将軍の年収、奴隷の身分、焼かれた六国の歴史——鶴間和幸が語る始皇帝の時代

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概要

映画『キングダム』で中国史の監修を務めた学習院大学名誉教授の鶴間和幸が、ReHacQの高橋弘樹の質問に答えた対談である。前編の続きにあたり、高橋の素朴な疑問から話が広がっていく。取り上げられたのは、李信と王翦の楚攻め、『史記』が秦側の記録と民間伝承をどう組み合わせたか、焚書を逃れた楚の竹簡、出土した秦の法律文書と占いの書、李斯と趙高の最期と出自、兵士が敵の首を求めた理由、高官の年収、そして始皇帝が求めた不老不死の薬である。鶴間が一貫して示すのは、『史記』の記述だけでは見えなかった秦と周辺諸国の姿が、出土資料によって少しずつ明らかになっているという見方だ。

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李信の楚攻めと王翦の慎重さ

鶴間はまず、楚という大国を攻めたときの逸話を紹介した。嬴政が楚攻めに必要な兵力を尋ねると、若い李信は20万で足りると答え、王翦は60万が必要だと答えた。嬴政は若い李信に任せ、20万で攻めさせた。しかし都の咸陽からの遠征では、楚に着くまでに兵士が疲れてしまう。李信の軍はあっけなく敗れたという。

そこで嬴政は王翦に頼むことになる。王翦は面白くなく、自分ではやりたくなかったが引き受けた。鶴間によれば、王翦が最初にしたのは兵士を休ませることだった。うまいものを食べさせ、しばらく休養させる。ただ戦争なので筋肉を落としてはいけない。兵士たちが石を投げるような運動を始めたのを見て、王翦はもう大丈夫だと判断し、楚を攻めて勝利した。

高橋が「史記を見ると李信はそれほど活躍していない」と指摘すると、鶴間も同意した。そのうえで、わずかな記述の李信を主人公にしてこれだけの物語を作り上げたのは、『キングダム』の作者・原泰久の功績だと述べた。書かれていないことが多いからこそ想像の余地がある、というのが二人の一致した見方である。統一後、李信は史料にまったく登場しない。ただ、子孫には漢の名将・李広がいる。李信から何世代か後の人物とされるが、その間をつなぐ資料がなかなか見つからないと鶴間は言う。

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秦の簡素な記録と、司馬遷が加えた荊軻の物語

なぜ李信のような人物の資料が残らないのか。鶴間の説明では、司馬遷が参照した秦の記録は年代記のようなもので、ごく簡単にしか書かれていない。

その例として挙がったのが、燕の太子が送り込んだ荊軻による秦王暗殺未遂事件である。秦側の資料には、荊軻が事件を起こしたことしか書かれておらず、詳細はない。そしてこの事件をきっかけに燕を攻める口実ができ、将軍が燕を攻めた。ここまでが秦側の資料の内容だ。

一方で司馬遷は、戦国策系統の膨大な話を『史記』に入れた。任侠の徒である5人の刺客を扱った「刺客列伝」の最後に荊軻を置いている。荊軻は秦王と対面し、樊於期という将軍の首と、督亢という土地の地図を献上する。地図の中には匕首が仕込まれていた。秦王が地図を開いたところで荊軻はそれを取り出して襲いかかり、秦王は逃げる。秦王は剣を帯びていたが、長い剣なので抜けない。臣下が「背負いなさい」と声をかけ、背に回すと抜きやすくなって荊軻を斬りつけた。鶴間はこれを宮廷内の伝聞だとし、荊軻の側から秦王を襲った話が民間に伝わっていたものだと説明する。秦側には記録として残っていない話であり、司馬遷は秦側の記録と民間の伝承を両方載せているのだという。

荊軻が持参した首の主・樊於期について、高橋は『キングダム』の桓騎が最後に行方不明になり、燕に逃れて樊於期になったという説があったのではと尋ねた。鶴間はそれを否定した。『史記』で桓騎について分かるのは、10万人の首を取ったことくらいで、原はそこから独自の桓騎像を作り上げた。樊於期はまったく別の人物で、理由は不明だが秦のお尋ね者となって燕に逃げた。秦に残った家族は処刑されるので秦王を恨み、「俺の首を持っていけ」と言って暗殺を託した、という流れである。

