「衣装さんで一生いいのか」――AKB48の衣装を手がけた茅野しのぶさんが語る、苦悩の時期と秋元康さんの言葉

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概要

AKB48、=LOVE、きつねダンスなどの衣装を手がけてきた衣装デザイナーの茅野しのぶさんが、衣装の道を選んだきっかけからAKB48全盛期の葛藤、会社設立と総支配人就任までを振り返ったインタビューの前編である。茅野さんが繰り返し語るのは、評価されず、自信も持てない時期をどうやって越えてきたかということだ。その過程で、秋元康さんから受けた言葉と、部下からかけられた一言が大きな転機になったという。

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学園祭と「一夜限りの衣装」が原点

茅野さんは普通の高校に通っていた。学園祭でダンスをする友達の服を用意したところ、先生に褒められた。もともと服が好きだったこともあり、服飾の専門学校に進む。ところが専門学校には全国からファッション好きが集まり、親がファッション業界にいる「サラブレッド」のような学生もいた。茅野さんは「大学をちゃんと受験していればよかったのかな」と思うほど、課題に追われる日々だったという。

転機になったのは、ヘアメイク志望の美容専門学生と服飾専門学生がクラブのような場所でファッションショーとヘアショーを開くイベントだった。チームで参加し、学校とは別の場で「その一夜のためだけの衣装」を作るのが楽しかった。誰も普段は着ない服を徹夜して作り上げ、一つの作品として完成させる。その体験から、アパレルのデザイナーよりもこちらの方向に興味があると感じ、在学中からあるスタイリストのアシスタントを始めた。

服は好きでも「デザイナーにはなれない」と思った

茅野さんは中学生の頃からファッションに夢中だった。へそ出しルック、中学生なのにベロアのワンボタンスーツ、マイクロミニにストレッチブーツ、安室奈美恵さんの結婚式の装いの流行を経て、109系、浜崎あゆみさんの登場とともにアルバローザなどの109系ブランド、さらにギャル古着へと移っていった。ファッションのためにアルバイトもしていた。

それでも茅野さんは、それは「その辺にいる、ちょっとファッションが好きな子」の水準だったと振り返る。専門学校には、幼い頃からファッションの世界にいた人や、中学生の頃から自分で服を作っていた人がいて、しかも茅野さんと同じかそれ以上に努力していた。それを見て、こういう人たちがデザイナーになるのだと感じたという。茅野さんの考えでは、アパレルは自分のブランドのファンを作っていく仕事だ。一方、衣装のデザイナーは自分のブランドではなく、相手のブランドを作るための仕事である。自分が作りたいのは「ここに理由があるファッション」だと考え、衣装の道に魅力を感じた。

アシスタント時代に知った「使えない自分」

ところが、実際にアシスタントとして現場に出ると何の役にも立たなかった。学生と両立しながらの仕事で、自分は役に立つと思っていたが、タレントにとっては見知らぬ若い子が来ただけの状態で、茅野さんは「なんて使えない人間なんだ」と感じた。その悔しさから、いつかスタイリストとして独り立ちするときは、自分がいないと回らない状況を作れる衣装さんになりたいと、そのとき初めてはっきり思ったという。

アシスタントに入る経緯にも迷いがあった。作品を持って面接を受けた後、しばらく連絡がなかったため、不採用だと思って就職試験も受けていた。その最終の社長面接の日と、「現場に来てほしい」と言われた日が重なった。茅野さんは悩んだ末に現場を選ぶ。人生最大の決断のつもりだったが、行った現場では自分がいてもいなくても同じだった。あまりに自分がかわいそうで、「あの決断をしてよかった」と将来思えるようになりたいと考え、泣きながら帰ったと話す。

クリスマスの六本木通りで

アシスタント時代は、周りの同世代がみな楽しそうに見えた。卒業生からは「これを任された」「私がデザインしたものが店に出ている」といった話が聞こえてくるが、自分は何もしていないと感じていた。

