母のダイナマイト心中、エロ雑誌、パチンコ、3億円の借金――末井昭が語る「ネガティブをポジティブにする」人生
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜『ウィークエンドスーパー』『写真時代』『パチンコ必勝ガイド』などを手がけた編集者の末井昭さんは、自分で作った雑誌を「全然売れなかったものも入れて14冊ぐらい」と数える。このインタビューで末井さんは、小学1年生のときに母親が不倫相手とダイナマイト心中した出来事から、工場労働、キャバレーの宣伝部、エロ雑誌の編集、発禁、うつ、パチンコ、そして3億円を超える借金とギャンブルまでを語った。それらの経験を人に話し、文章に書くようになったことで、末井さんは「ネガティブなものをポジティブにする」という考えに行き着いたという。
鉱山の村と、ダイナマイトで死んだ母
末井さんは岡山県の山あいの村で育った。近くに鉱山があり、父親はそこで働いていた。鉱山ではダイナマイトを使うため倉庫があったが、管理は緩く、鍵もかかっていなかったらしい。母親はそこからダイナマイトを持ち出したのだろう、と末井さんは推測している。
母親は結核を患っていた。末井さんが3歳ぐらいのとき町の病院に入院したが、当時は薬がなく、治らずに亡くなる人が多かったという。病状が悪化して治る見込みがなくなり、家に戻ってきた。その頃、隣の家の息子で23歳ぐらいの若い男が家に出入りするようになる。母親は30歳ぐらいで、父親は昼間は鉱山、末井さんは学校に行っていた。3歳下の弟はまだ赤ん坊だった。
母親と父親は大喧嘩になり、火鉢を投げつけ合うほどだった。末井さんは、男がしょっちゅう来ていたことが原因だろうと見ている。母親は家を飛び出したまま帰らず、父親は親戚を回るなどして1週間ほど探したが見つからなかった。やがて山仕事をしていた人の連れていた犬が吠え、その方向へ行くとバラバラになった遺体があった。ダイナマイトで爆発したのだと末井さんは語る。警察が来て大騒ぎになり、新聞にも載った。
母親の気持ちについて末井さんは、どうせ死ぬのなら、という思いもあったのかもしれないと推し量っている。
「うつる」と言われた子ども時代
母親の死後、村では噂が広がった。母親が結核だったため、末井さんも結核だと思い込む人が多く、「近寄るとうつる」と言われて友達ができなかった。体育の時間にソフトボールをしても、末井さんが持ったバットを誰も持とうとしない。それ以来、自分はバットを持ってはいけないのだと思い、見ているだけになった。暇なので、嫌いな相手の顔を描いて「死ね」と書いたりしていたという。こうした状況は母親が亡くなった後からだと末井さんは話す。
父親は母親の死後、自暴自棄になって家に引きこもった。酒はあまり飲まなかったが昼間から寝ているだけで、末井さんたちが「働けよ」と言うと「なんでわしだけ働かすんじゃ」と返したという。
中学校は二つの小学校の生徒が合流したため、知らない人もいて、小学校の頃よりは居心地がよくなった。それでも運動には参加しづらく、末井さんが入ったのは園芸部だった。部員は女子ばかりで男子は自分一人だったが、意外と溶け込みやすかったと振り返る。
1年ほどして父親は再婚した。末井さんは新しい母親を「おばさん」と呼び、なじめなかった。亡くなった母親はいつも着物を着たおしゃれな人で、農作業で日焼けした村の母親たちのなかで、病室にいたため色が白く、授業参観に来ると一人目立っていた。「自慢したい母親」だったと末井さんは言う。
それでも、この出来事は長く人に言えなかった。高校でも話せず、社会に出てからも、話すと変に思われると感じていたという。
工場労働と父親、最初の妻
高校卒業後、末井さんは三菱のトラックを作る工場で働いた。地元に働き口がなかった父親は派遣会社を通じて都会に出ており、会社が手配したアパートに住んでいた。行くあてのなかった末井さんはそこに転がり込んだ。
インタビュアーが「いいお父さん」と言うと、末井さんは「考えてないよ」と否定する。父親は息子が三菱の正社員になったことを周囲に自慢して回っていたはずだ、と末井さんは見ている。後に父親が田舎に帰ってからは、金を送ってくれという手紙ばかり届いた。字がにじんだ箇所に丸をつけて「涙の跡」と書いてあり、末井さんは「アホか」と思ったと笑う。
最初の妻とは、一軒家の下宿で出会った。末井さんが入居したとき、その女性はすでに離れを借りていた。冬に牛乳配達をしていて手がかじかむほど寒く、電気ストーブを買ってきてつけたところヒューズが飛び、夜中に真っ暗になった。すると離れの女性が「うちに電気こたつがあるから来ませんか」と声をかけてくれた。こたつで話すうちに親しくなり、一緒に暮らしたいと思うようになったという。
ところが父親が、末井さんの留守中にその女性を襲おうとした。未遂に終わったらしく、彼女本人から聞かされて発覚した。末井さんは情けなくなり、自分もそういう血を引いているのかと思うとおぞましい気持ちになったと語る。これもあって二人は引っ越した。
デザインの挫折と、全裸で街を走った夜
末井さんはデザイナーを志し、工場で働きながら青山デザイン専門学校の夜間部に入った。しかし入ってすぐ学生たちが学校を封鎖し、授業に入れなくなったため辞めた。新聞の募集欄でディスプレイ会社を見つけ、面接に行くとすぐ採用された。
そこで末井さんは「表現」にこだわるようになる。女性向けにボウリング場の装飾を頼まれたとき、普通なら可愛くきれいなものを考えるところを、女性は化粧で仮面をかぶっている、もっと本質を表さなければだめだと考え、おどろおどろしい看板のようなものを作った。周囲には嫌がられたという。
同じ職場の友人がキャバレーチェーン「ハワイ」に移り、作ったポスターを見せてくれた。黒い太陽を背景に、男の前でひざまずく女性がいて、周囲のハイビスカスがすべて男性器の形になっている。こんなデザインができるのかと感心し、末井さんもキャバレーの世界に移ることにした。入ったのは「クインビー」の宣伝部だった。
