暴走族から山口組、そして更生支援へ 黒川洋司が語る「寄り添い」の限界と負の連鎖

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概要

大阪で20年にわたり美容室を経営する黒川洋司さんは、13年前から少年院や刑務所を出た人たちを支援する会社を運営している。仕事の支援、住居の支援、そして特に力を入れている教育の支援の3つを柱に、株式会社として活動している。経営する居酒屋では元受刑者や少年院出院者が働いている。

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黒川さん自身は、10代で暴走族に入り、その後山口組系の組織に所属した。覚醒剤に手を出し、組から逃げ、自ら指を落として足を洗った過去を持つ。現在54歳の黒川さんが、自分の生い立ちから更生支援の現場で直面した壁までを順に語った。中心にあるのは、どうすれば犯罪を繰り返す人を減らせるのかという問いである。黒川さんは、自分が続けてきた「寄り添う支援」だけでは足りないと気づいた経緯を話している。

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父の浮気と家庭の崩壊

黒川さんは大阪市城東区の下町で、黒川家の長男として生まれた。京橋に隣接し、自転車で15分あれば大阪駅に行ける場所だ。母親は鹿児島出身で、20歳で大阪に出てきて大阪生まれの父親と出会い、24歳で黒川さんを産んだ。父親は祖母が立ち上げた印刷会社で働いていた。兄弟全員が従業員という法人にもなっていない小さな会社で、父親も元暴力団ではなかったという。

物心がついた4歳ごろから、夫婦喧嘩が激しくなった。原因はほとんどが父親の浮気だった。家は裕福ではなく、黒川さんは押し入れを2段ベッドのようにして上段で寝ていた。下には3歳下の妹がいた。喧嘩が始まると最初は様子をうかがい、激しくなると顔を出して「やめて」と泣き叫んだという。幸い父親が黒川さんを殴ることはなく、泣き叫ぶと気まずそうに喧嘩をやめた。しかし女性関係は直らなかった。最終的に父親は飲み屋の女性と親しくなって家を出て、離婚して再婚した。その女性との間に14歳下の異母弟がいる。

母親は昼間に午後4時ごろまでのパートをし、夜には内職をした。黒川さんがよく覚えているのは、夕食のころに車が来て、スーツのような服が何百着も届く光景だ。ボタンやチャックを付ける仕事で、1つ付けても1円にもならないだろうと黒川さんは振り返る。ただ、ひどい貧乏ではなかったという。住んでいた家は祖母の兄弟たちが建てた物件で、生活費の代わりに家賃を払わずに済んでいた。市内のど真ん中で家賃がかからないことは大きかったと黒川さんは言う。

父がいなくなって「自由になった」少年時代

父親がいなくなったことについて、黒川さんは「逆に自由になった」と感じていた。小学3年生で野球を始め、水泳もしていた。5、6年生になると体も大きくなり、喧嘩でもそう負けない自信がついた。そのころから少しずつ道を外れ始め、5年生で万引きもするようになった。

背景として黒川さんが挙げるのは、母親が心配性だったことだ。子どもとしては信用してほしいのに母親は心配する。それがうっとうしく、構われるほど「100倍返し」で暴言を吐いた。本心ではないことまで言っていたという。母親はすぐ泣いたが、逃げたり、食事を作らなくなったり、仕事をやめたりすることはなかった。黒川さんは、自分はその愛情に甘えていたのだと振り返っている。

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盗んだ単車から暴走族「城東連合」へ

中学1、2年までは野球を続けていたが、やめると隣町の不良と付き合うようになり、単車の乗り方や盗み方を教わった。進学した中学はかなり荒れた学校だった。黒川さんが小学6年生のとき、中学の先輩が単車で小学校に乗り込んでくることもあった。最初は驚いたが、だんだん慣れていった。タバコは当たり前になり、原付の直結から始まって、盗むバイクは50cc、100ccと大きくなっていった。

単車に乗っていると、すでに卒業した先輩たちが暴走族をやっていて、卒業すると「一緒に来い」と誘われた。地元の暴走族「城東連合」は、上の世代にいったんあったものが消滅し、黒川さんの1学年上の先輩たちが復活させた。その初代が立ち上がり、黒川さんたちは2代目にあたる。第2次ベビーブーム世代で人口がそもそも多く、多いときには100台ほどになった。黒川さんは出身中学の支部で特攻隊長を務め、前の方を走った。走るときはスピードを出すのではなく、集団でゆっくり走る。パトカーが来ると前に行かせないようにし、最後は細い道やパトカーが入れない場所に誘導して逃げた。他の地域の暴走族との小競り合いはあったが、黒川さんの知る限り表立った大きな衝突はなかったという。

