買収された側から老舗の社長へ 天野智之が語る留学、起業、コロナ禍のアルク改革
MAKE IT NEXT語学教育のアルクで取締役を務める天野智之は、2020年、37歳で創業51年の同社の代表に就いた。天野が共同設立した会社はアルクグループに買収されており、天野は買収された側から親会社のトップになったことになる。ナビゲーターのSean Kawakamiは、天野がキャリアの節目ごとに頼ってきた判断の基準、番組の言葉でいう「羅針盤」は何だったのかを尋ねる。もう一つの問いは、長い歴史を持つ会社をどう新しくしていくかである。天野は、どの節目でも深く悩んでいたと振り返りつつ、「踏み出した方が後悔は少ない」という考えを繰り返し語った。
出版の縁と、天野のプロフィール
対談のきっかけは、Kawakamiの著書『英語力の核心』をアルクから出版したことにある。Kawakamiは、英語教育出版といえばアルクと言われるほどのブランドから本を出せたことに感謝を述べ、アルクの会議室で天野と初めて名刺交換したことを紹介する。
Kawakamiの紹介によると、天野は1982年に宮城県で生まれた。中学時代に先輩の留学話を聞いて興味を持ち、ニュージーランドとアメリカに留学し、カリフォルニアの州立大学を卒業した。帰国後に大手電機メーカーに勤め、25歳で独立し、留学情報やグローバル化支援を手がける会社トゥモローを共同設立した。2019年にトゥモローがアルクグループに入り、2020年にアルクの代表取締役に就任した。現在は取締役である。
25歳の独立は「深い考え」からではなかった
キャリアを振り返ってほしいと言われた天野は、こうした道筋はまったく想定していなかったと答えた。会社員から「飛び出しちゃった」感覚で独立しており、当時は深い考えがあったわけではないという。若かったので、仮にうまくいかなくても転職の可能性は無限にあると考えていた。そのため、ためらうよりも先に挑戦して、それから考えようと思ったと説明する。
Kawakami自身も27歳で独立しており、当時は周囲から「大丈夫か」と言われる年齢だったと話す。天野が起業したころについて、天野は、ライブドアの堀江貴文が逮捕された時期だったと振り返る。その少し前に起業家が増えていたが、起業に危うさを感じる人もいて、「出る杭は打たれる」雰囲気が多少あった時代だったと天野自身は捉えている。
番組の二つのテーマ
Kawakamiはこの回のテーマを二つ示した。一つは、天野が意識的にも無意識的にも感じてきたキャリアの「羅針盤」である。人生は計画どおりには進まないが、天野はそのつど自分にとって正しい判断をしてきたはずで、その判断を支えたものがあるのではないか、という問いだ。
もう一つは、老舗企業をどう新しくするかである。アルクは1969年創業で、Kawakamiは1968年生まれなので、自分とほぼ同年齢の会社だと話す。理念は「地球人を作る」。Kawakamiが「ヒアリングマラソン」の名を挙げると、天野は現在はアプリで続けていると補足した。Kawakamiは今も「英辞郎」を使っているという。Kawakamiによれば、社歴の長い会社に勤める視聴者や、自身の顧客である経営者の中にも、次世代をどう育てるか、本業をどうするか、温故知新をどう実現するかに悩む人が多い。そうした人たちに向けて、天野の経験を聞きたいという。
仙台の中学生が受けた衝撃
天野は4人兄弟の末っ子だった。兄は偏差値の高い高校に通っていて、その友人がニュージーランドに留学していた。その先輩が夏休みか何かで一時帰国したときに会い、話を聞いたという。
天野は当時13〜14歳だった。仙台の「田舎」から、大人ではなく15歳の高校生が海を渡ったことに強い衝撃を受けた。国内で高校受験をせずに海外へ出るという人生の選択肢があると知ったのである。天野は幼いころ、特に情熱を持てるものがなかった。しかしこの話を聞いて突然「やってみたい」と思い、根拠もなく海外に行きたいと考えるようになった。
ただ、ニュージーランドがどこにあるかも知らなかった。羊のイメージから、アルプスの少女ハイジのようなヨーロッパの国かと思っていたと笑う。当時は1ニュージーランドドルが55〜60円ほどで物価も安かった。そのため、親も簡単ではなかったはずだが、思っていたより高くないので自分の家でも行かせられるかもしれないと考えたのではないか、と天野は振り返る。
「会話ができない」最初の半年
渡航するとき、天野は恐怖心よりも「行きたい、楽しい」という気持ちが勝っていた。天野はこれを、後に起業したときの感覚と似ていると話す。一方で、英語を特に勉強していたわけではなく、普通の公立中学校で英語の成績が特別良かったわけでもなかった。
最初は苦労した。現地の子どもたちは初めは優しく話しかけてくれる。しかし天野が返せないので、優しい子もだんだん話しかけなくなっていった。未成年でホームステイ先の家庭に入ったが、相手の言うことがわからず、会話がほとんど成り立たなかった。人と会話ができない辛さは大きく、最初の半年ほどは「辛くて辛くて」という状態だったという。
Kawakamiは、この経験でコミュニケーションの大切さと難しさ、異文化を越えるやり方を必死に身につけたことが、英語教育を柱にする今の仕事と合っているのではないかと問いかけた。天野は、ここを目指していたわけではないが、振り返ると自分の経験とキャリアがつながってきていると強く感じていると答えた。
