ブラックエンペラー6代目・蛯澤賢治が語る暴走族時代、その後の仕事、関東連合との違い

YouTubeで開く ↗
概要

1970年代にブラックエンペラーの6代目総長(番組内では「会長」とも呼ばれる)を務めた蛯澤賢治氏が、街録chのインタビューに答えた。同席したのは、蛯澤氏のYouTube「エビケンチャンネル」で司会を務める年下の男性である。暴走族へ入った経緯、数千人規模の組織の実態、20歳での引退、その後のラジオ・Vシネマの仕事、右翼活動、そして現在「半グレ」と呼ばれる関東連合との関係までが語られた。蛯澤氏の答えは全体に短く、多くを語らない場面も多い。

11分で読めます
29:06

下北沢生まれ、軍人だった父

蛯澤氏は現在66歳と答えている。出身は下北沢で、当時の下北沢を「国士舘とヤクザの町」と表現した。父は会社の社長で、生活に不自由はなかったという。

父は若い頃に軍人として戦争に行っており、家庭では非常に厳しく、子どもにも敬語で接したという。蛯澤氏は父に鍛えられた面があると認めている。父は早くに亡くなり、蛯澤氏が暴走族に入ったのは母と暮らしていた時期だった。父の遺産で生活には困らなかったと話している。

2:18

親友の誘いで入ったブラックエンペラー

きっかけは親友だった。隣の中学校は「東京で一番悪い」と言われるほどで(蛯澤氏は「町の悪」だったと言い直している)、そこにいた相手と知り合い、喧嘩にはならず互いにリスペクトし合う関係になったという。

ブラックエンペラーの初代は国立で発足し、その後、初代と新宿の遠藤氏が知り合ったことで新宿が本部になった、と蛯澤氏は説明する。友人に誘われ「行ってみなきゃいけねえだろう」と顔を出したところ、統制が取れている組織に感心したという。入ったのは2代目の時期で、中学3年のときだった。

最初に所属したのは新宿直結の下馬(世田谷)の支部である。友人がすでに幹部だったため、下っ端として扱われたわけではなかった。幹部になるかどうかは年功序列と実力の「両方」で決まり、高校1年ごろから立場が上がっていったという。中学時代から喧嘩が強いことで知られていたが、自分から喧嘩を求めたのではなく、道で毎日のように売られたからだと説明している。

3:29

13支部のピラミッド型組織

ブラックエンペラーが短期間で有名になった理由として、蛯澤氏は第一に「強さ」、次に統制の取れた組織、そして走りの速さとうまさを挙げた。

組織は会長を頂点とするピラミッド型で、都内に13の支部があり、それとは別に横浜、千葉、茨城にも拠点があった。茨城では大きなチームがそのままエンペラーに移ってきたこともあったという。毎週火曜日に幹部会が開かれていた。都内の支部をすべて挙げるよう求められると、蛯澤氏は「脳が廃用になってるから思い出せない」と笑い、下馬や三軒茶屋などの名前を挙げるにとどまった。6代目時代の規模は「何千人」だったとされる。

関東連合という名前は1976年ごろにはすでにあり、蛯澤氏がまだ下っ端だった頃から存在していたという。発足当初も、その後も「純粋な暴走族」の連合だったと蛯澤氏は強調した。

6:34

18歳で総長に:喧嘩だけではなれない

6代目総長になったのは18歳の終わりか19歳のとき。その前は隊の頭を務めていた。総長は幹部会で決まった。ヤクザとの個人的なつながりはあったが、組織として「ケツ持ち」がいたわけではないと話している。

喧嘩が強いだけで総長になれるのかという問いに、蛯澤氏は「なれないと思います」と答え、必要なのは「人間力」であり、周りに推されてなるものだと説明した。

司会の男性は、自分の世代から見た蛯澤氏の存在感を語った。三多摩地区のブラックエンペラーの先輩から多くを教わったが、その先輩自身も警官4人を相手に暴れたり、相手がヤクザでも喧嘩をしたりする、180センチ後半の大柄なカリスマだった。その人が蛯澤氏の言うことは聞いていたという。司会の男性によれば、蛯澤氏とは年がかなり離れているが、当時中学生だった自分たちの世代でも関東の暴走族で「エビケン」を知らない者はいなかった。写真集などを見ても、いつも大勢の真ん中にいる人だったという。

9:57

女性関係と「レディースは認めていなかった」

当時よくもてたかという質問には、司会の男性が「もてたと思う」と答えた。蛯澤氏は、交際相手には後にモデルになった人が多かったと認めたが、具体的な名前は「迷惑になる」として明かしていない。出会いは「友達の友達」を通じてだったという。

