歌舞伎町の路上から沖縄の食堂、グループYouTuberへ 料理人・孫六の46年

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概要

沖縄でトロピカルジュースの店を再開しようとしている孫六さんは、46歳の料理人で、グループYouTuberの専属メンバーだったこともある。個人でもYouTubeチャンネルを運営している。病気で1年ほど店を閉め、最近ようやく体が動くようになったという。本人は「楽しそうなこと」を優先してきたと振り返る。料理人を志した若者が、歌舞伎町で違法な呑み行為の看板持ちを経験し、恩納村で店を当てて失い、YouTubeで思いがけず人前に出るようになった。インタビューでは、その経緯が本人の言葉で語られた。

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浦添市で育った10代と、消えたドイツ行き

孫六さんは那覇の隣、浦添市の出身である。現在は独身で、結婚歴もない。沖縄では離婚歴のない人の方が珍しいかもしれないと話し、離婚率が高い理由については、小さな島なので噂がすぐに広まり、浮気が露見しやすいからではないかと推測していた。

父親は建設業を営んでいた。連帯保証を背負って多額の借金を抱えたが、働いて返したという。孫六さんも子どもの頃から現場の掃除などを手伝い、小遣いをもらっていた。

高校卒業後は調理の専門学校に進むつもりで、入学手続きも済ませていた。入学式までの間に友人が訪ねてきて、ドイツに行こうと誘われた。これからドイツでは日本料理が来るから、向こうで働けば稼げるという話だった。30年近く前の話であり、今思えば友人には先見の明があったと孫六さんは言う。それでも決め手は「楽しそう」だったことで、専門学校には入学を取りやめると伝えた。ところがしばらくして友人が来て、ドイツ行きはなくなったと告げた。入学金を返すため、孫六さんは1年間、実家の建設業を「死んだ目で」手伝うことになった。

沖縄では、高校を出て特に目的がなく、とにかく金を貯めたい人が、本土の自動車工場などに半年ほど働きに出ることが多い。孫六さんの上京はそれとは違った。酒の席で将来どうするのかと聞かれ、勢いで「ナイチ(本土)に行く」と答えた。本当に行けと言われ、1週間後には出発することになった。手元にあったのは給料の10万円だけで、東京に知り合いがいるので何とかなるだろうという程度の見込みだった。

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電車に乗れず、キャバ嬢の寮に1か月

東京に着いた孫六さんが最初に直面したのは、電車の乗り方が分からないことだった。当時の沖縄には電車がなく、今のモノレールもまだない。働きに出ようにも移動ができず、1か月ほど引きこもっていたという。

身を寄せたのは赤羽にあった寮である。知り合いのキャバクラ嬢の恋人が会社を経営しており、その会社の寮に住めばいいと言ってくれた。ただしキャバクラ嬢向けの寮だったため、男の孫六さんは見つからないように暮らしていた。1か月ほどは隠し通せたが、結局見つかって追い出された。

その社長は居酒屋を始めたいと考えており、開店まで料理を勉強してほしいと孫六さんに頼んだ。孫六さんは炭火焼き鳥の「月の雫」がちょうど1号店を出した頃にたまたま目にとめ、そこでアルバイトを始めた。しかし社長から居酒屋の話はなくなったと告げられる。「またか」という展開だった。

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違法と知らずに立った風林会館前

社長が代わりに始めたのは、競馬などを対象にした違法な「呑み行為」だった。孫六さんは当時、それが違法だとよく分かっていなかったという。理由として挙げたのは沖縄の環境である。沖縄には競馬場がなく、違法な賭博にも緩かった。孫六さんによれば、喫茶店に金を賭けられるゲーム機が置かれているのは当時も今も珍しくなく、看板を堂々と出している店もある。那覇にもあるし、自宅の近くにもあった。摘発は数年に一度ある程度らしい。家の近くでは、鶏を戦わせる闘鶏(タウチー)に金を賭ける人もいた。そうした中で育ったため、賭博が違法だという感覚自体がなかったと話す。

