『史記』の始皇帝像はどこまで正しいか――出土資料から読み直す秦の統一と将軍たち
ReHacQ−リハック−【公式】映画『キングダム』で中国史監修を務める学習院大学名誉教授の鶴間和幸氏が、ReHacQの高橋弘樹氏の質問に答えた。主題は、司馬遷の『史記』が描いてきた始皇帝像が、1970年代以降に出土した竹簡などの同時代資料によってどう揺らいでいるかである。鶴間氏は、始皇帝を単純な暴君とする通説に疑問を示す。そのうえで、秦の統一を支えたのは君主と将軍・官僚のあいだの「絆」だったという見方を語った。話題は『キングダム』の史実とフィクションの境目から、李牧や李信の実像にまで広がった。
歴史学者と漫画家の「想像」の違い
鶴間氏は秦の始皇帝を中心とする中国古代史の研究者である。文献を読むだけでなく、歴史の舞台となった現地を歩き、考古学の発掘現場を見たうえで資料を読み直すことを仕事にしてきたという。日本で開催された兵馬俑展の監修や、実写映画『キングダム』の中国史監修も手がけている。映画では監督と一緒に舞台設定を検討し、漫画とは変えた部分もあるそうだ。
原作者の原泰久氏からは、編集者を通じて質問が届くことがある。鶴間氏によれば、原氏は『史記』をよく読み込んでおり、質問は記事どうしの矛盾をどう解釈するか、実在の地名を使う場面でどういう経路をたどったと考えられるか、といった内容だという。
鶴間氏は、原氏や歴史小説家の北方謙三氏と自分たち歴史学者の違いを「想像の仕方」の違いとして説明した。文字資料に世界のすべてが書き残されているわけではないので、歴史学者も資料から背景を想像する。漫画家や小説家も想像する。その方法は違うが、歴史的背景を考える部分では共通しているという。なお原氏と北方氏はともに唐津の出身で、鶴間氏は兵馬俑展で北方氏を案内した縁から、歴史小説と歴史学の違いについて対談したことがある。
「避暑地の館」と山の民――史実を土台にしたフィクション
鶴間氏が原氏の発想の面白さを示す例として挙げたのが、第1巻に登場する山の民である。弟の成蟜が咸陽を占拠したため、即位したばかりの嬴政はいったん退き、楊端和率いる山の民の力を借りる。
この山の民には、『史記』に下敷きとなる話がある。春秋時代の秦の穆公の馬を、山の民が捕まえて食べてしまった。穆公は彼らを罰しなかった。それどころか、馬を食べるなら酒も飲めとわざわざ酒を贈った。山の民は恩義を感じ、のちに秦が晋と戦って穆公が包囲され危機に陥ったとき、穆公を助けたという。
一方、作中で嬴政と山の民が出会う穆公の避暑地の館は、『史記』には存在しない原氏の創作である。映画では、東京の撮影所に六角形の館を実際に建て、CGと組み合わせて第1作に登場させた。鶴間氏は、この館を穆公と山の民の友情の象徴として評価する。さらに、世代が下るにつれて秦の王たちが山の民をないがしろにしていくという作中の流れにも、史実を踏まえた筋が通っていると見ている。
李信は「数カ所」しか出てこない人物
高橋氏が主人公・信のモデルである李信について尋ねると、鶴間氏は、史料には数カ所しか登場しないと答えた。原氏はそこから創作で人物像を作っている。ただし、李信、蒙恬、王賁の3人が始皇帝(嬴政)と同世代であることは事実だという。作中で描かれる同世代の絆は、この事実に基づいている。
鶴間氏は、文字資料を読むだけでは人物の顔は浮かんでこないが、漫画はキャラクターを目に見える形にする点が面白いと語った。高橋氏が、史実を先に調べると結末が分かってしまうのではと冗談まじりに聞くと、鶴間氏は「ネタバレ」という言い方は好まないとしたうえで、史実とは関係なく楽しめばよいと答えた。
『人間・始皇帝』という書名と、常識への疑い
岩波新書『人間・始皇帝』は、大学で約5年間続けた始皇帝の講義がもとになっている。鶴間氏の当初の案は『始皇帝講義録』という硬い題だったが、編集者の提案で今のタイトルになったという。
始皇帝については一般的な理解がある。紀元前221年に中国を統一した。貨幣や度量衡、文字を統一した。郡県制で中央が官吏を派遣して直接統治した。北方民族を防ぐために長城を築いた。鶴間氏は、こうした常識を疑うようになったと話す。
きっかけは1974年の兵馬俑の発見と、その翌年の発見である。翌年、地方の人物の墓から、秦の法律文書を記した竹簡が出土した。紙のない時代に竹に書かれたもので、始皇帝の時代の文字資料が地下から出たのは初めてだった。それまで研究者は、約100年後の前漢武帝期に書かれた『史記』を絶対的な資料として扱ってきた。同時代の資料が出てくると、『史記』の記述に疑問符がつく部分が次々と見つかるようになった。鶴間氏は、それで研究が面白くなったと語っている。
兵馬俑はなぜ1974年まで見つからなかったか
兵馬俑の坑は巨大なのに、なぜ2000年以上見つからなかったのか。鶴間氏の説明はこうである。俑は地下約5メートルに埋まっている。それまでも農民が井戸を掘った際に、手や頭の破片が出ることはあった。しかし誰も正体がわからなかった。
1974年の発見は偶然だったという。1号坑は東西約220メートル、南北約60メートルあり、その東側には柿の果樹園があった。干ばつで水が必要になり井戸を掘ったところ、予定の位置がやや西にずれて、坑の端に半分かかった。井戸は7〜8メートル掘れば水が出るので、もっと東で掘っていれば俑には当たらなかった。誰が最初の発見者かをめぐって、農民たちの間で裁判沙汰にもなったという。
当時は文化大革命のさなかで、情報は北京の指導部に上がったものの、動き出すまで1年ほどかかった。始皇帝陵から約1.5キロ離れていたため、当初は始皇帝のものだとは分からなかった。決め手になったのは、俑が持つ青銅の武器に刻まれた「呂不韋」の名と年数である。当時の年は元号ではなく、即位翌年を元年と数える在位年で表した。相邦の呂不韋の名とその年数から、始皇帝の時代のものと判明した。
文化大革命期には、孔子を代表とする儒家を批判し、法家を評価する「儒法闘争」が唱えられていた。法家の代表は始皇帝とされたため、始皇帝の遺跡の発見は政治的にも注目されたという。ただし鶴間氏は、法律の厳しさは漢の時代も同じで、秦だけが特別ではないと指摘した。
「木を全部切った」のか「森を守れ」と命じたのか
鶴間氏は、出土資料から始皇帝の「人間としての側面」が多く見えてきたと言う。その例として岳麓書院所蔵の秦簡を挙げた。
『史記』は始皇帝の巡行を5回と記す。しかしこの竹簡には、統一の翌年に行われた、『史記』にない巡行が記されている。行き先は長江中流の洞庭湖である。『史記』には、始皇帝が洞庭で船を浮かべたら大風が吹き、怒って湘山の木をすべて切らせてはげ山にしたという話がある。ところが竹簡では、始皇帝は湘山に登って緑の美しさを目にし、ここを国有地として保護せよという法令を作るよう臣下に命じている。内容が正反対なのである。
鶴間氏は、このような違いが生まれた理由を二つ挙げた。一つは王朝が交代したこと。もう一つは、始皇帝が統一者であると同時に、東方6国にとっては征服者だったことである。滅ぼされた地域には反発があり、鶴間氏が「反始皇帝伝説」と呼ぶ話が多く生まれた。司馬遷は各地を旅しており、そうした話を現地で聞いて拾ったのだろうという。司馬遷がでたらめを書いたわけではない、というのが鶴間氏の立場である。
秦は秦人だけでは統治できなかった
鶴間氏はさらに、征服者と被征服者という図式だけでは説明できない点を指摘する。始皇帝は12年間皇帝の位にあり、二世皇帝の時代も含めると統一は約15年続いた。その間、秦の出身者だけで全土を統治できたとは考えにくいという。
鶴間氏が例に挙げたのが劉邦である。劉邦はもともと泗水亭長、つまり秦の村落の治安を担う役人だった。劉邦に従った蕭何たちも、沛県の役人、つまり秦の官吏だった。鶴間氏は、秦が現地の人間をどう取り込んで使っていったのかが、だんだん見えてきたと述べている。
焚書坑儒は伝説か
焚書坑儒について、鶴間氏はまず時期を問題にした。統一直後にそうした政策は行われておらず、統一から6年ほどたって、丞相の李斯が征服地をまとめようと考えたのが発端だという。秦は北の匈奴、南の百越に対して戦争を再開した。李斯は、東方の旧6国の人々も兵士として一緒に戦わせ、中華帝国としてまとめようとした。そのために都の言論を統制したというのが鶴間氏の見方である。
鶴間氏が強調するのは、その前提である。都の咸陽では、儒者に限らず学者たちが自由に政治を批判していた。今の政治は古の時代に学ぶべきだという意見も出ていた。だからこそ李斯は黙らせようとした。鶴間氏は、言論統制よりもむしろ自由に発言できた時代があったことに注目しているという。
『史記』は460人を穴埋めにしたと記すが、坑儒の跡は発掘されておらず、鶴間氏は伝説としている。ただし全くの嘘とも言い切れず、現地には「坑儒谷」と呼ばれる場所がある。比較として、長平の戦いで秦の白起が趙の兵40数万人を穴埋めにしたという記事については、実際に発掘で兵士の骨が出ている。
