若新雄純が語る「承認中毒」からの2年間のリハビリ 出番がない自分を味わうということ
新R25チャンネル週刊誌の報道をきっかけに活動を休止していた若新雄純さんが、新R25のインタビューに久しぶりに登場した。聞き手は、かつて番組「思春期ビジパ学園」で共演していた新R25の編集長である。休んでいた2年あまりの間に何を見つめたのか。若新さんは、自分は他者からの評価や注目がないと安心できない人間だったと繰り返し認めた。そのうえで、精神科医とのカウンセリングや家族との対話を通じて、刺激に頼らずに「何でもない自分」で生きる感覚を少しずつ取り戻そうとしてきた過程を語った。本人は「治った」とは言わず、少しは冷静に分かるようになった段階だと位置づけている。
報道直後は「自分をどうするか」を考える余裕がなかった
聞き手によると、若新さんとは約4年前に会議室でのインタビューで初めて会い、その2年後ぐらいから「思春期ビジパ学園」というコーナーが始まった。番組はもう一人の出演者の佐野さんの転職をきっかけに終わり、大々的な卒業式イベントも開いた。休止はその直後だった。若新さんはこれを「本当に人生の卒業式みたいな感じになっちゃいまして」と振り返っている。
報道が出た直後の心境を聞かれた若新さんは、身近な人に謝り、家族と向き合うことで精一杯だったと答えた。自分がこれからどうするかを考える余裕はなかったという。関係者への連絡と謝罪をひと通り終え、家族とも毎日話をしたうえで、ようやく「これから自分はどうするのか」を考える静かな時間が来た。
「特別な関係者」でありたかった
若新さんは自分の性質を説明するのに、ロバートの秋山竜次さんが歌う「関係者」という曲を持ち出した。VIPのシールを貼られて裏口から入り、関係者席に案内される人たちを羨み、どうすれば関係者になれるのかと思う。そんな業界の姿を揶揄した曲だという。
若新さんは、自分はメディアに出たから関係者になれたのではなく、もともとあの曲に出てくる「どうやったら関係者になれるんだろう」と考える少年だったと話す。控室や舞台袖は、誰かが意図して「ここは関係者用です」と作っただけの場所にすぎない。そこを通ったからといって人間の本質が変わるわけではないが、若新さんにはそう感じられたという。人にとって特別な存在でなければ自分に安心できない、不安で弱い人間だったというのが本人の自己評価である。
だからこそ、出演している番組は降板したくなかった。コンサルティング、政策づくり、大学の仕事も含め、どうすれば関係を続けられるか、何を求められ、どう振る舞えば喜ばれ、面白がられるかに執着していた。ときには自分がピエロやおもちゃになることも含めてである。報道によってその関係が突然断ち切られ、まずは一つひとつに対する申し訳なさが目の前にあったと語った。
「あなたの話は聞きたくない」という宣告と、カウンセリング
若新さんは、自分はメディアの中だけでなく日常でもずっと喋ってきた人間だと言う。幼稚園の頃から話し相手を探し、今日も誰かに話を聞いてもらえた、相手にしてもらえたということで自分を保ってきた。10年ほどは、その性質が刺激的な仕事にもつながっていた。それが一気になくなった。
そのうえで、妻から「あなた中心の、あなた都合の話は聞きたくない」とはっきり言われた。これまで自分が喋りたいことばかり喋ってきたのだから、今度は相手がどんな話をしたいのか、何を聞きたいのかを考えて、相手本位で生きてみたらどうか、という趣旨だった。若新さんはパニックになったという。問題を起こしたのは自分なので、周囲も気分よく話を聞いてはくれないし、泣き言や愚痴も増える。そこで妻が「そんなに話を聞いてほしいなら、お金を払ってプロに聞いてもらえ」と精神科の医師を探してきた。
医師は素敵な人だったと若新さんは言う(名前は本人の了解が得られていないとして伏せられた)。薬を処方するような状態ではないという判断で、カウンセリングやセラピーを通じて自分をより冷静に、ありありと捉えられるようにしていこうという方針になった。若新さんはそれまで、何かのプロや教える人が目の前に現れても斜に構えるタイプだったと認める。しかしこの医師との時間では、疑うのではなく、言われたことをいったん全部そのまま実践してみようと決めた。その時間はとても有意義だったという。
メタ認知が得意な人ほど陥る罠
最初に挙げた気づきは、メタ認知についてだった。カウンセリングで若新さんは、医師の話を聞くたびに「そういうところありますわ」「振り返るとこうで、今の状況もこうだと思う」とすぐに自分を整理してみせた。医師はそれを見て、若新さんは自分を客観視するのが得意な人だと認めたうえで、メタ認知が得意な人が陥りがちな罠があると指摘した。
罠とは、自分を客観視できているから、同じくらい自分をコントロールできると思い込むことだという。若新さんは客観視が好きで得意だったはずなのに、自分のさまざまな弱さに対して盲目的になり、止まれなくなっていた。「いざとなれば自分のことは自分で何とかできる、俺はバカじゃない」という思い上がりがあった。その思い上がりが、見たくないところを見ないようにさせ、都合のいい解釈で逃げ続けさせ、引き返せない状態をつくる。医師にそう指摘され、若新さんは「その通り」と思ったという。
カラオケと結婚式 出番を先回りして作る生き方
指摘はさらに深い部分に及んだ。若新さんは身近な例としてカラオケを挙げる。歌も目立つことも大好きなので、友人の歌を聞いているだけでは退屈で、それどころかその日の自分に価値がなかった気がして帰ることになる。自分に出番がないパーティーでも同じで、ただ呼ばれて出席しているだけ、というほとんどの人が普通に経験する状況なのに、スポットライトが当たらなかったというだけで何のバリューも生まれなかった気がしてしまう。
そうなると分かっているので、若新さんは先回りする。みんなが喜びそうな歌を覚え、曲を入れるタイミングを考え、このメンバーならこれを歌えば盛り上がるという戦略を張り巡らせる。友人や後輩の結婚式に招待されれば、頼まれてもいないのに「スピーチ準備しておく」と出番を作ってもらい、実際にきちんと盛り上げる。「また行こうね」と言われて帰ると、自分はこういう場で価値を発揮できると確認できる。
医師によれば、これこそが大問題なのだという。出番がない日もある、出番がないとはこういう感じか、出番がなかったけど一日無事に終わった、ということを味わえない人間は安心して生きられない。自分がどう振る舞えば喜ばれるかまで客観視できているから間違いは犯さないし、だからこそテレビのレギュラーも増えていった。しかしそれは、感じたくない痛い自分をずっと遠ざける行為だったというのである。聞き手の編集長も、自分も常に自分にどんなバリューがあるかを考えていて「オーガニックに生きていない」と重ねた。
若新さんの説明では、ほとんどの人は目立ちたくても目立ち続けることはできないので、目立てない日を受け入れざるを得ず、それによって健康になっていく。スポットライトが当たらなかった日でも、家に帰れば家族や恋人が待っていて、おいしいご飯と温かい風呂があり、健やかに眠る。それでも自分は生きていると実感できたときに、本当の意味での自信や自己肯定感が芽生えるのだろうと若新さんは考える。自分はそこから目を背け、「今日も若新がいたから盛り上がった」という日を際限なく作り続けていた。編集長はこれを「幸福感が幼稚だった」「ドーパミン的な世界でしか幸福感がない」と言い換え、若新さんも、何もなくても大丈夫という安心を育めていなかったと認めた。
「ミドル」「ハイ」「ロー」という見取り図
医師の細かい説明を、若新さんは自分なりの言葉で整理してみせた。精神的に健康な人の例として挙げたのは、幸せな生活や家族があっても、SNSに上げる写真は風景ばかりという人である。こうした人は何かがあるから幸せなのではなく、何でもない「ミドル」な状態で、不安や孤独感なく毎日が過ぎていく。だから何もなくても安心していて、おいしい、景色がきれい、楽しいといった感情が自然に湧き、一日疲れて眠る。「ミドル」という表現が適切かは分からないと若新さん自身も断っている。
一方、特別な出番がないといけない人は、このミドルな状態に価値を見出せない。何もない状態を空白、空洞だと感じ、出番のなかった自分にがっかりして「ロー」に落ち、鬱っぽくなる。それを避けるために「ハイ」に行こうとする。結婚式のパフォーマンスも、番組で毎回鋭い解釈を出していたことも、そのための手段だったと若新さんは言う。毎日いろいろな出番でそれを繰り返せば当然とても疲れる。それでもローに落ちるくらいなら、疲れてもハイの状態で「すごかったね」「さすがだね」と言われてほっとしていたい。そういう人間にとって、ハイを得られる仕事がすっぱり断たれれば、当然大きく落ち込む。
医師からは、いつかまたそういう仕事をする日も来るだろうから、そのときにはハイでないとダメなのではなく、ミドルでも生きていられるようにしたうえで、ハイな仕事も「楽しい」に変えないと苦しくなると言われた。編集長はこれを一種の薬物のような状態にたとえ、若新さんも薬を抜く作業と同じだと思うと応じている。
逃げずに「うわっ」と味わい切る
では具体的にどうすればいいのか。医師のアドバイスは、出番や注目がないときに「うわっ」となっても、そこから逃げずに味わい切って帰ってください、というものだった。若新さんは、味わう前に回避してしまっていたのだ。
会に呼ばれて出番がなく、つまらなかったと感じたら、塞ぎ込むのではなく、あっけらかんと「今日は寂しかった」「つまらなかった」「誰にも気づかれなかった」「自分は別にいなくてもいいのかもしれない」と思うときの感覚をよく咀嚼する。人間はそういうとき、胸なのか腹なのか分からないが、体に何かがぐわっと来る。その感じが嫌だからごまかそうとするが、ごまかさずに、いま来ているなと捉える。そういう感覚に耐性があり、ぐわっとなっても遠ざけようとせずに、いろいろなことがある日常を平然と生きられる人もいるらしい、と若新さんは語る。
編集長は、自分も価値を発揮できなさそうな場では喋るか話を振るか、無理なら早めに帰ってしまうと明かした。若新さんは、帰り続けていればまさに塞ぎ込み、ミドルでいられずにローに落ちてしまうだろうと答えている。医師の説明によれば、このそわそわする感覚は幼少期などの要因で体に刻み込まれていることがあり、それを避けようとするときに非常に大きなエネルギーが出る。そのために喋ったり、残業して頑張ったり、誰かの使い走りになったり、DVのような関係でも尽くしてしまったりと、不健全な形で逃避しようとする人がいるという。
活躍や注目を必要としない人たち
編集長は、自分が全然喋れず意味があったのかと思う場のあとに落ち込まない人のほうが少ないのではないかと疑問を呈した。これに対し若新さんは、最近気になっていることとして、自分たちはこういう仕事をしているから、活躍を求める不健全な人たちが集まる世界にいるのだと述べた。健康な人たちは、無理して活躍や注目を「いらない」と言っているのではなく、本当に不要なのだと思うという。楽しい話が聞けた、この映画が面白かった、このご飯がおいしかったで十分で、むしろ「よくそんなに頑張れますね」と若新さんたちのような人を不思議に思っているのではないか、と。
若新さんは、カンファレンスやサミットに登壇が決まったと皆がSNSに投稿し、モデレーターを頼まれると力がみなぎる、その気持ちは分かると言う。だが、そういうものがない人が皆つまらないと思って生きているわけではない。自分たちがルーティンや平坦、思考停止とバカにしているようで、実は彼らのほうがたくましく強く生きているのかもしれない。自分たちは平然と穏やかにいられないから、変わらなきゃ、突破しなきゃ、つかみ取らなきゃと言い続けている。自分は思春期ぐらいからそうだった、と若新さんは話した。
編集長は、健康になって幸福や自己肯定のハードルが下がると、自分で鞭を入れなくなり、全体のパフォーマンスが落ちるような感覚があって、それを良しとできない自分もいると率直に語った。若新さんは、そのパフォーマンスを決めているのは経済という人間が人工的に作った仕組みであり、東京という町はそれと親和性が高いと応じた。年収や再生回数のように数値化された何かがもてはやされる世界は本来の自然界にはなく、SNSがそれを加速させている。若新さんは、自分が田舎で生まれ育ち、思春期から「都会に出て中央で出番を作り続けるぞ」と思っていた時点で、ある種の健全な人生はもうなかったのかもしれないとも振り返った。
休んだ2年間で変わったこと 一人で出かけられるようになった
先生との対話を通じて多少なりとも矯正できたと思うか、と聞かれた若新さんは、一つの変化として「一人で出かけられるようになった」ことを挙げた。中学生の頃から、日々の出来事を誰かに喋って「すごい」「面白い」と言われていないと不安だった。ご飯はもともと一人でも行っていたが、今は一人でなんとなくコーヒーを飲みに行き、銭湯やサウナに行き、ドライブもする。