孫六さんの仕事は、店名を書いた看板を持って立つ「サンドイッチマン」だった。チケットを持っていれば分かる人には分かる、という形の宣伝だったらしい。立たされた場所は歌舞伎町の風林会館の近くである。初日から、入れ墨が入っていそうな年配の男性に「ここは誰の島だと思っているんだ」と言われた。後で知ったところでは、この男性はサンドイッチマンを取り仕切る元締めのような人物だったという。

他のサンドイッチマンたちはタコ部屋のような所に住まわされていた。孫六さんは個人で来ていたため条件が良く、時給に換算すると2000円を超えていた。他の人の話を聞いて、自分の金額は言わない方がいいと直感したという。ただし、何かあっても名前は出せないと言われていた。呑み行為の仕組みについては、公営ギャンブルのオッズをほぼそのまま使い、換金率などで手数料のようなものを取っていたらしい。孫六さん自身は店の中に入っていなかったので、詳しくは分からないと話していた。

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強盗殺人の容疑者候補、ガス爆発後の取り締まり

この仕事は3〜4か月ほど続いた。その間に、孫六さんの中で「これが歌舞伎町か」と思う出来事がいくつもあった。

一つは、強盗殺人の犯人と疑われかけたことである。孫六さんがいつも立っていた場所の近くに、エステのような店があった。孫六さんが2日間だけ沖縄に戻っていた間に、その店で店員が殺される事件が起きたらしい。聞き込みの中で「いつも立っているあいつがいない、やって逃げたのではないか」という話になり、孫六さんは軽く候補に挙がったという。ただ事情聴取はされず、すぐに解決したのではないかと話している。本人は現場にいなかったため、事件の詳細は知らない。

もう一つは、歌舞伎町を代表する事件の一つとして語られた雑居ビルのガス爆発である。孫六さんの説明では、非常口に荷物が置かれすぎていて逃げ遅れた人が何十人もいた。この事件の後、警察の取り締まりが一気に厳しくなった。孫六さんは、イメージ回復のためかもしれないと推測する。目の前でカジノなどが摘発されていくのを見て、「すごいことになっている」と店に報告した。すると翌日、店長が売上金を持って姿を消し、店はそのまま閉じられた。孫六さんは20歳前後で職を失った。

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麻痺していく倫理感と、組事務所の空気

路上に立ち続けるうちに、同年代のチンピラのような若者たちと仲良くなっていた。仕事がなくなった話をすると、「じゃあうちに来る?」と軽く誘われたという。孫六さんは、ああいう場所に何か月もいると倫理観が麻痺してくると言う。人生で一度ぐらいやってみてもいいかと思うようになっていた。

それまで教わってきた道徳が通じない場所だったことを示す例として、孫六さんは暴力団同士の抗争の話をした。普通は葬儀場での抗争はご法度とされているのに、それが起きた。孫六さんはそれを知らないまま歌舞伎町に行き、空気が明らかに違うと感じた。周りの人から「今は迂闊なことをしない方がいい」と言われたという。昼間の歌舞伎町は思っていたより下町らしく、怖さはあっても、若い男たちが近所の女性と立ち話をするような雰囲気だった。それがその日は一変していた。通り沿いに停めてある車に幹部が乗って出るとき、普段はそのまま出ていくのに、その日は若い男たちが道路を封鎖して送り出していた。止められた車の中にはパトカーも混じっていたという。下手に動くと大変なことになるから、警察も黙っていたのではないかと孫六さんは推測している。

薬物の売人の誘いも受けた。孫六さんが怖かったのは、相手に騙すつもりも悪気もなかったことだという。「お前の金になるぞ、儲かるぞ、自分では使うなよ」という調子で、ごく気軽に持ちかけられた。そうした誘いを受けると、「自分はまだまともだ」と確かめられたとも話す。それでも後半は本当におかしくなっていて、組織に入ろうと思いかけていた。