暴走族を見に交差点に集まるギャラリーの中には、中学2、3年生だった妹もいた。妹はいつの間にか金髪になり、高校には行かなかった。黒川さんは「僕のせい」だと言う。ただ妹は中学卒業後にスナックで働き、そこで知り合った今の夫と、3人の子どもと仲良く暮らしている。すぐに更生したという。

少年院に行かなかった理由と母親の存在

中学卒業後は働かず、夕方まで寝て、夜に起きて朝近くまで暴走する生活だった。芋づる式に大がかりな一斉検挙を受けたこともある。乗っていた単車のほとんどが盗品だったためそれも発覚し、母親はかなりの被害弁償を払ったと黒川さんは考えている。

それでも黒川さんは少年院には入っていない。交通関係で保護観察を2回受けただけだった。理由として黒川さんが強調するのは、捕まるたびに母親が家庭裁判所に来て「私が悪かった、きちんと指導し直すので少年院は許してほしい」と言ってくれたことだ。大きな罪を犯せば別だが、窃盗程度であれば、家庭裁判所は親の存在や更生できる環境がどれだけあるかをよく見ると黒川さんは言う。少年事件ではこの違いが非常に大きいというのが黒川さんの考えで、この点は後半の支援の話にもつながっていく。

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引退式3回、そして山口組の三次団体へ

当時はヤンキーが流行っていた時代で、高校卒業の18歳までは許されるが、それを過ぎてもふらふらしているのは格好悪いという空気があった。黒川さんは未練が強く、引退式を3回もやった。後輩を引き連れて走り続けていた黒川さんに「そろそろ腹をくくれ」と声をかけたのが、城東連合の初代総長だった。

この初代総長はすでに暴力団に入っており、当時は三次団体の組長の秘書をしていた。19歳から人夫出しを始め、元請けから1人あたり1万5000円から1万8000円を受け取り、黒川さんたちには8000円や9000円で働かせて差額を取っていた。競馬の「呑み屋」もしていた。正規のレースの結果を使いながら、JRAではなく組織の人間が馬券を引き受ける。客にとっては100円分を90円で買えるうえ、ツケも利く。ツケにさせた方が客をはめやすいのだという。頭が良く、勢いもあったので親分たちにかわいがられ、出世していった。

黒川さんも引退式を3回やって後輩を連れ回すのはそろそろまずいと感じていた時期で、「決めてやります」と応じた。入ったのは山口組系の三次団体である。母親にはさすがに言えなかった。

部屋住み6カ月と「使いっぱしり」の日々

入るとすぐに部屋住みが始まった。組事務所に住み込み、組織の最低限の作法を学ぶ期間で、組によっては1年、2年かかるが、黒川さんの組は6カ月だった。外には出られず、成人式にも出させてもらえなかった。半年も帰らなければ母親が心配するため、出る前に「仕事で半年行くから心配しないで」とだけ言い、荷物を持って家を出た。

仕事は電話番、お茶くみ、親分や来客の食事作り、事務所の前の掃除などだった。防犯カメラで車が止まるのを見ると飛び出して、ドアを開けに行く。寝るのは事務所の大きな和室で、環境としては「一応いい事務所」だったという。夜中に親分たちが麻雀をしている間は、後ろにずっと立って灰皿を替えたりコーヒーを入れたりした。部屋住みの間は犯罪どころではなく、ただの使いっぱしりだったと黒川さんは言う。一緒に入ったのは、引退式を共にした「兄弟分」だった。組員は50人もいなかったが、繁華街の京橋が地盤で羽振りは良く、若い黒川さんたちは重宝された。

部屋住みを終えると、黒川さんはいったん実家に戻った。母親は何も言わなかった。しばらくは実家から通う組員だったという。

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「いい思いをした記憶は1つもない」兄貴分の暴力

組員として通うようになると、黒川さんは初代総長だった兄貴分の一番近い部下になった。兄貴分は本部の親分の秘書になって忙しく、黒川さんは運転手を務めながら「これをやっておけ」「何時に起こしに来い」といった用事に追われた。家にはほとんど帰れなくなった。

