関根勤が語る「ブレずに変わる」芸と、理不尽を受け流す思考法

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概要

新R25の番組『バブルから学ぶZッ!』は、バブル時代を経験し、いまも第一線で活躍する人をゲストに招き、Z世代が長く活躍するためのヒントを聞く企画である。今回のゲストは芸能生活50年を超えるお笑いタレントの関根勤。収録は所属事務所の浅井企画で行われ、編集長の渡辺将基が進行を、編集部の藤野拓郎がZ世代代表を務めた。藤野はお笑い好きで、駒澤大学では萩本欽一と同じ年に入学したという。

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番組の問いは、変化の激しい時代に何十年も売れ続けるには何が必要なのか、である。関根の答えは「ブレないこと」と「同じ感覚の中でのブラッシュアップ」の両立だった。さらに若い世代に向けて、上の世代から理不尽な言葉を浴びても深刻に受け止めすぎない考え方を語った。

バブル期の芸能界と「ちょっとおかしい」という感覚

関根によれば、バブル期はおおむね1986年から1991年ごろで、自身にとっては芸人として「第2段階」に入り、小堺一機とともに世に出ていった時期にあたる。番組の忘年会では大型テレビなどが景品に並び、関根はビンゴで50ccのバイクを当てた。ニッポン放送の番組を担当していたころには、ハワイで日本人向け放送が始まるのに合わせてゲストに呼ばれ、リスナー10人を連れて現地へ行った。出演は1時間で、残りの2日間はゴルフをしていたという。いまならすぐ帰ってくるところだ、と関根は振り返る。

当時はこれが続くと思っていたのかと聞かれ、関根は「ちょっと怪しいなとは思っていた」と答えた。当時はまだ「バブル」という呼び名もなかった。関根は知人から聞いた話も紹介した。財布を持たずに六本木へ行っても、不動産会社の社長が酒をおごってくれ、帰りのタクシー代まで出してくれたという。進行役の渡辺は、いまも生き残っている人はみな「あのころは変だった」と言う、と応じた。

コンプライアンス不在の番組づくりと「寛容さ」

関根はバブル期の空気を、コンプライアンスとは無縁の時代だったと表現する。背中に花火をしょって火傷をする、答えられないと水の中へ沈んでいくバスに芸人を入れる、といった企画が平気で放送されていた。ビートたけしの番組では、ガラス張りのセットでワニにどれだけ近づけるかを競う企画があり、ワニが装置を壊して出てきてしまった。出演した芸人は泣き出し、たけしが「泣くんじゃねえよ」と叱ったという。クマと檻の中で戦った藤原さんの話も挙がり、関根は、一歩間違えれば命に関わる、犯罪に近いことをやっていたと語った。

ただし関根は、当時をただ乱暴な時代とは見ていない。視聴者が「寛容」だったという。例に挙げたのは『川口浩探検隊』だ。アマゾンの洞窟に探検隊が入っていく場面を、中から見上げるアングルで撮っている。つまりカメラマンが先に入っている。現地の「原住民」もエキストラだった。それでも視聴者は「面白いね」とにこにこ見ていた。気づいている大人も、ドラマとして楽しんでいた。いまなら「やらせだ」とすぐ批判されるが、当時はそういう空気ではなく、そもそも書き込むSNSもなかった、と関根は説明する。

カマキリ拳法への苦情はなぜ現場に届かなかったか

関根自身の代表的な持ちネタ「カマキリ拳法」も、この話につながる。自分で編み出し、飽きてくるとセミやダチョウの拳法も加え、最終的には全身緑のカマキリ男になった。ところが後年聞いてみると、このネタを嫌がっていた人は多かった。大人の女性はほとんどだめで、おとなしい男の子も怖がっていたという。

いまなら「気持ち悪い」「もう出すな」という声がSNSで広がり、スポンサーにも届く。同意する人はボタンを押すだけでよく、「米粒1つ分のエネルギーもいらない」と関根は言う。

一方、当時苦情を入れるには手間がかかった。まず日本テレビの電話番号を調べ、7桁の番号を押して電話をかける。交換台に「少々お待ちください」と言われ、保留音の「オリーブの首飾り」を1分ほど聞かされる。ようやくデスクにつながって「関根が気持ち悪い、もう出すな」と伝えても、「貴重なご意見ありがとうございました」で終わってしまう。苦情はその人のところで止まり、現場には伝わらない。一つの声は一つのまま終わり、掛け算で広がることはなかった。苦情を届けるには相当なエネルギーが必要だったので、関根の耳には何も入らなかった。「あのときの関根さん、気持ち悪かった」「怖かった」と聞かされたのは、40代、50代になってからだという。

