買収された側から老舗の社長へ 天野智之が語る留学、起業、コロナ禍のアルク改革

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概要

語学教育のアルクで取締役を務める天野智之は、2020年、37歳で創業51年の同社の代表に就いた。天野が共同設立した会社はアルクグループに買収されており、天野は買収された側から親会社のトップになったことになる。ナビゲーターのSean Kawakamiは、天野がキャリアの節目ごとに頼ってきた判断の基準、番組の言葉でいう「羅針盤」は何だったのかを尋ねる。もう一つの問いは、長い歴史を持つ会社をどう新しくしていくかである。天野は、どの節目でも深く悩んでいたと振り返りつつ、「踏み出した方が後悔は少ない」という考えを繰り返し語った。

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出版の縁と、天野のプロフィール

対談のきっかけは、Kawakamiの著書『英語力の核心』をアルクから出版したことにある。Kawakamiは、英語教育出版といえばアルクと言われるほどのブランドから本を出せたことに感謝を述べ、アルクの会議室で天野と初めて名刺交換したことを紹介する。

Kawakamiの紹介によると、天野は1982年に宮城県で生まれた。中学時代に先輩の留学話を聞いて興味を持ち、ニュージーランドとアメリカに留学し、カリフォルニアの州立大学を卒業した。帰国後に大手電機メーカーに勤め、25歳で独立し、留学情報やグローバル化支援を手がける会社トゥモローを共同設立した。2019年にトゥモローがアルクグループに入り、2020年にアルクの代表取締役に就任した。現在は取締役である。

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25歳の独立は「深い考え」からではなかった

キャリアを振り返ってほしいと言われた天野は、こうした道筋はまったく想定していなかったと答えた。会社員から「飛び出しちゃった」感覚で独立しており、当時は深い考えがあったわけではないという。若かったので、仮にうまくいかなくても転職の可能性は無限にあると考えていた。そのため、ためらうよりも先に挑戦して、それから考えようと思ったと説明する。

Kawakami自身も27歳で独立しており、当時は周囲から「大丈夫か」と言われる年齢だったと話す。天野が起業したころについて、天野は、ライブドアの堀江貴文が逮捕された時期だったと振り返る。その少し前に起業家が増えていたが、起業に危うさを感じる人もいて、「出る杭は打たれる」雰囲気が多少あった時代だったと天野自身は捉えている。

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番組の二つのテーマ

Kawakamiはこの回のテーマを二つ示した。一つは、天野が意識的にも無意識的にも感じてきたキャリアの「羅針盤」である。人生は計画どおりには進まないが、天野はそのつど自分にとって正しい判断をしてきたはずで、その判断を支えたものがあるのではないか、という問いだ。

もう一つは、老舗企業をどう新しくするかである。アルクは1969年創業で、Kawakamiは1968年生まれなので、自分とほぼ同年齢の会社だと話す。理念は「地球人を作る」。Kawakamiが「ヒアリングマラソン」の名を挙げると、天野は現在はアプリで続けていると補足した。Kawakamiは今も「英辞郎」を使っているという。Kawakamiによれば、社歴の長い会社に勤める視聴者や、自身の顧客である経営者の中にも、次世代をどう育てるか、本業をどうするか、温故知新をどう実現するかに悩む人が多い。そうした人たちに向けて、天野の経験を聞きたいという。

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仙台の中学生が受けた衝撃

天野は4人兄弟の末っ子だった。兄は偏差値の高い高校に通っていて、その友人がニュージーランドに留学していた。その先輩が夏休みか何かで一時帰国したときに会い、話を聞いたという。

天野は当時13〜14歳だった。仙台の「田舎」から、大人ではなく15歳の高校生が海を渡ったことに強い衝撃を受けた。国内で高校受験をせずに海外へ出るという人生の選択肢があると知ったのである。天野は幼いころ、特に情熱を持てるものがなかった。しかしこの話を聞いて突然「やってみたい」と思い、根拠もなく海外に行きたいと考えるようになった。

ただ、ニュージーランドがどこにあるかも知らなかった。羊のイメージから、アルプスの少女ハイジのようなヨーロッパの国かと思っていたと笑う。当時は1ニュージーランドドルが55〜60円ほどで物価も安かった。そのため、親も簡単ではなかったはずだが、思っていたより高くないので自分の家でも行かせられるかもしれないと考えたのではないか、と天野は振り返る。

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「会話ができない」最初の半年

渡航するとき、天野は恐怖心よりも「行きたい、楽しい」という気持ちが勝っていた。天野はこれを、後に起業したときの感覚と似ていると話す。一方で、英語を特に勉強していたわけではなく、普通の公立中学校で英語の成績が特別良かったわけでもなかった。

