伝える場を失ったアナウンサーが、山根基世さんに尋ねた「自分の言葉」の育て方
新R25チャンネル新R25は2026年9月でメディア運営を終了する。同チャンネルでキャスターを務めてきたおうみゆかさんは、最後の動画として、自身が最も尊敬するアナウンサーの大先輩、元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビューを選んだ。30歳でテレビからネットメディアに移り、約1年半で発信の場を失うことになったおうみさんが、55年にわたり言葉の仕事を続けてきた山根さんに、アナウンサーとして何を大切にしてきたのかを聞いている。山根さんの答えは、技術としての「うまさ」を超えた「自分の言葉」と、それを支える「志」の話に集中していた。
最後の動画に込めた二つの思い
冒頭、おうみさんは一人でカメラに向かい、この動画を作った理由を話す。編集長から「卒業制作」を頼まれ、自分の中に二つの思いがあると整理したという。
一つは、伝え手としてこのまま進みたいという気持ちだ。30歳でネットメディアに来たのは大きな決断だったが、1年ちょっとでそのメディアがなくなることをどう受け止めればいいのか、まだ答えは見つかっていないと率直に語る。ただ、「伝える」仕事を続けたいということだけははっきりしているという。
もう一つは、新番組への心残りである。6月から、30代の悩める女性に向けたトーク番組(「30女の決断」を副題に含む)が始まっていた。おうみさんにとって初めて自分で立ち上げた番組で、新R25の中でも初めての女性向けトーク番組だった。初回は板野友美さんがゲストで、1回目からコメント欄に「楽しみ」という声も寄せられたが、意気込んでいたところにメディア終了の話が来て、番組は第2回で終わることになった。アナウンサー時代に企画書を書いたことはあっても、番組そのものを立ち上げた経験はなく、すべてを自分で決めなければならない大変さも味わった。それでも新R25に来なければできなかった経験だと振り返る。2回で終わらせるのは視聴者に不親切だと考え、特別版として「今いちばん会いたい女性」にインタビューすることにしたという。
山根基世さんという人
番組内のナレーションによれば、山根さんは1971年にNHKに入局し、紅白歌合戦の総合司会などを務めた。2005年には全国のNHKアナウンサーを統括するアナウンス室長に女性として初めて就任している。ドラマ『半沢直樹』では冒頭の語りを担当した。NHKには36年在籍し、その後フリーとして仕事を続けている。
おうみさんが山根さんを知ったきっかけは、世界の記録映像をドキュメンタリーとして流すNHKの番組『映像の世紀』だった。座って聞いているだけで涙が出てきたという感想に対し、山根さんは、番組がいいのだと答える。映像にも音楽にも力があり、書かれたコメントも歴史の中で語られなければならないことだった、いい番組を担当させてもらった、というのが本人の受け止め方だ。
「定年まで」と答えて笑われた面接
これほど長く続けると思っていたか、という問いに、山根さんはNHKの採用面接の話をする。当時は平気で「将来結婚する気はあるのか」と聞かれた。「できればしたい」「仕事は続ける」「定年まで」と答えると、スタジオに一人でカメラに向かっている山根さんの頭上に、姿の見えない副調整室の試験官たちがどっと笑う声が落ちてきたという。女性が定年まで働くことが冗談としか受け止められない時代だった、と山根さんは振り返る。定年までと明確に思っていたかは分からないが、とにかく長く働ける場所を探し、最初から長く続けたいとは思っていたという。
プロとは「何度でも初めてのように」やれる人
アナウンサーとして何を大事にしてきたのか。山根さんはまず、世間のアナウンサー像への違和感を口にする。無意味に持ち上げられるか、口先でぺらぺら喋る人たちとして下げられるかに分かれがちで、それが悔しく残念だったという。
そこで挙げたのが、入局10年目頃に読んだ沢木耕太郎さんの『馬車は走る』のエピソードである。1975年の東京都知事選で石原慎太郎さんと美濃部亮吉さんが争った際、取材していた沢木さんは両陣営のウグイス嬢のアナウンスの違いが気になった。美濃部陣営は「皆さんこんにちは、美濃部です」と素人っぽい普通の話し方をしていた。一方、石原陣営は「2階からも5000円ありがとうございます」といった具合に、節をつけて滑らかに、いかにもプロらしくアナウンスしていたという。
石原陣営の選挙をプロデュースしていたのは浅利慶太さんで、沢木さんがそのことを話すと、浅利さんは「うちはお金がないから学生アルバイトに頼んでいる。慣れない素人は逆にすぐ節をつけて読み始める。美濃部側は絶対プロがやっている。プロだから何回やっても初めてのように、素人のようにやれるのだ」と答えたという。山根さんはこのプロ・アマ論の逆転を非常に大事なことだと感じた。うまく聞こえる方法論はあるが、技術だけを真似すると中身の伝わらないアナウンスになる。何回やっても新しく、初めてのように、常に新たな気持ちでやれることが本当のプロフェッショナルではないか、と考えるようになった。
山根さんはこの考えを補強する話をさらに二つ紹介する。一つはピアニストの内田光子さんへのインタビューで、解釈は自由だが、ピアノにも外してはならない「型」があり、基本を外さないうえで常に新しくあるべきだという話だった。もう一つは、音楽プロデューサーのハギモトさんから聞いたベルリン・フィルの音楽家たちの話である。本当のプロは自分たち自身がいちばん楽しむ人たちで、演奏が終わった後も一晩中「今日はどうだったか、あそこはどうすればよかったか」と話し続ける集団だという。音楽に初めて接するかのように楽しみ続けるのが本当のプロだ、というわけだ。
決め台詞ではなく、その1時間で生まれた言葉を
これを司会の仕事に引き寄せて、山根さんは、決まり文句を立て板に水のように話し、生放送の締めの言葉まで前の晩に決めてしまうやり方に疑問を呈する。不安だから準備としては大切だと認めつつも、1時間リアルに話せば、最初の自分と1時間後の自分とでは心の中の言葉は違ってくるはずだという。その1時間を自分の言葉として語れるアナウンサー、器用でなくてもいいから心の言葉をきちんと言語化できるアナウンサーを目指したかったと語る。
一方で山根さんは、アナウンサーには心にもないことを言わざるを得ない瞬間が「8割、9割」あるとも笑いながら認める。ゲストに「またぜひ遊びにいらしてください」と言うとき、本当にそう思っているのかという場面だ。そうした言葉をなるべく避けたいと思いつつ、やむなく使いながら生きてきた、と自嘲気味に話す。だからこそ、心からの言葉を紡ぐことは常に心がけていないとできない、というのが山根さんの考えである。
「地獄の2年」で学んだ自尊心と言語化
自分の言葉を持つことの重要性を痛感したのは、組織の中での対人関係に苦しんだ経験からだった。とりわけ苦しかったのが、働く女性向けの番組を担当した2年間で、山根さんはこれを「地獄の2年」と呼ぶ。グループの中で最年長で、トップのプロデューサーの男性と同い年だったが、キャスターとして据えられていても決定権も人事権も予算の権限もない。男社会の中で、方向性を決める人と意見が対立し、感情的にぶつかり合ってしまった。自分も未熟で相手を傷つけたこともあったと思う、と山根さんは言う。
そこで気づいたのが、人間は誰でも胸に一匹の虫を飼っていて、その名は「自尊心」だということだった。自分の自尊心もずたずたにされたが、相手にも同じくらい言い返していたのだろう、と振り返る。自尊心ほど恐ろしいものはなく、自尊心を大切にすることが人を大切にすることであり、それを傷つけないことが人間関係でいちばん大事だと骨身に染みたという。
