伝える場を失ったアナウンサーが、山根基世さんに尋ねた「自分の言葉」の育て方

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概要

新R25は2026年9月でメディア運営を終了する。同チャンネルでキャスターを務めてきたおうみゆかさんは、最後の動画として、自身が最も尊敬するアナウンサーの大先輩、元NHKアナウンサーの山根基世さんへのインタビューを選んだ。30歳でテレビからネットメディアに移り、約1年半で発信の場を失うことになったおうみさんが、55年にわたり言葉の仕事を続けてきた山根さんに、アナウンサーとして何を大切にしてきたのかを聞いている。山根さんの答えは、技術としての「うまさ」を超えた「自分の言葉」と、それを支える「志」の話に集中していた。

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最後の動画に込めた二つの思い

冒頭、おうみさんは一人でカメラに向かい、この動画を作った理由を話す。編集長から「卒業制作」を頼まれ、自分の中に二つの思いがあると整理したという。

一つは、伝え手としてこのまま進みたいという気持ちだ。30歳でネットメディアに来たのは大きな決断だったが、1年ちょっとでそのメディアがなくなることをどう受け止めればいいのか、まだ答えは見つかっていないと率直に語る。ただ、「伝える」仕事を続けたいということだけははっきりしているという。

もう一つは、新番組への心残りである。6月から、30代の悩める女性に向けたトーク番組(「30女の決断」を副題に含む)が始まっていた。おうみさんにとって初めて自分で立ち上げた番組で、新R25の中でも初めての女性向けトーク番組だった。初回は板野友美さんがゲストで、1回目からコメント欄に「楽しみ」という声も寄せられたが、意気込んでいたところにメディア終了の話が来て、番組は第2回で終わることになった。アナウンサー時代に企画書を書いたことはあっても、番組そのものを立ち上げた経験はなく、すべてを自分で決めなければならない大変さも味わった。それでも新R25に来なければできなかった経験だと振り返る。2回で終わらせるのは視聴者に不親切だと考え、特別版として「今いちばん会いたい女性」にインタビューすることにしたという。

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山根基世さんという人

番組内のナレーションによれば、山根さんは1971年にNHKに入局し、紅白歌合戦の総合司会などを務めた。2005年には全国のNHKアナウンサーを統括するアナウンス室長に女性として初めて就任している。ドラマ『半沢直樹』では冒頭の語りを担当した。NHKには36年在籍し、その後フリーとして仕事を続けている。

おうみさんが山根さんを知ったきっかけは、世界の記録映像をドキュメンタリーとして流すNHKの番組『映像の世紀』だった。座って聞いているだけで涙が出てきたという感想に対し、山根さんは、番組がいいのだと答える。映像にも音楽にも力があり、書かれたコメントも歴史の中で語られなければならないことだった、いい番組を担当させてもらった、というのが本人の受け止め方だ。

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「定年まで」と答えて笑われた面接

これほど長く続けると思っていたか、という問いに、山根さんはNHKの採用面接の話をする。当時は平気で「将来結婚する気はあるのか」と聞かれた。「できればしたい」「仕事は続ける」「定年まで」と答えると、スタジオに一人でカメラに向かっている山根さんの頭上に、姿の見えない副調整室の試験官たちがどっと笑う声が落ちてきたという。女性が定年まで働くことが冗談としか受け止められない時代だった、と山根さんは振り返る。定年までと明確に思っていたかは分からないが、とにかく長く働ける場所を探し、最初から長く続けたいとは思っていたという。

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プロとは「何度でも初めてのように」やれる人

アナウンサーとして何を大事にしてきたのか。山根さんはまず、世間のアナウンサー像への違和感を口にする。無意味に持ち上げられるか、口先でぺらぺら喋る人たちとして下げられるかに分かれがちで、それが悔しく残念だったという。

そこで挙げたのが、入局10年目頃に読んだ沢木耕太郎さんの『馬車は走る』のエピソードである。1975年の東京都知事選で石原慎太郎さんと美濃部亮吉さんが争った際、取材していた沢木さんは両陣営のウグイス嬢のアナウンスの違いが気になった。美濃部陣営は「皆さんこんにちは、美濃部です」と素人っぽい普通の話し方をしていた。一方、石原陣営は「2階からも5000円ありがとうございます」といった具合に、節をつけて滑らかに、いかにもプロらしくアナウンスしていたという。

