表象と資本主義が交錯するディズニー:なぜ「政治的無垢」は維持されるのか
ReHacQ−リハック−【公式】ディズニー作品は長年にわたり、世代や国境を越えて親しまれるファミリー向けエンターテインメントの代表格として受容されてきた。しかしその裏側には、単なる「純粋で無害な夢の世界」にとどまらない、複雑な社会構造や歴史的文脈、そして企業のビジネス戦略が張り巡らされている。東京大学大学院博士課程でディズニー作品やポピュラー文化を研究する山本恭輔氏は、作品がどのような時代背景の中で制作され、いかにして人種やジェンダーを表象してきたのかを解き明かしている。本稿では、山本氏へのインタビューを通じ、ディズニーが抱える表現の制約、ポストフェミニズムとの関係、「可視性の政治」が「可視性の経済」へと変質する構図、そして政治的無垢(ポリティカル・イノセンス)の戦略について整理する。
「車に人種や性別がある」違和感から始まる文化研究
研究の原点として山本氏が挙げる具体例が、ピクサー映画『カーズ』である。本来であれば無機質な鉄の塊であるはずの車に、男性や女性の別が与えられ、白人、アジア人、黒人といった人種的な属性が付与されている。観客はそれを疑問を持たずに受け入れがちだが、客観的に見れば奇妙な現象である。車の造形や振る舞い、話し方を通じて、どのように人種やジェンダーといったキャラクター性が観客に納得される形で付与されているのかを分析することが、文化研究の重要なアプローチとなる。
また、作品の背景にはアメリカの具体的な歴史が埋め込まれている。『カーズ』の題材となっているストックカーレース「NASCAR(ナスカー)」は、もともと禁酒法時代に密造酒を運んでいた者たちが、警察の追跡を逃れるために改造した車を爆走させていた歴史に端を発する。さらに、劇中で高速道路の開通によって寂れていく町が描かれる背景には、1950年代アメリカのロードサイドカルチャーの衰退という史実が存在する。作品を楽しむだけでなく、その裏側にある社会や歴史の文脈へと遡ることで、アメリカ文化そのものの構造を浮き彫りにできると山本氏は指摘する。
表象(レプレゼンテーション)が形づくる「現実感」
ポピュラー文化を分析する上で根底にあるのが、「表象(レプレゼンテーション)」という概念である。人間は現実のすべてをそのまま切り取って伝えることはできない。動画の編集や言葉の選択と同様に、何らかの記号を通して現実の一部を抽出し、置き換え、再び提示(リプレゼント)している。
この抽出作業には、送り手の意識的・無意識的な判断が介在し、受け手側もまた流通しているイメージを自らの想像力で補いながら理解する。こうして社会に流通し共有されるイメージ群が、人々の「現実感(リアリティ)」を形づくる。たとえば、一度も行ったことがない街や国に対して抱くイメージや、過去の映画で日本を描く際に芸者や歌舞伎、あるいは出っ歯といった記号が抽出されてきた歴史も、表象が作用した結果である。作品の中で「誰がどう演じるか」「何をどのように描くか」という選択を、誰が、どのような状況で、誰に向けて行ったのかという文脈を読み解くことが、表象を分析する上での鍵となる。
ファミリー向け巨大企業が抱える表現の制約
現代のディズニーは、映画スタジオにとどまらず、配信サービス、テーマパーク、クルーズ客船、音楽、舞台、ゲームなどを傘下に収め、マーベルやスター・ウォーズ(ルーカスフィルム)、ピクサーを抱える巨大メディア・コングロマリットである。世界中のファミリー層に向けてエンターテインメントを提供する企業となったことで、社会的・倫理的な責任を負わざるを得ない立場にある。
その巨大さゆえに、作品表現には強い制約がかかる。その最たる例が「実の父親や母親を明確な悪人として描けない」という点である。親が子どもに安心して見せられる健全なコンテンツであるというブランディングを維持する以上、血のつながった親を悪者として処理することは商業的に極めて困難であり、大ヒットを狙うメジャー作品では基本的に避けられてきた。しかし、現実のアメリカ社会では養子縁組や多様な家族形態、人種やセクシュアリティの多様性が日常的な前提となっており、グローバル企業としてその現実にどう向き合うかという葛藤が常に制作現場に横たわっている。
福祉国家の解体、新自由主義、ポストフェミニズムの台頭
ディズニー作品における女性像の変化を捉えるには、1950年代以降のアメリカ社会史を振り返る必要がある。第二次世界大戦後の1950年代、アメリカでは「男性が外で稼ぎ、女性が家庭内で無償の家事・ケア労働を担う」という核家族モデルを前提に社会福祉制度が設計されていた。映画『シンデレラ』(1950年)や『眠れる森の美女』(1959年)は、ジェンダーという概念が成立し始めたこの時代に制作され、当時の性別役割分担を色濃く反映している。
1960年代以降、公民権運動とともに第2波フェミニズムが台頭し、固定化された性別役割や女性の労働市場からの排除を批判した。しかし1980年代以降、この批判は新自由主義的な市場原理と結びついていく。企業側は安価で融通の利く労働力として女性を市場に参入させ、共働きが前提化する一方で、競争の結果は個人の「自己責任」へと回収されていった。
こうして生まれたのが「ポストフェミニズム」と呼ばれる状況である。「法的平等は達成され、女性も社会進出を果たしたのだから、もはやフェミニズムによる構造的変革は不要であり、成功も失敗も個人の選択と能力の問題である」という空気が社会を覆った。この時代背景を反映し、1980年代末からポピュラー文化にも変化が生じる。『リトル・マーメイド』(1989年)を皮切りに始まる「ディズニールネサンス」期の作品群は、自ら行動を起こす女性像を提示しつつも、新自由主義的な自己実現の論理を内包するようになっていった。