最初は苦労した。現地の子どもたちは初めは優しく話しかけてくれる。しかし天野が返せないので、優しい子もだんだん話しかけなくなっていった。未成年でホームステイ先の家庭に入ったが、相手の言うことがわからず、会話がほとんど成り立たなかった。人と会話ができない辛さは大きく、最初の半年ほどは「辛くて辛くて」という状態だったという。

Kawakamiは、この経験でコミュニケーションの大切さと難しさ、異文化を越えるやり方を必死に身につけたことが、英語教育を柱にする今の仕事と合っているのではないかと問いかけた。天野は、ここを目指していたわけではないが、振り返ると自分の経験とキャリアがつながってきていると強く感じていると答えた。

高校をニュージーランドで卒業した後は、アメリカの大学に進んだ。ニュージーランドからアメリカへの移動では、カルチャーショックはそれほど大きくなかったという。同じ英語圏であり、行き先も北カリフォルニアのかなり田舎で、人々はフレンドリーでのんびりしていたからだ。英語ができなかったニュージーランド時代のほうがずっと大変だったという。

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カリフォルニアで経験した9.11

天野は2000年から2004年までアメリカにいた。大学2年目、アメリカ人のルームメイトと4人で暮らしていたときに同時多発テロが起きた。帰宅するとルームメイトたちが騒いでいて、テレビにはビルから煙が上がる映像が映っていた。Kawakamiも当時、J-WAVEのスタジオでこの日を迎えており、生放送をどう始めたかを今も覚えていると話す。

天野によれば、ニューヨークから遠いカリフォルニアでも数日間は大混乱だった。外国人への風当たりも強くなり、自分は「よそ者」としてこの国で暮らしているのだと強く感じたという。天野自身がひどい目に遭ったわけではない。しかし、特定の見た目の人々への風当たりが強まる様子を目の当たりにした。中東出身の友人もいたため、対立の場面を間近に見て大きなショックを受けたと語る。

Kawakamiはこの話を受けて、日本ではなかなか実感できない感覚だと述べた。グローバルな場では、違いを越えて合意や統一感(ユニティ)を自分から作ろうとしなければ、それは向こうからは生まれない。多様性を受け身で経験するか、自分から働きかけるかで感覚は大きく変わる、というのがKawakamiの見方である。

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あえて日本の大手企業へ、そして独立

帰国後、天野は大手電機メーカーに就職した。Kawakamiは、ウェブ、マーケティング、テクノロジー系と違い、大手電機メーカーから起業する人は多くない印象があると言い、きっかけを尋ねた。

天野は、海外経験の影響も多少あるかもしれないが、挑戦したいという気持ちがずっとあったと答える。日本の大手企業で会社員を経験できたのは良い経験で、多くを学んだ。一方で、実際に勤めたことで、会社員として生きるのではない道を行きたいという思いがかえって強くなった。若いうちに一度挑戦したいと考え、若ければ戻ってこられるだろうという打算も少しあったと率直に話している。

Kawakamiはここで、タリーズコーヒーを日本に持ち込んだ松田公太の話を紹介した。Kawakamiによれば、海外で育った松田は父親から、日本人なのだから日本のことを徹底的に知るべきだと言われ、最も日本的な会社として銀行に入った。そして、二つの文化をつなぐには両方を深く知る必要があると考え、ATMの紙幣の数え方のような業務まで面白くしようとしていたという。Kawakamiは、外資系に行くほうが楽だったはずの天野があえて日本企業に入ったことに、この話と通じるものを感じたと述べる。天野は外資系の経験がないのでわからないとしつつ、「かもしれないですね」と応じた。

独立直後のトゥモローには何もなかった。天野は他社の商品を売る営業代理の仕事から始め、雑誌やウェブの広告を飛び込み営業やテレアポで販売していた。その後、留学支援の事業へと進んでいった。

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買収された側から、親会社の社長へ

Kawakamiは、買収された側の人が親会社の社長になるのは面白い構図だと指摘した。天野は、外から見ればそう思われるだろうと認めたうえで、当時のアルクの事情を説明する。アルクは株主が変わったばかりで、新しい株主がこれからのアルクを変えようとしている変革期だった。天野はその変革の流れに加わった形だと捉えている。「売却」と言えば格好いいが、実際には吸収してもらった感覚に近いという。トゥモローの元社員には、今もアルクで働いている人がいる。

