母のダイナマイト心中、エロ雑誌、パチンコ、3億円の借金――末井昭が語る「ネガティブをポジティブにする」人生

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概要

『ウィークエンドスーパー』『写真時代』『パチンコ必勝ガイド』などを手がけた編集者の末井昭さんは、自分で作った雑誌を「全然売れなかったものも入れて14冊ぐらい」と数える。このインタビューで末井さんは、小学1年生のときに母親が不倫相手とダイナマイト心中した出来事から、工場労働、キャバレーの宣伝部、エロ雑誌の編集、発禁、うつ、パチンコ、そして3億円を超える借金とギャンブルまでを語った。それらの経験を人に話し、文章に書くようになったことで、末井さんは「ネガティブなものをポジティブにする」という考えに行き着いたという。

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鉱山の村と、ダイナマイトで死んだ母

末井さんは岡山県の山あいの村で育った。近くに鉱山があり、父親はそこで働いていた。鉱山ではダイナマイトを使うため倉庫があったが、管理は緩く、鍵もかかっていなかったらしい。母親はそこからダイナマイトを持ち出したのだろう、と末井さんは推測している。

母親は結核を患っていた。末井さんが3歳ぐらいのとき町の病院に入院したが、当時は薬がなく、治らずに亡くなる人が多かったという。病状が悪化して治る見込みがなくなり、家に戻ってきた。その頃、隣の家の息子で23歳ぐらいの若い男が家に出入りするようになる。母親は30歳ぐらいで、父親は昼間は鉱山、末井さんは学校に行っていた。3歳下の弟はまだ赤ん坊だった。

母親と父親は大喧嘩になり、火鉢を投げつけ合うほどだった。末井さんは、男がしょっちゅう来ていたことが原因だろうと見ている。母親は家を飛び出したまま帰らず、父親は親戚を回るなどして1週間ほど探したが見つからなかった。やがて山仕事をしていた人の連れていた犬が吠え、その方向へ行くとバラバラになった遺体があった。ダイナマイトで爆発したのだと末井さんは語る。警察が来て大騒ぎになり、新聞にも載った。

母親の気持ちについて末井さんは、どうせ死ぬのなら、という思いもあったのかもしれないと推し量っている。

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「うつる」と言われた子ども時代

母親の死後、村では噂が広がった。母親が結核だったため、末井さんも結核だと思い込む人が多く、「近寄るとうつる」と言われて友達ができなかった。体育の時間にソフトボールをしても、末井さんが持ったバットを誰も持とうとしない。それ以来、自分はバットを持ってはいけないのだと思い、見ているだけになった。暇なので、嫌いな相手の顔を描いて「死ね」と書いたりしていたという。こうした状況は母親が亡くなった後からだと末井さんは話す。

父親は母親の死後、自暴自棄になって家に引きこもった。酒はあまり飲まなかったが昼間から寝ているだけで、末井さんたちが「働けよ」と言うと「なんでわしだけ働かすんじゃ」と返したという。

中学校は二つの小学校の生徒が合流したため、知らない人もいて、小学校の頃よりは居心地がよくなった。それでも運動には参加しづらく、末井さんが入ったのは園芸部だった。部員は女子ばかりで男子は自分一人だったが、意外と溶け込みやすかったと振り返る。

1年ほどして父親は再婚した。末井さんは新しい母親を「おばさん」と呼び、なじめなかった。亡くなった母親はいつも着物を着たおしゃれな人で、農作業で日焼けした村の母親たちのなかで、病室にいたため色が白く、授業参観に来ると一人目立っていた。「自慢したい母親」だったと末井さんは言う。

それでも、この出来事は長く人に言えなかった。高校でも話せず、社会に出てからも、話すと変に思われると感じていたという。

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工場労働と父親、最初の妻

高校卒業後、末井さんは三菱のトラックを作る工場で働いた。地元に働き口がなかった父親は派遣会社を通じて都会に出ており、会社が手配したアパートに住んでいた。行くあてのなかった末井さんはそこに転がり込んだ。

インタビュアーが「いいお父さん」と言うと、末井さんは「考えてないよ」と否定する。父親は息子が三菱の正社員になったことを周囲に自慢して回っていたはずだ、と末井さんは見ている。後に父親が田舎に帰ってからは、金を送ってくれという手紙ばかり届いた。字がにじんだ箇所に丸をつけて「涙の跡」と書いてあり、末井さんは「アホか」と思ったと笑う。