レディース(女性暴走族)については「あんまり認めてなかった」と話す。理由は、喧嘩になったときに危ないからだという。浮気については「基本的には」しなかったと答え、笑いを誘った。司会の男性は、現在も昔の話を聞いても、蛯澤氏は非常に礼儀正しい人物だと話している。

13:00

高校中退と逮捕歴

高校は日本工業大学附属東京工業高校(現在の駒場学園に当たると字幕上は話されている)に進んだ。勉強は「できない」と本人は言う。バイク事故で半年休学し、留年して再び通ったが続かず、卒業はしていない。

逮捕歴は「もちろん」あり、暴走行為よりも喧嘩によるもののほうが多かったという。罪名としては傷害になるが、少年院には行かず鑑別所で済んだと話している。

13:38

キラー連合との抗争と喧嘩の「一線」

最大の抗争として挙げたのは、足立など下町を拠点とするキラー連合との衝突で、何度もやり合ったという。足立の突っ張りを見つけるとすぐに襲撃していたが、「うちは負けちゃいない」と話す。ただし、勝ち負けがついても相手を傘下に入れることはあまりなく、「所詮子供のやること」だと振り返った。抗争を終わらせる際には「対面式」と呼ばれる手打ちの場を設けていたという。

規模の大きい喧嘩は200台対200台程度で、それは珍しくなかった。河原などに集まるのではなく、国道で暴走族同士がすれ違ったり、前を走る相手を後ろから追ったりして起きた。インタビュアーが漫画『カメレオン』のように鉄パイプで頭を殴るイメージかと尋ねると、蛯澤氏は「ちょっと違う」と答えた。頭は危ないから殴らない。ヘルメットをかぶっている相手なら叩くが、殺さないようにする意識はあったという。車のボンネットの上で飛び跳ねれば、角度によって横やフロント、リアのガラスが割れる、という話もしている。死者は「時折出ちゃう」が、あまり出なかったと蛯澤氏は述べた。

15:08

20歳での引退と道路交通法改正

蛯澤氏は20歳で引退した。20歳が引退の相場というわけではなく、本人は「限界だった」と説明する。それ以上続ければ逮捕されて「体を持っていかれる」状態だった。道路交通法が改正され、3〜4台で走っただけで逮捕されるほどの締め付けになり、組織として走ること自体ができなくなったという。

最後の集会を開いたが、エンペラーを解散したわけではない。蛯澤氏は7代目を指名せず、組織として走るのは自分の代で終わりにし、あとは各自が地元で活動していけ、という形をとった。

最大で千台規模、二千人規模で走るようになり、目立ちすぎたことが規制の背景にある。規制はエンペラーだけが原因ではなく、同じ規模で走るチームが全国にいくつもあったからだと蛯澤氏は補足した。台数で言えばエンペラーより多いチームもあったという。

ウィキペディアに7代目として名前が載っている人物(俳優として知られる)については、実際にはチームの頭をやっていたが組織的には走れなかったため、マスコミが7代目と決めて発信したのではないか、と蛯澤氏は推測する。ただし、その人物は本当に頑張っていたので、そう呼んでもおかしくはないとも述べた。

振り返って、暴走族がここまで膨れ上がる前に歯止めをかけるべきだったかと問われると、「あれは止まんないですよ」と答えた。一方で当時の取り締まりには不満も残る。今では市販車の標準であるドアミラーや、185サイズのタイヤを付けただけで整備不良として取り締まられた。「非常にナンセンス」で、今の車をあの時代に戻せば全部整備不良になる、と蛯澤氏は話した。

19:36

暴走族の頂点からラジオのADへ

引退後に入ったのはラジオ業界だった。取材で知り合った有名なプロデューサーから何度も誘われ、契約社員のADとして働き始めた。当時はラジオの全盛期で、『オールナイトニッポン』の最初のブームに続く時期だったという。中高生の頃は将来のことは何も考えていなかった。

数千人のトップからいきなり業界の最底辺に入ることに抵抗はなかったかと聞かれ、蛯澤氏は「なかった」と答えた。引っ張ってくれた人や、当時の局の雰囲気や環境が良かったからだろうと振り返っている。最初に担当したのは松坂氏の番組や、武田鉄矢氏の番組だった。