黒川さんは「いい思いをした記憶は1つもない」と言う。毎日のように殴られた。兄貴分はせっかちで渋滞が大嫌いだった。神戸に弁当を届けるときに阪神高速が混んでいると、救急車が来たときのようにクラクションを鳴らして前の車をどかせろと言う。当時は目立つ車に乗っていたので、たいていの車はヤクザが来たと思って避けた。避けない車があると、降りて運転手を引きずり出せと命じられる。それをしなければ黒川さんが殴られた。起こしに来いと言われて起こしに行ったのに殴られることもしょっちゅうだった。「殺したいと思うときも、正直ありましたよ」と黒川さんは語る。

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覚醒剤との出会いと組織のタブー

そんな時期に、地元の中学の2学年下で当時17歳の後輩が「いいものがある」と夜中に声をかけてきた。出てきたのは覚醒剤だった。しんどい、やめたい、殺したいと思っていた時期でもあり、黒川さんはいきなり注射で打った。「スーパーサイヤ人みたいに」髪の毛が逆立つかのような感覚で、はまったという。

しかし兄貴分は覚醒剤を嫌っていた。山口組も、隠れて使う人は多いものの、表向きは覚醒剤をご法度にしている。使うと食事がとれなくなるため、やりすぎると気づかれる。黒川さんは兄貴分がいない隙を狙い、月1回程度に抑えていた。バレたら殺されるという恐怖の方が勝っていたからだ。給料はなく、小遣い程度しかもらえなかった。今振り返ると勢いで入ってしまったという思いが強く、部屋住みの6カ月間から毎日、どうすればやめられるかばかり考えていたという。

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兄弟分の逮捕、逃亡、そして指を落とす

黒川さんが覚醒剤を教えた兄弟分も使うようになっていた。兄弟分は三次団体の親分の運転手で、親分は当時逆輸入されたばかりのセルシオ(レクサス)に乗っていた。親分を送り届けた後、駐車場に入れるまでの間は自分で乗れる。19、20歳でその車に乗れるのがうれしく、兄弟分は自分の車のように大阪・ミナミを流していた。そこで職務質問を受け、ダッシュボードから覚醒剤が見つかった。兄弟分は逮捕され、車も警察に押収された。

その知らせを兄弟分の彼女から聞いた瞬間、黒川さんは殺されると思った。ご法度の覚醒剤が親分の車から出てきたのである。13歳からずっと一緒にやんちゃをしてきた兄弟分の覚醒剤使用を知らなかったとは言えない。それまでのやめたいという気持ちも重なって、何かがぷつんと切れ、黒川さんは逃げた。

潜伏先は大阪府豊中市にあった。口の堅い後輩2、3人にだけ連絡し、食料やお金を運んでもらった。地元では覚醒剤がかなり出回っていて、来る後輩たちとも一緒に使った。それが3カ月ほど続いた。兄貴分や親分という怖い存在がいなくなり、歯止めが利かなくなった。1回打つと24時間、追い打ちをすれば30時間ほど眠れず、食事もとれない。鏡を見るとひどく痩せていた。

黒川さんはこのままではまずいと考えた。親分の車を押収されたのは兄弟分で、自分は覚醒剤を使っていたこと自体はだめだが、組に直接の迷惑はかけていない。逃げているのがばかばかしくなり、地元にも帰りたかった。そこでけじめをつけることにした。後輩に頼んで、マグロの骨も落とせるような出刃包丁を8000円ほどで買ってきてもらった。黒川さんは以前、兄貴分が指を落とすのを手伝ったことがあり、作法を知っていた。そのときと同じやり方で左手の小指を落とした。裏の情報で知っていた、そうした処置をしてくれる病院で縫ってもらい、兄貴分に電話した。

すぐに来いと言われて出向き、謝罪したうえで、組をやめたいと切り出した。半殺しにされる覚悟だったが、そうはならなかった。逃げている間に聞いた話では、兄貴分は周囲に「俺はやりすぎた」「あいつには迷惑をかけた」と漏らしていたという。黒川さんは、ずっとそばにいた人間が急にいなくなって寂しかったのだろうと推測している。説得はされたが、最終的には破門とし、二度と裏の業界と関わらず、地元で普通に働くことを条件に足を洗うことが認められた。22歳になる直前で、組にいたのは2年半ほどだった。