同時に悟ったのが、自分の言葉を持っていなければ人はついてこない、ということだった。「今の時代はこういう状況だから、このテーマをこういう形でやるべきではないか」と言語化し、相手を傷つけない言い方で伝えられていれば、あそこまでぼろぼろになる必要はなかった。山根さんはこの経験から、後輩に同じ思いをさせたくない、後輩が同じ痛みで苦しむなら自分が苦しんだ意味がないと考え、放送について学ぶ勉強会を開くようになったという。
山根さんはこのときの自分を「放送人として成熟していなかった」と表現する。放送が社会に対してどんな役割を果たすべきか、放送の場にいる自分が何をすべきか、どんな番組を出すべきかを言語化できなかったのは、自分の中に蓄積がなく、考えてこなかったからだという。若い人には「自分の言葉を持ちなさい」と言うが、荷物のようにすぐ持てるものではない。自分が感じたことを、人を傷つけず下品にならない言葉で言語化する力は、人の話を聞き、本を読んで言葉を自分の中に貯めていく作業を積み重ねて、何十年か先にようやく持てるものだと話す。そうしておかないと、ある年齢でトップを任されたときに本当に困る、と後輩に伝えているという。
仕事と人生が「カチッと噛み合う」瞬間
アナウンサーは専門職なので専門技術は持たなければ話にならない。しかし技術が身についたから立派なアナウンサーだとは言えない、と山根さんは続ける。なぜこれを読むのか、なぜ今ここで伝えるのかを考え、一言一句の意味を体に入れて自分の言葉として伝えられることが本当に伝えることであり、後輩には「ただうまいだけのアナウンサー」にならず、背後に「志」を持ってほしいという。
その理由として山根さんが挙げるのは、働く期間の長さだ。定年まで働くのが当たり前になった今、仕事の意味を腹に落としているかどうかで楽さが違う。生活のためだけの仕事としてこなしていると疲れ果てる。山根さん自身、NHKでなぜ自分はここにいるのかを考えた末、放送を職業とする意味がすとんと落ち、仕事と人生がカチッと噛み合った瞬間があったという。そうなると後は楽だ、というのが山根さんの実感である。
具体的なきっかけとして挙げたのが番組提案権だ。山根さんによれば、1985年頃からアナウンサーも番組提案権を持つようになり、「この人のことをどうしても伝えたい」という思いで提案し、実現させるようになると、それはもう「お仕事」ではなくなった。例として、NHKスペシャルで取り上げた彫刻家の佐藤忠良さんと舟越保武さんを挙げる。彫刻で食べていくことなど思い描けない時代から、二人とも貧乏に耐えながら世間に認められていった。その人生を伝えたいと思って番組にしたという。
もう一つは、肉体労働でこつこつ貯めた2800万円をすべてNHK厚生文化事業団に寄付し、高齢者の優れた文学を顕彰する文芸賞の創設につなげた女性の話である。貧しい農家に生まれ、東京大空襲の夜、家族4人で手をつないで逃げていたところ、気がつくと自分一人だけが生き残っていた。その後10年間、上野の山を放浪し、バタ屋のような暮らしをした。餓死しそうになって福祉施設に入ると、そこでも職員に虫けらのように扱われ、口答えすれば殴られ蹴られた。自尊心をずたずたにされる暮らしの中で、誰にも内面を語れなかった彼女は日記を書き始め、その日記をもとに書いた作文で労働大臣賞を受けたという。山根さんはこの人生をぜひ多くの人に知ってほしいと取材して伝えた。彼女の悔しさや無念、理不尽の中を生き抜いた気持ちは、程度の差はあれ今の日本の働く女性の多くが共有できるものであり、それを伝えることがここにいる意味だと感じた。そういうことが自分自身を救うのだ、と山根さんは話す。
おうみさんは、台本の背景やディレクターの指示の意図を考えることを深めていくと、その人の人生を生きるところまでつながるのだと受け止めた。
人の話を聞くことは「人生の快楽」
では、言葉の力や考える力はどうすれば養えるのか。おうみさんの問いに、山根さんは自分は論理的に考えられない、頭のいい人がうらやましいと謙遜しつつ、人と話し、人の話を聞くことが何より脳にも心にも栄養になると答える。どなたの言葉からも何かが引っかかって残り、それが蓄積されて考えるときの踏み台になる、という。
さらに山根さんは、人の話を聞くことは勉強である以上に「人生の快楽」だと言う。美術番組を10年ほど担当し、アーティストのアトリエで制作の様子を見てから話を聞く仕事では、出勤しながら神様に感謝の祈りをしていたほどだった。『小さな旅』で町や村の片隅に暮らす人々が、その暮らしの中でしか出てこない、体から湧き出るような言葉で語ってくれるのを聞くと、自分の細胞の一つひとつが喜ぶような感覚があったという。
おうみさんが、今はYouTubeなどで何でもすぐに調べられると言うと、山根さんは、頭で分かることと体で感じ、細胞から受け止めることは全然違うと応じる。リアルに対面すると「気」が通う。電波で上下の音域が切られた声と全身で受け止める声は違い、オペラも会場とテレビとではまったく違う。おうみさんも、事前にネットで調べた相手が、会ってみると印象が違うことがあると同意した。
山根さんは、心が通ったときの言葉を食べ物にたとえる。「言葉ほど美味しいものはない」とよく言っており、おいしいものを食べた後の満足感とよく似ていて、人の話をゆっくり聞けばそう思える言葉がたくさんあるという。
発信より「聞き合う」ことを
ところがここ何年も、みんな自分が発信することに意味があると思っている、と山根さんは指摘する。発信する人が偉く、黙って聞いているだけの人はさげすまれる。しかし今こそ聞き合うべきだ、と山根さんは言う。「話し合いましょう」と言っても、言いたいことを言い合うだけでろくなことにならない、とも。
おうみさんも、TikTokやX、Instagramなど自分で発信できるメディアが増え、そこで有名になった人や発信力のある人が偉く成功者だという空気を、ネットメディアで働いていて強く感じていたと話し、それはいかがなものかとも思っていたと明かす。山根さんは、それは今に始まったことではなく、カラオケが流行り始めた頃から、もう50年近く日本人は聞かずに歌いたい人ばかりになった、みんな一人カラオケのようだと見る。それは裏返せば、人と会話して心がカチッと噛み合ったときの快楽を知らない人たちなのだろう、と山根さんは言う。おうみさんが、人が怖い、面倒くさいという臆病さもあるのではと言うと、山根さんは、だからこそ若いうちに誰とでもいいから心を通わせた会話の喜びを一度味わっておけば、SNSなど比べものにならないと分かるはずだと答える。それは身体的な喜びだからだという。
酔って漏らした本音からプロジェクトが生まれた
山根さんは、自分は「飲んで食べておしゃべりすると元気になる」と笑う。そうした場では本音が出てしまい、酔って本人が忘れていても、仲間が覚えていて「あのとき言っていたじゃないか、一緒にやろう」と話が進むことがあるという。山根さんが今取り組んでいる全作品朗読のプロジェクトもそうして始まった。無謀で、生きているうちに実現するか分からないと笑いつつ、すでにいくつもの作品を読んでスタートしているという。
また、最初は合わないと思った人が案外いい人だったということもある、と山根さんは話す。おうみさんが、苦手だと感じるとそこで固まってしまうと打ち明けると、山根さんは自分にもそういうことはあったが、経験を積むと、人は本当に付き合ってみないと分からないと思う経験がたくさんあると答えた。
目の前の人を幸せにする
おうみさんは、山根さんから感じる人間としての器の大きさ、オーラの理由を聞きたかったと話す。山根さんが挙げたのは、遠くの立派な人ではなく、目の前の人を幸せにすることだった。今あなたが喜んでくれそうな話をするのが二人の関係をよりよくすることになるし、夫婦でも目の前の人が惨めな思いでぼろぼろになっていたら自分も寂しい。目の前の人を幸せにすることをつなげていけば、それが自分が幸せになるいちばんの近道だという感覚があるという。
