元千葉県警刑事のゆいさんが語る事件現場、育児の限界、警察を辞めた理由

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概要

ゆいさんは千葉県警で14年間警察官を務め、そのうち9〜10年ほどを刑事として過ごした。12年目あたりで妊娠・出産し、2年間の育休中に離婚と退職を決めた。現在は独立系のファイナンシャルプランナー(FP)として起業している。インタビューでは、警察官の両親のもとで育った幼少期、警察学校での訓練、女性刑事として担当した事件、産後に追い詰められた経験、そして「組織が嫌いではなかったのに辞めた」理由を順に語った。

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警察官の両親と「国民を優先する」という言葉

ゆいさんは千葉県我孫子市の生まれで、今年36歳になった。両親はともに警視庁の警察官で、現在は二人とも定年している。父は刑事を志していたが、ゆいさんが幼く母が子育てをしていた時期だったため、両親で話し合い、途中で刑事を離れた。刑事は危険が伴い、夜勤や夜中の呼び出し(招集)もあるためだ。父はその後、子育てを支えられる部署に移ったり、体を動かすのが好きで特殊部隊で訓練を積んだりしたという。母は交通課が長く、免許更新の窓口や駐車違反の取り締まりなど、当時女性警察官が多く担っていた仕事をしていた。

ゆいさんが5歳のころ、阪神・淡路大震災が起き、両親はそろって警察官として派遣された。ゆいさんは地元の保育園を休み、宮城にある母の実家に預けられて、祖父母やいとこと暮らした。両親からは「お父さんとお母さんは国民を守る仕事をしているから、何かあったときにゆいよりも国民を優先しないといけない」と言われていた。祖母の家に預けられたまま両親が帰ってこない可能性もあるから覚悟しておいてほしい、とも言われたという。

それでもゆいさんは、悲しいというより「すごい仕事をしているんだ」という印象の方が強かったと振り返る。小学生のころは、客間の窓から駅へ向かう両親に毎日手を振り、「もしかしたら帰ってこないのかな」と思いながら見送っていた。今日までの生活が明日も続くとは限らないという感覚を心のどこかに持ちつつ、それが当たり前の生活だったという。

寂しさはあったが、寂しさを表に出せば親が笑えなくなることも分かっていた。周りと同じは嫌だという性格もあり、警察官の子どもであることをむしろ特別なものと感じていた。いろいろな場所に預けられ、保育園の先生やファミリーサポートの人たちなど多くの大人に支えられたことで、「大人が大好きな子どもだった」とゆいさんは言う。

母の叶わなかった夢と高卒での入庁

5歳のときには「おまわりさんになりたい」と思っており、その気持ちは高校卒業まで変わらなかった。いちばん近いロールモデルは両親、とくに母だった。母は本当は刑事をやりたかったが、「お前は女だから」「子どもがいるから」といった理由でできず、そのことを悔やんでいるように見えた。だからゆいさんにとって、警察官になり刑事になることは母の夢でもあり自分の夢でもあった。それを自分が叶えられたら家族みんなで喜べる、とも考えていた。

高校の先生からは大学を出てから警察官になればいいと勧められた。しかしゆいさんは、大学の4年間を実務に充てた方が、自分が手を差し伸べられる被害者は増えると考えた。そう気づいてからは大学へ行く必要性を感じなくなり、大学受験もうまくいかなかった。勉強が楽しかったわけでもなく、目的がはっきりしている警察の仕事に早く就きたいと思い、高卒で1年間試験勉強をして翌年に入庁した。

警察学校で崩れた体力への自信

ゆいさんは小学生で少年野球を6年間続け、新体操なども経験し、中学ではバドミントン部に入るなど、体力には自信があった。しかし警察学校に入ると、その自信は一気に崩れた。走るのは遅く、筋トレをしても重いものを持ち上げられない。警察官の中では自分は弱いのだと知り、「最後は拳銃なんだろうな」、拳銃をきちんと扱えるようにならないと国民を守れないかもしれない、と感じたという。

当時は警察官10人のうち女性は1人ほどで、女性の採用倍率は男性より高かった。一方、入ってからの評価は男女共通である。成績は体力だけでなく、刑法・刑事訴訟法、個人情報など警察官が知っておくべき法律の知識、積極性、日常生活の態度まで含めて総合的につけられた。