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足を洗っても変わらなかった気性と「グレーな仕事」

約束どおり、友人の紹介で道路のアスファルト舗装の会社に就職した。時間ではなく「ここまでやったら終わり」という仕事が向いていたようで、昼夜働けば日当3万5000円ほどになることもあり、それなりに満足していた。それでも覚醒剤はやめられず、休みの日に月1回程度、自分への「ご褒美」として使っていたという。

気性も変わらなかった。クラクションを鳴らされればすぐ車を降りる。23歳ごろ、肩がぶつかった相手に「兄ちゃん、痛いのう」と言われ、過剰にやり返した。1週間後、自宅に警察が来て留置場に連行された。成人後の初犯で、母親が保釈金をかき集めてくれたため勾留は長引かずに保釈され、判決は傷害で懲役1年、執行猶予3年だった。

執行猶予中には、留置場で知り合った相手などから「いい仕事がある」という話が回ってきた。特殊な携帯電話を発信状態にしてパチンコ台のそばに置くと、電波の影響で台が誤作動し、デジタルが回り続けるという手口だった。情報を持ってきた人物はヤクザではなかったが、売り上げの3割を持ってくるよう求めた。10万円や15万円稼いだときにきちんと3割を渡していると、ごまかす人間が多い中で信用され、さらに情報が回ってくるようになった。そうなると真面目に働けなくなり、舗装の仕事もやめてしまった。こうした仕事は、ネタが途切れた時期を挟みながら27歳ごろまで続けたという。

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長男の誕生と美容室経営の始まり

当時一緒に暮らしていたのが、現在の妻である。8歳下の地元の後輩で、ヤンキーになったばかりの時期に、高校に行かず黒川さんのところに住みつくようになった。結婚生活は約30年になるという。覚醒剤は妻にだけは絶対に知られないようにし、使う日は出張だと言ってホテルにこもっていた。

黒川さんが27歳、妻が19歳のときに妊娠がわかり、28歳で長男が生まれた。初めて父親になり、わが子は想像以上にかわいかった。さすがにこのままではいけないと思い、多少の貯金をもとに、一緒にやんちゃをしていた後輩に「そろそろやめよう」と持ちかけた。後輩はもともと建築の会社を持っていたので、それを法人化し、黒川さんは役員になった。

その頃、美容師の友人が独立したいが勇気もお金も必要だと話していた。損得で生きていた当時の黒川さんは「儲かる」と考え、自分がお金を出すので会社の美容部門として店長をやってほしいと提案した。千林の手前の地域に13坪ほどの小さな店を借りて準備を進めたが、開店前にその美容師と揉め、相手はやめてしまった。店舗も決まり、資金も投じていたため、黒川さんも意地になって美容師を募集した。4人が応募し、アルバイトも含めて全員を採用した。

黒川さんはお金だけ出して任せるのは嫌で、受付に立っていた。その中で、7歳年上の男性美容師だけが素人目にもずば抜けていた。仕上がりを鏡で見る客の表情が違ったという。その人を店長にすると店は一気に繁盛し、黒川さんは初めて接客業を楽しいと感じた。それでも当時は損得しか考えておらず、すぐに後輩に物件を探させ、大阪市福島区の商店街にセット面10台、シャンプー台3台の中型店を出した。これも大当たりし、1日に50人を断った日もあったという。

46:11

母の死と「生き直し」

3号店の出店を準備していた年末、病院から電話がかかってきた。母親が急に倒れ、集中治療室にいるという。1週間前に普通に会ったばかりだった。駆けつけると母親は横たわったままぴくりとも動かず、黒川さんは泣き叫んだ。親孝行らしいことは何もしておらず、孫を2人見せたくらいだった。都合のいいときだけ神様に頼むようにして回復を祈ったが、母親は20年前の12月30日、59歳で亡くなった。

黒川さんは、母親の愛情はほとんど無条件だったと言う。妻であっても何らかの条件はあるが、母親の子どもへの愛は条件抜きに近い。そういう人が世界に1人もいなくなったとき、強い不安に襲われた。35歳で経営者としてそれなりに成功しているつもりだったが、結局はまだ母親から自立できていなかったのだろうと黒川さんは振り返る。ショックと申し訳なさで食事がとれなくなり、覚醒剤を使い続けていたときのように7キロほど痩せた。

