将軍の年収、奴隷の身分、焼かれた六国の歴史——鶴間和幸が語る始皇帝の時代
ReHacQ−リハック−【公式】映画『キングダム』で中国史の監修を務めた学習院大学名誉教授の鶴間和幸が、ReHacQの高橋弘樹の質問に答えた対談である。前編の続きにあたり、高橋の素朴な疑問から話が広がっていく。取り上げられたのは、李信と王翦の楚攻め、『史記』が秦側の記録と民間伝承をどう組み合わせたか、焚書を逃れた楚の竹簡、出土した秦の法律文書と占いの書、李斯と趙高の最期と出自、兵士が敵の首を求めた理由、高官の年収、そして始皇帝が求めた不老不死の薬である。鶴間が一貫して示すのは、『史記』の記述だけでは見えなかった秦と周辺諸国の姿が、出土資料によって少しずつ明らかになっているという見方だ。
李信の楚攻めと王翦の慎重さ
鶴間はまず、楚という大国を攻めたときの逸話を紹介した。嬴政が楚攻めに必要な兵力を尋ねると、若い李信は20万で足りると答え、王翦は60万が必要だと答えた。嬴政は若い李信に任せ、20万で攻めさせた。しかし都の咸陽からの遠征では、楚に着くまでに兵士が疲れてしまう。李信の軍はあっけなく敗れたという。
そこで嬴政は王翦に頼むことになる。王翦は面白くなく、自分ではやりたくなかったが引き受けた。鶴間によれば、王翦が最初にしたのは兵士を休ませることだった。うまいものを食べさせ、しばらく休養させる。ただ戦争なので筋肉を落としてはいけない。兵士たちが石を投げるような運動を始めたのを見て、王翦はもう大丈夫だと判断し、楚を攻めて勝利した。
高橋が「史記を見ると李信はそれほど活躍していない」と指摘すると、鶴間も同意した。そのうえで、わずかな記述の李信を主人公にしてこれだけの物語を作り上げたのは、『キングダム』の作者・原泰久の功績だと述べた。書かれていないことが多いからこそ想像の余地がある、というのが二人の一致した見方である。統一後、李信は史料にまったく登場しない。ただ、子孫には漢の名将・李広がいる。李信から何世代か後の人物とされるが、その間をつなぐ資料がなかなか見つからないと鶴間は言う。
秦の簡素な記録と、司馬遷が加えた荊軻の物語
なぜ李信のような人物の資料が残らないのか。鶴間の説明では、司馬遷が参照した秦の記録は年代記のようなもので、ごく簡単にしか書かれていない。
その例として挙がったのが、燕の太子が送り込んだ荊軻による秦王暗殺未遂事件である。秦側の資料には、荊軻が事件を起こしたことしか書かれておらず、詳細はない。そしてこの事件をきっかけに燕を攻める口実ができ、将軍が燕を攻めた。ここまでが秦側の資料の内容だ。
一方で司馬遷は、戦国策系統の膨大な話を『史記』に入れた。任侠の徒である5人の刺客を扱った「刺客列伝」の最後に荊軻を置いている。荊軻は秦王と対面し、樊於期という将軍の首と、督亢という土地の地図を献上する。地図の中には匕首が仕込まれていた。秦王が地図を開いたところで荊軻はそれを取り出して襲いかかり、秦王は逃げる。秦王は剣を帯びていたが、長い剣なので抜けない。臣下が「背負いなさい」と声をかけ、背に回すと抜きやすくなって荊軻を斬りつけた。鶴間はこれを宮廷内の伝聞だとし、荊軻の側から秦王を襲った話が民間に伝わっていたものだと説明する。秦側には記録として残っていない話であり、司馬遷は秦側の記録と民間の伝承を両方載せているのだという。
荊軻が持参した首の主・樊於期について、高橋は『キングダム』の桓騎が最後に行方不明になり、燕に逃れて樊於期になったという説があったのではと尋ねた。鶴間はそれを否定した。『史記』で桓騎について分かるのは、10万人の首を取ったことくらいで、原はそこから独自の桓騎像を作り上げた。樊於期はまったく別の人物で、理由は不明だが秦のお尋ね者となって燕に逃げた。秦に残った家族は処刑されるので秦王を恨み、「俺の首を持っていけ」と言って暗殺を託した、という流れである。
言葉は通じたのか——話し言葉と共通の文字
高橋は、秦から遠く離れた楚や燕の人々がどんな暮らしをしていたのか、そもそも言葉は通じたのかと尋ねた。
鶴間によれば、戦国時代には国境を越えて動く人がかなりいた。呂不韋のように国際的な交易をする商人、戦地に赴く将軍、そして合従連衡を説いて各国の王のもとを回る外交家である。外交家たちは王と対話もしたが、基本的には文書で自分の意見を伝えた。文字は各国で形が少しずつ違っても共通しており、書かれたものは互いに理解できた。
話し言葉は別だ。鶴間は現代中国で北京語と広東語が通じないこと、上海語や四川語も異なることを挙げ、古代にも同程度の方言差があったのだろうと推測する。だからこそ書簡を交わし、意見を文書にして渡すことが、口頭の対話より重要だったのではないかと述べた。
焚書で失われた六国の歴史と、楚の竹簡
他国の暮らしが分かりにくい理由として、鶴間は焚書を挙げた。焚書は儒学の書物を焼いた事件として知られるが、他国の歴史書を焼いたことが一番重要だという。李斯の提案によるもので、滅ぼした六国の側の記録が残れば、秦の記録とはまったく別の世界が描かれてしまう。だから焼きたかったのだろう、というのが鶴間の見方である。
ところが近年、楚の竹簡が多数見つかっている。これらは戦国時代に地下に納められたもので、焚書とは関係なく残った。楚の文字は秦の文字と字の作りは共通しているが、字体が違い、鶴間の表現では「飛び跳ねたような」独特の文字である。
その中から、戦国時代に書かれた『老子』が出てきた。それまでは漢代の写本が最古だったため、大きな発見だという。文字にも違いがあり、例えば「海」は通常さんずいに「毎」と書くが、楚の写本では右側が「母」になっている。鶴間は、海を母とするほうが感覚的に分かりやすいと話した。
さらに最近、焚書で失われたはずの楚の歴史書そのものが出てきた。鶴間の専門ではないが、中国の研究者が鶴間らの夏の合宿で報告し、非常に面白いと感じたという。
小国を取り込んだ楚と、孔子の放浪
その報告から鶴間が注目したのは、楚が秦とは違うやり方で領土を広げたことである。
話は孔子にさかのぼる。楚の北には、周代以来の小さな独立国がたくさんあった。孔子は魯の役人だったがうまくいかず、弟子たちと13年間放浪した。訪ねた先は衛、宋、陳、蔡など、いずれも小さな独立国だった。『論語』を読むと、孔子はあまり歓迎されていない。それでも小国を回ったのは、大国の斉の政治が嫌いで、周の時代の政治の理想を小さな国で実現しようとしたからだ、と鶴間は解釈する。陳と蔡の間では、孔子が大国に行けば自分たちが危うくなると考えた人々に足止めされ、食料の援助も得られず難儀したことが『論語』にも記されている。
鶴間によれば、こうした小国は独立した経済を持ち、諸子百家の多くもそこで生まれた。老子は楚ではなく小国の人間であり、墨子は宋に仕えたが大国を嫌った。荘子も同様に小国から出ている。中国古代にあらゆる哲学が現れたのは、小国同士が競い合って文化を高めたからだ、というのが鶴間の考えである。
楚はそうした小国を狙った。最初の都・郢は秦の白起に占領され、楚は陳という小国を新たな都にした。さらに嬴政の時代になると、秦の脅威を避けて寿春に都を移す。寿春はもともと蔡の都だった。つまり楚は、文化の高い独立小国群を次々に取り込んでいったことになる。
ここで「郢」という字が問題になる。従来は、楚が陳に遷都すれば「陳郢」と呼ぶように、郢は都を表す言葉だと理解されてきた。ところが今回の歴史書では「〜郢」という地名が大量に出てきた。楚が小国を取り込んだ際に、そうした都市群を郢の名で呼んだのではないか、と鶴間は考えるが、これはまだ定説ではないと断っている。
対して秦は、白起が郢を占領すると南郡という占領軍を置き、そこを拠点に東方の国々を攻めた。取り込み方がまったく違う。秦側の資料だけでは見えなかったこうした違いが、竹簡によって少しずつ分かってきたという。
楚の統治体制について、鶴間は丞相に当たる職を令尹と呼んだと説明した。始皇帝の在位中に一度だけあった合従軍は、楚の考烈王と令尹の春申君が組織したもので、函谷関の戦いの後、咸陽に近い蕞まで攻め込んだ。原が大きく描いた場面である。こうした楚の側の歴史書がもっと出てくれば面白い、と鶴間は期待を語った。