7:39

言葉は通じたのか——話し言葉と共通の文字

高橋は、秦から遠く離れた楚や燕の人々がどんな暮らしをしていたのか、そもそも言葉は通じたのかと尋ねた。

鶴間によれば、戦国時代には国境を越えて動く人がかなりいた。呂不韋のように国際的な交易をする商人、戦地に赴く将軍、そして合従連衡を説いて各国の王のもとを回る外交家である。外交家たちは王と対話もしたが、基本的には文書で自分の意見を伝えた。文字は各国で形が少しずつ違っても共通しており、書かれたものは互いに理解できた。

話し言葉は別だ。鶴間は現代中国で北京語と広東語が通じないこと、上海語や四川語も異なることを挙げ、古代にも同程度の方言差があったのだろうと推測する。だからこそ書簡を交わし、意見を文書にして渡すことが、口頭の対話より重要だったのではないかと述べた。

10:06

焚書で失われた六国の歴史と、楚の竹簡

他国の暮らしが分かりにくい理由として、鶴間は焚書を挙げた。焚書は儒学の書物を焼いた事件として知られるが、他国の歴史書を焼いたことが一番重要だという。李斯の提案によるもので、滅ぼした六国の側の記録が残れば、秦の記録とはまったく別の世界が描かれてしまう。だから焼きたかったのだろう、というのが鶴間の見方である。

ところが近年、楚の竹簡が多数見つかっている。これらは戦国時代に地下に納められたもので、焚書とは関係なく残った。楚の文字は秦の文字と字の作りは共通しているが、字体が違い、鶴間の表現では「飛び跳ねたような」独特の文字である。

その中から、戦国時代に書かれた『老子』が出てきた。それまでは漢代の写本が最古だったため、大きな発見だという。文字にも違いがあり、例えば「海」は通常さんずいに「毎」と書くが、楚の写本では右側が「母」になっている。鶴間は、海を母とするほうが感覚的に分かりやすいと話した。

さらに最近、焚書で失われたはずの楚の歴史書そのものが出てきた。鶴間の専門ではないが、中国の研究者が鶴間らの夏の合宿で報告し、非常に面白いと感じたという。

12:59

小国を取り込んだ楚と、孔子の放浪

その報告から鶴間が注目したのは、楚が秦とは違うやり方で領土を広げたことである。

話は孔子にさかのぼる。楚の北には、周代以来の小さな独立国がたくさんあった。孔子は魯の役人だったがうまくいかず、弟子たちと13年間放浪した。訪ねた先は衛、宋、陳、蔡など、いずれも小さな独立国だった。『論語』を読むと、孔子はあまり歓迎されていない。それでも小国を回ったのは、大国の斉の政治が嫌いで、周の時代の政治の理想を小さな国で実現しようとしたからだ、と鶴間は解釈する。陳と蔡の間では、孔子が大国に行けば自分たちが危うくなると考えた人々に足止めされ、食料の援助も得られず難儀したことが『論語』にも記されている。

鶴間によれば、こうした小国は独立した経済を持ち、諸子百家の多くもそこで生まれた。老子は楚ではなく小国の人間であり、墨子は宋に仕えたが大国を嫌った。荘子も同様に小国から出ている。中国古代にあらゆる哲学が現れたのは、小国同士が競い合って文化を高めたからだ、というのが鶴間の考えである。

楚はそうした小国を狙った。最初の都・郢は秦の白起に占領され、楚は陳という小国を新たな都にした。さらに嬴政の時代になると、秦の脅威を避けて寿春に都を移す。寿春はもともと蔡の都だった。つまり楚は、文化の高い独立小国群を次々に取り込んでいったことになる。

ここで「郢」という字が問題になる。従来は、楚が陳に遷都すれば「陳郢」と呼ぶように、郢は都を表す言葉だと理解されてきた。ところが今回の歴史書では「〜郢」という地名が大量に出てきた。楚が小国を取り込んだ際に、そうした都市群を郢の名で呼んだのではないか、と鶴間は考えるが、これはまだ定説ではないと断っている。