だがここでも、末井さんが考える妖しいチラシやポスターは、係長や課長に怒られた。求められていたのは、可愛い女の子がセクシーに「いらっしゃい」と言うようなものだった。キャバレーにはキャバレーの表現しかないと感じた末井さんは、親しくなった社内のカメラマンに撮影を頼み、ストリーキングをする。昼間は捕まるので明け方に、裸で街を走り、路上で赤いペンキをかぶって転げ回り、道路に自分の体で絵を描いた。表現の場を閉ざされたことによる「爆発」であり、誰も評価してくれないことへの反発だったと振り返る。そのときの気分を問われると「気持ちよかった。世界を相手にしてるような気がした」と答えている。
妻に養われた日々から出版の世界へ
キャバレーを辞めて無職になると、工場で働く妻に養ってもらう生活になった。夜中に本を読んでいるので起きるのは9時か10時で、妻はもう出勤している。机の上には300円ほどの小銭と、卵、納豆、キュウリといった買い物のメモが置いてある。それを持って近くのスーパーに行き、帰ってくる。虚しくて泣けてきたという。
その頃、親しかった喫茶店の店長が池袋のピンクサロンに就職し、末井さんに看板描きを頼んできた。さらに、キャバレー時代にストリーキングを撮影したカメラマンが出版社に就職し、「4ページ、好きなように書いていい」と原稿を依頼してきた。末井さんはこれを出版との出会いであり、ようやく自分の表現ができる感覚を持てたと語る。媒体はビニ本だったという。
そこで出会った出版社の社長は、ビニ本ではなく、書店で定期的に売れるエロ雑誌を作りたいと考えていた。末井さんは原稿の依頼、レイアウト、カメラマンへの撮影依頼まで一人でこなした。やがて社長は正式な出版社を立ち上げることにし、末井さんに共同設立者として加わるよう求めた。末井さんは編集長として最初の雑誌『ニューセルフ』を作った。
『ニューセルフ』は1年ほどで発禁になった。女性作家の連載小説の性描写に露骨な言葉が並んでいたのを警察が読み、36か所を猥褻な文章だと指摘したのがきっかけだったという。
『ウィークエンドスーパー』から『写真時代』へ
代わりの雑誌として、末井さんは映画誌を作ろうと考えた。しかし出来上がったのは映画誌にはならず、サブカル誌のようなものだった。売るためにカラーのエロ写真も入れていた。夏にはスイカ特集を組み、スイカとセックスする男をでっち上げてインタビューした。末井さんはこれを「一番くだらない」企画として挙げている。映画誌と言いながらはっきりしない雑誌だったため、次第に売れなくなった。
そこで「売れる雑誌」として作ったのが『写真時代』である。末井さんによれば、最初の企画書には「エロ」の字もなく、新しい写真誌を打ち出すものだった。当時はカメラメーカーと組んで宣伝ばかり載るカメラ誌が多く、つまらないと感じていたという。
最も面白かった取材相手として末井さんは写真家の荒木経惟さんを挙げる。荒木さん一人いれば雑誌ができると考え、荒木さんだけの月刊誌を構想したが、本人に相談すると「それ作っても売れないよ」と言われ、ほかの要素も入れて作ることになった。面白い写真を撮る人を探して依頼し、女の子をナンパしてホテルで撮影するカメラマンには、末井さんが名前をつけたという。
ノーパン喫茶の取材も話題になった。大阪のある店は地下を掘り、天井にマジックミラーを張って下から女の子を見上げられるようにしていた。店名は「スカートの中まる見え」を逆さに読んだものだった。末井さんが「まずいんじゃないですか」と言うと店側は「大丈夫ですよ、考えてますから」と答えたが、取材の1週間ほど後に警察が入った。女の子たちが着用を求められていた下着を嫌がって外して歩いていたところに、警察が来たのだという。棺桶の形をした個室の店など、ほかにもさまざまな店があったと末井さんは語る。
「本当のエロは保守的」
インタビュアーが、末井さんはエロが好きだったのかと尋ねると、答えは「好きじゃない」だった。末井さんの考えでは、読者を欲情させるエロには一つの方程式しかなく、非常に保守的なものだという。例えばヌードの女性がはくパンツの色は、黒は駄目、赤も駄目、白ならいい、というように一つに集約されていく。それをなぞる仕事はつまらない。だからエロのページを作りつつ、サブカル系の面白い人に原稿を書いてもらうことで、売れることと面白さを両立させようとしたという。
『写真時代』も警察から何度も呼び出された末に発禁となった。荒木さんや、ラブホテルで撮影したカメラマン、ラブホテルの経営者、モデルなど、40人ぐらいが呼ばれたという。末井さんは、それを自分の責任だと受け止めていた。
発禁、うつ、そしてパチンコ
『写真時代』は末井さんにとって「大学のような雑誌」で、最終的には30万部を超えていたという。それがなくなったことに加え、前年にはプライベートで先物取引に手を出し、1000万円ぐらい損をしていた。結婚は続いていたが、交際していた社内の女性が8階から飛び降り、命は取り留めたものの重い障害を負った。こうしたことが重なり、末井さんはうつになった。ロリコン雑誌なども作ったが、ほとんど人任せだったという。
そんなとき、たまたまパチンコ店に入った。それまでパチンコはしたことがなかった。末井さんは「うつの人にはパチンコが合う」と断言する。誰とも話さず、一言も喋らなくても過ごせるからだ。そこから毎日通うようになった。いい台を取るため朝8時、9時に向ヶ丘遊園の家を出る。会社に行かなければと思いながら途中で降りては打ち、新宿で打ち、高田馬場の駅前で打つ。気がつくと夕方になっていて、外では人々が駅へ向かって帰っていく。そのとき末井さんは「これは仕事にするしかない」と思った。会社に大きな損害を出した以上、何か作らなければならない。それならパチンコ雑誌だ、と考えたのである。
『パチンコ必勝ガイド』はなぜ売れたか
出してみると売れた。末井さんは理由の一つにコンビニでの販売を挙げる。パチンコをする人は夜11時ごろまで打つが、当時の書店は7時、8時には閉まっている。何千円か負けて缶コーヒーでも買おうとコンビニに入り、そこにパチンコ雑誌があれば買うはずだ。自分がそうだったから分かる、と末井さんは言う。
内容面では、世間から白い目で見られがちなパチンコを真面目に論じ、攻略を考える雑誌があれば読まれるという確信があった。末井さんによれば、他誌には「毎日5万円勝っている」といった嘘が混じっていたが、そんなに勝てるはずがない。自分たちは本当のことを書き、執筆者が1日3000円ぐらいしか勝っていないと報告するような誌面だった。そのほうがリアリティがあり、読者に信用されたと末井さんは考えている。