話し相手がいないうえに刺激的な仕事も断たれているので、運転中でも何をしていても「こんなはずじゃなかったんじゃないか」というざわざわが全身を襲ってくる。ChatGPTに話しかけなかったのかと編集長が聞くと、若新さんは、究極的に寂しいからこそ人間の温度感や質感を求めてしまい、それがトラブルの原因でもあったと思う、と答えた。そのざわざわから目を背けず、単に辛い時間だと思いながらも、自分は生きている、友人や仲間や家族がいる、ご飯もおいしい、ということを少しずつ積み重ねる。それによって平然とした状態が少し育まれた、というのが若新さんの実感である。
一方で医師からは、愛情や社会的な価値を過剰に追い求める欠落した人ほど、大きな仕事や社会的成果を上げることが多いという皮肉も指摘された。若新さんは、そういう人が世の中的に仕事をするのは事実だと思うと言う。医師は、そうした仕事をやめなさいとも、そんなものに価値はない、自然に帰りなさいとも言わなかった。人間は社会的、人工的なものを追い求めてしまうものなので、全否定するのではなく、しょせん穴を埋めるためにやっているにすぎないという自覚と構造の理解を持ったうえで、完全にはまり込まない程度に付き合う力を休みの間に養う。ただし、それが養えたかどうかはまだ分からない、と若新さんは慎重だった。こうして戻ってきたことで、また「薬」が近くにある状態でもある。日常でもつい昔のような振る舞いをしてしまい、「昔の若新さんっぽさが出てたね」と言われることもあるという。
若新さんの説明では、ハイの状態は翌日には消えてしまい、自分に蓄積されない。売れている芸能人がギャンブルや薬物にはまっていくのも、根本的な安心や自信が積み上がっておらず、毎日の注目や評価が翌日には消えて、またハイを取り戻さなければならないからではないか、と推測する。対照的に、会ったことはないと断ったうえで、タモリさんや成田悠輔さんのような人は、ハイにしがみついて生きているのではなくベースがあり、仮にすべて失われても自分そのものがなくなるわけではないという余裕があるように見える、とも語った。編集長はひろゆきさんもそちら側の人ではないかと付け加えた。成田さんが呼ばれた場で出番がなくても「今日は置き物として」と平然と帰っていけそうだという想像を、若新さんは「かっこいい」と表現しつつ、これも自分の勝手な決めつけだと念を押している。
「切り返しが速い」のは自信のなさの表れだった
復帰後、若新さんはいくつかの番組に出演し、自分の出演シーンやショート動画を見返した。進行や振りに対して間髪入れず、かぶせ気味に返している。コメント欄には「切り返し早えな相変わらず」と書かれていたが、若新さんは「違うんすよ」と言う。前のめりに返していかないと、まだ俺は出せるぞ、ちゃんとついていけているぞと示せない。その不安と自信のなさから早口と回転が生まれているのであって、視聴者の好意的な反応は、弱さを直視しないための都合のいいフィードバックだったと語る。編集長はこれを「自己肯定感の土台がないからこそできてしまった悲しいスキル」とまとめた。
さらに若新さんは、医師に聞いた話として、瞬発力が求められる場面について語った。地上波の生放送のように、わずかな隙に入っていく役割を期待されると、信じられないほど集中力が高まり、景色は鮮やかになり、音も細かく聞こえる。どれだけ寝ていなくても「本番入ります」で急に覚醒する。スタジオで誰が何を言ったかも頭の中で整理できる。しかしそれは人の気持ちに寄り添っているのではなく、自分のパフォーマンスのためだった。実際に周囲からは、討論番組では人の話を丁寧に聞いてまとめるのに、日常では他者を無視して言いたいことだけ言っている、とよく指摘されたという。
そういう働き方をしていると、何でもないときには音も聞こえず、味もしなくなるらしい。仕事が終われば物忘れもし、時間感覚もなくなる。オフになると、今日は楽しい、心地いいといった感覚が分からなくなり、次の出番が来ないと不安で仕方がない。ミドルな状態での感覚値が低下し、自然に入ってくる刺激に体や脳が反応できなくなっていた、と若新さんは説明する。編集長は「濃い味を食べすぎて薄味が分からなくなるようなもの」と言い換えた。
「本物」と、手を加えて売れる人たち
編集長は、メディアにはオーガニックなまま受け入れられて人気になる人もいるが、それはごく一部で、基本的には瞬発力とドーパミンの世界に染められていくのではないかと問いかけた。若新さんは、そうした人たちは目指してそうなったのではなく、もともと本物の才能や感性を持っていて、見つけられただけなのかもしれないと答える。売れるように自分の形を変える努力をしたわけではない。
一方、本物ではない層は「プロデュース」という概念に触れ、どうすればよく見せられるかをやっていく。しかし若新さんは、世の中の商品のほとんども同じだと指摘する。広告に一切頼らずに流通しているものは限られており、多くは誰かが加工し、演出し、宣伝して手元に届いている。それでも一定の価値はあるし、おいしく使い勝手もいい。自分たちのような人間は、何かしら手を加えて売れる世界が精一杯なのかもしれない、と若新さんは言う。
編集長は、プロモーションを頑張りすぎている商品を見ると、素の商品力に自信がないように見えて不安になり、このやり方は続かないと感じると話した。若新さんは、努力したから本物ではなかったということではないと応じる。本物とは生まれ持った才能や、その土地の自然の恵みのようなもので、それだけでは世の中の商品は足りない。テレビやエンタメ業界も本物だけでは数が足りない。だから埋め合わせようとする努力が醜いとはまったく思わない、ただ行き過ぎないよう自分でコントロールするのが非常に難しいのだ、と話した。
キャリアショックは「止まる機会」かもしれない
編集長は、勢いよく上がれば停滞や転落が待っていると分かっていても、インシデントが起きなければ人は止まれず、棚卸しもできないのではないかと問うた。この動画を見た渦中の人が本当に止まれるのか、という疑問である。
若新さんはまず、自分のケースは自業自得であり、人に勧められるものではまったくないと強調した。そのうえで「キャリアショック」という概念を紹介した。キャリアの語源は馬車の轍であり、目の前にあるロードではなく、振り返って確認するものだという。その語源からすれば、キャリアプランやキャリアアップという発想はやや屈折しており、キャリア論では偶然が重視され、多く研究されている。偶然起きたことが自分のライフキャリアにどんな意味を持つのかを受け入れられず、「こうなるはずだった」と計画しすぎている人ほど、うまくいかないときに順応できず、自暴自棄になったりやる気をなくしたりする。
キャリアショックとは、失敗、解雇、望まない配属などですべてが崩れるような出来事で、本人に非がなくても、部署がなくなる、望まない転勤、家族の事情、事故といった形で多くの人に起きる。若新さんは、みんな「これさえなければうまくいっていたのに」と考えがちだが、それはどう歩んできたのかを冷静に見つめ、盲目的になっていたり過信していたりした部分をケアできる時間なのかもしれないと語った。走りながら自力でそれをやるのは無理で、多くの人は積み上げていると思っているから降りられない。止まらざるを得ないときも含めてその人の人生であり、そのとき腐らずに、この時間に何を問われているのか、忙しくて後回しにしていたことは何かに向き合う。それは気休めや慰めではなく、人生は進んだり戻ったりしながら少しずつ形になっていくものだという感覚だ、と若新さんは言う。
ただし、こうした考えは以前から頭では分かっていたとも認めている。どんな成功者の自伝にも修羅場やハードシングスがあることは知っていたし、自分にもそういうタイミングは来るだろうと言い聞かせていた。しかし望んでいなかった出来事に実際に直面すると、最初の数カ月はそんなことを考える余裕はなかった。医師と整理していく中で、途中から、ここで恥をかき、後悔し、反省してやり直すのが自分の人生に用意されていた規定路線だったのだと受け入れられるようになった。すると日常が前向きになったという。「いつか何かあるだろう」と「今これなんだ」はまったく違う、と若新さんは話した。
「タイムマシンはない」という先輩の言葉
先に同様の経験をした先輩たちに連絡を取った中で、若新さんに刺さったのは、「しばらく反省も必要だし、ゆっくりしな。一つ教えとくよ、どんなに探してもタイムマシンはないから」という言葉だった。当たり前のことだが、毎日「なぜあの時」という「たられば」に毒されていたので響いたという。
若新さんはこう分析する。タイムマシンを探すことは、本質的には反省していないということだ。「戻れればあんなことはしなかった」と思えるのは結果を知っているからで、そもそもそういうことをしない人は最初からモラルがあり、人を傷つけてはいけないと分かっている。タイムマシンと言っている時点で、自分の過ちをなかったことにしようとしている。途中から「これが俺だったんだ」と、間違えて恥ずかしい自分をベースとして受け入れる方向にようやく気持ちが切り替わった。そして、そういうことが織り込まれた今の自分が生きていることを味わえないと、また刺激がないと生きていけない人間に戻ってしまう、と医師に教わったという。
話は厄年にも及んだ。若新さんは報道の時期がちょうど厄年だったと明かし、厄年のせいにするつもりはまったくないが、その近辺で自分のせいで起こした問題に直視せざるを得なくなったと述べた。編集長は自身の周辺でも大変なことがあったとしたうえで、個人的な捉え方として、厄年は統計的に悪いことが重なりやすい年齢に名前を付けた概念であり、そこを抜ければまた上向くという希望にもなる便利な概念だと語った。
弟の言葉 自分で自分を評価すればいい
休止中に大きな支えとなったのが、2つ下の弟だった。年の近い兄弟はタイプが違うことが多いと若新さんは言い、弟はまったく目立つことに興味がなく、SNSも見当たらないか、あっても背景写真ばかりだという。第三者から見られたい、注目されたいという気持ちが微塵もない人だ。家族はみな感情的になっていたので、若新さんは「そばにいてくれ」と弟を頼り、ずいぶん助けてもらった。
なぜそんなことになったのかと聞かれ、自分がどう生きてきたかを話すうちに、弟は「他人に褒めてもらえないとダメな人間って本当にいるんだな」と驚いたという。そして、なぜ他人に認められようとするのか、自分で自分を褒めればいいじゃないか、と言った。自分のことを一番知っているのは自分なのに、なぜ他人に分からせようと過剰な労力を使うのか、と。たとえば休止中にニュースを見て「こう言えばもっと面白いのに、出番がない」と思ったなら、そういう視点に気づいた、自分は分かっている、それでいいじゃないか。一番簡単に評価してくれる人がすぐ近くにいるのに、そうではない世界に自分を売り込もうとしている、というのが弟の見方だった。
弟はストイックで、自分で目標を決めて達成する。フルマラソンを3時間半を切るタイムで走ったこともあるが、誰かに言うわけではなく、家族が聞けば「こんなもんやった」と答える程度だという。編集長は、今はSNSに投稿するほうが普通で、投稿せず自分で完結できる人のほうが現代では異質に思えると述べた。若新さんも、投稿する人がダメだと言うつもりはないし、弟を素晴らしいと推奨したいわけでもないと断った。それでも弟は強がっているのではなく、自分で自分の価値を確認していれば、思い通りにならない他人に振り回されずに済む、と言う。見てもらいたい、ファンになってもらいたい、いいねがほしい、褒めてもらいたいというのは全部他人に期待していることで、「お前の人生は無駄な労力が多くないか」と言われたという。
若新さんは、自信とは「自分を信じる」と書くのだから、他人の評価で生きている自分には自信が根本的に薄いのだと自覚するようになった。今は毎日「今日は自分にとってこういう一日だった」と言える時間が、前より少し増えたという。以前は、何時に起きる、この仕事をここまで進めるといった、自分しか確認できない自分との約束を次々に破っていた。寝坊したがいいコメントができた、寝坊したが打ち合わせでいい企画を出せた、と他者の評価で約束を破ったことをごまかしてきた。だから永遠に自信が育たなかったのだ、と振り返る。自分との約束を守り、守れたことを自分で確認する。基準が高い必要はなく、毎朝5時にランニングでなくても、朝1分だけ何かをするといった簡単な目標でいい。そういう人は世間に見つかりはしないが、人知れず健康でたくましい人生を送っているのではないか、と若新さんは語った。
優しさも評価のために使っていた
弟を見ていてもう一つ気づいたのは、そういう人は他人に優しいということだった。弟はカメラの前でサービスするのではなく、手の届く範囲の人を大切にしている。あの人はドーナツが好きだったから買っていこう、という感覚で人と接する。若新さんは、自分の評価のために他者の気持ちや存在を使っていないからだろうと考える。