坑儒には次のような伝説もある。穴に瓜の種を植えたところ、冬なのに瓜が育った。不思議に思った学者たちが説明しようと穴に入ったところで、一斉に埋めたという話である。鶴間氏は、坑儒谷の周辺が温泉地帯で地熱が高いことに注目する。冬に瓜が育つという話はそこから生まれたのだろうと推測した。この話自体は後の時代の伝説だが、伝説には必ず背景があり、それを探るのが面白いと語った。
『趙正書』が描く、もう一つの遺言
新しい出土資料として鶴間氏が詳しく語ったのが、北京大学が所蔵する竹簡『趙正書』である。全50枚ほどで、前漢武帝期の始皇帝の物語だが、『史記』より早い時期に書かれたとみられるという。『史記』では始皇帝の名を「趙政」とするが、この書では「正月」の「正」と書く。正月生まれであることなどから、鶴間氏は「正」のほうがおそらく正しいと考えている。
『史記』によれば、始皇帝は巡行中に病に倒れ、50歳で亡くなる直前、長男の扶蘇に遺体を咸陽で迎えて葬儀を行うよう書き残した。後継者は明示されていない。同行していた末子の胡亥、宦官の趙高、丞相の李斯の3人が共謀してこの遺言を破棄し、偽の詔で胡亥を太子に立てた。北方に送られていた扶蘇には自害を命じた。この筋書きでは、二世皇帝は正統な後継者ではない。
『趙正書』の内容はまったく違う。始皇帝は最も可愛がっていた胡亥を連れて行き、自分の死後どうするかを臣下に議論させた。頭の中には胡亥しかなかった。臣下が胡亥を推すと、始皇帝は了承したという。
鶴間氏は長く悩んだ末、『趙正書』のほうが正しいのではないかと考え始めているという。根拠として挙げたのが、皇帝の遺言の構成である。完全な遺言には、後継者の指名、葬儀の指示、自分の生涯の総括の三つがそろうはずで、総括は臣下が書く。鶴間氏は李斯がまとめていたと考える。『史記』に見えるのは葬儀を扶蘇に任せるという部分だけだが、ほかの資料を集めると三つがそろっていたように見えるという。
生涯の総括の手がかりは、獄中の李斯の上書にある。趙高との権力闘争に敗れ、陳勝らの反乱を食い止められなかった息子の件で処罰された李斯は、獄中から「七つの罪を犯した」と訴えた。実際には七つの功績を並べたもので、始皇帝を王から天子にしたこと、民衆から愛されていることなど、始皇帝の統治の評価になっている。鶴間氏は、これが遺言に含まれていた総括であり、二世皇帝が受け入れなかったものだと見ている。葬儀についても、扶蘇ではなく胡亥と、王翦の孫で王氏3代目の将軍である王離が遺体を運び、兵馬俑も造ったと考えられるという。
胡亥が皇帝になってから出した法令も出土している。『史記』には、胡亥が巡行して、始皇帝の刻石の「皇帝」が始皇帝を指すことを書き加えたとある。新資料では、胡亥が自分は始皇帝に代わって統治するので、始皇帝時代の法令をそのまま使うのではなく自ら法令を出すと宣言している。
司馬遷は王朝交代を説明したかった
なぜ『史記』は胡亥をこれほど悪く描いたのか。鶴間氏は、司馬遷が王朝交代を説明しようとしたからだと見る。殷から周、周から秦へと王朝が替わるたび、末期には暴君が現れて滅んだという説明が最も分かりやすい。秦が滅んだ理由も、内側では胡亥の無能、外側では陳勝の農民反乱として説明された。「馬鹿」の故事として知られる、趙高が鹿を馬と言いくるめ二世が何も言えなかった話も、その文脈に置かれている。
三代目の子嬰について、鶴間氏は非常に頭がよく、胡亥を批判していた人物だとしている。子嬰を賢く描き胡亥を貶めるのも同じ見方の表れだという。司馬遷は陳勝を高く評価した。諸侯の歴史を記す「世家」に、孔子の世家と並んで陳渉世家を例外的に立てたのはその表れであり、陳勝が半年ほど国を立てたことを重く見て、それを劉邦が受け継いだという流れで説明したかったのだろう、と鶴間氏は述べた。
扶蘇については、頭がよく可愛がられていたが、焚書坑儒のころに父をいさめたため、蒙恬の監視下で北方へ行かされたと鶴間氏は見る。牢獄に入れられたわけではなく、始皇帝に殺す意図はなく、自害を命じたのは二世皇帝だという。
鶴間氏はまた、始皇帝の臣下が異論を述べていた点にも触れた。統一後、李斯は郡県制の徹底を主張し、丞相の王綰は東方に王を置く封建制を提案した。李斯の案が採られたが、王綰はその後も始皇帝の巡行に同行している。異論を唱えた政治家を粛清しなかったというのである。
暴君2割、名君8割――小学生への返事
始皇帝は暴君だったのか。鶴間氏は、兵馬俑展の際に小学4、5年生の男の子から手紙を受け取った話をした。世界で一番悪い人を調べていって始皇帝に行き着いたが、本当に悪いのか、という内容で、父親の手紙も添えられていたという。鶴間氏は1週間ほど考え、暴君の側面を2割、名君の側面を8割とする返事を書いた。
統治者は無理をするものであり、暴君的なところは誰にでもある。それでもこれまでは8割から10割が暴君という説明だったが、そうではないというのが鶴間氏の考えである。朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、始皇帝が力ずくではなく、自分を中心に文官(丞相や官僚)と将軍たちの信頼関係、つまり「絆」を作ったことで秦がまとまったと論じている。13歳で即位した始皇帝は、李斯や呂不韋に育てられながら周囲の将軍や官僚と関係を築いた。史料を読んでも将軍たちは非常に連携して動いているという。なお『キングダム』の「六大将軍」はフィクションだと鶴間氏は明言した。
李牧――内側から崩された名将
他国との比較で鶴間氏が挙げたのが、趙の名将・李牧である。李牧は秦軍に連戦連勝したが、趙の内部で郭開が謀反の疑いを讒言し、趙王遷は李牧を殺してしまう。郭開を動かしたのはおそらく李斯だろうと鶴間氏は見る。外交官の頓弱が金銭で郭開を買収し、李牧が反乱を起こすだろうという話を流したという。郭開がなぜ信じたのかを示す資料はないが、鶴間氏は、有能な人間の足を引っ張る権力闘争が他国にはあり、秦にはそれがなかったと対比した。
李牧の拠点はもともと趙の北方だった。当時の匈奴はまだそれほど強くなく、南の農産物を求めていたため、国境に市場が開かれていた。李牧は市場で得た利益を都に送らず、自分の裁量で兵士を養い、後で報告した。これで兵士との信頼関係ができた。匈奴と戦わないことで臆病だと言われたが、最後に一度だけ戦って大勝した。匈奴の騎兵に騎兵で挑めば必ず負ける。そこで戦車、歩兵、弓兵を組み合わせ、敵をおびき寄せて包囲し、弓で討ったという。この戦い方を秦との戦争にも用いたと鶴間氏は説明する。秦の子嬰が、敵でありながら李牧を名将として評価し、学ぶべきだと語っていることも紹介された。
AIが拾わなかった「李牧の証言者」
鶴間氏はカルチャーセンターで李牧の特集講座を行った際、試しに無料のAIに始皇帝と李牧の関係を説明させた。AIは二人を「好敵手」と答えたという。鶴間氏によれば、二人はおそらく直接対面していない。AIは、李牧が内側から落とされたことが秦の統一につながったという結論を出しており、それ自体は納得できるものだった。ただ、使われていない資料が多く、AIとはこういうものかと感じたという。
AIが拾わなかった資料として鶴間氏が挙げたのが、李牧の証言者の存在である。邯鄲が落ちて趙王遷は捕虜になったが、その兄が抜け出して北方に代国を立てた。そこはかつての李牧の拠点で、代の大臣は李牧をよく知っていた。その大臣の子は、劉邦が地方の有力者を都の近くに移住させた際に移ってきた。そのさらに子が、前漢の文帝に仕えた馮唐である。『史記』の馮唐列伝には、馮唐が父や祖父から聞いた李牧の話が載っている。
馮唐は、李牧が無駄な戦争をせず、匈奴との交易で国境の平和を保ったことを評価した。そこから古の将軍のあり方として、名君がいて初めて名将軍がいると説いた。名君は都で政治を担い、将軍を任命して送り出したら、あとはすべて将軍の裁量に任せて信頼する、という関係である。
この話の相手である文帝は、もともと代王だった。劉邦の死後、妻の呂后が政権を握り、その死後に大臣たちが呂氏一族を倒して、代王を都に呼んで皇帝に立てた。だから文帝は匈奴の怖さと国境の事情をよく知っていた。馮唐はその文帝に、あなたが任命した将軍の扱いは違う、と進言した。部下の戦功に応じた褒美の数をわずかに誤っただけで、上の将軍を処罰している、ごまかしたわけでもないのにそんなことをしてはいけない、と。鶴間氏は、馮唐の発言は李牧を念頭に置いたものだろうと見ている。
李信と王翦――20万か60万か
最後に高橋氏が取り上げたのが李信である。楚は領域が広く、100万の兵を持つ大国だった。秦王政(嬴政)が必要な兵力を尋ねると、若い李信は20万で足りると答え、老将の王翦は60万なければ戦えないと答えた。嬴政は李信に任せ、李信と蒙恬が出陣した。
楚は都を何度も移しており、最後の都は現在の安徽省の寿春だった。咸陽からは大遠征になり、兵士は疲れる。しかも李信は相手を甘く見て軍を二手に分け、蒙恬と挟み撃ちにしようとして、あっさり敗れた。鶴間氏は、若く経験がなかったからだとしている。