当時の末井さん自身ものめり込んでいた。寝るときに目をつむると玉が飛んで見え、パチンコ台が女性の声で「もうすぐ出るのに」と話しかけてくるように感じたこともあったという。発売日の朝5時にはコンビニの前で読者が待ち、編集部には「今日15万勝ちました」といった電話がひっきりなしにかかってきた。『写真時代』のころは電話1本来なかった、と末井さんは笑う。
周囲からは「金に転んだ」とも言われた。しかし末井さんは、お金目当てで作ったわけではなく、面白ければいいと考えていた。『写真時代』が続いていればパチンコ誌への転向はありえなかったし、うつにもならず、パチンコもしなかっただろうとも語っている。
3億円の借金と競馬
ギャンブルの話は、雑誌の仕事で行った先での大穴から始まる。食事中に外で「大穴だ」と騒ぎが起き、確かめると自分が買った3連単が当たっていた。1万円買っていたため、3370万円ぐらいになったと末井さんは話す。ただし、トータルでは勝っていないという。
その1年ほど後、末井さんはマンション2戸と土地を買う不動産投機で、銀行からの借金が3億円を超えた。そこへバブル崩壊が来た。国がバブルを冷やすために規制をかけ、価格が一気に下がったと末井さんは説明する。
その頃、浅草でホームレスをしていた田中さんという人物と出会った。末井さんによれば、田中さんは初代の麻雀プロで、さまざまなギャンブルを経てホームレスになった人だった。田中さんの教えは「馬を見ろ」というものだった。どれだけ評価が高くても、運ばれてきた時点で疲れ切っているかもしれない、という。末井さんは最初100万円ほど持って競馬場に通い、1月だけでトータル700万円勝った。100万円で700万円なら1000万円持って行けば7000万円になるはずだと考え、10倍に増やして借金を返そうとした。ところが、そう考え始めた頃から当たらなくなり、競馬では結局1000万円ぐらい負けたという。
先物で1日600万円、闇賭博で一晩2000万円
先物取引では1日で600万円失った日がある。世界同時株安のときで、以前の損を取り返そうと再開した矢先だった。600万円の損を聞いた瞬間、魂がすっと抜けていく感覚があり、臨死体験に近いかもしれないと末井さんは言う。会社の人に話しかけられて返事をしても声が出ず、口だけが動いていた。ゾンビのように新宿の街を歩き、歌舞伎町のヤクザが営む金貸しから借りたこともあったという。
それでも人は取り返そうとする、と末井さんは語る。失敗から学んだ積み重ねがあるのだから、それを使わないともったいない、という気持ちになるのだという。
一方で、一晩で2000万円勝ったこともある。サイコロを使った闇賭博だった。だがその金も先物にすべて吸い込まれた。印象に残っているのは、勝った夜に店員が、店の金庫が満杯になったからとタバコを持ってきた場面だ。末井さんが吸っていたピースライトの10個入りを2箱、計400本で、計算すると1本5万円になる。「5万円か、これ」と思うと泣けてきたという。
書くことで変わった母親の記憶
会社を定年退職した後、末井さんはエッセイストとして本を書いている。『自殺』という本で講談社エッセイ賞を受け、それを弾みに依頼が増えたという。
本を書いて母親への考え方が変わったかと聞かれると、末井さんは「変わってはいない」と答える。母親を恨んでいるわけではなく、むしろあの出来事があったから本が書ける面もあるという。母親の話は映画にもなった。映画に関わった俳優の佑くんが母親の墓参りに行きたいと言うので、簡単な地図を描いて渡したところ、本当に岡山まで行ってくれた。途中で道に迷いながらも墓にたどり着き、手を合わせて写真を撮ってきた。その写真を見せられて末井さんは嬉しかったと言い、こんなハンサムな男が東京から来てくれたのだから母親も喜んでいるだろうと笑う。
末井さんは、母親が自分を動かし、本を書かせてくれているような感覚があると語る。社会に出てからしばらくは、この体験を誰にも言えず、自分はこうなのだというマイナス思考を抱えて辛かった。しかし人に話し、書くようになって、考え方が変わった。考え方や行動の仕方次第で、ネガティブなものはポジティブにできる。それが自分の中の一つのテーマだと末井さんは言う。
78歳の今
今いちばん楽しいのは、月2回ほどのバンド活動だという。楽器を鳴らしていると楽しいと末井さんは語る。
今後の夢を聞かれると、「この年になって夢なんかない」と答えた。78歳で、もうすぐ80歳になる。考えるのは、いつまでこの状態が続けられるかということだという。年を取るほど体のあちこちが痛くなり、視力も落ちてくる。目標は特にないが、今の状態がある程度死ぬまで続き、なるべく快適に生きて死ねればいい。それが目標だと末井さんは話している。
お母さんが、自分が小学生1年生の時に、不倫相手の男性とダイナマイトで心中した。そう、隣の家なんだけど、その息子さんが来て。若い人だった。23ぐらいの人で。1週間ぐらい探してたんですよね、親父が。犬がワンワンワンワン鳴くから、そっちの方に行ってみると、バラバラになったあれがあったんですよ。その死体が。
母親が肺結核だったんですよ。僕がバットを持つと、誰もそれを持たないんですよ。うわ、これ持つとうつるから。
父親は鉱山に勤めて、母親が死んでから、もうやけになって引きこもりですね。その付き合ってる彼女を襲おうとしたんですよ。いない時に来て。自分がそういう血を引いてるかと思うと、おぞましい。
ああ、どこみたいになったんですよ。だって寝る時に、もう玉がこう飛んだりしてるわけですよ。目つぶると。これ仕事にするしかないなという感じで、パチンコの雑誌をやるしかないなというふうになって、出したら売れちゃったんですね。
銀行の借金が3億を越していったんですよ。先物取引で1日で600万なくなった日があるんですよ。でもね、その間に1晩で2000万勝ったギャンブルもあるんで。それもね、先物が全部吸い込んでパーですよ。
ネガティブなものをポジティブにするっていうか。だからそれは、自分の中で1つのテーマ。ハやるな。この自分をこういうふうに動かしてくれてるというか。
