「衣装さんで一生いいのか」――AKB48の衣装を手がけた茅野しのぶさんが語る、苦悩の時期と秋元康さんの言葉
新R25チャンネルAKB48、=LOVE、きつねダンスなどの衣装を手がけてきた衣装デザイナーの茅野しのぶさんが、衣装の道を選んだきっかけからAKB48全盛期の葛藤、会社設立と総支配人就任までを振り返ったインタビューの前編である。茅野さんが繰り返し語るのは、評価されず、自信も持てない時期をどうやって越えてきたかということだ。その過程で、秋元康さんから受けた言葉と、部下からかけられた一言が大きな転機になったという。
学園祭と「一夜限りの衣装」が原点
茅野さんは普通の高校に通っていた。学園祭でダンスをする友達の服を用意したところ、先生に褒められた。もともと服が好きだったこともあり、服飾の専門学校に進む。ところが専門学校には全国からファッション好きが集まり、親がファッション業界にいる「サラブレッド」のような学生もいた。茅野さんは「大学をちゃんと受験していればよかったのかな」と思うほど、課題に追われる日々だったという。
転機になったのは、ヘアメイク志望の美容専門学生と服飾専門学生がクラブのような場所でファッションショーとヘアショーを開くイベントだった。チームで参加し、学校とは別の場で「その一夜のためだけの衣装」を作るのが楽しかった。誰も普段は着ない服を徹夜して作り上げ、一つの作品として完成させる。その体験から、アパレルのデザイナーよりもこちらの方向に興味があると感じ、在学中からあるスタイリストのアシスタントを始めた。
服は好きでも「デザイナーにはなれない」と思った
茅野さんは中学生の頃からファッションに夢中だった。へそ出しルック、中学生なのにベロアのワンボタンスーツ、マイクロミニにストレッチブーツ、安室奈美恵さんの結婚式の装いの流行を経て、109系、浜崎あゆみさんの登場とともにアルバローザなどの109系ブランド、さらにギャル古着へと移っていった。ファッションのためにアルバイトもしていた。
それでも茅野さんは、それは「その辺にいる、ちょっとファッションが好きな子」の水準だったと振り返る。専門学校には、幼い頃からファッションの世界にいた人や、中学生の頃から自分で服を作っていた人がいて、しかも茅野さんと同じかそれ以上に努力していた。それを見て、こういう人たちがデザイナーになるのだと感じたという。茅野さんの考えでは、アパレルは自分のブランドのファンを作っていく仕事だ。一方、衣装のデザイナーは自分のブランドではなく、相手のブランドを作るための仕事である。自分が作りたいのは「ここに理由があるファッション」だと考え、衣装の道に魅力を感じた。
アシスタント時代に知った「使えない自分」
ところが、実際にアシスタントとして現場に出ると何の役にも立たなかった。学生と両立しながらの仕事で、自分は役に立つと思っていたが、タレントにとっては見知らぬ若い子が来ただけの状態で、茅野さんは「なんて使えない人間なんだ」と感じた。その悔しさから、いつかスタイリストとして独り立ちするときは、自分がいないと回らない状況を作れる衣装さんになりたいと、そのとき初めてはっきり思ったという。
アシスタントに入る経緯にも迷いがあった。作品を持って面接を受けた後、しばらく連絡がなかったため、不採用だと思って就職試験も受けていた。その最終の社長面接の日と、「現場に来てほしい」と言われた日が重なった。茅野さんは悩んだ末に現場を選ぶ。人生最大の決断のつもりだったが、行った現場では自分がいてもいなくても同じだった。あまりに自分がかわいそうで、「あの決断をしてよかった」と将来思えるようになりたいと考え、泣きながら帰ったと話す。
クリスマスの六本木通りで
アシスタント時代は、周りの同世代がみな楽しそうに見えた。卒業生からは「これを任された」「私がデザインしたものが店に出ている」といった話が聞こえてくるが、自分は何もしていないと感じていた。