生活の規律は厳しかった。部屋は常に整頓しておくよう指導され、教官が抜き打ちで点検に入る。ヘアアイロンのような持ち込み禁止の物があれば同期全体が咎められた。ピアスの穴は入校前に閉じる必要があり、入校日に全身を確認される。髪は耳にかかってはいけないなどの細かい規定があり、校内の床屋で「今ではなかなか見ないようなカット」をされた。最初の1週間ほどは入浴時間が3分ほどで、脱衣所に女性教官が立ち、ドライヤーまで済ませて退場しなければならない。長い髪は不利だが、坊主も禁止されていたという。ゆいさんは、警察はもともと歴史的に軍隊に由来する組織だと説明し、同じ服装で同じ時間に食事や入浴をし、一人が問題を起こせば全員で10km走るといった連帯責任もあったと語った。警察学校の期間は高卒で10ヶ月だった。

男性教官と殴り合う訓練が教えたこと

女性警察官が「最後は拳銃」と考えるようになった背景には、特有の訓練があった。ゆいさんによれば、20代の女性は自分も含めて、身体的に男性にかなわないという認識が甘い。それを体で理解させる訓練があったという。

授業後、女性だけが道場に集められ、剣道の面と胴、ボクシングのグローブのようなものを着ける。向かい側には同じ防具をつけた男性教官が並び、殴り合いをする。鍛えた男性教官にはかなわず、ボコボコにされる。顎が外れる人や失神する人も出た。大泣きしながら、自分は弱いのだと気づかされる訓練だった。

そこで教官たちは「お前らは現場で泣けねえんだからな」と言い、守りたいものがあるなら一歩下がらなければならない場面があると説いた。大柄な男の犯人が現れたとき、正義感から女性が前に出れば、その女性を守るためにほかの者が犠牲になるかもしれない。だから一歩下がり、男性が相手をする間に、無線で応援を求める、ナイフや日本刀や拳銃を持つ相手なら誰よりも早く拳銃を抜く判断をするなど、ほかにできることを考える。女性はそうした判断を男性より多く求められる可能性がある、という教えだった。さらに、警察官が撃たれて死ねば国民は不安になり、その場の人々も殺されるかもしれないから、警察官は自分が死んではいけないとも教わった。

ゆいさんはこの訓練を「あって良かった」と言う。正義感で前のめりになって警察官になった自分は、教わらなければ多分飛び出していた。中学・高校で学級委員を務め、人を引っ張れるという自信があったが、その過信を壊してくれた。自分はちっぽけで、女性であり弱い人間だということを、頭だけでなく体全体で腹落ちさせておく必要があったと振り返る。

交番勤務から刑事へ

交番勤務を1年半ほど続けたころ、刑事の選考試験を受ける資格ができた。受験には警察署の推薦が必要で、希望者はゆいさん以外全員男性だった。女性の希望者が少ない理由について、ゆいさんは遺体への抵抗感や、殺人事件で犯人が逃げていれば2日間寝ないのも当たり前という働き方を挙げ、ほかにも多くの仕事があるなかで刑事を選ぶ女性は少数派になるのだろうと話す。

体が小さく、警察学校の成績もあまり関係ないなかで、ゆいさんは推薦を1番で得るために目立とうと考えた。交番勤務は24時間勤務の翌日が非番になるが、その日に自分の仕事を早く終わらせて刑事課の手伝いに行った。休みの日にも出向き、防犯カメラの映像を一日中確認したり、女性被害者の聴取に立ち会ったりした。聞き取りをするのは男性でも、隣に女性がいた方が被害者が安心するという理由で重宝され、推薦を1番で受けて試験に合格。刑事専門の研修を経て、入庁から2年半ほどで所属署の刑事になった。その署には女性刑事が4〜5人おり、大きな署では女性が必要な案件も多いため比較的多い方だったという。

子どもの性被害をどう聞き取るか

階級は最下位の巡査で、係長が率いる「島」と呼ばれるチームで事件を担当した。女性だったため、性犯罪や子どもが被害者となる事件を担当し、供述調書の作成や心のケアを担うことが多かった。女性が担当すると決まっているわけではないが、性犯罪の加害者はほぼ男性で被害者は女性が多いため、女性から聞かれる方が精神的苦痛が少ないと感じる被害者もいる。幼い子どもは母親への信頼が強いため、女性の方が打ち解けやすい面もあるという。

具体例として挙げたのが、保育園の男性保育士から性的なわいせつ行為を受けた幼い男の子の事件だ。4〜5歳の子どもは、何が犯罪だったのか分からない。そのため親も気づかないが、子どもが「今日、〇〇先生とトイレに行ってね」と話したことに親が違和感を持ち、警察に相談した。