対して秦は、白起が郢を占領すると南郡という占領軍を置き、そこを拠点に東方の国々を攻めた。取り込み方がまったく違う。秦側の資料だけでは見えなかったこうした違いが、竹簡によって少しずつ分かってきたという。

楚の統治体制について、鶴間は丞相に当たる職を令尹と呼んだと説明した。始皇帝の在位中に一度だけあった合従軍は、楚の考烈王と令尹の春申君が組織したもので、函谷関の戦いの後、咸陽に近い蕞まで攻め込んだ。原が大きく描いた場面である。こうした楚の側の歴史書がもっと出てくれば面白い、と鶴間は期待を語った。

20:43

文字資料が見つからない燕

日本に近い燕については、文字資料がまだ出ていない。燕の都は現在の北京にあり、その上に北京の街があるため発掘は難しい。一方、荊軻が旅立った下都は易県という郊外にあり、城壁が残って発掘も進んでいる。青銅器や人物像は出ているが、文字資料は見つかっていない。

燕に文字がなかったわけではなく、まだ発見されていないだけだと鶴間は言う。秦が占領して回収し焼いたのなら出てこないが、どこかの官僚の墓に竹簡が納められていれば出てくる可能性がある。考古学の発見は偶然に左右される、というのが鶴間の答えだった。

21:53

秦の法律文書と「日書」——法と占いの両立

秦の文字資料は、都の咸陽からはあまり出ていない。出てきたのは、南郡の下にある県の役人の墓からで、最初に約1100枚の竹簡が見つかった。その多くが法律文書だった。

鶴間によれば、当時の中国では、秦は法によって統一を果たしたという評価があり、法律文書の出土は大きな驚きをもって受け止められた。ところが同じ墓から「日書」という竹簡も出てきた。これは占いの書である。「日」はカレンダーを指し、十干十二支をもとに、役人が赴任するのに良い日か、宮殿に参上するのに良い日かといった吉凶を判断する。

面白いのは犯罪捜査に関する占いだ。法律文書には窃盗の処罰方法が書かれている。一方、日書には、役人が窃盗や殺人の現場を調べる際、その日の干支から犯人を占う方法が書かれている。例えば子(ネズミ)の日なら、犯人の名前にはこういう字が入り、顔にはひげがある、といった具合だ。高橋が「とんでもない捜査だ」と笑うと、鶴間は、この占いの書は当初、毛沢東の時代には発表されなかったと明かした。

鶴間はこれを矛盾とは見ていない。当時の地方行政では占いも法律も重視され、両方を天秤にかけて運用していたのではないかという。高橋が冤罪が多そうだと言うと、鶴間も多かっただろうと認めつつ、裁判はきちんと行われていたと付け加えた。

24:51

李斯の裁判と「黄色い犬」の遺言

裁判の話から、李斯の最期に移った。趙高が問題にしたのは、李斯の息子・李由である。李由は洛陽の三川郡の長官だったが、陳勝・呉広の反乱軍の通過を阻止できなかった。当時は連座が普通だったため、責任は父の李斯に及び、趙高は極刑だと判断した。李斯は二世皇帝に訴え、自らの「7つの罪」を告白した。だが実際には、それは自分の功績を並べた自慢話だったという。

鶴間は李斯について「書き出したら一冊書ける」と言う。『史記』には李斯の発言が数多く残っている。13歳の秦王に帝王学を授け、成長する王に東方の国々をどう滅ぼすべきかを進言した。これらを集めれば「李子」という書物ができるほどだが、処刑されたこともあって、まだ誰もまとめていない。集めて読むと、李斯自身も成長していることが分かるという。

最期の言葉も印象的だ。処刑を前に李斯は息子に、故郷の上蔡の東門で、息子と一緒に黄色い犬を連れて兎狩りをしたかったが、もうかなわない、と語ったと『史記』にある。蔡は都を三度移しており、上蔡はその最初の地だ。鶴間によれば李斯は楚の人間ではなく、楚に滅ぼされた蔡の文化を持つ上蔡の人だった。

