『史記』の始皇帝像はどこまで正しいか――出土資料から読み直す秦の統一と将軍たち

YouTubeで開く ↗
概要

映画『キングダム』で中国史監修を務める学習院大学名誉教授の鶴間和幸氏が、ReHacQの高橋弘樹氏の質問に答えた。主題は、司馬遷の『史記』が描いてきた始皇帝像が、1970年代以降に出土した竹簡などの同時代資料によってどう揺らいでいるかである。鶴間氏は、始皇帝を単純な暴君とする通説に疑問を示す。そのうえで、秦の統一を支えたのは君主と将軍・官僚のあいだの「絆」だったという見方を語った。話題は『キングダム』の史実とフィクションの境目から、李牧や李信の実像にまで広がった。

16分で読めます
2:47

歴史学者と漫画家の「想像」の違い

鶴間氏は秦の始皇帝を中心とする中国古代史の研究者である。文献を読むだけでなく、歴史の舞台となった現地を歩き、考古学の発掘現場を見たうえで資料を読み直すことを仕事にしてきたという。日本で開催された兵馬俑展の監修や、実写映画『キングダム』の中国史監修も手がけている。映画では監督と一緒に舞台設定を検討し、漫画とは変えた部分もあるそうだ。

原作者の原泰久氏からは、編集者を通じて質問が届くことがある。鶴間氏によれば、原氏は『史記』をよく読み込んでおり、質問は記事どうしの矛盾をどう解釈するか、実在の地名を使う場面でどういう経路をたどったと考えられるか、といった内容だという。

鶴間氏は、原氏や歴史小説家の北方謙三氏と自分たち歴史学者の違いを「想像の仕方」の違いとして説明した。文字資料に世界のすべてが書き残されているわけではないので、歴史学者も資料から背景を想像する。漫画家や小説家も想像する。その方法は違うが、歴史的背景を考える部分では共通しているという。なお原氏と北方氏はともに唐津の出身で、鶴間氏は兵馬俑展で北方氏を案内した縁から、歴史小説と歴史学の違いについて対談したことがある。

5:58

「避暑地の館」と山の民――史実を土台にしたフィクション

鶴間氏が原氏の発想の面白さを示す例として挙げたのが、第1巻に登場する山の民である。弟の成蟜が咸陽を占拠したため、即位したばかりの嬴政はいったん退き、楊端和率いる山の民の力を借りる。

この山の民には、『史記』に下敷きとなる話がある。春秋時代の秦の穆公の馬を、山の民が捕まえて食べてしまった。穆公は彼らを罰しなかった。それどころか、馬を食べるなら酒も飲めとわざわざ酒を贈った。山の民は恩義を感じ、のちに秦が晋と戦って穆公が包囲され危機に陥ったとき、穆公を助けたという。

一方、作中で嬴政と山の民が出会う穆公の避暑地の館は、『史記』には存在しない原氏の創作である。映画では、東京の撮影所に六角形の館を実際に建て、CGと組み合わせて第1作に登場させた。鶴間氏は、この館を穆公と山の民の友情の象徴として評価する。さらに、世代が下るにつれて秦の王たちが山の民をないがしろにしていくという作中の流れにも、史実を踏まえた筋が通っていると見ている。

8:51

李信は「数カ所」しか出てこない人物

高橋氏が主人公・信のモデルである李信について尋ねると、鶴間氏は、史料には数カ所しか登場しないと答えた。原氏はそこから創作で人物像を作っている。ただし、李信、蒙恬、王賁の3人が始皇帝(嬴政)と同世代であることは事実だという。作中で描かれる同世代の絆は、この事実に基づいている。

鶴間氏は、文字資料を読むだけでは人物の顔は浮かんでこないが、漫画はキャラクターを目に見える形にする点が面白いと語った。高橋氏が、史実を先に調べると結末が分かってしまうのではと冗談まじりに聞くと、鶴間氏は「ネタバレ」という言い方は好まないとしたうえで、史実とは関係なく楽しめばよいと答えた。

10:44

『人間・始皇帝』という書名と、常識への疑い

岩波新書『人間・始皇帝』は、大学で約5年間続けた始皇帝の講義がもとになっている。鶴間氏の当初の案は『始皇帝講義録』という硬い題だったが、編集者の提案で今のタイトルになったという。