難しかったのは聞き取りだった。ゆいさんによれば、子どもは一番信頼する母親に話すことで母親が悲しむ、泣くという未来が予想できると話さない。また子どもにとって先生は「犯人」ではなく、違和感を抱きつつも先生が大好きで、先生を悪者にしたくない。母親を悲しませたくもない。そうした気持ちから口を閉ざしてしまう。

そこでゆいさんは、まず普通に遊んだり好きなものの話をしたりして、この大人には何を話しても大丈夫だと思ってもらうところから始めた。子どもは話した内容が母親に伝わるかを気にするので、話していいのだと伝え、なぜ自分たちがここにいるのかも本人が分かる範囲で説明した。人形を使ってどんなことをされたのかを尋ね、母親に知られたくない部分はどこかも確かめながら、断片的な話を長い時間をかけて聞き取り、あとは客観的な証拠で裏付けていったという。

血まみれのアパートで迫られた判断

拳銃を実際に抜いた経験はないが、「本当はここで拳銃のことを考えておかなければならなかった」と振り返る案件がある。交番勤務のころ、女性の悲鳴という110番通報が入った。GPSで場所の見当がつき、上司と走って向かった。アパートの部屋を手分けして一つずつノックしていくと、ある部屋から女性の叫び声が聞こえた。鍵はかかっておらず、開けると壁も床も血だらけで、廊下の中ほどに女性が倒れていた。

見ただけでは何が起きたか分からない。人命救助が最優先なので出血箇所を見つけて止血しなければならないが、殺人未遂のような大きな事件の現場である可能性もあり、犯人の足跡や痕跡を壊したくないという気持ちもあった。女性は叫びながら閉じたリビングのドアを指さしている。奥に犯人がいるかもしれない。犯人確保に向かうべきか、手前の女性を救護すべきか、現場保存のために入らない方がいいのか。冷静ではいられず、どうすればいいか分からなかったという。

まずは女性から話を聞かなければと考え、足跡をつけないよう壁伝いに進んで手を伸ばすと、女性に肩をつかまれ「助けて」と引き寄せられた。リビングに誰がいるのかと聞いても、女性は混乱していた。ナイフが使われたのは明らかで、犯人が戻ってきて女性を人質に取る、さらに刺す、自分にナイフを向けるといった可能性もあった。狭い室内で奥に入るなら、拳銃を抜く覚悟を前提にしておくべきだったと今は思う。しかし当時はそこまで考えられず、女性を落ち着かせることを優先した。

話を聞くと、一人暮らしの女性が夜に帰宅してリビングに入ると、見知らぬ男がナイフを持って立っていた。「静かにしろ」と言われ、悲鳴を上げて玄関へ逃げたが、自分でかけた鍵を動転して開けられない。後ろから近づいた犯人のナイフを、刺されたくない一心でつかみ、手を切っていた。犯人はすぐリビングの窓から逃走しており、部屋にはいなかった。のちに刑事課から聞いた話では、犯人は捕まり、空き巣に入って物色していたところに住人が帰ってきたため、女性なら脅せば静かになると思ったが、ナイフをつかまれてどうにもならず逃げた、と話していたという。

強行犯係で見た殺人犯の「普通さ」

刑事になって1年余り、巡査のまま海沿いの警察署に異動した。最初の署では盗犯係にいたが、もともと希望していた強行犯係に移り、以後はずっと強行犯係だった。強行犯係は性犯罪も扱うため女性が必要とされる。事件が入ると最初に動くのが強行犯係で、ナイフを持った男が暴れている、人を殴って逃げようとしているといった110番が入れば、覆面パトカーで赤色灯を回して緊急走行する。それが日常茶飯事だったという。

殺人犯と向き合う機会もあった。取り調べのほか、逮捕の際に被疑事実を読み聞かせて間違いがないか回答を得る場面もある。ゆいさんが強調したのは、殺人犯の多くは「意外と普通」だという点だ。ゆいさんによれば、殺人事件の被害者と被疑者の関係は8〜9割が顔見知りで、ニュースで報じられる通り魔のように無関係の人が突然殺される事件は割合としてはごく低い。ほとんどは家族や親類など顔見知りの間で感情的に起きるもので、近所の人からは「仲のいい家庭ですよ」と見られていた家もある。家庭は閉じた場所で、外から見えないものが多く、そこで殺人事件が起きることが多かったと語る。

