クラウゼヴィッツと孫子から抑止論まで、奥山真司が語る「戦争を知る」ための戦略論
PIVOT 公式チャンネルなぜ戦争は起きるのか。日本が「抑止力」を口にするとき、その言葉は本当に相手に届いているのか。戦略学者の奥山真司氏(国際地政学研究所上席研究員)は、自身の著書『戦略論入門 自衛隊幹部学校 講義録』の内容に沿って、戦略論の二大古典から国際関係論の戦争原因論、核戦略から生まれた抑止の考え方、そして台湾有事を念頭に置いた日本の課題までを語った。奥山氏の立場ははっきりしている。戦争を防ぎたいなら、まず戦争そのものを知らなければならない。本気で抑止するなら、戦争に備えなければならない。
戦略の二大古典としての孫子とクラウゼヴィッツ
奥山氏によれば、戦略論の古典といえば孫子とクラウゼヴィッツの2人である。生きた時代は2000年以上離れているが、戦争を客観的な記述によって捉えようとした点で共通しており、現代の戦略研究はこの2つの古典を軸に、戦争をどう捉え、どう勝つかという知識を積み上げてきたという。
孫子(本名は孫武)は約2500年前、古代中国の斉の国、現在の山東半島の付け根あたりで生まれた。斉では出世できないと考えたらしく、学問を修めたのち呉の国へ行き、王に軍師として雇ってほしいと売り込んだ。そのとき持参したのが、竹に書かれた13篇の短い書物である。奥山氏はこれを「自分を売り込むための一種のパンフレット」と表現する。これが『孫子の兵法』として後世に受け継がれ、戦争に勝つための書として読まれてきた。
ただし奥山氏が強調するのは、孫子が13篇を通じて実は「あまり戦うな」と説いている点である。古代中国の国はそれほど大きくなく、頻繁に戦えば兵が失われ、国力が落ち、費用もかさむ。だから、なるべく戦わずに勝つほうがよく、相手を屈服させるには騙すほうがよい。軍事力を正面から出すより、国力を温存しながら戦うという考え方だ。この発想は洋の東西を問わず広まり、日本ではビジネスパーソンにもよく読まれている。
敗北と左遷から生まれた『戦争論』
もう一人のクラウゼヴィッツは、奥山氏が「今の戦略研究の本当にベース」と位置づける人物である。1700年代後半に生まれ、1800年代に活躍した。日本では江戸時代中期にあたり比較的平和だったが、ヨーロッパは大戦乱の時代で、その中心にいたのがナポレオンだった。
クラウゼヴィッツはナポレオンのフランスに隣接する小国プロイセンの下級貴族で、兄たちも軍に入っている軍人一家に生まれ、13歳ごろから戦場に出ていた。プロイセンはフランスに負け続け、1800年代初めには一度敗北する。その後、フランスがロシアに攻め込んだ1812年の戦いでプロイセンもフランス側として参加したが、クラウゼヴィッツは自国を抜けて、攻められている側のロシア軍のアドバイザーになった。奥山氏はこれを「それほどフランスが大嫌いだった」と説明する。
ナポレオンが没落してプロイセンが国力を回復すると、クラウゼヴィッツは形式上とはいえ敵側にいたことを理由に左遷され、その期間は12年間に及んだ。ベルリンの陸軍大学校の校長という名誉職に就き、することがないなかで、なぜプロイセンはフランスに負けたのかという悔しさから書いたのが『戦争論』である。戦争とはそもそも何かを問う一種の哲学書でありながら、戦いに勝つための軍人の心得も多く書かれている。
その主張の核心を、奥山氏は「戦争は暴力によって相手を屈服させ、こちらの意思を押し付けることだ」という点にあると要約する。直接戦い、血を流すことを正面から論じた点で、孫子とは対照的である。どちらが優勢かと問われると、奥山氏は、戦略研究が西洋中心に進められてきたこと、クラウゼヴィッツのほうが時代が新しく、現在の学問に近い形で書かれていて知識にアクセスしやすいことから、ヒントを得やすいのはクラウゼヴィッツだと答えた。2500年前の孫子については、そもそも原典がどれなのかという議論もあるという。
第一次世界大戦の衝撃と国際関係論の誕生
話は近代の国際関係論に移る。奥山氏によれば、国際政治学は誕生からまだ100年ほどの新しい学問で、1920年ごろに始まった。そのきっかけは第一次世界大戦である。
奥山氏はイギリス留学中の体験を紹介する。日本で「先の大戦」といえば1945年に終わった第二次世界大戦を指すが、イギリスでは第一次世界大戦を「The Great War」と呼ぶ。死者の多さと社会的なインパクトが大きかったためで、フランスやベルギーを主戦場とした悲惨な戦争に、ヨーロッパの知識人は大きな衝撃を受けた。
当時の主流は、自由や経済的な結びつきを強め、国際連盟のような組織を作れば世界は平和になっていくという考え方だった。これに異を唱えたのがE・H・カーであり、その著書が『危機の二十年』である。奥山氏の説明では、カーは戦争をいかに防ぐかではなく、戦争の原因と、戦争が起こる構造そのものに注目すべきだと考えた。考え方にはリベラリズムとリアリズムの2つがあるが、リアリズムを忘れている人が多すぎる。自由にやればなんとかなるという楽観ではなく、悲観的に物事を見て、国家を動かすパワーのバランスを考えることで、戦争を防ぐことができるのではないか。奥山氏は、これが現在の国際関係論でいうリアリズムとは少し違うと断りつつ、戦争の原因論を示した点でカーは重要だと述べる。
当時この主張は衝撃的だったのかという聞き手の問いには、衝撃的だったとは思うが、物事を現実的に見る一定数の人々からは称賛された部分もあったのではないか、というのが奥山氏の見方である。
平和学習だけでは足りない理由
ここで奥山氏は、日本の現状に触れる。日本では戦争はしてはいけないという考えが強く、小中学校のカリキュラムにも平和学習がある。奥山氏はそれ自体は大事だと認めたうえで、学問として、また政治家も含めた実務の場では、どうやったら戦争が起きてしまうのかを知る努力が必要だと主張する。そのためにはまず戦争を知らなければならず、戦争を最も研究したのは誰かと考えるとクラウゼヴィッツに立ち戻る。これが戦略研究の肝だという。
聞き手が、平和学は戦争の結果や被害を見るものだと指摘すると、奥山氏は「悲惨だから戦争をしてはいけない」は正しいとしつつ、悲惨さという現象への嫌悪感で終わるのではなく、なぜそれがメカニズムとして起こるのかまで知ることが、知的な人間としての務めであり、特に実務では最も大事だと述べた。
ウォルツの「3つのイメージ」
戦争原因論でもう一人取り上げられたのが、ケネス・ウォルツである。その本は1959年に出版され、奥山氏の記憶では日本語訳が出たのは2010年ごろとかなり遅かった。理論の人は日本ではあまり評価されない傾向があり、海外ではビッグネームなのになぜ日本で知られていないのか、と奥山氏は留学中から思っていたという。
ウォルツは指導教官から戦争の原因を調べるよう言われ、図書館で文献を当たったが、論者によって言うことがまったく違った。人間の性(さが)だという人もいれば、軍事力だという人もいる。行き詰まっていたある時、ウォルツは戦争の原因を語る議論には3つのパターンがあることに気づいた。
1つ目の「ファーストイメージ」は、戦争の原因を個人に求める見方である。第二次世界大戦はヒトラーがいたから起きた、今回の戦争はプーチン大統領が起こした、あるいは人間の本性が原因だという説明がこれにあたる。2つ目の「セカンドイメージ」は、組織や国家に原因を求める。ヒトラーは単なるトップにすぎず、ナチスという組織が彼を狂わせた、あるいはドイツという国の性格が問題だという見方である。