最初の妻とは、一軒家の下宿で出会った。末井さんが入居したとき、その女性はすでに離れを借りていた。冬に牛乳配達をしていて手がかじかむほど寒く、電気ストーブを買ってきてつけたところヒューズが飛び、夜中に真っ暗になった。すると離れの女性が「うちに電気こたつがあるから来ませんか」と声をかけてくれた。こたつで話すうちに親しくなり、一緒に暮らしたいと思うようになったという。

ところが父親が、末井さんの留守中にその女性を襲おうとした。未遂に終わったらしく、彼女本人から聞かされて発覚した。末井さんは情けなくなり、自分もそういう血を引いているのかと思うとおぞましい気持ちになったと語る。これもあって二人は引っ越した。

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デザインの挫折と、全裸で街を走った夜

末井さんはデザイナーを志し、工場で働きながら青山デザイン専門学校の夜間部に入った。しかし入ってすぐ学生たちが学校を封鎖し、授業に入れなくなったため辞めた。新聞の募集欄でディスプレイ会社を見つけ、面接に行くとすぐ採用された。

そこで末井さんは「表現」にこだわるようになる。女性向けにボウリング場の装飾を頼まれたとき、普通なら可愛くきれいなものを考えるところを、女性は化粧で仮面をかぶっている、もっと本質を表さなければだめだと考え、おどろおどろしい看板のようなものを作った。周囲には嫌がられたという。

同じ職場の友人がキャバレーチェーン「ハワイ」に移り、作ったポスターを見せてくれた。黒い太陽を背景に、男の前でひざまずく女性がいて、周囲のハイビスカスがすべて男性器の形になっている。こんなデザインができるのかと感心し、末井さんもキャバレーの世界に移ることにした。入ったのは「クインビー」の宣伝部だった。

だがここでも、末井さんが考える妖しいチラシやポスターは、係長や課長に怒られた。求められていたのは、可愛い女の子がセクシーに「いらっしゃい」と言うようなものだった。キャバレーにはキャバレーの表現しかないと感じた末井さんは、親しくなった社内のカメラマンに撮影を頼み、ストリーキングをする。昼間は捕まるので明け方に、裸で街を走り、路上で赤いペンキをかぶって転げ回り、道路に自分の体で絵を描いた。表現の場を閉ざされたことによる「爆発」であり、誰も評価してくれないことへの反発だったと振り返る。そのときの気分を問われると「気持ちよかった。世界を相手にしてるような気がした」と答えている。

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妻に養われた日々から出版の世界へ

キャバレーを辞めて無職になると、工場で働く妻に養ってもらう生活になった。夜中に本を読んでいるので起きるのは9時か10時で、妻はもう出勤している。机の上には300円ほどの小銭と、卵、納豆、キュウリといった買い物のメモが置いてある。それを持って近くのスーパーに行き、帰ってくる。虚しくて泣けてきたという。

その頃、親しかった喫茶店の店長が池袋のピンクサロンに就職し、末井さんに看板描きを頼んできた。さらに、キャバレー時代にストリーキングを撮影したカメラマンが出版社に就職し、「4ページ、好きなように書いていい」と原稿を依頼してきた。末井さんはこれを出版との出会いであり、ようやく自分の表現ができる感覚を持てたと語る。媒体はビニ本だったという。

そこで出会った出版社の社長は、ビニ本ではなく、書店で定期的に売れるエロ雑誌を作りたいと考えていた。末井さんは原稿の依頼、レイアウト、カメラマンへの撮影依頼まで一人でこなした。やがて社長は正式な出版社を立ち上げることにし、末井さんに共同設立者として加わるよう求めた。末井さんは編集長として最初の雑誌『ニューセルフ』を作った。

『ニューセルフ』は1年ほどで発禁になった。女性作家の連載小説の性描写に露骨な言葉が並んでいたのを警察が読み、36か所を猥褻な文章だと指摘したのがきっかけだったという。

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『ウィークエンドスーパー』から『写真時代』へ

代わりの雑誌として、末井さんは映画誌を作ろうと考えた。しかし出来上がったのは映画誌にはならず、サブカル誌のようなものだった。売るためにカラーのエロ写真も入れていた。夏にはスイカ特集を組み、スイカとセックスする男をでっち上げてインタビューした。末井さんはこれを「一番くだらない」企画として挙げている。映画誌と言いながらはっきりしない雑誌だったため、次第に売れなくなった。