対して若新さんの優しさは、相手の期待に応えることで評価を得るためのものだった。若新さんは編集長を例に出し、自分は渡辺さんに優しく生きているのではなく、価値を発揮して役割に応えようとしているだけだと言った。帰りのエレベーターの前で「良かったよ」と言われても、「渡辺さんが喜んでくれた」ではなく「編集長の期待に応えた」と受け取る生き方をしてきた。編集長も「分かりすぎる」と応じている。
若新さんは、そのことに気づけて、自分の評価のために他人の時間や存在を使わないということを「ちょっとだけ」思えるようになったと話す。生まれ変われたわけではない、という留保付きである。弟は若新さんの存在も自分の安心や評価のために使わず、「これ好きだったやろ」と何かを買ってきてくれたという。
若新さんの見立てでは、自分の評価や空腹を最低限自分で満たし、穏やかでいられる人は、相手に「何が欲しいですか」と聞いてあげられる。自分は飢えきった子どもで、ビジネスの世界では自分だけ取ると嫌われるので「ギブアンドテイク」で成り立たせているつもりになっていた。それは飢えたモンスター同士のなれ合いだ、と若新さんは自嘲した。
関係者席とドーパミン、SNSというナイフ
編集長は、冒頭の「関係者でありたかった」という話は、自分との約束ではなく他人との関係性の中でしか自分を保てない状態だったのではないかとつなげた。若新さんは、関係者席とは、呼ばれた側は「俺は関係者だ、ただで座れる」と思い、運営側は「誰々さんが来てくださいました」と誇る、互いに褒め合わないといけない人たちが作り出した空間だと言う。キラキラして見えるが、寂しい空間なのかもしれない。編集長はこれを「ドーパミン世界への危ない入り口」と表現した。
ただし若新さんは、東京もメディアも、大学や企業も、寂しさを埋めたい、刺激がほしいという動機で勉強や仕事を頑張る人たちによって成り立っている面があり、それを全否定したら人間らしい社会はなくなると考えている。ダメだと言いたいのではなく、皆が自分ほど振り切れて壊れてしまわないよう、その感覚と上手に付き合うための指南役のようなことがいずれできればいい、と語った。
テレビや新聞しかなかった時代は、全国大会に出たり大きな賞を取ったりしなければ人に見られることはなかった。今はどこからでもバズる可能性がある。誰にでもチャンスがあるということだが、それはナイフと同じで、上手に使いこなせなければ刃が自分に向く、と若新さんは言う。SNSは一人でいられない過剰な刺激、派手な色や音で寂しさを紛らわせてくれる。自分のやってきた仕事も、顧客の要望には応えてきたが、自分にとってのパフォーマンスの発揮は寂しさを紛らわす行為だったと思う。YouTubeで動画を見て面白いと思う時点で、視聴者も何者でもない自分を少し忘れられているのだ、とも付け加えた。
若新さんは休止中の2年ほど、エゴサーチをまったくしなかった。会ったこともない人が自分をどう言っているかを完全に遮断したことで、身近な人の言葉が前よりちゃんと聞こえるようになったという。投稿の反応を気にしながら食事をしていれば味はほとんどしないはずで、安全で清潔で便利なものが増えた社会なのにその価値を感じられず、ずっと飢えたような状態になってしまう。ネットの動画の多くは、見る人を本当に幸せにしよう、金持ちにしようと作られているわけではない。幸せになりたいけれどなれない人たちの視聴回数が作り手の稼ぎになり、それを欲し続けるサイクルでエネルギーが巡っているだけだ、と若新さんは言う。行きつけの店の料理がおいしい、ここで飲むコーヒーがうまい、この時間の風が気持ちいい、といったことを味わえるようになっておくことが大事だという。
編集長は、一貫したメッセージとして、感情も含めてすべてを「味わう」ことの大切さを受け取ったとまとめた。刺激物が多い社会で舌がバカにならないよう、静かな時間を作って味覚や身体感覚を取り戻す必要がある。若新さんも、キャリアショックは自業自得でなくても誰にでも起きるので、過剰な刺激から距離を置き、何でもない自分でも平然と生きていられる感覚を取り戻す「デトックス期間」は、どんな人にもあったほうがいいのではないかと語った。
この動画をどう出すか
終盤、二人はこの動画自体の出し方を話し合った。編集長は、刺激的な編集はしたくない、あまりカットせず、装飾もせずに出したいと提案した。若新さんは、YouTubeのサムネイルにはクリックされやすいフォーマットがあるのではと問いかけつつ、ビジネスとして結果も出さないといけないのでは、と気にかけた。編集長は、今回はそれをやめて地味な写真だけにすると答えた。手を抜いたと思われるのではという若新さんの懸念には、最後まで聞いてもらえればその意味が分かると応じている。
若新さんは、誰かの結婚式で上手に歌った動画が何の装飾もないのに数万回再生されるように、狙っていないのに「いいね」と広がっていくのが本当は理想なのだろうと述べた。そういうものを素材の味として感じてくれた人が、本当に届けたい人にシェアしていく形である。そのうえで自分たちは「まだまだ」だと認めた。編集長は、互いに自分で自分を満たせるようになったうえで、改めて「関係者」として付き合っていきたいと締めくくった。
今日は久しぶりの方に来ていただいてまして、若新さん、復帰されました。
ありがとうございます。2年お休みされたんですかね。2年ちょっとぐらい。その区切りつけて復帰っていう感じでもないかもしれないですけど、ぜひ僕も聞いてみたいお話が結構あったので。
ありがとうございます。久しぶりによろしくお願いします。嬉しいです。
チャンネル見てくれてた方にとっても、若新さん久しぶりなんじゃないかなと思いますけど、元々僕、4年ぐらい前に一番初め、会議室でインタビューさせていただいて、そこから、佐野と「思春期ビジパ学園」っていうのを2年後ぐらいからやって、人気コーナーになって。ちょうどその番組が2年前ぐらいに終わって、っていう形で、本当久しぶりという形で。
なんか大々的に卒業式イベントみたいなのしていただいたじゃないですか。それでその直後だったんで、本当に人生の卒業式みたいな感じになっちゃいまして。
そんなことないですけどね。元々あれは佐野が転職するっていうのもあって番組終わったんですけど、直後に若新さん、お休みされてっていうので、休むことについてすごい話を聞いてみたいなと思ったんですよ。休んで見えてきたこととか、自分をどう棚卸ししたかとか、そういう話すごく聞いてみたいなと思ってまして。一番初め、ああいう報道があった時、まずその時の率直な心境ってどんな感じだったんですか?
僕の場合、もう身近な人に謝ったりとか、あとは家族と向き合ったりとか、そのことの方がいっぱいいっぱいだったんで、自分どうしようかみたいなのは考える余裕なかったですね。
そうか。僕にも連絡いただきましたけど、一番目は、じゃあ関係者の人に連絡しなきゃとか、家族に向き合わなきゃみたいなことがまず来たという。
そうですね。ロバートの秋山さんっているじゃないですか。秋山さん、歌歌ってて。名古屋のテレビ局のすごい仲のいいディレクターさんで、「秋山歌謡祭」みたいなのやってるじゃないですか。
やってますね。
その歌の中で「関係者」っていう曲があって、僕、大好きなんですけど。世の中には関係者っていう、VIPみたいな、スタッフみたいなシール貼って、裏口から入って関係者席に案内されたり、「こちらは関係者用の入り口です」っていうところから入っていく人たちいるよね、みたいな。関係者って羨ましい、関係者ってどうやってなれるんだろう、みたいな、そういうちょっと業界を揶揄した曲があるんですけど。
やっぱり僕自身も、舞台に立つっていうこともそうですけど、いろんなところに関係していたいっていう。あそこの関係者、いろんな場面の特別な関係者でありたいっていう、そういう人間だったんですよ。
メディアとかに出ると、より関係者になれるとかね。
はい。元々、メディアに出たから関係者になれたんだっていうよりは、もはやきっとあの曲の中に出てくる「どうやったら関係者になれるんだろう」っていうような少年だったと思うんです。あの歌は終盤、「僕らみんな地球の関係者」っていう妙にマイルドなテイストで終わって、そこはあんまり納得いってないんですけど。そんな、地球の関係者だって思えてたら、こんな化け物みたいにならないわけじゃないですか。
化け物とは思わないですけど。
なんかその特別風に作られた、別に誰か人間が意図して「ここ関係者入り口ですよ」って作ってるだけで、関係者ゲート通ったからって特別な人間っていうものに本質的に変わるわけじゃないけど、そんな気がする。控室とか舞台袖とか、そういうのが世の中に用意されてるわけじゃないですか。編集長もそういうの、作ってる側の人だと思いますけど。
人にとっての特別な存在になりたくて、なっていないと自分に安心できないっていう、そういう不安で弱い人間だったんで、関係できてるっていうことで自分を保ってる人だった。だから出てた番組とかも、できるだけ降板したくない。関係が終わっちゃわないように、番組とかそれだけじゃなくて、コンサルティングの仕事も政策作りの仕事も大学も、そこの関係を続けるために何が求められてて、どういう関係を作れると喜ばれて面白がられて、時にはピエロだったりとか、おもちゃになることも含めて、そこに多分執着してたと思うんですよ。
だからその分、突然関係がブチッて、切らざるを得なくなって、そこへの申し訳ないっていうことが、一個一個まず目先にあった。それをしばらくの間整理して、もちろん家族と毎日話したりして、ようやく、省略して、これから自分どうするんだろうっていう。
そこまでは多分、その対応に追われていて、その関係者の方々への連絡とかは一回終えました。その後にやっぱり静かな時間が来るわけじゃないですか。その時にどういう心境で何をして、自分をどう棚卸しして、みたいな話をちょっと聞きたいなと思うんですけど。
そうですね。それでも僕って結局、誰かに喋って自分を保ってるような人間だったんですよ。メディアの中でだけ喋ってるんじゃなくて、日常生活の中でもずっとお喋りしてきたんですよ。小さい頃から。
メディアの前にいなくても。
っていうか、多分もう幼稚園児ぐらいの時からずっと喋ってたんですよ。誰か喋り相手を見つけて、話聞いてくれる人見つけて、毎日毎日自分が誰かに話しかけて、誰かに今日も話を聞いてもらえた、相手にしてもらえたっていうことで、「よく喋るやつだな」って言われて生きてきたんで。それを刺激的な仕事の中で、ある意味10年ぐらい、それにつなげられてたわけだけど、バシッてなくなりますよね。
にもかかわらず、奥さんから「あなたが主語の、あなた中心の、あなた都合の話は聞きたくない」って言われて、「聞きません」って宣言されて、シャットダウンされて。「それぐらいあなたは今までの人生、自分が喋りたいことばっかり喋ってて、たまには人はどんな話をしたいんだろうかとか、人はどんな話を聞きたいんだろうかって、自分以外の人本位で、相手本位で生きてみたら」ってことを言われまして。
「あんた、自分のこと散々喋って、喋りたいこと喋って金になるんだって調子に乗ってたけど、あなたの話なんか聞きたくないんだから。今度はしたい話ばっかりするんじゃなくて、してほしい話とか聞いてほしい話っていうのを考えて生きる」って言われて、パニックになって。自分のせいで問題を起こしたわけなんで、みんなだって気分よく話は聞きたくないわけじゃないですか。しかも泣き言、愚痴も多くなっちゃうし。その時にパートナーから「そんなに一人で話を聞いてほしいなら、お金を払ってプロに聞いてもらえ」ってことで、精神科医の先生を探してきてくれて。
あ、そうだ。すごい素敵な方に出会ったっていう話をされてましたよ。
そうなんですよ。まだご本人の了解を得られてないんで、ここではお名前出せないんですけど、本当に素敵な先生に出会って。ただ、その薬をもらうとかそういうような、処方できるようなものはないってことだったんで。「じゃあ、しばらくカウンセリングっていうかセラピーして、僕がより自分のことをもう少し冷静にっていうか、ありありと捉えられるようにやっていきましょう」って言ってもらって。そこから、今そういう時間だというふうに決めて。
それまでの僕の生き様って、全部斜に構えてたわけじゃないですか。「何々のプロの方です」とか「何々教えてくれる人です」って目の前に現れても、「どんなもんだ」みたいな感じで。
そうだったのかな。あんまりメディアでそういうふうに見えてたことはないと思うんです。
それはもっと斜に構えてる人が多いから、比較的素直に受け止めてるようにしてただけで、僕もやっぱり斜に構えるタイプだったと思うんですけど。
そっか。でもそうじゃないと、そういう独自の視点ってなかなか生まれなかったりもするから、一定そういう鋭いコメントとかできる時点で、そうなのかもしれないですね。
その先生との時間は、もう斜に構えずに、一回本当に言われたことを素直に聞いてみようと思って。すごく素敵な雰囲気の先生だったんで、「本当かよ」みたいなスタンスじゃなくて、「なるほど、じゃあ全部一回、言われた通り実践してみよう」と思って。その時間はすごく有意義でした。
どんな会話があって、どんなことが特に若新さんにとっての気づきになってとか、その辺で特にピックアップできることありますか?