石原陣営の選挙をプロデュースしていたのは浅利慶太さんで、沢木さんがそのことを話すと、浅利さんは「うちはお金がないから学生アルバイトに頼んでいる。慣れない素人は逆にすぐ節をつけて読み始める。美濃部側は絶対プロがやっている。プロだから何回やっても初めてのように、素人のようにやれるのだ」と答えたという。山根さんはこのプロ・アマ論の逆転を非常に大事なことだと感じた。うまく聞こえる方法論はあるが、技術だけを真似すると中身の伝わらないアナウンスになる。何回やっても新しく、初めてのように、常に新たな気持ちでやれることが本当のプロフェッショナルではないか、と考えるようになった。

山根さんはこの考えを補強する話をさらに二つ紹介する。一つはピアニストの内田光子さんへのインタビューで、解釈は自由だが、ピアノにも外してはならない「型」があり、基本を外さないうえで常に新しくあるべきだという話だった。もう一つは、音楽プロデューサーのハギモトさんから聞いたベルリン・フィルの音楽家たちの話である。本当のプロは自分たち自身がいちばん楽しむ人たちで、演奏が終わった後も一晩中「今日はどうだったか、あそこはどうすればよかったか」と話し続ける集団だという。音楽に初めて接するかのように楽しみ続けるのが本当のプロだ、というわけだ。

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決め台詞ではなく、その1時間で生まれた言葉を

これを司会の仕事に引き寄せて、山根さんは、決まり文句を立て板に水のように話し、生放送の締めの言葉まで前の晩に決めてしまうやり方に疑問を呈する。不安だから準備としては大切だと認めつつも、1時間リアルに話せば、最初の自分と1時間後の自分とでは心の中の言葉は違ってくるはずだという。その1時間を自分の言葉として語れるアナウンサー、器用でなくてもいいから心の言葉をきちんと言語化できるアナウンサーを目指したかったと語る。

一方で山根さんは、アナウンサーには心にもないことを言わざるを得ない瞬間が「8割、9割」あるとも笑いながら認める。ゲストに「またぜひ遊びにいらしてください」と言うとき、本当にそう思っているのかという場面だ。そうした言葉をなるべく避けたいと思いつつ、やむなく使いながら生きてきた、と自嘲気味に話す。だからこそ、心からの言葉を紡ぐことは常に心がけていないとできない、というのが山根さんの考えである。

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「地獄の2年」で学んだ自尊心と言語化

自分の言葉を持つことの重要性を痛感したのは、組織の中での対人関係に苦しんだ経験からだった。とりわけ苦しかったのが、働く女性向けの番組を担当した2年間で、山根さんはこれを「地獄の2年」と呼ぶ。グループの中で最年長で、トップのプロデューサーの男性と同い年だったが、キャスターとして据えられていても決定権も人事権も予算の権限もない。男社会の中で、方向性を決める人と意見が対立し、感情的にぶつかり合ってしまった。自分も未熟で相手を傷つけたこともあったと思う、と山根さんは言う。

そこで気づいたのが、人間は誰でも胸に一匹の虫を飼っていて、その名は「自尊心」だということだった。自分の自尊心もずたずたにされたが、相手にも同じくらい言い返していたのだろう、と振り返る。自尊心ほど恐ろしいものはなく、自尊心を大切にすることが人を大切にすることであり、それを傷つけないことが人間関係でいちばん大事だと骨身に染みたという。

同時に悟ったのが、自分の言葉を持っていなければ人はついてこない、ということだった。「今の時代はこういう状況だから、このテーマをこういう形でやるべきではないか」と言語化し、相手を傷つけない言い方で伝えられていれば、あそこまでぼろぼろになる必要はなかった。山根さんはこの経験から、後輩に同じ思いをさせたくない、後輩が同じ痛みで苦しむなら自分が苦しんだ意味がないと考え、放送について学ぶ勉強会を開くようになったという。

山根さんはこのときの自分を「放送人として成熟していなかった」と表現する。放送が社会に対してどんな役割を果たすべきか、放送の場にいる自分が何をすべきか、どんな番組を出すべきかを言語化できなかったのは、自分の中に蓄積がなく、考えてこなかったからだという。若い人には「自分の言葉を持ちなさい」と言うが、荷物のようにすぐ持てるものではない。自分が感じたことを、人を傷つけず下品にならない言葉で言語化する力は、人の話を聞き、本を読んで言葉を自分の中に貯めていく作業を積み重ねて、何十年か先にようやく持てるものだと話す。そうしておかないと、ある年齢でトップを任されたときに本当に困る、と後輩に伝えているという。