面白くないながらも嬴政に頼まれて出陣した王翦は、60万という秦本土から出すには大変な数の軍を率いた。『史記』によると王翦は、60万の兵を持てば謀反を疑われるのではないかと心配し、勝ったらどれだけの田宅をもらえるのかと何度も嬴政にねだった。褒美目当てだと示すことで、裏切る気がないと伝えたのである。現地ではまず兵を休ませ、よい食事を与えて体力を回復させた。兵士たちが石投げなどの運動を始めたのを見て、頃合いだと判断して攻め、勝利した。
高橋氏が、史記の記述だけ見ると李信はあまり活躍していないのではと問うと、鶴間氏は「原先生に悪いんですけど」と前置きしながら、活躍していないと認めた。
徐福伝説と新しい発見
話題は終盤、始皇帝が不老不死を求めて徐福を派遣した伝説に移った。鶴間氏は、去年、青海省の黄河源流の岩で37文字の刻文が見つかる大発見があったと述べ、始皇帝が亡くなる始皇37年にそこへ行ったことに関わる話を始めた。字幕はこの説明の途中で終わっており、この発見が徐福伝説の真偽にどう関わるのか、鶴間氏の結論は確認できない。
今日は中国古代史シリーズ、春秋戦国時代と始皇帝ということで、キングダムのやつですよね。
はい。キングダムの実写映画の中国史監修、そういう仕事もしてます。
キングダム読んでらっしゃいます? もちろん。原先生のすごく面白い発想も読んでまして、例えばですね。面白い。
中国古代が専門なんですけど、中国古代っていうのは最初に中国が統一された時代、秦の時代なんですね。私、大学の講義で5年間ぐらい、始皇帝の講義をずっとやってたんですけども。
キングダムに出てくる武将たちの面白いエピソード、いっぱい載ってるじゃないですか。一番印象的というか、面白い話はあります? それこそ李信ですね。もう1人、王翦という老将軍。楚というね、楚っていうのは100万の兵を持つ。その時に嬴政は、どれだけの兵力が必要かということを2人に尋ねるんです。李信は20万あればいいよ。一方の王翦は60万の兵がなきゃ戦えないということです。嬴政は若い彼に任せて、20万でやったわけです。ただ、簡単に敗北した。舐めてんじゃないですか。信、どうしたんですか? なんでそんな調子に乗ってたんですか?
始皇帝は焚書で、学者たちを穴埋めにしちゃったとかね、そういうイメージが強いので、暴君だというイメージが強いんですね。ところが出土した文書からすると、どうもそうではなくて。始皇帝、そうでもないですか? うん。彼も人間であるという側面がたくさん出てきた。結果、その始皇帝さんは暗君だったんですか? それとも賢君だったんですか? それはですね。
リハック、リベラルアーツ。この番組はビジネスパーソンにとって役に立つ、真に役に立つ教養ですね、楽しく学んでいこうという番組なんですけども。今日は中国古代史シリーズですね。春秋戦国時代と始皇帝ということで、歴史学者でもいらっしゃいまして、学習院大学名誉教授の鶴間和幸さんにお越しいただきました。よろしくお願いします。
キングダムのやつですよね。はい、キングダムの世界。キングダム読んでらっしゃいます? もちろん。ちょっと先生のキングダム評も聞きたいですけれども。先生ですね、こちら岩波新書から『人間・始皇帝』ですね。こちらが朝日新書ですね、朝日新書から『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団』。その他に色々、始皇帝についてご著書を書いていらっしゃいます。今日はよろしくお願いします。よろしくお願いします。
リハック初登場で、簡単に自己紹介だけ、いつも先生にお願いして、どんなことを研究してきたかとか。そうですか。私は中国古代史が専門なんですけど、中国古代っていうのは最初に中国が統一された時代、これが秦の時代なんですね。元々、秦漢帝国と言ってますけども、特に秦の時代の始皇帝の研究をやってます。
私は歴史学者ですので、文献を読みながら、でも文献だけではなくて、現地の歴史の舞台をしっかり歩く。考古学の現場を見るということで、もう1回資料を読み直すという、そういう仕事をやってます。例えば、秦の始皇帝の兵馬俑の展覧会を日本で何度か開催して監修したり、それからキングダムの実写映画の中国史監修、背景にある歴史的な舞台をチェックしたり、そういう仕事もしてます。色んなことをやってます。
そうですね。映画の監修なさったら、もちろん漫画も読んでますよね。もちろん。漫画は時々、編集者を通して原先生の質問が来るんですけども、特に映画ですね、美術監督と一緒に、舞台はこれでいいのかっていうんで、漫画とはちょっと違うところに変えたところもあります。
漫画、どんな質問来るんですか? 原先生から。原先生からはですね、原先生、すごく『史記』という、司馬遷の『史記』なんですね、これをしっかり読んでらっしゃって。でも記事の間に矛盾がありますので、その辺の記事の矛盾はどう解釈するとか、それから地名ですね。原先生は創作した地名もたくさん出てくるんですけども、でも実在する地名も出てくると。そうすると、例えば趙の邯鄲を攻める時にどういう経路で行ったのかとかね、そういうことを確かめたりするという。漫画の方に関わってですね。
キングダム、結構もう全巻もちょっと読んで、80巻も読みましたけど、キングダムはある程度、結構史実にのっとってるんですか? 信っていう存在。
僕は原先生と、それから歴史小説を書く北方先生ですね。北方先生と原先生って同郷なんです。唐津なんです。すごい親しいんですね。私は展覧会をやった時に北方先生をお呼びして案内した関係で、北方先生の歴史小説と我々の歴史とどう違うのかっていう、岩波で対談したことがあるんですね。今度は漫画の世界ですね。
よく言うのは、我々は資料を元にして始皇帝の時代を描いてますけれども、ただ一字一句読んでるんじゃなくて、やっぱり資料っていうのは、文字で書いたものっていうのは全ての世界が描かれてるわけじゃないですね。我々も資料からその背景を想像するところなんです。原先生も北方先生も、漫画や小説を書く時に想像するんですね。でもその想像の仕方が多分違うと思います。これは決して、漫画とか小説の世界を自由に想像してるのが悪いってことではなくて、違うんだけど共通するところもあるんですね。ですから、その歴史的な背景のところで我々が考えるところは共通してます。
原先生のすごく面白い発想も私、読んでまして、映画でも感動してるところがあるんですね。例えば、第1作のところに山の民って出てくるんですね。楊端和が、あの時は弟が咸陽を占拠したので、即位したばかりの嬴政ですね、政が一旦引き下がるわけです。そして山の民の力を借りるわけですよ。
その山の民っていうのは、ちゃんと書かれていて、すごく面白い話が原先生も書いてます。秦の穆公という、公の時に山の民に囲まれてですね、馬を取られて、馬を食べちゃうんですね、山の民が。食べて、公はそれを罰するんじゃなくて、お前たち食べるんだったらお酒もあげると。酒をわざわざ彼らにあげるんです。そうすると山の民っていうのは一種の恩情を感じるわけです。その後は晋との戦いで非常に囲まれて危ない時に、みんな助けに行くんですね。それは『史記』に書いてあるんです。
似たようなエピソード、1巻にありましたね。山奥の砦があって。そうですね。そこに昔の王があって、だからそこで会ってたみたいな建物が出てきて。その建物は原先生のフィクションです。だからそこは面白いんですね。『史記』にはその建物ないんですね。これ、避暑地の館っていうのがあって、これ実際に東宝の撮影所に実物大の六角形の例を作りました。東京で作りました。これをCGと合わせて、第1作目に出てくるんですけども。
ですから原先生の1つのフィクションは、避暑地の館というのは象徴的なんですね。穆公、それからその後の秦の諸王、山の民との一種の、ある種の友情の証なんですよ。ところがだんだん世代が変わってくると、秦の諸王っていうのはだんだんないがしろにするんですね、その山の民を。そういう話です。だから象徴的なんです、その避暑地の館って。
だからある程度『史記』を元にしてやってるってことですね。ですから、ないです。ないですけども、原先生はそれを作った。そういうところが面白いですね。面白いですね。面白い。キングダム、もう1回1巻が読みたくなってきましたけれども。
そのキングダムの主人公に次ぐ、第2の人物とも言っていいんですよね、始皇帝というのは。始皇帝、今日色々聞きたいと思います。始皇帝って中国で一番有名な皇帝ですし、法治主義みたいなのを徹底しようとして、徹底して天下統一したというか、みたいな人物だと思うんです。どんな人間か、どんな人間だったか、今日聞いていきたいと思います。その前に1個だけ。
僕も当然漫画好きなんで調べますから、あれですけど、信っていうのはちょっとだけ『史記』とかには出てくるけど、あんまりよく分かってないぐらいの人物の認識なんですけど、やっぱり信っていうのはどのぐらい分かってる人なんですか?