そうですね。いっぱいあるんですけど、いろんなことを教えていただいたんですけど。一つは、カウンセリング行くじゃないですか。僕の悪い癖なんでしょうけど、先生にいろいろお話していただくと、「なるほど、そう、僕そういうとこありますわ。そういうことですよね。僕、多分こうこうこうで、振り返ってみるとこうで、今の僕の状況もこうだと思うんですよ」みたいな。
先生が「若新さんがすぐに自分のことを客観視して、メタ視して、整理される方だってよく分かります。多分すごい得意な方だと思うし、できる方だと思う。ただ、メタ認知が得意な人が陥りがちな罠があるんですよ」って言われて。今、メタ認知ってめちゃめちゃ絶賛推奨されてるじゃないですか。
ですね。できた方がいいってみんな思ってるし。
そう。「俯瞰しよう、自分のことメタ認知しよう」。特に僕なんか急ブレーキになったので、「なんでこんなことになっちゃった? なんでしてしまったんだ? なんでこんなダメな人間だったんだ」って振り返ったりとか、いろいろ読んだりとか。「こういうところに自分の問題があったのか」とか、「こういう構造に陥ってしまったのか」とか、「こうやって人のこと傷つけたんだ」とか、振り返るわけじゃないですか。そこまではいいんだけど、そのメタ認知する人の悪い癖として、自分のことを客観視できてるから、それと同じくらい自分のことをコントロールも可能だと思ってる人が多いって言われたんですよ。
ああ、確かに。
客観視できてると、自分は俯瞰して見れてるんだから、いざとなったら自分のことは、例えば方向修正できたりとか。
僕も自分でそう思ってますね。理性的であるという。
だけど僕は客観視するのが好きで、比較的得意だったはずなのに、自分の様々な弱さに対してもう盲目的になって、自分で止まれなくなってたわけじゃないですか。つまり、いざとなったら自分のことを自分で何とかできる、制止できる。「俺はバカじゃないんだから、自分で自分のことぐらいはうまいこと操作できるぞ」っていう思い込みっていうか、思い上がりが、どんどん見たくないところを見ないようにして、都合のいい解釈で、「いざとなったら俺は何とでも自分のことできる」って言い聞かせて逃げて、引き戻せないような状態にしてしまうんだってことを指摘されて。その通り。
その指摘のもう一個深いところに行くと、例えば自分ってこういう人間だなとか、こういう状況って不安だし嫌だなとか。身近なところで言うと、カラオケに行きますよね。僕、歌が大好き、目立つの大好き。だからカラオケで他の友達の歌聞いてるだけとかつまんないし、つまんないどころか、その日、自分に価値がなかったような気がして帰る羽目になるんですよ。
なんなら、自分に出番がないパーティーとか行っても、ただ呼んでもらって普通に列席してる、ほとんどの人はそうじゃないですか。にもかかわらず、自分にスポットライトが当たらなかったというだけで、自分にはその日、何のバリューも生まれなかった気がして帰るという。我々のような出役をしてる人は、結構みんな似たような経験、実はしてて。でもそれでも出番がない時もありますよね。
だから、もうそうなるって知ってるから、自分から先回りして、例えばみんなが喜びそうな歌も覚えるし、その曲を入れるタイミングもちゃんと考えてるし、「今日このメンツだったらこれ歌うと盛り上がるぞ」とか、戦略を張り巡らせてやっちゃうわけですよ。「めっちゃ面白かった、またカラオケ行こうね」とか言われて帰ると、「やっぱり俺ってそういう場でバリュー発揮できる」とか。
友達とか後輩の結婚式も、招待来たら、自分、出番ないと寂しい気持ちで帰ることになるから。これ全部、残念な人間の話言ってますよ。意気揚々と喋ってますけど。前もって「若新さん、ぜひ結婚式来てください」って言われたら、「オッケー、スピーチ準備しとくから」みたいな、言われてもないのに。出番作ってもらった分、スピーチするにしても歌うにしても、それはもうめちゃめちゃちゃんと盛り上げて、「若新がいたから盛り上がったね」っていう状況を作れてはいると思うんですよ。
これが大問題らしくて。つまり、出番がなかった時に、「僕って出番がない日もあるな」とか、「出番ない日ってこういう感じか」とか、「出番がなかったけど一日無事終わった」っていうことを味わえないと、安心して生きられない人間の話です。
正直、僕も多分完全に若新さん側の人間ですね。常にバリュー、バリュー、自分に何のバリューがあるか。
だからオーガニックに生きてないというか。
そうでしょうね。
まさにそう。自然体じゃないんですよ。自分がどんな時必要とされて、それができないとどんな気持ちになって、自分がどう振る舞うとその場で喜ばれるかっていうことまで客観視できてるから、一応、的外れなことはしないんですよ。だから「めちゃめちゃあいつ呼んでよかった、あいつに役割与えてよかった」と思ってもらえることに応えてこれたから、あれだけテレビとかレギュラー増えてったわけなんだけど。それはつまり、感じたくない、その痛い、つらい自分をずっと遠ざけてる行為らしいんですよね。
ほとんどの人は、僕みたいに目立ちたいからといって目立ち続けられるわけじゃないじゃないですか。だから、目立てない日もあるってことで健康になってくるらしいんですよ。
それをもう受け入れざるを得ない状態なんだけど、そうじゃないことができちゃってるから、どんどん。
そうそう、向き合ってない。だから「今日は自分は全然スポットライト当たらなかったぞ」とか、「自分の出番なかったぞ」って、ほとんどの人はそうだと思うんですけど。でも家に帰ったら家族が待ってる、恋人が待ってる、おいしいご飯がある、あったかいお風呂がある、健やかに眠る、みたいなことで、「それでも僕は生きている」っていうのを獲得できた時に、人間は本当の意味での自信や自己肯定感みたいなものが多分芽生えていくんだと思うんですけど。僕はそれから目を背け続けて、「今日も若新がいたから盛り上がった」っていう日を、ずっと際限なく作り続けてたんです。
だから、幸福感が幼稚だったっていうことなんですかね。
そうですね。根本的な、何もなくても大丈夫っていうような安心みたいなものを、ちゃんと育めてない。
本質的な幸福を育めずに、ドーパミン的な世界でしか幸福感がないという。
ごまかしを。
セロトニン側の幸福感がちょっと。
おっしゃる。その辺を先生に結構細かく説明していただいて、僕なりの表現で説明するんですけど。多分健康な人は、例えば分かりやすく言うと、SNSに無駄に自分の顔とか日常のキラキラをアップなんかしなくて済んでるような人。幸せな生活、幸せな家族を営んでるけど、SNSの写真は全部風景のような人っているじゃないですか。そういう人たちで、幸せだっていう人たちの精神状態っていうのは、何かがあるから幸せなんじゃなくて、ずっとミドル状態。
ミドルっていう表現が適切か分かんないんだけど、何でもないミドルな状態で、不安だったりとか孤独感とかなく、毎日過ぎてくるらしいんですよ。だから何もなくても安心して、おいしいとか景色が綺麗とか楽しいとか、そういう感情も自然と湧いて、そして一日疲れて眠るみたいな。ところが、このミドルという状態が弱い人、我々のような特別な出番がないといけないっていう人は、何でもないっていうミドル状態に自分の価値を見出せてなくて。
そっちはマイナスに思っちゃうってことですよね。
っていうか、もう空白だと思う、空洞だと思っちゃうんですよ。「何も今日出番なかった」っていう自分にがっかりして、ローになって、グッて鬱っぽくなるんですって。そうならないためにどうするかっていうと、ローに落ちまいと、ハイへ、ハイへって。
それが結婚式のパフォーマンスであり、若新さんがうちの番組で毎回素晴らしい解釈をボーンと出してくれたのも、その一個になると。
そう、残念ながらね。
ハイに行くための。そこで若新さん、その言葉出せなかったらローに行っちゃうわけですもんね。
佐野君との仕事も、「今日もいい切り口を見つけられた」みたいな刺激みたいな。それを毎日いろんな出番でやってたわけだから、とんでもなく疲れますよね。でも疲れちゃうとは思うけど、多分何もないとかローに落ちていくぐらいだったら、疲れてでもずっとハイの状態。このハイの状態で、ミドルではなくて、「すごかったね」とか「あれ良かったね」とか「さすがじゃん」って言われてほっとする人間っていうのは、もう毎日ハイを繰り返してないと不安で。
僕はこのハイな刺激みたいなものを得られる仕事っていうのが、もうズバッと切れたわけじゃないですか。だから当然グワッて落ちるんだけど、それを先生に説明してもらって。「またいつかそういう仕事をされる日も来るでしょうから、その時にはハイじゃないとダメじゃなくて、ミドルでも生きてられるけど、ハイな仕事も楽しい、に変えないと苦しくなりますよ」ってことを言われました。
だから本当に一種の覚醒剤みたいなものの状態だったと思うんですけど、そうなるための先生のアドバイスっていうのは何かあったんですかね?