茅野さんが「忘れもしない」と語るのが、12月24日頃の六本木通りだ。パンパンに詰まった大荷物を抱えて歩いていた。その少し前には交際相手に振られていた。街はクリスマスで、楽しそうな恋人たちとすれ違う。「自分は死ぬほど重いものを持って、何も成果をあげられていない。もう誰にも愛されない。一生一人だ」と感じたという。給料もほとんどもらえず、お金もなかった。荷物を一度道に置いて「このまま置いていったらどうなるんだろう」と考えたこともあったが、「小心者なので」ちゃんと持って行ったと笑う。
茅野さんは、頑張っていなかったのなら仕方がないが、自分は案外頑張っていた、だからこれが何にもならないのではあまりにかわいそうだと考えた。今日涙を流した自分が将来報われるように今を頑張ろうと思った。当時はそれしか自分を慰める方法がなく、未来に期待するしかなかったと振り返る。
自ら売り込み、AKB48のスタイリストに
独立して一人で仕事を始めようとしていた頃、茅野さんはAKB48が作られることを知った。1期生が目にしたオーディションのポスターと同じタイミングだったという。茅野さんは自分から運営会社に「スタイリストはいりますか」と連絡した。まだ決まっていないという返事だったので、一度会ってほしいと頼み、作品を持って行った。
売り込みの材料は年齢だった。当時22歳前後で、合格するメンバーとも年が近い。楽屋での世話もできるので、マネージャー1人とスタイリスト1人を雇う分の予算で自分1人を雇えると提案した。こうして採用され、最終オーディションから前田敦子さんや高橋みなみさんらを見てきた。
最初は、秋元さんが教鞭をとっていた京都造形大学の授業の一環で、学生がデザインしたアイドル衣装を茅野さんが形にする仕事をしていた。メジャーデビュー曲「会いたかった」のタイミングで、茅野さんは秋元さんに「学生さんと同じコンペで構わないので、自分のデザインも混ぜてもらえないか」と申し出た。聞き手がその行動力に驚くと、茅野さんは若くて失うものがなかったので積極的に動いたと答えている。
大ブレイクの陰で「私が衣装じゃなければ」
茅野さんがAKB48時代で最も悩んだと語るのが、「ヘビーローテーション」から「フライングゲット」までの1年ほどの時期だ。テレビをつければAKB48が映り、メンバーがそれぞれ活躍していた大ブレイク期である。メンバーも忙しさで悩んでいたと思うが、茅野さん自身も「私が衣装じゃなかったら、AKBはもっと売れるのかもしれない」「この人たちに何を着せるのが正解なのか」と1年間悩み続けたという。
周囲からは、港区で派手に遊んでいたのではと言われることもあるが、実際はまったく違ったと茅野さんは話す。デザインを描いては工場に出し、素材を決め、布を集める毎日で、人と会う機会もなかった。自分が評価されている感覚はゼロで、衣装の評判も届いていなかった。報酬についても、会社員だったので多くをもらっていたわけではなく、「地下労働施設でやっているレベル」だったと笑う。
「フライングゲット」の衣装はファンから叩かれた
今になって褒められることが多い衣装にも、当時は厳しい声があった。「フライングゲット」は総選挙の楽曲で、MVの監督の世界観は中国の唐の時代をモチーフにしていた。茅野さんはこれに合わせ、身分や順位が高い人ほど袖が長くなるといった設定を取り入れた衣装を、かなりこだわって作った。
しかし当時のファンからは、「ゴールドはイケイケな感じで嫌だ」「ゴールドと黒なんて今のAKBじゃない」「AKBは制服で、チェックがいいんだ」「顔映りが悪く見える」といった反応があり、「こいつが衣装じゃない方がいいと思う」とSNSに書かれていたと思うという。それでも、監督や秋元さんが「いいね」と言い、メンバー自身も「新鮮」「動きやすい」「かっこよく見える」「総選挙の選抜に入ってよかった」と言ってくれたので、一緒に頑張れたと茅野さんは語る。今ではその衣装が評価されていることを踏まえ、悩んでいる人には「評価はちょっとしたことで変わる」と伝えたいと話した。