文字資料が見つからない燕
日本に近い燕については、文字資料がまだ出ていない。燕の都は現在の北京にあり、その上に北京の街があるため発掘は難しい。一方、荊軻が旅立った下都は易県という郊外にあり、城壁が残って発掘も進んでいる。青銅器や人物像は出ているが、文字資料は見つかっていない。
燕に文字がなかったわけではなく、まだ発見されていないだけだと鶴間は言う。秦が占領して回収し焼いたのなら出てこないが、どこかの官僚の墓に竹簡が納められていれば出てくる可能性がある。考古学の発見は偶然に左右される、というのが鶴間の答えだった。
秦の法律文書と「日書」——法と占いの両立
秦の文字資料は、都の咸陽からはあまり出ていない。出てきたのは、南郡の下にある県の役人の墓からで、最初に約1100枚の竹簡が見つかった。その多くが法律文書だった。
鶴間によれば、当時の中国では、秦は法によって統一を果たしたという評価があり、法律文書の出土は大きな驚きをもって受け止められた。ところが同じ墓から「日書」という竹簡も出てきた。これは占いの書である。「日」はカレンダーを指し、十干十二支をもとに、役人が赴任するのに良い日か、宮殿に参上するのに良い日かといった吉凶を判断する。
面白いのは犯罪捜査に関する占いだ。法律文書には窃盗の処罰方法が書かれている。一方、日書には、役人が窃盗や殺人の現場を調べる際、その日の干支から犯人を占う方法が書かれている。例えば子(ネズミ)の日なら、犯人の名前にはこういう字が入り、顔にはひげがある、といった具合だ。高橋が「とんでもない捜査だ」と笑うと、鶴間は、この占いの書は当初、毛沢東の時代には発表されなかったと明かした。
鶴間はこれを矛盾とは見ていない。当時の地方行政では占いも法律も重視され、両方を天秤にかけて運用していたのではないかという。高橋が冤罪が多そうだと言うと、鶴間も多かっただろうと認めつつ、裁判はきちんと行われていたと付け加えた。
李斯の裁判と「黄色い犬」の遺言
裁判の話から、李斯の最期に移った。趙高が問題にしたのは、李斯の息子・李由である。李由は洛陽の三川郡の長官だったが、陳勝・呉広の反乱軍の通過を阻止できなかった。当時は連座が普通だったため、責任は父の李斯に及び、趙高は極刑だと判断した。李斯は二世皇帝に訴え、自らの「7つの罪」を告白した。だが実際には、それは自分の功績を並べた自慢話だったという。
鶴間は李斯について「書き出したら一冊書ける」と言う。『史記』には李斯の発言が数多く残っている。13歳の秦王に帝王学を授け、成長する王に東方の国々をどう滅ぼすべきかを進言した。これらを集めれば「李子」という書物ができるほどだが、処刑されたこともあって、まだ誰もまとめていない。集めて読むと、李斯自身も成長していることが分かるという。
最期の言葉も印象的だ。処刑を前に李斯は息子に、故郷の上蔡の東門で、息子と一緒に黄色い犬を連れて兎狩りをしたかったが、もうかなわない、と語ったと『史記』にある。蔡は都を三度移しており、上蔡はその最初の地だ。鶴間によれば李斯は楚の人間ではなく、楚に滅ぼされた蔡の文化を持つ上蔡の人だった。
鶴間は実際に上蔡を訪ねている。古い城壁が残り、李斯の墓とされるものもあるが、本物かどうかは分からない。鶴間の解釈では、小国では東門に人々が集まって行事を行っており、犬を連れた兎狩りはそうした行事の一つだったのではないか。なぜ黄色い犬なのかは説明できないとしたうえで、李斯は故郷に帰りたいという思いを語ったのだろうと述べた。結局は極刑となり、息子も処刑されたと考えられる。
趙高は宦官ではなかった——奴隷の子が皇子の家庭教師に
統一の最大の功労者である李斯を処刑に追い込んだ趙高について、鶴間はいくつもの通説を覆した。
まず、司馬遷は趙高の列伝を立てていない。趙高ほどの人物なら単独の列伝があってもよいが、その経歴は李斯列伝と蒙恬列伝の中に挟み込まれている。李斯の最期を説明するには趙高の話が欠かせないからだ。鶴間は、司馬遷が趙高を悪役に仕立てたのではないかと見る。
趙高は趙の出身だ。秦が趙を攻めた際に親が捕虜となり、奴隷として咸陽に連れて行かれた。奴隷でも都で生活し、結婚もできたため、そこで生まれたのが趙高だった。
後世の人々は趙高を宦官とみなしてきたが、鶴間はこれを誤読だとする。出土資料には「宦皇帝」という言葉が多く出てくる。この「宦」は皇帝に仕えるという意味の動詞で、普通の役人と違い、皇帝のもとへ自由に出入りできる者を指す。その名簿が「宦籍」で、ここに名があればいつでも皇帝に会えた。『史記』にある趙高が宦籍に入っていたという記述を、去勢された宦官の名簿と解するのは誤りだという。宦官が政治的勢力を持ったのは後漢、唐、明の時代であり、その時代の人々が、母が奴隷であったことなども踏まえて趙高を宦官として描いてしまったのだろうと鶴間は説明する。
では奴隷の子がなぜ出世できたのか。鶴間は、そこが秦の面白いところだと言う。趙高は学識が高く法律に通じていたため、皇子・胡亥の家庭教師になった。さらに最近の出土資料によれば、趙高はもともと「隷臣」という奴隷身分だったが、普通の庶民の身分に変わっていた。『史記』には書かれていないことで、始皇帝が認めたのだろうと鶴間は見ている。
背景には秦の奴隷制度がある。生涯奴隷のままという場合もあるが、罪を犯して奴隷になった者が、一定期間国のために労働すれば庶民に戻れる仕組みもあった。高橋が良心的な制度だと言うと、鶴間は「奴隷制度の中では」と留保をつけた。
敗者の運命と、孟子の反戦思想
戦争に負けた側の人々はどうなったのか。鶴間によれば、兵士は捕虜になるか殺されるかで、捕虜になれば奴隷になることが多かった。奴隷は都づくり、陵墓づくり、長城づくりなどに使われた。一般の農民を駆り出すより、罪を犯した者のほうが24時間使えるからだ。過酷ではあったが、罪を償えば庶民に戻れた。
民間人については資料が少なく、奴隷にされたケースもあるとしか言えないという。ここで鶴間は、今後取り組みたいテーマとして孟子を挙げた。孟子は反戦的で民を中心に考える思想を持ち、君主は民を飢えさせてはならない、戦争をしても敵地で民の財産を奪ってはならない、民を殺してはならないと説いた。高橋が、そう言うということは実際には民が巻き込まれていたのだろうと指摘すると、鶴間は、それは現代と同じく難しい問題だとしつつ、占領されて殺されることは当然あっただろうと答えた。
戦死者の規模も分かりにくい。桓騎が10万の首を取ったという記述も、その全員が兵士だったのかは分からず、『史記』には桓騎の功績として書かれている。農民が戦争に駆り出された証拠として、鶴間は兵馬俑を挙げた。職業軍人は冠をかぶり、一般の兵士は髷を結っているだけだ。後者は駆り出された農民であり、彼らも戦争の被害者として亡くなっていったと述べた。
兵士はなぜ城壁に突撃したのか——首1つで爵位1つ
高橋は、『キングダム』の城攻めで兵士がはしごをかけて突撃する場面を挙げ、死ぬと分かっていてなぜそんなことができたのか、あれは奴隷兵士なのかと尋ねた。鶴間の答えは、普通の兵士がやっていた、というものだった。秦の兵士が統一のために戦っていたかは疑問だとしたうえで、上層部が兵士を動かすために用いたのが爵位だと説明する。
当時の爵位は20ランクあり、一般の庶民は下から8番目までしか上がれない。敵の首を1つ取れば爵位が1つ上がる。8番目に近づくと、田畑が与えられるほか、罪を犯したときに爵位で罪を償える。自分の一族が罪を犯した場合にも減刑に使えた。爵位は個人に与えられるが、田畑は家のためになる。だから兵士は家のために首を求めたのだ、と鶴間は言う。高橋が、1回の戦争で3つ首を取れば3ランク上がるのかと確認すると、鶴間はそうだと答えた。ただし、首1つで爵位1つという点について、鶴間は資料があまりないとも述べている。