『アナと雪の女王』に見る女性像の相克
こうしたポストフェミニズム的な状況が鮮明に表れている例として、山本氏はディズニー長編アニメーションで初めて女性監督(ジェニファー・リー)が起用された『アナと雪の女王』(2013年)を挙げる。
劇中において、アナは家庭的なロマンスに憧れを抱く旧来的な女性像の系譜を引く一方で、エルサは強大な能力を持ち自立した自己を追求する存在として描かれる。しかしエルサの持つ力は社会秩序とうまく適合せず、能力の暴走という形で孤立を招く。自立した能力を持ちながらも社会との調和に葛藤するエルサと、家庭的な幸福を希求するアナという姉妹の対比は、まさにポストフェミニズム社会を生きる女性たちが直面する構造的な課題を体現している。観客が理論的な背景を意識していなくとも、作品が社会的なリアリティと共鳴しているからこそ、世界的なヒットへとつながったといえる。
可視性の政治から「可視性の経済」へ
マイノリティ(決定権や権力から遠ざけられてきた人々)をメディアで描くことには、歴史的に重要な意義があった。メディア上でその存在が可視化されることが、実質的な権利の獲得や社会的地位の向上へと結びつく側面があり、これは「可視性の政治(politics of visibility)」と呼ばれる。
しかし、多様性を描くこと自体が直接的な興行収入や利益に結びつく時代になると、構造の変質が生じる。黒人ヒーローを描いたマーベル作品『ブラックパンサー』のように、特定のマイノリティを主役に据えることで新たな観客層を開拓し、商業的成功を収めるモデルが確立された。その結果、多様性を描くことそれ自体が企業の収益を上げるための「目的」へとスライドしていく。
批判的な社会運動のエネルギーが企業のイノベーションの資源として消費され、「多様性に配慮している先進的な企業」というイメージさえ担保できれば、実質的な社会構造の不平等には踏み込まない状況が生まれる。山本氏はこの現象を「可視性の経済(economy of visibility)」と呼ぶ。資本主義が自らに対する異議申し立てすらも商品化して推進力に変えていく中で、多様性の表象をめぐる議論が単なる「ポリコレか否か」という表面的な対立に矮小化されてしまう問題がここにある。
「ディズニープリンセス」という枠組みの歴史修正性
この「可視性の経済」が極めて分かりやすい形で表れているのが、「ディズニープリンセス」というブランド展開である。今日定着しているこのカテゴリーは、もともと存在していたわけではない。2000年、ナイキ出身のマーケティング担当者が、サードパーティが独自に販売していたドレスなどの商品に着目し、過去の作品群を横断する統一ブランドとして立ち上げたものである。
初期のディズニープリンセスは白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫の3人のみであったが、1989年のアリエル以降、ベル(『美女と野獣』)、ジャスミン(『アラジン』)、ポカホンタス、ムーランと、人種的・文化的多様性を取り入れながらラインナップが拡大していった。しかし、このブランド化には特有のジレンマがつきまとう。
多様な人種や出自のプリンセスが加わることで選択肢は増えた(マルチプリシティ)ものの、実態としては「黒人はティアナ、アジア人はムーラン」といった形で、人種と特定のキャラクター・衣装が強固に結びつけられてしまう側面がある。アメリカでは文化の盗用に対する意識が高いこともあり、「白人の少女がティアナのドレスを着ることをためらう」といった事態も生じている。
さらに山本氏は、ディズニープリンセスという枠組みが持つ「歴史修正的なブランディング」の側面に警鐘を鳴らす。1937年の『白雪姫』から2010年代の作品までを1つのブランドに並列させることで、初期作品が制作された当時の白人中心主義的・家父長制的な文脈が漂白され、「ディズニーは昔から時代を先取りした多様な女性像を描いてきた」かのような印象を事後的に作り出してしまう。近年の実写化戦略も、現代の価値観に照らして不都合となった過去の物語を手直しして延命させ、未来永劫テーマパークやグッズの収益基盤として維持し続けるための企業戦略と軌を一にしている。
自己言及の罠と「政治的無垢」の維持
現代のディズニーは、自らに向けられるフェミニズム的な批判を十分に自覚した作品作りを行っている。『シュガー・ラッシュ:オンライン』(2018年)では、歴代のプリンセスたちが集まる控室に迷い込んだヴァネロペに対し、「毒を盛られたことがあるか」「大事な問題を男の人に解決してもらったと思われているか」と問いかけ、それに肯定することでプリンセスの仲間入りを果たすというパロディが描かれた。
批判を先回りして自虐的なネタとして消費する態度は、批評的な自覚を示す一方で、批判そのものを無力化し、自社のブランド力を高めるためのツールとして回収してしまう。東京ディズニーシーの新エリア「ファンタジースプリングス」において、『アナと雪の女王』や『塔の上のラプンツェル』と並んで、1953年の『ピーター・パン』が配置され、「いつまでも子どものままでいてね」というメッセージが提示されていることも象徴的である。パークという空間が現実の複雑な歴史や政治を不可視化し、無垢な夢の世界として演出される一方で、その「政治的ではない」という姿勢そのものが極めて高度な政治的判断に基づいている。