おうみさんは、最近タクシーの運転手やコンビニの店員にも「お願いします」「ありがとうございました」と言葉にして伝えるようにしており、こちらが優しくすると相手も笑顔で返してくれると話した。それが自尊心を大切にすることにつながると気づいた、と。山根さんは、ぞんざいに行き先だけ告げれば相手もそういう態度になる、人間関係は「合わせ鏡」だと応じた。
子どもの言葉を育てる活動と「夢見る力」
山根さんは、人に丁寧に接することで日本が幸せな国になると考えており、その考えは子どもの言葉を育てる活動にもつながっている。周囲からは「正しい日本語を教えてください」と賛同されるが、正しい言葉を教えるつもりはないという。目指しているのは、隣の人とどう心を通わせるか、何かしてもらったときに心から「ありがとう」、人を傷つけたときに心から「ごめんなさい」と言えるような、言葉は心から出るものだという向き合い方を学んでもらうことだ。親や先生の言葉を鵜呑みにせず、自分の目で見て自分の頭と言葉で考え、人生を切り開ける子どもを育てる。そういう子どもが日本中に満ちたとき、日本は平和で幸せな国になる、と山根さんは「ちょっと強引かもしれないけど」と断りながら語る。
おうみさんが、アナウンサーは平和につながるかもしれない言葉をいちばん扱える職業なのではと言うと、山根さんは「あなたは今そこにいるんですよ」と強く応じた。ただ山根さん自身、そのことに目覚めたのは50歳近くになってからだったという。それまでも下手な読みを何とかしようと専門技術を懸命に磨き、番組一つひとつを丁寧にやっていたつもりだが、それによって1ミリでも良い日本をつくろうという気持ちはあまりなかったと振り返る。
おうみさんは、アナウンサーは見た目の華やかさやキャラクターの面白さ、突飛な発言で笑いを取ることが仕事だと、特に若いうちは思いがちだと話す。30歳になり、その一歩先に進むには何が必要かを考えていたが、言葉を最前線で伝えられる場所にいるのだから、言葉一つひとつを大切にする自分でいなければこの先は厳しいと感じ、戒めになったという。
山根さんは、女性アナウンサーたちで作った番組の例も挙げる。戦後50年に、町や村で日本の女性たちがどんな思いで生きてきたかをインタビューした番組で、戦中戦後に筆舌に尽くしがたい苦労をし、これを言わなければ死ぬに死ねないという思いを抱えながら伝える場のない人がたくさんいた。アナウンサーはその思いを伝える場にいる。思いを伝えきれたとき、自分の中にもカタルシスが生まれる、と山根さんは話す。
現在、山根さんは朗読の指導者を育てる講座を開いており、北海道から沖縄まで全国から受講者が集まり、今は10期目だという。受講者が子どもの言葉を育てる技術とノウハウを身につけ、地域の人々とつながって子どもの言葉を育てていく。それがアメーバのように日本中に広がり、自分の言葉で語れる子どもが育つことを夢見ている、と「港々に女あり」をもじって笑う。
ただ、この活動はアナウンサーの仕事とは性質が違う。放送は一つ終わるたびに達成感があるが、子どもと触れ合う仕事には達成感がなく、「あれでよかったのか」と悩み続ける。そこで山根さんが必要だと感じたのが、今やっていることがいつか必ずこの子たちの何かになると「信じること」、そしてこの子たちが幸せに生き、いつか良い日本になるという「夢見る力」だった。それがないと続かない、と山根さんは言う。
信念のこもった言葉は子どもに伝わる
おうみさんが、昨日良いとされたものが翌日には別のものに変わる時代に、何を信じればいいのか惑わされていると打ち明けると、山根さんは、自分も「いつか何かになるのかしら」と思う瞬間がないわけではないと認めつつ、大人が本気で向き合って伝えようとしたことは必ず何かになる、と答えた。
その例として山根さんが挙げたのが、石牟礼道子さんの父親の話である。石工の棟梁だった父親の家には大人が大勢集まり、いつも石の話をしていた。加藤清正は熊本城が立派なだけでなく、田んぼの周りに百姓を大いに助ける立派なものを造ってくれた、あれは自分たちのような石工や百姓が一心に造ったもので、「一心ちゅうものは末代まで残る」と話していたという。石牟礼さんは文字を覚える前からそうした信念のこもった言葉を聞いて育ち、あの人格が形成された。山根さんはそれを本で読み、今の大人は信念のこもった言葉を子どもの前で語っているだろうかと反省したという。ある程度人生経験を経なければ持てないかもしれないが、信念のこもった言葉は幼い子どもにも伝わる、というのが山根さんの考えだ。
「言い続ければ、どこかで引っかかる」
最後に山根さんは、おうみさんに向けて、一つひとつの仕事に向き合う姿勢が積み重なって信念になっていく、今まさに積み重なりつつあると語りかける。読み聞かせを聞いて、基本をきちんと捉えたうえで「今これがやりたい」という強い思いがあると感じたので、それをあちこちで、会った人みんなに言い続けること、そうすれば大体どこかで引っかかる、と助言した。そして背筋を伸ばして「応援します」と言う。こういう仕事をしている人は応援したい、上の人たちからは足を引っ張られもしたが応援してくれる人もいた、それは順繰り送りなのだ、と山根さんは話す。おうみさんも、いつか困っている若い世代を応援できる立場になりたいと応えた。
テレビとネットの両方を経験して
インタビュー後、おうみさんは再び一人でカメラに向かう。山根さんの一言一言の重みを生で聞けたこと、アナウンサーはそういう言葉を扱う仕事なのだということを胸に、まだ決まっていない次のステージでも何とか生きていきたい、と語った。
30歳で飛び込んだネット企業は、テレビとは「国が違う」ほどの違いがあり、苦労も多かったという。テレビは古い、ネットはいい加減だという対立がよく語られるが、ここに来て、長く身を置いたテレビの環境がいかに質が高く、職人としての専門性を持ったプロフェッショナル集団だったかに気づいた。一方でネットにはあまり決まりがなく、自由に挑戦し、楽しんで働く人たちを新R25のメンバーに見ることができた。両方に身を置いて初めてそれぞれの良さが分かった、とおうみさんは述べ、1年半の応援への感謝と、今悩んでいる人も一緒に頑張ろうという言葉で動画を締めくくった。
皆さん、こんにちは。おうみゆかです。こうして新R25のカメラの前で1人でこう皆さんに向かっておしゃべりするっていうのは初めてなんですけれども、改めまして、新R25が2026年9月をもってメディアを終了するということでね、まずは皆さんに見ていただいて本当にありがとうございました。
今回編集長から最後に是非皆さんに卒業制作をして欲しいという風にお願いをされまして、どんなことを皆さんに伝えたらいいのかなという風に考えてみたんですけれども、自分の中に今2つあるなと思ってちょっと整理してみました。
1つは私自身もう伝え手としては10年はやっていないですけれども、かなり長くの時間カメラの前に立って、お話ししたり、いろんな方にインタビューをしたりしてきましたので、やはり伝え手としてこのまま突き進みたいという気持ちが1つあります。30歳でこう新しくネットメディアに来て自分の中でも結構大きな決断だったんですけれども、1年ちょっとでなくなってしまうっていうことはどう整理していいのかっていうのはまだ自分の中で見つかっていないんですけれども、1つ分かっていることとすればやはりこの伝えるっていう仕事は続けていきたいなという風に思っています。