『史記』の資料だと数か所に出てくるぐらいで、原先生はそこから、やっぱりそれをフィクションで作っていくんですね。ですから信というのは将来の大将軍を目指すと。ちょっと面白いのはね、これは事実なんですけども、同世代の若者の将軍たちがいるわけですよ。それが信であり、それから蒙氏の蒙恬ですね。それから王賁ですね。この3人が始皇帝、嬴政と同じ世代なんですね。だからこの同世代の絆っていうのを原先生は描いてます。これは同世代だっていうのは正しいです。正しい。
信、ちょっとしか出てこないけど、その行間を想像で埋めてるわけですよね、原さん。すごい面白いですね。漫画で一番面白いのは、我々、『史記』読んでも顔が浮かんでこないんですけど、やっぱり漫画を描くと、もうそのキャラクターが映像で出てくる、漫画で出てくるわけですよね。それは原先生の想像なんですけど、それが面白いですね。すごいな。
でも悲しいのは、キングダムってやっぱり史実にものっとって書くでしょうから、分かんない、ちょっとどんでん返しあるかもしれないですけど、なんとなくエンディング気になったから先に調べちゃうじゃないですか、どうなったか。それはあんまり関係ない。関係ないですか? もう、こうなるのか、みたいな色々今考えながら。関係ないですか、それは。それはないですね。みんな、我々の本なんかでネタバレっていう言い方は好きじゃないんですけど、それは全然関係なく楽しんだ方がいいですね。関係ないんですね。ありがとうございます。
じゃあ今日、人間・始皇帝、どんな人だったのか、色々まず聞いていきたいです。始皇帝はまずどういう、どんな……『人間・始皇帝』という本を書こうと思った理由は何ですか?
それはですね、私、大学の講義で5年間ぐらい、始皇帝の講義をずっとやってたんですけど、それを原稿にすると。岩波新書の編集者に、私の最初のタイトルは『始皇帝講義録』という、ちょっと硬いタイトル。硬いですね。ただ編集者が、先生ちょっと待ってくれと。向こうで相談したら、『人間・始皇帝』って出てきたんです。こっちの方が読みたくなりますね。もう全然違いますね。それは編集者の経験ですね。
それで始皇帝っていうのは、もう誰でもが知ってるし、例えば中国を最初に統一した皇帝だし、天下の皇帝の中で最初の皇帝ですよね。だから始皇帝というわけですね。それに関しては常識的に、中国を紀元前221年に統一したんだと。統一して、教科書によると貨幣、度量衡、文字、それを1つに統合したんだと。それまで7つの国がありますから、1つにしたんだと。それから統治のやり方も郡県制という、皇帝が命じた人を派遣して直接統治をすると。それから始皇帝は北方民族を防ぐために万里の長城を築いたとか、たくさんの記載があるんですけども。
私はその常識を疑うようになったっていうのは、実は1974年に始皇帝の大きなお墓の東から兵馬俑が出てきて、これ8000体埋まってるんですね。その翌年です。翌年、もう1つ大きな発見があって、それは当時紙がないですから竹簡に文字が書かれてるわけですね。これが初めて秦の時代の文字資料が地下から出てきたんですよ。初めてだったんですか? もう初めてですから、地方の人のお墓から当時の法律文が出てきた。それで我々びっくりしたわけですね。
今までは司馬遷の『史記』だけですね。ところが実際に出てくると、同時代の雰囲気が伝わってくるわけですね。これをみんな一斉に研究者が読み始めまして。そうすると司馬遷の言ってることはどうなのかっていう。実は最初に出てきたものの他に、どんどん今出てきてるんです。そうすると司馬遷もね、それまでは絶対的に司馬遷の言うことは正しいと。『史記』っていうのはすごく大事な書物ですから。ところがどうも『史記』が言ってること、司馬遷が言ってることに、ちょっとクエスチョンマークのところが出てくると。
そもそも100年ぐらい経ってるんでしたっけ? 始皇帝。100年経ってから司馬遷が、前漢の武帝の時ですね。そうすると司馬遷さんが言ってることと違うことがどんどん出てきて、それで研究が面白くなった。
今日気になる、色々ちょっと興味深いところがいっぱいありますけど、僕も昔行きましたけど、あんなめっちゃでっかいのが、なんで1974年まで見つかんなかったんですか?
農民の間では、多少かけらは発見していたみたいです。ところが兵馬俑、大体5メートルぐらいの地下に埋まってるので、偶然井戸を掘った時に、例えば手のかけらとか頭のかけらが出てきたわけです。たまに出てきてたんですね。うん。それで近くの博物館の研究者に通知するんですが、みんな何だか分かんないわけですよね。そんなもの見たことがない。
それで当時、文化大革命の時なんですね。文化大革命の時か。76年まで続きますから、74年っていうのは文革ですから、ゴタゴタしてる時期なんです。その情報が北京に行ったんですね。指導部のところに行って、それで何だっていうことになって、1年後ぐらいですね、動き出したの。今でしたらすぐ大々的に新聞報道するんですけど、1年ぐらいはほとんど動きがなくて。だんだんこれはすごいものが出てきてるというのはね、始皇帝のお墓の東1.5キロメートルも離れた場所なんですけど、これが秦のものなんていうのは分かんないわけです、出てきた時には。
発掘が始まって、その兵馬俑が持ってる武器が出てきたんです。銅の武器、青銅なんです。そこに呂不韋という名前が彫られていた。呂不韋であれば、始皇帝の父親の時の丞相ですよね。呂不韋と、始皇帝の年号が出てきたんです。当時、年号っていうのは元号じゃないので、元年、2年、即位して翌年が元年、2年、3年ですね。その呂不韋という丞相、正確に言うと相邦と言って、相国の国という字なんですけどね。それで何年という年号は、これは始皇帝の年号だということで、初めてこれが、お墓がある、発掘してない始皇帝のものだって分かったんですね。
それまた大変な。びっくりした。あんな大量に一気に出てきたんですよね。でも疑問に残るのは、なんで見つかんなかった。やっぱり荒れてたからですか? だって2000年ぐらい経ったわけですよね。でも5メートル掘らないと、あれ出てこないんですね。5メートルか。本当か。井戸を掘ると、大体例えば7、8メートルまで掘り下げると水が出てくるわけですね。
その井戸を掘って、1号坑っていうのは東西220メートル、南北60メートルぐらいです。この一番東側の、そこに果樹園があるんですね。柿の木があって、干ばつの時に特に水が欲しいと、掘ったんです。ところが当初掘る井戸の位置がちょっと西にずれたんです。半分にかかったんです。たまたま。ですから、もっと東の方に行ってたら、5メートル掘っても8メートル掘っても出てこない。出てこなかったのか。たまたま半分引っかかったら、こんな大量なのが出てきた。農民もテンション上がったでしょうね。
農民は実は大変で、誰が最初に発見したのかっていう。1人じゃ井戸掘りできないですよね。出てきたものを上に上げていきますよね。俺が最初なんだ、俺が最初なんだ、裁判沙汰になります。裁判、第1発見者の座を巡って。当時、文化大革命だから、そんなに、それをすぐ調べてみたいな感じにならなかったんですか?