3つ目の「サードイメージ」は国際システムに原因を求める。パワーバランスがおかしな組み合わせになると、どんなリーダーやどんな国がいてもぶつかってしまう、という考え方である。ウォルツは、ファーストイメージとセカンドイメージも大事だが、それ以上に枠組みを見なければ戦争の本当の原因はわからないと論じた。奥山氏は、地政学もこのサードイメージに近いと考えており、陸の勢力と海の勢力がせめぎ合うという地政学の発想に通じるとすら思っていると述べる。
聞き手は、ファーストイメージなら戦争犯罪人を裁く、セカンドイメージなら当時の陸軍と海軍の組織的な失敗を改善するといった対処が思い浮かぶが、サードイメージは手の打ちようがないように感じる、と疑問を投げかけた。軍事力を減らそうとする国もないはずだという。これに対し奥山氏は、国家を率いる個人が「国力を上げておかないと戦争が起きるかもしれない」と考えて行動する時点で、サードイメージにもつながると答えた。あくまで大国がシステムの中でどう振る舞うかという問題につながる、という整理である。
奥山氏はまた、日本のジャーナリストなども、意識せずにこの3つのどれかで説明していると指摘する。プーチン大統領個人が戦争を起こしたという説明はファーストイメージ、ロシアという国の性格が原因だという説明はセカンドイメージ、ロシアがアメリカに押し込まれ、パワーバランスが崩れそうになったのを防ぐために戦争に踏み切ったという説明はサードイメージである。奥山氏は、この枠組みを戦争原因論に限らず、国際政治が動くポイントを見るためにも使えると考えている。忘れられがちなのはサードイメージであり、そこに注目せよと言ったのがウォルツだという。
抑止という考え方は核戦略から広まった
後半は、ここ数年日本で頻繁に聞かれる「抑止力」がテーマになった。奥山氏によれば、抑止は核兵器を使って国際政治をどう生き延びるかを考えてきた核戦略の中で注目された概念である。
考え方自体は以前からあり、1930年代にはイギリスがドイツに対し、空爆の脅しを使えば相手が屈服するのではないかと考えたように、軍事力を実際に使わずにどう脅しをかけるかという文脈で語られていた。それが一気に注目されたのは核兵器の登場による。広島・長崎の悲劇と、その後の米ソの核実験で、核兵器のとてつもない威力がわかった。もう一度どこかの都市に使えば何十万人規模の死者が出る。使ってしまったら大変なことになる、つまり使えない兵器である。ならば「使うぞ」と脅すことで戦争を防ぐという考え方が、1945〜46年ごろにはすでにアメリカから出てきたという。
その背景には、軍事力は冷静に見れば暴力だが、それを政治的な目的のためにどう使うかという発想がある。戦争もまた政治的な目的のために行われるのであり、核兵器で睨み合い、使うぞと脅して相手の意思を屈服させることもできるのではないか。奥山氏によると、1955〜56年ごろから約10年間で、優秀な人々が現在の抑止論のほぼすべてを議論し尽くした。
では、核を持たない日本が防衛力強化の文脈で使う「抑止」や、「中国の計算を複雑にする」「コストをかけさせる」といった表現は何を意味するのか。奥山氏は、日本が持つ装備や火力によって、手を出せば大きく傷つき、コストがかかると相手に思わせる効果を期待した、一種の心理戦だと考えている。武力を備え、訓練を重ね、相手が侵攻を考えたときに思いとどまらせる。その意味で日本は抑止力の構築を議論している、というのが奥山氏の見方である。
抑止は効いているかどうか分からない
抑止は大事だという人もいれば、軍拡競争を招くだけだという人もいる。どういうときに抑止が成立するのか答えがないように見える、と聞き手が問うと、奥山氏は、突き詰めれば抑止が本当に効いているかどうかは分からないと認めた。後になって相手側の人物が「あのとき侵攻をためらっていた」と言えば、ようやく抑止が効いていたと言える。逆に侵攻されてしまえば、その時点で抑止が破れたことがわかる。抑止にはこうした心理的な曖昧さがあり、抑止を批判する人々の指摘には確かにその通りの部分がある、と奥山氏は言う。
抑止の肝は、決断する人の心理にどこまで働きかけられるかにある。だから武器を揃えれば必ず抑止できるわけではない。奥山氏はこれを抑止の「すごく難しいところ」だと述べた。
戦略文化と「合理性」の落とし穴
相手がまったく違う論理で動いていたら抑止は効かないのではないか、という聞き手の指摘を受けて、奥山氏は著書で強調した「戦略文化」の話に移った。鍵になるのは合理性である。
抑止の発想は、互いに核兵器を持って睨み合えば、合理的に考えてどちらも核戦争を望まないので戦争は起きない、というものだ。奥山氏は「奥山」と「ピボット帝国」が互いに核を持つという例えで説明する。しかしピボット帝国が「奥山に核兵器を落として戦争を始めたほうがいい」と考えていたらどうなるか。相手が合理的に考えているかどうかを、こちらは自分の合理性で判断しているにすぎない。
奥山氏によると、アメリカは1970年代ごろまで、合理的に考えればソ連は戦争を仕掛けてこないと考えていた。ところが70年代になると、ソ連を研究する人々が、ソ連は自分たちとは別の戦略文化、別の合理性で動いているのではないかと気づき始めた。ランド研究所のジャック・スナイダーがこれを「戦略文化」と名付け、戦略における文化論が広まった。その中心にあったのが合理性の問題であり、相手の国を研究しなければならないという教訓だった。
習近平と台湾有事をめぐる3つの懸念
奥山氏はこの議論を習近平国家主席と台湾有事に当てはめる。専門家の中には、当分は台湾への軍事侵攻はないだろうと見る人が多く、奥山氏もそれ自体は正しいと考えている。台湾侵攻は身の破滅を招くので、合理的に考えれば習近平はやらないはずだという議論である。しかし奥山氏は、そこには3つの問題があると指摘する。
1つ目は、習近平が独自の合理性、つまり独自の戦略文化で動いている可能性である。日米とは違う正統性の理由ややらねばならない事情を抱えていて、自らが滅び、人民解放軍が壊滅してもやらなければならないと考えているかもしれない。それは外からはわからないため、警戒すべきだという議論が成り立つ。
2つ目は、高齢による判断の変化である。これまで合理的に振る舞ってきたように見えても、ある時突然侵攻を決めるかもしれない。奥山氏はその前例としてプーチン大統領を挙げる。2022年の侵攻直前まで、西側でプーチン大統領を研究する人々のあいだでも、慎重で合理的な考え方をする人物だと言われていた。それでも侵攻は起き、あんな無謀なことをするとは思わなかったという声が上がった。習近平も同様に非合理な決定をしてしまうリスクがある、と奥山氏は言う。
3つ目は、偶発的なきっかけによる衝動的な決断である。聞き手が「前の晩に奥さんと喧嘩した」「寝不足」と例を挙げると、奥山氏はそれに加えて、酒の飲みすぎや、周囲から侵攻を突き上げられることなどを挙げ、そうした状況で衝撃的な決断が下されれば予測できないと述べた。
合理性はどこまで信頼できるのか、というのが抑止論の世界で生まれた考え方であり、それを台湾有事に当てはめると、侵攻の可能性を完全に排除するのは危険だということになる。奥山氏は、習近平自身が武力統一を公言している以上、警戒し続けるのは仕方がないと考えている。
本気で抑止するなら戦争に備えよ