山本氏は、ディズニーが意図的に構築してきたこの「政治から切り離された純粋な立場」を「ポリティカル・イノセンス(政治的無垢)」という概念を用いて分析している。夢やファンタジーを届ける企業として中立性を装いながら、実際には強固なビジネス戦略と社会的要請の狭間で絶え間ない綱引きを続けている。表面的なポリコレ論争にとどまらず、作品が作られた時代背景、資本主義の論理、そして「無垢さ」を演出し続ける構造そのものに目を向けることが、現代のポピュラー文化を読み解く上で不可欠な視座となっている。
僕、フロリダにディズニークルーズに乗りに行ったんですけれども、その時印象的だったのは、白人の小さい女の子はシンデレラの服を着てたんですけれども、黒人の子はティアナの服を着てて、なんか可視化されている感じがあるなと思いました。プリンセスというものは多様化してきていると一口には言われるんですけど、これはダイバーシティなんだろうかっていうのは私は言いたくて。つまり、選択肢が増えているけれども、ディズニーに限らずポリコレだからいい、ポリコレだから悪いみたいな話ではなくなっていくという。アメリカを見た後にディズニーの映画を見ると、「ああ、これなんだ」っていうのが出てきますよね。今の配信作品では「過去の価値観に基づいて作られています」という注意書きがピーター・パンとかでも出るんですけど、実の母親とか父親が悪いやつだったというのが描けないんですよ。親が子供に安心して見せられるものというブランディングをしていく上では、やっぱりそこが重要だったりするわけですね。過去のもの、こんなものは見せられないという親もいるわけですね。そういう人たちに「今見ても大丈夫な価値観で作り直しましたんで、ぜひこちらを」と言って実写の『リトル・マーメイド』とか実写の『白雪姫』が出てくる。キャラクターと物語を手放したくない、未来永劫ずっとディズニーパークとかグッズとしてみんなの身近なところにあり続けたいというビジネス的な戦略。『ブラックパンサー』という黒人のヒーローとかもあったんですけど、黒人の観客がめちゃめちゃ来るとか、ディズニーって多様性のことに気を遣ったよね、みたいな。ただ一方で、実質的な社会構造の変化とかはどうでもいいという状況を結果として生んでしまうことが問題で、このことを――。
この番組は人生の大きな転機でもあり、大きく飛躍する年代でもある29歳前後、ざっくり20代後半から30代前半の人々と、仕事や人生についてまったり聞いていこうという番組でございます。MCは私、ベテランち28歳と、私28歳のスーツでございます。今回のゲストは、ディズニー作品を独自の視点で研究されております、東京大学大学院博士課程の山本恭輔さんです。よろしくお願いします。
具体的にディズニーを研究されているというのは何をやるのか、具体的な作品とかあったら教えていただけますか。『カーズ』って車のキャラクターじゃないですか。あれもやっぱり男性のキャラがいたり、女性のキャラがいたり、あるいは白人がいたり、アジア人がいたり、黒人がいたりとか。車なのに人種とか性別があるわけじゃないですか。それを何の疑いもなくというか、すっと受け入れているけれど、結構変なことじゃないですか。車は車ですからね、全員鉄ですから。そうなんですよ。だから車にどういう風に、多くの人が見て納得するような形で男性とか女性、あるいは人種というキャラクター性が付与されているのかみたいなところとか。さらに、それを作っているピクサーというアニメーションスタジオの中で、女性の人たちがどういう風に活躍するようになってきたかとか、そういうのを多層的に見る研究などをしていたりします。
90年前の価値観に乗ったアニメーションもあるし、今の時代に受けそうなアニメーションも出している。それだけで結構文化の歴史を追えるんじゃないかってことですね。何よりも問題なのは、皆さんが白雪姫のキャラクターグッズなどを例えばディズニーの商品として手に取ったり、テーマパークで白雪姫さんとご挨拶したりする時とかに、「1937年の白雪姫さんですね」と思って買わないじゃないですか。子供が配信で「白雪姫でも見よう」と言って見ている時に、「1937年ですね」って見ないじゃないですか。そこが問題なんですよね。なるほど。「この作品は昔の価値観に則って作られています」というのは、子供たちとかマニアでないとあんまり見ないですよね。
一応、今の配信作品ではテロップが出て、「過去の価値観に基づいて作られています」という注意書きが、例えばさっき話した『ピーター・パン』とかでも出るんですけども。じゃあテーマパークのアトラクションの時にそんなのは出ないわけですよね。そういったことを考えると、時代の文脈から離れて考えることはできないにもかかわらず、まるでタイムレスなものとして我々の目の前に現れる。それこそが一番難しい点なんですよ。
今聞いた人も多分「面白いな」と思っている人がいっぱいいて、僕もディズニーを見て山本さんぐらいいろんなことを感じ取りながら見れるようになりたいっていう人は多いと思うんです。でも今の話だけ聞いちゃうと、知識がありすぎて「アメリカも全部知っているしディズニーも知っているし、俺にはこの深さでは無理や」と。そうなると、映画の中だけに閉じて「こことここはこういう伏線になってて」みたいな考察が受けちゃう。僕はもうある意味仕方ないと思うんですけど、でもそうしたいっていう人は潜在的にいっぱいいると思っていて。そういう人はディズニーに限らず、どういうところから始めたらいいと思いますか?