ところが文革の時は、いわゆる儒法闘争と言って、儒の代表は孔子ですよね。孔子が批判されたんです。法っていうのは代表が始皇帝であると。そうすると法律っていうのは大事だと、当時ね。そうすると秦の遺跡だって分かった時は、これもうみんなびっくりですよ。そうですね。儒学が嫌いで、法が大好きな状況ですけど、じゃあ我々の正当性を確かめ……。
そこで間違えてしまったのは、確かに法律で統治しましたけど、実は法律が厳しいのは漢の時代も同じなんです。秦だけじゃないんです。ところがどうも秦の長城で農民を使って労働させたとか、それから焚書坑儒で学者たちを穴埋めにしちゃったとか、そういうイメージが強いので、暴君だというイメージが強いんですね。ところがどうもそうではないと。始皇帝、そうでもないですか? うん。つまり、出土した文書からするとどうもそうではなくて、彼も人間であるという側面がたくさん出てきた。
どんな側面が出てきたんですか? それはですね、これ岳麓秦簡という、また秦の時代の竹簡ですけど、そこにね、『史記』も言ってないんですけど、統一した翌年に巡行するんですね。『史記』では5回巡行したっていうんですけど、『史記』に書いてない巡行を翌年にしてるんです。長江の中流の洞庭という湖に行くんですね。そこに行って、『史記』には、その後に洞庭に行って船を浮かべたら風が吹いて、けしからんというんで、洞庭にある小さい山の木を全部、はげ山にしたっていう記事になるんです。ところがそこに出てくるのは全然違うんですね。
どう違うんですか? 洞庭の湘山という山に登った。緑が美しいわけです。これをちゃんと保護しなきゃいけない。全然違うじゃないですか。保護してね、臣下たちが言うわけです。これをちゃんと国有地にして、しっかり保護しなさいよという法令を作りましょうと、いうことを言ってる。『史記』では、はげ山にした、全部木を切っちゃえと。違うじゃないですか。だって王朝も変わってるから、昔の皇帝を悪く言わないといけないじゃないですか。それが1つですね。そうですよね。徳川と秀吉のあれみたいなもんですよね。
それからもう1つは、やっぱり始皇帝っていうのは統一者なんだけど征服者なんですね。そうすると東方の6つの国が全部征服されたんですね。統一したと言っても、それ以外の国では秦に対する反発があるわけです。そうすると色々、反始皇帝伝説って私、言ってるんですけど、それがたくさん生まれるんですね。『史記』にはそれを載せてるんです。
そういうことか。王朝も変わってるから、理屈にするのと、あと地域によっても、滅ぼされた方からしたら、とんでもねえやつだって話になりますからね。何十万人も殺して。そこの反秦伝説を『史記』はちゃんと拾ってったのか。そうですね。適当にでたらめを書いた……。司馬遷もちゃんと旅行してますから、地方を回るとそういう話を聞くわけです。確かに1対6だったら悪い噂が多いですからね。
ただ私、研究してると、だんだんちょっと待てよと。それは征服者と被征服者だけども、少なくとも始皇帝、12年間皇帝であるわけですね。その後、二世皇帝の時に滅ぶんで、統一は15年で終わるんですけど、ちょっと待てよと。秦の人間だけで全部統治できるか。そうだ、無理だ。考えてみたら劉邦がいますよね。劉邦は漢王朝を建てますよね。劉邦は最初どういう仕事してたと思います? 分かんないです。何ですか?
劉邦は、泗水という川があるんです。泗水の亭という、亭って書いて、1つの村の治安を……。これ秦の役人なんですね。秦の村の役人をやってたわけです。それから劉邦についた、例えば蕭何だとか、連中がいますけど、秦の沛県という県の役人なんです。彼らがやっぱり秦の役人なんです。そうすると始皇帝の秦っていうのは、元々秦の人間だけで征服して、そこで統治なんてできないですね。やっぱり現地の人間をどう使っていくのかって。取り込まなきゃいけないですね。そうですよね。それがだんだん見えてきたかなという。
でも今、色々気になるな。今までの話で、いっぱい気になることあるんですけど、兵馬俑の謎も今お聞きした通り、これ偶然見つかった。あと、いわゆる始皇帝のイメージでいくと、いいところで言うと文字と、いいところっていうか便利なところで言うと、文字を統一して度量衡を統一してって、それは確かに分かると。あと法治を徹底したのは分かる。でもその焚書坑儒とか、学者ですよね、埋めちゃったとか、なんでそんな学者を埋めちゃったんですか? 何人ぐらい埋めちゃったんですか?
『史記』は460人って書いてあるんですけど、考えて、僕がいつも主張してるのは、統一しますよね。統一した時にそんな政策やってないんです。統一して6年ぐらい経って、そろそろ自分が征服したところをまとめたいっていう発想を持ったのが李斯なんですね。丞相の李斯。李斯が提案して。また李斯か。戦争をやるんです、もう1回。今度は北の匈奴、南の百越という、対外戦争をやるんです。そうすると、みんな東方の人たちも一緒に戦ってくれと。兵士としてまとめたいわけです。だから6年して、中華帝国的なまとまりを作ろうというのが李斯の発想。
そのために都の言論を統制したんです。考えてみれば、焚書坑儒。坑儒っていうのは面白くて、これ儒者、実は儒だけじゃないんですね。学者たちです。学者たち460人を穴埋めにしたっていうのは『史記』に書いてあるんだけど、その前提として、都の咸陽に学者たちがちゃんと政治の批判をしてるんですね、自由に。批判するからこそ李斯はちょっと待てよと、お前ら黙ってろと。ですから政策をする前は、ちゃんと批判してるんです。今の政治っていうのは、もうちょっと古の時代を学ぶべきだという意見が出てくるわけです。
で、埋められちゃってるんですね、最終的には。最終的には、それは分かりません。発掘もしてないですし。埋められたって史実じゃないか。伝説ですね。伝説なのか。でも全く嘘ってことはないでしょうね、『史記』に書いてあるんだから。現地に行くと、坑儒という、儒者を穴埋めっていうのは坑って言うんですけどね、坑儒谷って書いてある、そういう場所があるんです。そこに、発掘してないですけど。
確かに昭王の時に白起が趙を攻めて、長平の戦いがあって、あそこで40数万人を穴埋めにしたという記事があって、それは発掘されてるんです。そうすると殺された趙の兵士の骨が出てきてます。それ、キングダムで、すごい恨んでるってやつですよね。はい。坑儒に関しては全く発掘されてないので、じゃあ儒者の骨が出てくるかというと、いまだそれは実施されてないと。
それで色んな伝説があるんです。伝説も面白いんです。私、伝説には必ず背景があると思ってるんですね。どういう伝説かというと、坑儒、穴を掘って、そこに瓜の種を植えて、瓜が成長するんですね。冬なのになんでそこで瓜が伸びてるのかって、学者たち、ちょっと現場を見て説明しようと。これ伝説ですよ。そしたら学者たちは、そうか、冬なのに寒いのになんでここで育ってるのかっていうことを、みんなでワイワイ騒いで、穴の中に入っていくんです。それで一斉に埋めたという伝説。怖い。
僕はそこで面白いのが、冬になんで瓜が育つのかっていうのは、坑儒っていうのは周りが温泉地帯なんです。近くには温泉が出るんです。ですから地熱で暖かいんです。だからそういう、瓜が冬も育つっていう伝説が生まれたのかなと。これは秦の時代とはちょっと違う、後世の話ですよ。なんで後世の話なんですか、それ。
始皇帝の同時代に460人を穴埋めにしたっていうのは、いわゆる反秦伝説で、司馬遷は拾ってますけれども、それは実証されてないと。でもその今言った温泉の話は、もうちょっと後漢以降の話、後世の話です。でも伝説っていうのは、その背景に史実があるだろうっていうので、私は今、温泉の話をしましたけど、そういうところで生まれた伝説なのかなってね。伝説も扱っていくと、すごく面白いんですよ。
でも何かしら儒者たちを、迫害したんでしょうね。でもね。ですから自由に言論する秦の時代で、今は黙ってろと。我々は中華帝国をちゃんと作り上げていくんだっていうことは事実でしょうね。だから私はむしろ、自由に発言していた時代だっていうことをちょっと取り上げてるんですけど。
なるほど。その人間、始皇帝を見ていく上で、『史記』がベースだったのが、1974年以降どんどん竹簡が発見されていって、もう『史記』に書いてる量を超えていくわけですよね、どんどん。どんな面白いことが分かってきたんですか?
そうですね。1つは今話題になってるのは、簡と言いますけど、簡の中に秦の時代の簡と、それから漢の時代の簡があって、その中に『趙正書』というタイトルがついた簡が、北京大学が持ってるんですね。『趙正書』っていうのは、『史記』だと始皇帝の名前は趙政っていう、趙の国に政治の政なんですけど、そこでは正月の正になってるんですね。書物の書。これ50枚ぐらいの竹簡なんですね。これは前漢の武帝の時代の、始皇帝の物語なんですね。
実は始皇帝の名前っていうのは趙政と言ってるけども、正月生まれですから、色んな書を見ると、この正月の正の方が多分正しいと思います。今、政治の政のイメージですね。政治の政です。ところが正月の名前で出てきて。『趙正書』という竹簡は、司馬遷の『史記』と同時代なんだけども、武帝って治世が長いですけど、その前半の、『史記』よりもどうも早い時代に書かれた。
そこには何が書いてあるか。始皇帝の遺言の話ですね。『史記』だと始皇帝が亡くなって、始皇帝が巡行の途中に亡くなる時に、後継ぎを決めてないんですね。太子を決めてない、太子をね。そこで自分の葬儀がね、巡行の途中で病気になるわけですね。もう先が見えてきたと。50歳なんですがね。自分の長男の扶蘇に、自分の遺体を都、咸陽で迎えて葬儀をやれと、いうことが『史記』には書かれていた。
ところが巡行に同行していたのは、一番末っ子の胡亥と、それから趙高と、それから李斯ですよ。この3人が、『史記』によると結託して、この書かれていた遺言を破棄してしまった。新たに別の偽りの、偽詔と言ってますね、それを作ったと。どうするのかというと、末っ子の胡亥を太子にする。それで扶蘇は北方に半分流されて、そこで始皇帝の名で自裁を命じるんですね、というふうに『史記』には書いてます。
これはすごい面白いストーリーですよね。その二世皇帝っていうのは正当な後継者じゃないと。それも、あれ、感じですけど、面白いですよね。それで『趙正書』には全く違うことが。何て書いてあるんですか?