今の時代の良さ――人権が守られ、売れる道も増えた

では、今の時代の良いところは何か。関根はまずコンプライアンスが整ったことを挙げた。昔はセクハラやパワハラを我慢するしかなかった。ADがディレクターに殴られたり蹴飛ばされたりしていたし、雪山のロケで凍傷になり指を切断した若手芸人もいた。そうしたことがなくなり、人権が守られるようになった点は良いことだと関根は言う。

売れ方の幅も広がった。昔はテレビと舞台しかなかったが、いまはネットやTikTokだけで売れる人もいる。ただしチャンスが増えた分、ライバルも増えた、と関根は付け加える。

関根は自身の経歴を例に、この変化を説明した。1974年、テレビ番組『ぎんざNOW!』で5週勝ち抜いてそのままプロになり、翌週にはもうアシスタントを務めていた。1970年代の芸人は、ふつう師匠について鞄持ちや掃除を1〜2年こなし、人間性を見極めてもらったうえで、師匠が関係各所に挨拶してデビューさせてもらうものだった。関根はその過程を通っていない。関根が5週勝ち抜いたのを見て「あそこで勝てば芸能人になれる」と考えた人たちが続き、ハンダースが生まれた。その約10年後には吉本のNSCができ、師匠につかない芸人が一気に増えた。関根はこれを「ビッグバン」と呼ぶ。

関根のデビュー当時、若手芸人はほとんどおらず、周りはずっと上の先輩ばかりで、全体でも数十人だったという。いまは何万人もいて、M-1のエントリーだけで1万組を超える。昔は入口が狭いかわりに、入ってしまえば比較的安定し、すぐに取って代わられることはなかった。いまは入口がたくさんある。関根は「どっちもどっち」と評しつつ、いまの環境で一からやり直すのは怖い、とも漏らした。

売れる人に共通するもの――好きであること、ブレないこと

時代が変わっても、売れる人に共通する点はあるのか。関根はまず、お笑いが好きであることを挙げる。周りからは努力家に見えても、本人は好きだからやっているだけで、努力しているとは思っていない。そういう人が残るという見方だ。

もう一つが「ブレないこと」である。関根によれば、プロが認めるのはブレない人だ。出川哲朗は関根の舞台「カンコンキンシアター」を毎年見に来て、「関根さん、ブレないですね」と言う。これが芸人同士では褒め言葉なのだという。

変えないまま変える――モノマネを若い世代に届ける工夫

藤野は、何十年も売れるには変わっていかなければならないのではないかと尋ねた。関根は、同じ感覚の中でブラッシュアップしていく必要がある、と答えた。

具体例はモノマネだった。関根がまねてきた長嶋茂雄、ジャイアント馬場、大滝秀治といった人物を、いまの若い人は知らない。そこで何をするか。一つは、モノマネそのものを変えるのではなく、本人の新しい情報を喋らせることだ。千葉真一を知らない世代でも、息子の真剣佑と郷敦なら知っている。そこで千葉真一のまねで「真剣佑と郷敦には私が空手を教えましてね。真剣佑は176cm、郷敦は183cm。7cmの差があります」と語らせる。すると若い人にも「あの二人のお父さんなのか」と伝わる。

10代にはそれすら通じない。そこで関根が使うのが、学校で「習いたて」の歴史上の人物だ。左手の法則を発見した瞬間のフレミングを演じ、「オーマイガー」と驚いてみせる。伊能忠敬は54歳で日本を歩いてほしいと依頼された。当時の54歳はいまより老けていたはずだから、最初の返事は「膝が持ちますか?」だったのではないか、と演じる。女性に一番受けるのは、ウォルト・ディズニーが初めてミッキーマウスをスケッチした場面で、描いたミッキーに「ハロー、これからよろしくね」と話しかけたはずだ、というネタだという。

渡辺はこれを、芸風の土台は変えずに、時代と設定を作り直すことだとまとめた。関根は、見る人が分かることをしなければならない、と補足した。流行りのタレントに合わせるより、教科書の人物ならみんなが知っている、という発想である。