Kawakamiは、留学、アメリカの大学への進学、帰国、メーカー就職、起業と、天野が自分で節目を作ってきたことを挙げ、それぞれの決断は気軽なものだったのかと尋ねた。天野はこれを強く否定する。「飛び出した」と言ってはいるが、その場面ごとにものすごく悩んでいたはずだという。それでも、一歩踏み出す後悔と踏み出さない後悔を比べれば、失敗したとしても踏み出したほうが後悔は少ないと今は強く思っている。天野はこの考えを、留学のおかげで身についたものだと感じている。ただし、その場その場ではやはり怖く、実際には踏み出すまでに時間がかかっているとも付け加えた。

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「アルクの社長、やるんですか」

50年以上続く会社の社長を引き受けた瞬間の気持ちを聞かれると、天野は意外な答えを返した。自分がアルクの社長をやるという気持ちよりも、周囲から「アルクの社長をやるんですか」と言われたことのほうに驚いたという。その言葉には「できるんですか」という意味も含まれていたと天野は受け止めている。社長になってからも、周囲がアルクに対して老舗というイメージを持っているのか、古臭いというイメージを持っているのかは、天野にはわからないと話す。

Kawakamiは、伝統ある船の船長になるにあたって「新しく」という言葉は気をつけないと無責任になる、と指摘した。人員削減や、本業をおろそかにする別事業の持ち込みにもつながりかねないからだ。そのうえで、まずどこから手をつけたのかを尋ねた。

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コロナ直撃の就任、計画はすべて白紙に

天野によれば、変革は今も社員とともに試行錯誤しながら進めている。就任のタイミングは特殊だった。アルクの決算期は4月末で、天野が正式に社長に就いたのは2020年5月、ちょうど新型コロナウイルスの感染拡大のさなかだった。すでにリモートワークになっていて、社員を集めることもできなかった。

アルクには物理的な事業も多い。講師が顧客企業を訪れて研修を行う事業がある。書籍は書店の休業や学校の閉鎖の影響を受けた。人々が自宅で授業を受けたり仕事をしたりするようになり、これまで1か所に納品していたものをどこへ送ればよいのか、誰が受け取るのかという混乱も起きた。そのため、もともと予定していた施策はすべて白紙に戻った状態からのスタートになった。

Kawakamiが「タイミングとしては貧乏くじを引いたようなものでは」と言うと、天野は、社員にとっては本当に辛い時期だったと認めたうえで、自分としては良い面もあったと答える。外から来た若い社長が「変えなければ」と言っても、普通なら受け入れられにくい。しかしコロナという状況のもとでは、皆が「変わらなければいけない」と納得せざるを得なかった。天野はその点を前向きに捉えているという。

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変革の二本柱:若手による継承とデジタル化

伝統を守るにはむしろ変わり続ける必要がある、とKawakamiは言う。具体的に何から変革を始めたのかという問いに、天野は、取締役や株主と一緒に進めているものとして二つの柱を挙げた。

一つ目は、若い世代の採用と育成である。アルクはそれまで新卒採用を行っていなかったが、これを始めた。出版業の編集者には職人的な技術を持つ人が多い。そうした人たちの年齢が上がると、技術が継承されないまま失われてしまう。だから若手世代を入れる必要があったと天野は説明する。

二つ目はデジタル化である。アルクはデジタル商品を少し手がけていたものの、多くは持っていなかった。語学学習でもオンライン学習やアプリが広がるなか、コロナ以降はデジタルサービスを積極的に新規で立ち上げてきたという。

Kawakamiはこれを「継承とデジタル化」とまとめ、若手の採用は単なる若返りではないと整理した。英語教育に特化した編集者の知見は、引き継ぐ人がいなければ失われてしまう。本の温かみとデジタルは対立するものではなく、両方をつなげていくものだ、というのがKawakamiの言い換えである。

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閉じた業界で「よそ者」扱いされなかったか

最後にKawakamiは、出版業界は閉じた業界ではないかと前置きしたうえで、37歳の外部の人間に対して「わかるの?」「できるの?」という空気はなかったかと尋ねた。天野は、多少はあったと思うが、強くは感じなかったと答える。皆が心の中でどう思っていたかはわからない、とも添えている。

その理由として天野は、トゥモロー時代の経験を挙げた。トゥモローでは書籍ではないものの雑誌を手がけており、出版に近い業界を経験していた。さらに講師を抱え、企業のビジネスパーソンに英語レッスンを行う事業もしていた。つまり、アルクが行っている事業の小規模版をすでに手がけていたのである。Kawakamiは、共通言語がまったくないわけではなく、完全なよそ者でもなかったと受け止めた。

字幕の終盤には、人を一緒に動かす局面はAIにはできないのではないか、日本人でもアメリカ人でもない「地球人」という考え方、といった断片的な言葉が続き、前編はここで終わる。これらの論点は後編で扱われるとみられ、この回の中では詳しく展開されていない。