もう1つが新番組への心残りということでして、実は6月から見てくださった方もたくさんいらっしゃると思うんですけれども、「覚悟の千晴れ 30女の決断白書」という女性向けの新しい番組が始まりました。これゆ山さんにタイトルを言った時は演歌みたいだねって言われて、重みのあるタイトルなんですけども、私が実は初めて自分で立ち上げた番組でして、30代の悩める女性に向けた、新R25内でも初めての女性向けのトーク番組だったんですね。
初回は板野友美さん。で、2回目は先ほど言った山れ子さんに出ていただいたんですけれども、1回目からコメント欄にこの番組楽しみですって書いてくださった方もいらっしゃったりとかして、いや、嬉しいなと思って頑張るぞってこう意気込んでいたところで、なくなりますよというお話が来てですね、なんとこの番組は第2回で終了することになるという。
アナウンサーをやってる時は企画を書くこととかはあったんですけれども、番組自体をこう立ち上げるっていうことは本当になかったんですよね。大変なんですよ、番組立ち上げるってね。全部自分で決めなきゃいけないから。だから結構めんどくさいなって思うこともあったんですけど、新R25に来なければこの経験はできなかったと思っているので、せっかく立ち上げた番組がこうチャンネル内で2回で終了してしまうっていうのはちょっと視聴者の皆さんにも不親切な気がするということもありまして、しっかり締めくくった方がいいのではないかなと思いましたので、今回特別版「覚悟の千晴れ」と題しまして、私が今1番会いたい女性にインタビューをしてくることになりました。
伝え手としてこれからも頑張っていきたいという思いがありますので、アナウンサーとして、たくさんいますけど尊敬してる人たくさんいるんですけれども、本当に心から尊敬してる方に最後インタビューしたいなと思って、その機会をいただきました。そんな思いが伝わる最後の動画になればいいなと思っています。それではご覧ください。
ではよろしくお願いします。今ね、山根さんに来ていただきました。もう大感動という。
いえいえ。ありがとうございます。お呼びいただいて嬉しいです。
日本中を熱狂させたドラマ『半沢直樹』。物語の冒頭の語りを務めたのが元NHKアナウンサー山根基世さんです。1971年NHKに入局し、紅白歌合戦の総合司会を務める他、2005年には全国のNHKアナウンサーを統括するアナウンス室長に女性で初めて就任。55年にわたり、アナウンサーとして輝き続けています。言葉の世界を牽引してきた山根さんが伝え手として、1人の人間として胸に抱き続けている志とは。
私が知ったきっかけが『映像の世紀』で。ああ。NHKの世界の記録をこうドキュメンタリーでこう流してる番組なんですけれども、本当に心に染みるナレーションが。座して聞くってこういうことなんだ。
なんか磨い地も思いだわ。そうです。そんな、なんかこう座りながらこうずっとこう涙が出てくるっていう。
あれはね、番組がいいんですよ。番組も素敵ですけど、映像も力があるし、音楽にも力があるし、またやっぱり書いてあるコメントがね。うん。うん。歴史の中で語られなければならないことだし、いい番組を担当させてもらったって感じはあるんだけどね。
うん。36年ですかね、NHKにいられた。NHKは36年ですね。そこからフリーになられてってことで、本当定年まで働かれて、さらにその先も。その先までね、美しく。はい。ずっと輝く。ずっと輝く。
いや、でも私もそうなりたいなと思っていて。ねえ。だってアナウンサーの仕事っていうのは好きで取り組めば面白いしやりがいのある仕事ですものね。うん。本当にそうですね。ここまで続けてこられるっていうのは思っていましたか?
いや、私はそれこそNHKの面接で、いろんな、あの時代はね、平気でこと聞いてたわね。あなたは将来結婚する気はあるんですか?はい。できればしたいと思います。じゃあその時仕事はどうするんですか?いや、続けます。いつまで続けるんですか?定年までって言ったらもうね、試験官っていうのがね、私はスタジオに1人でポツンとカメラの前に向かってて、副調っていうね、副調整室、2階の部屋で姿の見えないその試験官たちがどっと笑う声が落ちてきたのね。
へえ。だからやっぱりね、女性が定年まで働くっていうのはその時代は本当に冗談としか受け止められない時代だったんですね。とにかく長く続けられる、長く働ける場所を探して、NHKは行けたわけだから、定年までと思ってたかどうかわかんないけど、長く続けたいとは思ってましたね、最初から。あ、そうですか。
なので山根さんの今までこうアナウンサーで培ってこられたご経験とか、そこでどんなこと大切にしてきたのかとか、そういったことをじっくり伺えればなと思っているんですけれども、その辺りを核心にちょっと連れていきたいなと思うんですけれども、アナウンサーとしてこうすごく大事にしてきたことっていうのは山根さんは何でしょうかね。
それがね、とてもおこがましいんだけど、やっぱりね、アナウンサーっていう世間のイメージって無意味に持ち上げられたり、ただ口先でペラペラペラペラ喋る人たちっていうなんか蔑みがあったりね、こう分かれるのよね。それでそのことがね、とても私はなんか悔しかったり残念だったりする。
若い頃ね、『馬車は走る』っていう沢木耕太郎さんの本を読んだの。はい。うん。まだ入局10年目ぐらいだったのかな。その頃読んだ本でね、面白かったのはね、もう皆さんご存知ないと思うけど、古い話ね。1975年に都知事選があって、その時は石原慎太郎さんと美濃部亮吉さんが対立候補だったのね。で、そのルポをするために沢木さんが取材してた時に、両陣営のウグイス嬢のアナウンスの仕方が気になったっていうの。
で、美濃部陣営のウグイス嬢はね、「皆さんこんにちは。美濃部です。東京をファシズムの牙から守りましょう。お年寄りと子供の味方、美濃部亮吉です」っていうね、本当に素人っぽい普通の喋り方をするんですって。ところがね、石原陣営のウグイス嬢は「ありがとうございます。ありがとうございます。石原慎太郎、月気にご挨拶に参りました。お店の中からご声援ありがとうございます。あ、2階からもご声援ありがとうございます」ってね。ものすごく滑らかに節をつけてね、玄人っぽくプロフェッショナルな感じでアナウンスしてたんだって。
はい。で、それが沢木さんにはなんかとても気になったっていうのね。その滑らかな玄人っぽさが気になった。ああ。石原陣営の選挙参謀というのが劇団四季をプロデュースしてた浅利慶太さんだったのね。
で、浅利慶太さんに石原陣営のウグイス嬢の話し方が非常に玄人っぽくてね、気になるって言ったら、慶太さんがね、沢木君、うちの人はお金がないから学生アルバイトに頼んでんだと。そうするとね、慣れない素人は逆にすぐ慣れて節をつけて読み始めるんだと。美濃部陣営は絶対プロがちゃんとやってる。プロだから何回やっても新しく初めてのように、素人のようにやることができるんだとおっしゃったというのね。そういうことがこうルポしてあって、私もすごくね、プロとアマチュア、うん、プロアマ論というのを逆転してるけど、ものすごく大事なことだなと思ったのね。
うん。だから何にもうまいっていう方法論みたいなのがあるじゃん。はい。技術だけをこう真似した時、うん、本当に中身の薄い、内容の伝わらないアナウンスになってしまうし、本当のプロフェッショナルって何だろう?うん。何回やっても新しく初めてのように常に新たな気持ちでやれるっていうのが本当のプロフェッショナルじゃないか。
そういう意味では例えばね、萩元晴彦さん、音楽プロデューサーの方いらっしゃるよね。で、うん、あの方に頼まれて内田光子さんって方にインタビューしたこともあるんだけど、うん、内田さんがやっぱりプロのピアニストっていうのは本当にね、解釈は自由で何でもできるんだけども、ピアノにも外してはならない型があるっておっしゃって。やっぱり基本っていうのはやっぱり外しちゃいけないんだけど、その上で常に新しくあるってことで。