茅野さんが「忘れもしない」と語るのが、12月24日頃の六本木通りだ。パンパンに詰まった大荷物を抱えて歩いていた。その少し前には交際相手に振られていた。街はクリスマスで、楽しそうな恋人たちとすれ違う。「自分は死ぬほど重いものを持って、何も成果をあげられていない。もう誰にも愛されない。一生一人だ」と感じたという。給料もほとんどもらえず、お金もなかった。荷物を一度道に置いて「このまま置いていったらどうなるんだろう」と考えたこともあったが、「小心者なので」ちゃんと持って行ったと笑う。

茅野さんは、頑張っていなかったのなら仕方がないが、自分は案外頑張っていた、だからこれが何にもならないのではあまりにかわいそうだと考えた。今日涙を流した自分が将来報われるように今を頑張ろうと思った。当時はそれしか自分を慰める方法がなく、未来に期待するしかなかったと振り返る。

自ら売り込み、AKB48のスタイリストに

独立して一人で仕事を始めようとしていた頃、茅野さんはAKB48が作られることを知った。1期生が目にしたオーディションのポスターと同じタイミングだったという。茅野さんは自分から運営会社に「スタイリストはいりますか」と連絡した。まだ決まっていないという返事だったので、一度会ってほしいと頼み、作品を持って行った。

売り込みの材料は年齢だった。当時22歳前後で、合格するメンバーとも年が近い。楽屋での世話もできるので、マネージャー1人とスタイリスト1人を雇う分の予算で自分1人を雇えると提案した。こうして採用され、最終オーディションから前田敦子さんや高橋みなみさんらを見てきた。

最初は、秋元さんが教鞭をとっていた京都造形大学の授業の一環で、学生がデザインしたアイドル衣装を茅野さんが形にする仕事をしていた。メジャーデビュー曲「会いたかった」のタイミングで、茅野さんは秋元さんに「学生さんと同じコンペで構わないので、自分のデザインも混ぜてもらえないか」と申し出た。聞き手がその行動力に驚くと、茅野さんは若くて失うものがなかったので積極的に動いたと答えている。

大ブレイクの陰で「私が衣装じゃなければ」

茅野さんがAKB48時代で最も悩んだと語るのが、「ヘビーローテーション」から「フライングゲット」までの1年ほどの時期だ。テレビをつければAKB48が映り、メンバーがそれぞれ活躍していた大ブレイク期である。メンバーも忙しさで悩んでいたと思うが、茅野さん自身も「私が衣装じゃなかったら、AKBはもっと売れるのかもしれない」「この人たちに何を着せるのが正解なのか」と1年間悩み続けたという。

周囲からは、港区で派手に遊んでいたのではと言われることもあるが、実際はまったく違ったと茅野さんは話す。デザインを描いては工場に出し、素材を決め、布を集める毎日で、人と会う機会もなかった。自分が評価されている感覚はゼロで、衣装の評判も届いていなかった。報酬についても、会社員だったので多くをもらっていたわけではなく、「地下労働施設でやっているレベル」だったと笑う。

「フライングゲット」の衣装はファンから叩かれた

今になって褒められることが多い衣装にも、当時は厳しい声があった。「フライングゲット」は総選挙の楽曲で、MVの監督の世界観は中国の唐の時代をモチーフにしていた。茅野さんはこれに合わせ、身分や順位が高い人ほど袖が長くなるといった設定を取り入れた衣装を、かなりこだわって作った。

しかし当時のファンからは、「ゴールドはイケイケな感じで嫌だ」「ゴールドと黒なんて今のAKBじゃない」「AKBは制服で、チェックがいいんだ」「顔映りが悪く見える」といった反応があり、「こいつが衣装じゃない方がいいと思う」とSNSに書かれていたと思うという。それでも、監督や秋元さんが「いいね」と言い、メンバー自身も「新鮮」「動きやすい」「かっこよく見える」「総選挙の選抜に入ってよかった」と言ってくれたので、一緒に頑張れたと茅野さんは語る。今ではその衣装が評価されていることを踏まえ、悩んでいる人には「評価はちょっとしたことで変わる」と伝えたいと話した。