高校をニュージーランドで卒業した後は、アメリカの大学に進んだ。ニュージーランドからアメリカへの移動では、カルチャーショックはそれほど大きくなかったという。同じ英語圏であり、行き先も北カリフォルニアのかなり田舎で、人々はフレンドリーでのんびりしていたからだ。英語ができなかったニュージーランド時代のほうがずっと大変だったという。
カリフォルニアで経験した9.11
天野は2000年から2004年までアメリカにいた。大学2年目、アメリカ人のルームメイトと4人で暮らしていたときに同時多発テロが起きた。帰宅するとルームメイトたちが騒いでいて、テレビにはビルから煙が上がる映像が映っていた。Kawakamiも当時、J-WAVEのスタジオでこの日を迎えており、生放送をどう始めたかを今も覚えていると話す。
天野によれば、ニューヨークから遠いカリフォルニアでも数日間は大混乱だった。外国人への風当たりも強くなり、自分は「よそ者」としてこの国で暮らしているのだと強く感じたという。天野自身がひどい目に遭ったわけではない。しかし、特定の見た目の人々への風当たりが強まる様子を目の当たりにした。中東出身の友人もいたため、対立の場面を間近に見て大きなショックを受けたと語る。
Kawakamiはこの話を受けて、日本ではなかなか実感できない感覚だと述べた。グローバルな場では、違いを越えて合意や統一感(ユニティ)を自分から作ろうとしなければ、それは向こうからは生まれない。多様性を受け身で経験するか、自分から働きかけるかで感覚は大きく変わる、というのがKawakamiの見方である。
あえて日本の大手企業へ、そして独立
帰国後、天野は大手電機メーカーに就職した。Kawakamiは、ウェブ、マーケティング、テクノロジー系と違い、大手電機メーカーから起業する人は多くない印象があると言い、きっかけを尋ねた。
天野は、海外経験の影響も多少あるかもしれないが、挑戦したいという気持ちがずっとあったと答える。日本の大手企業で会社員を経験できたのは良い経験で、多くを学んだ。一方で、実際に勤めたことで、会社員として生きるのではない道を行きたいという思いがかえって強くなった。若いうちに一度挑戦したいと考え、若ければ戻ってこられるだろうという打算も少しあったと率直に話している。
Kawakamiはここで、タリーズコーヒーを日本に持ち込んだ松田公太の話を紹介した。Kawakamiによれば、海外で育った松田は父親から、日本人なのだから日本のことを徹底的に知るべきだと言われ、最も日本的な会社として銀行に入った。そして、二つの文化をつなぐには両方を深く知る必要があると考え、ATMの紙幣の数え方のような業務まで面白くしようとしていたという。Kawakamiは、外資系に行くほうが楽だったはずの天野があえて日本企業に入ったことに、この話と通じるものを感じたと述べる。天野は外資系の経験がないのでわからないとしつつ、「かもしれないですね」と応じた。
独立直後のトゥモローには何もなかった。天野は他社の商品を売る営業代理の仕事から始め、雑誌やウェブの広告を飛び込み営業やテレアポで販売していた。その後、留学支援の事業へと進んでいった。
買収された側から、親会社の社長へ
Kawakamiは、買収された側の人が親会社の社長になるのは面白い構図だと指摘した。天野は、外から見ればそう思われるだろうと認めたうえで、当時のアルクの事情を説明する。アルクは株主が変わったばかりで、新しい株主がこれからのアルクを変えようとしている変革期だった。天野はその変革の流れに加わった形だと捉えている。「売却」と言えば格好いいが、実際には吸収してもらった感覚に近いという。トゥモローの元社員には、今もアルクで働いている人がいる。
Kawakamiは、留学、アメリカの大学への進学、帰国、メーカー就職、起業と、天野が自分で節目を作ってきたことを挙げ、それぞれの決断は気軽なものだったのかと尋ねた。天野はこれを強く否定する。「飛び出した」と言ってはいるが、その場面ごとにものすごく悩んでいたはずだという。それでも、一歩踏み出す後悔と踏み出さない後悔を比べれば、失敗したとしても踏み出したほうが後悔は少ないと今は強く思っている。天野はこの考えを、留学のおかげで身についたものだと感じている。ただし、その場その場ではやはり怖く、実際には踏み出すまでに時間がかかっているとも付け加えた。
「アルクの社長、やるんですか」
50年以上続く会社の社長を引き受けた瞬間の気持ちを聞かれると、天野は意外な答えを返した。自分がアルクの社長をやるという気持ちよりも、周囲から「アルクの社長をやるんですか」と言われたことのほうに驚いたという。その言葉には「できるんですか」という意味も含まれていたと天野は受け止めている。社長になってからも、周囲がアルクに対して老舗というイメージを持っているのか、古臭いというイメージを持っているのかは、天野にはわからないと話す。
Kawakamiは、伝統ある船の船長になるにあたって「新しく」という言葉は気をつけないと無責任になる、と指摘した。人員削減や、本業をおろそかにする別事業の持ち込みにもつながりかねないからだ。そのうえで、まずどこから手をつけたのかを尋ねた。
コロナ直撃の就任、計画はすべて白紙に
天野によれば、変革は今も社員とともに試行錯誤しながら進めている。就任のタイミングは特殊だった。アルクの決算期は4月末で、天野が正式に社長に就いたのは2020年5月、ちょうど新型コロナウイルスの感染拡大のさなかだった。すでにリモートワークになっていて、社員を集めることもできなかった。