これは私がどう興味を持ったかというところが連動してくるかなと思っていて。さっき『カーズ』の話をしてくださって、ポストフェミニズムというワードも出してくださったので、それについてお話しします。やはり20年前に『カーズ』を見た時に、私はそもそも男の子的な車好きでもなかったし、あれで描かれているNASCARというアメリカで戦後始まったカーレースのカルチャーにも親しみがなかったんですね。NASCARというのは、禁酒法時代に密造酒を作った人たちが車を改造して、パトカーに捕まらないように爆走させるということをやっていて、禁酒法がなくなった後にやることがなくなってカーレースを始めたというのが発祥だったりするんです。そういう歴史を知るきっかけに、私にとっては『カーズ』がなったんです。
アメリカというのが何なのか。それこそ劇中でも、ある町が高速道路ができたことによって廃れてしまうという話になっていて、そこにレースカーが迷い込んできて色々と人生が変わっていくというストーリーです。それも50年代アメリカのロードサイドカルチャーが廃れていった話と重なる。そういったところが、作品に対する興味から逆算的に遡れるんですよ。最初から生まれた時からこうだったわけではなくて、子供として映画を見に行って、「これって何だろう」「なんでこのキャラクターはこう描かれているんだろう」と気になっていく。ディズニーやピクサー、特にピクサー作品なんかはかなり現実のモチーフを使ったりしているので、作品に対する興味からその裏に入っていくということは、実はいくらでもできるのかなと思います。
ちなみに山本さんは、アメリカで旅行とか留学された経験はあるんですか?学部生の時に、ニューヨークシティで映画や映画分析に関する学問を学びに1年間留学しておりました。それ以外は住んでいたことはなくて旅行ですね。最初からアメリカに興味があったというよりは、ずっとピクサーなどの作品を通じて興味を持たれたということですか?私自身が千葉県で生まれ育ったのもあって、東京ディズニーリゾートが近かったというのももちろんありました。千葉に住んでいると親戚や近いところに関係者がいたりして親しみはあったんですけど、ディズニーが好きだったかと言われると実はクエスチョンマークで。私はどちらかというと『トイ・ストーリー』や『カーズ』などピクサー系の作品が好きで、そういったところから入っていって、アメリカ自体に関心を持っていったという感じです。
アメリカの作品を見た後に実際にアメリカに行ったりすると、より作品が面白くなる感じがありますよね。ベテランちさんはアメリカに行かれたことは?本土は行ったことなくて、今年の冬にニューヨークに行って、YouTubeの本社とかも見に行こうかなと思っています。アメリカの文化を見た後にディズニーの映画を見ると、「これってこのことなんだ」というのが結構出てきますよね。
すごくフックになるというのは重要ですし、私も『ズートピア』を初めて見たのは2016年にニューヨークへ旅行に行った時でした。やっぱりリアリティが違うというか、ストリートを1つ渡ったら活動している人たちの様相が変わる。『ズートピア』で描かれるような感覚が実際にある中で、ここまでは白人ばかり住んでいて、他の民族の人は他所に住まわされていたりする現実を見たりすると、体験も変わってきますね。そこで重要になるのが、私が研究している中でも重要な概念の1つである「リプレゼンテーション(表象)」という概念なんです。
ラッパーの「レペゼン」の語源ですね。我々は何かを話したり描いたり、動画を作ったりする時に、全てのものをそのままそっくりは伝えられないじゃないですか。「1日をお見せします」と言ったって、編集してカメラを回したところがあって、音楽がついたりする。結局、現実の何かを別のものに置き換えて伝えている、代表させているわけです。言葉やビジュアルなどの記号を通して再現している。それが「リプレゼント(再び存在させられている)」されているということです。それって自分たちの判断で切ったり取ったりするわけで、ここを見せたらいいなというのを、意識的な部分もあれば無意識的に判断している部分もありますよね。
複雑な全てをそのまま伝えられないから何らかの抽出を行っているけれど、それも今まで見聞きしてきたことに影響される。同時に、受け取る側も全てをそのまま受け取れないから、大体想像で補って作っていますよね。そうやって流通しているイメージが共通してあるから、我々は話せるわけです。その流通しているイメージのことを表象、リプレゼンテーション(代表されたもの)と言うんですよ。例えばそれが本当に代表的でなかったとしても。そういった意味で、見聞きすることを通して、知らないものや行ったことのない街や国のイメージ、現実感(リアリティ)を形作っているんです。記号を通して。
例えば日本を描くとなった時、どういうものを描いたらアメリカや世界の人たちに伝わるかということで、芸者や歌舞伎などが抽出されるわけですね。黄色人種が出っ歯に描かれていたのも、「これが分かりやすいでしょ」ということで。誰がどう演じるかというキャスティングの話もそうだし、何をどう描くかということも、全て表象という概念で捉えられる。それがどういう選択を行われたのか、誰が選択したのか、どういう状況で誰に伝えることを目的に考えられたのかという文脈を考えることが、根本にあるのかなと思います。それを考えるためには、歴史的な文脈を捉えなきゃいけないですよね。