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仕事と人生が「カチッと噛み合う」瞬間

アナウンサーは専門職なので専門技術は持たなければ話にならない。しかし技術が身についたから立派なアナウンサーだとは言えない、と山根さんは続ける。なぜこれを読むのか、なぜ今ここで伝えるのかを考え、一言一句の意味を体に入れて自分の言葉として伝えられることが本当に伝えることであり、後輩には「ただうまいだけのアナウンサー」にならず、背後に「志」を持ってほしいという。

その理由として山根さんが挙げるのは、働く期間の長さだ。定年まで働くのが当たり前になった今、仕事の意味を腹に落としているかどうかで楽さが違う。生活のためだけの仕事としてこなしていると疲れ果てる。山根さん自身、NHKでなぜ自分はここにいるのかを考えた末、放送を職業とする意味がすとんと落ち、仕事と人生がカチッと噛み合った瞬間があったという。そうなると後は楽だ、というのが山根さんの実感である。

具体的なきっかけとして挙げたのが番組提案権だ。山根さんによれば、1985年頃からアナウンサーも番組提案権を持つようになり、「この人のことをどうしても伝えたい」という思いで提案し、実現させるようになると、それはもう「お仕事」ではなくなった。例として、NHKスペシャルで取り上げた彫刻家の佐藤忠良さんと舟越保武さんを挙げる。彫刻で食べていくことなど思い描けない時代から、二人とも貧乏に耐えながら世間に認められていった。その人生を伝えたいと思って番組にしたという。

もう一つは、肉体労働でこつこつ貯めた2800万円をすべてNHK厚生文化事業団に寄付し、高齢者の優れた文学を顕彰する文芸賞の創設につなげた女性の話である。貧しい農家に生まれ、東京大空襲の夜、家族4人で手をつないで逃げていたところ、気がつくと自分一人だけが生き残っていた。その後10年間、上野の山を放浪し、バタ屋のような暮らしをした。餓死しそうになって福祉施設に入ると、そこでも職員に虫けらのように扱われ、口答えすれば殴られ蹴られた。自尊心をずたずたにされる暮らしの中で、誰にも内面を語れなかった彼女は日記を書き始め、その日記をもとに書いた作文で労働大臣賞を受けたという。山根さんはこの人生をぜひ多くの人に知ってほしいと取材して伝えた。彼女の悔しさや無念、理不尽の中を生き抜いた気持ちは、程度の差はあれ今の日本の働く女性の多くが共有できるものであり、それを伝えることがここにいる意味だと感じた。そういうことが自分自身を救うのだ、と山根さんは話す。

おうみさんは、台本の背景やディレクターの指示の意図を考えることを深めていくと、その人の人生を生きるところまでつながるのだと受け止めた。

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人の話を聞くことは「人生の快楽」

では、言葉の力や考える力はどうすれば養えるのか。おうみさんの問いに、山根さんは自分は論理的に考えられない、頭のいい人がうらやましいと謙遜しつつ、人と話し、人の話を聞くことが何より脳にも心にも栄養になると答える。どなたの言葉からも何かが引っかかって残り、それが蓄積されて考えるときの踏み台になる、という。

さらに山根さんは、人の話を聞くことは勉強である以上に「人生の快楽」だと言う。美術番組を10年ほど担当し、アーティストのアトリエで制作の様子を見てから話を聞く仕事では、出勤しながら神様に感謝の祈りをしていたほどだった。『小さな旅』で町や村の片隅に暮らす人々が、その暮らしの中でしか出てこない、体から湧き出るような言葉で語ってくれるのを聞くと、自分の細胞の一つひとつが喜ぶような感覚があったという。

おうみさんが、今はYouTubeなどで何でもすぐに調べられると言うと、山根さんは、頭で分かることと体で感じ、細胞から受け止めることは全然違うと応じる。リアルに対面すると「気」が通う。電波で上下の音域が切られた声と全身で受け止める声は違い、オペラも会場とテレビとではまったく違う。おうみさんも、事前にネットで調べた相手が、会ってみると印象が違うことがあると同意した。

山根さんは、心が通ったときの言葉を食べ物にたとえる。「言葉ほど美味しいものはない」とよく言っており、おいしいものを食べた後の満足感とよく似ていて、人の話をゆっくり聞けばそう思える言葉がたくさんあるという。