救いは、秋元さんが任せ続けたこと
当時の茅野さんは、もっと有名な衣装さんが担当すれば話題にもなるのではないかと悩んでいた。部下も増え始めたが、まだ会社(オサレカンパニー)にはなっておらず、入って3か月ほどで辞めてしまう人もいた。忙しさで新人の面倒も見られず、すべてが悪循環になり、自信も持てなかった。とにかく時間がないのでデザインを出し、秋元さんのOKが出たものを作っていく日々だった。
その中で救いだったのは、秋元さんが新しい衣装担当や有名な人を連れてこなかったことだという。有名な人や実績のある人など、ほかに任せる選択肢はいくらでもあったはずなのに、大枠は茅野さんに任せてくれた。茅野さんはその信頼に応えなければという気持ちが強かったと話す。もう一つの支えは、メンバーと「まだ見たい景色がある」という思いだった。向いているかどうかを考え出すと答えが「向いていない」になってしまうので、考えないようにして、とにかく忙しくしていたという。
周囲の声と、部下からの一言
さらに茅野さんを悩ませたのが周囲のスタッフだった。秋元さん本人ではなく、周りのスタッフが「もっとこうした方がいいのでは」と口を出してくる。衣装の知識がなかったり、茅野さんが理由があってそうしていることや、秋元さんと相談して決めていることを理解していなかったりした。ファンからの言葉をそのまま茅野さんに伝えてくる人もいた。茅野さんは年齢も立場もいちばん下で、周りは目上の人ばかりだった。
そこから抜け出すきっかけは二つあったという。一つは、秋元さんが任せてくれていることが答えだと考えるようにしたこと。何があっても任せてくれている、所属させてくれているという事実を答えとして受け止めた。
もう一つは、会社にしようと決めたことだ。一人で戦うのは限界で、予算内で工夫していることを共有できる仲間が欲しいと考えた。そのとき、部下として入ってきた一人に「そんなに私たちは頼りないですか。もっとやれますけど」と言われた。現在の松本さんだという。「頼っていいのか」と聞くと、「頼らないと無理でしょ」と返された。茅野さんはそこで、会社にして組織を作り、ちゃんと仲間を作ろうと思ったという。
10年ほど後になって、松本さんから当時の気持ちを聞いた。誰よりも働いて誰よりも寝ていないのに、いつも傷ついているように見えたので力になりたかった、だからあのとき言ったのだ、と。茅野さんは、自分のつらさや誰にも頼れない感じを一緒に背負おうとしてくれたことがありがたく、それだけで気持ちが楽になったと話す。同時に、部下たちがスタイリストとしてやっていけるようにする責任があると考えるようになり、悩んでいる場合ではないと気持ちを切り替えた。支えてくれる人を大事にし、その輪を広げ、結果としてAKB48に還元できればいいと考えるようになったという。
「お前が変わるしかない」――秋元さんの言葉
もう一つ、茅野さんが「今だから話せる」として明かしたのが秋元さんとのやりとりだ。当時、スタッフの年配男性などの言動を、茅野さんはメンバーと年齢が近いこともあって、メンバー側の立場からおかしいと感じることがよくあった。食事の席でそのことを秋元さんに話すと、秋元さんは「しのぶが言っていることは正しいと思う」と言ったうえで、こう続けたという。世の中には理由があり、その立場にいる人は、しのぶは知らないかもしれないが、昔大きな実績を残したから何かを任されている。それがおかしいと思うなら、お前が変わるしかない。つまり、その人たちより偉くなり、発言力を持つしかない。そして「しのぶはどうなりたいんだ。一生衣装さんでいいのか。それとも衣装デザイナーの茅野しのぶとして、それを考える時期なんじゃないか」と言われた。
この話をしながら茅野さんは涙ぐんだ。それまで自分のキャリアを考えたことはなく、目の前のことで精いっぱいだった。秋元さんがそこまで考えてくれていたのかと思い、おかしいと思うことを変えられる発言権を持たなければならないと考えるようになったという。簡単な道ではなかったが、少なくとも当時よりは自分の話に耳を傾けてくれる人が増えたと思うと語る。