コンテンツの裏側に関心があって覗き見する面白さとはちょっと違って、そこで意図しない何が起こっているかを解釈する上でも、表象という概念が役立ちます。自分たちが見ているものが誰かに意図的に切り取られて作られたものだと意識するだけでも、歴史を細かく知らなくても、調べるきっかけになると思います。「何がディズニーやピクサーを動かしている要因なのか」「なぜそう描かれているのか」に関心を持つことが、一歩になるのかなと思います。YouTubeで言ったらアルゴリズムの研究みたいなものですね。「どういう意図があってこの墨付き括弧に『神回』って書いてあるんだろう」とか、「コムドットの動画で恋愛っぽいやつだけやまとのピンのサムネになってないか?イケメンで数字が伸びるからじゃないか」とか。映画のポスターが日本版になると情報がすごく増やされるのと同じですね。
映画だったら映像や言語において、みんなが「プリンセス」という言葉に最初から決まっている四角い枠をイメージしているけれど、本当はそこから政治的な広がりや人々が参加して広がっていくぼんやりとした広がりがあって、その四角い言葉が代表している、という話だと理解しました。僕が短歌を作っている時に何が面白いと思うかというと、すごく文字数がギュッと詰まっているから、そのぼやけの部分がどうしても大きくなるんです。映画は映像の情報量がすごく多くて、望めばある程度完璧に近く理解させることができるんですけど、短歌はどこまで行っても「書かれていない情報をどう解釈しましたか」というブレが出るのが面白い。YouTubeも作り手と受け手がフラットで、コメントができたり「これ面白くない」「炎上させよう」とできたりする平坦さがあって好きなんですけど、規模が大きくなればなるほど、脳のキャパや精神的な余裕がないと、分からないことを考えるのって楽しみにくいですよね。
そこのバランシングはめちゃくちゃ難しいです。ディズニーが数人に見せるだけのものを作っている状態だったら難しくないんですけど、今日の私のシャツにも入っているように、マーベルのアベンジャーズからスター・ウォーズ、ディズニーアニメーション、ピクサーまでいろんなブランドを抱える巨大企業になりました。多角化を果たしたメディアコングロマリットと言われますが、配信から映画館、テーマパーク、クルーズ、ゲーム、音楽、舞台まで全部やっていて、ルーカスフィルムやマーベル・スタジオ、ピクサーなどを買収していった。世界中のファミリーエンターテインメントにある種の責任を持たなければならない立場になってしまったわけです。彼らのビジネスの選択ではあるんですけれども、だからこそどう向き合うのか、彼らの中でも相当な議論や葛藤があるんだろうなというところに私の関心があります。
どんだけ新しいことをしたくても、世界中のキッズやお父さんお母さんが楽しめるバランスを残しておかなきゃいけない。すごく分かりやすく言うと、実の母親や父親が悪いやつだったというのが描けないんですよ。基本的に今でも描けないです。ギリギリそういう話も最近は無くもないですけど、大ヒットしたメジャーなコンテンツでは当然ない。ファミリーで見る前提があるから、親が子供に安心して見せられるものというブランディングの上では、そこが重要だったりするわけです。
ただ一方で、アメリカでは養子をとるなど家族のあり方も多様ですし、人種やセクシュアリティの多様性も、当たり前にいろんな人がいるという前提の理解が進んでいます。そういった意味で、グローバルに商品を売っているディズニーが描くフェミニズム的なものや多様性的なものへの向き合い方は、非常に重要な要素になってきています。アメリカ市民、ひいては世界の市民の中に誰が含まれているかという闘争が脈々とあって、特に60年代の公民権法以降、人種やゲイリブなどの運動が拡大していきました。
その拡大していった先で、さっき言ったポストフェミニズムという状況に何があったかというと。50年代は核家族を想定して政府が社会福祉を行っていたわけですね。国家が市場を統制して不平等や貧困をなくそうという福祉国家体制(大きな政府)です。それが前提にしていたのが、男性が稼ぎに出て、女性が家で白雪姫のように無償で家事やケア労働をするという専業主婦の構図でした。その制度設計に対して、60年代以降の第2波フェミニズムが批判した結果どうなったかというと、徹底した競争社会になったんです。
第2波フェミニズムが求めた「女性も労働市場に参画できるようにする」という主張をある種逆手に取って、新自由主義的な考え方が合体したんですね。女性も確かに一部は働くようになったけれど、徹底した競争の結果は自己責任となり、共働きが当然という状況が生まれ、企業側は都合のいい安くて切りやすい労働力として女性を市場に入れたということが起きたんです。それが1980年代以降に浸透していった中で出てきたのが、ポストフェミニズムと呼ばれる状況です。法的平等を達成し、ウーマンリブを経て女性の一部が社会進出できるようになった状況を見て、「女性も男性と同じように働ける社会が来たじゃん、自由になったんだからもうフェミニズムはいらないよね」という空気感が生まれていった。その空気感こそがポストフェミニズムです。