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電話一本で料理人の道へ、そして「月の雫」を辞めた理由

組織に入りかけていたところに、以前居酒屋の開業準備で関わった料理長から電話がかかってきた。今何をしているのかと聞かれ、ちょうど仕事がなくなったと答えると、戻ってきて社員になれと言われた。当時の料理人には本職と見まがうほど怖い人も多く、断れなかったと孫六さんは笑う。あの電話がなければ、そちらの道に行っていたかもしれないという。

勤め先は「月の雫」で、「東京チカラめし」なども手がける会社だった。孫六さんが入ったときは会社全体で10店舗もなかったが、辞める頃には200店舗という話が出ていた。上場の時期とも重なっていたという。

辞めた理由は、会社が大きくなったことそのものだった。孫六さんは料理については真面目なタイプだと自分を評する。大型の居酒屋でもきちんと仕込みをして料理を出していた。ところが店舗数が増えるにつれ、温めるだけの出来合いの品が増え、勉強にならないと感じるようになった。22歳のとき、200席以上の新店で料理長をやれと言われた。まだ修業中の年齢で管理職になれば、今は金をもらえても、将来技術がないまま料理長を名乗ることになる。そう考えて断り、会社を辞めた。

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ホームシックの周期と沖縄への帰郷

辞めてしばらくして沖縄に戻った。上京した沖縄の人は3年ほどで戻るのが普通で、孫六さんは長い方だったらしい。孫六さんによれば、ホームシックには周期がある。1か月、3か月、半年、1年の節目に帰りたくなり、そこを越えると「ずっとここでいい」と思うようになる。孫六さん自身は東京に居着く流れにあったが、家庭の事情で戻ることになった。

沖縄では、知人が立ち上げる居酒屋を任され、5年ほど働いた。28歳のとき、母親が勤め先の定年を前に自分の店をやりたいと言い出した。親に迷惑をかけてきたこともあり、兄弟とも話し合って、孫六さんは居酒屋を辞めて手伝うことにした。ところが辞めた途端、母親は店はやらないと言い出した。孫六さんはこれを「ドイツの再来」と表現した。それならこの機会に独立しようと決めた。

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恩納村の120席、最初の1年は赤字

選んだ場所は恩納村だった。今は居酒屋が多いが、当時はほとんどなかった。沖縄の人にとっては店を出す場所ではないというイメージがあり、知り合いが食べに来ないと思われていた。孫六さんはむしろ、知り合いのいない場所で勝負したかった。

借りたのは120席ほどで、駐車場に10数台停められ、目の前にホテルがある物件だった。沖縄の人が借りるのは珍しく、しかも28歳と若かったため、大家が家賃を大幅に安くしてくれた。孫六さんの記憶では月18万円ほどだったという。

しかし最初の1年は苦労した。地元向けの居酒屋は経験があったが、観光客向けは売り方が違った。地元向けなら、美味しければ口コミで広がり、知人が客を連れてくる。観光地の客はほぼ一見で、宿泊先の近くで調べて店に来る。美味しいものを作れば客が来ると考えていた孫六さんは、それを知らなかった。客は入らず、1年ほど赤字が続いた。

他の店を調べて分かったのは、雑誌などに相当な広告費をかけていることだった。孫六さんの解釈では、観光客は安くない金を払って沖縄に来ており、貴重な一食を外したくない。だからよく調べて美味しそうな店を選ぶし、口コミだけでは不安になる。そのため情報や写真をたくさん載せる必要がある。孫六さんは残っていた資金で最後の勝負に出て、月30万円近くを広告に使い始めた。ぐるなびで金を払えば上位に表示される枠や、レンタカーのおすすめスポット紹介などである。その結果、行列ができるまでになった。広告費はかければかけるほど売上が伸びる感覚だったという。最終的には3店舗ほどを経営し、ほぼ恩納村だけで売上は1億円に届きそうだったと話している。

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天狗になった末の震災と裏切り

成功の次に待っていたのは「天狗」の時期だったと孫六さんは言う。店に顔を出さず、営業と称して飲み歩いた。自分の給料は30万円ほどに抑えていたが、経費で一晩に5万〜10万円を使う生活を、ほぼ毎週続けていた。本人は当時の自分を「ちゃんとクソでした」と振り返る。