逮捕時にはすでに後悔している人も多い。理性より感情が先に出て刺してしまった、突き飛ばしてしまったというケースが多く、計画的に人を殺した人は全体として少ないとゆいさんは言う。

組織が好きだった人が辞めるまで

退職時の階級は巡査部長だった。ゆいさんは、組織を辞める人には組織が嫌いで辞める人と、嫌いではないのに辞める人がいるとし、自分は後者だと言う。むしろ組織が好きで、警察署長になって組織を変えてやろうと考え、何歳でどの階級に行くかまで思い描いていた。千葉県警ではおそらく今も女性の署長は出ていないという。

署長になるには経歴が必要で、40代半ばまでに課長職を経験しないと、60歳ごろまでに署長になるのは時間的に難しい。36歳の今から見れば、40代半ばはもうすぐだ。そこに子育てが入れば署長は相当難しく、家庭かキャリアかを選ばなければならない。ゆいさんがこれに気づいたのは妊娠してからだった。子どもを何人ほしいか考え、そのぶん育休を取って、復帰後は時短勤務をして、と計算すると、署長への道がないことに気づいた。

20歳前後のころ、娘のように可愛がってくれた上司たちから「女性の幸せって何だと思う?」と聞かれたことがある。「キャリアを上げることじゃないんですか」と答えると、結婚して子どもを産んだとき、この仕事を必ず続けなければならないわけではないと言われた。当時は意味が分からなかったが、妊娠後にそのことだったのかと気づいたという。また、女性警察官がみなキャリアを上げたいわけではなく、子どもとの時間を大切にしたい人にとっては、キャリアを築きやすい仕組みがかえって負担になる場合もあるし、そういう人の方が多いだろうとも話した。ゆいさん自身も子どもとの時間はかけがえがないと感じているが、実際に育ててみると、思いのほか子育てが苦手だった。

刑事の夫と、生後4ヶ月の窓辺

28歳で結婚した相手も刑事だった。31歳で産休・育休に入り、2年間の育休中、33歳で離婚と退職をした。夫は刑事の係長で、チームの頭だった。組織として育休は認められていても、長く抜けた穴を簡単には埋められず、将来のキャリアに不利にならないとは、先に進んでみないと分からない。休んでほしい気持ちはあったが休めない現状も知っていたし、休んでもらったから楽になるとも限らない。何が正しいのか分からない、とゆいさんは言う。

育児、とくに最初の1年間で、ゆいさんは自分が「24時間くっついていることで愛情が比例して増していくタイプではない」と感じた。むしろ一緒にいすぎるとつらかった。細切れに2時間ほどしか眠れず、泣けば授乳し、いつ自分が眠っているのかも分からないまま、ぼんやりした状態が続いた。

子どもが生後4ヶ月のとき、当時住んでいた一戸建ての2階の寝室で、泣き止まない子どもをあやしながら小窓の外を眺めていて、ここから飛び降りて二人で死ねば今より楽になる、という考えがよぎった。人生を楽観的に生きてきた自分にとって、人の死はたくさん見てきたが、自分の死を考えたのはそのときが初めてだった。子どもだけが死ぬのも自分だけが死ぬのも嫌だ、二人で死ななければならない、でもこの高さでは足りない、とまで考えている自分に気づいた。子育てはピンクや黄色のオーラに包まれた幸せなものだと想定して結婚・妊娠・出産したのに、現実は灰色の世界で、誰も助けてくれず、眠りたいという欲求すら叶わなかったという。

そこから市役所に行き、何でもいいから子どもを預けて寝たいと相談し、ファミリーサポートや近所のシッターなどの支援を教えてもらった。初めて預けたのは生後半年ごろだった。家に帰って一人で温かいお茶を飲んだ瞬間、涙が止まらなくなった。一人とはこんなに静かで落ち着くものなのか、何ヶ月自分のことを考えていなかったのか、自分に目を向けないだけで人は死にたくなるのか、と感じた。このままではまた同じことが起きると考え、用事がなくても「休みたいから」と積極的に子どもを預けるようにして、少しずつ元の状態を取り戻していった。

「笑って死にたい」から出てきた二つの決断

回復してきたころ、ゆいさんは自分がどうやって死にたいかを考えた。答えは、棺に入るときに「やりきった、めっちゃ幸せだった、ありがとう」と言って死にたい、というものだった。今死んだら、子育てもできず刑事にも戻らず、何をやっていたのだろうと思うだろう。だから自分が笑える選択をしていこうと決め、そのために出てきたのが離婚と公務員の退職だった。