鶴間は実際に上蔡を訪ねている。古い城壁が残り、李斯の墓とされるものもあるが、本物かどうかは分からない。鶴間の解釈では、小国では東門に人々が集まって行事を行っており、犬を連れた兎狩りはそうした行事の一つだったのではないか。なぜ黄色い犬なのかは説明できないとしたうえで、李斯は故郷に帰りたいという思いを語ったのだろうと述べた。結局は極刑となり、息子も処刑されたと考えられる。

28:54

趙高は宦官ではなかった——奴隷の子が皇子の家庭教師に

統一の最大の功労者である李斯を処刑に追い込んだ趙高について、鶴間はいくつもの通説を覆した。

まず、司馬遷は趙高の列伝を立てていない。趙高ほどの人物なら単独の列伝があってもよいが、その経歴は李斯列伝と蒙恬列伝の中に挟み込まれている。李斯の最期を説明するには趙高の話が欠かせないからだ。鶴間は、司馬遷が趙高を悪役に仕立てたのではないかと見る。

趙高は趙の出身だ。秦が趙を攻めた際に親が捕虜となり、奴隷として咸陽に連れて行かれた。奴隷でも都で生活し、結婚もできたため、そこで生まれたのが趙高だった。

後世の人々は趙高を宦官とみなしてきたが、鶴間はこれを誤読だとする。出土資料には「宦皇帝」という言葉が多く出てくる。この「宦」は皇帝に仕えるという意味の動詞で、普通の役人と違い、皇帝のもとへ自由に出入りできる者を指す。その名簿が「宦籍」で、ここに名があればいつでも皇帝に会えた。『史記』にある趙高が宦籍に入っていたという記述を、去勢された宦官の名簿と解するのは誤りだという。宦官が政治的勢力を持ったのは後漢、唐、明の時代であり、その時代の人々が、母が奴隷であったことなども踏まえて趙高を宦官として描いてしまったのだろうと鶴間は説明する。

では奴隷の子がなぜ出世できたのか。鶴間は、そこが秦の面白いところだと言う。趙高は学識が高く法律に通じていたため、皇子・胡亥の家庭教師になった。さらに最近の出土資料によれば、趙高はもともと「隷臣」という奴隷身分だったが、普通の庶民の身分に変わっていた。『史記』には書かれていないことで、始皇帝が認めたのだろうと鶴間は見ている。

背景には秦の奴隷制度がある。生涯奴隷のままという場合もあるが、罪を犯して奴隷になった者が、一定期間国のために労働すれば庶民に戻れる仕組みもあった。高橋が良心的な制度だと言うと、鶴間は「奴隷制度の中では」と留保をつけた。

33:54

敗者の運命と、孟子の反戦思想

戦争に負けた側の人々はどうなったのか。鶴間によれば、兵士は捕虜になるか殺されるかで、捕虜になれば奴隷になることが多かった。奴隷は都づくり、陵墓づくり、長城づくりなどに使われた。一般の農民を駆り出すより、罪を犯した者のほうが24時間使えるからだ。過酷ではあったが、罪を償えば庶民に戻れた。

民間人については資料が少なく、奴隷にされたケースもあるとしか言えないという。ここで鶴間は、今後取り組みたいテーマとして孟子を挙げた。孟子は反戦的で民を中心に考える思想を持ち、君主は民を飢えさせてはならない、戦争をしても敵地で民の財産を奪ってはならない、民を殺してはならないと説いた。高橋が、そう言うということは実際には民が巻き込まれていたのだろうと指摘すると、鶴間は、それは現代と同じく難しい問題だとしつつ、占領されて殺されることは当然あっただろうと答えた。

戦死者の規模も分かりにくい。桓騎が10万の首を取ったという記述も、その全員が兵士だったのかは分からず、『史記』には桓騎の功績として書かれている。農民が戦争に駆り出された証拠として、鶴間は兵馬俑を挙げた。職業軍人は冠をかぶり、一般の兵士は髷を結っているだけだ。後者は駆り出された農民であり、彼らも戦争の被害者として亡くなっていったと述べた。

36:57

兵士はなぜ城壁に突撃したのか——首1つで爵位1つ

高橋は、『キングダム』の城攻めで兵士がはしごをかけて突撃する場面を挙げ、死ぬと分かっていてなぜそんなことができたのか、あれは奴隷兵士なのかと尋ねた。鶴間の答えは、普通の兵士がやっていた、というものだった。秦の兵士が統一のために戦っていたかは疑問だとしたうえで、上層部が兵士を動かすために用いたのが爵位だと説明する。