首を持ち帰って褒賞を得ることが実際にあった証拠として、鶴間は竹簡の裁判文書を紹介した。敵の首を1つ役所に持ち込んだ2人が、自分が取った首だと争った。役人は2人を取り調べ、どんな状況で、どこを斬ったのかを尋ねている。こうしたいざこざは事実としてあっただろうという。
爵位を持たない者も庶民であり、その下に奴婢がいる。8番目より上には、地方や中央の官僚として出世する道がある。最高位の20番目は列侯(徹侯)で、領地を与えられる。呂不韋がこれに当たり、その上は皇帝しかいない。19番目は関倫侯で、函谷関の内側を意味する名だ。領地を持っていたのか、名前だけの爵位だったのかには議論がある。始皇帝の巡行で建てられた刻石に臣下の名が刻まれており、そこにある「倫侯」が関倫侯に当たると言われている。
呂不韋の年収と3000人の食客
高橋は「下世話な話」と断りつつ、呂不韋や李斯、王翦の年収を尋ねた。鶴間によれば、中央の最高位である丞相や御史大夫らの俸給は穀物で換算され、1万石だった。ここでの「石」は重さの単位で、1石はおよそ30キロである。日本でも米は5キロ単位で買い、炊くときは合で量るように、当時も穀物を重さと容量の両方で量ったという。つまり1万石は年に30万キロの穀物になる。
高橋はその場で、米5キロ3000円として計算し、30キロで1万8000円、年収54億円になると驚いた。鶴間は「そんな換算をする人はいない」と笑いながらも、米価で換算すればという前提で受け止めた(なお、この前提どおりなら1万石×1万8000円で約1億8000万円になり、54億円という数字は番組中の計算の取り違えと見られる)。その下のランクは2000石で、九卿がこれに当たる。統一時の李斯は法務長官にあたる廷尉で、2000石だった。高橋は李斯の年収も億単位になると感心していた。
ただ、呂不韋の収入は俸給だけではない。呂不韋は、かつて周の都があった洛陽に領地を持ち、そこの税収も得ていた。一方で、3000人の食客を養わなければならなかった。食客は兵士ではなく、館と食料を与えて生活させる代わりに知恵を提供させる存在で、その成果が『呂氏春秋』のような書物になったと鶴間は説明する。家臣が秦の役人であれば給料は秦が払い、自分の家の使用人には自分で払う。兵士は秦の兵であり、私兵ではない。嫪毐も太原に領地を持ち、太后との関係を背景に、政権に匹敵する勢力を持っていた。
なお鶴間は、原泰久は爵位にはあまり関心がないのではないかと笑い、史料には五大夫などがよく出てくると付け加えた。将軍は戦争のたびに任命される職で、平時に何をしていたのかはよく分からないという。
任侠の絆と、始皇帝を支えた臣下たち
鶴間の著書『始皇帝の戦争と将軍たち』のテーマの一つが、この食客の問題だ。呂不韋や嫪毐の下には、任侠の徒である食客が大勢いた。しかし始皇帝のもとにはいない。では始皇帝は、そうした人間をどう把握していたのか。
鶴間は対比として劉邦を挙げる。劉邦は、彼のためなら命を投げ出してもよいという任侠の連中を集め、そのまま漢の中央官僚にした。任侠とは『史記』の「游侠列伝」に描かれる人々で、いわゆるヤクザの世界に近いが、ヤクザと訳すのは問題があるという。他人のために命を投げ出して尽くす精神が古代中国には強くあり、社会的な勢力として認められていた。暴力的な手段も伴っていた。かつて一橋大学の増淵龍夫は、この任侠的な人間の結びつきが、劉邦集団が漢王朝を作る基盤になり、皇帝と高官の関係は任侠的な関係だったと論じた。
始皇帝自身は任侠の徒を養っていなかった。それでも呂不韋や嫪毐がそうした人々を抱え、その知恵は秦に入っている。それがどこかで始皇帝を支えていたのではないか、と鶴間は考えている。3000人の食客も知識人ばかりでなく、武力などさまざまな得意分野を持つ者がいたという。
もう一冊の『人間・始皇帝』は、暴君としてではなく、秦王から皇帝になった人間としての側面を描いたものだ。『始皇帝の戦争と将軍たち』では、将軍や高官といった臣下と始皇帝の間に絆があったと論じている。始皇帝が亡くなると秦はたがが外れて分裂した。胡亥にはそれができなかったのだ。
高橋が始皇帝のカリスマの源を尋ねると、鶴間は、13歳で即位して呂不韋に育てられ、その知恵と李斯の策略を学び、臣下との関係をうまく築いたことを挙げた。意見を聞き、排除しなかった。上に良い話しか伝えない臣下がいると国は滅ぶが、始皇帝はそうしなかった。つまり聞く耳を持っていた、というのが鶴間の答えである。
不老不死の薬——崑崙山の刻石と徐福伝説
最後に高橋は、始皇帝が不老不死を求めて徐福を日本に派遣したという伝説は本当かと尋ねた。鶴間は「話し出したら何時間でも喋る」と前置きしたうえで、昨年、大発見があったと語った。
伝説では、東方の海には仙人の住む島があり、西には崑崙山があって、そこで西王母という女王が不老不死の薬を作っている。周の穆王は西王母を訪ね、楽しくて帰るのを忘れたという。始皇帝はこの伝説を知っていた。そして昨年、黄河の源流にあたる青海省の岩に37文字が刻まれているのが発見された。そこには始皇37年、つまり始皇帝が亡くなる年に、臣下が崑崙に行って薬を求めたことが記されていた。
鶴間は、当時50歳ほどの始皇帝が薬を求めていたことが事実として確かめられたと言う。不老不死の薬は、当時でいえば最先端の医学であり、伝説の世界の話ではない。標高4000メートルの高原で、さまざまな植物から薬を得ようとしたことが、ごく最近になって分かったという。
海の側の徐福については、どこかへ行って帰らなかったという伝説と、失敗して戻ったという伝説の二つがある。日本各地に残る徐福渡来の話は後世のものだと鶴間は見る。徐福は実在の人物で、命令を受けて薬を探していたと考えられるが、日本列島は大陸からの移民が作り上げた場所でもある。大陸で動乱が起きれば、多くの人々が文化を携えて渡ってくる。そうした移民集団が徐福をカリスマとして掲げ、自分たちは徐福の子孫だと称したのではないか、というのが鶴間の解釈である。
秦に滅ぼされた燕や斉の人々についても、鶴間は朝鮮半島に入った可能性が高いとし、日本に渡ってきたことも十分あり得ると述べた。後の時代に新羅が朝鮮半島を統一した際、高句麗や百済の人々が日本に渡ってきたことには証拠がある。秦の統一の際にも、燕や斉の人々が東へ逃れたことはあっただろうという。鉄器、青銅器、稲はすべて大陸から来ており、人が移動せずに物だけが来ることはない。漢字だけが歩いてくるわけではなく、日本に渡った中国の人々が集団を作り、その中で中国語を話す移民社会があちこちに生まれていた、というのが鶴間の考えだ。
ただ、これまで日本で見つかった文字は、土器に墨で書かれた墨書文字など、ずっと後の時代のものだ。秦の時代の字体の文字が日本で出てくれば面白い、と鶴間は言う。どこを掘ればよいのかと高橋が尋ねると、それは分からないという答えだった。燕の文字資料や楚の歴史書と同じく、この問いの答えも今後の発見を待つことになる。
下世話な話で申し訳ないですけど、王翦とか李信とか、年収いくらぐらいだったんですか?
穀物で換算するんですよ。これはね。すごいじゃないですか、これ年収。
始皇帝の前にいる臣下ですね。これは将軍であったり、高位高官であったりで、その間に僕は絆があったと。その関係を論じてる。
『キングダム』読んでると、城攻めの時とか、はしごかけて、うわーって攻めてくじゃないですか。あんなの確実に死ぬって分かってて突撃してるじゃないですか。なんでそんなことするんですか? あれは奴隷兵士がやってんですか?
普通の兵士がやってます。どういうメンタルでやってんですか、それは? 首を一つ取ったら爵を一つ与えてくれる。爵っていうのは、当時20ランクの爵位が。一般の庶民が下から8番目ぐらいしか、それ以上上がんないんですけど。
8ぐらいに行くと何が違うんですか、それ? 恩恵を与えられます。例えば田畑を与えられます。畑がもらえて。どんな恩恵があるんですか、畑と。恩恵は。
日本との関係で言うと、永遠の命を求めて徐福さんを日本に派遣したみたいな伝説あるじゃないですか。あれは本当なんですか?