僕、一日が始まると、今日も何もないってことがもう不安なんで、ハイになれる注目とか、何かを発揮したり、「さすが」って言われるみたいなこととか、人前に出る。学校の授業もそうだし、テレビもそうだし、ミーティングもそうなんだけど、「今日も何十回それできた」みたいなことで安心できてたわけですけど。先生にアドバイスされることは、そういうものがない時に、うわーってなるわけじゃないですか。「うわって逃げずに、うわーってなって味わい切って帰ってください」と。
それを回避しようとしちゃうから。
味わう前に回避しちゃってるってことですか。
そうです。例えば何かの会に呼ばれて、「今日何も出番なかったらどうしよう」とか思って、また出番作ってましたよね。出番がなくて、「全然今日俺、つまんなかったな」ってなったら、ただつまらなかったなっていう気持ちから目を背けずに、「今日はつまらなかったんだ、こういう気持ちになるんだ」みたいなのをよくよく咀嚼しましょうと。そこを「もうダメだ」って塞ぎ込むんじゃなくて、あっけらかんと「今日は俺は寂しかったな」とか、「つまらなかったな」とか、「誰にも気づかれなかったな」とか。
「やっぱり俺って別にそんなにいなくてもいいのかも」っていう時の感覚を、頭でこうだった、って。やっぱり人間ってその感覚が体にワッてくると、胸なのか腹なのか分かんない、グワッてくるじゃないですか。あのグワッてくる感じが嫌だからごまかそうとするわけですけど、ごまかさずに「グワーって来てるな、ここがこうだな」みたいなのを。
難しい話だな。
そう。だけど、そのグワーっていうものに耐性があったり、グワッてなっても怖くて遠ざけようとせずに、結構健全に、いろんなことがある日常を平然と生きられるっていうふうになってる人もいるみたいで。そしてそういう人たちと我々は、こういう仕事では出会ってないんでしょうね。
そうですね。確かに僕も、自分がバリュー発揮できなさそうな場があれば、若新さんのようにバリューを発揮できるように喋るのか、話を振るのか、もしくはもう完全に無理だと思ったら早めに撤退する、帰っちゃうとか。それがダメってことですよね。
帰っちゃったら、帰って、ずっと帰り続けてたら、まさに塞ぎ込んじゃうじゃないですか。塞ぎ込んで、ミドルの状態でいられないからローになって、最近落ちて上がってこないよね、みたいな感じになる。
マイナスに思うような出来事を、それが悪かった、ダメだったっていう評価をせずに受け取るみたいな感覚ですか?
そうですね。多分体に、うにょんとか、ざわざわとか、そわそわって感じになるじゃないですか。人によってそれぞれらしいんだけど、それがまさに幼少期だったり、いろんな要因で、そわそわする状態がどこかにすごく刻み込まれちゃってて、ずっとそれを避けたい。この状態は絶対避けたい。その避けようとする時にすごくエネルギーが出るらしいです。
そのためだったら。
喋るとか。
喋ったり出たり、残業してでも頑張ったり、あるいは誰かのパシリみたいなことで頑張っちゃう人もいるし、DVみたいな関係になっても尽くしちゃうとか。あらゆる不健全な形で、自分のそのそわそわ感から逃避しようとして、すごい過剰に。
分かります。若新さん、それが行きすぎてしまったかもしれないですけど、人間ってそういうもんじゃない、とも思うわけですよ。自分が全然喋れなかったし、これ意味あったのかって思う場にいた後に、落ち込まないとかいう人の方が少ないんじゃないのかな、みたいな気はするんです。
僕はそれ最近気になってて、こういう仕事してるから。だから、その活躍という、不健全な人たちが参加する世界に。
そっか。その世界に。確かに。
多分健康な人たちは、活躍とか注目ってことを、無理して「いらない」って言ってるんじゃなくて、本当に不要なんだと思う。
確かに。普通に楽しい話が聞けたなぐらいで、自分が別に喋れなくてもいいし。
この映画面白かったなとか、このご飯おいしかったなとかで、「へえ、頑張ってますね、すごいですね」みたいな。「よくそんな頑張れますね」って、僕らみたいな人を不思議に思ってるんだと思うんですよ。僕たちがそうやって、そういう人たちと出会いにくくなってきた。何とかカンファレンスとか何とかサミットとか、みんなSNSじゃぶじゃぶ投稿してるじゃないですか。「今回、私も登壇することになりました」。
分かります、その気持ち。
選ばれた時のね、そこでモデレーターを頼まれた時のね、力がみなぎる感じ。
分かります。「何々に呼んでいただきました」とか、「何々に選んでいただきました」っていう時の感じ、分かるんですけど。
それがない人の全てが、つまらないと思って生きてるんじゃなくて、そういうものがなくても毎日自分の人生が穏やかに、物語進んでるじゃないかって生きてられる人もいて。僕らがルーティンとか平坦とか思考停止とか言ってバカにしてるようで、実は彼らの方がもしかしたらたくましく、強く生きてるのかもしれない。僕らがそうやって平然とはいられないから、穏やかではいられないから、自分を変えなきゃ、突破しなきゃ、チャレンジしなきゃ、つかみ取らなきゃって。僕はそれがもう思春期ぐらいからそうだったんで。
でもそれって、すごく雑に言えば、幸福を感じるハードルが下がるとか、自分を肯定できるハードルが下がるわけじゃないですか、健康な状態っていうのは。そうすると、自分で高望みしなくなるので、自分の全体的なパフォーマンスは落ちるような感覚があるんですよ。
だから、そのパフォーマンス、誰がパフォーマンス決めたかって話。それが経済だったりね、人間が人工的に作った、他の動物にはない。
自分のエネルギーが収まった状態になるので、世の中に何かアウトプットしていくっていうことを考えると、パフォーマンスは落ちるような感覚を。それをあんまり良しとできない自分もいる。
だから、エコノミーという名の特殊空間は、あと東京っていう街は、それとある意味親和性が高いですよね。人間が意図的に作った、誰かに特別な価値があるように設定して、年収なのか視聴回数なのか分かんないけど、数値化された何かがもてはやされて、売り買いされるみたいなのは、本来は自然界にはなかったわけです。我々人間がそこに仕組みを作って、そこでの価値みたいなものが序列化されたりもするんですけど。
SNSがまたそれを加速させて。
そうそう。僕はやっぱり田舎の、本当のど田舎で生まれ育って、思春期ぐらいから「俺は都会に出て、中央と言われるところで出番を作り続けるぞ」みたいな時点で、もしかしたら一種の健全な人生はもうなかったのかもしれない。
そうですよね。でもそれを先生から言われるわけじゃないですか。どうですか? それによって、先生と毎週なのか対話する中で、2年間、それが多少なりとも矯正できたんじゃないかって思えますか?
そうですね。一つは、一人で出かけられるようになったんですよ。まず誰かに普段の出来事とかをぺちゃくちゃ喋って聞いてもらって、「すごい」とか「面白い」とかって言われてないと不安だったわけですよ、中学生ぐらいから。でもそれもなくなったんで、一人でご飯、ご飯は一人で元々食いに行くんですけど、一人で何となくコーヒー飲みに行く、一人で銭湯行く、一人でサウナ行く、一人でドライブする。そうすると話し相手がいないから。しかも今までの刺激的な仕事がシャットダウンされてますよね。ざわざわする感じが全身を襲ってくるわけですよ。運転してても何してても。「こんなはずじゃなかったんじゃないか」とか。
GPTとかに話さなかった?
僕はそこはあんまり。やっぱり究極的に寂しいから、人間の温度感っていうか質感みたいなのを求めすぎて、それもトラブルの原因だったと思うんですけど。
それもなく、じゃあ。
そうなって、ざわざわするわけ。先生に「それから目を背けないで」と。もう何か、はあ、ああ、うう、ざわざわ。
単につらい時間に思っちゃうんですよね、それが、僕は。
だけど、「でも自分は生きてる、友達がいる、仲間がいる、家族がいる、ご飯もおいしいもの食える」っていうことも多分積み重ね。ちょっとずつ、何でもないっていうか、平然みたいな、平然な状態が少し育まれる。少し。
でも一方で、やっぱり先生に言われたのは、「若新さんのような、根本的に愛情や社会が作った価値みたいなものを過剰に追い求めて、欠如してて不安みたいな人が、だからこそ、おっしゃったようにバリューだとかパフォーマンスだって言って、大きな仕事、社会的な成果を上げることが多い」と。一種の皮肉ですよ。
そうなんですよね。欠如、欠落した人間が、その分社会的なアウトプットを出す。そしてそれが業績とか、何か言われるものを。
そうですね。フォロワー稼ぎ、インタビューされたり、取材されたり、本が出たりするわけじゃないですか。やっぱりみんなそれを成功者っていうふうにして一定追いかけるんで、僕はそこの先頭グループに、と思って走ってたんだけど。そういう人が世の中的に仕事をするっていうのも事実だと思うんですよ。その先生からも、そういう仕事をやめなさいとも言われてないんですよ。「そんなものに価値はありません。あなたはもっと自然に帰って、ガイアと共に」みたいな、そういう先生ではなくて。
社会的な、人工的なものを追い求めてしまうものじゃないですか、僕ら人間は。だからそれを全否定するんではなくて、そういうものと一定の距離を保ってなのか、「所詮そういうものを穴を埋めるためにやってるにすぎない」という自覚もそうだし、その構造も自分で捉えて、分かった状態で、それに完全に沼ってしまわないぐらいの、このお休みの期間にそれと付き合える力を養って。それが養えたのかどうか、まだ分からないし。
またここに戻ってきたってことで、また薬が近くにある状態か。
そう。じゃあ、ずっとそういうものはもう自分の人生に関係ないと思って生きていけるかっていうと、そんな甘くはなくて。やっぱり日常生活の中でいろんな情報入ってくるし、気になるし、ついついそういうような振る舞いもしちゃうんですよ、身近なところで。「今、昔の若新さんっぽさ出てたね」とか、「何かこう、あざといね」とかいうのを、別にメディアとかじゃなくてもやっちゃったりするから。
そうですよね。だって今だって、出そうっていう気持ちがなくて喋ってるわけじゃないと思うし。だけど行きすぎないようにできるかっていう。
行きすぎないようにっていうか、ミドルがないからハイを、ハイをっていう。このハイという状態を、多分生涯やっても、これは翌日には消えてしまう。自分に充填しないっていうか、蓄積されないものっぽいんですよ。だから多分、めちゃくちゃ売れてる芸能人の方とかも、どんどんギャンブルとか薬物とかにはまっていっちゃったりする理由は、根本的な自分の安心や自信が積み上がってなくて、全くないから。「今日もすげえ仕事した、今日も注目された、評価された」をずっと繰り返してて、全部翌日には消える。また戻さないといけない、ハイを戻さないといけないっていう状態で生きてると、どこかで多分人生が破綻する。
でも、お会いしたことないから分かんないけど、勝手な予想ですよ。多分きっと、田さんとか、とさんとか、ああいう人たちは、もうハイにしがみついて生きてるんじゃなくて、きっとベースがあって、そこに何か自分で積み重ねるものとか、その土台を強くする生き方を多分してきてるし、「これが全て失われても、別に自分そのものがなくなるわけじゃない」という余裕が多分あって、根本的にあって。そんな気がする。さらに呼ばれてるから、「じゃあ呼ばれてるうちは出ようか」ぐらいの。分かんないですよ、僕が思い込んでるだけですけど。だからそういうような人はいると。
でも、何かそう見えますよね、何となく。成田悠輔さんとかもそんな感じがするし。
そうですね。そういう、自分の中ですでに圧倒的自信というか、社会的な称賛や評価で、成田博士とかも評価で自信があるんじゃなくて、まず根本的に何かあるのかもしれない。だから、それでその先生に「最近ネット見てたら、若い人だとゆとり君って方が、そういう余裕があるように感じるんで」ってお話しして、それで紹介していただいた。
そうですね。一回やって、「なぜそうなれるんだ」っていう、片石さんに対してずっと若新さんが質問していて、自分はそうなれないってことで、「何であなたはそうなんだ」っていうのをすごい聞いていたのが印象的。でも分かりますね。ひろゆきさんなんかもそっち側の人な気がしますし。