当時の爵位は20ランクあり、一般の庶民は下から8番目までしか上がれない。敵の首を1つ取れば爵位が1つ上がる。8番目に近づくと、田畑が与えられるほか、罪を犯したときに爵位で罪を償える。自分の一族が罪を犯した場合にも減刑に使えた。爵位は個人に与えられるが、田畑は家のためになる。だから兵士は家のために首を求めたのだ、と鶴間は言う。高橋が、1回の戦争で3つ首を取れば3ランク上がるのかと確認すると、鶴間はそうだと答えた。ただし、首1つで爵位1つという点について、鶴間は資料があまりないとも述べている。

首を持ち帰って褒賞を得ることが実際にあった証拠として、鶴間は竹簡の裁判文書を紹介した。敵の首を1つ役所に持ち込んだ2人が、自分が取った首だと争った。役人は2人を取り調べ、どんな状況で、どこを斬ったのかを尋ねている。こうしたいざこざは事実としてあっただろうという。

爵位を持たない者も庶民であり、その下に奴婢がいる。8番目より上には、地方や中央の官僚として出世する道がある。最高位の20番目は列侯(徹侯)で、領地を与えられる。呂不韋がこれに当たり、その上は皇帝しかいない。19番目は関倫侯で、函谷関の内側を意味する名だ。領地を持っていたのか、名前だけの爵位だったのかには議論がある。始皇帝の巡行で建てられた刻石に臣下の名が刻まれており、そこにある「倫侯」が関倫侯に当たると言われている。

43:19

呂不韋の年収と3000人の食客

高橋は「下世話な話」と断りつつ、呂不韋や李斯、王翦の年収を尋ねた。鶴間によれば、中央の最高位である丞相や御史大夫らの俸給は穀物で換算され、1万石だった。ここでの「石」は重さの単位で、1石はおよそ30キロである。日本でも米は5キロ単位で買い、炊くときは合で量るように、当時も穀物を重さと容量の両方で量ったという。つまり1万石は年に30万キロの穀物になる。

高橋はその場で、米5キロ3000円として計算し、30キロで1万8000円、年収54億円になると驚いた。鶴間は「そんな換算をする人はいない」と笑いながらも、米価で換算すればという前提で受け止めた(なお、この前提どおりなら1万石×1万8000円で約1億8000万円になり、54億円という数字は番組中の計算の取り違えと見られる)。その下のランクは2000石で、九卿がこれに当たる。統一時の李斯は法務長官にあたる廷尉で、2000石だった。高橋は李斯の年収も億単位になると感心していた。

ただ、呂不韋の収入は俸給だけではない。呂不韋は、かつて周の都があった洛陽に領地を持ち、そこの税収も得ていた。一方で、3000人の食客を養わなければならなかった。食客は兵士ではなく、館と食料を与えて生活させる代わりに知恵を提供させる存在で、その成果が『呂氏春秋』のような書物になったと鶴間は説明する。家臣が秦の役人であれば給料は秦が払い、自分の家の使用人には自分で払う。兵士は秦の兵であり、私兵ではない。嫪毐も太原に領地を持ち、太后との関係を背景に、政権に匹敵する勢力を持っていた。

なお鶴間は、原泰久は爵位にはあまり関心がないのではないかと笑い、史料には五大夫などがよく出てくると付け加えた。将軍は戦争のたびに任命される職で、平時に何をしていたのかはよく分からないという。

49:22

任侠の絆と、始皇帝を支えた臣下たち

鶴間の著書『始皇帝の戦争と将軍たち』のテーマの一つが、この食客の問題だ。呂不韋や嫪毐の下には、任侠の徒である食客が大勢いた。しかし始皇帝のもとにはいない。では始皇帝は、そうした人間をどう把握していたのか。