徐福っていうのは不老不死の薬をね。東方の海を渡って、後世、日本に行ったかもしれない。ところがね、これ去年大発見があって。黄河の源流の岩にですね、37の文字が発見されたんです。そこに、37年、始皇帝が亡くなる年にそこに行って。
気になる、気になる。
今日は中国古代シリーズですね。春秋戦国時代と秦の始皇帝ということで、歴史学者でもいらっしゃいまして、学習院大学名誉教授の鶴間和幸さんにお越しいただきました。よろしくお願いします。
楚という大国を攻める時の話。嬴政は楚を攻める時に、どれだけの兵力が必要かと。李信は20万でいいよって。一方の王翦は60万必要だ。嬴政はもう若い彼に任せて、20万でやったわけです。ところが遠征でしょ、都の咸陽から。楚っていうのは途中で兵士が疲れちゃいますよね。簡単に敗北したんです。
王翦が面白くないわけですよ。自分はやりたくないんだけど、嬴政が頼むわけですよね。まずやったことは兵士を休ませるってこと。おいしいものを食べさせて、それでしばらく休養させるんです。戦争ですから、筋肉がそげちゃうといけないんで、例えば砲丸投げしたりですね、運動を始めるんです。それを見て、もうこれはいいだろうと。楚を攻めて勝利したんです。
『史記』とかに記述されてることだけ見ると、別に李信ってそんな活躍してないですよね。してないですね。原先生に悪いんですけど。でもやっぱり、そう取り上げた李信っていう信をね、これだけのストーリーで作り上げたのは原先生のおかげです。
そうですね。逆に分かんないところが多いから、物語の主人公としては想像の余地がある。書かれてないってことは何かあったかもしれないですからね。
統一した後は、もう李信は全く登場しないですね。殺されてですかね? だから史料がないんですね。ところが、その子孫に李広という将軍がいるんです。これが名将軍なんですけど、どうも信の何世代か後なんだという。
間に将軍がいるんですね。それを探っていくと面白いんですけど、史料がなかなかないので。そこの間は分かんないんですか? その間がなかなか分からない。
李信もなんでその後、史料が出てこないんですか? 大した活躍してないんですか? そもそも秦の記録っていうのは簡単なんです。司馬遷が見ていた記録っていうのは、秦の側の記録ですよね。ある年代記的なもので、これは秦の記録で『秦記』って言うんですね。それは非常に簡単なものなんですね。
ところが、例えば一つの例を挙げると、始皇帝、秦王は、燕の太子が派遣した荊軻によって暗殺未遂事件が起きますね。あれ、原さんは描いたかな? まだ描いてない。荊軻ですか? 荊軻は出てこないですよ、まだね。出てこないんじゃないかね。
荊軻に関しては、秦の側の史料だと、要するに荊軻が事件を起こして、詳しいことは何も書いてないです。それをきっかけに、燕を攻める口実ができたんですね。将軍が燕を攻めるんです。それは秦側の史料です。
ところが司馬遷は、荊軻について膨大な史料、これ『戦国策』による話を入れたんですね。しかも、荊軻列伝じゃなくて、刺客列伝っていう任侠の徒を扱った、5人の任侠の徒の最後に荊軻を入れたんです。これが面白いわけ。
秦王と対面してね、樊於期という将軍の首を持って献上して、督亢というところの地図を献上して、その中に匕首を入れてね。秦王が開いた時にこれを取り出して襲ったと。襲って秦王は逃げるわけです。
秦王は帯剣で刀は持ってるんですね。ここは長い刀なので抜けない。臣下が「陛下、最初はこうですから背負いなさい」と。そうすると抜きやすいんですよね。それで荊軻を切りつけたっていう、非常に詳しい話があって、これは伝聞ですね。
これは先ほど言った荊軻の側から、秦王をとにかく襲ったという話が民間には伝わっていた。これ、秦側にはそれを記録としてはないと。両方、司馬遷は載せてるんです。
あれ、誰の首でしたっけ、持ってった首? これ樊於期。だから僕も調べたんですよ。最近の『キングダム』が気になってた時、なんでしたっけ? 秦の将軍です。六将のうちの一人みたいな人がそっち……。樊於期は出てきましたっけ? 樊於で、なんだっけ、任侠みたいな将軍、一人いたの誰だっけな。王じゃなくて、もう一人すげえ残虐な。桓騎。
桓騎をまた話すと面白いんですけど。桓騎も面白いんですよね。最後、消息不明になって、燕に逃げたんじゃないかみたいなのありませんでしたっけ? 樊於期になったみたいな。それはないです。樊於期になったか。
桓騎は桓騎で、原さんといろいろ話をして。『史記』では桓騎は10万人の首を取ったという。それを元に、原さんはちょっと任侠の桓騎を作り上げたんですよ。それがだいぶファンが多いんですけども。
桓騎は歴史の史実としてはどんな人だったんですか? 今言った、10万の首を取ったっていうところぐらいです。虐殺した。でもそれぐらいしか載ってないんですか? だからよく分からない。そうなんだ。じゃあ、そんな活躍してた人じゃないのか。10万人取ったわけですから。秦としては強かったんですよね。
それで先ほどの樊於期の首は、また別の人間で。樊於期は理由は分からないけども、お尋ね者になって逃げたわけですね。燕の国に入ったと。彼も自分の家族が秦の国で、やっぱり犯罪者であれば処刑されちゃうわけだから、恨みを持つわけです、秦に対して。「俺の首を持っていけ」と。そういう話になります。それで暗殺してくれと。
すごい話ですよね。今の話をお聞きしてて気になってきたのは、『キングダム』の世界でも描かれてるし、秦のことはやっぱり伝説がいっぱい残ってるから分かってきたけど、その時の他の国はどんな生活してたんですか? まず言葉が通じたのか。楚とか、趙は隣か分かんないですけど、燕とかって随分離れてるじゃないですか。北京のですね、燕って。言葉とか通じたのかとか。
一つは戦国時代っていうのは、人の行き来が随分あったんです。そうですか? 特定の人間かもしれません。一つは例えば商人ですね。呂不韋なんか国際貿易をやったんです。それから将軍たちは戦地に行くわけですから。それから外交ですね。合従連衡のね、彼らはいろんな王のところに行って、自分の合従連衡の説を告げるわけですね。
そこで対話はするんだけど、基本的にやっぱり文書で、その王に自分の意見を伝えるんですね。だから文書っていうのは共通なんです、文字はね。ですから書かれたものはお互いに共通だと。これを言葉で説明したら、多分その方言の差っていうのは大きいと思うんですね。
じゃあ、話し言葉は結構通じなかったんですか? 今は、例えば中国は北京語が、北京音が標準語になってますけども、それこそ広東語と北京語では通じないです。通じない。そんくらいの差はあったんですかね? あったんでしょうね、話し言葉がね。広東語と中国語は全く違いますしね。上海語も違いますし、四川語も違いますしね。
だからそういう話し言葉の差っていうのは当然古代にもあったけど、でも共通する文字があるから、文字の形が若干違うんだけども、だんだんお互いに分かる形になってきます。
じゃあ、筆談みたいな感じだったんですか? そこですね。だから書簡を交わしたり、王に対して外交家が自分の意見を言った時には、やっぱり文書にしてそれを渡しますよね。ですから、全くの言葉だけの対話よりは、それがやっぱり大事だったんじゃないですかね。
どんな生活をしてたのか、楚とか燕とか、離れた国々。どう、気になる。これを先ほど言ったように、秦側の史料を元にして。焚書の令が出されたので、他の国の歴史書を全部焼いたんですね。
焚書っていうのは儒学だけじゃなくて、他の国の歴史を焼いちゃったんですか? これが一番大事です。あいつ何なんですか、焼いちゃったんですか、始皇帝様。李斯が。例えば戦争して、六国の側の史料が残ったら、全く別の世界が描かれてるわけじゃないですか。それをやっぱり焼きたかったんですよね。
焼きたかったのか。それ、どこにも残ってないんですか? それが近年、簡で出てきてるんですよ。他の国のこと知りたいです、私は。それで最近出てきたのは楚なんですね。その時代の簡の文字がたくさん出てきて。どんなこと書いてますか?
これ、焚書以前に、要するに戦国時代に地下に入れてますから、これは焚書とは関係なしに地下に残されていて。ここに問題が。気になる、気になる。それで楚の文字で書かれてるんですね。形も違います。
まず文字が違うんですか? どんな感じなんですか? 漢字なんですか、そもそも。漢字っていうのは漢民族の漢ですから、当時の文字っていうのは楚の文字であり、秦の文字なんだけども、形は違うんだけど、文字の作りは共通してますね。字体がちょっと違うと、非常に飛び跳ねたような独特な文字なんですけど。
そこに、例えば我々が知っている老子。老子という諸子百家の書物がありますよね。今までは漢の時代の老子が一番古かったんだけど、楚の時代の人たちが書いた老子の文章が出てきましたね。これは大変と。
何が違うんですかね? 例えば文字が違うんですけれども、若干の文字の異同がありますね。それは面白い。例えば、海という字だったかな。海という字は、さんずいに毎日の毎を書きますよね。その文字だと、左側は日の出の日を書いて、右側に母なんですね。日の出の日ですよね。それが母なんですね。全然違うじゃないですか。
だから海は母だって、これはなんとなく分かるんですけど、毎よりは母の方が分かりやすいんですけど。そんな文字の作りでちょっと違うとかね、それはあります。それは老子なんです。老子っていうのは元々楚の人間ですから。楚にいたんですね。楚にいたんです。
そういうものはいいんですけど、最近出てきたのは、焚書坑儒で六国の歴史書を焼いたというんだけど、その歴史が出てきた。気になる。これは私、専門じゃないんだけど、たまたま中国の先生が我々の夏の合宿に来て報告してくれて、私すごく面白いなと思ったんです。
その歴史って今まで一切分かんなかったわけですよね? 『史記』の中に楚世家っていうのがあって、分かるんですけど、楚っていうのはすごく面白い国で。そこで、その先生の話を聞いたのは、楚っていうのは大国なんですけども、秦とはちょっと違うやり方で自分の領土を広げていくんですね。
どんなやり方? その北には、話せば長いんですけども。長くていいです。春秋時代の小さい国がたくさんあったんです。なんか『キングダム』内も出てきますね、そんなのね。それは僕、関心を持って。
例えば孔子は春秋の末の人ですよね。孔子は魯の役人だったんだけども、どうもうまくいかないんで、弟子と一緒に13年間放浪するんですよ。彼が放浪した行き先は全部、小さい独立した国なんですね。衛であったり、曹であったり、曹操の曹であったり、それから陳であったり、草冠にお祭りと書いた蔡であったりね、そこをずっと回るんですね。
『論語』を読んでいても、あんまり歓迎されてないんです。ところが歓迎されてないのになんで行ったのかって、それは彼の理念があって、大国の斉が嫌いなんですね。斉の景公と、いわゆる政治を巡って議論するんですけど、貴族たちの争いがありますから、そこを出ていくわけですね。自分の理想が、周の時代の政治の理想を、こういう小さい国で実現しようと思って行ったんですね。
思って行ったんですけれども、陳と蔡の間で、やっぱり食料の援助がないと回れませんからね。今まであったんだけど、彼らはね、孔子が楚という大国に行ったら、これは俺たち危ないと、楚にやられてしまうと。だから食い止めるんです。食い止めたことが『論語』にもあるんです。一番大変だったのは、陳と蔡の間で自分たちは災難に遭ったということを書いたんです。
これはよく考えると、やっぱり孔子は大国が嫌なんです。楚はあんまり出てこないんですけども、斉の国にですね。それを嫌いで、やっぱり小国。小国っていうのは独立して、経済もあり、すごく面白いんですね。
それで先ほどの話になると、楚っていうのはそういう独立したところで、諸子百家はみんな生まれてるんです。何? 諸子百家。先ほどの老子は楚の人間じゃなくて、陳の人間なんです。小国の人間なんですね。陳の人間、老子。
それから墨子。墨子は宋の、宋で自分が動いたと、宋の国に仕えるわけです。楚が嫌いなんですね、大国がね。だから孔子は、いわゆるそういうふうに小国を巡りますよ。老荘の荘子っていうのは、老荘思想の荘子。荘子も大体そういう小国から生まれてるんです。
僕はやっぱり中国の古代の哲学があれだけ、あらゆるものが出てきたっていうのは、小国同士っていうのはお互いに競い合って、文化を高めるんです。そこで生まれたんだと。そういうところを楚は狙ってるわけです。
楚は最初は郢というところに都を持ってたんですけど、秦の白起将軍がそこを占領して、移るわけです。移っていった先は陳なんですね。陳という小国を自分の都にしちゃうんです。これも秦が攻めてくると危ないっていうんで、これはもう始皇帝の嬴政の時代ですけど、寿春というところに最後の都を移すんです。これは蔡という国の元の都なんです。
だから楚は、その非常に独立して文化の高い小国群を全部取り込んじゃうんです。その時に、最初の都を郢と言うんですね。郢っていうのはすごく難しい字を書くんですけど。口を書いて、人偏を書いて、大という字を書くんですけども。これ、郢って言うんですね。
これは今までの説だと、例えば陳に移ったら、陳郢という名前を付けるわけです。つまり都を表す言葉なのかなっていうね。そういうふうに理解してたんです。ところが最近、その歴史が出てきて、その先生が報告してくれたら、この郢っていうのがたくさん出てきたんです、地名が。
そうなんだ。楚はそういう小さな国々を自分のものにした時に、もしかしたら、これまだ定説ではないんですけど、この郢という言葉で、そういう小さな都市群を命名したのかなっていう。郢って、この口に人で大ですか? この郢。だから、なんとか郢という地名がたくさん出てきたんです。
それが陳郢とか。陳郢はこれ都ですから、陳郢はいいんです。これは出土史料に貨幣があって、そこに郢が出てくる。これを元に、楚が都を移したら、その都を移した地名に郢を付けてる。これは普通、我々は理解してたんですけど、どうも出土史料だと郢がふわっと出てきた。なんとか郢、なんとか郢っていうの。
だから僕は、そういう楚がね、秦とは違ってそういう国々を取り込むわけです。秦は違うんですね。秦は例えば白起がその都を占領しますよ、最初のね。ただ南郡という郡を置くんです。これ占領軍です。南郡を置いて、そこを拠点に東方の国々を攻めていくんです。だからちょっと楚のやり方とは違う。
これが新しいね。今まで秦側の史料から見てたけども、楚の簡によって、楚の歴史も少しずつ分かるようになった。気になる。どんな支配体制で、丞相が、将軍がいてみたいなのは同じだったんですか?