アルクには物理的な事業も多い。講師が顧客企業を訪れて研修を行う事業がある。書籍は書店の休業や学校の閉鎖の影響を受けた。人々が自宅で授業を受けたり仕事をしたりするようになり、これまで1か所に納品していたものをどこへ送ればよいのか、誰が受け取るのかという混乱も起きた。そのため、もともと予定していた施策はすべて白紙に戻った状態からのスタートになった。
Kawakamiが「タイミングとしては貧乏くじを引いたようなものでは」と言うと、天野は、社員にとっては本当に辛い時期だったと認めたうえで、自分としては良い面もあったと答える。外から来た若い社長が「変えなければ」と言っても、普通なら受け入れられにくい。しかしコロナという状況のもとでは、皆が「変わらなければいけない」と納得せざるを得なかった。天野はその点を前向きに捉えているという。
変革の二本柱:若手による継承とデジタル化
伝統を守るにはむしろ変わり続ける必要がある、とKawakamiは言う。具体的に何から変革を始めたのかという問いに、天野は、取締役や株主と一緒に進めているものとして二つの柱を挙げた。
一つ目は、若い世代の採用と育成である。アルクはそれまで新卒採用を行っていなかったが、これを始めた。出版業の編集者には職人的な技術を持つ人が多い。そうした人たちの年齢が上がると、技術が継承されないまま失われてしまう。だから若手世代を入れる必要があったと天野は説明する。
二つ目はデジタル化である。アルクはデジタル商品を少し手がけていたものの、多くは持っていなかった。語学学習でもオンライン学習やアプリが広がるなか、コロナ以降はデジタルサービスを積極的に新規で立ち上げてきたという。
Kawakamiはこれを「継承とデジタル化」とまとめ、若手の採用は単なる若返りではないと整理した。英語教育に特化した編集者の知見は、引き継ぐ人がいなければ失われてしまう。本の温かみとデジタルは対立するものではなく、両方をつなげていくものだ、というのがKawakamiの言い換えである。
閉じた業界で「よそ者」扱いされなかったか
最後にKawakamiは、出版業界は閉じた業界ではないかと前置きしたうえで、37歳の外部の人間に対して「わかるの?」「できるの?」という空気はなかったかと尋ねた。天野は、多少はあったと思うが、強くは感じなかったと答える。皆が心の中でどう思っていたかはわからない、とも添えている。
その理由として天野は、トゥモロー時代の経験を挙げた。トゥモローでは書籍ではないものの雑誌を手がけており、出版に近い業界を経験していた。さらに講師を抱え、企業のビジネスパーソンに英語レッスンを行う事業もしていた。つまり、アルクが行っている事業の小規模版をすでに手がけていたのである。Kawakamiは、共通言語がまったくないわけではなく、完全なよそ者でもなかったと受け止めた。
字幕の終盤には、人を一緒に動かす局面はAIにはできないのではないか、日本人でもアメリカ人でもない「地球人」という考え方、といった断片的な言葉が続き、前編はここで終わる。これらの論点は後編で扱われるとみられ、この回の中では詳しく展開されていない。
明日を作るビジネスアスリートへ送る、時代の羅針盤。MAKE IT NEXT。
ナビゲーターのショーンです。さて、今回のゲストは株式会社アルク取締役、天野智之さんです。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。その節は大変お世話になりまして。こちらこそありがとうございます。
本当に『英語力の核心』を出版、ご許可いただいてと言いますか、アルクさんの持ってる本当に長い歴史で培われた、英語教育出版といえばアルクっていう、日本では知らない人はいないぐらいのブランドであり、プラットフォームの中で、出させていただいたこと、本当にありがたく思っておりまして。
天野さんとは出版の時に初めてお話をさせていただいて、私、常に面白い経営者を探す癖がずっとついていまして。長らく常に、この人面白いなとかですね。もちろん私の本業の方の中で会う方々はもちろんなんですけど、メディアの方でお会いする方々の中でも、この人ちょっと面白いなっていうので、いつも違った方に話が行ってしまうんですけども。天野さんともアルクの会議室と言いますかで、初めて名刺交換をさせていただきまして。
まず、天野さん、まだ第一声を発する前に、プロフィールを簡単にご紹介させてください。82年のお生まれで、どう見てもお顔立ちからすると、もしかすると海外の血が混じっていたり、あるいは東京、世田谷あたりなのかなと思いきや、そんなこと言っちゃいけないのかな。意外ですというか、宮城県のお生まれなんですね。
中学校の時に先輩が留学をされていた。それを聞かれて面白そうだなと思った少年だったってことですね。ニュージーランド、アメリカに留学をご自身されて、カリフォルニア州立大学をご卒業で、大手家電メーカー、電機メーカー勤務を経て、25歳で独立をされるんですよね。
はい。これは自分で独立ですから、起業されたってことですか? はい、そうです。早いですよね。そうですね。かなり早熟と言いますか。
留学情報、グローバル化支援の会社を共同設立で、19年にトゥモローがアルクグループに入ってくると。そして2020年3月、37歳で、当時創業51年のアルク代表取締役社長に。現在取締役ということですが、振り返ってみると、ご自身のキャリアと言いますか、その前にご自身の留学もありますが、いかがですかっていうのも変ですが、どんなふうに振り返ってらっしゃいますか?