トレンドを追う理由と、あえて追わない領域

ブレないまま時代に取り残される人もいるのでは、という問いに、関根は「いるかもしれませんね」と答えた。そのうえで、自分は新しいものは何でも見ていると語る。BSも含めて見ていて、それは努力でもあり自然にやっていることでもある。根底には現役でいたいという意欲と、知らなかったら恥ずかしいという感覚があるという。

きっかけの一つが『鬼滅の刃』だった。関根はもともと興味がなく、映画も見に行っていなかった。関西でのロケ中に忍者の格好をしたカップルを見かけて「忍者だね」と声をかけたところ、「これ鬼滅の刃です」と言われた。恥ずかしくなり、トレンドを押さえていなかったと気づいて、すぐに見に行った。映画『国宝』も、話題に入れないと困るので資料として見たという。年長者の中には「全然知らないよ」という立場を取る人もいるが、関根はそれが嫌なのだ。

ただし、人数の多いアイドルグループについては、初期のメンバーは分かっても区別がつかなくなり、諦めたという。そこに詳しすぎるとかえって気持ち悪いだろう、というのが関根の判断である。

表と裏を演じ分ける――「ポルシェのブレーキ」

関根はテレビでの穏やかな印象とは別に、「裏」の顔を持つ。小堺一機とのTBSラジオ(通称「コサキン」)は深夜放送で、先輩をからかう替え歌など、若さに任せた危うい内容もあった。いまなら誰かが聞いて事務所に連絡が行き、何度謝りに行ったか分からないだろう、と関根は言う。しかし当時は苦情が一切来なかった。閉じた世界で自由にやれたのは助かった、と振り返る。

平成元年に旗揚げしたカンコンキンシアターも、映像化できない内容をやっている。YouTubeライブも危ない話ばかりなので映像として残していない。テレビでは言ってはいけないことがあるので、その範囲で喋る。舞台では全開、YouTubeはその中間くらい。関根はこうして場を使い分けている。

使い分けずにやりたい放題をしてネットで叩かれる人もいる、という指摘に、関根は「ポルシェのブレーキと同じで止まる」「効きがいい、カーボンブレーキ」と冗談めかして答えた。止まれるのは若いトレンドを追っているからだという。何が失礼かを知っているから、この人にこれを言ったら失礼だ、と判断できる。あえてそこを踏み越えるのが爆笑問題の太田光で、関根は「すげえな」と思うが、自分にはできないし怖いと語った。テレビではブレーキを踏み、舞台ではアクセル全開で行く。舞台の客も内容を外に漏らさず守ってくれるという。

素人いじりの一線――「暗い」と言わずに持ち上げる

藤野は、関根と聞いて真っ先に思い浮かぶのが『笑っていいとも!』での素人いじりだと言う。関根はプロと素人を明確に分けていた。プロは言い返せるし、いじられたことが芸にもなる。例に挙げたのは、有吉弘行が品川祐につけた「おしゃべりクソ野郎」というあだ名で、それで有吉はまた売れた。

一方、素人がテレビに出るのはおそらく一度きりだ。そこで「暗いですね」と言ってしまえば、放送後に周りから「お前、言われてたな」とからかわれる。だから関根は、少し暗めの人が出てきても「昨日、刺繍の本の3冊目を書き終えました」のように、インドアだが知的でクリエイティブな人として紹介したという。

その場で関根は藤野を題材に実演した。色白の藤野を見て「豆腐は絹ごし一本です」と言うと、藤野は「マジで嬉しい」と喜び、実際に絹ごししか食べないと明かした。渡辺には「ギターに3時間ほど挑戦したことがあります」と言い、渡辺は1日で諦めた経験があるので当たっている、と笑った。いじられても全く嫌な気がしない、というのが二人の感想だった。

Z世代へのメッセージ――上司の厳しい言葉を「本気にしない」

最後に渡辺は、社会に出たばかりの若い世代に伝えたいことを尋ねた。関根はまず上の世代の事情を説明した。いまの50〜60代は厳しい時代を生き、パワハラも受けてきたので、それが染みついている。関根自身も「できないんだったら帰れ」とよく言われた。帰らなかったが。いまも上司からそう言われる可能性はある。