茅野さんは現在43歳で、この業界はかつて男性社会だったと話す。今はかなり変わってきているが、同世代の40代女性は30代のうちに戦ってきたはずで、自分もずいぶん戦ったという。それは自分のためでもあり、ついてきてくれる部下たちが働きやすく、この仕事をやってよかったと思える環境を作るためでもあった。茅野さんは、悩んだあの1年がなければ会社化していなかったかもしれないし、極端に言えば別の仕事をしていたかもしれないと振り返る。「スナックをやりたい」とずっと言っていたと笑う。
総支配人就任と「お飾り支配人」と呼ばれた時期
茅野さんはさらに、AKB48の総支配人も務めた。その時期もつらく、「一生分悩んだ」という。
何に悩んだのかと問われると、茅野さんは次のように説明した。衣装の仕事が前提としてあり、そのうえで支配人としての仕事もしなければならない。メンバーから直接ではなく、スタッフを通じて話が入ってくる。こうした方がいいと当時の運営側に伝えても話が通らず、支配人なのにさらに上の人がいて、その人たちが決めていた。しかしそれはファンには関係のないことで、ファンに言うことでもない。結果として、茅野さんが言っていることが実現しないとファンの不満につながり、「お飾り支配人」とよく言われたという。給料は変わらず、単純に忙しくなっただけだった。部下にもメンバーにも心配され、SNSでは支配人を代えた方がいいという声が多く、自分でなくてもいいのではと感じていた。その時期に作った衣装も叩かれたが、チェックを他の人に任せるなどしていたので、手を抜いたつもりはなくてもそうなるのは仕方がないと茅野さんは受け止めている。
もともと向いていないことは分かっていたので、引き受けるときに「長くても3年」と伝え、次の後任までのつなぎだと思ってほしいと裏では話していたという。
支配人経験から学んだファンの存在
支配人の経験だけは役に立たないとずっと思っていたと茅野さんは笑うが、後にAKB48以外のアイドルグループの衣装を手がける中で、その経験が生きたという。こうすればファンはこう感じるだろうと想像できるようになった。支配人時代に、人生をかけて応援している人がいること、日々の仕事を頑張り、ライブに行くことを支えに生きている人がたくさんいることを身をもって知ったからだ。
そこから茅野さんは、ファンが来るライブはファンのためにあると考えるようになった。演出の意向が大前提ではあるが、ライブ衣装にはファンが喜ぶ要素を多く入れるようにしている。メンバーが近くに来てうれしくなるギミックや、ライブの後に「あの衣装よかったよね」と話し合える衣装など、そうした空間作りを意識するようになったのは、この時期に得た感情からだという。
「小娘」扱いと、秋元さんとのやりとり
終盤、聞き手は自身にも、立場上ものを言えず「いつまでもこの小娘が」と見られる経験があると打ち明け、どうすれば階段を登ってその人たちより上に立てるのかと尋ねた。茅野さんは、必死に頑張ってあれこれ言っていたが、言えば言うほど相手が頑なになると気づいた時期があったと答えた。
秋元さんとの関係については、茅野さんの側からも遠慮なく連絡しているという。デザインを催促するときは「借金取りか」というほど、また「付き合っているのか」というほど連絡する。逆に秋元さんから突然電話がかかってきて、「女の子がポニーテールの根元につけるアクセサリーは何ていうの」と聞かれ、「シュシュですか」と答えると「そうだそうだ、ありがとう」と言って切れた、というエピソードも披露された。
20代から秋元さんのそばで仕事をし、男性社会を生き抜いてきた茅野さんのコミュニケーション術については、後編で語られる予定だと予告されて前編は終わる。
AKB48、=LOVE、きつねダンスなど数々の衣装を手がける茅野しのぶさんの人生を深掘り。