最後に、日本の戦略論に欠けている議論は何かと問われ、奥山氏は3つの論点を挙げた。
1点目は、抑止は本当に戦う気がある者にしかできないということだ。奥山氏は、日本政府はこうしたことを絶対に言わないと前置きしたうえで、抑止とは「入ってきたらこちらも戦う」という脅しであり、その本気度を相手が知る必要があると説明する。日本は長距離ミサイルによる長射程の能力を持つと言っているが、それで相手は怯んでいるのか。相手を思いとどまらせるには、本当に戦えるところを見せ、それを信じさせなければならず、そのためには実際に戦えなければならない。だから本気で抑止するなら戦争に備えなければならない。奥山氏は、自分ももちろん戦争はしたくないと繰り返しつつ、日本で気軽に語られている抑止が相手に本当に届いているのかが最大の問いだと述べた。日本が中国を躊躇させるほどの抑止力を持てるのかという質問には、政府はそう説明し、それに沿ったミサイルなどの火力を整えているが、効いているかどうかは分からない、と答えている。
2点目は、実際に戦うことになった場合の戦死者の扱いである。奥山氏によれば、自衛隊ではこれまでに殉職者として約2500人が防衛省内で顕彰されている。しかし戦闘で国のために亡くなる自衛官が出たとき、靖国神社に祀るべきだという人もいるだろうし(奥山氏自身はそれには疑問を示す)、それとは別に国として戦死者を祀る場所が必要になるのではないか。これまで避けてきた議論に直面せざるを得なくなる、と奥山氏は言う。
聞き手は、学生時代に太平洋戦争の戦没者の遺骨収集ボランティアをした経験を語った。アメリカとの最大の違いは、アメリカは現代でも戦死者を出し続けている点にある。今も息子を戦場に送る家族がいるからこそ、昔の戦没者の遺骨収集も事業の一環として行われる。一方、日本では遺族のための事業という性格が強く、現代のための事業ではないと感じたという。
奥山氏は、日本人にとって心理的なハードルは高く、物事が起きてから考えようとする傾向があると認める。だからこそ、自衛官OBだけでなく社会の外部の人々があらかじめ議論しておくことが大事だという。海外では戦死者を出している国は必ずこの議論をしており、ドイツでも2011年ごろにはすでに犠牲者が出て議論が尽くされている、と奥山氏は述べた。
3点目は、社会としてどう備えるかである。戦争は軍隊同士だけで行うものではなく、軍隊は社会とつながった存在だ。一般の国民が自衛官として戦闘に従事するとき、社会はそれをどう受け止めるのか。ミサイルが落ちたときに被害をどう最小限にするのか。災害時のレジリエンスや復興が議論されるのと同じ文脈で、戦死者や被害者、遺族が出たときに社会が彼らをどう受け止め、どう顕彰するのかまで、考えたくはないが考えなければならないところまで来ているのではないか。奥山氏はこれを自身の問題意識の一つとして示した。
安全保障環境が厳しくなるなかで、こうした議論と準備を先送りすれば、いざという時に社会が感情的な方向へ流れてしまい、それは非常に不健全だと奥山氏は言う。聞き手が「臭いものに蓋」をするほうがかえって危ないということかと確かめると、奥山氏は「その通り」と応じた。
日本だと戦争はやっぱりしちゃいけない。平和学習っていうのがあったりとかして、どうやったら戦争が起きてしまうのかっていうところを知る努力は必要。抑止ってそもそも何なんですか?
実は武器を揃えれば絶対に抑止できるってことにはならないですよ。これじゃ相手の国がもう全然違う論理で動いてたら効かない。習近平、そもそも日本とかアメリカ側が考えてる合理性のもとで動いてるかって話なんです。
プーチン大統領って実はすごく慎重で合理的な考え方をする人だって言われてたんですよ。ところが2022年、やっぱり侵攻が起こりましたよね。
日本に必要な議論と言いますか、欠けてる議論みたいなのって、戦略において何だと思いますか?
日本っていうのは本気で抑止をするんだったら戦争に備えなきゃいけない。社会としてどう備えるのか、リアルに考えなきゃいけないところまで来てるんじゃないか。
この前編で地政学は3大スターがいるって話でしたけど、この戦略論の古典的な人はどなたがいるんですか?
もうこれは、戦略と言えばこの2人ということで、クラウゼヴィッツと孫子ということになります。時代が古いのは当然なんですけど、古代中国に生きていた孫子、本当の名前は孫武という方なんですけど、この方ですね。
もう1人はプロイセンという、今だとドイツになるんですけど、このプロイセンの軍人であったカール・フォン・クラウゼヴィッツという方がいらっしゃいます。時代はだいぶ違うんですけど、実は戦争について客観的な記述できっちり捉えようとしていたという意味においては、この2人、実は2000年ぐらい違う時代を生きてるんですけど、共通してるところがある。
現代のこの戦略研究っていうのは、この2つの古典を中心に、戦争をどういうふうに捉えていて、その戦争に勝つためにはどうするのか、こういう知識が積み上がってるということが言えます。
それぞれどう違うのかと。
じゃあ孫子から行きましょうか。孫子は古代中国、特に斉の国って、斎藤さんの斎ってあるじゃないですか。あの斉の国、今で言うところの山東半島ですかね。あそこの付け根の辺りで生まれた人なんですけど、2500年ぐらい前に生きてた人なんですけど、有名なのが『孫子の兵法』と呼ばれる本を書きます。
自分を他のところに売り込むためにですね。その斉の国では彼は、これ出世できないなと思ったらしくてですね。だから様々な勉強をした後に、呉服の呉って分かりますかね。広島にある呉とは違うんですけど、同じ字の呉ですね。呉の国に行って王様のところに行って、「すいません、私を軍師として雇ってください」ということを言います。
その時に書いてきた文章が、自分を売り込むための一種のパンフレットみたいなものですね。それを持っていって、13章の短い書物を持って、書物っていうか竹に書かれてたものですけど、それを持っていって、「これは私の考え方です。軍師として雇ってください」っていうところからキャリアをスタートさせた方です。
彼自身は書いたその『孫子の兵法』っていう、アート・オブ・ウォーとか言われるんですけど、そういうものを残して、それが中国古代から「これすごいこと書いてある」「戦争に勝つためのものだ」みたいな捉え方をされてきたというところで、受け継がれてるものなんですけど、なんとこの孫子は、その13章を全部書いてるんですけど、実はあんまり戦うなって言ってる。
そういうのありますね。
そうですね。古代中国において、国ってそんなに大きいものじゃないんですけど、頻繁に戦いを起こすと、当然のごとく兵隊が亡くなって、国力も下がりますと、お金もかかりますということなので、なるべく戦わずに勝つ方がいいっていう。一種の不戦というわけではないんですけど、相手を屈服させるには騙す方がいいよねっていう考え方ですかね。
そういうものを結構盛り込んで、1つの戦争の理論というか戦略の理論を築き上げたということなので、これ非常に洋の東西を問わず広く広まって、訳本なんかもいっぱい出てて、当然日本だとビジネスマンがこれを使ってたり。
ああ、戦わずして勝つ。不戦して勝つみたいな。ありますよね。
そういう考え方。どちらかというと、考え方としてはなるべく戦わずに、軍事力を正面からバンと出して勝つよりは、抑えた形で国力を温存しながら戦う方がいいよねっていう考え方を示した人です。
クラウゼヴィッツは違うんですか?