救いは、秋元さんが任せ続けたこと

当時の茅野さんは、もっと有名な衣装さんが担当すれば話題にもなるのではないかと悩んでいた。部下も増え始めたが、まだ会社(オサレカンパニー)にはなっておらず、入って3か月ほどで辞めてしまう人もいた。忙しさで新人の面倒も見られず、すべてが悪循環になり、自信も持てなかった。とにかく時間がないのでデザインを出し、秋元さんのOKが出たものを作っていく日々だった。

その中で救いだったのは、秋元さんが新しい衣装担当や有名な人を連れてこなかったことだという。有名な人や実績のある人など、ほかに任せる選択肢はいくらでもあったはずなのに、大枠は茅野さんに任せてくれた。茅野さんはその信頼に応えなければという気持ちが強かったと話す。もう一つの支えは、メンバーと「まだ見たい景色がある」という思いだった。向いているかどうかを考え出すと答えが「向いていない」になってしまうので、考えないようにして、とにかく忙しくしていたという。

周囲の声と、部下からの一言

さらに茅野さんを悩ませたのが周囲のスタッフだった。秋元さん本人ではなく、周りのスタッフが「もっとこうした方がいいのでは」と口を出してくる。衣装の知識がなかったり、茅野さんが理由があってそうしていることや、秋元さんと相談して決めていることを理解していなかったりした。ファンからの言葉をそのまま茅野さんに伝えてくる人もいた。茅野さんは年齢も立場もいちばん下で、周りは目上の人ばかりだった。

そこから抜け出すきっかけは二つあったという。一つは、秋元さんが任せてくれていることが答えだと考えるようにしたこと。何があっても任せてくれている、所属させてくれているという事実を答えとして受け止めた。

もう一つは、会社にしようと決めたことだ。一人で戦うのは限界で、予算内で工夫していることを共有できる仲間が欲しいと考えた。そのとき、部下として入ってきた一人に「そんなに私たちは頼りないですか。もっとやれますけど」と言われた。現在の松本さんだという。「頼っていいのか」と聞くと、「頼らないと無理でしょ」と返された。茅野さんはそこで、会社にして組織を作り、ちゃんと仲間を作ろうと思ったという。

10年ほど後になって、松本さんから当時の気持ちを聞いた。誰よりも働いて誰よりも寝ていないのに、いつも傷ついているように見えたので力になりたかった、だからあのとき言ったのだ、と。茅野さんは、自分のつらさや誰にも頼れない感じを一緒に背負おうとしてくれたことがありがたく、それだけで気持ちが楽になったと話す。同時に、部下たちがスタイリストとしてやっていけるようにする責任があると考えるようになり、悩んでいる場合ではないと気持ちを切り替えた。支えてくれる人を大事にし、その輪を広げ、結果としてAKB48に還元できればいいと考えるようになったという。

「お前が変わるしかない」――秋元さんの言葉

もう一つ、茅野さんが「今だから話せる」として明かしたのが秋元さんとのやりとりだ。当時、スタッフの年配男性などの言動を、茅野さんはメンバーと年齢が近いこともあって、メンバー側の立場からおかしいと感じることがよくあった。食事の席でそのことを秋元さんに話すと、秋元さんは「しのぶが言っていることは正しいと思う」と言ったうえで、こう続けたという。世の中には理由があり、その立場にいる人は、しのぶは知らないかもしれないが、昔大きな実績を残したから何かを任されている。それがおかしいと思うなら、お前が変わるしかない。つまり、その人たちより偉くなり、発言力を持つしかない。そして「しのぶはどうなりたいんだ。一生衣装さんでいいのか。それとも衣装デザイナーの茅野しのぶとして、それを考える時期なんじゃないか」と言われた。