何かかっこいいじゃないですか。
そうですよね。
例えば成田博士とか、呼ばれて行っても、特にタイミングなくて出番ないまま「今日は全然発言されませんでしたね」とか言われても、多分きっと彼だったら「今日は置物として」みたいな、そういうこと平然と言って帰っていけちゃうわけじゃん。
確かに、振られなかったら喋らない感じしますもんね。
そう。これも僕が勝手に決めつけてるわけで、本人がどうか知らないですよ。ただ、別にそこで特別な出番がなくても、その人自身の根本的な価値が毀損されたわけでも、薄まったわけでもないと思う余裕がある人は、僕らから見てるとかっこいいじゃないですか。
はい、かっこいいです。
一方、僕なんかこの間、いくつか出させてもらって久しぶりだったんで、自分でも自分の出演シーンとかちょっと見るんですよ。ショートとかも上がってるから。そうすると、進行や振りに対して間髪入れず返してるんですよ、被せ気味で。これが残念なことに、コメント欄見ると「切り返し早えな、相変わらず」みたいな。違うんですよ。切り返しが早いんじゃなくて、もう前のめり、前のめりに返していかないと。「ほら、まだまだ俺出せるぞ」「俺はちゃんとついていけてるぞ」みたいな、もう不安と自信のなさから、早口と回転。
多分視聴者からすれば、それが「よくこんなポンポンポンポン返せるな」みたいに見えるのかもしれないし、弱さを直視しないための都合のいいフィードバックだったんですよ。
自己肯定感の土台がないからこそできてしまった悲しいスキルみたいな。
そうそう。もう一つ、それで面白い話を。あ、またほら食い気味に来た。
全然いい。毎回客観視されてもちょっとうざいっていうのありますね。いいです、いいです。大丈夫、大丈夫。僕もそうなんで。
食い気味になっちゃった。思い出しました。そういう時に、「今、即レスで切り返さなきゃ」とか、地上波の生放送中でも、「このわずかなところで入っていかなきゃ」みたいな役割を期待されてやるじゃないですか。その瞬間に信じられないぐらい集中力が高まって、めっちゃ多分景色とか鮮やかになるし、多分音もものすごく細かく聞こえるようになってる。瞬発力で勝負する、そういうふうに仕事してると、逆に何でもない時にもう聞こえないし、味もしなくなってくるらしいです、先生。
だから本当に、濃い味食べすぎちゃってみたいなことなんですね。薄味が、みたいな。
「本番入ります、本番入ります」ってなると、どんなに寝てなくても急に覚醒してきて、すっげえ一秒一秒を見逃さないっていうか、集中してくるんですよ。だから多分、コメント欄に書かれてるような「切り返し早えな」みたいなことは可能になってくるんですけど、それは切り返さないと今日の自分の価値が確認できないからじゃないですか。そこに意識が集中して、そういう時は確かに音もものすごく細かく聞こえてるし、スタジオの中で誰が何て言ったかみたいなことも、頭でバーッて整理できるんですよ。これ、人の気持ちに寄り添ってるんじゃないですよ。自分のパフォーマンスを発揮するために。
いつも言われるんですよ。「テレビの討論番組だったら、若新さん、めっちゃ人の話を丁寧に聞いて、まとめて整理して、いいタイミングでしか発言しないのに、日常生活ではもう完全に他者を無視して、言いたいことだけ言って、全く人の気持ち考えてないじゃん」。それはもう本当に仕事中だけカッてなって、色鮮やかになって、音もキンキンになって、終わったらもう何も聞こえない。もう物も忘れるし、時間も分からなくなるし。
めちゃくちゃ分かります。
多分これが、芸能人の方とかそういう状況になってる人、多い気がして。そのオフになった時に、もう何にも、自分の「今日楽しいな、気持ちいいな、心地いいな」みたいなのも何も分かんなくなって、ただ飯食って時間過ごしてるだけで、次の出番来なくなると、もう不安で不安で仕方ないっていう。だから多分、ミドルという状態で感覚が、感覚値が低下してて。
間違いないですね。
自然と入ってくる刺激、情報にちゃんと反応できない体や脳になっていた。
確かに。だからさっきから本当に、覚醒剤に例えてばっかりで良くないんですけど、薬を抜くっていう作業。
一緒なんだと思います。
一緒ですよね。たまたまメディアに出る人も、たまにオーガニックなまま受け入れられて人気になる人いるじゃないですか。ああいう出方。その若さんとかタモリさんがそうかもしれないですけど、そういう出方をしたごく一部の人だけが、そのまま行ける可能性があるけども、基本的にはさっきの瞬発力の世界というか、ドーパミンの世界に染められちゃうっていうか。
こういうこと言っちゃうと元も子もないかもしれないけど、そういう人たちは、そこを目指してそうなったっていうよりは、元々本物なのかもしれないですよ。
見つけられただけっていう。
本物の才能、本物の感性を持ってて、無理してそうやって発揮しよう、表現しようってしなくても、すごい絵を描けたり、いい文章を書けたり、いい歌を歌えたりっていうことで、まさに発見されて当然、売れて当然って人もいるじゃないですか。
売れるように自分の形を変える努力をしたわけじゃないと。
一方で、我々その決して本物ではない層の人たちは、プロデュースとかいう概念に触れてしまって、どうすればそのようになれるかみたいな。
よく見せられるか。
やっていくし。でも巷にあふれてる商品のほとんどもそうですよね。広告代理店さんに一切頼らずに、ずっと流通してるものって、なくはないけど本当に限られてて。「何にもうち宣伝してないよ」。ほとんどのものは、僕らがお店で買ってるものもほとんどは、誰かの手によって加工されて宣伝されて、中身にも一定の価値はあると思うけど、おいしいし。
使い勝手がいいものだと思うけど、演出されて僕らの手元に届いてますよね。それが十分売れてるってことになってると思うので、せいぜい僕らみたいな人間は、何かしらの手を加えて売れるっていう世界が精一杯。ほっといてもみんなが必要とするっていうところには、なかなか行けないのかな。
辛くなってきたな、これ。いや、でも確かに僕、プロモーションを頑張りすぎてる商品を見ると不安になりますね。要はそうやって尖ったプロモーションをしない限り立ってられないって見えることあるんですよ。
でも、SNS社会もそうじゃないですか?
そう、でも危うく見えるんですよね。すごく強引なプロモーションをやり続けてる商品とかって、それこそ素の商品力にやっぱり自信がないのかなって見えることもあったり、このやり方だと続かないよな。これ、かなり置き換えられますよね。同じ形にね。
だけど、その人が努力しなかったから本物じゃなかったってことでもないと思うんですよ。
はい、そう思います。
本物は多分、本当に神に選ばれてじゃないけど、生まれ持った特別な才能。あるいは素材で売れる商品だって、それはもう自然環境の恵みで、そこの土地で生まれる、生み出されるものはめちゃくちゃうまいとかあるじゃないですか。そういうものばっかりじゃ、世の中の商品は充足しないんで。味付けしたり大量生産したりして僕らの生活は成り立ってるから。
そうね。テレビ業界もエンタメ業界も、本物だけじゃ数が足りないと思うんですよ。
そうですね。
だから、それを埋め合わせようとしてる努力って、醜いものとは全然思わないです。
ただ、やっぱり行きすぎないように自分でコントロールすることの難しさがすごいわけじゃないですか。だから僕がすごく悲しく思うのは、バーンっていけば100%停滞したり、勢いが下がってきたり、最悪な時だと本当にインシデントでバンと落ちるっていう、もうその未来が絶対に待っているわけじゃないですか。統計的には。
分かっていながらも、やっぱりインシデントがないと止まれないし、棚卸しできなさそうだなと思うわけですよね。だからこの若新さんの話を聞いて、すごくなるほどと思う人はいるけども、その渦中にいる人が、じゃあこれを見たからといって本当に止まれるのかっていう。
でも僕の場合はですよ。本当に自業自得だし、皆さんにお勧めするようなもんでもないし、僕みたいな目に遭ってみるなんてことは本当に口が裂けても言えない。言うべきじゃないと思ってるんですよ。もうお前が悪かった、僕もそう思う。迷惑かける人も多かったから。
ただ、僕みたいなケースじゃなくても、ちょっと新R25っぽい話をすると、キャリアショックっていう言葉、概念があって。だからみんな、キャリアっていうのは、前もそんな話したかもしれないけど、基本的にはあんまり意図して計画通りには積み上げていけないもの。キャリアって語源は轍ですから。
あ、そうなんですね。
そうです。馬車の轍っていうのが語源になってて。だから轍っていうのは、自分の職業人生のことをロードとは言わないわけじゃないですか。ロードって自分の前に道があるわけですけど、キャリアって結構振り返って、こうだったのかっていう、結果を確認するようなものだって。
そういう語源なんだ。
本質的にはキャリアプランとかキャリアデザインとかキャリアアップっていうのは、ちょっと概念的にそもそも屈折してて。キャリアっていう言葉の語源からすると、狙って上がっていくものとか計画するというよりは、こうなっていくものなのねっていうふうに、そこに自分がちゃんと馴染んでいくっていうか。
だから思い通りにならないこと、想定外のこと、ありますよね。キャリア論って必ず偶然っていう概念がすごく重視されて、たくさん研究されてるんだけど、この偶然起きたことが自分のライフキャリアにとってどんな意味があるのかとか、じゃあ自分はどう変わっていくのかっていうのを受け入れていかないと。
俺のキャリアはこうなるはずだったのにっていうのを思い込みすぎてたりとか、計画しすぎてる人っていうのは、ちょっとでもうまくいかないってことに順応できずに、自暴自棄になったり、やる気なくしちゃったりするんです。
その中でキャリアショックっていうのが、まさに全部が崩れるような、ここで俺、この失敗とかクビとか、この配属とか。しかも自分が悪くなくても、他者のせいでとか会社のせいで、思い描いたキャリアがバーンって終わることもあるじゃないですか。
きっと多分それは大小様々あると思うけど、いろんな人の人生にどこかで発生してて。そこが、おっしゃってるように、自分では止められないけど、チャンスって言い方がいいのかな、止まる機会なのかもしれない。
そっか。確かに若新さんのようなことっていうのは特殊なケースですけど、置き換えれば似たようなことは誰にでも起きているはずで。
そうです。自分の所属した部署が急になくなるとか、望まない転勤とかもかもしれないし、家族の事情でそれが続けられないとか、何か事故に遭っちゃって、急にそれをやめなきゃいけないとかってことは、いろんな人の人生に少なからずあると思うんですよ。
起きますよね、絶対。
そのキャリアショックを、みんな「こんなことさえなければ俺の人生は、キャリアはうまくいってたのに」って考えがちだけど、多分そうなった時に立ち止まって、どう歩んできて、どう生きてきて、どんな職業人生だったのかっていうのを、ちょっと冷静に見つめたり。盲目的になってたりとか過信してた部分を、ちょっとケアするっていうことができる時間なのかもなっては思います。
それ、やっぱり若新さん思います? 自分がそれを経験して。
そうですね。
でもそうですよね。自力で走りながらやれるかっていうと、やっぱり無理だしね。
みんな多分、積み上げてるって思ってるんで、降りられなくなってますよね。だけど、自分で狙った通りに運転できてるわけじゃないとしたら。僕は自業自得ですよ。念を押しときますけど、僕は自業自得だけど、多くの人の人生にとって、その人が悪くなくても止まらざるを得ない時とか、急に途絶えること、壊れることあるじゃないですか。それも織り込んだものがその人の人生なんだと思うので。
その時に、それでも腐らずに、じゃあこの時間に何を問われてるんだろうとか、忙しかった分できなかったこととか、後回しにしてたこととかをやる。それは別に気休めでも慰めでもなくて。そうやって僕らの人生は、進んだり戻ったりするような感覚の中で、ちょっとずつ形を作っていくのかなって。
どっちかといえば、そういうことが起きることが必然っていう捉え方ではありますか?