そうですね。全然ここはイメージしていなくて、突然独立ですね。本当にサラリーマンから飛び出しちゃった感じで独立しているので、当時は本当に何か考えがすごく深くあったわけではなく、逆にすごく若さもあったので、今飛び出して、仮にもしうまくいかなかったとしても、若いうちはまた転職とかも可能性は無限にあるなと思ってたので。逆に躊躇するよりも飛び出しちゃって、チャレンジしてから考えようかなと。
なるほどね。独立して、25歳って早熟って言いましたけど、私もちょうど27歳の時に独立ってことをしたんですけど、当時から何やってんの、大丈夫かって言われる年代でしたけども、天野さんの時、25歳で同じぐらいの年代で起業するって、当時はどうですか? まだレアですよね。
そうですね。結構起業家の方もいらっしゃったかもしれないんですけど、どちらかというと、お名前を出していいのかわかんないですけど、ライブドアの堀江さんとかが捕まってしまってみたいな時代だったかなと。
そうか、なるほどね。なので、少しそこに危険性を感じる方もいらっしゃるので、ちょっと一時期前に多分起業家がたくさん増えて、とはいえ出る杭は打たれるというような雰囲気も多少あった時代かなと、自分自身では思ってます。
なるほど。今日は天野さんをお迎えして、天野さんのキャリアの中で、天野さんが意識、無意識的に感じてきたコンパス、羅針盤って何だったんだろうな。もちろん人生ですから、思った通りに、計画通りにはいかないんだけども、タイミング、タイミングで正しいっていうか、ご自身にとっての判断をしてらっしゃる羅針盤って、何かあると思うんですよね。
それが一つで、もう一つの大きなテーマっていうのは、アルクさんといえば1969年創業。ちなみに私、1968年創業なんですけど、創業、生まれたわけですけど、ちょうど同じぐらいの年齢の会社で、語学教育総合企業ということで、理念は地球人を作る。ジャーナル、ヒアリングマラソンとかありましたねって言っちゃいけないのかな? まだある?
今アプリで一応やります。そうですか。あとは、まだ使ってますけど、英辞郎とかね。はい。
いろんなものを、皆さん、ああ、あれもアルクさんか、あれもアルクさんかっていうものはたくさんあると思うんですけれども。長きにわたって、そうした企業ですけど、やっぱり新しくしていかなきゃいけないっていうことって、どういうことなんだろう。
ご覧の皆さんの中にも、古いと言いますか、社歴が長い会社にお勤めの方、たくさんいらっしゃると思うんですね。その中でも経営者、特に次世代、どうやって育ったらいいのか、今の祖業どうしたらいいのか、変革って何だろうとか、とにかく今までの温故知新をどういう形で図っていくのか。古きを尋ねて温めて、そして新しきをどうやってうちの会社に入れたらいいのかなって思いながらいらっしゃる方が、私のお客さんもたくさんいまして。その辺り、天野さんにぜひ伺いたいなと思って。
まず一つ目、今お話もうすでに始まりましたけども、中学時代に留学をしたいと。宮城の方では、この当時留学するっていうのは、どうですか?
珍しかったとは思いますね。ですよね。その当時、ご両親の反応としては、おおって感じですか?