1980年くらいからは、「権利はあげたんだから、あとは戦場で勝ち抜いてください。地位が上がる人とそうでない人は自己責任、個人の選択と能力の結果だよね」という形になっていったわけですね。フェミニズムが自己責任的なものになってしまった状況でどう向き合うかという中で、それまでは社会運動主体だったものが、映画やポピュラーカルチャーにフェミニズム的なものが取り入れられていくようになったのが90年代以降です。それがディズニー作品にも現れていて、1989年の『リトル・マーメイド』以降なんですね。
第2波フェミニズムを前提にして入っていったのが『リトル・マーメイド』です。1950年が『シンデレラ』、1959年が『眠れる森の美女』ですが、眠っていて王子に起こされるような描写は、ちょうどジェンダーという概念が生まれた頃の作品です。ジェンダー概念以前の『白雪姫』、ジェンダー概念が生まれて以降の『シンデレラ』、そして第2波フェミニズムを経たアリエル以降という構図になっています。その歴史的文脈の中で、どういったものを描くことが少女たちにとって良い影響があり、共感しやすいのかの象徴になってはいるんですけれど、作っている会社を見ると、結局はまだまだ白人男性ばかりが作っていたわけです。その中で女性の実感や視点で物語を語っていくように変わるのが、例えば2013年の『アナと雪の女王』です。ディズニーのアニメーションで最初の女性監督作品なんですね。
『アナと雪の女王』は、アナがある種専業主婦や家庭的なものに憧れる女性として描かれ、エルサは能力を持った自己として生きていくけれど、社会とうまく迎合できずに能力が暴走してしまう。まさにポストフェミニズム的な状況を前提にしていたりします。そういうことを意識していなくても、多くの人が共感しているわけじゃないですか。みんながなんとなくその問題設定を体感しているんですよね。文化的なものが共感を呼ぶというのは、説明がなくても共鳴する部分があるということで、それをどう捉えるかを考えるのが研究者や批評家の仕事です。
最近ディズニーシーに新しく「ファンタジースプリングス」ができましたよね。『アナと雪の女王』などはすごく有名で人気ですけど、ああいう最新のアトラクションを見ると、今の人たちが好む作品が分かったりしますか?一方で、同じエリアに何があったか覚えていますか?ラプンツェルは2010年ですが、もう1個あったのがピーター・パンなんです。あのアトラクションの最後に象徴的なセリフがあって、「いつまでも子供のままでいてね」と言うんですよ。あれはディズニーシーであそこに行くと、結構心にグサッときますよね。
パークが好きな方たちの間では「感動しちゃう」と捉えられていますが、『ピーター・パン』は1953年の作品なんです。『アナと雪の女王』や『塔の上のラプンツェル』は2010年代なので、前提としている価値観が違います。アトラクションで先住民がどう扱われているかもぜひ見てほしいところですが、ディズニーを政治や歴史的な文脈から見るということは、世間一般のイメージとは対極にあるわけじゃないですか。「そんな難しいことを考えずに、綺麗だな、素敵だなと思いたい」と。ウォルトもパークの外が見えないように盛り土を作ったという話が有名ですが、ある種漂白された空間や作品としてのディズニーは当然あるわけです。その象徴であるピーター・パンが「いつまでも子供のままでいてね」と言うことに感動するというのが前提化されている一方で、一歩外に出た時にどう見るのかというせめぎ合いが、50年代からずっと続いてきているんです。
山本さんも『ピーター・パン』を見て感動すること自体を否定しているわけではなく、もう一つのアングルがあるということですね。あれを見てすべての人が楽しめていたわけではないということ、あれを見ることによって自分の存在を傷つけられているかのように感じていた人たちが当然いたということを無視してはいけない、ということです。決定権や権力に近づけない「マイノリティ」の人たちを描くことがなぜ研究において重要だったかというと、描かれて目にされるようになることが、実質的な権利の付与や社会的地位の向上につながる側面があったからです。これを「可視性のポリティクス(politics of visibility)」と言います。可視化されることが実質的な帰結をもたらすというものですね。しかし、企業が商品として描くとなった時に状況が変わってきます。