はい。こちらがもう完全に今の戦略研究の、本当にベースになってる人で、こちら1800年代に活躍、生まれたのは1700年代後半なんですけど、ナポレオンが生きた時。日本だと江戸時代の中期ぐらいなんで、ほとんど日本は結構平和だったんですけど、ヨーロッパでは大荒れで、1番その中心にいたのがナポレオン・ボナパルトというフランス人の皇帝ですよね。
そのナポレオンのすぐそばにいたプロイセンっていう小さな王国に生まれた彼は、下級の貴族だったんですけど、軍人一家に生まれて、お兄さんも全員入ってるみたいな中で生まれて、もう13歳ぐらいから戦場に行ってるんですよ。フランスに負け続けてると。
そうすると、「なんで俺はこんなにフランスに勝てないんだ」ということで、自分の国が弱いっていうのもそうだし、改革できない自分も何とかならないかっていうところで。ある時、戦争にもちろん何度も行った後に、そのフランスを倒したいがために、プロイセンって自分の国が実は一度負けるんです。1800年代初めに1回負けちゃって、その負けた後に悔しいから、今度フランスが一緒に攻め込んで、「プロイセンも一緒に行くぞ」って攻め込みます。
モスクワ、1812年なんですけど、このモスクワの戦いの時に、もうみんなでわーっと入ってきた時に、なんとロシアが攻められてるんですね。攻められてるロシア帝国の方に、もう自分の国を抜けて、なんとロシア軍のアドバイザーとして入ってくる。それほどフランスが大嫌いだった人ですね。
その中において当然なんですけど、帰ってきたら何を言われるかっていうと、その後ナポレオンがもう駄目になっちゃって、フランスがもう散々負けるってことになるんで、プロイセンも国力を回復していくことになるんですけど、当然、帰ってきた時に、「お前なんだ、形式上とはいえ相手側にいたじゃないか」ってことで、左遷されるわけですよ。左遷された時に、12年間左遷されてたんですね。
図書館長じゃないんですけど、今はすごい立派ですけど、ベルリンにある陸軍大学の校長さん。一応名誉職なんですけど、そこに行って、「することないからどうしよう」っていう時に、悔しいから「あの時なんで俺たちはフランスに負けたんだ」ってことで『戦争論』を書くということになります。
そこで書いたのが戦いの原則。「戦いって、そもそも戦争って何なんだ」っていう、一種の哲学書みたいなのを書くんですけど、そこには実は戦いに勝つにはどうしたらいいかみたいな、軍人の心得みたいなものがいっぱい書いてあるということで名をなした人ですね。
主な主張というか。
主な主張は、要するに戦争は直接やってなんぼだと、血を流してなんぼだということ。暴力によって屈服させて、こちら側の意思を向こうに押し付けることなんだっていうことを、非常に強く『戦争論』という本の中で主張した。これがやっぱり非常に大きいところですね。
戦略研究の中では、孫子とクラウゼヴィッツはどっちが優勢とかってあるんですか?
でもやっぱり、どちらかというと西洋を中心にやられてるものなので、クラウゼヴィッツの方が今、理論としては最近の人なので、どちらかというと今の学問の考え方に近い形で色々書いてくれてるので、その点においてはクラウゼヴィッツの方が色々ヒントは得やすいよね。孫子は2500年ぐらい前の人じゃないですか。
そうすると、この漢文、本当なのかなみたいな、結構皆さん議論があるところなんですけど、クラウゼヴィッツは一応、最近のヨーロッパの人っていう形なので、知識にアクセスしやすいってことで、やっぱりこっちの方がっていうのはちょっとありますね。
本の中で「戦争の原因とは何か」っていうパートがあって、非常に大きな大事な問いだなと思って。
まず近代において、今度は国際関係論って話にちょっとなります。今いわゆる政治学の中のすぐ下の国際関係論なんですけど、経済学とかああいうものって結構古かったりとかするんですけど、こちら、我々が今、国際政治学とか言ってる学問、これ結構最近というわけではないんですけど、まだ誕生して100年ちょっと、ギリギリちょっとぐらいなんですよ。
1920年ぐらいに始まって、それはなぜ始まったのかというと、第一次世界大戦。この第一次世界大戦って日本であまり馴染みないんですけど、1914年から4年半ぐらいやった戦いなんですけど、これ僕、ヨーロッパに行った時に本当に実感したんですけどね。留学先でイギリスに行った時にです。「先の大戦」って我々言うじゃないですか。第二次世界大戦っていうベースですよね。
日本で「先の大戦」っていうと、京都の人は「先の大戦は応仁の乱だ」って言うらしいんですけど、それはちょっと冗談だとして、先の大戦、日本で言えば大体において1945年に終わったあの戦争という、第二次世界大戦ってことを言いますよね。
僕が行って驚いたのが、やっぱりイギリスに行くと「ザ・グレート・ウォー」って言うんですよ。ザ・グレートっていうことは、もう宇宙で1番の偉大な戦争っていうことなんで、これ先の大戦なんですけど、ザ・グレート・ウォーがなんとイギリス人にとっては第一次世界大戦なんですよね。
死者がやっぱりものすごく、社会的なインパクトもあったっていうことで、そうすると、その時にヨーロッパ中が、主に戦場はヨーロッパ本土の方で、フランスとかベルギーとかの辺りですごい戦われてたんですけど、あんな悲惨な戦争をしてしまうんだと。これはどうしたものかということで、「我々考えなきゃいけないよね」って、本当にいわゆる知識人の人たちが衝撃を受けちゃったんですよね。
そこで先の大戦ってことになったんですけど、その時に大体、他の人たち、それまでの人たちって、自由とか経済的な結びつきをどんどん作っていけば、あと国際連盟みたいなのを作るんですかね。そういうものをすればどんどん世界は平和になっていって、経済で万々歳で、まさにウィンウィンの世界が広まるよねっていう考え方をしてた。
そういう考え方が主流で、まさに第一次世界大戦が終わった後も、そういう、ちょっとリベラリズムというわけではないんですけど、もっと経済をどんどんお互いに親密にやっていけば戦争を防げるんじゃないかっていう考え方が出てきたんですけど、カーさんは違うと。
そういう考え方をしているんじゃなくて、やっぱり我々、戦争そのものが起こる構造であったり、例えばそういう変なリベラリズム的な考え方っていうのは違うと。もっと国家を動かしているパワーのバランスみたいなものを考えなきゃいけない。どちらかというと彼は、戦争の原因に注目しようと。
戦争をいかに防ぐかっていう話ではなくて、戦争の原因を見なきゃいけないって言った時に、E・H・カーっていう、『危機の二十年』って有名な本があるんですけど、こちらで、どちらかというと戦争の構造そのものに注目しなきゃいけない。考え方が2つあって、リベラリズムとリアリズムがある。このリアリズムの方を忘れてる人たちが多すぎるんじゃないか。
いわゆる我々が言ってる国際関係論のリアリズムとはちょっと違うんですけど、要するに自由奔放にやればなんとかなるっていう楽観的な考え方じゃなくて、やっぱりちょっと悲観論で物事を見ていく。そうした時に、本当の我々の対策としてバランスみたいなものを考えなきゃいけないよねっていうふうに、リアルな処方箋というか、国際政治の動きっていうので戦争を防ぐってことができるんじゃないか。こういうのを示したという意味では、この人大事なのかなということで、ちょっと名前を出しましたけど。
私たちは第一次大戦の後の歴史も知ってるから、それは国際連盟だけじゃ戦争を防げないだろうって分かるわけですけど、やっぱり当時それを言ったっていうのは画期的だったんですかね?