31:46

発信より「聞き合う」ことを

ところがここ何年も、みんな自分が発信することに意味があると思っている、と山根さんは指摘する。発信する人が偉く、黙って聞いているだけの人はさげすまれる。しかし今こそ聞き合うべきだ、と山根さんは言う。「話し合いましょう」と言っても、言いたいことを言い合うだけでろくなことにならない、とも。

おうみさんも、TikTokやX、Instagramなど自分で発信できるメディアが増え、そこで有名になった人や発信力のある人が偉く成功者だという空気を、ネットメディアで働いていて強く感じていたと話し、それはいかがなものかとも思っていたと明かす。山根さんは、それは今に始まったことではなく、カラオケが流行り始めた頃から、もう50年近く日本人は聞かずに歌いたい人ばかりになった、みんな一人カラオケのようだと見る。それは裏返せば、人と会話して心がカチッと噛み合ったときの快楽を知らない人たちなのだろう、と山根さんは言う。おうみさんが、人が怖い、面倒くさいという臆病さもあるのではと言うと、山根さんは、だからこそ若いうちに誰とでもいいから心を通わせた会話の喜びを一度味わっておけば、SNSなど比べものにならないと分かるはずだと答える。それは身体的な喜びだからだという。

34:20

酔って漏らした本音からプロジェクトが生まれた

山根さんは、自分は「飲んで食べておしゃべりすると元気になる」と笑う。そうした場では本音が出てしまい、酔って本人が忘れていても、仲間が覚えていて「あのとき言っていたじゃないか、一緒にやろう」と話が進むことがあるという。山根さんが今取り組んでいる全作品朗読のプロジェクトもそうして始まった。無謀で、生きているうちに実現するか分からないと笑いつつ、すでにいくつもの作品を読んでスタートしているという。

また、最初は合わないと思った人が案外いい人だったということもある、と山根さんは話す。おうみさんが、苦手だと感じるとそこで固まってしまうと打ち明けると、山根さんは自分にもそういうことはあったが、経験を積むと、人は本当に付き合ってみないと分からないと思う経験がたくさんあると答えた。

36:16

目の前の人を幸せにする

おうみさんは、山根さんから感じる人間としての器の大きさ、オーラの理由を聞きたかったと話す。山根さんが挙げたのは、遠くの立派な人ではなく、目の前の人を幸せにすることだった。今あなたが喜んでくれそうな話をするのが二人の関係をよりよくすることになるし、夫婦でも目の前の人が惨めな思いでぼろぼろになっていたら自分も寂しい。目の前の人を幸せにすることをつなげていけば、それが自分が幸せになるいちばんの近道だという感覚があるという。

おうみさんは、最近タクシーの運転手やコンビニの店員にも「お願いします」「ありがとうございました」と言葉にして伝えるようにしており、こちらが優しくすると相手も笑顔で返してくれると話した。それが自尊心を大切にすることにつながると気づいた、と。山根さんは、ぞんざいに行き先だけ告げれば相手もそういう態度になる、人間関係は「合わせ鏡」だと応じた。

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子どもの言葉を育てる活動と「夢見る力」

山根さんは、人に丁寧に接することで日本が幸せな国になると考えており、その考えは子どもの言葉を育てる活動にもつながっている。周囲からは「正しい日本語を教えてください」と賛同されるが、正しい言葉を教えるつもりはないという。目指しているのは、隣の人とどう心を通わせるか、何かしてもらったときに心から「ありがとう」、人を傷つけたときに心から「ごめんなさい」と言えるような、言葉は心から出るものだという向き合い方を学んでもらうことだ。親や先生の言葉を鵜呑みにせず、自分の目で見て自分の頭と言葉で考え、人生を切り開ける子どもを育てる。そういう子どもが日本中に満ちたとき、日本は平和で幸せな国になる、と山根さんは「ちょっと強引かもしれないけど」と断りながら語る。

おうみさんが、アナウンサーは平和につながるかもしれない言葉をいちばん扱える職業なのではと言うと、山根さんは「あなたは今そこにいるんですよ」と強く応じた。ただ山根さん自身、そのことに目覚めたのは50歳近くになってからだったという。それまでも下手な読みを何とかしようと専門技術を懸命に磨き、番組一つひとつを丁寧にやっていたつもりだが、それによって1ミリでも良い日本をつくろうという気持ちはあまりなかったと振り返る。