鶴間は対比として劉邦を挙げる。劉邦は、彼のためなら命を投げ出してもよいという任侠の連中を集め、そのまま漢の中央官僚にした。任侠とは『史記』の「游侠列伝」に描かれる人々で、いわゆるヤクザの世界に近いが、ヤクザと訳すのは問題があるという。他人のために命を投げ出して尽くす精神が古代中国には強くあり、社会的な勢力として認められていた。暴力的な手段も伴っていた。かつて一橋大学の増淵龍夫は、この任侠的な人間の結びつきが、劉邦集団が漢王朝を作る基盤になり、皇帝と高官の関係は任侠的な関係だったと論じた。

始皇帝自身は任侠の徒を養っていなかった。それでも呂不韋や嫪毐がそうした人々を抱え、その知恵は秦に入っている。それがどこかで始皇帝を支えていたのではないか、と鶴間は考えている。3000人の食客も知識人ばかりでなく、武力などさまざまな得意分野を持つ者がいたという。

もう一冊の『人間・始皇帝』は、暴君としてではなく、秦王から皇帝になった人間としての側面を描いたものだ。『始皇帝の戦争と将軍たち』では、将軍や高官といった臣下と始皇帝の間に絆があったと論じている。始皇帝が亡くなると秦はたがが外れて分裂した。胡亥にはそれができなかったのだ。

高橋が始皇帝のカリスマの源を尋ねると、鶴間は、13歳で即位して呂不韋に育てられ、その知恵と李斯の策略を学び、臣下との関係をうまく築いたことを挙げた。意見を聞き、排除しなかった。上に良い話しか伝えない臣下がいると国は滅ぶが、始皇帝はそうしなかった。つまり聞く耳を持っていた、というのが鶴間の答えである。

54:33

不老不死の薬——崑崙山の刻石と徐福伝説

最後に高橋は、始皇帝が不老不死を求めて徐福を日本に派遣したという伝説は本当かと尋ねた。鶴間は「話し出したら何時間でも喋る」と前置きしたうえで、昨年、大発見があったと語った。

伝説では、東方の海には仙人の住む島があり、西には崑崙山があって、そこで西王母という女王が不老不死の薬を作っている。周の穆王は西王母を訪ね、楽しくて帰るのを忘れたという。始皇帝はこの伝説を知っていた。そして昨年、黄河の源流にあたる青海省の岩に37文字が刻まれているのが発見された。そこには始皇37年、つまり始皇帝が亡くなる年に、臣下が崑崙に行って薬を求めたことが記されていた。

鶴間は、当時50歳ほどの始皇帝が薬を求めていたことが事実として確かめられたと言う。不老不死の薬は、当時でいえば最先端の医学であり、伝説の世界の話ではない。標高4000メートルの高原で、さまざまな植物から薬を得ようとしたことが、ごく最近になって分かったという。

海の側の徐福については、どこかへ行って帰らなかったという伝説と、失敗して戻ったという伝説の二つがある。日本各地に残る徐福渡来の話は後世のものだと鶴間は見る。徐福は実在の人物で、命令を受けて薬を探していたと考えられるが、日本列島は大陸からの移民が作り上げた場所でもある。大陸で動乱が起きれば、多くの人々が文化を携えて渡ってくる。そうした移民集団が徐福をカリスマとして掲げ、自分たちは徐福の子孫だと称したのではないか、というのが鶴間の解釈である。

秦に滅ぼされた燕や斉の人々についても、鶴間は朝鮮半島に入った可能性が高いとし、日本に渡ってきたことも十分あり得ると述べた。後の時代に新羅が朝鮮半島を統一した際、高句麗や百済の人々が日本に渡ってきたことには証拠がある。秦の統一の際にも、燕や斉の人々が東へ逃れたことはあっただろうという。鉄器、青銅器、稲はすべて大陸から来ており、人が移動せずに物だけが来ることはない。漢字だけが歩いてくるわけではなく、日本に渡った中国の人々が集団を作り、その中で中国語を話す移民社会があちこちに生まれていた、というのが鶴間の考えだ。

ただ、これまで日本で見つかった文字は、土器に墨で書かれた墨書文字など、ずっと後の時代のものだ。秦の時代の字体の文字が日本で出てくれば面白い、と鶴間は言う。どこを掘ればよいのかと高橋が尋ねると、それは分からないという答えだった。燕の文字資料や楚の歴史書と同じく、この問いの答えも今後の発見を待つことになる。