そこに2011年の東日本大震災が起きた。観光客がぱったり来なくなり、収益が消えた。さらに裏切りがいくつか重なった。1年以内に500万〜600万円以上の金が不正に消え、問い詰めると相手は「味方です」と答えた後に逃げた。孫六さんは怒りよりも、自分も顔を出していなかったのだからそうなるという自戒の方が強かったという。

この件で心が折れ、大勢を雇って大金を扱うのは自分には向いていないと考えた。稼ぐ方法はいくらでもあったが、問題はメンタルだったという。他の社長たちに話を聞くと、皆どこかで同じような目に遭っている。それでも跳ね返す勢いで前に進んでいるのを見て、すごいと思った。自分は急に成功したこともあって、そういう出来事で折れるタイプだったと孫六さんは語る。店は店長に売るか閉めるかして手放した。30歳か31歳の頃、50万円ほどで30席あるかないかの小さな食堂を開いた。余生をここで過ごすつもりだったという。

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オタクの研究と、グループYouTuberとの出会い

その頃、孫六さんがよく通っていたのが、ニコニコ生放送を配信している店だった。アイドルオタクやアニメオタクが集まる場所である。居酒屋を経営していた頃は自分が一番という感覚で、周りもそうだった。ところがオタクたちは、自分より推しを優先する。食費を削ってでも推しの生誕祭に良いプレゼントを買い、県外のイベントにも遠征する。孫六さんはそれまでそういう人たちを見たことがなく、自分を「オタクのオタク」と呼ぶほど、彼らの話を聞くのにはまっていった。

そこにたまたま、沖縄のグループYouTuberが遊びに来ていた。話しているうちにリーダーが孫六さんに興味を持ち、YouTubeに出ないかと誘った。10数年前のことで、孫六さんはYouTuberという言葉もほとんど知らなかった。軽い気持ちで引き受けると、メンバーが大きなカンパチを釣ってきたので捌いてほしいと連絡が来た。その動画がいきなり100万回再生を超えた。当時はそうした動画が珍しかったからではないか、理由は分からないと孫六さんは話す。後に有名になる料理系YouTuberがまだ無名だった頃に挑戦状を受け、魚を捌く速さで対決するコラボをしたこともあったという。

メンバー入りしたのは、別の日に呼ばれたときだった。その場には若者が大勢いて、メンバーオーディションが行われると告げられた。孫六さんも出るように煽られ、笑いを取ればいいだけだと思って参加した。入るつもりは本当になかったという。すでに顔見知りで笑いを取りやすかったこともあり、合格を告げられた。後にコメント欄では孫六さんを入れるためのやらせオーディションだったと言われたが、本人は本当に何も知らずに行っただけだと否定している。

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客の多い食堂、手取りは月11万円

食堂でも撮影をするようになった。取ってきた魚を捌いたり、料理対決をしたりした。すると地元客ばかりだった店にファンが来るようになり、やがてファンしか来なくなった。常連が離れたわけではないという。

それでも売上はさほど伸びなかった。ファンが来る店で値段を上げ、ネットでぼったくりと言われるのが嫌だったからだ。唐揚げ5個にご飯、スープ、漬物がおかわり自由で580円という値付けにしていた。客は大勢来たが、孫六さんの月の取り分は11万円ほどだった。これではまずいと考え、大きな物件に移転して人を雇うつもりで、一度食堂を閉めた。

移転先を探しているうちに、メンバーの1人が事情で抜けることになり、専属メンバーが足りなくなった。店を開けるまでの間ならと、孫六さんは専属として多めに動画に出ることにした。専属の期間は、本人の記憶ではおよそ2年だという。

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真冬の北海道サバイバルと海ヘビ

専属になって、孫六さんは撮影の過酷さを思い知った。それまではスポットで出演していたので楽しいくらいだったが、知識なしで何でもやる「面白そう最優先」の企画で、死んでもおかしくない場面もあったという。