そうです。今日もました。すいません。カメラも立ちだ。すいません。大丈夫ですね。遅刻してないんですよね。全然大丈夫です。すいません。よろしくお願いします。こす。
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出版業だと、結構伝説的な編集者っていう。伝説かどうかわかんないけど、代表だったのは『ウィークエンドスーパー』と、それから『写真時代』と、それから『パチンコ必勝ガイド』。何冊ぐらい自分で作ったんですか? 私は14冊ぐらいあります。全然売れなかったのも入れてね。
お母さんが、小学生1年生の時に、相手の男性とダイナマイトで心中したって。そう、そう。すごい話ですよね。ダイナマイトがなんでその辺にあるのかっていうことを説明しないと、なんだっていう感じなんだけど。確かに、手に入るもんじゃないからね。鉱山があったんですよ。そこにうちの親父が勤めてて、ダイナマイトを使うんで、その倉庫があるんですよ。ダイナマイトの倉庫が。そんな管理をしてて、鍵も使ってないらしくて、それを使ったんだと思いますよ。
岡山県。岡山。年と長が駅があるんですけど、どんな場所だったんですか? いや、もう当時はバスが1かなんか、1。家族がや違ったというか、母親が肺結核だったんですよ。
僕が3歳ぐらいの時かな、その町の病院に入院して、ずっと治療。治療じゃなくて隔離なんだと思うんですけど。治療しても治んなかったんですよ、その頃ね。治療するあれがなくて、薬もなくて、死んでいった人、多いです。そうなんですね。どんどん悪くなったらしくて、もう治んないっていう状況になったんじゃないかなと。それから家に帰ってきた。
結核ってあれですよね、昔って結構うつるみたいな。うつるから、僕は学校でいじめられたりしたのもあるけど、母親が結核だから、僕も結核じゃないかと思い込んでる人が多くて。近寄るとうつるって言われて、あんまり近寄らないような感じで。友達がなかなかいなかったですね。それでね、絵を描いたり、そういうことが多かったんだよ。1人でね。学校にいる時。学校もね。
体操の時間なんか、みんなでワイワイ、ソフトボールをやったりしてるんだけど、僕がバットを持つと誰もそれを持たないんですよ。うわ、これ持つとうつるから。そういうのがあるから、じゃあバットを持っちゃいけないんだと思って。体操の時間は、ただ見てるだけ。見てるだけでも暇だから、絵を描いたり、嫌なやつの顔を描いたりして、「この野郎」とか「死ね」とか。
それはもう、小学生になった時からそんな感じだったんですか? それはね、母親が死んだ後ですよ。そうなんですか。でもお母様が亡くなったのって、小学校1年生ぐらい。1年生の時。死んでから、その村中に、僕の親が肺結核で治んなくて帰ってきたと。しかもその死に方が、やっぱり心中だから、どんどん広がるんですよね、その話題としては。子供にもさ、「あの、あちゃんとね、遊んじゃダメだよ」っていうようなことを言ったりすると思うわけ。
お母さんとお父さんはどんな? 父親は鉱山に勤めて、母親が死んでから、もうやけくそになって引きこもりですね。それあってあ、そうなんですね。思った。酒はあんまり飲まなかったけど、ただ昼間から寝てるだけで。「働けよ」って僕らが言ってたら、「なんでわしだけ働かすんじゃ」って。親がそんなこと言うから、「なんでわしだけ働くし、他に僕に働け」っていうのがあって。
いじめられて、中学校はね、他の村の人たちも来て。要するに小学校は2つあったんだけど、中学はその2つの学校の生徒が合同で、1つしかない。そうするとね、知らない人もいて、なんとなく居心地が小学校よりは良くなったんです。でもね、あんまり運動とか、その小学校の名残があって、参加しなかったです。野球とかみんなやってたけど、引いててね。
だからね、園芸部っていうのがあって、花を生けたり、花を育てたり。学校の花壇に。みんな女の子で、僕だけ男1人で。園芸部。それはそれで、嫌ではなかったんですか? その女の子。割と溶け込みやすかったですね。
お母さんが亡くなる前っていうのは、様子がおかしい雰囲気があったんですか? 喧嘩した。親父と喧嘩して、大喧嘩ですよ。火鉢なんかぶつけたりする。多分、男がしょっちゅう来てたからですよ。若い人が。それで大喧嘩して、バーッと飛び出したの、母親が。それっきり帰ってこなかった。
1週間ぐらい探してたんですよね、親父が。そうなんですか。いろんな親戚に行ったり、なんやかんやして探してたんだけど、見つからなくて。1週間ぐらいして、山仕事してる人が犬を連れてて、その犬がワンワンワンワン鳴くから、そっちの方に行ってみると、バラバラになったあれがあったんですよ。その死体が。ダイナマイトで爆発したと思う。それで警察が来たりして、大騒ぎになって、新聞にも載りましたけど。
でもお母さんは、そんなに綺麗なお母さんで、やっぱりその病気のことで、だいぶ亡くなる前はその男性に行ってたとか。でも「死ぬんなら」っていうところもあったかもしれない。脇だからね。あの拝見の。若い人だった。23ぐらいの人で、母親は30だったから、だいぶ年下の人で。その隣の家なんだけど、その息子さんが来て、いろいろ来てたんだろうけど。昼間は親父が鉱山に行ってるでしょ。僕ら学校に行ってて。3歳下の弟がいるんですけど、弟はまだ赤ん坊で。
小1の時にそういうことがあるっていうのは、その母親のことって、末井さんの中でどんな出来事だったんです? やっぱね、人に言えないんですよね。だから社会に出ても。僕、高卒なんですけど、高校に行ってる時も、そういう話はできなかった。社会に出ても、あんまりそういう話すると、変に思われる。
それでね、雑誌の編集の方に、いろいろあって進んでいって。最初は工場労働者で、ここに三菱のトラックを作ってる工場があるんで、その辺で働いてたんですけど。なんで僕がここに来たかというと、親父が働く場所がないから、地元では。こっちにそういう派遣をやってる会社があったんですよ。それでそこに親父が勤めてて、年に2回ぐらい帰ってくるんだけど、1年中こっちに来てたわけ。