始皇帝については一般的な理解がある。紀元前221年に中国を統一した。貨幣や度量衡、文字を統一した。郡県制で中央が官吏を派遣して直接統治した。北方民族を防ぐために長城を築いた。鶴間氏は、こうした常識を疑うようになったと話す。

きっかけは1974年の兵馬俑の発見と、その翌年の発見である。翌年、地方の人物の墓から、秦の法律文書を記した竹簡が出土した。紙のない時代に竹に書かれたもので、始皇帝の時代の文字資料が地下から出たのは初めてだった。それまで研究者は、約100年後の前漢武帝期に書かれた『史記』を絶対的な資料として扱ってきた。同時代の資料が出てくると、『史記』の記述に疑問符がつく部分が次々と見つかるようになった。鶴間氏は、それで研究が面白くなったと語っている。

13:39

兵馬俑はなぜ1974年まで見つからなかったか

兵馬俑の坑は巨大なのに、なぜ2000年以上見つからなかったのか。鶴間氏の説明はこうである。俑は地下約5メートルに埋まっている。それまでも農民が井戸を掘った際に、手や頭の破片が出ることはあった。しかし誰も正体がわからなかった。

1974年の発見は偶然だったという。1号坑は東西約220メートル、南北約60メートルあり、その東側には柿の果樹園があった。干ばつで水が必要になり井戸を掘ったところ、予定の位置がやや西にずれて、坑の端に半分かかった。井戸は7〜8メートル掘れば水が出るので、もっと東で掘っていれば俑には当たらなかった。誰が最初の発見者かをめぐって、農民たちの間で裁判沙汰にもなったという。

当時は文化大革命のさなかで、情報は北京の指導部に上がったものの、動き出すまで1年ほどかかった。始皇帝陵から約1.5キロ離れていたため、当初は始皇帝のものだとは分からなかった。決め手になったのは、俑が持つ青銅の武器に刻まれた「呂不韋」の名と年数である。当時の年は元号ではなく、即位翌年を元年と数える在位年で表した。相邦の呂不韋の名とその年数から、始皇帝の時代のものと判明した。

文化大革命期には、孔子を代表とする儒家を批判し、法家を評価する「儒法闘争」が唱えられていた。法家の代表は始皇帝とされたため、始皇帝の遺跡の発見は政治的にも注目されたという。ただし鶴間氏は、法律の厳しさは漢の時代も同じで、秦だけが特別ではないと指摘した。

18:05

「木を全部切った」のか「森を守れ」と命じたのか

鶴間氏は、出土資料から始皇帝の「人間としての側面」が多く見えてきたと言う。その例として岳麓書院所蔵の秦簡を挙げた。

『史記』は始皇帝の巡行を5回と記す。しかしこの竹簡には、統一の翌年に行われた、『史記』にない巡行が記されている。行き先は長江中流の洞庭湖である。『史記』には、始皇帝が洞庭で船を浮かべたら大風が吹き、怒って湘山の木をすべて切らせてはげ山にしたという話がある。ところが竹簡では、始皇帝は湘山に登って緑の美しさを目にし、ここを国有地として保護せよという法令を作るよう臣下に命じている。内容が正反対なのである。

鶴間氏は、このような違いが生まれた理由を二つ挙げた。一つは王朝が交代したこと。もう一つは、始皇帝が統一者であると同時に、東方6国にとっては征服者だったことである。滅ぼされた地域には反発があり、鶴間氏が「反始皇帝伝説」と呼ぶ話が多く生まれた。司馬遷は各地を旅しており、そうした話を現地で聞いて拾ったのだろうという。司馬遷がでたらめを書いたわけではない、というのが鶴間氏の立場である。

20:29

秦は秦人だけでは統治できなかった

鶴間氏はさらに、征服者と被征服者という図式だけでは説明できない点を指摘する。始皇帝は12年間皇帝の位にあり、二世皇帝の時代も含めると統一は約15年続いた。その間、秦の出身者だけで全土を統治できたとは考えにくいという。