そこで「売れる雑誌」として作ったのが『写真時代』である。末井さんによれば、最初の企画書には「エロ」の字もなく、新しい写真誌を打ち出すものだった。当時はカメラメーカーと組んで宣伝ばかり載るカメラ誌が多く、つまらないと感じていたという。

最も面白かった取材相手として末井さんは写真家の荒木経惟さんを挙げる。荒木さん一人いれば雑誌ができると考え、荒木さんだけの月刊誌を構想したが、本人に相談すると「それ作っても売れないよ」と言われ、ほかの要素も入れて作ることになった。面白い写真を撮る人を探して依頼し、女の子をナンパしてホテルで撮影するカメラマンには、末井さんが名前をつけたという。

ノーパン喫茶の取材も話題になった。大阪のある店は地下を掘り、天井にマジックミラーを張って下から女の子を見上げられるようにしていた。店名は「スカートの中まる見え」を逆さに読んだものだった。末井さんが「まずいんじゃないですか」と言うと店側は「大丈夫ですよ、考えてますから」と答えたが、取材の1週間ほど後に警察が入った。女の子たちが着用を求められていた下着を嫌がって外して歩いていたところに、警察が来たのだという。棺桶の形をした個室の店など、ほかにもさまざまな店があったと末井さんは語る。

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「本当のエロは保守的」

インタビュアーが、末井さんはエロが好きだったのかと尋ねると、答えは「好きじゃない」だった。末井さんの考えでは、読者を欲情させるエロには一つの方程式しかなく、非常に保守的なものだという。例えばヌードの女性がはくパンツの色は、黒は駄目、赤も駄目、白ならいい、というように一つに集約されていく。それをなぞる仕事はつまらない。だからエロのページを作りつつ、サブカル系の面白い人に原稿を書いてもらうことで、売れることと面白さを両立させようとしたという。

『写真時代』も警察から何度も呼び出された末に発禁となった。荒木さんや、ラブホテルで撮影したカメラマン、ラブホテルの経営者、モデルなど、40人ぐらいが呼ばれたという。末井さんは、それを自分の責任だと受け止めていた。

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発禁、うつ、そしてパチンコ

『写真時代』は末井さんにとって「大学のような雑誌」で、最終的には30万部を超えていたという。それがなくなったことに加え、前年にはプライベートで先物取引に手を出し、1000万円ぐらい損をしていた。結婚は続いていたが、交際していた社内の女性が8階から飛び降り、命は取り留めたものの重い障害を負った。こうしたことが重なり、末井さんはうつになった。ロリコン雑誌なども作ったが、ほとんど人任せだったという。

そんなとき、たまたまパチンコ店に入った。それまでパチンコはしたことがなかった。末井さんは「うつの人にはパチンコが合う」と断言する。誰とも話さず、一言も喋らなくても過ごせるからだ。そこから毎日通うようになった。いい台を取るため朝8時、9時に向ヶ丘遊園の家を出る。会社に行かなければと思いながら途中で降りては打ち、新宿で打ち、高田馬場の駅前で打つ。気がつくと夕方になっていて、外では人々が駅へ向かって帰っていく。そのとき末井さんは「これは仕事にするしかない」と思った。会社に大きな損害を出した以上、何か作らなければならない。それならパチンコ雑誌だ、と考えたのである。

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『パチンコ必勝ガイド』はなぜ売れたか

出してみると売れた。末井さんは理由の一つにコンビニでの販売を挙げる。パチンコをする人は夜11時ごろまで打つが、当時の書店は7時、8時には閉まっている。何千円か負けて缶コーヒーでも買おうとコンビニに入り、そこにパチンコ雑誌があれば買うはずだ。自分がそうだったから分かる、と末井さんは言う。

内容面では、世間から白い目で見られがちなパチンコを真面目に論じ、攻略を考える雑誌があれば読まれるという確信があった。末井さんによれば、他誌には「毎日5万円勝っている」といった嘘が混じっていたが、そんなに勝てるはずがない。自分たちは本当のことを書き、執筆者が1日3000円ぐらいしか勝っていないと報告するような誌面だった。そのほうがリアリティがあり、読者に信用されたと末井さんは考えている。

当時の末井さん自身ものめり込んでいた。寝るときに目をつむると玉が飛んで見え、パチンコ台が女性の声で「もうすぐ出るのに」と話しかけてくるように感じたこともあったという。発売日の朝5時にはコンビニの前で読者が待ち、編集部には「今日15万勝ちました」といった電話がひっきりなしにかかってきた。『写真時代』のころは電話1本来なかった、と末井さんは笑う。