それでも、いくら泣いても母親は戻らない。家から注射器が出てきても、傷害で逮捕されても、母親は最後まで味方でいてくれた。そう自覚している黒川さんは、自分が7キロも痩せたら母親が心配すると考え、残りの人生は母親に恥ずかしくないようにまともに生きてみようと決めた。どう変わればいいかわからなかったので、ゴミ拾いやトイレ掃除、靴をそろえるといった、それまでやったことのない行動から始めた。

本屋でも、それまでは金儲けの本しか手に取らなかったが、このとき京セラ創業者・稲盛和夫氏の『生き方』が目に留まった。会社は金儲けのためではなく、世のため人のため、従業員の幸せのために経営するものだという考えに、黒川さんは衝撃を受けた。本には仏教の「自利」と「利他」という言葉が出てくる。自分は自利でしか頑張ってこなかったと気づいた。以前なら響かなかっただろうが、母親を亡くして心がまっさらになっていたので素直に入ってきたという。稲盛氏がボランティアで開いていた「盛和塾」に入り、12、3年ほど在籍した。そこで関わる人たちが変わり、東北の復興支援で子どもたちに笑顔を届ける活動にも参加した。まだいい人ではないが、感謝されるうちに少しずつ「いい人」のような気持ちになっていったと黒川さんは語る。

このころ美容室は4店舗ほどになっていた。子どもの問題に関心を持っていた黒川さんは、大阪にも児童養護施設で保護されている子どもが大勢いると知り、すぐ施設に電話してボランティアのカットを申し出た。毎月スタッフ3人を連れて通い、約6年続けた。

52:27

千房会長との出会いと職親プロジェクト

転機になったのは、大阪のお好み焼きチェーン・千房の会長の講演だった。勉強のつもりで聞きに行くと、会長が元受刑者や少年院出院者を雇用していると話した。大阪でも大きなチェーンがそうした人たちを雇っていることに黒川さんは驚き、普段は消極的なのに、講演後すぐ会長のもとへ行って感動を伝え、名刺を交換した。自分にも昔とんでもない経歴があると少しだけ話した。1週間後に電話があり、少年院や刑務所を出た人の再犯を防ぐ「職親プロジェクト」のメンバーにならないかと誘われた。13年前のことだ。

活動は刑務所や少年院に出向き、面会や2時間ほどの講演をするところから始まった。黒川さん自身は刑務所に入ったことはない。講演を続けると「黒川さんのところで働きたい」「美容師になりたい」という応募が来るようになった。

黒川さんによると、再犯率は47%で、再犯者の7割が無職だという。だから就労支援は非常に重要になる。一方で、元不良の黒川さんの周りで何度も捕まる人たちを見てきた経験から、共通点は地元に戻り、同じ友人関係と環境を変えないことにあると考えた。そこで仕事に加えて、環境を変えるための住居、さらに自分がさまざまな場所で学んで物事を考えられるようになった経験から、再教育が必要だと考えた。美容室の会社「プログレッシブ」とは別に、仕事、住居、教育の3つを支援する会社として「良心塾」をつくった。

職親プロジェクトの会議でも黒川さんは、仕事の支援だけでは絶対にだめで、就労と福祉の間にあたる中間的な施設がなければ、いきなり雇っても失敗すると訴え続けた。しかし企業側は「その間の経費をどうするのか」となり、なかなか進まない。そのため黒川さんは独自に中間的な支援を続けていた。職親プロジェクトは日本財団のプロジェクトで、その部長が黒川さんの活動を見ており、中間施設はとても大事だから全体でもやらないかと声をかけてくれた。日本財団から多額の支援を受け、ぼろぼろの3階建ての賃貸物件をリニューアルし、法人化して株式会社良心塾として拠点を移した。関わった人数は100人を超えるが、実際に雇用したのは20人以下だという。美容室や居酒屋などで雇用してきた。寄せられる依頼の多くは、雇ってほしいというより、1人を更生させるのは大変なので支援してほしいというものだという。