そうですね。本当に私、兄がいるんですけど、4人兄弟の末っ子でして。兄が、ありがたいことにとても偏差値の高い学校に行ってくれたっていうのもあるんですけど、兄の友達がニュージーランド留学をしていて。その人が確か一時帰国、夏休みか何かで帰ってきた時にお会いしたと思うんですけど、お話を聞いた時に、まさかこの仙台の片田舎から海を越えて、高校生、大人じゃなく高校生、まだ15歳で海外に飛び出ちゃった先輩がですね。その話に当時、私13歳、14歳だと思いますけど、すごい衝撃を受けまして、そんな人生の選択肢があるんだと。
高校受験を国内でせず、海を渡ってしまうみたいな、あまりに衝撃を受けてですね。そこからもう本当に海外に行きたいが突然、自分の中で。私もあんまり幼少期の頃、そんなにこれやりたいみたいに情熱を持ってるものって特になかったんですけど、その話を聞いた時に、突然、わあ、何かやってみたいみたいな。やってみたいですね。そうですか。根拠もなく。
どうですか? まずはニュージーランドに行かれるんですよね。はい。非常に牧歌的な、自然がたくさんの、非常に留学先としてはいいというふうによく言われてる場所ですね。そうですね。どうでしたか? 高校時代、大学の途中までニュージーランドでしたっけ? その後アメリカに行かれたの?
いや、高校はニュージーランドで卒業しまして、その後大学でアメリカの大学に進学するんですけど、本当に当時、中学生の頃は僕もニュージーランドというのを知らなかったので。皆さん羊のイメージとかあるかなと思うんですけど、私もそんな感じで、羊がいるんで『アルプスの少女ハイジ』みたいな、ヨーロッパの方にあるのかなとかって思ってたぐらい、ニュージーランドを全然知らない、無知な子だったのに。
ニュージーランドが55円、60円みたいな、物価もすごく安かった時代なので、20数年前なので。30年近く前ですね。もう30年前です。はい。うちの親も、もちろん簡単ではなかったと思うんですけど、あれ、意外と留学、うちでも行かせられるかもっていうところも、後押しになったかなと思います。費用的に思ってたよりは高くないなと。
どうですか? まず行っての衝撃って、今でも覚えてますか?
覚えてます。本当に当時、まさに起業した時とちょっと似てるようなところがあるんですけど、どっちも、若い頃恐怖心があまりなかったのか、どちらかというと恐怖心よりも、行きたい、楽しいみたいなところが勝って向こうに行ったんですけど。最初、当然、特に英語をやってたわけでもないですし、普通の中学校に通ってて、英語も別に成績がすごい良かったわけでもないので、本当にその英語力で行ったんですね。
そうか。最初ついていくの大変ですけど、徐々に、やっぱり若いですから、どんどん順応はしていくんだと思うんですけど。でも高校の後は、もうカリフォルニアに行かれるじゃないですか。これも全く違う。ニュージーランドとアメリカでは様々なものが違う。そのギャップは、その異分子と言いますか、空間と言いますか、異文化ってものに対してのご自身のアジャストと言いますか、どんな対応がある感じですか?
そうですね。逆にニュージーランドからアメリカはそんなにカルチャーショックが大きくなくて、同じ英語ですし、私もカリフォルニアと言っても、北カリフォルニアのすごい田舎の方に行ったので。
なるほど。なるほどって言っていいのかわかりませんが、なるほどね。牧歌的な感じで、皆さん結構フレンドリーで、イージーゴーイングで。そうですね。おっしゃる通りで。
そういうところだったので、そこはあまりカルチャーショックがなくて。あとニュージーランドの時の方が、英語ができなかったので、なかなか、優しい子供たちが最初話しかけてくれますけど、そもそも話しかけられてもこっちが返せないので、だんだん優しい子も話しかけなくなってくるんですよね。
まだ未成年だったのでホームステイで、他のご家庭に入って生活させていただくんですけど、結局言ってることがわからなくて、会話がなかなかできないので、もう人と会話ができないっていう辛さがすごくてですね。最初の半年ぐらいは、もう辛くて辛くて。
でも逆にそれを知ってらっしゃるから、コミュニケーションというものの大切さですとか、難しさですとか、乗り越えていくための、異文化や異分野とかの異なる何かというものを乗り越えたコミュニケーションのあり方みたいなことを、ご自身で必死になってもがき苦しんで掴んでこられたから。やっぱり今、英語を教えるという一つのコンテンツ、武器を持った出版会社、今となっては出版会社と言いますか、プラットフォームですから、今すごく合ってるなって感じはしますか?