始皇帝が一番可愛いのが胡亥なんです。胡亥を一緒に連れていって、俺が亡くなったらこれどうするのかと、この可愛い息子をね。お前たちちゃんと議論しなさいと、後継者を誰にするのか決めなさいよって言うんですね。それで頭の中にはもう胡亥しかいないんですね。臣下は胡亥にしますよ。始皇帝は分かったと、後はよろしく頼むと。『史記』にはそんなこと書いてないですよ。
どっちを信じたらいいんですか、これ。それで私もずっと悩んでいたんですけど、どうも出土した『趙正書』、これは漢の時代の物語だけども、こちらの方が正しいのかな。なんでですか? これは色々私も論文を書きました。つまり遺言、皇帝の遺言っていうのはどういうものかって。
話せば長くなりますけれども、皇帝の遺言というのは色んな内容があるわけです。完璧なものは、何が大事かというと、太子を決めるっていうことですね。それから自分の葬儀をどうするのか。大体今でも遺言、そうですよね。自分が亡くなった後、じゃあ誰が後継ぎ。相続ですね。相続ですよね。それから自分の葬儀をどうするのか、もう簡単でいいよとか言うわけじゃないですか。もう1つは自分の生涯をまとめるんです。俺、これだけ生きてきて、こういう生涯だったんだよって。マイウェイを語るわけですね。語るんです。
この3つでも、帝王であれば臣下が全部書いてくれるわけです。これ、おそらく李斯がまとめていたと思います。この3つが本来そろってる、遺詔と言います。遺言の遺に詔ね、遺詔ですけど。『史記』を読むと、葬儀を扶蘇に任せるしかないんですね。後の2つが見えないんです。ところが他の話を持ってくると、どうも全部そろっていたように私は思うんですね。
それは何かというと、自分の治世の総括。これは面白いところに書かれてるんですね。どこに書かれてるんですか? 李斯が実は趙高との権力闘争に負けて、息子が陳勝の反乱を食い止められなかったという話で処罰されるんです。牢獄に入ります。獄中から訴えるんですね。俺は7つの罪を犯してしまった。本音は違うんです、7つの功績があったって。
もういくら訴えても二世皇帝は聞かないですから、もう俺の罪だと。実は自分の自慢話で、自分の自慢話っていうのは始皇帝の治世の評価なんですね。始皇帝を王から皇帝にして、天子にしたと。始皇帝は民衆から愛されてると、ちょっと今までないような話もあるんですね。それを7つ挙げたんですね。だから僕は、李斯が挙げたっていうのは、李斯が遺言の中に始皇帝の生涯をちゃんとまとめていたと。これは受け入れられなかった。
誰が受け入れなかったんですか? 二世皇帝が。二世皇帝が、なんで受け入れないって、可愛がられた子ですね。『史記』の中にはね。それで『史記』には、その遺言はもう残らなかったと。でも書き集めてみると、この3つが必要なのかなとね。
3つ目の葬儀ね。葬儀は結局、扶蘇は偽詔で処刑するんですけど、誰がやったのかというと、二世、胡亥がやってるんですね。これは王離という、また王氏一族の3代目の将軍がどうもやってるんです。それで彼らは始皇帝の遺体を運ぶわけですね、始皇帝陵にね。それを彼らがやって、ついでっていうのはおかしいですけど、兵馬俑も作ったと。これは胡亥とその将軍の仕事なんですよね。
だから胡亥を非常に悪く言ってるのは司馬遷の『史記』であって、『趙正書』はむしろ胡亥がちゃんと後継ぎをしてるという。そちらに私も傾き始めた。何なんですか? なんでそんな同時代の、ちょっと時期がずれてるので違うんですかね?
やっぱり先ほど言った、漢の時代は秦の時代をまとめるわけですね。なんで秦が滅んだのか。始皇帝はいいんですね。だから二世皇帝がまずかったんだという書き方をしたいわけです。『史記』は? 『史記』はね。そうすると秦が滅んだのは、3代目は子嬰っていうのがいるんですけど、非常に頭がいいんですね。胡亥のことを色々責めるんですね。だからやっぱり胡亥が、いわゆる馬鹿の故事なんてありますよね。
趙高が馬を献上したんだけども、鹿と言いくるめられたと、何も言えないわけです、という故事も入れてるわけです。もうちょっと、あんまり頭も良くない。だからそういう、馬鹿の語源ですね。そうですね。日本語の馬鹿とはまた違うんですけどね、馬、鹿ね。だからそういう書き方、どうも見方があるわけですね、秦が滅んだ理由に。
ということは、やっぱり『史記』もある程度目的を持っちゃったんですか? それともそういう評価がもう司馬遷の時代にあったから、それを拾っちゃったって感じなんですけど、どっちですかね? 『史記』は王朝交代をちゃんと説明したいんです。王朝交代の理由ですか? 王朝交代って、もう殷、周と来るわけですね。周でさえも、非常に徳ある政治をしながら、最後は周も滅んだと、秦が滅ぼすわけですね。それを説明するわけですね。
私は周秦革命と呼んでるんですけど、周から秦に変わると。ですから、とにかく王朝の末期には暴君が現れて、夏王朝も殷も暴君で滅んだという、そういう説明が一番楽なんですね。そういう史観があったのか。そうですね、司馬遷さんに。だからちょっと目が曇ってたのか。実証主義的でないってことですよね。
司馬遷の元に色んな資料は集まったんでしょうけど、やっぱり秦が滅んだ理由を説明したいと。1つは胡亥の無能力さ。一方で陳勝という農民反乱があったと。我々、農民反乱って言うんですけど、彼らが武器もなく農具を片手に、民衆が反乱を起こしたと。それで秦が滅んだっていうことも言いたいわけです。だから司馬遷は陳勝を非常に高く評価してるんです。なるほど。
世家っていうのがあって、それは諸侯の歴史を集めたものは世家というんですね。例えば戦国の国は趙世家、魏世家。その中に2人だけ、ちょっと異質なのが、1人は孔子世家。孔子を王のように扱って、孔子のことをまとめるんですね。その後に陳渉世家。陳勝も一時ですけど国を作るんですね、半年ぐらい。ですから彼も世家の中に入れるという。秦を滅ぼしたきっかけは、内側は胡亥だけども、外側は陳勝だと。それを受け継いだのは劉邦だという。それで説明したいわけですよ。
なんでお兄さん、処刑されちゃったんですか? なんでそっちにならなかったんですか? 扶蘇は、可愛がられたとは、頭が良かったと思います。ですから扶蘇は、親のことをちょっと責めたんですね。先ほどの焚書の辺りで。それで、お前はちょっとしばらく蒙恬監視の元の北に行けと。牢獄に入れられたわけじゃないんで、北方に、お前しばらく行ってろというのが事実でしょうね。
ちょっと責めちゃったから、言うこと聞かなかったんだ。ダメですよね。言うこと聞きそう、何でもはいはいって言ってるやつにしちゃったんだ。でも僕は始皇帝のことを調べると、面白いのは、臣下はちゃんと異なった意見を言うんです。議論するんです。
例えば統一して、李斯の意見が通りますけども、郡県制を一本にするんだけど、丞相たちは、皇帝、陛下、東方の地っていうのはまだ治めきれないんで、そこに王を置いてくださいと。封建制を取ってくださいということですね。両方取り入れましょうって言うんです。李斯はそれじゃダメだって、もう徹底して郡県にするんですけど、その王綰という丞相は、その後一緒に始皇帝と巡行を回ってるんです。決してそこで異論を言った政治家を、今の時代も色々ありますけれども、粛清することはないんですね。
なんでそれで、お兄ちゃんはダメだったんですか? ですから行ってろということでやって。じゃあ戻してくれる説もあったのか。行ってる最中に死んじゃったんでしたっけ? 二世皇帝の時に自裁を命じたわけです。だから始皇帝はそのつもりではなかったと。始皇帝は本当は、じゃあそっちにしたかったのかな。でも『趙正書』だと一番末っ子にね。だからその真実がまた分かんない。難しいんですね。結果、その……どうぞ。
だから私も、扶蘇ではなくて胡亥が正当だっていう資料が出てきた。ちょっと私も偏ってますけど、傾いてますけど。『史記』では胡亥は悪者ですけども、悪者よりは胡亥が後を継いで、しかも胡亥が、自分が皇帝になったら色々法令を出すんですね。その法令も湖北省から出土してます。
どんな法令を出すんですか? それはね、これまた面白いんですけど、『史記』によると、始皇帝の後を継いで、始皇帝が7つの顕彰の石に顕彰文を彫り付けたんです。そこにみんな皇帝としか書いてないんです。そうすると『史記』によると、始皇帝っていうのは死後の称号ですから、胡亥、二世皇帝はもう1回巡行するんです。石の中に、この右側の文章の皇帝は始皇帝であるってことを全部刻んで回るんです。そういうことは分かってたんです。
ところが今度の資料は、自分はこれから始皇帝に代わって統治するわけだから、始皇帝の時代のものは一応処分すると。例えば法令なんかはそのまま始皇帝のものを使うんじゃなくて、私、胡亥が自分でまた法令を出すと。
実質かもしれませんけど、そういう宣言をするんですね。はい。それが資料で出てきました。それはまた面白い資料です。
面白いです。どんどんわかんないことがいっぱい分かってきたわけですね。結果、その始皇帝さんは暗君だったんですか? それとも賢君だったんですか?