多様な人たちを可視化して描くことが直接収益につながる状況になると、描くこと・可視化すること自体が目的化するわけですね。黒人が主人公のマーベル映画『ブラックパンサー』のように、描くことで黒人の観客がたくさん来て実際に収益につながる。新しい顧客を相手にすることが多様性を取り入れることである、という面があるんです。ただ、マイノリティを描くこと自体が目的化してしまうと、社会批判がイノベーションの資源になってしまう。「ディズニーって多様性に気を遣っているよね」と新しさや先進性を感じさせられれば、実質的な社会構造の変化はどうでもいいという状況を結果として生んでしまう。そこが問題で、このことを可視性のポリティクスに対して「可視性のエコノミー(economy of visibility)」と言います。可視化自体が経済になってしまうということです。
これは資本主義自体の問題ですよね。反資本主義的なものすら推進力にして進めていく。その側面として、フェミニズムや多様性が素材になるという状況が生まれている。可視化されればされるほど反発も増えるのは当然で、その状況を捉えられないから「ポリコレだ」「ポリコレじゃない」という話に終始してしまうように見えるんです。歴史的な文脈や、文化人類学・社会学の中で蓄積されてきた視点や概念を使うことで、「ポリコレか否か」という議論を別の角度から見ることができる、という研究をしています。
女の子や黒人、LGBTQがいっぱい出てきたらポリコレで、古き良きロマンスだったらポリコレじゃない、という単純な二元論ではないということですね。資本主義に飲み込まれるタイプの異議申し立てもあれば、異議申し立てとして成立している時もある。これはディズニーに限らず、資本主義全体に言える話です。YouTubeでも新しい革命児が出てきても、全体の像が変化していつの間にか保守的なものに飲み込まれていく。文学でも、白人男性中心だったものがアジア文学や女性、黒人へと流れていく。マイノリティが何かをしていることが即座に良いことかというとそうではなく、マジョリティと共犯関係になってサイクルを高速で回しているのではないか、と。そこまで視野に入れると、「ポリコレだから良い/悪い」という単純な話ではなくなってきますね。
今まで機会が与えられていなかった人が急に主導権を握らされて、すぐにうまくできるかと言ったら、そうじゃない場合もありますよね。それなのに女性監督の作品が失敗した時に、「ほら失敗しただろう」と一辺倒に指を差すような状況も理不尽です。構造的な蓄積の違いを見なければいけない。そしてプリンセスの話がなぜ分かりやすいかというと、中身が変わってきているのに、ディズニーは今でも「ディズニープリンセス」という枠組みで売るんですよ。ディズニープリンセスというブランドがいつ始まったかご存じですか?
『リトル・マーメイド』くらいですか?大正解です。そのあたりまで来ないと役者が揃わないんです。『リトル・マーメイド』の前は、白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫の3人しかいませんでした。アリエルが出てきたあたりから大ヒットしていわゆる「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれる復活期に入ります。1989年の『リトル・マーメイド』、1991年の『美女と野獣』のベル、1992年の『アラジン』のジャスミン、1995年の『ポカホンタス』、1998年の『ムーラン』。このあたりをまとめて、2000年にナイキ出身のマーケティング担当者が来て、「子供たちに向けてなぜプリンセスのドレスを自社ブランドとして売らないんだ」と立ち上げたのが「ディズニープリンセス」だったんです。今パークに来ている20代、30代のメインターゲット層は、まさにその時代に揃ったキャラクターたちに親しんできた世代です。
僕がフロリダでディズニークルーズに乗った時、白人の女の子はシンデレラの服を着ていて、黒人の子はティアナ(『プリンセスと魔法のキス』)の服を着ていたんです。可視化されている感じがあるなと思いました。それは重要な問題で、プリンセスは多様化してきていると言われますが、これはダイバーシティ(多様性)なのか、単なるマルチプリシティ(多重性・選択肢の増加)ではないかと言いたいんです。選択肢は増えているけれど、「黒人はティアナ、アジア人はムーラン」と分かりやすい割り振りがされ、「マイノリティは1回やったからもういいでしょ」となってしまう部分がある。映画として作れる数には限界があるので仕方ない面もありますが、資本主義的には選択肢の組み合わせを増やすことしかできないんです。
東南アジアのラーヤやポリネシアンのモアナなどが出てきて選択肢は増えましたが、文化盗用(カルチュラル・アプロプリエーション)などに敏感なアメリカでは、「お話としてはティアナが好きだけど、私は白人だからあのドレスは着づらい」という声があったりします。キャラクターと人種や衣装がむしろ固定化してしまう難しさがある。白人しかいなかったらどれでも着られたけれど、アジア人のキャラがいると「アジア人はこれを着なきゃいけないのか」となってしまう。ディズニープリンセスという枠組みが拡大する中で、「王子様って本当にすぐ信用していいのか」「男女の愛だけなのか」「そもそもドレスを着ていなきゃいけないのか」といったフェミニズム的な問い直しが取り入れられてきました。作り手が研究発表をしているわけではなく、何が売れるかを探求した結果を我々が分析しているわけですが。