そうですね。それは結構衝撃だとは思います。ただ、一定数のリアルに物事を見る人たちっていて、その人たちには称賛された部分はあるんじゃないかなっていうふうに僕は思ってますけどね。
ここが国際関係論の始まり。
そうですね。特に大事なのは、戦争って何で起こるのかっていう戦争の原因論を言ったという意味では、すごく大事だと思います。
我々どうしても、日本だと戦争はやっぱりしちゃいけない。実際、今の小学校、中学校のカリキュラムとか見ても、平和学習っていうのがあったりとかして、僕はそれはそれで大事だと思うんですけど、学問としてやるというか、実際の政治家も含めてなんですけど、どうやったら戦争が起きてしまうのかっていうところを知る努力は必要。
そうすると、戦争をまず知らなきゃいけないよねって話になりますよね。そうすると、戦争を1番研究してる人は誰ですか? クラウゼヴィッツがやっぱり言ってるじゃないか、というところに立ち戻るのが戦略研究の肝の部分だと思います。
確かに平和学は、戦争の結果しか見ないですよね。どっちかというと、その被害とかそういうこと。だからやっぱり悲惨だから戦争しちゃいけないは正しいと、僕も思うんですよ。
じゃあそれって、悲惨だよねっていうところの現象で嫌悪感を抱かせるだけで終わっていて、本来ならばそこに、なぜそういうふうなメカニズムとして起こるのかっていうところまで知るのが、本来の我々の知的な人間としての務めじゃないか。
特に実務においては1番大事なんじゃないかというふうに思ったので、東洋も西洋もものすごく苦労してたんだよという。学問的にどうしようかっていうことを考えた時に、E・H・カーみたいな人が出てきたりっていう話ですね。
あともう1人、ウォルツさんっていう方も、この戦争が起きる原因を分析されたってことで、本でまとめてましたけど。
これ非常に画期的な人で、本が出たのが1959年。日本で翻訳されたのが確か2010年とか、だいぶ遅れたんですけど、実は日本ではほとんど知られてないというか、理論の人って日本ではあんまり評価されないところはあったんですけど、僕自身は海外にいたら、この人すごいビッグネームなのになんで日本で知られてないのかなと思ってた口です。
この方、国際政治において、自分の先生に学問をやってた時に「戦争の原因を調べてこい」って言われたらしいんですよ。ちょっと調べようと思って図書館にこもってたら、人の言うことが全員違うんですね。哲学者はなんとかだって言ったり、人間の性であったりとか言ったりとかですね。いや、軍事力だろうっていう人がいたりとかですね。
実は戦争の原因って、多分今、街ゆく人に聞いても、「戦争の原因って何ですか?」「いや、それは人間の性でしょう」とか、いろんなことを言うわけじゃないですか。100通りあると思います。
彼もそれと同じことに直面してしまって、「これ迷っちゃうな、どうしよう」ってことで、論文を書いてる時に色々考えてたんですけど、突然頭の中に稲妻が走ってきて、「そうだ、分かったぞ」って言って、戦争の原因って語ってる人、実は3パターンあるよねって気がついたんですよ。
彼の場合、最初に気づいたのが、哲学者とかそういう教育者たちが、「人間が野蛮だから教育しなきゃいけないんですけどね」。それ、戦争を起こしてしまうのは個人だって言ったんです。
個人、例えばどういうことか。第二次世界大戦を起こした人として、我々「ヒトラーがいたから起きたんだ」っていう話とかよく言うじゃないですか。そうすると、それって個人が戦争の原因ですよ。ナポレオンが起こしたんだとか、今回の場合、プーチン大統領が起こしたんだとか言えますよね。戦争の原因は個人だって、リーダーだとか言う人たちがいる。
もしくは、人間であるから人間の性だよねみたいなことを言う人を、彼はファーストイメージって言ったんですけど。
そうじゃないだろうと。今度、実は人間って集団になると怖いんだと。そうすると、戦争を起こしたのはナチスドイツっていう、ナチスっていう組織なんじゃないか。ヒトラーは単なるトップの人だっただけで、組織がああいう形で彼を狂わせてしまって、ああなったんじゃないかみたいな話。そうすると組織がやっぱり大事だよとか、もしくはドイツっていう国だよねっていう話になったりしますよね。これセカンドイメージですよねって話になります。
ところがそうじゃないと、3つ目のパターンを言う人たちも実は確実にいて、これ何だっていう話なんです。国際システムって言ったらちょっとイメージが湧かないんですけど、要するにパワーバランスが変な組み合わせになると、そこでどんなリーダーが、どんな国がいようとも、絶対にぶつかっちゃうよねっていう考え方。バランスが崩れる。これ、国際システムって彼は言うんですけど。
崩れて戦争になる危険なんですけど、そういうことになるよねっていうことでサードイメージ。このシステムのバランスがおかしくなった時に起こるよっていうことを、原因は最終的にそこなんじゃないかという話をした。だからリーダーが誰であれ、どんな国であれ、国の内容であれ、そういうのは関係ないと。枠組みなんだと。
枠組みで見なきゃ本当の戦争の原因って分からない。もちろんファーストイメージ、セカンドイメージも大事なんだけど、それ以上に枠組みの部分で起こるから、枠組みをしっかり見なきゃいけないでしょっていう考え方です。地政学はどちらかというとこれに近い感じかなと、僕も思ってるんですけど。
このサードイメージがなかなかちょっと想像つかないですよね。結構ファーストイメージは、言ったらA級戦犯とかそういう人を罰すればいいんだみたいな。セカンドイメージは、当時の陸軍と海軍がとか、そういう組織的なところの失敗の本質みたいなところを改善していけばいいんだみたいなのがあるけど、サードイメージは手の打ちようがない感じがしちゃうんですけど。
そうですね。ただし、セカンドイメージを率いてるファーストイメージの人ですか、個人が、そのパワーバランスを「今うちらが国力を上げとかなきゃいけないな」。そうしたら戦争が起こっちゃうかもしれないから上げとかなきゃいけない、もしくは抑えなきゃいけないなっていうところになると、サードイメージのところにも繋がるって話にはなるのかなと思うんですよ。
それはあくまでも、大国がそのシステムの中でどう振る舞うのかっていうところには繋がってくると思うんですけどね。
それってどう活かせるのかなってところなんですけど、神様みたいな人はいないわけじゃないですか。全部を俯瞰して、「あなたはここを減らして増やしなさい」っていうか、そもそも多分、減らそうと思う国がない気がするんですよね。軍事力とかってね。増えるというか。
そこを、例えばトランプ大統領に相対する人だったら、「この状況の中で無理な侵攻はしないでください」っていうのは少しは言えるとは思うんですけどね。このフレームをどういうふうに活かしてたんですか?