そこの派遣会社が手配したアパートかなんかがこの辺にあって、そこに親父が、60万ぐらいだったけど、住んでて。僕が行くとこないから、沈みながら親父の住んでるアパートに来て、そこに転がり込んだ。そういう意味では、結構いいお父さんですよね。良くはないです。そう。だってある意味、末井さんのことをすごい考えてくれてたわけですよね。考えてないよ。
僕はね、多分、三菱に正社員で入ったのが、周りの人がみんな出稼ぎだから、自慢だったと思うんですよ。「うちの息子は三菱の正社員に入って」って、みんなに言いふらして、自慢してたと思うんですよ。僕が編集なんかの仕事を始めた頃も、田舎に帰っちゃったんですけど、手紙はもう「金を送ってくれ」、こんなのばっかりですよね。
手紙にね、字がにじんでるんですよ。丸してさ、「涙の跡」とか。アホか、わざわざ涙の跡なんて書いて。めしいやつ。
お母さんが亡くなられてからは、そのお父さんと一緒に少し。いや、だからね、2度目の母親が来たんですよね。1年ぐらいして。親父がね。僕はお母さんと言わなかったけどね。おばさんって言ってたからさ。2人目のお母さんは馴染めなかった? 自分には。
前の、ダイナマイトで死んだ母親って、かっこよかったんですよね。着物なんかいつも着て、おしゃれで。みんなに自慢したい母親だったかもしれない。田舎のお母さん方はね、昼間、草を取ったりするじゃないですか。だから色が黒いんですよ、日焼けして。うちの母親はずっと病気で病室にいたから、色が白い。
授業参観に来たこともあるんだけど、ずっとお母さん方が並んで見てるんだけど、やっぱり1人目立つんですよね。肌が白いし、着物もちゃんとしたのを着て、自慢したい母親だったんだけど。
これじゃないんですけど、でもこれじゃないかと思うような家の、これ山生が。ここじゃないけど、この一軒家で前の奥さんと出会ったんですよね。何歳ぐらいの時だったんですか? だと思うね。じゃあ、高校卒業してってことなんですか? そう、そう。もちろん。その人は、離れみたいなのがついてたんですよ、四畳半の。そこをすでに借りてたわけです。僕が入ったら、もうすでにその人が入ってたわけ。
きっかけは、冬にね、牛乳配達をしてたんだけど、もう手がかじかむみたいな、寒くなってきて。部屋は暖房がないわけですから、電気ストーブを買ってきたわけ。自分の部屋に置いて、コンセントをさして、つけたらね、ヒューズが飛んじゃった。ヒューズ、ある量の電流が流れたら、そのヒューズがパンと溶けて切れるんですよ。飛んじゃったんですね。飛んだんです。そしたら真っ暗になっちゃった。夜中だから。
そしたら離れの女の人が、「うちに電気こたつあるから来ませんか」って言ったの。こたつでいろんなことを話したりして、うちに仲良くなって、セックスもして。「この人と一緒に暮らしたいな」なんて思うようになって。もう勝手に風呂を沸かしてね、2人で入ったりしてたんです。そうなんだ。すごい。
その親父もひどいやつでね、その付き合ってる彼女を襲おうとしたんですよ。僕がいない時に来て。それもあって、もう引っ越ししようと思って。うちの前の奥さん。それはどうやって発覚したんですか? そうさん、気持ち悪いとか言って。本人が言うから。親父は言わないですよ、こんなこと。そういう、未然に終わりましたけど。終わったらしいけど。
どういう気持ちになったんですか? そんな話聞いて。情けなくなりました。自分もそういう血を引いてるかと思うと、おぞましい。ああ、あげてくれ。
そこから編集者になっていくのは、どういう? 僕はデザイナーになりたいと思いながらね、青山デザイン専門学校っていうところの夜間部に入ったんですよ。その校舎があったんだけど、一軒家みたいなとこで。でも、入ってすぐに学生たちが封鎖したんですよ。デザイナーになりたいからデザイン学校に入ったんだけど、封鎖されて入れない。だからもうそこをやめちゃった。入れないからね。
新聞の募集欄を見て、デザイナー募集の会社を探したんですよ。ディスプレイ関係の会社があったんですよ、デザイナー募集で。そこに面接に行ったら、すぐ入れてくれたんで。そこでディスプレイのデザインをやってたんだけど、自分の表現っていうことにこだわるようになって。
ディスプレイで表現っていうのは、なかなか難しくて。女性向けにボウリング場を装飾してくれって頼まれて、考えるわけですよ。女性向けっていうと、やっぱり可愛い、綺麗なものとか、そうじゃないですか。ところがこっちは表現だからね。「女なんか化粧したりして仮面をかぶってるから、もっと本質を表さないとダメだ」とか、頭の中で考えて。おかせたの招キみたいなものを作ったりすると、みんなから嫌がられるんだよ、そういうデザインが。
そうなんですか。友達が同じ職場にいたんだけど、その人が辞めてキャバレーに入っちゃったんですよ。その人がポスターなんか作って、見せてくれたんです。「ハワイ」っていうキャバレーチェーンだったんですけど、すごいポスターを作ってるわけ。バックに黒い太陽があって、向こうがその前で、ラちゃう人してる女の人、加えてるんですよ。
周りに、ハワイだからハイビスカスの花が咲き乱れて。ハイビスカスって大きいのがあるんだけど、それで全部沈黙になってるわけ。こんなデザインができるんだなと思って。いいなと思って、自分、キャバレーに行こうと思った。で喋れて。
そっちの表現の方が、自分は好きというか、やりたいことかなって思って。「クインビー」っていうキャバレーに入ったんですよ。宣伝にね。チラシとか、ポスターもあったけど、おどろおどろしいものを考えてさ。上の係長とか課長とかが怒るわけ。可愛い女の子がセクシーな感じで、「いらっしゃい」っていうようなのを要求してるのはわかるわ。要求してるの。こっちは「そんなの描いてたまるか」と。いつも怒られてさ。
自分もここで何かやろうとしても、キャバレーはキャバレーでしかないんだろうと思って、ストリーキングをやるんですよ。仲良くしてたカメラマンがいたわけです、その会社に。「よし、僕が撮ってあげるよ」って言って、撮るわけ。真っ裸で街の中を走って。それで、昼間はちょっと騒ぎになって警察に捕まるから、明け方ね。
なんでそんなことしたんですか? それはね、やっぱりいろいろあって、爆発ですね。自分の表現っていうのはもう閉ざされてると。「よし、自分1つでやって」、裸で走って、街の路上で真っ赤なペンキでガーッと転げ回って、道路に自分の体で絵を描くと。自分の情念の絵を描いてやる。得だったんだろうね。あんまりみんなが評価してくれないから。