それもよく分からない。将軍はいますよね。例えば丞相は令尹って言うんですけど、そういう丞相に当たるものはいますよね。でも呼び方違うんですか? 違います。令尹って言うんですか。
それこそ『キングダム』の合従ね。あれは始皇帝の治世中、唯一の合従が秦王の時なんですね。これ一回しかないんですけど。その時に、将軍たちの軍隊と、それから楚の考烈王が組織した軍隊が入って、両方から入ってくるんですね。
今度の映画は函谷関の戦いですけど、その後は都を攻められるんですね。都の咸陽近くの蕞というところ。蕞の戦いって原さんも随分描きましたけど。それを組織したのが考烈王であり、それから楚の丞相ですね、令尹ですよ。そこで楚が全面的に出てくるんですけどもね。
そういうことは書いてあるんだけど、やっぱり楚の歴史書がもっと出てくると面白いかなと。燕は何か出てきてるんですか? 燕は日本に近いじゃないですか。
燕は文字はなくて。燕は文字持ってないんですか? 燕は都が今の北京に、一番の都があったんですね。それから荊軻が旅立つ時は、武陽という、下都と言うんですけども、易県というところに。そこは郊外なんで、ちゃんと城壁が残ってます。それは発掘されてます。
都の北京の下には、薊という都があったんで、それはもう全く……発掘できませんよね。だから下都の場合には城壁もあり、そこから例えば青銅器が出てきたり、こんな人物像が出てきたりしてますけど、文字史料がなかなか出てこない。
なんでなんですか? 文字なかったんですか? ないことはないですね。だからまだ発見されてない。これから出てくるんですかね? どこからか出てくるかもしれませんね。だからロマンがありますね。全く分かってないけど、『史記』みたいに秦側からのとか、そっちから、燕が書いた歴史書はもう焼かれちゃったか、出てきてないですもんね。
要するに回収して、もし秦がそういう史書を、占領して回収してそれを焼いたんであれば出てこないけど、でもどこかのお墓の中に入れてる。官僚とかのお墓に竹簡とか残ってたら出てくるんですね。早く掘り返してほしいですね。それはこれから偶然ですね、考古っていうのはね。
なんで1974年以降、出てきたんですか? 秦はね、都の咸陽から文字史料はあんまり出てこないです。それは南郡を置きますよね。先ほど白起が楚の都を占領して、そこに南郡を置くんです。南郡の下に県があるわけですね。その県の一つの役人の墓が発見された。
だから地方の県レベルの役人の墓から、竹簡が大量に、最初1100枚ぐらい出てきたんですけど。それが法律文書ですよね。これは先ほどの話に戻ると、中国の人はみんなびっくりして、手をたたくわけです。だって、法闘争でね、法によって秦が統一したんだという偏見を持ってるわけじゃないですか、文革の時にね。それで法律文書が出てきた。
ところが面白いのは、その地方の役人のお墓から、もう一つの『日書』というね、日日の日に書物の書という簡が出てきたんです。これは占いなんです。占いが出てきた。日っていうのはこれカレンダーですから、カレンダーによって、今日は役人が赴任するのは日がいいか、今日宮殿に行くのはいいか。それをカレンダー、当時の十干十二支で吉凶を見て行動するんですね。
法律文書の中には、例えば窃盗したらどうやって罰するって書いてあるんですね。『日書』の中には、役人が調べるわけです、窃盗事件、殺人事件。この現場を見て犯人探しを占いするんですよ。占いですか、犯人、殺人犯。今日は何の日かと。今日は干支で言うとネズミの日。きっと今日の犯人は、名前はちょっと意訳するとチュー吉。
チュー吉。子の日だから。とんでもない捜査班ですね。顔はちょっとひげが生えてないというようなことを書いたんです。
そうすると、一人の役人の墓に、いわゆる法律文書が出てきて、みんな中国の人は、秦の時代はこれだけ法治国家なんだと。でも一方で占い文が出てきて。全然駄目じゃないですか。それを発表しなかったんです、毛沢東の時。後にこれは報告して、我々は読めますけど。
そうすると、考えてみると矛盾するんじゃなくて、当時の地方の取り締まりっていうか政治っていうのは、占いもすごく大事なんです。法律も大事なんです。これ両方、天秤にかけてやったのかなっていう、と思いますね。
でも冤罪多そうですね、チュー吉みたいになって。それこそ多かったと思います。でもちゃんと裁判はやるんですね。だから李斯が処刑された時も、やっぱり裁判でちゃんと罰すると。
李斯はなんて申し開きしたんですか、裁判で? 嫌疑は、李斯の子供が三川郡という洛陽の地方長官をしたんですね。そこを陳勝・呉広の軍隊が通過するじゃないですか。阻止できなかった。お前の子供はね、こんなこと、大体当時は連座が多いですから、父のところに行くわけですよ。お前は反乱軍を抑えられなかった。これはもう極刑だというのが趙高の判断。
とんでもないんじゃないですか、それ。連座は普通にありましたから。なんて言うんですか、その李斯は。李斯は、もう二世皇帝に訴えるわけですよ。もうしょうがないから、自分の罪だと七つの罪を告白するわけですよね。それが自慢話だったっていう。最後、死ぬ前の、もう死ぬから。だから訴訟の陳述の機会に自慢しといたと。
じゃあ、死の覚悟しちゃったのか。李斯もね、これ書き出したらやっぱり一冊書けるんですよね。李斯も知りたいですよね。李斯は面白いのは。李斯、何が面白いんですか? 『史記』の中に彼の文章がたくさん残ってるんです。
つまり13歳の秦王を育てるわけですね。13歳の王に帝王術を伝えるわけです。それからだんだん成長した中で、帝王も東方の国をどうやって滅ぼすべきか、どんどん全部、彼が発言する。それは『史記』に全部載ってるんです。これを集めてみると、本当でしたら『李斯子』という名前で、一つの書物になるぐらいあるんですね。
ところがそれは誰もやってないと。なんでまとめないんですか? 李斯、人気ありそうじゃないですか。最後、処刑されましたからね。ですからこれを集めてみると、李斯も成長してるんです。
李斯も最後に遺言があるんですね。どんな遺言? もうしょうがない。自分の息子を呼んでね、俺は故郷が、先ほど言った草冠に祭りと書く蔡。蔡っていうのは三つ移動してるの。上蔡、上の蔡が自分の故郷なんですね。これは楚に滅ぼされますけれども、だから李斯は楚の人間っていうのは間違いで、上蔡の人なんですね。やっぱり楚に滅ぼされた蔡の文化を持ってるわけです。
最後に、もう俺は処刑されるから、処刑の前に、かなわないけども、自分の蔡の上蔡の町にお前と一緒に行って、黄色い犬を引き連れてウサギ狩りをしたいという、不思議な言葉が『史記』にあるんです。何なんですかね? これ、私ちゃんと説明しました。何なんですか、死ぬ前に黄色い犬を連れてウサギ狩りをしたい。故郷でね。何なんですか、それ?