その例として語られたのが、1月の北海道でのサバイバル企画である。企画は何も決めず、とりあえず雪でかまくらを作って1泊しようということになった。雪は山の上にあるだろうとレンタカーで山を登ったが、山の上の雪はパウダースノーで固まらない。孫六さんは自分たちの努力が足りないと考えて2時間ほど粘ったが、諦めた。日が沈む前に下山しようとしたが、沖縄の感覚でいたため、北海道では午後4時に暗くなることを知らなかった。真っ暗な山中で道が分からなくなり、ガソリンが切れたら死ぬと焦りながらさまよった。ガソリンが減っていく中で、カーナビにリプレイ機能のようなボタンを見つけ、押すと来た道が表示された。そのルートをたどってようやく山を下りたという。

2泊3日のサバイバルで4キロ痩せたこともあった。落ちているものを食べる企画で、海ヘビを見つけたときは喜んだという。ハブより毒が強いという噂もあったが、調べずに、頭を落とせば大丈夫だろうと串に刺して焼き、皆で分けて食べた。

孫六さんは、カメラを通して見ていると自分は死なない気がしてくると話す。戦場カメラマンもこういう感覚なのかもしれないという。水深数百メートルの沖で船が大きく揺れていても、良い映像が欲しくて身を乗り出して撮影していた。危ない状況を「チャンス」と感じる瞬間があったという。頑張るほどコメント欄が盛り上がり、「こいつらバカだ」と言われるのが嬉しかったと語る。

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料理人としての違和感から個人チャンネルへ

一方で、YouTubeの企画上、ハブでラーメンを作るといった変わった料理も作らなければならなかった。孫六さんは料理人として良くない方向に進んでいる気がして、きちんとした料理のチャンネルを作りたいと考えた。ちゃんとした料理もできると示す「言い訳」の意味もあったという。グループに相談して了承を得て、沖縄料理などを作る個人チャンネルを始めた。その後はグループと個人の活動が半々になった。グループは人も増え、孫六さんは何かあれば呼んでもらう形になった。インタビュアーがフェードアウトかと尋ねると、孫六さんはそうだと答え、体の状態も理由だと付け加えた。

40:02

20キロ分の水と、1日1時間の撮影

1年以上前、もともと良くなかった体が完全に壊れた。孫六さんは正確な病名をはっきり把握しておらず、心不全のようなものかと話していた。体に水が溜まり、1週間で20キロほど体重が増え、尿が出なくなった。死にかけて入院し、2週間で20キロ分の水を抜いた。その後は体が動かなくなり、店も1年以上閉めた。

孫六さんが幸運だったと言うのは、個人チャンネルの内容を途中で料理から食レポに切り替えていたことだ。食レポなら1時間ほどで撮影できる。1日1時間だけ頑張って撮影し、食事をして、あとは寝る。その生活を1年ほど続けた。YouTubeがなかったら危なかったと孫六さんは振り返る。

41:28

表に出た人が考える、次の仕事

今の心境を聞かれると、孫六さんは、やりたいことはやり尽くした方だと答えた。普通の人では得られない人生を得て、街を歩けば写真を撮られ、サインを求められる。その次に何があるのか、生きがいを少し見失っているようにも見える。とりあえず店をやればファンが喜ぶので、ジュース店を再開する。軌道に乗ったら、また居酒屋をやりたいと考えている。

専属メンバーだった2年間については、普段なら話せない人と話せたことを挙げた。名前が出たのは、葉加瀬太郎さんや、小説『コーヒーが冷めないうちに』の作者である川口先生である。川口先生も釣りにはまり、仲良くなったという。孫六さん自身は「捌き担当」だったが、気づけば釣りについてもある程度話せるようになっていた。

途中で気づいたのは、自分は裏方の方が好きかもしれないということだった。もともと表に出たい人間ではなく、手伝っているうちに盛り上がって表に立つことになったのだという。今は、せっかくできた人脈を生かして、沖縄でしかできないような大きなイベントや祭りを打ちたいと考えている。今後はその方向で動いていくつもりだと孫六さんは語った。