この話をしながら茅野さんは涙ぐんだ。それまで自分のキャリアを考えたことはなく、目の前のことで精いっぱいだった。秋元さんがそこまで考えてくれていたのかと思い、おかしいと思うことを変えられる発言権を持たなければならないと考えるようになったという。簡単な道ではなかったが、少なくとも当時よりは自分の話に耳を傾けてくれる人が増えたと思うと語る。

茅野さんは現在43歳で、この業界はかつて男性社会だったと話す。今はかなり変わってきているが、同世代の40代女性は30代のうちに戦ってきたはずで、自分もずいぶん戦ったという。それは自分のためでもあり、ついてきてくれる部下たちが働きやすく、この仕事をやってよかったと思える環境を作るためでもあった。茅野さんは、悩んだあの1年がなければ会社化していなかったかもしれないし、極端に言えば別の仕事をしていたかもしれないと振り返る。「スナックをやりたい」とずっと言っていたと笑う。

総支配人就任と「お飾り支配人」と呼ばれた時期

茅野さんはさらに、AKB48の総支配人も務めた。その時期もつらく、「一生分悩んだ」という。

何に悩んだのかと問われると、茅野さんは次のように説明した。衣装の仕事が前提としてあり、そのうえで支配人としての仕事もしなければならない。メンバーから直接ではなく、スタッフを通じて話が入ってくる。こうした方がいいと当時の運営側に伝えても話が通らず、支配人なのにさらに上の人がいて、その人たちが決めていた。しかしそれはファンには関係のないことで、ファンに言うことでもない。結果として、茅野さんが言っていることが実現しないとファンの不満につながり、「お飾り支配人」とよく言われたという。給料は変わらず、単純に忙しくなっただけだった。部下にもメンバーにも心配され、SNSでは支配人を代えた方がいいという声が多く、自分でなくてもいいのではと感じていた。その時期に作った衣装も叩かれたが、チェックを他の人に任せるなどしていたので、手を抜いたつもりはなくてもそうなるのは仕方がないと茅野さんは受け止めている。

もともと向いていないことは分かっていたので、引き受けるときに「長くても3年」と伝え、次の後任までのつなぎだと思ってほしいと裏では話していたという。

支配人経験から学んだファンの存在

支配人の経験だけは役に立たないとずっと思っていたと茅野さんは笑うが、後にAKB48以外のアイドルグループの衣装を手がける中で、その経験が生きたという。こうすればファンはこう感じるだろうと想像できるようになった。支配人時代に、人生をかけて応援している人がいること、日々の仕事を頑張り、ライブに行くことを支えに生きている人がたくさんいることを身をもって知ったからだ。

そこから茅野さんは、ファンが来るライブはファンのためにあると考えるようになった。演出の意向が大前提ではあるが、ライブ衣装にはファンが喜ぶ要素を多く入れるようにしている。メンバーが近くに来てうれしくなるギミックや、ライブの後に「あの衣装よかったよね」と話し合える衣装など、そうした空間作りを意識するようになったのは、この時期に得た感情からだという。

「小娘」扱いと、秋元さんとのやりとり

終盤、聞き手は自身にも、立場上ものを言えず「いつまでもこの小娘が」と見られる経験があると打ち明け、どうすれば階段を登ってその人たちより上に立てるのかと尋ねた。茅野さんは、必死に頑張ってあれこれ言っていたが、言えば言うほど相手が頑なになると気づいた時期があったと答えた。

秋元さんとの関係については、茅野さんの側からも遠慮なく連絡しているという。デザインを催促するときは「借金取りか」というほど、また「付き合っているのか」というほど連絡する。逆に秋元さんから突然電話がかかってきて、「女の子がポニーテールの根元につけるアクセサリーは何ていうの」と聞かれ、「シュシュですか」と答えると「そうだそうだ、ありがとう」と言って切れた、というエピソードも披露された。

20代から秋元さんのそばで仕事をし、男性社会を生き抜いてきた茅野さんのコミュニケーション術については、後編で語られる予定だと予告されて前編は終わる。