これ実は、日本でも例えばジャーナリストの方々がいろんな説明をする時には、この話をしてる方々が結構、意識せずにですよ。「プーチン大統領、個人が戦争を起こした」。いやいや、「ロシアっていう国がそういう性格を持ってるからだ」っていう人はセカンドイメージです。
サードイメージの人はどちらかというと、ロシアがそういう大きな枠組みの中において、アメリカに押し込まれてる状況があると。そういう中においてパワーバランスがちょっと崩れそうなので、その崩れるのを防ぐために戦争に行ったみたいな説明の仕方はできるので、それぞれ戦争の起きる原因の話をしてるんですけど、それ以外にも国際政治が動く1番のポイントを見るっていう点においては、使える枠組みなのかなと思ってます。
なるほど。だから、今起きていることであったり、この先ちょっと起きそうなことを見る時の、3つの目みたいな感じで、1個だけだとちょっと一面的になっちゃうってことです。
多面的に見るために、なるべく多くの視点から見ようよね。だからどうしても忘れられがちなのが、1、2のファーストイメージ、セカンドイメージはみんな見るんですけど、意外とサードイメージの部分、大きな枠組みとかパワーバランスってあんまり見ないので、そこに注目しようっていうことを言ったのがケネス・ウォルツさん。
これは僕は個人的には、地政学の考え方、つまり陸の勢力と海の勢力が戦ってますよねっていうところには近い考え方なのかなとすら思ってます。
ここ数年、抑止、抑止力っていう言葉ってすごく耳にすると思うんですけれども、特に日本の防衛力を増やしていくっていうような話だったり、中国が台頭してくるみたいな話で。抑止ってそもそも何なんですかって、すいません、だいぶ漠然とした質問で、漠とした質問なんですけど。
『戦略論入門』の中には核戦略の話ですかね、核の話を少し書いてるんですけど、そちらに少しその辺を書いております。そもそも抑止って何ですかと言うと、これ核戦略、核兵器を使ってどういうふうに我々が国際政治の中を生き延びるのかっていうことを考えてきた人たちの中で、注目され始めた考え方です。
抑止って考え方は、もう核の文脈の中で出てきた。
はい。もともとはもちろん、あったはあったんですね。1930年代からイギリスがドイツに対して空爆する時に、この空爆の脅しを使えば向こうは屈服するんじゃないかみたいなところで、軍事力を使ってどういうふうに脅しをかけるのか。実際に使わなくてもですよ。どういうふうに脅しをかけるのかみたいな文脈で語られてきたところはあったんですけど。
これほどまでに注目されたのは核兵器の登場で、なぜかと言うと、核兵器って広島、長崎の悲劇がありますけど、あれを見た人たち、その後にアメリカとロシアとかソ連中心に核実験とか色々やってますけど、やってみるととんでもない威力があると分かっちゃったわけですよね。
そうすると、これ1回どこかの都市に本当にもう1回同じような形でドカンとやると、何十万人規模で死者が出ちゃうよね。これって我々、一応アメリカもそうだし、その後にソ連も持ちます。中国も持ちますけど、使っちゃったらやばいよね。使えないものだよねっていうことに気がついて。
だったら使えないんだったら、「使うぞ」って脅しをかけることによって戦争を防ぐっていう考え方があるんじゃないの、というのが、もうすでに1945年、46年ぐらいにアメリカの方から出てきて、それで抑止っていう言葉がものすごく出てきたということですね。
通常の火力だと、普通、使うための兵器ってことですけど、使わないことを前提とした核っていうものが出てきたからこそ、抑止っていう言葉が広まってきた。
はい。そういうことですね。でもその背景にあるのは何かと言うと、軍事力、武力みたいなもので脅しをかける。脅しをかけるっていうものは、実は国際政治においては結構頻繁に使われていて、軍事力で「お前のところに侵攻するぞ」みたいな形で脅しをかけるってやり方であったりとか、あとは本当に侵攻することによって言うことを聞かせるっていうのはあったので。
軍事力って、冷静に客観的に見ると、もちろん暴力ではあるんですけど、その暴力をいかに政治的な目的のために使うかっていうところにおいて考えると、戦争も実はそうじゃないかと。武力に訴えることによって、こちらの達成したいことを達成する。軍事的に達成するっていうのも、実は政治的な目的のために行われるんだよね。
じゃあこの核兵器っていう恐ろしい兵器を、睨み合いで「使うぞ」って脅すことによって、相手の意思を屈服させるってこともできるんじゃないかってことになってきた時に、「これは抑止ってこともできるんだな」っていう認識が芽生えてきて。みんなで、本当に頭のいい人たちが、1955、56年ぐらいからですかね、10年間ぐらいにわたって、今のいわゆる抑止論の全てを大体議論し尽くしたっていうのが、その当時の話だと思います。
そうすると、今の日本は核武装するって話は、一部を除いてそんなには議論されてはないと思うんですけど、普通の防衛力を強化していく中で抑止って言葉が使われるじゃないですか。例えば中国の計算を複雑にするとか、コストをかけさせるみたいな言葉が使われますけど、ここにおける抑止ってどういう意味なんですか?
それはどちらかというと、日本が持っている装備とか武力、火力ですね。そういうものにおいて、相手に「手出しをしたらこちらがものすごく傷つく、コストがかかってしまう」っていうことを思わせるっていう効果があることを、こちらが期待してやっている、一種の心理戦みたいなところがあるのかなと僕は考えてます。
要するに武力はもちろん備えるんだけど、訓練は色々していく。相手に対して、侵攻しようかなどうかなって言った時に、相手に思いとどまらせるというか、そういう意味において今、日本は抑止力を備えてる。抑止力を構築しましょうっていう議論をしてるっていう現実はあると思います。
これ結構、すごい考え方が難しいなと思うのが、ある人はもちろんそういうのは大事だと言うし、ある人は軍拡競争になるだけじゃないかと。抑止ってどういう時に成立するのかみたいな答えがないみたいな。ここはどう考えたらいいんですかね?