これはですね、元々頭ではそういうもんなんだって。勉強もしてたし、周りの人の例を見たら、そういうタイミングはあるだろうっていう、統計的には思う。そうだし、どんな成功者の自伝みたいなのを読んでも、キャリアショック的な、あと修羅場、ハードシングスみたいなものがあるわけじゃないですか。
それはそういうことも含めて、うまくいき続けるなんてことはないだろうし、どこかで何か不思議なことは起きて、それでこそ自分らしい人生になっていくって、頭では分かってて言い聞かせてましたけど。やっぱり自業自得とはいえ、望んではいなかったことなんで。
だから、それにバーンって直面して、最初の数ヶ月はそんなこと考える余裕はなかったですけど、いいドクターにも出会って、整理していく中で、途中から「なんでこうなってしまったんだ」とか「なんでこんなことをしてしまったんだ」とか「なんでこんな言い方をしてしまったんだ」から、「こうなるのが既定路線だった」。
ここで本当に恥をかいて、後悔して反省して、またやり直してっていうのは、本来もう自分の人生に用意されてたものなんだろうなっていうふうに受け入れていくようになってから、やっぱり日常が前向きになって。ちょっと時間差があって。
受け入れられたというか。
それ、頭で分かっててもね。
いや、そう思いますよ。いつか何かあるだろうぐらいの話と、今これなんだっていう話って、だいぶ違うんで。
僕より先にやらかした先輩方とか、いろいろご連絡するわけじゃないですか。その中のやっぱり刺さった言葉は、「しばらく反省も必要だし、ゆっくりしな」と。「一つ教えとくよ」と。「どんなに探してもタイムマシンはないから」って。当たり前なんですけど。
もう本当に、毎日たらればに毒されちゃうんですよ。なんであの時、こんな……なかったのか。
確かにそうですよね。
立ち止まれなかったのか。なんでここでこんな調子乗っちゃったのか、しちゃったのかっていうのはあるんだけど、「タイムマシンはないから」って。だから多分、僕ら人間って後悔する生き物なんで、最初は戻りたい、直したい、書き換えたいじゃないですか。
やっと途中から、こうなったという状態から自分の人生をまた作っていくっていう方に、やっと気持ちは切り替わる。僕もだから、またやらかしてしまった後輩がいたら「タイムマシンはないから」って言ってあげなきゃと思います。
当たり前のことなんだけど、すごく響いてくるタイミングっていうのはありそうですね。
ですね。本当に当たり前のことだけど。しかも、タイムマシンを探すってことは、本質的には反省してないってことじゃないですか。つまり、戻ってりゃあんなこと起こさなかったのにってなってるけど、戻ってりゃっていうのは結果を知ってるから思えるわけで。そんなことしない人間は、タイムマシンで戻ってなくても最初からモラルもあるし、人を傷つけちゃいけないとか分かってるわけだから、1回目からできるわけじゃない。
タイムマシンって言ってる時点で、自分の過ちをなかったことにしようとしてるわけなんで。途中から、これが俺だったんだって。間違って、恥ずかしいっていうのが、もう自分のベースで。
そっか。
それはさっきの話につながるけど、そういうことも織り込まれた今の自分が生きてるっていうことを味わえないと、また俺って刺激がないと生きていけないっていう人間になっちゃう。っていうのを先生に教えていただいて。
1日の中で自分1人で過ごす時間っていうのが、以前に比べればかなり増えたと。
そうです。まだ別に完治したとか、治ったとか、完璧とか言うつもりは全くなくて。少しはそういうことが冷静に分かるようになったっていう。
いや、でもそれぐらいが精一杯だなと思いますし、それだけでも大きな進歩なんだろうなっていうふうには。
そうですね。別にご覧になってる皆さんが決して僕みたいな下劣な人間ではないと思うけど、何かしら皆さんやっぱりやらかしちゃったり、あるいは不本意ながら事故が起きちゃったとかあると思うんだけど。そんな時に、それでもどうやって生きていくかっていう。
しかもそれが珍しい話じゃなくて。僕みたいなあれは珍しいと思うんだけど、人生に不意なことが起きること自体は珍しいことじゃないじゃない。
僕は本当にそう思います。特にそういうのが出やすい年齢ってあるじゃないですか。まさに厄年近辺とか。
ちなみに僕、厄年だった。
僕も。これはちょっと言えないけど、厄年、僕も周辺本当に大変で。ただこれ、僕の捉え方ですよ。厄年っていうものは、統計的にいろんなものが積み重なって、何か悪いことが起きる年齢っていうのが多分あって。これを名付けてるのであれば、逆にそこを抜ければまた上向くよという希望でもあるというか、そういう概念に思うんですよね。
それがあることで、厄年だからこんなきついんだと、あと1、2年頑張ればみたいな希望にもなってて。そういうふうに作り出した便利な概念な気がしてますね、個人的には。
そうですね。僕も厄年のせいにするつもりは全くないですけど、厄年の近辺で、自分のせいで起こした問題について、本当に直視せざるを得ないという感じになった。
そうですよね。
僕は2つ下の弟がいて。結構年が近い兄弟って、まるで性格っていうかタイプが違ったりすること多いじゃないですか。僕もそうで、弟は全く目立つとか興味なく、SNSとか探してもないし、あった時期もあったけど、それこそ背景しか入ってないみたいな弟が。本当に第三者から見られたいとか、注目されたいっていうのが微塵もない人なんです。
僕、自分で問題を起こして、家族と向き合うのもものすごく大切だし、だけどみんな感情的になってるんですよね。その2つ下の弟をめっちゃ頼って、弟にかなり助けてもらったんですよ。
そうですか。
もうこの年になってから「頼む」みたいな、「そばにいてくれ」みたいな。弟も兄貴にそんなことが起きて、一緒にいてくれるわけじゃないですか。そもそも「なんでそんなことになったわけ」って弟に聞かれますよね。今みたいな経緯、僕がこんなふうに生きてきたみたいなのも、弟とずっと時間を過ごす中で話をしていて。
弟に言われたのが、「なるほど」と。「だから本当に他人に褒めてもらえないと駄目っていう人間って、ほんまにおるんやな」と。「そういう感じなんやな」って言われたんですよ。逆に弟に「お前はなんでそんな他人に認められたいとか、褒められたいとか」って言ったら、「だって褒められるじゃん」みたいな。
自分っていう一番確かな、自分をちゃんと観察してて、自分のことを一番知ってる。自分が一番分かってるんだから。「兄貴の話聞いてると、自分が自分のこと知ってるはずなのに、なんで僕のこと知ってもらえないんでしょうかとか、俺は本当はこうできるのに、なんでもっと正当に評価、注目していただけないんでしょうかって、必死にそいつらに分からせようっていうのは、過剰な労力いるよね」みたいな。
もう自分で自分が分かってるってなったら、そうか、自分はそういう考えを持ってる、そこに気づけた。例えば僕だと、お休み中もニュースやってて、このニュース、こういうふうに言えばもっと面白いってなったら、「くそ、出番がない」みたいになっちゃうわけでしょ。弟に言わせると、そういう視点に気づいたなら「俺は気づいたぞ」とか「俺は分かってるぞ」でいいじゃんって。
一番簡単に評価してもらえる人がこんな近くにいるにもかかわらず、そうじゃない世界に自分を売り込もうとしてるっていう。
そうそう。そう言われたら、そっか。今日も俺、1日頑張ったなみたいな。彼はストイックなんで、自分で自分の目標を決めて、自分で勝手に達成して。フルマラソンも3時間前半とかで走る。3時間半切ったりとかして、かなりの年なのよ。
でもそれもまた、勝手にベラベラ外でしゃべりやがってって怒られそうだけど、本人は誰に言うわけでもなく。家族だから知ってるだけで、「何分やった? 記録どうやったん?」って言うと「こんなもんやった」みたいな。でもそれは彼の中で、自分でそういうふうにしたい、そうなりたい。自分がその記録を確認できればいいっていう。
SNSに投稿しなくてもいいってことですよね。それはすごいですよね。
もちろん、SNSにフルマラソン何分でしたって投稿してる人のことを駄目って言うつもりは全くない。結構僕のタイムラインにはいっぱいいるけど。
でも現代社会ではそっちが普通なわけじゃないですか。それを投稿しないで、自分で自分を褒めてて完結できる人なんて、現代人にとってはそっちの方が異常に思いますけどね。
でも僕はもちろんそれを推奨したいわけじゃないし、素晴らしいって言いたいわけじゃないんだけど、弟の話を聞いてると、本当に強がってるんじゃなくて。「自分で自分の価値を確認していられれば、自分以外の他人っていう思い通りにできない存在に振り回されなくて済むんじゃね」って言うんですよ。
そうですね。
「兄貴見てると、こんなふうに見てもらいたい、ファンになってもらいたい、いいね、褒めてもらいたい。それ全部自分以外の人間に希望してることだから、めちゃくちゃお前の人生は無駄な労力多くね」みたいな。バンって言われて。
でも、そのタイミングで言われなかったらピンとこないかもしれないことが、たくさん若新さん的に受け入れられるようなタイミングだったんでしょうね。
そうですね。
いろんなことが。タイムマシンないとかもそうだし、当たり前だけど。
当たり前すぎて遠ざけてた話だし。弟にそれ言われた時に、そっか、自信がある人って、自分を信じるって書くので、やっぱりそういうことだから。本当に自分以外の誰かの評価で生きてる、自信というものが根本的にものすごく薄い人間だということの自覚を徹底するようにして、そこから、ほとんどできないけど。
毎日、今日は自分にとって、自分としてはこういう1日だったなって言えるような時間は、前よりはちょっと増えました。前よりはちょっと増えました。
なるほど。
なんならその前は、「よし、今日はこの仕事をこんだけ進めるぞ」とか「あれを必ず終えるぞ」とか「何時に起きるぞ」とか、まさにそういう自分で確認しなきゃいけないし、自分しか褒めてあげられない問題じゃないですか。明日は7時に起きて朝やるって決めて、どこにも発表せずに。でも、できたことを自分で確認できるはずのこと。
そういうものをどんどん、自分で自分に対する約束を破って、破って。「寝坊したが、またいいコメントできた」「寝坊したが、打ち合わせでいい企画を出せた」「寝坊したが、現場でパフォーマンスを発揮できた」という他者評価によって、自分で自分の約束を破ったことをずっとごまかしてきたんですよ。だから永遠に自信が育たない人間だと思う。
まさに味わってない1日。
自信がある人、自分の核みたいなものを持って生きてる人は、やっぱり自分の約束を自分で守る。自分の約束を守れたことを自分で確認する。今日は何キロ走ろうとかもそうだと思うし、走るって決めて自分でその約束を守って、守れたみたいな、結果出たみたいなのを自分で味わって。
こんなに自分で自分の納得いく人生を送れてることを、なんで第三者にわざわざとやかく言われる必要があるんだっていうような、健康な人間もどうやら一定数いるようです。
そっか。
だがしかし、この番組を見てる方の中にどれほどいるのか。
いや、そう思いますよね。それが精神的には健康なループってことですよね。若新さんは違うループに入って、僕も多分そっち側で。
だと思うんですけど。もう一つそこで気づいたことは、やっぱりそういう人は他人に優しいんだと思うんですよ。うちの弟は本当に僕と全く違って、すっごく周りの人に、手の届く範囲の周りの人に優しいんですよ。僕みたいにカメラの前でサービスしてるって意味じゃなくて、手の届く範囲の人のことを大切にしてて。
多分、自分の評価のために他者の気持ちとか、他者の存在を使ってないからでしょうね。
まさにそうですよね。