AKBが作られるよっていうのを、1期生が目にしたポスターと同じタイミングで知って、自分から運営会社に「スタイリストっていますか」って連絡して。
1番多分すっごい悩んだのが、いわゆる「ヘビーローテーション」が出て「フライングゲット」の1年間ぐらいの、いわゆるAKB大フィーバーの。はいはいはい。もう記憶にあります。私が衣装じゃなかったら、もしかしたらAKBってもっと売れるのかなとか。もう誰にも愛されない。一生1人だ。そんな時代があったんですよ。そう。今だから話せるサバイバルな衣装人生。
それを秋元さんに言ったことがあるんですよ。へえ。こうこうこういうことがあってこうこうで、みたいな。そのご飯とかを食べてる時とかに、秋元さんに「まあ、しのぶが言ってることが正しいと思う。ただ世の中には理由がある。しのぶはどうなりたいんだ? 衣装の一衣装さんでいいのか、それともちゃんとその衣装として、茅野しのぶとして、それを考える時期なんじゃないか」って。泣いて涙です。
でもいい確かに、すごく教えてくれるっていうか、私にとってもすごいプロデューサーだったなみたいな。うん。うん。
今まで語られることのなかった秋元康さんとの忘れられないエピソードもたっぷり語ってくれました。
衣装デザイナーさんになったきっかけっていうのはどういうところなんですか?
元々普通の高校だったんですけど、学園祭とかでダンスで友達の服をちょっと用意したことが、その先生にそれを褒められたことが、服も好きだったのもあって、服の専門学校の方に進むんですけど、全国からファッションフリークが集まってくるわけじゃないですか。そんな感じなんですね。だって、親御さんがもうファッション業界の人っていう方もいたりとか、サラブレッドみたいな方もいる中で、すごいちょっと、しまったなっていう風に普通に。うん。うん。大学をちゃんと受験して行っておけばよかったのかなと思うぐらい、本当に課題とかに追われてたんですけど。
当時ヘアメイクを目指す美容専門学生と服飾専門学生が、クラブみたいなところでファッションショーとヘアショーをやるみたいな。で、そこでチームでちょっとやった時に、学校とは違うところで、その1夜のためだけの衣装作りというか、それが結構楽しくて。うん。本当儚いなと思って、こんなに徹夜して頑張って作ったのにこの1夜のためだけに。いわゆる1つの作品みたいな形で作り上げていくことがいいなっていう風に思って。うん。
私はアパレルのデザイナーよりかは、ちょっとそっちにやっぱ興味あるかなと思って、在学中からとある方のスタイリストのアシスタントを、学校行きながら両立してやってて。うん。うん。
どこかで多分ちょっと思ってたのが、やっぱ叶わないと思ってたんですよ、アパレルは。服はすごい好きだったんですよ、もう本当に。うん。うん。うん。私の中学生時代は、もう本当にへそ出しルックから、もう本当中学生なのにワンボタンスーツみたいなベロアのスーツに行って、マイクロミニにストレッチブーツみたいな。かっこいい。で、安室ちゃんの結婚式の格好が流行って、みたいな。もうみんなその感じで。
そういう時代を経て、マルキューとかが好きになって、あゆが出てきて、みたいな。あゆが出てきた時に、もうみんなこぞってアルバローザとか、そっちのマルキュー系に行くんですよね。で、一方でギャルが好きな、ギャル古着みたいのがあって、古着系が好きになって、ファッションはずっと好きではいたんですよ。もう本当ファッションのためにバイトして、みたいな。うん。
ただそれって一般的なんですよ。そこら辺にいる子がちょっとファッション好き。ああ。ちょっとファッション好きで。本当にその業界に飛び込んでるっていうか、それこそ親がもうファッション業界で小さい頃からもうファッションの世界にいた人とか、中学生ぐらいから自分で作ってますみたいな子もいるわけですよ、学校行って。そういう子たちが、私と同じかそれ以上に努力してたりとかするのを見た時に、あ、こういう人たちがデザイナーになるんだなと思ったんですよ。要はファンを作って、アパレルって結局ファンを作っていくと思うんですよ。はあ。