鶴間氏が例に挙げたのが劉邦である。劉邦はもともと泗水亭長、つまり秦の村落の治安を担う役人だった。劉邦に従った蕭何たちも、沛県の役人、つまり秦の官吏だった。鶴間氏は、秦が現地の人間をどう取り込んで使っていったのかが、だんだん見えてきたと述べている。

21:40

焚書坑儒は伝説か

焚書坑儒について、鶴間氏はまず時期を問題にした。統一直後にそうした政策は行われておらず、統一から6年ほどたって、丞相の李斯が征服地をまとめようと考えたのが発端だという。秦は北の匈奴、南の百越に対して戦争を再開した。李斯は、東方の旧6国の人々も兵士として一緒に戦わせ、中華帝国としてまとめようとした。そのために都の言論を統制したというのが鶴間氏の見方である。

鶴間氏が強調するのは、その前提である。都の咸陽では、儒者に限らず学者たちが自由に政治を批判していた。今の政治は古の時代に学ぶべきだという意見も出ていた。だからこそ李斯は黙らせようとした。鶴間氏は、言論統制よりもむしろ自由に発言できた時代があったことに注目しているという。

『史記』は460人を穴埋めにしたと記すが、坑儒の跡は発掘されておらず、鶴間氏は伝説としている。ただし全くの嘘とも言い切れず、現地には「坑儒谷」と呼ばれる場所がある。比較として、長平の戦いで秦の白起が趙の兵40数万人を穴埋めにしたという記事については、実際に発掘で兵士の骨が出ている。

坑儒には次のような伝説もある。穴に瓜の種を植えたところ、冬なのに瓜が育った。不思議に思った学者たちが説明しようと穴に入ったところで、一斉に埋めたという話である。鶴間氏は、坑儒谷の周辺が温泉地帯で地熱が高いことに注目する。冬に瓜が育つという話はそこから生まれたのだろうと推測した。この話自体は後の時代の伝説だが、伝説には必ず背景があり、それを探るのが面白いと語った。

26:52

『趙正書』が描く、もう一つの遺言

新しい出土資料として鶴間氏が詳しく語ったのが、北京大学が所蔵する竹簡『趙正書』である。全50枚ほどで、前漢武帝期の始皇帝の物語だが、『史記』より早い時期に書かれたとみられるという。『史記』では始皇帝の名を「趙政」とするが、この書では「正月」の「正」と書く。正月生まれであることなどから、鶴間氏は「正」のほうがおそらく正しいと考えている。

『史記』によれば、始皇帝は巡行中に病に倒れ、50歳で亡くなる直前、長男の扶蘇に遺体を咸陽で迎えて葬儀を行うよう書き残した。後継者は明示されていない。同行していた末子の胡亥、宦官の趙高、丞相の李斯の3人が共謀してこの遺言を破棄し、偽の詔で胡亥を太子に立てた。北方に送られていた扶蘇には自害を命じた。この筋書きでは、二世皇帝は正統な後継者ではない。

『趙正書』の内容はまったく違う。始皇帝は最も可愛がっていた胡亥を連れて行き、自分の死後どうするかを臣下に議論させた。頭の中には胡亥しかなかった。臣下が胡亥を推すと、始皇帝は了承したという。

鶴間氏は長く悩んだ末、『趙正書』のほうが正しいのではないかと考え始めているという。根拠として挙げたのが、皇帝の遺言の構成である。完全な遺言には、後継者の指名、葬儀の指示、自分の生涯の総括の三つがそろうはずで、総括は臣下が書く。鶴間氏は李斯がまとめていたと考える。『史記』に見えるのは葬儀を扶蘇に任せるという部分だけだが、ほかの資料を集めると三つがそろっていたように見えるという。

生涯の総括の手がかりは、獄中の李斯の上書にある。趙高との権力闘争に敗れ、陳勝らの反乱を食い止められなかった息子の件で処罰された李斯は、獄中から「七つの罪を犯した」と訴えた。実際には七つの功績を並べたもので、始皇帝を王から天子にしたこと、民衆から愛されていることなど、始皇帝の統治の評価になっている。鶴間氏は、これが遺言に含まれていた総括であり、二世皇帝が受け入れなかったものだと見ている。葬儀についても、扶蘇ではなく胡亥と、王翦の孫で王氏3代目の将軍である王離が遺体を運び、兵馬俑も造ったと考えられるという。