これは本当に究極のところまでいくと、抑止が本当に効いてるのかどうかって分からないんですよ。後で、もしかしたら相手側の人が「あの時に僕はやっぱりアメリカにとか日本に侵攻するのをためらってました」って言ったら、それでようやく「抑止が効いてたよね」って言えるんです。
ところが抑止って、結局、例えば侵攻されちゃいましたよね。その時にようやく抑止が破れたっていう形になるので、非常に心理的なところのあやふやさがあるっていうのは、色々抑止に対して批判をしてる人たちがいっぱいいるんですけど、そこは確かにその通りだなと。
実は決断をする人の心理にどこまで働きかけるかっていうところが抑止の肝にあるので、武器を揃えれば絶対に抑止できるってことにはならないんですよ。これがすごい難しいところです。
そうですよね。これじゃ相手の国がもう全然違う論理で動いてたら効かないって。
はい。そこで僕がその本の中で非常に強調させていただいたのが、戦略文化であるとかそういう考え方です。これ、なんで僕がこの核の手の話の時に文化の話が大事だっていうふうに言ったのかっていうのは、合理性っていう考え方なんです。
抑止の考え方って、相手に、こちらが「核兵器を僕は持ってます」と。こちら、PIVOT帝国はこちらの方に核兵器を、お互いに持ってる。そうすると睨み合って絶対にこれ、お互いに戦争しないよね。だって合理的に考えたら、そちらもそんなに核戦争になりたくないし、こっちも核戦争になりたくない。だったらこれで平和が保てるよね。抑止できるよね、お互いにっていう考え方なんですよね。
ところがこれって、合理的に考えたらお互いやらないじゃないですか。でも反対側の、例えばPIVOT帝国がですよ。「いや、奥山に核兵器を落とした方が、俺たち戦争始めちゃった方がいいよね」って思ってたらどうなりますかって話です。
抑止って、だから相手が本当に合理的に考えてるかどうかって、こっちの合理性で考えてるんですよ。これがすごい肝であって。
ソ連とアメリカって、実は1970年代ぐらいまで、アメリカ側は特になんですけど、考えたらソ連って絶対に戦争を仕掛けてこないよね、しないよねと思ってたんですよ。ところが70年代ぐらいになって、ソ連を研究してる人たちは、「あれ、ソ連のところを見ると、なんか俺たちの考えてるのと違うぞ」と。
別の文化を持ってるぞと。戦略に対して別の文化の考え方を持ってるよねってことで、ある時に、ランド研究所で研究してたジャック・スナイダーという人なんですけど、その人が気がついて、「これ戦略文化っていうのはあるんじゃないか」。
ああ、国によって戦略の。
はい。その時はソ連なんですけど、ソ連の戦略文化って我々とちょっと違うんじゃないか。俺たちの合理性と別の合理性で動いてるよねっていうことに気がついて、そこで「そうだ、文化だ、文化だ」っていうことで、わーっと戦略における文化論っていうのが広まってきて、そこで問題になったのが合理性です。
相手の国のことをやっぱり研究しないと駄目ですね。
ということですね。例えば僕がよく話をするのが習近平ですよ。台湾侵攻、台湾有事がある。これ、研究者の方も色々な話をしてるんですけど、台湾ありますよね。いろんな方が研究していて、結構専門で研究されてる方は、「当分台湾をやらないんじゃないか、軍事侵攻なんてやらないんじゃないか」っていう人がいます。僕はそれはその通りで、正しいと思うんですよ。
ただし、そこにちょっと引っかけというか、核の話とちょっと近いところがあって。習近平、そもそも日本とかアメリカ側が考えてる合理性のもとで動いてるかっていう話なんですよ。
習近平がもし、台湾侵攻したらとんでもないことになる、身の破滅だから絶対にやらないだろう。合理的に考えて習近平はやらないはずだっていう議論をする人たちがいて、それはその通りだと思うんですけど、問題は僕、3つあると思ってるんですよ。
1つ目、まず習近平が独自の合理性、これは戦略文化ですね、独自の合理性で動いてる可能性がある。我々とはまた違う、正当な理由とか、やらなきゃいけないっていうことを持っていて、身が滅ぶ、人民解放軍が壊滅してもやらなきゃいけないと思ってるパターンもあるわけです。
これちょっと分からないんですよ。そうすると、我々の合理性と習近平の合理性が違うので、これやっぱり警戒すべきなんじゃないかという議論が成り立ちますね。これ1点目。
2点目、習近平が、これちょっと劣化してというわけじゃないですけど、結構今お年じゃないですか。そうすると、彼は今まですごく合理的に物事を考えていたかのように振る舞っていても、ある時突然「やっぱり侵攻だ」ってことになるかもしれない。これ実は前例があります。プーチン大統領ですね、ロシアの。
プーチン大統領って、実は2022年のロシアが侵攻する直前まで、西洋の、特にプーチン大統領を研究してる人たちでも、すごく慎重で合理的な考え方をする人だって言われてたんです。ところが2022年、やっぱり侵攻が起こりましたよね。
あんな無謀なことをするとは思わなかったっていう人がやっぱりいたんですけど、まさにそういうところであって、習近平も劣化して非合理的な決定をしてしまうんじゃないかっていうリスクがありますよね。これ2点目。
3点目。これ合理的なのかもしれないですけど、習近平が何かのきっかけで、例としてはそうですね、昨日の夜、奥さんと喧嘩したとか、寝不足とか、お酒を飲みすぎちゃったとか、支援者じゃないですけど、周りに「お前、侵攻するんだ」って突き上げられたとか、そういうところで衝動的な決断をすると。これ分からないわけですよ。そうすると、やっぱりこれはその辺に備えるべきっていうことになりますよね。
だから合理性って、本当にそんなに信頼できるのっていうのが、この手の理論の世界の中で出てきた考え方で、それを台湾有事とかに当てはめると、やっぱりちょっと台湾侵攻とか有事とかを警戒すべきなんじゃないかというところになる。
なるほど。だから合理性っていうのも、何重にもあるわけですね。この疑うべきところから。だから完全に可能性を排除してしまうっていうのは、ちょっと危険なんじゃないかなという。
はい。習近平自身は台湾統一、武力統一っていうのはもう公言していますので、それに対してずっと警戒するっていうのは、これ仕方ないことなんじゃないかなと思ってます。
その上で、日本に必要な議論と言いますか、欠けてる議論みたいなのって、戦略論において何だと思いますか?