私、行きましたよ、故郷に。行ったんですか? 上蔡にね。どんな? 昔の国の城壁が残っていて、これは伝承ですけども、李斯のお墓があるんですね。これ本物かどうか分かんないんですけど。そうなのか。僕は、楚の人間じゃなくて、彼はやっぱり故郷に帰りたいと。もうかなわないんだけれども。
黄色い犬でウサギ狩りっていうのは、蔡の国っていうのは小さい国ですから、それも東の門ですかね。東の門にみんな集まって行事をやるわけです。ある時にみんな集まって、なぜ黄色かっていうのは説明できないんだけども、ウサギ狩りに犬を連れていくわけですね。これはやっぱり行事としてあったんじゃない? 祭りみたいなのがあった。それを思い出して、自分は最後にそれをやりたいと。でもかなわないわけですね。もう極刑で、体が切られたわけです。
子供も死んじゃったんですか? 当然処刑されてるでしょうね。両方処刑。だって結構、秦が天下統一する最大の功労者ぐらいの勢いじゃないですか。それをそんな感じで処刑しちゃうんですね、秦の二世なんですか? どういう人? それは趙高の判断でしょうね。
趙高っていうのは、権力闘争した相手の。趙高は趙高でまた。それ、宦官の駄目なやつって言われたやつですか? 趙高は実は面白いんですけど、あれだけの人物でありながら、司馬遷は趙高列伝を書いてもいいような人物でありながら、李斯列伝と蒙恬列伝の裏に潜ませてるんです、彼の伝記を。
なんでなんですか? これはいろいろあるんですけども。裏に潜ませてるってどういうことですか? 列伝にしてないってことですか? 列伝にしてない。司馬遷からすると、やっぱり悪に仕立てているんじゃないですかね。
元々出身は、趙高っていうのは趙の国の人間です。秦が攻めますよね。そうすると、捕虜になるんです。捕虜になって奴隷として咸陽に連れていかれるんですよ。母親も奴隷ですよね。奴隷といっても都で生活するんですけど、そこで夫と出会って、生まれたのが趙高ですよね。
奴隷でも結婚できたんですね。できたんですね。そこで生まれたのが李斯であり、ごめんなさい、趙高である。
後世の人はそれをちょっと読み間違えていて、どうも奴隷であるから彼は宦官であるという、宦官のイメージですよね。ところが当時、宦官という言葉はあんまりないんです。というか、宦という字は別の使い方をしてるんです。
これも出土史料だと、「宦皇帝」という言葉がたくさん出てきたんです。「宦皇帝」っていうのは、宦っていうのは動詞で、皇帝に仕えるって意味で。仕えるが宦っていうんですね。元の意味がね。皇帝に仕える普通の役人じゃなくて、自由に皇帝のところに出入りできると。
そうすると、宦籍という名簿があって、そこに名前が書いてあれば、いつでも皇帝のところに行けるわけです。普通の役人は中に入れない。趙高っていうのは、そういう宦籍に入ってた。「宦籍にある」っていうのは『史記』にあるんですけど、その宦籍っていうのは宦官の名簿っていう後世の解釈が、それは間違いです。
じゃあ別に、その宦籍に載ってても去勢してるわけじゃないんですか? はい。だから後宮で配慮する宦官だけじゃなくて、皇帝のところに行くわけですからね。そういうことですか。
宦官が政治的に勢力を持ったのは後漢の時代から、唐の時代、明の時代ですね。だから後漢の人たちとか唐の人たちは、彼、趙高を宦官というふうに、宦籍に載ったから宦官として書いちゃうけども、書いてあるから。それはやっぱり母親が奴隷ですからね。奴隷がいるようなところで育ったわけだから、宦官になったんじゃないかっていう。それは誤解ですよ。
誤解か。趙高はなんでそんな奴隷の子供から出世できたんですか? そこはまた面白い。奴隷だと結婚できるわけです。学問がある。お母さん、奴隷で何やってるっておっしゃってましたっけ? 何も書いてないんだけど、奴婢になったってことは書いてある。奴婢か。
奴隷であっても学問を積めるのが、秦の時代の面白いところで。趙高は非常に学識が高くて、法律の知識にたけてるから、胡亥の家庭教師なんです。胡亥、皇帝の子供の。それとの関係は密なんです。
皇帝の子供じゃないですか。でも頭が良ければ、奴隷の子供でも家庭教師するんですか? だからすごいです。奴隷の子供っていうよりは、最近の出土史料だと身分解放されてるんです。途中で? 大赦みたいな。隷臣っていう、奴隷の隷に臣下の臣と書くんですけども、その身分は、最初はその身分だったけれども、彼は普通の庶民の身分に変わってるという。これは『史記』に書いてないんですけど。
それ、頭が良すぎてですか? やっぱり始皇帝が認めたんですよね。でも頭が良くて仕えたわけですけど、仕える前は奴隷だったわけですよね。奴隷だったらもう学問。そこが面白いところですね。面白いですね。そこは差別みたいなのあんまりなかったんですよね。なかったという。能力があれば、別に奴隷の子でも皇帝の子供の家庭教師ですよみたいな。なかなかいい。
だから奴隷といっても、生涯奴隷っていう場合と、やっぱり罪を犯して奴隷になるんだけども、労働してその罪を返していくっていうのがあるんですね。だから一定期間、国のために労働すれば普通の庶民に戻れる。そうなんだ。結構良心的な制度だったんですね。奴隷制度の中では。だから彼も普通の庶民に戻って、高官になりますからね。
昔は楚とか秦で戦争してたじゃないですか。負けちゃうと、やっぱりみんな奴隷になっちゃうんですか? それは難しいところで、捕虜になるか殺されるか。捕虜になった場合には奴隷になることが多いですよ。兵士と民、いますよね。まず兵士は捕虜になったら奴隷になっちゃう。捕虜の場合にはそういう奴隷身分になります。
奴隷って何させられるんですか? 労働させられるわけです。どんくらいの労働? 秦のための、例えば都作りだとか、大墓作りだとか、それから長城を作るとか。そういうところに一般の農民を駆り出すよりは、罪を犯した人間はもう24時間使えますからね。結構過酷だったんですか? でも一定、それを罪を返していけば許される、庶民に。戻れるんですか? よかった。
民たちはどうだったんですか? 民たちも街を落とされちゃうとか、戦争に負けちゃったら支配下に入っちゃうじゃないですか。民たちはどんな。だから民たちも奴隷になるケースもある。でもこれは難しい。あんまり史料がないんですけども。
これは僕もこれからやっていきたいんですけど、孟子という思想家がいますんで。孟子はいろいろ面白いことを書いてあるんですね。やっぱり戦争、彼は反戦的な思想を持って。戦争はしちゃいけないと、やっぱり民を中心に、民本主義があるんですね。主君は民を飢えさせちゃいけないとか言ってるんです。
戦争してもいいんだけども、その敵地に入ったら民の財産を奪っちゃいけないとか、民を殺しちゃいけないと、そういうことをちゃんと孟子は言ってるんです。それこそ兵士と兵士の戦いで勝敗がつきますけど、やっぱり民を巻き込んじゃいけないと。そういう思想があったわけですね。孟子はちゃんと言ってるんですよ。
言ってるってことは、でも実態としてはやっぱり民を蹂躙してたってことですよね、多分。そうだ、今の時代もそうですけど、それは難しいところですよ。でも大体はやっぱり蹂躙されちゃう。と思います。兵士と兵士の戦いですけども、占領されて殺されることは当然あったでしょう。
あと戦いで、例えば10万対10万ってあるじゃないですか。どんくらい死んでるんですか? それも難しいところで、先ほどの桓騎が10万人の首を取ったって言ったんです。完全にこの10万人の首は、10万の兵士、敵兵を全員、10万かどうか分からないんだけど、それを彼の功績として『史記』が書いてありますよね。10万全員の首を取ったら、これ大変なことですからね。
そうですよね。戦争に農民たちも駆り出されるじゃないですか。農民ですよ、農民が駆り出されるんですけど、どんくらいの確率で死んじゃうんですかね? そんな簡単には死なないですかね。
農民が駆り出された証拠は兵馬俑ね。兵馬俑には職業軍人は冠をかぶってます。一般の兵士は髷だけなんです。あれは農民が駆り出された兵士なんですね。彼らが兵士として戦うと記録されるわけですよね。だからどれだけ死んだのかという。ですから軍人になった一般の農民たちは、戦争の被害者として亡くなっていきますね。
なんか信じられないです。『キングダム』読んでると、城攻めの時とかはしごかけて、うわーっと攻めてくじゃないですか。あんなの確実に死ぬって分かってて突撃してるじゃないですか。なんでそんなことするんですか? あれは奴隷兵士がやってんですか?