そうですね。自分の経験が今の仕事に繋がってるなと。本当にここを目指してたわけじゃないですけど、結果として振り返ると、自分の経験とキャリアがどんどん繋がってきてるなっていうのは、すごく感じてますね。
それで日本に帰ってらっしゃるじゃないですか。その前に9.11を現地で経験されるんですね。そうですね。2000年から2004年、私はその4年間。ああ、ドンピシャですよね。そうか。
私も当時、まさにこの33階、J-WAVEのスタジオで9.11を迎えるんですけど。今でも本当に鮮烈に、その日の放送、どう生放送を始めるかって、今でも覚えてますけど、その当時いらっしゃったわけですね。衝撃でしたね。
そうですね。本当に初めて体験、初めてというか、誰も体験したことがないと思いますけど、本当にカリフォルニアで、いわゆる楽しい大学生活を送っていた2年目だったので。私は2年目で、ルームメイトのアメリカ人の人たちと4人で生活してたんですけど、ちょうどテロが起きて、家に帰った時にルームメイトたちが騒いでいて、何だろうと思ったら、テレビでビルから煙が出てるのを見て、何だ何だみたいな。本当に大混乱で。
その時に初めて、結構大混乱で、そこから数日間は本当にカリフォルニアも、ニューヨークから離れてますけど大混乱で、外国人に対しての風当たりみたいなところもすごく強くなってしまった時期でしたし。そこは改めて、私も、よそ者がこのアメリカの地で生活してるんだっていうのは、自分自身ですごく感じる経験ではありましたね。
ひどいことをされたわけではないんですけど、当時もいろんな人種、民族の方々が向こうにいるので、特定の見た目の方々に対しての風当たりはすごく強かったので、それを目の当たりにしてしまったり。私も中東エリアから来ている友人とかもいたので、そういう方々に対しての対立みたいなのは目の当たりにして、すごくショックを受けてしまった経験ではありましたね。
これはなかなか日本では感じ得ない。しかし、グローバルっていう舞台に行くと、とても大事な感覚であり、環境って感じるんですよね。違うものと向き合うことの大事さっていう。あとは違うことっていうものを乗り越えた先に、お互いの同意とか合意とかを自分が作り上げていくというのかな。ユニティ・オーバー・バラエティと言いますか、いろんな多様性を超えたユニティ、統一感っていうものを、自分が作ろうとしないと、向こう側にはないわけじゃないですか。
簡単に文化、コミュニケーションとかって言いますけども、日本だとそれが血肉にバチッと感じるほどは、あまり感じないから。それを海外に行った時に感じて、それを受け手側になるのか、ユニティ・オーバー・バラエティみたいなことを、ダイバーシティみたいなことを自分から仕掛けていくかっていう、どちらになるかでだいぶ感覚は違いますよね。はい、そうですね。
日本に戻ってらっしゃる。それで電機メーカーに勤めて、その後独立ってことなんですね。はい、そうですね。この独立っていう会社は留学支援、まさにご自身が。
はい、そうですね。すごくありがたいことに、たまたま、本当に最初独立したばっかりの時には何もなかったので、ただ人様の商品を売る営業代理の仕事みたいなのをやっていて。広告を販売していたので、まさに雑誌だったりとか、Webの広告をとにかく飛び込み、テレアポで販売するみたいなことでやっていたんですけど。
その前に大手電機メーカーで、想像するに、大手電機メーカーさんの中から独立するっていう人って、あんまりそんなに多くないような感じがするんですけど。例えばWebマーケティング、メディアとか、テクノロジー系っていうのは、たくさんそういう起業家が現れやすい感じがするんですけども、大手電機メーカーとかっていうと、あそこから起業するってなかなかだなって思ったりするんですけど、何か起業のきっかけはあったんですか?
やっぱりまずは、私も海外経験があったからっていうのは多少あるかもしれないですけど、何となくチャレンジしてみたいっていうのはずっとあった。日本の、ザ・サラリーマンを経験させていただいて、それはそれですごくいい経験をさせていただいて。いわゆる大手企業と言われるところでサラリーマンをさせていただいて、学ばせていただいたんですけど、自分自身はやっぱりここでサラリーマンとして生きていくんではない道を行きたいなと、逆にそこで勤めて強く思ったので。
若いうちに、さっき申し上げたように、一度チャレンジしたいなというところで、一度飛び出して。ただ、若いうちだったらまた戻ってこれるかなみたいな、打算も少しありましたけど。
なるほどね。すごくグラウンデッドと言いますか、地に足ついてるなって感じがすごい。私、生意気なことを申し上げるの失礼かもしれませんけど、ちょうどタリーズコーヒーを日本に持ってきた松田公太さんって同い年なんですけども、彼は、生まれて海外で育って、もう本当に帰国子女と、帰国もしない状態の、海外で育ってて。お父様が彼に言ってたことっていうのは、君は日本人なんだから、日本のことを徹底的に知るべきだということで、わかりましたということで。