57:26

支援の現場で出会った「虐待を受けた子どもたち」

黒川さんが「今回いちばん訴えたい本筋」として語ったのがこの点だ。黒川さんの時代に少年院や刑務所に行くのは、反射的に他人に暴力を振るうような活発な若者が多かった。ところが活動を始めて最も衝撃を受けたのは、幼少期に虐待を受けた人が非常に多いことだった。熱湯をかけられた、1週間食事を与えられなかった、義理の父親から性暴力を受けたといった、日本でこんなことがあるのかと思うような体験をした子ばかりだったという。

そうした子たちは他人に暴力を振るうのではなく、リストカットやオーバードーズなど自分を傷つける。少年院を出るのが不安だ、社会に適応できる自信がないと訴える。黒川さんの時代には、少年院を出たくない不良などいなかったし、人としての尊厳を踏みにじられるほどの虐待を受けた仲間もいなかった。彼らは「死にたい」と言い、やる気が出ず、お金を稼ぐことにも興味がない。

昭和の人間である黒川さんは当初、「少年院や刑務所に行ったかもしれんけど頑張ろう、頑張れば結果は出る」と思いだけで接していた。それがはまる子もいたが、黒川さんによれば、愛着障害や発達障害を抱えたネガティブな子がほとんどで、いきなりそうした働きかけをすると逆効果だった。当時の黒川さんにはそれがわからなかった。うまくいったと思った矢先にいなくなる子もいれば、再犯した子も4人ほどいるという。

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養女と、その夫の再犯

8年前、黒川さんは17歳の少女を少年院から受け入れた。虐待家庭に育ち、家庭は機能不全の状態で、父親が3人も4人も変わった。施設を行き来しながら虐待を受け、罪は重くなかったが15、16歳で少年院に入った。来てからもリストカットを繰り返し、夜中の2時や3時に血まみれの写真をLINEで送ってきた。黒川さんはこれを、夜中でも来てくれるかを試す「お試し行動」だと説明する。それが延々と続き、黒川さんにとってもつらかった。愛着障害のため、他の子が入ってきて自分だけを構ってもらえなくなると、あの手この手で出ていこうとした。心の傷がかなり深かったため、黒川さんは彼女が20歳のときに養女にした。

彼女の夫も刑務所を出た人で、厳しい環境で育ち、出所後は千房で働き、その後黒川さんのところの教育の場に通っていた。そこで彼女と知り合い、現在6歳、4歳、3歳の子どもがいる。来た当時より人格形成も愛着形成もだいぶ整ってきたと感じていた矢先、夫が再犯した。

もともと車上荒らしのような犯罪で服役していた人で、出所して千房を辞めた後は黒川さんのところで働き、父親としてもきちんとしていた。とても真面目で、一番再犯しないと思っていたという。ところが約2年半前、警察が来て、何件かの犯罪に関わっている可能性があると告げられ、実際に関わっていた。当時一番下の子は生後3カ月だった。罪を犯したことはだめだが、子どもが小さく、出所から7、8年たっていることもあり、黒川さんたちは被害弁償をして執行猶予を得られるよう尽力した。弁護士は刑務所に行くかどうかは半々だと見ていた。ところが裁判が終わるまであと2カ月ほどというとき、保釈中に再び逮捕された。

なぜやってしまったのか。黒川さんは、子どもが3人いて稼いでもらわないと困るという妻側の事情など、いろいろあったのだろうと推測するにとどめている。前科があり、しかも裁判中だったにもかかわらずである。

1:04:00

「寄り添い型の支援では脳は成長しない」

この件で、黒川さんは教育の師匠にあたる原田塾長に連絡した。そこで言われたのは、寄り添い、人と出会わせ、仕事の機会を与える黒川さんの支援はすごいが、寄り添い型の支援では心は安定しても脳は成長しない、ということだった。本当に再犯を防ぐには、トラブルや困難にぶつかったとき、これまでとは違う考え方で、法の範囲内でどう解決するかという能力を身につけさせる必要がある。それが本当の教育であり、黒川さんがやっているのは教育ではなく指導と支援だ。それも必要だが、それだけではだめだと言われたという。

原田塾長は「心のスポンジプログラム」という教育プログラムで特許を取っている。黒川さんの説明では、生きづらさを抱える人には共通する脳の癖があり、特に幼少期に不遇な環境にいた人はそれが扁桃体に染み込んでいる。プログラムはそれを改善するためのもので、受刑者だけでなく、社員の離職や人間関係のトラブルなどの解決にもつながるという。ある少年刑務所ではすでに実施されており、95人が受講した。5年間追跡している中で再犯は現在0だと黒川さんは話している。