普通の兵士がやってますよね。どういうメンタルでやってんですか、それは? そこはまた難しいところで、彼らは統一のために戦ってるのかは、ちょっとクエスチョンマークで、秦の兵士はね。兵士はですね。やっぱり上層部は使いたいわけですから、敵の首を取ったら爵位を与えるんですね。
首を一つ取ったら爵を一つ。爵位をくれるんですか? 爵っていうのは当時20ランクの爵位があって、一般の庶民が下から8番目ぐらいしか、それ以上上がんないんですけど、戦争で相手の首を取ったら一つもらえるんですよ。
20ランク中の20だった人が。20ランクの下から数えて、1、2、3、4、5、6、7、8までは上限があるんですけども、これ増やしていけるんですね。じゃあ7とかに行ける。9とかに行けるってことか? 9に行くのは大変なんです。8までは庶民が行ける。首を取れば。その先はちょっとまた別の。
8ぐらいに行くと何が違うんですか、それ? いろんな恩恵を与えられます。例えば田畑を与えられる。罪を犯した時にそれで免除されるとかね、いろいろ恩恵があるんです。だから秦の兵士は、やっぱり自分の家のために爵をもらいたいから、敵の首を取るんだと。
ちょっと待って、爵は家に与えられるんですか? 人物に与える。人物か。人物だけども、田畑を与えられたら家のためになるわけです。確かに。めっちゃ気になる。20ランクですか? 爵位は20ランクです。20ランク? 最下位は奴隷さんですか? 最下位は爵がない人間です。ないのか。ないのも庶民です。庶民の下に、そういう奴婢がいるわけです。
じゃあ20位の爵を持ってるだけでもすごいってことか。そうですね。それ、首一つ取ると一爵なんですか? 一つもらえる。二首で二爵。そうですね。一首一爵なんですか。じゃあ8人倒すと。僕はね、あんまり史料がないんですけど。でもそう言われたんですか?
ある史料は、簡の中に裁判文があって、敵の一つの首を役所に持ってきたと。二人で争ってるわけです、俺が取った首だと。二人が争って、役人は二人にいろいろ取り調べするわけですね。どんな状況で敵の首を取ったのか、どこを切ったのかとかね。そういうごたごたがあった。これは事実でしょうね。だから実際に庶民はそういう形で、戦争で敵の首を持ってきて褒賞をもらうってことはあったと思います。
あったのか。じゃあ一人取ったら一爵で、一つの戦争で三つ取れば、三爵位上がる可能性があったわけですか? そうですね。そうすると結構待遇が良くなっていくのか。畑がもらえて。どんな恩恵があるんですか、畑と。
恩恵は、逆に罪を犯した時に爵で返せると。万引きだったら一爵位ね、とか。自分の一族も何か悪いことした時には、自分の爵で。減刑してもらえるみたいな。そういうことです。そういうことができるのか。じゃあ爵はためるに越したことはないんですか? そうですよね。
貴族とかだと、その8の壁を超えられるんですか? 超えてますね。超えると今度、出世していきますから。
どういうふうにですか、それは?
要するに、地方の役人になったり中央に行きますよね。だから、それこそ呂不韋なんか一番最高。呂不韋、嫪毐というね。あれはもう最高位っていうのは、一番、20位ですよね。これ列侯と言うんですけども。これは領地をもらえるんです。自分の領地をね。その上は皇帝ですね。秦の場合は王がいないので、列侯の上は皇帝ですね。皇帝まで上がるわけにいかないんで、侯が最高です。
20位が列侯。19位は誰だったんですか?
19位は関倫侯という、これはちょっといろいろ、要するに函谷関の内側、これ関内って言うんですね。関倫侯という名前がついてます。
王様というか、封建みたいな。
これ、領地を持ってるか持ってないかなんです。ちょっと議論があるんですけども、いわゆる秦の函谷関の内側のどこかに領地をもらった可能性もありますけど、領地がない、名前だけの爵かもしれないという。
それ、あんまり分かってないんですか、その人物?
そうですね。
でも、それ名前ね。関倫侯って、いたんですか、その人?
いました。これは始皇帝が巡行して、臣下の名前を書くときに、そこに倫侯と、倫理の倫と書いて、行っていうのが、これが関倫侯だろうと言われてるんですけど、これは実際に第19位だと思うんですよ。
19位ですげえ偉いじゃないですか。呂不韋の人、なんで影薄いんですか?
影薄いですかね?
『史記』だと薄くないんですか?
『史記』で関倫侯で活躍してるのは、統一後にそういう、要するに、当時の役人は給与と、それから爵をもらってるんですね。給与っていうのは俸給ですから、穀物でもらったり、お金でもらったりするんです。同時に爵位をもらってると、そこからまた別の収入が入るんですね。だから高官になるとね。一番トップは自分の領地を持ってますが、そこの税金は自分でもらえると。
ああ、収めていいわけですよね。関倫侯、あんまり『キングダム』でも出てこなくないですか?
あんまり気にしないんじゃないですか。大夫っていうのはもっと下のほうにいるんですけどね。五大夫っていう、五つの大夫とか。それは結構資料には出てきます。
出てきますか? それ、文官の位なんですか?
だから、あんまり気にしてないと思いますね。多分、李信にしても桓騎にしても、将軍っていうのは戦争のときに任命されるわけですよ。だから将軍が、じゃあ平時には何なのかって、あんまり分かんないんですけども。あんまり爵位に関してほとんど出てこないじゃないですか。
まあまあ、伍長になってますからね。あまりそういう……でもいいな。じゃあ呂不韋とか、ちょっと下世話な話で申し訳ないですけど、呂不韋とか李斯とか、例えば王翦って年収いくらぐらいだったんですか?
これはね、中央の最高位っていうのは穀物で換算するんですよ。そうすると、一番中央に三公って、3人の高官ですね。丞相、御史、太尉。これは1万石と書くね、1万の石という字。石っていうのは、こくと呼んだり、せきと呼んだりするんです。基本的にこの場合には、せきって言うんですね。
石。日本の石とは違うってことですね。1万石とかと。
両方あるんですけど、この場合には重さなんですね。重さの場合には、せきって。1石っていうのは大体30kg。だからね、我々はお米を買うときに5kgで買いますよね。でも炊くときには容積じゃないですか。5kgのお米を買ってきて、炊くときには1合、2合、5合とやるじゃないですか。当時も同じで、穀物は重さで量るか、容積で量るか、両方あるんですね。だから石という字は、容積だと、こくと読ませるんです。
なるほど。
それで1万石っていうのは、1万×30kgの穀物を、1年間にもらえる額なんですね。
30万kg。年収?
年収です。
それが、1万石が誰でしたっけ、一番?
これが中央の丞相たち。
丞相、総理大臣みたいな。
丞相、御史大夫ですね。
じゃあ、呂不韋とか、あそこら辺の人。
呂不韋は相邦ですからね。
じゃあ30万だと、今、米って5kgで5,000円ぐらいですか? 5kg、5,000円だから。
いや、でも安くなってんじゃないですか?
もうちょっと安いですか? 今どのくらい?
新米はもう2,700円とか。
3,000円ぐらい?
3,000円切りまして。
3,000円ってことは、3×6だから1万8,000。30kgで1万8,000円ぐらいですよね。1.8万円×……すごいじゃないですか、これ。年収いくらになりますか? ちょっと待って、なかなかですよ。
計算したことないんですけど。
やっぱ年収、私、気になっちゃうんですよ。1万、1.8万だね。1万8,000×30万ですよね。これ本当、年収が……100万、1,000万、1億。年収54億円なんですけど、俺の計算。すごくないですか、年収。
54億円ですか? そんなこと言う人いないですけどね。換算する人いないですけど。1万石が、もし今のお米の値段で、米でやればですね。
ビッグマックみたいな、米でやれば。
高橋さんのが、それ正しければね。
1万8,000か。1万8,000だよな。だって6で、6×5、30だもんね。6×5、そうそう。
その下のランクは2,000石です。これは9人の大臣が、丞相の下ですね。だから李斯は統一するときに廷尉という法制長官だったんですけど、それは2,000石です。2,000石は2,000×30kg。
2,000石だと、だから13億ですか?
億ですか、やっぱり。
億じゃないですか。李斯ですよね?
廷尉。
李斯って年収13億もあったのか。年収ですもんね、これね。
これ年収です。
でもそれで、年商に近いのか? それで部下、養っていかなきゃいけないですもんね。
部下をね、これはまた……。
また違うんですか?
いやいや、呂不韋はね、プラス、自分の領地を持ってるんですね。洛陽に持ってるんです、自分の領地。だから呂不韋は秦の国外に、洛陽に自分の領地を持ってるんですね。洛陽ですよ。洛陽っていうのは、もともと周の都があったところで、三川郡を置きましたから。占領軍で、そこに呂不韋が自分の領地を持っていて、そこから上がる税収は彼がもらえるわけです。
50億プラス、もうちょっと持ってるわけですね。
ですから1万石っていうのは給与ですけど、これは領地から得られる収入ですね。両方あるわけです。
どっちが多かったんですかね?
どうでしょうね。それで彼は大変なんです。食客3,000人いますから。
食客3,000人ですもんね。
養っていかなきゃいけないんですよ。
54億なら3,000人ぐらいね。だって54億プラス、自分の領地も、100億くらいあったんでしょうね。
だからそこは面白いところ。呂不韋はそういうやり方をして、嫪毐もそう。嫪毐も『史記』はちょっと悪い人間に描いてますけど、彼も同じように政権を二分するほどの勢力があって、太原というところに自分の領地を持ってますから。
彼、裏切った人ですよね。なんか裏切りかけた人ですよね。
彼は母親との関係で。
ちょっと不倫しちゃったみたいな。
彼も同じように収入があって。
年収すごい。
だから、それやっぱり3,000人養うのにどうですか?
年商50億の会社だったら、3,000人いけそうな。ちなみに、その物資も、自分の兵士とかそういうのも養ってない?