商業的な観点、作家性、社会的な視点など、いろんな人が意思決定に関わっているので一概には言えませんが、結果として脱・白人、脱・旧来的な女性像のキャラクターが増えています。その結果、白人キャラクターは旧来的な女性像、非白人キャラクターは先進的な女性像という風に分かれてしまう現象も起きています。制作側も自分たちに向けられてきた批判を自覚していて、2018年の『シュガー・ラッシュ:オンライン』では、プリンセスたちが集まる部屋にヴァネロペが迷い込んで、「毒を盛られたことはある?」「呪いをかけられたことは?」「男の人に助けられたと思われてる?」と聞かれて「そう!」と答えると「本物のプリンセスだ!」と迎えられるシーンがあります。
今まで言われてきたフェミニズム的な批判を「分かってますよ」と自虐ネタにしてしまう。自覚的に変わってきたと評価できる一方で、ネタ化して自分たちのブランディングに回収しているという、自己再帰的な構造があります。それをやりつつ「プリンセス」という枠組みには押し込んでいく。ディズニープリンセスという枠組みは、非常に歴史修正的なブランディングになっているなと思います。1937年の白雪姫から2013年のアナまでをひとまとめにすることで、「私たちは昔から先進的な女性像を描いてきました」というセットのマーケティングに見せてしまう側面があるんです。
昔の作品と今の作品では作り手も価値観も全く違うのに、ひとまとめにして文脈を漂白してしまう。さらに、それを生き延びさせるために実写化するわけです。過去の古い価値観の作品を子供に見せたくないという親に対して、「今見ても大丈夫な価値観で作り直しましたのでぜひこちらを」と実写の『リトル・マーメイド』や『白雪姫』を出す。キャラクターや物語を手放さず、未来永劫ディズニーパークやグッズとして身近にあり続けさせたいというビジネス戦略があるわけです。だからディズニープリンセスと一口に言っても非常に複雑なんですね。
1980年代後半くらいから急に雰囲気が変わってきたと感じていましたが、そういう共通の要素があったんですね。日本のプリキュアでも男性や犬のキャラクターが増えたり、色と性別の関係が変わったりと同じような歴史を辿っていますよね。哲学や芸術でも同じことが起きていて、ダ・ヴィンチやデュシャンなど男性ばかりだった歴史に、後から女性を足しても「男性中心だった残像」はどうしても残ってしまう。現代の歴史観に落とし込もうとしても歪みが隠されるだけ、という問題はどのジャンルにもあって、それをディズニーで研究されているのが非常に面白いです。
男女の役割を単に反転させたらギャグになる、みたいなことがありますよね。画期的なことをしているつもりでも、お笑いとして昇華されてしまうと、元の役割分担や前提が逆に固定化・強調されてしまう。笑いには前提が必要ですから、単なる「外し」で終わってしまうと解体の実践にはならないという難しさがあります。
ディズニーは政治とは遠いところにあり、難しいことを考えたくないから見るものだ、という感覚を作っている側も売る側も自覚しています。だからこそ「政治とは切り離された純粋なもの」としてブランディングしているわけですが、結局そこからは逃れられない。その葛藤を捉えようと研究しています。私はこれを「ポリティカル・イノセンス(政治的無垢)」という言葉を使って説明しようとしています。「政治的ではない立場です」と振る舞うこと自体が持つ政治性を捉えて分析する、ということです。これについて書いた論文がちょうど刊行されますし、YouTubeの「WEGAチャンネル」でも発信しています。研究者が研究室に籠もるだけでなく、カルチャーに関することは広く共有していきたいので、今日こうしてお話しできて楽しかったです。
最後に確認したいのですが、現実の複雑で難しい部分を剥がしてポヤッと楽しめるのがファンタジーだけれど、広く大衆に伝えるために抽出するからこそ、現実の根底にある無意識や固定観念がはっきりと露出してしまう、ということでしょうか?そうですね。広く普遍的に伝えようとすればするほど、何らかの固定的なイメージや蓄積に頼らざるを得なくなる。受けるためには根底のフックが必要ですから、作る側はそのせめぎ合いで本当に大変だと思います。大人になってから見直すと社会勉強にもなって二度楽しめますね。
英語の原語版で見ると、車のキャラクターでも黒人英語を話していたりして人種性が感じられるのですが、吹き替えに翻訳されると消えてしまう部分もあります。原語版と比較してみるのも面白いと思います。自分には関係ないと思っている男性もいるかもしれませんが、「問題について問題だと考えなくていい状態」こそがマジョリティの特権なんですよね。決して女性だけの問題ではなく、むしろマジョリティ側の問題でもあります。無理のない範囲で、元気な時にいろいろ考えてみていただければと思います。今日は本当にありがとうございました。ありがとうございました。
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