そういう質問をね、僕は兵馬俑をやった時に、小学校4、5年生の男の子から手紙をもらいました。
俺、小学校4、5年生と同じ脳みそのレベルじゃないですか。一番気になる。この後の話です。
それでね、小学校の時に色々調べていて、世界の中で一番悪いやつは誰かと。その子が始皇帝に行きついたんです。「始皇帝は悪いやつです。鶴間先生に聞きたい。本当に悪いんですか」と。手紙に、ちゃんとお父さんの手紙も一緒についてきました。返事を書かないわけにいかないと。その時、1週間ちょっと考えましたね。小学生にどう説明したらいい?
それ、いい。暗君なのか、それとも賢君なのか。
それでね、やっぱり人間なんですね。だから暴君という側面も、当時2割にしたかな。8割が賢君というかな、名君かな。
8割、暴君2割。
だって統治者っていうのは、やっぱりあるんですよ。無理やってますから。でも今までは、例えば8割か10割暴君という説明をしてたけども、どうもそうではないと。
どんな統治者でも、その暴的なところはあるけど、でも始皇帝はそんなに強引に力でやらずに。今度、朝日新聞出版の本に書いたんですけど、なぜ始皇帝が将軍たちをうまくまとめられたのかというと、やっぱり絆を作ったんですね。
絆。
自分が中心になって、自分の周りに、文官であれば丞相たちとかね、高官ですよね。それから将軍たちです。彼らがやっぱりお互いに、先ほど世代の話をしましたけど、信頼関係ができてるんです。
できてるんですか?
できてる。その中心に始皇帝がいたと。
どうやって作って、初めは呂不韋とかにいじめられてるイメージがあったじゃないですか。キングダム、キングダムですよ。どうやって、初めはどうだったのか、どうやってその絆を作ってとか、そこら辺知りたいですね。
それはね、彼が即位したでしょ。13歳ですぐ帝王にはなれません。まず李斯が彼を育てていくんです。李斯と呂不韋が育てていくと。それでだんだん彼は育っていくんですね。その中で、彼じゃ政治できませんから、その周りの将軍、それから高官たちを、一緒に作っていくんです。それがね、なんかうまくいってるんですね。
だから漫画の世界だけども、実は将軍たちの絆、これは資料を読んでも非常に連携して動いてますね。
六将みたいなのってあったんですか?
六将みたいなの?
6人の将軍みたいな。
これはないですね。
これ、フィクションですよね。四天王的なフィクションですよね。将軍たちとか、丞相たち、文官と武官がそれぞれ結構ワークしてたんですか?
そうですね。
でも他の国はそんなことないんですか?
我々は資料から言いますから、そういう資料がないんです。それこそ李牧、趙の名将ね。李牧は大変な将軍だったですね。趙の将軍ですよね。王翦たちも出てきますけども、連戦連勝です、秦の軍に対して。
ところが内から彼を讒言する郭開という人物があって、これを動かしたのはおそらく李斯だと思うんですけども、「反乱を起こすんじゃないか」と。李牧はね、あれだけ有能な将軍で。そうすると趙王遷はそれを聞いて、殺してしまうと。
李牧、すごい戦でずっと秦に対して勝ってたのに、讒言みたいなので死んじゃうんですよね、最後。それ、李斯がやってたんですか? あの李斯が。
李斯はね、実は典客という、外交官だけれども、色々いわゆる間諜を動かして、裏情報をあの国にまくんですね。それで郭開に、要するに金銭を与えて、「李牧は反乱を起こしてる、起こすだろう」という、そういう話を伝えるんです。
それ、なんで郭開は信じちゃうんですか?
郭開は郭開で、やっぱり。
信じてたんですか? それ。
それは資料ないですけれども、あまりに有能なので、やっぱり足引っ張るじゃないですか。だからそれが秦にはないんですね。
なるほど。
だから他の国っていうのは、やっぱり権力闘争ですから。王を中心として。それでね、最近李牧を色々私も調べたんですけど、面白いのは、最初彼の拠点は北方なんですね。北方に長城が。つまり北には匈奴がいますよね。当時の匈奴はまだそんなに強くないんです。
そうすると匈奴もね、南の農産物が欲しいですよね。ですから国境で交易をするんです。そこに市場があるんです。李牧もそこを拠点に、彼は趙を守っていたんです。彼がやったことは、市場で儲けたお金は都、邯鄲には持っていかずに、自分の裁量で兵士たちを養うんです。それをやるんです。後でちゃんと報告しますよ。それをやります。そうすると兵士と李牧の信頼関係が出てくるんです。
そうですね。
ところが、だんだん李牧は臆病だと、匈奴と戦わずにしてあんなことをやってると、いうことを言うんだけども。それで1回、最後、匈奴と戦うんです。それは彼のやり方で戦いましたね。
この連戦連勝、何をやったのかというと、匈奴っていうのはみんな騎兵なんですね。馬に乗ってきますよね。騎兵と騎兵だと絶対負けます。李牧の部隊は騎兵だけじゃなくて戦車もあり、それから歩兵もあり、歩兵の中に弓兵がいるんです。そうするとね、匈奴の兵をおびき寄せて、そして囲むんですね。その時、弓が。それで勝利しました。
だからそのやり方を秦との戦争でもやっていったんですね。だから彼はすごく有能な将軍です。面白いのはね、先ほど言った二世皇帝の次は子嬰という3代目がいるんです。子嬰は李牧を評価してるんです。
評価してるんですか?
秦の人間でありながら。
なんでですか?
敵でありながら、あんな名将がいないと。ですから、嬰って頭いいんです。趙がやってることを批判するんですけど、彼は敵であったって、非常に有能な人間は我々は学ばなきゃいけないって、そういうことを言うんですね。
李牧、今ちょうど80巻で活躍してるから気になるじゃないですか。李牧に関しては、他になんか分かってる話ってあるんですか?
まだありますね。
これはね、私、今あるカルチャーセンターで、その本を元にね、こないだ特集1回やったんです。
李牧特集、ちょっと聞きたいです。
李牧、決断力を持つ名将。それでやったんです。我々はあらゆる資料を、李牧を読みますから。最後にね、今はやりのAI、無料のAIを使って、「始皇帝と李牧の関係を説明してください」って、私ちょっといたずらにやってみたんです。何が出てきたと思います?
好敵手。
好敵手はないんですね。まともには多分対面してないんですね。李牧は秦の軍隊と戦って、その後すぐ処刑されますから。ですから、李牧は名将軍だけども、趙の内側で落とされたと。讒言によって処刑されたとか、それは秦にとってすごいプラスになるわけですね。つまり李牧という将軍がいなくなったわけです。
その後、王翦たちが邯鄲を陥落させますよね。だから結果として内側から落とされた李牧、このことによって始皇帝は統一に向かっていくんだという結論なんですけども、それは納得できますよ。ところが僕が色々資料を見た中に、使ってない資料もたくさんあって、AIってこういうものなのかなって、そんな感じがしましたね。
使ってない資料っていうのはね、李牧の証言者が実はいるんですね。
証言者。
李牧と親しい人間が。趙の人間で、あまり語られてないんですけど。趙の都は邯鄲ですよね。最後の遷が捕虜になるわけです。そうすると王、遷の兄がいるわけです。兄がそこを抜け出して代国を作るんです。それが北方の長城の近くなんです。これは李牧の拠点だったんです。代王なんです。ですから趙の国は、最終的には亡命政権の代が滅んで、実質、趙が滅ぶんですけど。王は最初に処刑、殺しはしないんですね。捕虜にしてます。
大臣はどうも李牧と非常に面識があって、李牧のことをよく知ってるんです。その話はあれですけども、代の丞相になった馮氏っていうんですけど、二に馬という字を書くんですけど。この子供が、漢王朝になった時に、劉邦は政策をして地方の有力者を都に移住させるんです。その中に混じってたんです、この馮氏。それで皇帝の近くに都市を作って、そこにいるんです。その子供が馮唐という、有能な前漢の文帝の時の役人なんです。彼が父親から聞いた李牧の話をするわけです。
そっか。それ、親しい丞相の子孫ですからね。
そう。
それですか?