兵士は別に。食客っていうのは、彼らに館を与えて、食料を与えて、生活させなきゃいけない。その代わり、いろんな知恵をね、自分が。だから『呂氏春秋』って本を書いてますけど、思想を彼は受けてますから。これを政治に役立てる。
食客以外の、普通抱えてる家臣の給料はどこから出てるんですか?
家臣はね、家臣が秦の役人であれば秦の給料ですよね。自分の家の役人は自分で払うわけですよ。
兵士はどうなんです? 兵士はでも秦兵なんですもんね。
ええ、秦の兵士ですね。
私軍じゃないですもんね。私の軍じゃないですもんね。っていうことは、結構食客を養ったりしててもすごいな。
それで僕はこの本のテーマで、呂不韋とか嫪毐の下にたくさんの任侠の徒がいるわけです。食客がね。これ、じゃあ始皇帝のところにいるかというと、いないんですね。じゃあ彼はどうやってこの人間を把握したのかっていう。だから呂不韋は途中で失脚して、殺されちゃいますよね。毒ってね。だからその任侠の徒っていうのがどうなってるのかっていうのは、ちょっと問題にしたのは、劉邦はまさに任侠の徒を集めて王朝を作っちゃうんですね。だから劉邦のためだったら、もう命を投げ捨ててもいいっていう連中を、沛県中心の連中を集めてきて、それをそっくり中央の高官にするんですね。
任侠の徒って何なんですか?
任侠はね、これは『史記』の中に『遊侠列伝』っていうのがあって、いわゆるヤクザの世界ってどんな時代にもいるんだけども、中国古代はこれが社会的な勢力で認められていて。これはヤクザと訳しちゃうとちょっとまずいんでね。人のために命を投げ出しても、その人間に尽くすという任侠の精神っていうのが、中国古代には非常にあって。
暴力、武力的な手段なんですか?
ありますね。これは学問ではあまりまともに扱われてないんだけども、昔、一橋大学に増淵龍夫先生っていらっしゃって。彼は、その任侠の人間的な結合が、さっき言った劉邦集団が漢王朝を作るときの基盤になってると。だから王朝の役人たちっていうのは、もとはそういう人間、皇帝と高官の間っていうのは任侠の関係であると。そういうことを言ってですね。これは秦の時代に資料がないですから、漢王朝の劉邦集団と言ってますけど、劉邦集団っていうのは任侠集団だと。それで漢ができたっていうね。これは昔から学問的に言われてるんですね。
なるほど。
でも始皇帝はね、自分がそういう任侠の徒を養ってはいないんですね。でも呂不韋、嫪毐がそういう人間を抱えたとすると、そういう知恵は秦に入ってるわけですから。これは始皇帝をどこかで支えてきたのかなっていうね。それは思いますね。
3,000人が、じゃあ知識人っていうわけでもないんですか?
知識人もいれば、いろんな得意分野があるわけですよ。武力とかね。
そっか。ごめんなさい。さっき1個だけ話が流れちゃって聞けなかったんですけど、その、ちんちん、誰だっけ? ちんこさんでしたっけ? ちょっと忘れましたけど、列伝の裏に貼り付けられて、誰でしたっけ、あれ?
趙高。
趙高、列伝の裏に貼り付けってどういうことだったんですか、それ?
要するに、趙高列伝っていうのはないんですね。ところが李斯と蒙恬列伝の中に、突如として、趙高は生まれは何とかって挟まる。
他の人の列伝の中に急に、趙高っていう人、生まれはどこで、みたいな。
それを説明しないと李斯の最後を説明できないですから。
っていうことか。他の中に吸収されちゃってるってことか。
単独で立ててもいいと思うんですけど。
そういうことか。なるほど、面白かったです。古代の始皇帝の時代のお話、いろんなところに雑談でしたけど、本当、気になることいっぱいありますね。
ありますよ。これ1日中しゃべってますよ、私。
1日中、飲み屋で聞いてたいですね、鶴間さんの話。1日中聞いてられますけれども。最後に、この本の、せっかくだから宣伝をしていただきたい。こっちがどんなこと書いてあって、読みどころと、あとこっちもですね。まずこの岩波のほうから。こちら『人間・始皇帝』あります。どんなこと書かれてて?
暴君始皇帝ではなくて、彼も人間としてね、やっぱり秦王から皇帝になったという側面を描いてるんです。人間の側面ね。これは面白いと思います。将軍のほうは、これ『キングダム』の影響もあって、始皇帝の周りにいる臣下ですね。これは将軍であったり、こういう文官の高官であったり、その間に僕は絆があったと。その関係をそこで論じてる。呂不韋とか昌文君……。たがが外れるって言葉がありますけど、始皇帝が亡くなったら、秦のこのたがが外れて、樽のたがが外れて分裂しちゃうわけじゃないですか。だから、ほかはそれはできなかった。始皇帝だから。
彼のそのカリスマの源泉は何だったんでしょうか?
やっぱり、13歳で即位して、呂不韋の知恵、李斯の才略、それを彼はちゃんと学んでね、臣下たちとの関係をうまく作っていったと。だから意見を聞いて、排除しないという。よくね、今の時代もそうだけども、上にいい話しか伝えない臣下は、これ駄目なわけですね。これで国が滅ぶんですね。それはやってない。
なるほどな。ちゃんと人の話を聞く、聞く耳を持ってたんですね。ありがとうございます。日本との関係で言うと、永遠の命を求めて、徐福さんを日本に派遣したみたいな伝説あるじゃないですか。あれは本当なんですか?
これ話し出したら、また何時間でもしゃべりますけど、徐福伝説っていうのはありました。ところがね、去年、私からすると大発見があって。
何ですか?
徐福っていうのは、東方の海を渡って、日本に行ったかもしれないと。不老不死の薬をね。っていうのは、東方の海には仙人の島があると。西には崑崙山という山があるんですね。そこに西王母という女王がいて、ここでも不老不死の薬を作ってるという伝説があるんです。これは周の穆王が行って、西王母に会って、楽しんで帰るのを忘れたっていう伝説があるんです。始皇帝はそのことを知ってますから。崑崙山に始皇帝の臣下が行って、不老不死の薬を求めさせたという、今の青海省の黄河の源流の岩に、37の文字が発見されたんです。そこに37年、始皇帝が亡くなる年に、臣下がそこに行って崑崙の薬を求めたということが現場に書いてあって、去年初めて発見された。
不老不死の薬を探してた。
だから徐福も伝説でしゃべってましたけど、やっぱり事実としてね、彼は50歳でそういう薬を求めていた。それって別に、不老不死っていうのは今の医学の、最先端の医学じゃないですか。だから決して伝説の世界じゃなくて、彼もいろんな薬草を求めて。4,000mの高原ですからね。崑崙山っていうのは。そこでいろんな鉱産、植物から薬を得たってことは、つい最近分かった。
山のほうでやってたんですね。じゃあ海のほうはまだ分かってない。
海は徐福があるんだけど、これは2つあって、どこかのところに行って帰らなかったという伝説と、失敗して戻ったという、2つ伝説があります。日本にはね、たくさん徐福があちこちに来たっていう、たどり着いた。これはもう後世の話ですね。
でも、やってたことはやってたっぽいんですか? でもそれ、伝説しかないですか、やっぱり。
というのは、大陸から移民がね、今問題になってますけど、日本列島っていうのは移民が作り上げた国でありね。そういうところは、大陸でいろんな動乱があれば、たくさんの人たちが大陸の文化を持って渡るわけですよね。そういう移民集団が徐福を、ある種カリスマにして、自分たちは徐福の子孫なんだという、そういう話ではないですかね。
そういうことか。徐福っていうのはいたんですか、本当に、本土に?
徐福は実在だと思う。
命令を受けて探してた。なるほどな。斉とかは滅びるとき、日本に来なかったんですか? 市民とか。
そうなんですよ。それが燕と斉ね。燕と斉の国は秦に滅ぼされた後、多分朝鮮半島に入ってるんですね。日本に来たっていうのは、後の時代の、例えば新羅が朝鮮半島を統一したときに、高句麗と百済の人たちが日本に渡ってきた。これは証拠があるわけですね。でも統一したときに、燕とか斉の人たちが東方に逃げていくって、多分あっただろう。ありますよ。朝鮮半島と日本列島に、多分。だって日本列島には鉄、銅器、稲、みんな大陸から来てるわけです。人が移動しないで物だけ来るわけじゃないです。
そのとき、じゃあ来てた可能性もあるんですか?
ありますね。文字、漢字をね、僕の意見は、漢字だけ歩いてくるわけじゃなくて、中国の人たちが日本に渡ってくると、自分たちの集団を作るわけです。この中で中国語をしゃべってるわけですよ。それが日本のあちこちに、移民集団の社会が生まれていたと。
なるほど。探せば紀元前200年ぐらいの、もうちょっと後か、滅びるから。200年ぐらいの漢字も出てくるかもしれないですね。燕から出てきた人の。
始皇帝の文字っていうのは、ずっと伝えられていますから。でも今出てきたのは楷書体ですかね。例えば墨書文字って言って、土器に墨で書いた文字が出てきたり。ずっと後の文字の字体ですけどもね。そういう文字が日本で出てくると面白いですね。
出てきたらめっちゃすごいですよね。可能性が高いところですもんね。早く発掘。どこらへんですか、発掘するとしたら?
それ、分かりませんね。日本海ですから。
そっか。楽しみの、ロマンがありました。すいません、今日は、いろいろお話を伺っちゃいました。今日は学習院大学名誉教授の鶴間和幸さんに、始皇帝についてお話を伺いました。ありがとうございました。
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