離婚について、ゆいさんは「パパが悪かった」という落としどころにはなっていないと言う(相手の考えは分からないとも付け加えた)。ゆいさん自身の見解として語ったのは、パートナーへの執着を手放し、自立に向かったから、という理由だ。資産があり、自分が動けば稼げるので、夫の稼ぎがなくても生きていける。一方で、夫といるときの自分は笑顔ではなかった。互いに「これをやってくれるだろう」「これだけギブしたのだからテイクがあって当然」と期待し合い、子育て以外の面でもその執着でつながり、それを愛だと思っていたのではないか、とゆいさんは振り返る。

子どもが生まれてからは、自分の時間をすべて子どもに注いだ。それも愛だが、授乳したから何かしてほしいとは思わない。ゆいさんは、本来の愛はこちらで、見返りを求めない方が心地よいのに、夫婦間では勝手に期待して勝手に裏切られたと感じる愛をしてしまっていたと話す。執着を外した方が軽やかに生きられるという直感があり、実際にそれは当たっていたという。

離れてみて感じたのは、すべてが自分の責任になるということだった。うまくいかないことを相手のせいにできるクッションがなくなり、資産がゼロになっても、子どもがぐれても自分の責任になる。だからこそ、子どもと自分にとってのベストや幸せを本気で考えるようになった。それまでは、親が笑ってくれる、大人が褒めてくれる、多数の人が認めてくれるからと、本当はBを選びたいのにAを選び、認められないと悩むという、他人軸の生き方をしてきた。認めるかどうかは相手の問題で、自分にはコントロールできない。そこをコントロールしようとしていたことがつらかった、と語る。

公務員を辞めた最大の理由は、将来の自分への懸念だった。このまま続けても10年後、20年後には署長になれず、組織を変えるという思いも叶わない。そのとき、弱い人間である自分は矛先を子どもに向け、「ママはあなたのために我慢してこの仕事を続けてきた」と言ってしまうだろうと考えた。そう言われた子どもが「やればよかったじゃん、なんでやらなかったの」と返したら、返す言葉がない。だったら今やればいい、と思い、子どもが1歳になったころに退職を決めた。育休中のことだった。刑事は危険手当や遺体取り扱いの手当などが多くつくため給与が上がり、30歳の年収は700万円弱だったという。

保険に1億円、「無知は怖い」

退職時点で今の仕事を決めていたわけではない。お金が好きだと気づいたのは26歳ごろだった。25歳ごろまでは労働収入だけで貯金をしてきた。25歳で地方の署に転勤すると車が必要になり、500万円あった預金が、車や引っ越しで300万円ほど減って200万円になった。車の維持費もかかり、預金の増えるスピードが落ちたことに不安を覚えた。

そのころ車の保険のために上司からFPを紹介され、ついでに生命保険も見てもらった。貯金額を褒められて得意になっていたが、警察学校に入ったときに訳も分からず丸をつけて加入した保険に、多額を払っていると指摘された。今死んだら親に1億円ほど入ると言われ、実家で話すと「そんなにいらない」と言われた。知らないところでお金が出ていっていたことに気づき、自分はお金を貯められると傲慢に考えていたのに保険ひとつ知らなかった、無知は怖いと感じたという。そこからそのFPに頼んで保険、投資、社会情勢などを教わり、本も読んで、現役の警察官のうちに勉強を始めた。

投資で資産は4〜5倍に

不動産投資、仮想通貨、NISAなど、さまざまな投資を試した結果、30歳ごろには資産が4〜5倍になっていたという。預金だけでなく投資分も含めた計算で、2500万円ほどだったと話す。これだけあれば、離婚して退職し子どもと二人で生きていくことになっても10年ほどは大丈夫だろうと考えられたことが、決断の支えになった。

一方、警察官時代の周囲の人たちは、思ったほど資産を作れていなかったという。子どもが生まれると自転車操業の家が多く、独身でも使ってしまって貯まらない。聞けばみな投資は怖いからやっていない。そのため労働収入を得るしかなく、残業を簡単に選ぶ。日曜日に子どもと過ごしたくても、家計に余裕がなければ働きに出る選択をしてしまう。お金は人をより幸せにできるツールなのに、お金のために選択しなければならない「お金の奴隷」のような人生を送る人が、ゆいさんの感覚ではとても多かった。不動産投資をしていると話しても、紹介してほしいと言う人は一人もいなかったという。

