、家族の協力がなかなか得られない人たちをどうしていくっていうのが。どうしていくかっていうのも社会の課題だと思います。
この取り組み自体も生涯かけてやっていくっていう感じですか? なんか天命なんでしょうね。ただ僕も、少年院、刑務所に行かないでいいと思ってるので。行くのもそれなりにはあるんかもしれないけど、やっぱり行くってことは必ず被害者を出してます。ほとんどの事例は、単独の以外は。なので、子供たちが被害者にも加害者にもなる必要ないじゃないですか。
なので、僕たちの活動って最終的には対症療法じゃないですか。物事が起こってからのことなので。家庭環境や教育が変われば、ここに行く子たちは必ず減ると思ってるので、対処のところと未然に防ぐところを両方やっていかないといけないんですけど。ここは多分今、いろんな政党の皆さんが頑張ってやってくれてるので、僕はここのところの負の連鎖を止めると。この子たちが更生する、立ち直るってことは、自分たちの負の連鎖を、自分の次の世代、子供たちとか関係者に受け継がさないじゃないですか。これもすごい、対症療法ではなくて、未然に防ぐ1つになってると思うので。
自分も実の子も3人いてるんですけど、別に僕も中卒ですし、すごい勉強教えたわけじゃないんですけど、やっぱり安心して暮らせる環境と、周りに僕の奥さんも含めて優しい人たちに囲まれてるので、犯罪なんかをしなくても生きていけるっていうところを、多分うちの息子たちも分かってると思うし。今うちの孫たちもまだまだちっちゃいんですけど、僕だけじゃなくて周りが結構いろいろやってくれるので、やんちゃぐらいはもしかしたらあるかもしれないですけど、そういう今テレビをにぎわせてしまってるような犯罪を起こすことは100%ないって僕は言い切れます。なので、これをみんなに広げていきたいですね。
連鎖を止めることが、未然に防ぐことにもつながって。そうなんですよ。だって、この子たちが父親になったり母親になるじゃないですか。この子たちも、でも絶対自分の子たち虐待しないんですよ。
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