転げ回ってる時は、末井さん的にはどういう気分だったんですか? 気持ちよかった。世界を相手にしてるような気がした。それでキャバレーをやめたんですけど。
やめて失業して、うちの奥さんに食わしてもらってたんだけど。工場で奥さんが働いてたから。それで、もう本当に泣けてきました。アパートで1人で。僕は夜中に本を読んだりしてたから、起きるのは9時、10時になってるわけよ。そうするとうちの奥さん、もう仕事に出てる。机の上に300円ぐらいお金があって、「卵何個、納豆、キュウリ」なんとか書いてるわけ。300円持って近くのスーパーに行って、買って帰ってくるわけ。もう虚しい気持ちになっちゃって。
そうしてたら、僕、仲良くしてた喫茶店の店長がいたんですよ。その店長がね、池袋のピンクサロンに就職したってわけ。その喫茶店をやめて。「末井ちゃん、というまいくれる」とか言って。描きますよって、暇だから。彼女に食わしてもらってるような。そう、そう。それで。
そういうことをやってる時に、キャバレー時代にいた、僕のストリーキングを写真に撮ってくれたカメラマンが、出版社に就職したんですよ。カメラマンとしてね。エロ本の出版。「末井さん、今度入ったんだけど、イラストでも描いてみない?」って言うから。「好きなように描いていいですから、4ページ描いてください」とか。やっと自分の表現ができるような感じになって。僕は出版との出会いですよね。エロ本だけどね。
それで、その中で社長さんと出会うことになるわけです。その人が、「末井さん、雑誌作れないか」って言うわけ。要するにビニ本やってるんだけど、ビニ本で警察もうるさいし、定期的に書店で売れるエロ雑誌を作りたいっていうのを持ってたらしくて、作れないかっていうんで。自分で全部、いろんな人に原稿を頼んで、レイアウトもできるからレイアウトして、写真もカメラマンに頼んでっていうのを、自分で1人でやってたんだけど。
社長から、「末井さん、会社を起こすから」。その時、まだ会社がなかったんですよ。「もやめて、ちゃんとしたっていうか、出版社を作るから、一緒に共同設立者としてやってくれないか」ってことで、一緒に立ち上げて。社長で、僕は役職としては編集長とか。それで僕が作ったのが『ニューセルフ』。最初の雑誌が『ニューセルフ』だったので。それは1年ぐらい続けたんだけど。
警察がですね、それ、またじゃない、それ僕の最初だったんだけど。堤玲子さんという人の小説で、『美少年狩り』っていうタイトルの小説を載せてたんですけど。そこにセックスシーンで、「おまんこが濡れる」「まんこが答える」「まんこが叫ぶ」とか、おまんこ、おまんこ書いて。それを読んだ警察が、36か所出てくるんだけど、「これもう猥褻だ、猥褻文章だ」。それが元で発禁になっちゃって。
そうなんだ。1年ぐらいで。1年ぐらいで、代わりの雑誌を出さないといけないと思って、映画雑誌でも作ろうかなと思って。『ウィークエンドスーパー』。そういう雑誌にはなんなかったけど、サブカルみたいな雑誌になった。エロはあったんですか、それ? エロもないと売れないから、写真があって、カラーでね、何か入れてたけど。
ちらっと見た、スイカ読本みたいな。あれを見た。あれも『スイカ読本』というのがあって、夏場だからスイカの特集をしようって。スイカとセックスする男の人とか、でっち上げてインタビューするとか。1番くだらねえなと思った企画って何ですか? スイカなんか1番くだらないんですよ。
ちょっとはっきりしない雑誌だったわけですよ。映画誌と言いながら。だから、だんだん売れなくなってきて。もうしょうがないから、売れる雑誌を作ろうってことで、『写真時代』を作ったんですけど。『写真時代』で初めて成功していくわけですよね。そうですね。
最初の僕が作った企画が、エロの「エ」の字もない企画書で、「新しい写真誌」っていうことを打ち上げて、書いて。それまでカメラ誌がいっぱいあって、写真の雑誌ってあんまりなかったんですよね。カメラ誌っていうのは、カメラのメーカーとタッグを組んだような雑誌が多いんですよ。カメラの宣伝がいっぱい入ってね。つまんないんですよ。こんな、みたいな感じで作ったのが『写真時代』だったんですけどね。
1番、取材相手で面白かった人は誰ですか? 荒木経惟さん。荒木。面白いですよ。人も面白い。もう全て、私初めになってくさん。1人いれば雑誌ができるなと思って、『月刊アラーキー』っていう雑誌にしようと思ってたけど、荒木さんに相談しに行ったら、「それ作っても売れないよ」って言うわけ、自分で。だから、ものを入れてやりましょうってことになったんですよね。
面白い写真を撮ってる人を探したり、写真を頼んだり。「マシンガンのジョー」という名前、僕がつけたんだ。ナンパカメラマンで、女の子を誘ってね、ホテルに行って、「3000円やるから」みたいな。そういうのがすごいおかしくて。でも全部、裸にしてるんですよ。
あとは、ノーパン喫茶の頃で、取材に行ったんですよ、大阪にね。そこは地下はなかったんだけど、掘ったんですよ、地下。そこの上にマジックミラーを置いて、こういう幅でね。下から上が見える店を作る。女の子たちが、下から女の子たちが見える。そう、見える。店の名前が「エミルマカナノトーカス」ってさ。「エミルマカナノトーカス」、逆に言うと「スカートの中丸見え」。
「これまずいんじゃないですか。警察来たら、またしちゃうから」「大丈夫ですよ、そういうのは考えてますから」。それから取材に行って1週間ぐらいしたら、警察が入って捕まっちゃってるんですよ。履いてないんだけど、その煙じらなものを女の子たちにつけさせて。女の子たちが気持ち悪がって、そのバタフライみたいなものをつけるのが。「もういいよ、こんなものつけなくても」って、履いてないで歩き回ってた。その時に警察が来ちゃった。
そういうのいっぱいありましたよ。あとね、棺があって、「お客さんはどうぞ」って書いて、棺に入るわけよ。そしたらね、パカッと開くんだ、この辺が。棺だから。この辺も開くんですよ。それをどうするかっていうと、女の子が裸で、その棺の上に乗って、しごいたりするんです。こう逆転するから、男のここが丸見えで、見ながらちんこを抜いてもらえる。