関根の助言は、それを本気にしないことだ。この人は昔の風習で言ってしまっただけで、本気ではない。そう考えて、簡単に傷つかないでほしいという。関根はアグネス・チャンを例に出した。アグネスに「もっときれいな日本語を喋ってよ」とは思わないのと同じで、「まあまあ」と受け流す余裕を持ってほしい。関根の見立てでは、Z世代は学校で先生に厳しくされてこなかったぶん、傷つきやすい。自分たちの世代は殴られていた、とも言う。

関根自身には、ひどいパワハラをするプロデューサーのもとで働いた経験がある。売れている人にはへりくだり、関根たちには威張る人物だった。関根はその姿を見て「かわいそうな人だな」「全然かっこよくねえのに」と思い、余裕を持って接したという。直接向き合うときも反論はせず、「どうもどうも」「あ、そうっすか」と受け流す。そして心の中では「誰にも尊敬されてないよ、あの人」と見下している。面と向かって言えば揉めるので、心の中でやるのが大事だという。

藤野はまさにそのタイプで、編集長から「なめるな」とよく言われるそうだ。関根は「できてるじゃん」「心の中ではなめてればいい」と太鼓判を押した。関根は相手の良いところも見てあげるべきだと言いかけたが、そのプロデューサーについては良いところがなかったと笑う。51年の芸能生活で一番嫌われていた人物で、ランクをつけるなら「Sプラスプラスプラス」だという。それでも、この人がこうなったのは時代のせいだと思えば、嫌いになりすぎずに済む、と関根は語った。

給食の記憶と「しょうがない精神」

関根はこの考え方の原点として、小学校時代の体験を語った。2年生から5年生まで、給食を残すと食べ終わるまで帰してもらえず、校舎に一人で残されていた。その憂鬱を晴らしてくれたのがお笑いだった。笑うとブルーな気持ちがニュートラルに戻る。だからあの先生のおかげでこの世界に入れたとも言える、と関根は言う。あの4年間より辛いことは、その後の人生になかった。芸能界は自分で入った世界だから、嫌なら辞められる。しかし小学校からは逃げられない。なぜ親に言わなかったのか、と関根はいまでも思うという。

後に調べると、その先生は長野県の出身だった。関根によれば、当時の長野県は食べ物を最も大切にする県で、先生は戦時中にろくなものを食べられなかった世代だった。戦後10年ほどで好き嫌いを言う少年が現れるなど、先生には想像もつかなかったのだろう、と関根は推し量る。自分が「捨てていいですか」と簡単に言ったことに先生が激怒したのも、いまならしょうがないと思える。子どもだった当時はそこまで想像できなかったが、構造としては理由がある、と関根は言う。渡辺はこれを「しょうがない精神」とまとめた。

カンコンキンシアターという「意味のない笑い」の場

関根は、裏の顔を見せる場としてカンコンキンシアターについても語った。名前は「関根勤」の読み方を変えたもので、ラッキー池田らも参加し、下ネタも多いため、耐えられない客は途中で出ていくという。かつては最長で5時間半、14時から19時半まで上演したことがあり、普段でも4時間ほどやっていた。終電に間に合わなくなり、出演者も観客も途中で帰っていたという。いまは疲れるので3時間から3時間半にしているが、関根は「3時間の『国宝』を毎回やっているようなもの」と笑う。

この舞台を「世界一好きな舞台」と言っている先輩は、年に一度だけ見に来ては、終演後に関根へ「あれでいいんだよな、意味なくていいんだよな」と言うという。何のメッセージもなく、何の得にもならず、ただ笑う舞台だと関根は説明する。観客は劇場を出ると内容を忘れているらしく、忘れないように最前列でメモを取っていた人もいたという。以前は真夏に上演していたが、30年以上通う常連の年齢も上がり、演者も観客も暑さでつらいため、4年前から天候の良い4〜5月に移した。次回は5月2日から10日まで、銀座の博品館劇場で上演される。

しなって折れない

締めくくりに、藤野は「絹ごし一本」のいじりを一生背負っていきたいと話し、SNSのプロフィールに書く、ミドルネームにする、という冗談で場が沸いた。渡辺は、関根が自分の芸を世の中にどう合わせているかが分かった点と、若い人へのメッセージが印象に残ったと述べた。

受け流す姿勢は、折れずにしなる竹のようなものだ、という話になると、関根はそれを格闘技にたとえた。膝からしなり、下段と見せかけて上段に来るブラジリアンキックで、ミルコもそれを使っているという。ブレない芯を持ちながら、しなって変化を受け止める。関根が50年以上続けてきたのは、そういうやり方だった。