高校生まで日本に来たこともない彼が、日本に来て、まずやるべきは最も日本っぽい会社に勤めると。銀行だと。三和銀行に入っていくんですけども、日本の企業ですから、日本企業らしいあれやこれやっていう、海外から見ると、ん? っていうのもたくさんあるんだけども。それはそれでとても大事なことだから、二つを繋ぐっていうのはそういうことだから、片っぽだけ知ってて、片っぽのものを加工しないで直輸出するとか、あるいは直輸入するとかって、そんな話じゃなくて。折衷するってことは、徹底的に知ってなきゃいけないからって言って、そのATMの紙幣の数えまで全部、いかにこれを面白くするかってことで考えてたみたいなんですけど、ちょっとそれを思い出しました。
海外で学んで、わざと外資じゃなくて、日本の、言葉を選ばずに言うとベタベタな会社に入って、そのベタベタな日本の文化をベタベタに体にくっつけて、それでいいところは取る。学んだものとうまい具合にして作っていくっていうのが、一つあったんでしょうね。天野さんの中にもきっと。だって外資に行った方が楽ですもんね。
かもしれないですね。ちょっと外資経験がないですけど。ですよね。それだけ高校から大学を過ごしてらっしゃると、コミュニケーションは当時は特に英語の方が良かったはずだし、日本の外資企業もそういった人材を欲しかったはずなんだけど、日本企業に入っていく。そして独立をすると。そして、そしてってことですよ。この会社が買収されるんですね。
そうですね。っていうか、売却するんですよね。バイアウトするんですよね。その会社がどうなるんですか? 親会社が。
そうですね。アルクに買収されてですね。はい、アルクに買収されるってことですね。なるほど。そしてアルクのグループ入りすると。はい。買収された側の会社が社長になっていくって、ちょっと面白い感じがしますけど。
そうですね。傍から聞くとそう思われると思いますけど、ちょうどその時、アルクも株主が変わって、株主がこれからのアルクを変えていこうっていう変革の時期だったので。そこでちょうどその変革の波に、私も入らせていただいた形かなと思ってますので。売却というとかっこいいですけど、どちらかというと私も吸収していただいた、みんなで。なので、元々トゥモローで働いていた社員も、今もアルクで働いてる方々もいらっしゃいますし。
だから、お若いというか、節目があって。中学の時にニュージーランド行こう、行ってみるぞ。ニュージーランドから、ニュージーランドにも大学ありますからね、オーストラリアもあるでしょうし、カリフォルニア行こうと。カリフォルニアに行って、そこで働くのもあるんだけど、日本戻ろう。日本に戻って電機メーカーに入って、起業しようって、いろんな節目をご自身で作ってくるわけじゃないですか。この節目、どの節目も、個人的にはどうですか? このぐらいだったらっていう感じでした?
いやいや。今私も思い返すと、さっき飛び出したみたいな言い方をしてますけど、多分その場面、場面ではものすごく悩んでいるんですよね。自分自身も、どうしようかなってすごく悩んでますけど。ただやっぱり、一歩踏み出す後悔と、踏み出さない後悔みたいなお話ってよくお聞きするかなと思うんですけど、それで言うと一度踏み出した方がいいなっていうのは、自分の、これ留学したおかげな気がしますけど。
踏み出した方が、失敗したとしても踏み出した方が後悔は少ないだろうというのは、今すごく自分自身では思ってます。ただ、その場その場はすごく怖いので、踏み出すまで時間はかかってはいます、実際には。
普通に考えて、当時50何年ですか、アルクの社長っていう言葉を喋ったり聞いたりした時の瞬間の、身の引き締まり方と言いますか。その瞬間の気持ちって覚えてらっしゃいますか?
そうですね。逆に私の方が驚いてしまったのが、自分自身がアルクの社長をやらせていただくっていう気持ちよりも、周りの反応が、アルクの社長をやるんですかっていう、周りの反応に驚いてしまった感じはありますね。あのアルクですかっていう。
やるんですかの意味はどうなんでしょうかね。できるんですかも含めてなんですか?
いろんな意味で。あと社長になってからも、アルクさんを、みたいなところがすごく、皆さんがどういうイメージを持たれてるのかわからないですけど、老舗企業というふうに思っていただいているのか、すごい古臭いと思われてるのか、ちょっとわからないですけど。
老舗ですよね。老舗の英語教育出版会社って、私たちは一言で言うとタグ付けできてますけど。あの会社の社長になるのねって私も思うかもしれないのと、私は仕事柄、どうされますかっていうのはやっぱりすごく気になって。
そこから先ですよ。じゃあこれからアルクという、非常に伝統のある船に乗り込んで、船長になるわけじゃないですか。この船、どうやって、まずどこからどう手をつけていくんですか? 新しいっていう言葉も、よくよく気をつけないと無責任な言葉になったりするわけじゃないですか。何それ、新しいっていうのは? もしかして人が切られたり、全く違う商売を持ってきて祖業がおろそかになったり。新しいって言葉自体にも、ものすごくいろんな意味合いが、いろんな責任があったと思うんですけど、まず何を、どこからどう手をつけたって感じですか?