かいいですね。ちなみに末井さんって、エロが好きだったんですか? あんまり好きじゃないんですよ。好きじゃない? 本当のエロっていうのは、すごい保守的なもんなんですよ。要するに、読者を欲さすってことは、1つのセオリーしかないんですよ。
例えば、女の人がヌードでパンツを履いてると。このパンツの色は何色がいいでしょうって。「黒ダメ、赤ダメ、白オーケー」みたいな、集約されていくわけよ、そういうの。そうなんだ。全てがそうなの。それはものすごい保守的な仕事だし、やっててつまんない。だから僕、エロのページも作りながら、そうじゃないサブカル系の面白い人に原稿を書いてもらうとか。こっちだけじゃ売れないから、選ぶりだ。
警察に毎日言われてたのは、「こんなことを続けてると発禁にするぞ」と。脅すんですよ。ところが僕は、あんまり全然そういうことしなくて、違って突然ねっちゃって。
それ言われてる時は、末井さん的にはどんな気分だったんです? 警察に呼ばれて。『写真時代』の時もすっごい呼ばれて、さんも呼ばれて、カメラマンね。ラブホテルで裸の写真を撮ってるんだけど、ラブホテルの経営者も呼ばれて、モデルも当然呼ばれて、40人ぐらい呼ばれて。それは僕の責任だと。やっぱり自分の大学みたいな雑誌だったんですよね。
それがなくなったことと、そのあと、会社の結構売り上げがあったんで。唯一、最終的に30万部を越してましたから。ちょっとうつになったんで、そこから。うつ。『写真時代』が終わってですか? 終わって、呼ばれてね。でもそれは末井さんが結婚してる時に。そう、そう。結婚は続いてるんだけど、先物取引でちょっと損したってこともあるんですけど。関係ないけど。
前の年にね、プライベートでね。いくらぐらい? 1000万ぐらい負けてる。それでうつになったりして、やることもなくなって、またエロを作るのも嫌だなみたいな気持ちもあって。作ったんだけどね。ロリコンとか作ったんだけど、何かしないとまずいから、最初だけやって、あとは人に任せてやったりして、そういうのもあったり。
付き合ってた女の子が飛び降り自殺して、8階から降りたんですね。複雑。でも結構大変な体になっちゃった。それは末井さんが結婚してる時です? そう、そう。結婚は続いてるんだけど、付き合ってたのは会社の女の子だったんですけど。
それでうつになったりして、やることもなくなって、またエロを作るのも、もう嫌だなみたいな気持ちもあって。そういう時に、たまたまパチンコ屋に入った。パチンコをやったことなかったんですけど。そっちはでしょ。そしたらね、あれはもう断言できるんだけど、うつにはパチンコが合うって思うんですよ。そうですか。絶対、うつの人はパチンコが好きになると思います。
何がそんな? まず1人、誰とも話さなくても。だって、一言も喋らなくても。パチンコ中毒みたいになったんですよ。毎日行ってたんです。朝一でいい台を取りたいから、8時、9時に家を出るわけですよ。向ヶ丘遊園にいたんで、そろそろ会社に行かないといけないなと思って。それで、共同話題で降りてパチンコに行って、今度まず新宿があるから新宿で打って、高田馬場駅の前に立ちは3年やるし。気がついたら、どんどん夕方に近づいてるわけ。夜までやめられなくて、これまずいな。
会社に行かないとダメだったんだよ。外を見たら、もうみんな駅に向かって歩いてるわけ。帰ってる時間、時刻で。「これ仕事にするしかないな」みたいな感じで。何かやんないといけないって、会社に対してね。大きな損害を出してるわけですから。パチンコの雑誌をやるしかないなというふうになって、出したら売れちゃったんですね。
なぜ売れたかっていうと、コンビニエンスストアに入れたんですよね。パチンコをする人は、大体11時までやりますから。この時間に書店はもう開いてないんで、大体7時、8時にもう店を閉めてたから。大体、何千か損して、帰ってるかと言いながら、缶コーヒーでも買って帰ろうかなと思って入って、ふっと見たら『パチンコ必勝ガイド』があると。買うだろうなと。
パチンコばっかりやってる人は、自分がそうだから、世の中から白い目で見られるような存在っていう。パチンコを真面目に論じるとか、あと攻略を考えるとかいう雑誌とか人がいれば、見てくれるという確信があったんですけど。僕らは本当のことを常に書いてたし、向こうが、3は『攻略マガジン』とか、やっぱり嘘が入ってたんですよね。毎日5万とか勝ってるとか、それはありえないですよ。そんなに勝てない。
こっちは田山幸憲さんっていう、東大体の頃。その人は1日3000円ぐらいしか勝ってないよ。こっちの方がやっぱりリアリティがあるから、みんな信用してくれるし、自分がそうだから。だって寝る時に、もう玉がここに飛んだりしてるわけですよ。目をつぶると。パチンコ台が話しかけてくるような時もあったな。「もうすぐ出るのに」って、女の人の声でね、聞こえてくるんだけど。
8年ぐらい続いたんで、みんなからブーイング食らうかもしれないけど、「これはきなきゃよかった」って思いましたから。『写真時代』が続いてて、パチンコに切り替わることはありえなかったと思う。でも僕、うつにもなんなかったし、パチンコやんなかったし。「金に転んだね」みたいなことを言われた。「面白ければいいんじゃないの」と思ってね。別にこっちは、お金を目当てに作ったわけじゃなくて。
朝5時にコンビニで、みんな待ってるんですよね。雑誌が入るの、朝5時ですよ。電話もガンガン来る、読者から。「いや、今日勝ちました。15万ぐらい勝ちましたよ」とか、1日やってとか。『写真時代』の時は誰も電話1本も来ないからね。誰からも電話来ないですよ。これを曲げた時が1回。そっか、そっか。
これ大丈夫です。全然ゆく、大丈夫です。大丈夫です。
末井さん、そのギャンブルはどのぐらい具体的に負けてたんですか? 最初に、雑誌の仕事で行ったわけ、中山まで。何レース目か忘れたけど、僕もその3点のタンで、3点買ったんですよ。それで飯を食ってたわけ、みんなでね。そしたら、食堂の外が大騒ぎしてるわけ。「大穴、大穴、大穴」とか言ってるわけ。「あれ、その数字、買ったかな?」って、ちょっと見たら買ってますね、みたいな感じで。