萩元さんがおっしゃってたのはね、本当のプロフェッショナルっていうのは1番自分たち自身が本当に楽しむ人たちなんだよって。ベルリン・フィルのアーティストたち、音楽家たちは、うん、演奏終わった時ももう一晩中ね、今日の演奏はどうだった?ああだったこうだった。あそこが良かった。あそこもっとどうすればよかったってね、音楽談義をずっと一晩中し続ける集団なんですって。それくらい音楽を初めて接するかのように楽しむ人々だと。
え、これが本当のプロだって話を聞いた時ね、私の目指すプロフェッショナルっていう時に、司会なんかでもね、決まり言葉をこう立て板に水のように上手に話す人がいて、それで締めくくりの言葉もね、生放送の番組でももう前の晩から決めた言葉で締めくくるっていうね。
それもう不安だからそういうことは準備としては大切なんだけれど、やっぱり1時間ここで生でリアルに話したら、最初の私とこの1時間話した時の私と心の中の言葉は違ってくるはず。その1時間を瞬時に自分の言葉として語れるようなね、器用じゃなくていいのよね。不器用でもいいけれど。うん。なんかそういう心の言葉をきちんと言語化できるようなアナウンサーを目指したいというのがあったわね。
アナウンサーっていうのは心にもないことを言わざるを得ない瞬間っていっぱいあるのよね。もう9割8割ぐらいね。本当は、遊びに来てくださったお客様に、じゃあまた今度是非お遊びにいらしてください。本当に来るなんて、あんた本当にそう思ってんのっていうのあるじゃないですか。なるべくそういう言葉を避けたいなと思いながら、しかしやむなく使いつつ、うん、あなた人生を過ごしてまいりました。そうなの。
でも心からの言葉をこう紡いでくのってすごく難しいっていうの。だからね、それは常に心がけていないと絶対にできないことよね。だから私つくづく思ったのはね、組織の壁みたいなのにぶつかって非常に対人関係悩んだようなこともあったけれど、うん、そういう時やっぱり自分の言葉っていうのを持っていないと、結局こうリーダーシップっていうのは発揮できないのよね。自分の言葉を持ちなさいって若い人に言ったら、はい持ちますって言ってね。荷物持つようには持てないんだから、やっぱり若い時から自分の気持ち、自分が感じたことを人を傷つけず下品にならない言葉で言語化できる力っていうのをね、積み重ねていかないとね。
うん。それは考えるだけじゃなくて、やっぱり人のお話を聞いて、あ、そういう言葉遣いの仕方があるんだなとかね、本を読んでいろんな言葉を自分の中に貯めていく。うん。そういう作業があって初めて自分の言葉っていうのは何十年か先に掴めるんじゃないかと思うから、いつも若い人にね、若い時からその自分の言葉を自分の中に蓄積していくことをやってかないと、いざある年齢になって、はいここでトップでここやりなさいって言われた時本当に困りますよっていう話をするの。
ああ、実際に山根さんもう困ったなっていう経験もあった?それはもう、それはもう大変、いつも困ってました。
とりわけ困ったっていうか苦しんだのが、働く女性向けのね、番組を担当した2年間。その2年がもう本当に地獄の2年だったけどね。うん。年齢的に私がグループの中で1番上で、その1番トップのプロデューサーの男性と同い年だったのね。うん。でも決定権とか、それから人事権も予算を使う権利も何の権利もないわけでしょ。うん。アナウンサーっていうね、一応キャスターとして据えられてはいても、そういう権利がない中で働く女性向けの番組を作る時、どうしても意見が対立する。うん。
その時に感情的になってぶつかり合うともう本当に地獄ね。やっぱ男社会だし、うん、決定権持ってる人が番組の方向性決めてくわけですからね。それに対してじゃあ私はどう向き合えばいいのか。私も未熟だったから相手を傷つけたこともあったと思うんだけど、その時気がついたことの大切なことはね、人間は胸に1匹の虫を飼っている。誰でも。その虫の名は自尊心と言います。私自身もその自尊心をずたずたにいじられたんだけど、仕返しぐらいのことを相手にも、うん、言ったんだろうと思うね。なるほど。
結局、自尊心ほど恐ろしいものはないっていうのがね、うん、その時に学んだことね。うん。自尊心を大切にするっていうことが人を大切にするっていうことだし、うん、自尊心を傷つけないようにするっていうことが人間関係の中で1番大事なことだっていうのはね、骨身に染みて感じたことね。と同時に合わせて悟ったのが、やっぱり自分の言葉というものを持っていなければ人はついてこないなっていうのもね。うん。うん。
だからその時に、今時代はこういう状況ですから、こういう番組テーマをこういう形でやるべきではないでしょうかということをきちんと言語化して、うん、相手を傷つけない言い方できちんと伝えることができていれば、あそこであんなにズタズタボロボロになる必要なかったなと思って。
それ以後もすごくね、私たちは勉強しなきゃいけない。言葉っていうものを自分の中に蓄えていかなきゃいけないって。私あの時代もうちょっと上もいましたけども、うん、実働隊としては1番トップくらいの年齢でしたからね。はい。私の後輩にこんな悔しい思いも同じ思いもさせてはならない。私がこんな思いしたのに後輩がまた同じ痛みで苦しむんだったら、私が苦しんだ意味がないと思ったからね。一緒にしましょう。へえ。うん。勉強会を開くようにして。言葉のですか?うん。放送とかね。放送とか。
つまりね、その時思ったことは、私は放送人として成熟していなかったのよ、その時ね。放送人として。うん。放送というものが社会に対してどういう役割を果たすべきなのか。うん。今私は放送という場にいるのに、ここで私は何をすべきなのか、どういう番組を出すべきなのか、そういうことをそれこそ言語化できなかったわけじゃない。それはそれだけ自分の中に蓄積がなかったということ。考えてこなかったっていうことなのよ。思考が足りなかったってことなのよ。うん。うん。
アナウンサーっていう仕事は専門職ですから。うん。はい。専門技術は持たなければ話にならないのよね。うん。ただ私はやっぱりね、だからそれで技術が身についたから私は立派なアナウンサーですとは言えないのね。それはやっぱりなぜこれを読むのか、なぜこれを今ここで伝えるのかっていうことをきちっと考えて、一言一句に意味を体に入れて、自分の言葉として伝えることができるようになるっていうことが本当に伝えるっていうことだし、おこがましいけど、私は後輩にはやっぱりただうまいだけのアナウンサーにならないで、そのバックボーンとしてね、志っていうのをね、きちんと持つようにしないと。
つまりね、長いでしょ。今はもう定年までみんな働くのが当たり前だし、途中でどこかに行くにしても、人間が何かの仕事をして生きていく時、その背後にあるその仕事の意味を自分の腹に落としてるかどうかね。うん。それが自分が楽になるのよ。お仕事と思ってね、これは生活を成り立たせるためのお仕事としてこう日々の仕事をやってるとね、もう疲れ果ててくるのね。はい。やっぱり私もNHKでなぜ私は今ここで仕事してるんだろうということを考えた後、本当に放送を職業としていることの意味が自分の中にストンと落ちて、うん、仕事と人生がカチっとこう噛み合った瞬間があるのね。と、もうね、仕事が生きがい、自分の人生と仕事がピタッと重なると、はい、あとは楽なのよ。
重なった瞬間っていうのはどう重なったんですか?例えばアナウンサーっていうのはある時期まで番組提案権っていうのはあんまりなかったのね。85年くらいからアナウンサーも全局の人が番組提案権っていうのを持って、で、今自分が何を伝えたいのか。苦しい人生を送られた人がいる。この人のことをどうしても伝えたいっていう、こう思いみたいなものね。それ、ある種志みたいなものを持って、うん、私これを伝えたいんです、是非やらせてください。やりますっていう風になったら、それはね、もうお仕事じゃなくなるのね。どうしてもこれを伝えたいっていう、だから思いを獲得するっていうかな。うん。