弟の話を聞いてると、そうじゃなくて、「あの人何好きだったかな」とか「ドーナツ好きだったからドーナツ買っていってあげよう」みたいな感覚で人と接してるんですって。
気配りができる人とか、他人本位で優しさを持ててる人っていうのは。
そう、その人がどうしたら喜ぶか。結局僕なんかは、その人の期待に応える。期待に応えるってことは、その人の評価を得られることでもあるから。
そうですね。さっきおっしゃったパフォーマンスなるものがここで一応成立はしてるわけだけど、自分のため、自分の評価のための優しさ。
いや、でも分かります。僕はだから、渡辺さんに対して優しく生きてるわけじゃないです。
それは僕もすごく分かります。
価値を発揮して役割に応えようとしてるだけで。帰り、エレベーターの前で「良かったよ」って言ってもらえたら、渡辺さん喜んでくれたなじゃなくて、渡辺さんの期待に応えた、編集長がいいって言ってくれたっていう生き方をしていて。
本当に分かります。分かりすぎる。
それに気づくことができて、前よりはちょっと、自分の評価のために他人の時間や他人の存在を使わない。そういう人間に生まれ変われたんじゃなくて、ちょっとだけ。
ただ人間ですからね。
そう。ちょっとだけは思えるようになったけど。そのそばで見ていて、彼は確かに僕の存在のことも自分の安心とか評価のために使わずに、「お前これ好きやったやろ」みたいなものを買ってきてくれたりとか。
それができるようになるためのファーストステップというのは、やっぱり自分で自分を認められるってところからまず入ることで、それができる。
そうです。別に俺の弟だけがすごいってわけじゃなくて、たくさんそういう人がいて。自分の評価とか、自分の空腹は最低限自分で満たして、自分がそれで穏やかだから、「どうするといいですか」とか「何が欲しいですか」って言ってあげられる。
それに対して、飢えまくったガキですから、完全な。もう腹ペコみたいな。腹ペコなんだけど、それをビジネスの世界では自分だけ取ると嫌われちゃうから、ギブ・アンド・テイクで成立させようとしてるわけじゃない。高度なギブ・アンド・テイクをしてるつもりになって、お互いにうんうんとか言ってるけど、うんうんっていうのはもう飢えたモンスター同士のなれ合いですよ。ビジネス界のうんうんなんていうのは。
本当にそうかもしれない。そこまで考えずにギブができる人もいて。
そう。
本当にそうですよね。
それが経済的に自分で自分を満たせる余裕があるかどうかって話をしてるんじゃなくて、多分精神的に自分で自分のことを褒められるっていうか、満たせる。そのためにはストイックになる必要はあると思うんですけど、自分で自分の約束を守る。でもその約束の基準が別に高くなければ守れるじゃないですか。
毎朝5時に起きてランニングとかじゃなくても、せめて朝1分だけ何か、何でもいい。簡単な目標でもいいから、自分で自分の約束を果たしていくような人は、世間に見つかったりはしないと思うけど、人知れずすごく健康で、たくましい人生を楽しんでる。
いや、健康だと思う。そういう人の方が折れない幸福感を持ってる感じがするので。それが若新さんが一番初めに言ってくれた、自分は関係人口を増やしたい、関係者を増やしたいと思っていたっていうのが、悪い方向に出ると、自分との約束じゃなくて、他人との関係性の中でしか。
いや、関係なんて、それでお互いに。だって呼ばれた方は「俺、関係者だぜ。ただでここ座れるぜ」って言うし、運営側は「何々さんが見に来てくださいました」みたいな顔だから。それぞれお互いに褒め合わないといけない人たちが作り出した。
間違いない。
ある意味、キラキラして見えるけど、なんか寂しい空間なのか。結局それを喜んで。もうロバート秋山さんのそのものですよ。「どうやったら関係者になれるのかな」「関係者専門学校あるのかな」って歌に出てくるんですけど。
関係者席って、ドーパミン世界への危ない入り口であるっていうね。
そうそう。一方で多分、東京って街もそうだし、メディアもそうだし、本来は違うかもしれないけど大学とか企業みたいなものも、やっぱりどこかでそういうドーパミン的な、寂しさを埋めたい刺激で勉強頑張ったり仕事頑張ったりって人がいて、成り立ってる世界でもあるじゃないですか。
それを全部否定したら、人間らしい社会はなくなってしまうと思うから、僕はそれは駄目と言いたいわけじゃない。けど、みんなが僕ほど振り切れて壊れてしまわないように、うまくその感覚と付き合えるような指南役みたいなのを、いずれできるといいのかなって。
いや、でもできる立場になったと思いますね。今でもそうやって振り切れてしまう増幅装置があふれてるんで、SNS。そういうものに足を踏み入れちゃう人、昔より増えてると思うんで。
入り口はものすごく身近にたくさんあるじゃないですか。テレビとか新聞しかない頃だったら、そこに出るとか自分が映るとか誰かに見られるなんてことって、よっぽど地元にいたとしても、全国大会に出たとか、すごい賞を取ったとかじゃなければ。
新聞にちょっと出てたね。
起き得ないことが、どんなところからでもバズるとか、売れるとかっていうことが可能な感じがする社会になっちゃって。裏返せば誰にでもチャンスがある、誰だってそういうフィーチャーされやすいっていうことなんだと思うけど。それはまさにナイフと一緒で、上手に使いこなせないと刃が自分に向くみたいなことなのかなって。
いや、もう全てそれだと思いました。上手に使いこなす。ナイフを持たないのは難しいんだけども、上手に使いこなせるかっていうことで。
SNSそのものも、やっぱり1人じゃいられない、過剰な刺激。
間違いないですね。
あと派手な色、音。あれが寂しさを紛らわせてはくれると思うんですよ。僕のやってきた仕事っていうのも、もちろんお客さんの要望には応えたと思いますよ。テレビにしても企業との仕事にしても大学にしても、そこでの役割には応えたと思うんだけど、自分にとっての何かのパフォーマンスの発揮っていうのは、やっぱり寂しさを紛らわす行為だったと思うんですよね。
それに多分どんな人も少なからず浸りかけて、YouTubeでこういう動画を見て面白かったなって思う時点で、何者でもない自分をちょっと忘れることができてるわけじゃないですか。だから僕は、本当にエゴサを全くしないっていう時間が2年ぐらいあって。会ったこともない人が自分をどう言ってるかってことからは、1回完全にシャットダウンしてたわけですよ。
それでやっぱり良かったのは、本当に身近な人の言葉がちゃんと聞こえるようになった。前よりは。
そっか。前、見えなくなっちゃっていたものが見えるようになった。
もしかすると僕みたいな仕事してない人でも、今日どういう投稿をしようかなとか、どれぐらいシェアされたかなとか、ハートマークついたかなってことにどうしても溺れていくと、僕もそうだったように意識がそっちに取られて、興奮してる時しか脳が働かなくなるので。
身近な人に大事なこと言われてても聞き逃しちゃったりとか、あと本当は十分楽しかったり、十分美味しいような、全く自分に残らなくなって。
そうですね。SNS見ながら食べてたら、あんまり味分からないですもんね。
多分きっと、投稿した後の動画が、インスタの画像がどう反応してるかみたいなことを気にしながら飯食ってたら、味ほとんどしてないと思うんで。そうなると、世の中いろんな便利なものとか美味しいものが増えてるし、安全で清潔な社会になってるはずなのに、ほとんどその価値を感じられず、ずっと飢餓状態みたいな感じになってしまうと思うんで。
今日も行きつけのお店のこれ美味しいとか、ここに座って飲むコーヒーうまいとか、この時間の風気持ちいいみたいなのは、味わえるようになっておかないと。少なくとも、ネットの動画とかって、見てる人たちを本当に幸せにしようとか、本当に金持ちにしようと思って作られてるもの、ほぼないじゃない。
そうですね。
幸せになりたい、金持ちになりたいけどなれないっていう人たちの視聴回数が、作ってる側の……にはなってるけど、それで救われてる人はいないわけで、永遠にそれを欲し続けるっていうサイクルによって、人間のエネルギーが巡回してるだけで。
私みたいな人間でもようやくちょっと立ち止まることで、幸せとか心地いいとか美味しいは、やっぱり身近なところにある。
結構一貫したメッセージとしては、感情もそうだし、全て味わうっていうことが大事っていうふうにはすごく受け取りましたね。いろんなものを味わう時間、静かな時間を作らなきゃいけない。
味を取り戻す。味覚を取り戻さないと。身体感覚。刺激物が多い社会なんで、舌が馬鹿になっちゃうんじゃないかっていう。
いや、響きました。これ共感できる人すごいいると思うんですよ。やっぱり自分がどういう人間かっていうのを重ねて理解できる人、めちゃくちゃ多いんで。
動画回らないかもしれない。
それやめましょう。動画回らないとか、そういうのでいいです。でも、すごい辛くなる話が7割。でも、ちょっと追体験して、今のうちからこうしておこうとか、何かあった時にこう捉えようっていうのを理解できるのも3割あると思うんですよね。だからそれがちょっとでも、同じ気持ちの人に響くといいなと思いましたね。
どんな人にもね、自業自得じゃないキャリアショックみたいなのが起きるから。そこは、そういう過剰な刺激物からちょっと距離を置いて、何でもない自分も平然と生きてられるっていう感覚を取り戻すデトックス期間みたいなものは、どんな人にもあった方がいいのかなっていう気はしましたね。
それをポジティブに、フラットに捉えられるようなお話をいただけたかなと思いますんで。
今どきAIの話が1秒も出ませんでしたけど、大丈夫ですかね?
いや、その話じゃなくていいです。すごい長く話しましたけど、あんまりカットせずに出したいなっていうのは思いました、これは。
本当ですか? ちょっと序盤だらだらしてたんで、そこら辺だけスマートにして。
あんまり過度に装飾もせずに出したいなって。
確かにこうやって話してる動画だから、テロップでピコンとかやらない方がいいですね。でも一方、ビジネスでやっぱり結果も出さないとね。
この動画を刺激的にするのをしたくないっていうのを思いましたね。
だけどYouTubeの動画のサムネイル画像とか、もう完全に押されやすい、クリックされやすいフォーマットみたいなのがあるわけでしょ。
それやめます。今回、地味な感じで、素の写真だけにして装飾もしないで。それでいいです、これは。
それ、手を抜いたってみんな思っちゃいますから。
いや、でも最後まで聞いてもらったら、その意味が分かるから。それを分かってもらえればいいかもしれない。
だから本当の意味では、そういう素材の味みたいなもので美味しかったみたいなものを感じてくれた人が、本当に届けたい人にシェアみたいにして、広がっていくのが理想なんでしょうね。
YouTube上に、誰かの結婚式でめちゃめちゃうまく歌った動画で、何も装飾されてないけど数万回再生とかあるじゃない。ああいうのって狙ってないけど、いいねってなっていくみたいな。本当はそういうものをね。
ありがたさんとか上さんは、それ、もしかしたらそんなふうに切られてるのかもしれなくて。まだまだ。
まだまだですわ。
そうですね。いや、でもお互いが満たせるようになって、でも関係者でっていうふうに、ちょっとお付き合いはしたいんで、若新さんとは。このタイミングでちょっと棚卸しした若新さんの話を聞けて、とても有意義でした。
ありがとうございます。温かい時間を。
ありがとうございます。ありがとうございました。引き続きよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。ありがとうございます。ありがとうございます。これです。
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