1:06:18

漢字の「変」から考える教育

方法について黒川さんは、考えさせる教育だと説明する。学校教育は正解のある答えを記憶させる偏差値重視だが、このプログラムは教材と講師の問いかけによって、これまで使っていなかった脳を使う方向へ自然に持っていくという。黒川さんの説明では、本来は扁桃体の反応の後、前頭前野が「ここで殴ったら捕まる」「カメラもある」といった理性的なブレーキをかける。しかしカッとなる人は、その信号が届く前に手が出てしまう。リストカットする人にも同じ共通点があるといい、そこを鍛える。脳トレに似ているが、まったく違うものだという。

具体例として黒川さんは「変わる」という漢字を挙げた。黒川さんによると「変」の由来は関係性を断ち切ることだという。人は普段何も考えず経験だけで自動的に暮らしており、由来を知らないまま「変わりたい」「変わりました」と言っている。では関係性を簡単に断ち切れるかと問われると、親との関係のように切れないものが多く、できないと答える人が多くなる。そこで「じゃあ何ならできるのか」と考えさせると、時間はかかるが、ほとんどの人が最終的に「成長」にたどり着く。人は変われなくても成長はできる。昨日1段しか跳べなかったのが2段跳べるようになる、といった形ならイメージできる。普段考えないことを、まったく違う方向から考えていく訓練の一例だという。

このプログラムは学研とコラボして教材も作っており、今後全国の少年院や刑務所への配布を目指している。ただし教材を使いこなす指導者が必要で、黒川さんと、取材に同席した社団法人の代表がその指導者として広めていく考えだ。黒川さん自身、組をやめて一般人になってもカッとなる癖や自分中心の考え方は変わらなかった。自分はたまたま母親の死というきっかけがあったから変われたかもしれないが、そういうきっかけはなかなかない。それを教育で再現できる仕組みを作ったのが原田塾長だ、と黒川さんは位置づけている。

1:10:47

家族の支えという分かれ目と、負の連鎖を断つこと

全員を養子にしてつきっきりで支えることには限界がある、と黒川さんも認める。最終的なゴールは自立だ。家庭環境に問題を抱えながら、養子縁組などをせずに自立した人も大勢いる。黒川さんのもとを円満に離れた形ではなくても、辞めた先でいい場所を見つけて更生している人もいるという。

更生が早い人の共通点として黒川さんが最も確かだと言うのは、家族の存在だ。刑務所に入っていても迎えに来て、職親プロジェクトに預けながら一緒に暮らしたり応援したりする父親や母親、身内がいる人は更生が早い。これは黒川さんのところだけでなく、職親プロジェクト全体でも見られる傾向だという。ただ、良心塾に来るのはほとんどが身寄りのない人たちだ。家族の協力を得られない人たちをどう支えるかは社会の課題だと黒川さんは言う。

この活動は「天命なんでしょうね」と黒川さんは語る。少年院や刑務所に行くことにはそれなりの意味があるのかもしれないが、行くということは、単独の犯罪以外ではほぼ必ず被害者を出している。子どもたちを被害者にも加害者にもしたくない。自分たちの活動は物事が起きてからの対症療法であり、家庭環境や教育が変われば少年院や刑務所に行く子は必ず減ると黒川さんは考えている。未然に防ぐ側の取り組みは他の人たちが頑張っているので、自分は負の連鎖を止める側を担う。ここで立ち直った人は、自分の負の連鎖を子どもや周囲の次の世代に受け継がせない。それは対症療法でありながら、未然防止の1つにもなっていると黒川さんは言う。

黒川さんには実の子どもも3人いる。自分は中卒で勉強を教えたわけでもないが、安心して暮らせる環境と、妻をはじめ優しい人たちに囲まれて育ったことで、息子たちは犯罪をしなくても生きていけるとわかっているはずだと言う。孫たちも、やんちゃくらいはあるかもしれないが、テレビをにぎわせるような犯罪を起こすことは「100%ない」と言い切れるという。立ち直った人たちが父親や母親になれば、自分の子どもを虐待しない。それをみんなに広げていきたいと語った。