これはAI、拾ってます?
拾ってない。その記録が残ってるんですか?
残ってる。
どんなことが書いてあるんですか?
ですから、直接生身の李牧を知って、やっぱり褒めたたえてますね。有能だ。だからさっき言った、戦わずして匈奴との関係をうまくした。だから李牧は戦争だけでね、戦国時代を生きていくんじゃなくて、やっぱり無駄な戦争をしたくなくなるわけですよ。
当時もね、そんなに強力な、まだ帝国を作ってないですから、匈奴の騎兵たちはそんな勢力ないんですね。実は戦国時代を遡ると、合従軍の中に匈奴と手を結んで秦を攻める時もあったんですよね。だから李牧はそんなに無理する戦争をする必要ないと。やっぱり匈奴と交易をやってね、国境は平和であればいいじゃないですか。自分たちの財産を守るわけです。
ただ戦争だけの将軍じゃないというね、そんなところをちゃんと評価してますね。
それがその馮さんが。
馮唐が父親とおじいちゃんの話から、そういうことを言ってるんです。それでね、そこで馮唐はまた面白いことを言ってるんです。いにしえの将軍のあり方を、そこから引き出すんです。それは何かというと、将軍だけじゃないんです。その上にね、将軍を使える名君がいるわけです。名君がいて初めて名将軍です。
その名君って何かというと、政治を司る名君というのは、都で俺はちゃんと政治をやるけども、将軍を任命して、将軍を都から出したら全て将軍に任せると。もう自由にやると、自分の裁量で。うちは自分が政治をちゃんとやってると。その関係ですね。
だから李牧にしても北で自由にやりましたよね。それをちょっと頭にあって、馮唐は、いにしえの将軍っていうのは名君がいて初めて名将軍だった。この関係なんですね。ですから、一旦都から離れて将軍として任命されるわけですから、出ていったらもう全部委ねる。信頼するってこと。
っていうのが大事だっていうふうに書いてあるわけですか? へえ。それ、何ていう本なんですか? その馮唐。
それ、本じゃなくて馮唐の話。
馮唐の話って、何なんですか、それは?
これは『史記』の中に出てくるんです。
『史記』の中に。『史記』はそういうの拾ってるわけですか?
「馮唐列伝」っていうのがあって。
『史記』、やっぱりあれですね。司馬遷はやっぱりそれなりにちゃんと取材してるんですね。
それはしてますね。
めちゃくちゃ適当なことを書いてるわけじゃないですよね。
はい。だからそれは面白いですね。やっぱり李牧が初めてそういう話に多分なったと思うんですね。馮唐が言うのは、もうちょっと昔から、古代の名将軍っていうのはこういうものだって言うんですけど、これはやっぱり李牧を念頭にして、彼が発言したんじゃないですか。
それはね、自分の目の前には文帝がいるわけです。話、色々広がりますけど、文帝っていうのは実は代王だったんです。皇帝になる前。
代王だったんですか?
代王だから国境の匈奴の怖さを知っていて、文帝は匈奴との外交をやるんですね。ところが都でね、劉邦の妻の呂后が、劉邦亡き後、政権を握っちゃうんですね。呂太后って、そこで大臣たちと内戦が始まって、それで呂氏一族が廃されて。「じゃあ誰を呼ぼうか」。劉恒という代王を都に呼ぶんです。それで皇帝になったんです。
これ、すごく面白い重要なことなんです。だから文帝は匈奴との関係をよく知ってるんです。それで馮唐が言うんですね。「ところがあなたが任命した将軍は、どうも李牧と違う」と。要するに部下たちが色々功績を上げますね。そうすると褒美を与える。どうも計算間違いしてると。そしたらもう上の責任だと。それで処罰するわけです。昔はそんなことしないと。
ちゃんと自分の裁量でやったのに。そんな大した間違いじゃないんですね。手柄を立てて敵の首を取って、与えるんですけど、その数値が違って。ごまかしたわけじゃないんだけど、そうすると上の人間を処罰するんです。「陛下、こんなことをやったらダメですよ」ということを馮唐が言うわけです。そんな話につながって。
離れるぞっていう。
そんな話につながってるんです。
そういう話が、それ『史記』に載ってるんですか?
『史記』に載ってるんです。
面白いな。李牧、知らないエピソードをいっぱい聞きましたけれども、李牧以外にも、これ、キングダムに出てくる武将たちの面白いエピソードがいっぱい載ってるじゃないですか。
載ってますね。
一番印象的というか、面白いのはあります?
それこそ信ですね。
李信、李信いきましょうよ。
李信と。
史実とか。
李信は若いですよね。始皇帝と同世代で、もう1人、王翦という老将軍がいる。王翦は老将軍だけども、王騎は早いうちに戦死しました。
王騎、あの人ですよね。
王翦がいるわけです。王翦の一族は、王翦、王賁、先ほど言った王離、3代将軍。
そうです。キングダムだとマスクしてる人ですよね。
王翦は老将軍なんです。信はね、李信は若いんですね。楚という大国を攻める時の話。楚っていうのは領域も広いし、100万の兵を持ってる。
一番でかいんじゃないですか?
一番大きい。兵力も100万なんです。その時に始皇帝、まだ秦王ですけど、嬴政は楚を攻める時に、どれだけの兵力が必要かということを2人に尋ねるんです。李信は20万でいいよって。20万ですよ。こっち100万ですよ。信と、それから蒙恬ですね。同じ世代ですから、2人が行くわけです。
一方の王翦は60万必要だ。60万の兵がなきゃ戦えないということを言うんです。嬴政はもう若い彼に任せて、20万でやったわけです。しかも李信は2手に分けて攻めようとしたんですね、その軍隊が。ところが遠征でしょ、都、咸陽から。
楚ってどこら辺ですか? 四川省あたりですか?
安徽省ですね。
安徽。
都を転々とするんです、楚っていうのは。元々湖北省でしたけども、安徽省に移るんですね。最後は寿春というところが都なんですけどね。咸陽から行くと、もう大遠征でしょ。途中で兵士疲れちゃいますよね。しかも相手を甘く見ていて、2手に分かれて蒙恬と囲んじゃおうと。そうしたら簡単に敗北したんです。
なめてるじゃないですか。信、どうしたんですか? なんでそんな調子に乗ってたんですか?
若いですからね。経験がないんです。それで王翦が、面白くないわけですよ。そんな若造の方に行ったわけですね。それで、自分はやりたくないんだけど、嬴政が頼むわけですよね。60万。60万の軍隊を秦の本土から出すって、すごい数なんです。それを彼は、やらなければ勝てないと。
『史記』の中に面白い話があって。60万の軍隊を将軍がね、先ほど言ったけども、都を出たらもう将軍に任せるわけですよね。そうすると心配なことがあって。「俺が60万の軍隊を持ったら、嬴政は怪しむんじゃないか」と。俺が反乱を起こしたら、すぐ秦なんて滅ぼせるわけですね。
そこで彼がやったことは、出陣なんですけども、「俺が勝利したらどれだけの褒美をくれるんだろう」と嬴政に頼むわけですよ。田畑が欲しいわけですね。嬴政は「お前、戦ってないのに何を言うんだ」と。それを何度も言うんです。
だから自分は戦って褒美をもらう気だぞっていう。裏切らないぞっていう。
そう、そういうことなんです。それをわざわざ言うんです。それで楚の近くに行くんですけれども、まずやったことは兵士を休ませるってこと。休ませて、美味しいものを食べさせて、しばらく休養させるんです。兵士たちもだんだんね、遠征で疲れていたんだけど、だんだん体力が回復します。みんなやっぱり戦争ですから、筋肉をつけないといけないんで、例えば砲丸投げしたりですね、運動を始めるんです。
もう準備してるんですね。
それを見て、もうこれはいいだろうと。60万の軍隊で、やっぱり楚を攻めて勝利したんです。やっぱり王翦の勝ちですよ。
ダメじゃないですか。『史記』とかに記述されてることだけ見ると、別に李信ってそんな活躍してないですよね。
してないですね。
原先生に悪いんですけど。
でも。
お金の話で申し訳ないですけど、呂不韋、李信とか、年収いくらぐらいだったんですか?
中央の最高位っていうのは穀物で換算するんですよ。これはね、一石っていうのは大体30キロ。
すごいじゃないですか、これ。年収との関係で言うと、永遠の命を求めて徐福さんを日本に派遣したみたいな伝説があるじゃないですか。あれは本当なんですか?
徐福伝説となるまで、去年、私からすると大発見があって。今の青海省の源流の岩にですね、37の文字が発見されたんです。そこに、37年、始皇帝が亡くなる年に、そこに行っ
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