周囲からは「金に転んだ」とも言われた。しかし末井さんは、お金目当てで作ったわけではなく、面白ければいいと考えていた。『写真時代』が続いていればパチンコ誌への転向はありえなかったし、うつにもならず、パチンコもしなかっただろうとも語っている。

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3億円の借金と競馬

ギャンブルの話は、雑誌の仕事で行った先での大穴から始まる。食事中に外で「大穴だ」と騒ぎが起き、確かめると自分が買った3連単が当たっていた。1万円買っていたため、3370万円ぐらいになったと末井さんは話す。ただし、トータルでは勝っていないという。

その1年ほど後、末井さんはマンション2戸と土地を買う不動産投機で、銀行からの借金が3億円を超えた。そこへバブル崩壊が来た。国がバブルを冷やすために規制をかけ、価格が一気に下がったと末井さんは説明する。

その頃、浅草でホームレスをしていた田中さんという人物と出会った。末井さんによれば、田中さんは初代の麻雀プロで、さまざまなギャンブルを経てホームレスになった人だった。田中さんの教えは「馬を見ろ」というものだった。どれだけ評価が高くても、運ばれてきた時点で疲れ切っているかもしれない、という。末井さんは最初100万円ほど持って競馬場に通い、1月だけでトータル700万円勝った。100万円で700万円なら1000万円持って行けば7000万円になるはずだと考え、10倍に増やして借金を返そうとした。ところが、そう考え始めた頃から当たらなくなり、競馬では結局1000万円ぐらい負けたという。

39:58

先物で1日600万円、闇賭博で一晩2000万円

先物取引では1日で600万円失った日がある。世界同時株安のときで、以前の損を取り返そうと再開した矢先だった。600万円の損を聞いた瞬間、魂がすっと抜けていく感覚があり、臨死体験に近いかもしれないと末井さんは言う。会社の人に話しかけられて返事をしても声が出ず、口だけが動いていた。ゾンビのように新宿の街を歩き、歌舞伎町のヤクザが営む金貸しから借りたこともあったという。

それでも人は取り返そうとする、と末井さんは語る。失敗から学んだ積み重ねがあるのだから、それを使わないともったいない、という気持ちになるのだという。

一方で、一晩で2000万円勝ったこともある。サイコロを使った闇賭博だった。だがその金も先物にすべて吸い込まれた。印象に残っているのは、勝った夜に店員が、店の金庫が満杯になったからとタバコを持ってきた場面だ。末井さんが吸っていたピースライトの10個入りを2箱、計400本で、計算すると1本5万円になる。「5万円か、これ」と思うと泣けてきたという。

42:15

書くことで変わった母親の記憶

会社を定年退職した後、末井さんはエッセイストとして本を書いている。『自殺』という本で講談社エッセイ賞を受け、それを弾みに依頼が増えたという。

本を書いて母親への考え方が変わったかと聞かれると、末井さんは「変わってはいない」と答える。母親を恨んでいるわけではなく、むしろあの出来事があったから本が書ける面もあるという。母親の話は映画にもなった。映画に関わった俳優の佑くんが母親の墓参りに行きたいと言うので、簡単な地図を描いて渡したところ、本当に岡山まで行ってくれた。途中で道に迷いながらも墓にたどり着き、手を合わせて写真を撮ってきた。その写真を見せられて末井さんは嬉しかったと言い、こんなハンサムな男が東京から来てくれたのだから母親も喜んでいるだろうと笑う。

末井さんは、母親が自分を動かし、本を書かせてくれているような感覚があると語る。社会に出てからしばらくは、この体験を誰にも言えず、自分はこうなのだというマイナス思考を抱えて辛かった。しかし人に話し、書くようになって、考え方が変わった。考え方や行動の仕方次第で、ネガティブなものはポジティブにできる。それが自分の中の一つのテーマだと末井さんは言う。

45:15

78歳の今

今いちばん楽しいのは、月2回ほどのバンド活動だという。楽器を鳴らしていると楽しいと末井さんは語る。

今後の夢を聞かれると、「この年になって夢なんかない」と答えた。78歳で、もうすぐ80歳になる。考えるのは、いつまでこの状態が続けられるかということだという。年を取るほど体のあちこちが痛くなり、視力も落ちてくる。目標は特にないが、今の状態がある程度死ぬまで続き、なるべく快適に生きて死ねればいい。それが目標だと末井さんは話している。