それが3370万ぐらいになったんですよ。すげえ。1万円買ってるからね。トータルは勝ったんですか、ギャンブルは? いやいや、勝てないんですけど。そこから1年後に、僕はいろんな不動産投機で何千万、銀行の借金が3億になっていったんですよ。マンション2棟買って、土地を買って、バブルが弾けたんですよ。規制っていう、バブルを冷やすために国がそういう政策を取ったから、ガーンと下がっちゃって。
それで、あるホームレスと出会ったんですよ。ホームレスと出会った。その人はね、ただのホームレスじゃなくて、初代麻雀プロなんですよ。田中さんっていう人なんですけど。いろんなことをギャンブルでやって、最終的に浅草でホームレスしてるわけ。その人と出会って。「馬を見ないとダメだ」と。「いくら印が20までついてても、その馬は運ばれてくる時に疲れ切ってるかもしれない」と。見方をいろいろ教わって。
最初は100万ぐらい持って買いに行ってた。すごいね。1か月いっぱいで700万勝ったんですよ、トータルでね。「これ、借金チャラになる。これをやればいいな」と思って。100万円持っていって700万だから、1000万持っていったら7000万になるはずだから、みたいな感じで。「よし、10倍増やそう」と。ギャンブルで借金を返そうとしたんですね。そう、そう。競馬でね。そういうことを考え出した頃から当たらなくなったんです。それでトータルで1000万ぐらい損してます。
先物取引で1日600万なくなった日があるんですよ。もう初めてちょっとした時ですよ。なんでそれ、また始めようと思ったんですか? いや、取り返そうと思って。世界同時株安があった時のことで、その1日でどのくらい負けましたか。「600万ぐらいですね」。600万って聞いて、魂が本当にスッと自分から抜けた感覚があるんですよ。
だから、マ市のギり体験に近いかもしれない。誰か、僕にちょっと用事がある会社の人がいるんだけど、それに対して返事をしてるんだけど、声が出てなくて、口がすごいです。これね、本当に声が出ない。これじゃ。それで向こうも変な顔してて、やばいな、これはまずいな。ゾンビみたいに新宿の街を歩いてて、サラ金に1軒ずつ入って、「600万貸して」「ダメだ」。歌舞伎町のヤクザの金を貸すところに行って、借りたんですけど。
やっぱりね、取り返そうと思うんですよね。自分があの時、失敗したからっていう、勉強してる積み重ねみたいなのがある。もったいないと。これを使って、「よし、取り返そう」みたいな。でもね、その間に1晩で2000万勝ったギャンブルもあるんで。それ何ですか? サイコロを使った博打ですけど。闇博打ですね。それもね、先物が全部吸い込んでパーですよ。すごいですね。
営業マンがさ、「すいません」とか言ってさ、店満パンになったから、タバコを持ってきたわけ。俺、ピースライト吸ってたんだけど、持ってきて。「すいません、のです」って言って。20本の箱が10個入ってるのを2箱持ってきて。計算したら、1本5万円なんだよね。「5万円か、これ」みたいな。もう泣けてきちゃった。
今はどんな活動をしてるんですか? 会社を定年退職してから、本を書いてるわけですよ。エッセイストとして。『自殺』って本でね、講談社の賞をもらったりして。やめてすぐね。エッセイの賞をもらったんだから、エッセイストって言えばいいのか。でも賞をもらったってこともあって、弾みがついたかもしれない。依頼が結構増えたんですよ。『自殺』の本を出したのかな。そう。
その本を書いて、お母さんに対する考え方とか、ちょっと変わったりしたんです? いや、変わってはいないです。別に母親を恨んでるわけでもないし、逆に、母親のことがあったから本が書けるっていうのもあるし。その映画にもなったり。
映画なんかね、佑くんが「末井さんのお母さんの墓参り」とか言ってたから、簡単な地図を書いて渡したんですよ。行っていうことで、行ったらしいの。こ前まで。行ったんだけど、タクシーで途中から田舎に行ったんだけど、「ここだな」と思って降りたら迷っちゃって。相談したから、相談すると思ったって。でもね、上歩いたっちゃうのがあったらしい。と出会って、台本を置いてくれて、写真を撮って。写真とか見せてくれて、嬉しかった。
嬉しかったですよね。だから母親も喜んでるわけ。こんなハンサムな男が、東京からわざわざ墓参りに来てくれるね。確かに。そうですね、喜んで。恨んでないって、でもすごいですね。そっくりさ。いやいや。アフやるな。自分をこういうふうに動かしてくれてるというか、本も書かせてくれてるかっていうような雰囲気があるんですよね。
なるほど。だから、自分がそれを人になかなか言えない時代は何年かあって。社会に出て、そういう時は辛かったんですよね。自分がすごく感じながら、自分が体験してるけど、これやっぱり人に言えないし、やっぱり自分はこうなんだな、みたいな。そういうようなマイナス思考があったんだけど、みんなに話すようになって、書くようになって、プラス思考というか。ネガティブなものをポジティブにするっていうか。だからそれは、自分の中で1つのテーマっていう気がする。ネガティブなものがポジティブになれるっていうか、考え方とか行動の仕方によってはね。
ちなみに今、1/ってる時は幸せですか? 楽器、あのバンドが1番いいですね。月2回ぐらいあるんで。それがやっぱり、あるあるてのは、やってて音を出してるのが楽しいですよね。
夢とか目標みたいなの、末井さん、何かちょっとあったりします? 今後に。いや、もうこの年になって夢なんかないですよ。78ですからね。もうすぐ80ですから。考えてるのは、いつまでできるのかななんていうのがあって。目標はないけど、その状態が死ぬまで、ある程度、死ぬまで続けばいいなと思ってる。
でもだんだん膝が痛くなったり、視力が悪くなったりあるんですよね。年を取れば取るほど。だからなるべくその辺を、快適に生きて、死ねればいいなっていうのが目標ですよね。
ありがとうございました。はい。あったったった。ちょっと待って。気をつけて。これね、もう固まるんだけど。じゃあ行きますよ。ありがとうございました。
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