28歳で始めた不動産投資は8年を経て今年売却し、数百万円の利益が出た。ゆいさんは、勉強したかどうかより行動したかどうかの差が大きいと考えている。不動産の知識はほとんどないまま始め、8年かけてやりながら覚えた。業者がぼったくりでなかったことも大事だったとしつつ、数百万円の失敗もあったなかで、次は失敗しないよう考えて行動を重ねてきたから、数年で資産が4〜5倍になったと話す。叶えたい夢があるなら必要なお金を作ればいいが、それには行動が必要で、行動の前にマインドがなければ良い情報があっても選べない。そのサポートはFPでなくてもできることだが、お金が好きなので退職後にFPの資格を取り、FPを名乗って人の夢を支える仕事をしているという。

退職後の最初の半年は、都内の会社の社長に雇われ、給与をもらいながらFPとして働いた。しかしノルマがあり、目の前の人の人生を豊かにするにはこれがいいと思っても、会社の利益のために別の商品を買ってもらわなければならない場面がどうしても出てくる。売るものがない状態でもっと軽やかに支援したいと考え、半年で独立した。

追い詰められる母親へ

子育てについて、ゆいさんは自分の弱さを知ったからこそ人に頼れるようになったと話す。頼れないと自分がきつくなるが、頼れば周りはいくらでも支えてくれる。お金が必要な場面もあるが、お金を出せる自分でいれば、お金で解決できることは解決してしまえる。お金にも支えられているが、やはり人が大事だという。

刑事時代には虐待やネグレクトの事件も扱い、なぜ母親が子どもに手を出すのか、痛い思いをして産んだ子の命をなぜ奪うのか、と思っていた。しかし今は、それが起きるほど育児にはプレッシャーがかかると考えている。ゆいさんの考えでは、人間は本来、母親一人で育児を担うようにできていない。男性が狩りに出ている間、女性は集落で子育てをし、隣の母親の乳を飲ませるのも当たり前だった時代が長く、それが人間にプログラムされている。だから一人で育てればイレギュラーが起こるのは当たり前だという。理想の働き方や生き方があっても、優しさや気遣いがあるからこそ他人軸で「こうあるべき」と我慢している女性は多いと、ゆいさんは見ている。

自身の幼少期についても、多くの場所に預けられたことを寂しかったとは思っていないという。コミュニケーション能力には自信があるが、それは子どものころに付き合ってくれた大人たちが自分を受け入れ、気持ちを伝えていいと思わせてくれたからだと考えている。親だけだったら引っ込み思案になっていたかもしれない。むしろ両親には、もっと預けて休んでよかった、と今なら言いたい。だから母親たちには、もっと預けて頼っていいと伝えたいという。

これからやりたいこと

退職の理由には「夢リスト」もあった。26歳のときに生きているうちにやりたいことを100個書き出すと、8割ほどが公務員のままでは65歳を過ぎないと叶えられないものだった。辞めたことで、それらがすぐに叶えられるものになった。叶えるとまた新しい夢が出てくるので、リストがゼロになることはないだろうと話す。

いま試作的に動かしているのは、豊かになりたい、夢を叶えたい、軽やかに輝いて生きたいという女性や母親たちが、思いを共有し、具体的に何をすればいいかを話し合える居場所としてのコミュニティだ。稼いで豊かになり、笑って生きる母親が増えれば、日本のエネルギーは倍になるはずだとゆいさんは言う。

事業としては、まだ漠然としている部分もあるとしつつ、海外にも目を向けたいという。警察という組織に影響を与えられずに終わったからこそ、今度は社会に影響を与えたいと考え、子どもの金融リテラシーを高めたいと話す。構想しているのは、学童の代わりに放課後に通える施設を全国に作り、子どもたちが当たり前にお金に触れ、豊かになるためのマインドやお金の知識を学び、仲間を作り、その絆が大人になってからのつながりになる、というものだ。さらに、今は経済が上向いている発展途上の国々もいずれ日本と同じような状況になる可能性があるとし、子どもが豊かに自分らしく生きられる教育の仕組みをそうした国に持っていきたいという。日本でできれば必ずできるし、もしかすると日本より先にそちらで実現するかもしれない。それが今の自分の頭の中にあることだと、ゆいさんは語った。