これがすごいタイミングがすごくてですね。変革に関しては今も試行錯誤しながら、社員とみんなで一緒にいろんなチャレンジをしてるんですけど、まさに私が代表にならせていただいた2020年って、コロナがまさに起きたど真ん中というか。そうですよね。だったので、本当に私の社長就任をしたのが正確には5月なんですけど。アルクは決算期が4月末なので、5月からなんですけど、もう5月にはまさにコロナのただ中で、もうリモートワークになっていて、社員を集められない状況です。
そうか。難しいですね。はい。あとアルクの事業的には、やはり物理的なビジネスも多いので、講師が実際にクライアント企業様にお伺いして研修を実施したりですね。あと書籍に関しても、本屋さんが閉まってしまったりとか、学校が当時閉じたり。皆さんが自宅で授業だったりとか、仕事もされてるので、今まで一箇所に納品してたものを、じゃあどこに送るんだ、受け取る人は、みたいなのもありますし。様々な混乱が起きていた状況だったので、元々予定していた、こういうことをやろうっていうのは全部まずは白紙になった状態でのスタートだったんです。
だいぶ、タイミングってことで言うと、ババ引いちゃったみたいな感じではありますね。
そうですね。それは私自身は逆に、社員の方々がすごく辛かったと思うんですけど、私は外から来て、じゃあこういう状況だからしょうがないから変えなきゃっていうのは、ある意味、私としては若造の社長が来て、変えなきゃっていうメッセージとしては。でもコロナがあったので、みんなもこれ変わんなきゃいけないよねっていうのは、状況的に納得せざるを得ない状況だったとは思うので、そこはいい意味で私としては捉えている部分ではありますね。そこはすごく辛い時期ではありましたし、社員の方々が辛かったと思いますけど。
いい意味でも悪い意味でも伝統のある、これは伝統のあるっていうのはいろんな側面があると思うんですけど。伝統をそのまま引き継いでいくっていう考え方っていうのはいいんだけども、伝統を守るにはこそ変わっていくっていうことと、伝統そのままではなかなか生きていくことはできないから、違う形で磨き上げをしていかなきゃいけないとか、若返りをしなきゃいけないと。どこから、どういうふうに当時のアルクを観察されて、どこからどのように変革したらいいのかな、天野さんの変革っていうのをやろうとし始めたんですか?
大きくは二つありまして、私だけじゃなく、同じ取締役と、あと株主とかと一緒にではあるんですけど。二つありまして、まずは若返り化じゃないですけど、新卒の社員も今まで取ってなかったんですね。新卒社員の採用というのをやっていなかったのを、どんどん若い世代を育てていこうということで。
それこそアルク、出版業とかだと、編集さんとかってすごく職人的な技術を持っている方々もいらっしゃるんですけど、そういう方々がどんどん年齢が上がってしまうと、そのスキルが継承されないままになってしまうので、若手世代を入れていかなきゃいけないっていうのが一つあったので。若返り化、そういった意味での社員の若い世代を入れていくというのが一つ。
あともう一つは、やはりコロナの影響もありますけど、デジタルはアルクはあまり多く商品を持っていなかったので。まさに語学学習でも皆さんオンラインで学んだり、今でこそアプリだっていうのは様々ありますけど、アルクも少しはやってたんですけど、多くやっていなかったので。もうコロナ以降は、まさにデジタルのサービスをどんどん積極的に新規で立ち上げてっていうので進めてました。
なるほど。承継とデジタル化ってことですかね。はい。若手を入れるっていうのは、いわば若返りのように聞こえますけども、そうではなくて、やっぱり職人さん、職人的に素晴らしい経験や知識や知見を持ってる方々が、編集をする方もしかり、特に英語教育っていうところに特化した知見ってすごく大事じゃないですか。でもこの方々の年齢が上がっていくと、誰が次を継ぐのっていう人たちがいなくなってしまうという意味では、承継をしてくれる若手を入れていかないと、それ自体が死んでしまうってことと。
やっぱり本の温かみっていうこと、VSになってるデジタルっていうものや、そうじゃない、VSじゃなくてANDだよっていうところで繋げていかなきゃいけないってことですよね。でもこれ、どうですか? いわば出版でもない、英語はおできになるんだけど、出版業界ってすごく、怒られることを承知でですけど、閉じた業界ではあるじゃないですか。わかるのっていう、誰っていうのはなかったですか?
多少はあったと思います。感じませんでした? ご自身の中で。はい、多少あったかなと思います。37、できるのっていう空気っていうのは、もちろん口には出さないと思うんですけど、そのバチバチ感じた方なのか、いや、別にそれはっていう感じだったのか。
そんなには感じなかったですね。皆さんの腹の中は見えないですけど。ただ私も、このトゥモローという前身の会社で、まさに雑誌とかをやっていたんですね。起業して一緒にやっていた会社ではあるので、そういった意味では一応業界を多少は、書籍ではなかったんですけど、一応業界をずっとやっていたっていう経験もありますし。
あと実際その時に講師を抱えて、実際の英語レッスンを企業の方々、ビジネスパーソンの方に実施したりっていうような研修事業もやっていたので、アルクのやっている事業の小さい版をすでにやっていたというのは。
共通言語が全くないわけではない。そんなによそ者ではないというか、それはわかるよねと。はい。
商談はできたと。商談はできたのに、1ヶ月行って友達1人もできなかったみたいな。これってAIにはできないですよね。一緒に動くとか動かすとかっていうフェーズは、AIには多分できないですよね。
日本人でもなく、アメリカ人でもなく、地球人っていう、そのすごい壮大な考え方を。
新しい物語のスタートの、終わりであって、終わりの終わりではない。NEXT。
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