おうみさんは、アナウンサーは見た目の華やかさやキャラクターの面白さ、突飛な発言で笑いを取ることが仕事だと、特に若いうちは思いがちだと話す。30歳になり、その一歩先に進むには何が必要かを考えていたが、言葉を最前線で伝えられる場所にいるのだから、言葉一つひとつを大切にする自分でいなければこの先は厳しいと感じ、戒めになったという。

山根さんは、女性アナウンサーたちで作った番組の例も挙げる。戦後50年に、町や村で日本の女性たちがどんな思いで生きてきたかをインタビューした番組で、戦中戦後に筆舌に尽くしがたい苦労をし、これを言わなければ死ぬに死ねないという思いを抱えながら伝える場のない人がたくさんいた。アナウンサーはその思いを伝える場にいる。思いを伝えきれたとき、自分の中にもカタルシスが生まれる、と山根さんは話す。

現在、山根さんは朗読の指導者を育てる講座を開いており、北海道から沖縄まで全国から受講者が集まり、今は10期目だという。受講者が子どもの言葉を育てる技術とノウハウを身につけ、地域の人々とつながって子どもの言葉を育てていく。それがアメーバのように日本中に広がり、自分の言葉で語れる子どもが育つことを夢見ている、と「港々に女あり」をもじって笑う。

ただ、この活動はアナウンサーの仕事とは性質が違う。放送は一つ終わるたびに達成感があるが、子どもと触れ合う仕事には達成感がなく、「あれでよかったのか」と悩み続ける。そこで山根さんが必要だと感じたのが、今やっていることがいつか必ずこの子たちの何かになると「信じること」、そしてこの子たちが幸せに生き、いつか良い日本になるという「夢見る力」だった。それがないと続かない、と山根さんは言う。

47:16

信念のこもった言葉は子どもに伝わる

おうみさんが、昨日良いとされたものが翌日には別のものに変わる時代に、何を信じればいいのか惑わされていると打ち明けると、山根さんは、自分も「いつか何かになるのかしら」と思う瞬間がないわけではないと認めつつ、大人が本気で向き合って伝えようとしたことは必ず何かになる、と答えた。

その例として山根さんが挙げたのが、石牟礼道子さんの父親の話である。石工の棟梁だった父親の家には大人が大勢集まり、いつも石の話をしていた。加藤清正は熊本城が立派なだけでなく、田んぼの周りに百姓を大いに助ける立派なものを造ってくれた、あれは自分たちのような石工や百姓が一心に造ったもので、「一心ちゅうものは末代まで残る」と話していたという。石牟礼さんは文字を覚える前からそうした信念のこもった言葉を聞いて育ち、あの人格が形成された。山根さんはそれを本で読み、今の大人は信念のこもった言葉を子どもの前で語っているだろうかと反省したという。ある程度人生経験を経なければ持てないかもしれないが、信念のこもった言葉は幼い子どもにも伝わる、というのが山根さんの考えだ。

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「言い続ければ、どこかで引っかかる」

最後に山根さんは、おうみさんに向けて、一つひとつの仕事に向き合う姿勢が積み重なって信念になっていく、今まさに積み重なりつつあると語りかける。読み聞かせを聞いて、基本をきちんと捉えたうえで「今これがやりたい」という強い思いがあると感じたので、それをあちこちで、会った人みんなに言い続けること、そうすれば大体どこかで引っかかる、と助言した。そして背筋を伸ばして「応援します」と言う。こういう仕事をしている人は応援したい、上の人たちからは足を引っ張られもしたが応援してくれる人もいた、それは順繰り送りなのだ、と山根さんは話す。おうみさんも、いつか困っている若い世代を応援できる立場になりたいと応えた。

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テレビとネットの両方を経験して

インタビュー後、おうみさんは再び一人でカメラに向かう。山根さんの一言一言の重みを生で聞けたこと、アナウンサーはそういう言葉を扱う仕事なのだということを胸に、まだ決まっていない次のステージでも何とか生きていきたい、と語った。

30歳で飛び込んだネット企業は、テレビとは「国が違う」ほどの違いがあり、苦労も多かったという。テレビは古い、ネットはいい加減だという対立がよく語られるが、ここに来て、長く身を置いたテレビの環境がいかに質が高く、職人としての専門性を持ったプロフェッショナル集団だったかに気づいた。一方でネットにはあまり決まりがなく、自由に挑戦し、楽しんで働く人たちを新R25のメンバーに見ることができた。両方に身を置いて初めてそれぞれの良さが分かった、とおうみさんは述べ、1年半の応援への感謝と、今悩んでいる人も一緒に頑張ろうという言葉で動画を締めくくった。