胡亥が皇帝になってから出した法令も出土している。『史記』には、胡亥が巡行して、始皇帝の刻石の「皇帝」が始皇帝を指すことを書き加えたとある。新資料では、胡亥が自分は始皇帝に代わって統治するので、始皇帝時代の法令をそのまま使うのではなく自ら法令を出すと宣言している。

35:09

司馬遷は王朝交代を説明したかった

なぜ『史記』は胡亥をこれほど悪く描いたのか。鶴間氏は、司馬遷が王朝交代を説明しようとしたからだと見る。殷から周、周から秦へと王朝が替わるたび、末期には暴君が現れて滅んだという説明が最も分かりやすい。秦が滅んだ理由も、内側では胡亥の無能、外側では陳勝の農民反乱として説明された。「馬鹿」の故事として知られる、趙高が鹿を馬と言いくるめ二世が何も言えなかった話も、その文脈に置かれている。

三代目の子嬰について、鶴間氏は非常に頭がよく、胡亥を批判していた人物だとしている。子嬰を賢く描き胡亥を貶めるのも同じ見方の表れだという。司馬遷は陳勝を高く評価した。諸侯の歴史を記す「世家」に、孔子の世家と並んで陳渉世家を例外的に立てたのはその表れであり、陳勝が半年ほど国を立てたことを重く見て、それを劉邦が受け継いだという流れで説明したかったのだろう、と鶴間氏は述べた。

扶蘇については、頭がよく可愛がられていたが、焚書坑儒のころに父をいさめたため、蒙恬の監視下で北方へ行かされたと鶴間氏は見る。牢獄に入れられたわけではなく、始皇帝に殺す意図はなく、自害を命じたのは二世皇帝だという。

鶴間氏はまた、始皇帝の臣下が異論を述べていた点にも触れた。統一後、李斯は郡県制の徹底を主張し、丞相の王綰は東方に王を置く封建制を提案した。李斯の案が採られたが、王綰はその後も始皇帝の巡行に同行している。異論を唱えた政治家を粛清しなかったというのである。

41:03

暴君2割、名君8割――小学生への返事

始皇帝は暴君だったのか。鶴間氏は、兵馬俑展の際に小学4、5年生の男の子から手紙を受け取った話をした。世界で一番悪い人を調べていって始皇帝に行き着いたが、本当に悪いのか、という内容で、父親の手紙も添えられていたという。鶴間氏は1週間ほど考え、暴君の側面を2割、名君の側面を8割とする返事を書いた。

統治者は無理をするものであり、暴君的なところは誰にでもある。それでもこれまでは8割から10割が暴君という説明だったが、そうではないというのが鶴間氏の考えである。朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』では、始皇帝が力ずくではなく、自分を中心に文官(丞相や官僚)と将軍たちの信頼関係、つまり「絆」を作ったことで秦がまとまったと論じている。13歳で即位した始皇帝は、李斯や呂不韋に育てられながら周囲の将軍や官僚と関係を築いた。史料を読んでも将軍たちは非常に連携して動いているという。なお『キングダム』の「六大将軍」はフィクションだと鶴間氏は明言した。

43:58

李牧――内側から崩された名将

他国との比較で鶴間氏が挙げたのが、趙の名将・李牧である。李牧は秦軍に連戦連勝したが、趙の内部で郭開が謀反の疑いを讒言し、趙王遷は李牧を殺してしまう。郭開を動かしたのはおそらく李斯だろうと鶴間氏は見る。外交官の頓弱が金銭で郭開を買収し、李牧が反乱を起こすだろうという話を流したという。郭開がなぜ信じたのかを示す資料はないが、鶴間氏は、有能な人間の足を引っ張る権力闘争が他国にはあり、秦にはそれがなかったと対比した。

李牧の拠点はもともと趙の北方だった。当時の匈奴はまだそれほど強くなく、南の農産物を求めていたため、国境に市場が開かれていた。李牧は市場で得た利益を都に送らず、自分の裁量で兵士を養い、後で報告した。これで兵士との信頼関係ができた。匈奴と戦わないことで臆病だと言われたが、最後に一度だけ戦って大勝した。匈奴の騎兵に騎兵で挑めば必ず負ける。そこで戦車、歩兵、弓兵を組み合わせ、敵をおびき寄せて包囲し、弓で討ったという。この戦い方を秦との戦争にも用いたと鶴間氏は説明する。秦の子嬰が、敵でありながら李牧を名将として評価し、学ぶべきだと語っていることも紹介された。