例えばNHKスペシャルで佐藤忠良さんっていうね、彫刻家と、うん、うん、舟越保武さんっていう、もう84歳のね、老彫刻家が、あの時代彫刻で食べてくなんて思い描けないよね、時代から2人は貧乏に耐えながら、2人とも世間的に認められていく。あの2人の人生やっぱり素晴らしいと思って、うん、それを伝えたいと思って番組にしましたし。
もう1つはやっぱりしくい富さんとおっしゃるね。彼女はもう亡くなりましたけどね、ないお金がありますから文芸の振興のために使ってくださいと言って、NHKの厚生文化事業団に持ち込んだのね。うん。で、そのお金で銀の雫文芸賞っていうのを、優れた老人向けの文学を、うん、称える賞を創設したんだけど、そのお金というのがもう彼女が肉体労働で、うん、働いてコツコツコツコツ貯めた2800万を全部投げ打ってね。へえ。その文学振興に役立ててくださいって言って。
その人の人生も凄まじい人生でね。うん。食べていけない貧農の農家に生まれて、東京大空襲の、うん、夜、家族4人手繋いで逃げてる時に後ろから人がドッとかぶさって、で、気がついたら他はみんな亡くなって自分1人残って、うん、うん、それで10年間上野の山を放浪して、うん、犬猫のような暮らしをしてたって。うん。バタ拾いをしてた。うん。で、その人が餓死しそうになって福祉の門を叩いて婦人保護施設っていうところに入るのね。で、そこでもまた職員に、うん、虫けらのように扱われてね。それこそ一言でも口答えしようもんなら殴ったり蹴ったりされる。それこそ自尊心をずたずたにされるような暮らしの中で、彼女は誰にも自分の内面を語ることができなかったので、うん、日記を書き始めるの。へえ。そうやって書いた日記を元に書いた作文が労働大臣賞をもらって。へえ。へえ。私はこの人の人生を是非多くの人に知ってもらいたいと思って取材してお伝えしましたね。
だから、そういうことが私自身を救うんだね。彼女の悔しさ、彼女の無念、彼女が理不尽に生きてきたその気持ちっていうのは、今の日本の働く女性たちの多くが共有できる部分。うん。程度の差はあってもね。はい。そういうことを伝えていくことがここにいることの意味なのかなっていうね。うん。放送を職業とすることの意味がそういうところでストンと落ちるって感じがあるのよね。
山根さんの中でその人の人生を生きている感じになっているのかなと。うん。うん。台本にある背景とか、なぜこういうことが書かれているか、なぜこのディレクターはこういう指示をしたのかっていうことが、先ほど言われてたような考えるっていうところを深めていくと、その人の人生を生きるっていうところまでこう壮大につながっていくなと思って。ありがとうございます。深く理解していただいて。
やっぱり山根さんとお話ししていると知識量がやはりすごいなと思っていて。いやいやいや。本当にいろんな番組でたくさんの方に出会ってこられたんだろうなっていうのをすごく今のお話でもすごく感じたんですけれど、やはり言葉の力とか考える力っていうのを養っていくためにも、どんなことしたらそれがこう培われていくのかっていうのがなかなか私自身も分からない部分でもあって、それは本を読むとかもあると思うんですけど、どういうことをこう若い世代の時に積み重ねていくのがいいのかなと思って。
どうだろうね。私も本当に考える力はないのよ。そういうことなんで空回りするんだろうね。頭のいい人は羨ましいなと思う。私全然論理的に考えられないんですけどね。ただね、やっぱり人と話す、人のお話を聞くって何より脳にも心にも栄養になるとは思うわ。ああ。私はおかげ様でね、おうみさんもそうだけど人に会うお仕事。いろんな人の話を聞くっていうのがね、その時は気がつかなくても、こう引っかかって自分の中に残るものって必ず、どなたの言葉からもね、幾分かの何かを得ますよね。うん。そういうものがこう蓄積されて、それが土台になって考える時の踏み台っていうかな。種になるというか。うん。そういうものになるんじゃないのかな。
私なんか人の話を聞くことはね、勉強にもなるんだけど、もっとね人生の快楽だと思うのよ。人生の快楽。インタビュー番組を長くやらせてもらってね。私特に美術の番組10年ぐらいやってんのね。ああ。土曜日の朝とかね。うん。「美と出会う」とかね。それから「新日曜美術館」なんかもやったんだけど、アーティストのアトリエに行って作品作ってらっしゃる様子を見せていただいて、その上でお話を伺うじゃない。もうね、いいお仕事を与えてくださってありがとうございますって、もうね、朝出勤しながらね、神様に感謝のお祈りしてましたね。ああ、そうだ。うん。それはとても幸せな時間でしたね。うん。
「小さな旅」なんかで町や村のこう片隅で暮らしてる人たちが、その暮らしの中でしかこう感じられない言葉で語ってくださる。本当の体から湧き出るような言葉をね、聞くと、こっちもね体の細胞が1つ1つこうみなっていくような、うん、うん、喜びがあるし。うん。人間のことは変えなくだと思うわ。
ああ、積極的にそういう人に出会う場を、アナウンサーとかは結構あるかもしれないですけれど、今って結構ネットとか、うん、うん、YouTubeばっかり見たりとか、私もやっちゃうんですけど、うん、そういうことで知識を増やそうとしたりとか、今本当にいろんなコンテンツがあるので、すぐ検索すれば何でも調べられて。あのね、頭で分かるっていうこととね、体で感じてね、細胞からこうね、受け止めるものは全然違うと思うよ。そうですね。確かに。
でもリアルにね、対面するでしょ。うん。やっぱりなんかここにこう通うものが、うん、気が生じるのよ。気ですね。気だ。それですね。それがね、やっぱりネットやね、テレビ越しとはまた違うものだと思うわ。
私も色々こうネットで今から会う方のことを調べていったりするんですけれど、実際に会うといい人だなって思う時もあれば、あれっていう時もあったりして、やっぱそれも含めて、会わないとわからない。そう。うん。声だってね、電波でこう上下の音が切られてる音と、こうやって全身で受け止める声は違うし、声楽なんかで、オペラだってね。うん。会場で聞くのとね、あ、テレビで聞くのとは全然違いますよね。うん。
会って本当に心通った時はね、なんかなんだろう。私はね、よく言うんだけど、はい、言葉ほど美味しいものはないっていうか。うん。美味しいものを食べた後の満足感とよく似てる。うん。うん。あ、美味しい。美味しかったなって思える言葉がいっぱいあるんですよ、人のお話をゆっくり聞けば。うん。うん。はい。
ところがもうね、ここ何年もそうだけど、もう自分が発信することに意味があると思ってるの、みんな。ああ、そうですね。発信することが尊くて立派で、発信する人が偉くて、ただぼーっと聞いてるだけの人はね、なんかね、蔑まれてしまうんですけれど、私はね、今こそね、聞き合うべきだと思うね。よく話し合いましょうって言うでしょ。話し合ってろくなことないわね。そうですか。言いたいことだけ言い合ってね。
自分で発信できるメディアっていうのがすごく増えたと思うんですよね。TikTokだったり、X、Instagram、なんかまた新しいのが色々出てきたりとかして、そこで有名になったり、そこで発信力がある人が偉くて成功者なんだっていうようなことがすごくこうネットメディアをやっていると感じるんですよ。で、それっていかがなものなんだろうっていうことも同時に感じていて、聞くことっていうのは確かに今、足りていないんだろうなっていうのは聞いています。