その後ラジオ番組のディレクターを約10年務め、上司が独立したのに伴って制作プロダクションへ移り、ラジオ業界には合計15年ほどいた。次に映像の世界へ移り、Vシネマのプロデューサーになった。きっかけはエンペラーを題材にしたVシネマの制作で、当時はエンペラーやスペクター、極悪など各チームがVシネマを作っていたという。Vシネマの仕事は10年ほど前まで続けた。

30:10

右翼活動と「マスゴミ」への不満

暴走族と並行して、蛯澤氏は右翼活動もしていた。ブラックエンペラー自体は右翼団体とつながっていなかったが、地元の先輩の関係で誘われた。国士舘などの大学生の右翼も多く、当然政治思想を持っていたという。

蛯澤氏自身は、自分の考えを「右翼」ではなく「まとも」だと考えている。日本を愛するのは普通のことだと思っていた、と話した。街宣車に乗って国会議事堂やロシア大使館に行ったこともある。当時は尖閣諸島の問題や北方領土問題が出てきた時期だった。左翼系の学生運動との衝突は、自分たちの代ではあまりなかったが、先輩たちはしょっちゅうぶつかっていたという。

ラジオや映像の仕事では、そうした思想に関わる企画は出さなかった。どうせ通らないからだ。マスコミは左寄りが多いのではという問いに、蛯澤氏は「マスゴミだもんね」と応じた。それでも15年ラジオにいられたのは、当時は戦前・戦中派の人がまだ多く残っていて、意見をぶつけ合っても後で「あいつの言ったことは間違ってなかった」と認められる人がいたからで、話が通じたのだと説明している。

22:21

半グレ化した関東連合は「別組織」

現在「半グレ集団」として知られる関東連合について、蛯澤氏は自分たちの関東連合とは「別の組織」で、名前が同じだけだと明言した。有名な名前を借りたかったのかと問われても「それは彼らに聞いてみないと」と答えるにとどめた。

インタビュアーは、六本木での殺人事件や、闇バイトを取り仕切っていた人物が関東連合の元トップの親友で、アジアで逮捕されたという話題に触れ、意図せず巨大化していく印象を語った。蛯澤氏は、その頃には自分はラジオや映像の仕事をしており、普通の視聴者のような感覚だったと答えている。

昔と今の不良の違いについて、司会の男性は「昔はルールがあった」とまとめた。蛯澤氏は、頭を殴らないことに加えて、「女には手を出さない」「薬物には手を出さない」という決まりがあったと話した。暴走族の人口が最盛期に比べて1万人もいないほどに減ったことについては「仕方ない」「物理的に無理でしょ」と答えている。

34:29

エビケンチャンネルと現在の暮らし

エビケンチャンネルを始めて約4年になる。司会の男性は、築地で居酒屋を営む極悪の田中氏の紹介で蛯澤氏と知り合った。3〜4年前のことで、田中氏とは15〜20年の付き合いがあったが、蛯澤氏とは会う機会がなく、「めちゃめちゃ怖い人」だと思っていたという。会ってみて、自分が教わった三多摩の先輩と蛯澤氏が同級生だったことを初めて知った。

ブラックエンペラーを作品として残したい理由を聞かれ、蛯澤氏は「自分が噛んで残したものがないから」と答えた。暴走族時代で楽しかったことは「仲間との出会い」だという。

チャンネルへの反響について、司会の男性は、同世代の元暴走族から「俺らもまた頑張ろう」という共感のコメントが多いと話す。昔の仲間から連絡が来ることもある。田中氏の居酒屋には、蛯澤氏や田中氏に会いたいファンが訪れて昔話を聞き、新しい仲間も増えているという。ラジオや映像の現場で、不良出身者から「蛯澤さんですよね」と声をかけられることもあった。

現在の暮らしについて蛯澤氏は、年金暮らしをしながら不動産の手伝いをしていると話した。世話になった人がまだたくさんいるので、なんとかしなければいけないという。何かで「引っかかった」大変な経験もあったとほのめかしたが、詳しくは語らなかった。

チャンネルの目標は司会の男性が語った。立ち上げたメンバーには、蛯澤氏の世代をもっと盛り上げたいという思いがある。蛯澤氏を通じて非行少年に「暴走族をやめてもこういう生き方がある」と伝え、同世代や自分たちの世代には「蛯澤さんも頑張っているんだから俺らも頑張ろう」と思ってもらいたい。本人は「うまく話せない」と断りつつ、「みんなに光を」「暴走族が日本を救う」という思いでやっていると語った。ただし、暴走族文化そのものの復活を望んでいるわけではないとも確認している。