47:59

AIが拾わなかった「李牧の証言者」

鶴間氏はカルチャーセンターで李牧の特集講座を行った際、試しに無料のAIに始皇帝と李牧の関係を説明させた。AIは二人を「好敵手」と答えたという。鶴間氏によれば、二人はおそらく直接対面していない。AIは、李牧が内側から落とされたことが秦の統一につながったという結論を出しており、それ自体は納得できるものだった。ただ、使われていない資料が多く、AIとはこういうものかと感じたという。

AIが拾わなかった資料として鶴間氏が挙げたのが、李牧の証言者の存在である。邯鄲が落ちて趙王遷は捕虜になったが、その兄が抜け出して北方に代国を立てた。そこはかつての李牧の拠点で、代の大臣は李牧をよく知っていた。その大臣の子は、劉邦が地方の有力者を都の近くに移住させた際に移ってきた。そのさらに子が、前漢の文帝に仕えた馮唐である。『史記』の馮唐列伝には、馮唐が父や祖父から聞いた李牧の話が載っている。

馮唐は、李牧が無駄な戦争をせず、匈奴との交易で国境の平和を保ったことを評価した。そこから古の将軍のあり方として、名君がいて初めて名将軍がいると説いた。名君は都で政治を担い、将軍を任命して送り出したら、あとはすべて将軍の裁量に任せて信頼する、という関係である。

この話の相手である文帝は、もともと代王だった。劉邦の死後、妻の呂后が政権を握り、その死後に大臣たちが呂氏一族を倒して、代王を都に呼んで皇帝に立てた。だから文帝は匈奴の怖さと国境の事情をよく知っていた。馮唐はその文帝に、あなたが任命した将軍の扱いは違う、と進言した。部下の戦功に応じた褒美の数をわずかに誤っただけで、上の将軍を処罰している、ごまかしたわけでもないのにそんなことをしてはいけない、と。鶴間氏は、馮唐の発言は李牧を念頭に置いたものだろうと見ている。

55:55

李信と王翦――20万か60万か

最後に高橋氏が取り上げたのが李信である。楚は領域が広く、100万の兵を持つ大国だった。秦王政(嬴政)が必要な兵力を尋ねると、若い李信は20万で足りると答え、老将の王翦は60万なければ戦えないと答えた。嬴政は李信に任せ、李信と蒙恬が出陣した。

楚は都を何度も移しており、最後の都は現在の安徽省の寿春だった。咸陽からは大遠征になり、兵士は疲れる。しかも李信は相手を甘く見て軍を二手に分け、蒙恬と挟み撃ちにしようとして、あっさり敗れた。鶴間氏は、若く経験がなかったからだとしている。

面白くないながらも嬴政に頼まれて出陣した王翦は、60万という秦本土から出すには大変な数の軍を率いた。『史記』によると王翦は、60万の兵を持てば謀反を疑われるのではないかと心配し、勝ったらどれだけの田宅をもらえるのかと何度も嬴政にねだった。褒美目当てだと示すことで、裏切る気がないと伝えたのである。現地ではまず兵を休ませ、よい食事を与えて体力を回復させた。兵士たちが石投げなどの運動を始めたのを見て、頃合いだと判断して攻め、勝利した。

高橋氏が、史記の記述だけ見ると李信はあまり活躍していないのではと問うと、鶴間氏は「原先生に悪いんですけど」と前置きしながら、活躍していないと認めた。

1:00:49

徐福伝説と新しい発見

話題は終盤、始皇帝が不老不死を求めて徐福を派遣した伝説に移った。鶴間氏は、去年、青海省の黄河源流の岩で37文字の刻文が見つかる大発見があったと述べ、始皇帝が亡くなる始皇37年にそこへ行ったことに関わる話を始めた。字幕はこの説明の途中で終わっており、この発見が徐福伝説の真偽にどう関わるのか、鶴間氏の結論は確認できない。