うん。今っていうかもう少し前からね、カラオケが流行り始めた頃から、もうね、50年近いんじゃない?もう日本人は本当に聞かない人たち、歌いたい人たちになっちゃったのね。1人歌いしてるよね。ですね。1人カラオケとかもう、うん、私も行ったことありますけど、1人カラオケみたいな人ばっかりで。あ、それは逆に言うとね、人と会話して本当に心がカチっと噛み合った時のこの快楽を知らない人だと思うわ。
うん。そうか。そこに踏み出せていない人かもしれないですね、臆病になっていて。ああ、そうね。人が怖いのかな。うん。めんどくさいとかもあるかもしれないです。うん。いちいち足を運ぶとかいうことが。
だからね、やっぱり若いうちに心通う、友でも何でもいいのよ。とにかく人と心を通わせた時の会話の、うん、喜びっていうのをね、1度味わっておけばね、それはもうSNSなんかのものじゃないっていうのが分かると思う。うん。身体的喜びだから。はい。要するにね、私は飲んで食べておしゃべりすると元気になる。そう。でも一番大事なことですよね、なんか。
でね、そういう場で生まれた、うん、なんか結構そういう時で本音を言っちゃうのね。ちょっとお酒でも持ってくればよかった。今本音は良かったですね。その本音を言ってたのを自分ではもう忘れちゃってるわけ、酔っ払って。だけど人が聞き止めてくれてて、いや山根さんあの時ああ言ってたじゃないですかって、なんか仲間が一緒にこれやろうよっていう話になったりすることあるのよ。うん。
番組なんかそうだけど、私が今始めているダム全作品朗読っていうね、この無謀なと、生きてるうちに実現しそうなプロジェクトだけど、これが始まったの、私が本当に酔っ払って、あ、そうなんですか。なんか本音を喋ってるの。私もすっかり忘れてたのに、仲間がやろうって言ってくれて。うん。今もういくつも作品を読んで、うーん、スタートしてますからね。
最初はちょっとね、なんか合わないかなと思うような人がね、うん、はい、案外いいやつだったのっていうことあるしね。そう。今はあまり分からないんですよね。やっぱり苦手とこう感じてしまうと、もう苦手っていう脳になっちゃうというか。うん。そうね。そうね。私もそういうことあった。だけどやっぱり経験積んでみると、ああ、人間本当に付き合ってみないとよくわかんないもんだなって思う経験いっぱいありますよ。うん。あ、そうですか。それがだんだん分かってくるんですかね。うん。
自分のなんか人間としての幅みたいなものがすごく広がっていくのかなっていうのを感じましたし、それがやはり山根さん、お言葉もそうですけど、姿からこう人間力がこう。なんでなんですかね。こうオーラって言うんですかね。器の広さが小柄のこの体からこう。お腹の広さじゃない。なんか出ているんですよね。なんでそういうこうオーラを醸し出せるんだろうっていうのをすごくこのインタビューで聞いてみたいなと思ってたんですけど、今のようなことなんだろうなと思って。
それからね、やっぱり遠くの立派な人っていうんじゃなくてね。はい。やっぱり私はね、1番人間が大切にしなきゃいけないのは、目の前の人を幸せにするっていうことよ。ああ、目の前の。今目の前にあなたが喜んでくださりそうなお話をやっぱり今私がするのが1番ね、あなたと私の関係をよりよくすることになるし、やっぱりね、なんだかんだ、ぼけた亭主にしても目の前にいるこの人を幸せにしなきゃ、うん、自分も幸せになれないのよ。この人が惨めな思いでねボロボロになってたら、やっぱり自分だって寂しいじゃない。みんな目の前にいる人を大切に、目の前にいる人を幸せにするっていうことを全部こうつなげていけば、自分が幸せになる1番の早道だっていう感じがするのよ。
確かに。私最近ちょっと実践してることがあって、うん、タクシーの運転手さんとかコンビニの店員さんとか、その時しか会わないんですけれど、お会計お願いしますとかありがとうございましたっていうのを、なんか言葉にしてちゃんと伝えるようにしているんですけど、私が優しくすると向こうもこう笑顔で返してくれたりとかするってのは気持ちいいですし。そうなの。それがなんか優しさとか、まさにその自尊心を大切にするみたいなものが、うん、広がっていくんじゃないかなと。そうなんですよ。繋がりました、今。うん。そう。
だからタクシーの運転手さんにだってね、どこそこに行ってください、よろしくお願いしますって丁寧に申し上げれば、相手の方だってはい、分かりましたって言ってくださるけども、どこそこね、渋谷、運ちゃんあっち行ってよとかってね。うん。うん。うん。言ったら相手もそういう態度になるわよ。合わせ鏡だから。うん。合わせ鏡。うん。
だから人に対して優しくする、温かくする、丁寧に接するっていうことが自分を大事にすることにもなるし、私ね、だからそのことによって日本が幸せになる、幸せな国になると思うの。うん。子供の言葉を育てるっていうのも、結局は彼らが自分らしいと納得できる幸せな人生を切り開ける、うん、言葉の力を持ってほしいと思って。うん。うん。子供の言葉を育てる活動っていうのをやってるんだけど、それはみんなね、あ、正しい日本語教えてくださいって周りの方が賛同してくださるんだけど、私悪いけどそんな正しい言葉を教えるつもりないの。
そうではなくて、やっぱり彼らが隣の人とどうやったら心を通わせられるのか、何かやってもらった時に心からありがとうって言える心とかね、何か人を傷つけるようなことした時に心から、あ、ごめんなさいって本当に言えるようなね、言葉。言葉っていうのは心から出るものなんだっていうね、その言葉との向き合い方を学んでもらい、その中で彼らが親や先生の言葉を鵜呑みにして、うん、うん、考えずに従うのではなくて、本当に自分の目でものを見て、自分の頭で考えた自分の言葉で考えて自分の人生を切り開いていけるような、そういう子供の言葉を育てることが彼らが幸せに生きる1つの方法だし、そうやって幸せに生きる子供たちがこう日本中に満ちたら、言葉の力で周りといい関係を結んで、幸せな人生を開く、そういう子供たちが満ち溢れた時に日本は平和な幸せな国になるなんて、ちょっとね、強引かもしれないけど、私はね、言葉の力を育てるってそういうところと繋がってると思うのね。
アナウンサーという職業は、先ほども山根さんが言われてましたけど、本当にありがたい職業というか、平和につながるかもしれない言葉を1番扱える職業というか。そうなんですよ。そうなんですよ。おうみさん、あなたは今そこにいるんですよ。そうですよ。なんかそれって、アナウンサーになった時ってあまり気づかないというか。全然、私は本当にね。うん。なんか目覚めるのが遅かったわね。いやあ、そうですか。いくつぐらいの時に分かりました?もう50近かったんじゃない?あ、そうなんです。
うん。だからね、もうそれまでは一生懸命仕事をしましたよ。うん。ね、もう下手な読みをなんとかしようと、もう一生懸命、専門性、技術を身につけることは一生懸命だったし、番組1つ1つは丁寧に一生懸命やってたつもりよ。でもこのことによってね、1mmでも良い日本を作ろうなんていうね気持ちは、うん、あんまりなかったね。うん。うん。
若い、そういうアナウンサーという職業がそういうことと結びついてるっていうには。アナウンサーって何なんだろうっていうのを、うん、やっぱりこうずっとやっている中で考える機会っていうのがあって、見た目もすごい華やかで可愛い子も多いですし、なんかそこにこうフォーカスされて番組が作られたりとか、キャラの面白さとか、いかにこうちょっと突飛なことを言うかとか、そういうことで笑いを取ることがアナウンサーの仕事なんだっていう風に、特に若いとそういう風に思っちゃいがちなんですけれど、私も30になって、その一歩先を行くには何が必要なんだろうみたいなことを考えていたんですよ。うん。うん。今の話を聞いて、言葉をせっかく最前線で伝えられる場所にいるのだから、その言葉1つ1つを大切にする自分でいなければこの先は厳しいんだろうなと思って。うん。すごく戒めになったというか。うん。