抑止が効くのって、いろんな条件とかはあると思うんですけど、1つはですよ。この辺、日本政府はこういうことは絶対に言わないんですけど、抑止ができるってことは、それは抑止をしようという、本当に戦う気がある人だけが抑止できるっていうのはあると思うんです。
抑止って脅しじゃないですか。「あなたが入ってきたらこちらも戦いますよ」ってことなんですけど、「戦いますよ」っていうのが本気なのかどうかを相手が知る必要があるんですよ。
日本は、例えば長距離ミサイルとかを持つことによって、長射程の能力を持ってます。そういうことを言って、相手がビビってますかって話なんですよ。相手を本当にビビらせて、「じゃあやっぱり侵攻するのやめよう」って思いとどまらせるためには、こちらが本当に戦えるところを見せなきゃいけないし、それを信じさせなきゃいけないってことは、戦えなきゃいけないって話になるんです。
つまり日本っていうのは、本気で抑止をするんだったら戦争に備えなきゃいけないっていう現実があります。僕は戦争はもちろんしたくないんですけど、抑止をして本当に戦争を防ぐのであれば、それはその後ろに本当に戦えるという実力の信憑性と、脅しをできなきゃいけないってことになると、戦えるかどうかっていう話が、すごく究極には問われてくるんですよね。
気軽に今、日本は抑止だっていっぱい言ってますけど、それ本当に抑止をしようとしてる相手に届いてるんですかっていうところが問われていて、それは日本が本当に戦えるかどうか。戦争で戦いたくないですけどね、もちろん我々なんですけど。それは脅しとして本当に信憑性のある、こちらが戦える状態というものを相手に見せられるかどうか。これが1番疑問だと思ってます。
そうすると、我々は実は戦えなきゃいけないっていう話になる。これなかなか非常に考えたくないんですけど、という状況ですね。
日本が中国を躊躇させるぐらいの抑止を持つっていうのは可能なんですか?
一応、日本政府はそういう説明の仕方をしてますよね。一応、抑止という言葉を使って、実際にそれに備えたようなミサイルであったり、長射程の、そういう色々火力を持ったりとかしてますけど、効いてるかどうかは分からないっていうところです。
なるほど。
ただし本当に効かせる気があるんであれば、こちら側が本当に戦えなきゃいけないってことは、これちょっと言い方は難しいんですけど、やっぱり備えなきゃいけない部分があるんじゃないかというところです。
なるほど。それと、この2つ目も関わってるわけですかね。
はい。日本が戦えるかどうかっていうところが問われてるのが1点目。2点目は、いざ戦うことになった時、これは僕もちょっと付き合いのある方々が含まれるんですけど、自衛官がこれから戦死したということになります。
おそらく、そういうドンパチが起こった時に必ず。今、自衛隊は殉職という形で、一応祭祀というか、防衛省の中に2500人ぐらいの方が顕彰されてるという状況ではあるんですけど、本当に戦死が起こった時に、これ国のために亡くなったってことになると、僕はそれはどうかなと思うんですけど、例えば靖国神社に祀る方がいいっていう人もいたりとかですね。それとは別に国として何か、戦死者を祀るような場所っていうものは必要になってくるんじゃないか。
この辺の、実は今までしたくなかったような議論に直面せざるを得ない。戦争っていうものが見えてくると、その辺の議論をリアルにしなきゃいけないっていうふうには僕は思ってます。
これは結構、心理的なハードルは日本人は高そうですね。
はい、そうですね。なるべく、日本の場合はどうしても物事が起こってから考えようっていうところがあるので、あらかじめそういうところを議論する。もちろんそういう議論をしようという方は何人かいらっしゃるんですけど、日本でも。
ただし、なかなかそこは、特に自衛官のOBとかがやるんじゃなくて、社会的に他の外部の人たちがそういうところを初めから議論していくっていうのは大事なんじゃないかななんて、僕は思ってますけど。
私、大学生の頃に太平洋戦争の戦没者の遺骨収集のボランティアをやってたんですけど、アメリカとの最大の違いは、アメリカは常に戦死者を現代になっても出してるっていうところなんだなって思いました。
だから、今も自分の息子とかを戦場に送ってる家族がいるからこそ、昔の戦没者の骨もその事業の一環として収集するし、多分日本だと、どっちかというと遺族の方への事業としてやってるところが多いので、現代のためのというよりかは。やっぱりここはもうかなり差はあるのかなっていう感じ。
そうですね。
やっぱり世の中はこれだけもう戦争近いよねっていうところになると、いざ起こった時にどうするかっていう議論としては、考えたくないですけど、起こった時に戦死者の扱いをどうするのかっていうリアルなところはやらなきゃいけなくて。もちろんそれに対して賛否両論いっぱいあるとは思うんですけど、実際にこれ戦いどうするのか、抑止だって言った時に、じゃあ本当に防ぐためにはっていうところをロジカルに考えていくと、どうしても結果として、こういうふうに戦死者をどう扱うかっていうところまで考えなきゃいけないというふうには僕は思ってます。
これ最後の、社会がどう備えるかというのも、そうすると戦死者も含めた上で、今度は本当に例えば台湾有事みたいな時になった時に、社会側がどういうふうに。やっぱり戦争って軍隊同士だけがやるものじゃなくて、必ずその軍隊ってどこに所属してるかっていうと、やっぱり社会とつながってる存在なんですね。
我々と同じ一般国民が例えば自衛官として、その戦闘に従事するみたいなことがあった場合に、社会側がそれをどういうふうに受け止めるのかみたいなところまでも含めて、考えたくはないんですけど、でも実際にリアルに戦略っていうところを考えて突き詰めていくと、どうしてもその、戦う社会。社会がどこまで、例えばどっかにミサイルが落ちてきたっていう時に、それをどういうふうに被害を最小限にするのか。
例えば災害があった時なんか議論結構されますけど、それに対してレジリエンスでどうだっていう、いかに復興させるかみたいな話はありますけど、それと同じ文脈で、実際に戦争が起こった、戦死者が出た、被害者が出た、遺族もいる。そういった中で社会が彼らをどういうふうに受け止めて、どういうふうに彼らに対して顕彰をするとかいうところも含めてですね、戦った時に社会としてどう備えるのか。考えたくはないんですけど、これ考えなきゃいけないところまで来てるんじゃない。これが僕の問題意識のうちの一つですね。
なるほど。なかなか多分メディアとかで奥山さんみたいに話される方、多くはないと思うんですけど、逆にこれ、10年後、20年後振り返った時に、ああ、あの議論ってそういうことだったんだって、なる気もしますね。
いや、でもこれ普通に海外では、例えば先ほどアメリカの話もそうですし、実際に戦死者が出てるところは必ずこれやってます。でもすでにドイツなんかで2011年ぐらいにもう車とか出てますんで、その辺の議論はやり尽くしてるところはあるんですけど、ますます我々、安全保障環境が厳しくなってきたら、そこまであらかじめやっぱり議論して準備しておくっていうところはやらないと、むしろ変な方に感情的に社会が流れていってっていうのは、非常に僕は不健全なのかなと思います。
ちょっと臭いものに蓋みたいな感じが、かえって危ないんじゃなかったかっていう感じですよね。危ない。
はい。その通りだと。
なるほど。ちょっと重いですけど、非常に勉強になりました。ありがとうございました。
ありがとうございました。PIVOTアプリではバックグラウンド再生やダウンロード機能をご利用いただけます。バックグラウンド再生により通勤中や運動中、SNSを見ながらでも、ながら視聴が可能です。
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