うん。私もだからね、女性アナウンサーたちでみんなでね、戦後50年、町や村の片隅で日本の女たちはどういう思いをして生きてきたのかっていうことをインタビューする番組を、みんなで話し合って作ったのね。うん。うん。で、そういう人たちっていうのは本当に戦中戦後もう筆舌に尽くしがたい苦労して、うん、うん、悔しい思いをして、もうこれを言わなきゃ死ぬに死ねないっていうくらいのいっぱい思いを持っているけれど、伝える場がないっていう人いっぱいいるのよ。あ、うん。でも私たちアナウンサーはその場にいるんですよ。うん。彼女の思いを伝えてあげることができる。この思いを何としても伝えなければっていうその思いが遂げられた時、自分の中にもカタルシスが生まれるわね。
うん。アナウンサー以外のお仕事されてる方も、たくさん人に会って感じて、心を、言葉を磨いていくっていうことが大切なんだなっていう風に思いましたね。
あのね、今私は朗読者養成講座というのをやっていて、うん、はい、朗読の指導がきちんとできる人々を育ててるのね。北は北海道から南は沖縄まで、うん、全国から来てくださって今10期目だけど。うん。はい。うん。その人たちがちゃんとそういう子供の言葉を育てる技術とそのノウハウを掴んで、全国にいてみんな朗読を手にして、地域の人々とつながり、地域のみんなで子供の言葉を育てるっていうことに取り組んでくれてるわけ。日本にアメーバのように繋がっていくんです。繋がって、そうやって自分の言葉で語れる子供たちが育っていくのを夢見るじゃない。うん。
私はね、だから望みは港に女ありって言ってね、日本のね、地域に、はい、私の講座を受けて言葉の力を信じる子供たちを育てる人たちがこう日本に散った時は、ああ、どんないい国になるかなって、うーん、思うとね、やっぱり私も先生目指してたし、まあそれ一応教育の端っこかじってるようなもんなんだけど、やっぱりね、ものすごくこうアナウンサーって仕事は1つ仕事終わると、ものすごく、あ、終わったって達成感あるじゃない。教育っていうのは達成感ないわね。うん。もうね、いつも子供たちとこう触れ合ってこう楽しかったんだけど、あれで良かったのかな?とんでもないこと聞いてくる子もいるしね。で、それで、あれで良かったのかな?ね、もうやめ、これでいいのかな?いいのかなって悩み続けるようなことなんだけど、私思ったのはやっぱりそういう子供、そういう活動をするからには信じることね。
はい。この子たちに今こう私たちがやっていることは、必ずいつか、いつかこの子たちの何かになるんだってことを信じることと、そしてこの子たちがみんな幸せに生きて、きっときっといつかいい日本になっていくっていう夢見る力ね。と、夢見る力がないと続かないなっていうのはね、すごく感じました。
本当に時代の流れが早いというか、すぐ移り変わって、あれが良かったって、昨日までこれ良かったって言ってるのに、次の日からこれ良かったってなって、なんかどれを信じていいかわからないみたいな状況に私もそこに惑わされてるので、今の時代のこの気持ちの持ち方ってすごくこう難しいなと思ってるんですけども、そこはやっぱ地に足をつけて信じる。そう。勇気。うん。そこが求められる時代なんだろうなと思って。いつかなんかなるのかしらって思う瞬間がないわけじゃないよ。そうですよね。いやいやいや、必ずきっと何かになるよってね。必ずね、大人が本気で向き合って伝えようとしたことは何かになるよ、絶対。という信じる力ですよね。
そう。石牟礼道子さんのお父さんっていうのはね、石工の棟梁だったのよね。で、お家にいっぱい大人がいて、いつももうみんなで石のことを話してらしたらしいんだけど、うん、加藤清正が好きで、熊本城が立派だとか色々言ってたらしいんだけど、加藤清正が立派なのは熊本城が立派だっていうだけじゃなくて、田んぼの周りのカードなんかも、どんなに百姓が助かるかわかんない立派なカード作ってくれてると。で、すごく立派なんだって。もう本当に役にとってありがたい道らしいんだけども。うん。うん。あの道物をわしらのような石工や百姓が一心に作ったものよの。一心ちゅうものは末代まで残るぞとおっしゃってたそうですよ。
はい。石牟礼道子さんはまだ言葉を覚えない時代に、そういうお父さんのお話になる石工としての信念ね。うん。うん。そういう言葉を、文字覚えないからずっと聞いて育って、ああいう人格が成立するわけですよ。つまりそれは『しのさ』って本に載ってるんだけど、やっぱりね、今大人がね、持った言葉を子供の前で語っているかって、すごく私はそれを読んだ時にね反省しました。うん。
私たちはもっとね、信念を持って、自信を持って、信念のこもった言葉を子供たちに聞かせなきゃいけないのよ。ある程度ね、人生、うん、経なければ持てないかもしれないけど、やっぱり、うん、信念のこもった言葉っていうのは幼い子供にも伝わるんじゃない。1つ1つの仕事に向き合う自分の姿勢っていうのが、はい、積み重なって、それは信念になってくし、今もう信念が積み重なりつつあるわけでしょ。そうですね。読み聞かせていただいて。うん。
ちゃんとね、基本の姿勢も捉えてらっしゃるし、その上で今やりたいって思いがね、強くあるわけだから、それね、あっちこっちあっちこっちどこででも言い続けるの。言い続けて、会った人みんなに言い続けてくとね、大体どこかで引っかかるから。言い続ける。
そこでピシッとね、ピシっと背筋を伸ばして応援します。
ありがとうございます。今日はこういった機会をいただけて。
こちらこそ、本当にね。でもね、私はね、こういう仕事してる人はね、応援したいのよ。
ありがとうございます。私も若い世代というか困っている世代を応援できる立場になりたいです。
そうなの。それ順繰りだからね。私も上の人たちから、足も引っ張られたけど。
ああ、やっぱりありますよね。アナウンサーってありますよ。
応援してくれる人もいたし。
あ、そうですね。
人生でした。
先生と…ありがとうございます。なんか偉そうなこと言ってすいません。
ありがとうございます。はい。ありがとうございました。
本当に山根さんの言葉の一言一言が重みがすごくて、それをこうして生で聞けるタイミングをいただけた。そういう仕事であるんだ、アナウンサーはそういう仕事であるんだっていうことを胸に、次のステージでも、まだ決まっていませんけれども、なんとか生きていこうかなと思います。
30歳で初めて飛び込んだこのネット企業に、本当に国が違うぐらいの違いがあって、苦労したこともすごくあったんですけれども、気づいたこともたくさんあります。よくテレビとネットって二分されがちというか、テレビは古いとか、ネットはいい加減だとか、そのバトルがいろんなところで巻き起こってると思うんですけど、ここに来て、やはりずっと続けてきたテレビの環境っていうのが、いかに質が高くて、職人として専門力が高くて、プロフェッショナルな集団だっていうことに気づくこともできましたし、逆にネットは決まりとかがあまりないので自由な挑戦ができて、すごく楽しんで働いている人たちを新R25のメンバーでも見ることができて、ここに来て初めて両方の良さが分かったなと思います。
なんか真面目になっちゃいますけど、1年半という短い時間ではありましたけれども、たくさん応援いただいてありがとうございました。私も頑張るので、皆さんも一緒に、今悩んでる方とかも頑張っていきましょう。ありがとうございました。バイバイ。
バイバイ。バイバイ。バイバイ。
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