ドさんがこないだYouTubeで言ってたんですけど、スタイリスト、私たちは推し活をしてるようなもんだみたいな。で、だからそこがもうそもそも違うと思って。私はどっちかっていうと、ここに理由があるファッションが作りたい。で、そのアシスタント募集してた方のとこに行って入れてもらうんですけど、学生と両立しながらやってるんで。
でも、そんなできないやつだとは思ってなかったんですよ、自分は。ああ。役に立つと思ってたんですよ。うん。うん。うん。でも実際現場に行った時に何の役にも立たなかったんですよ。むしろタレントさんとかも、今まで付いてない、全然知らない若い子が来て。それですごく自分がなんて使えない人間なんだっていう風に思うんですよ。ああ。
で、やっぱそれすごい悔しいなと思って、ちゃんと使える人間になりたいっていう風に、そこで思って。いつかスタイリストとして独り立ちする時は、自分がいないと回らないみたいな状況になるような衣装さんになりたいって、その時初めてちゃんと思って。
アパレルはやっぱり自分のブランドを世に出していかなきゃいけないけれども、うん。衣装のデザイナーさんっていうのは、自分のブランドっていうよりは相手のブランドを作るための。で、そこに魅力を感じて入ってみたら、使えないかもみたいな。そうです。何もできないんだなっていう。
で、私その時に、スタイリストのアシスタントに入るまでに、作品を持って面接した後から結構しばらく連絡なかったんですよ。ああ。だから、あ、ダメだったのかなと思って、就職の試験を受けたりとかしてて、最後の社長の面接みたいな日と、ちょっとその現場に来て欲しいっていう日がかぶったんですよ。ああ。ドラマみたいですよね、今思うと。
で、私はすっごい悩んで、結局やっぱその現場を取るんですよ。すごく自分の中では決断をして。でも結局その行った現場で、私がいてもいなくても同じだったんです。私は人生最大の決意をしてそっちに行ったのに、全く意味のない状況に、あまりにも自分がかわいそうだなって思ったんですよ。だから、うん。その決断をした自分が、「あの決断をして良かったね」に将来なりたいって思って。うんうん。もう本当、泣きながら帰ったんですよ。あ、そうなんです。
アシスタントの時は、やっぱり普通の周りにいる子がみんな楽しそうに見えちゃって。へえ。同期とかもみんな、これ任せてもらったとか、私がデザインしたやつが今店に出てて、とかよく聞くんですよ。そういうのとか聞くと、私何もしてないって思ってたし。
ある時、12月24日かなんか、もう街はクリスマスの六本木通り。忘れもしない。すっごい大荷物をパンパンに持って六本木通りを歩いてたんですよ。その前ぐらいに当時付き合ってた人にも振られて。街はみんな楽しそうなわけですよ。クリスマスシーズンで、恋人たちとかとすれ違った時に、はい。本当に何やってんだろうって気持ちになって。みんなこんな楽しそうな人生なのに、自分はこんなに死ぬほど重いものを持って、何にも自分には成果をあげれてなくて、もう誰にも愛されない。一生1人だ。ぐれ。あ、そんな時代があったんですね。
お金もないわけですよ。もう全然もらえないから。1回、道にその荷物を置いてみて、これで出したらどうなるんだろうと思いながら。そこまで。でもやっぱちょっと小心者なんで、ちゃんと取って行くんですけど。
悔しい時期とか、そういうのがやっぱ、これが何にもならなかったになるには、あまりにも自分がかわいそうじゃん。これで頑張ってなかったら頑張ってない自分でしょうがないと思うんですけど、案外頑張ってたんで。うん。頑張ってました。じゃあ、ちょっとかわいそうだから、ちゃんとスタイリストになろうっていう風に。今日涙を出した自分が将来報われるために、今を頑張ろうってその時思って。うん。それしかないんですよね、自分を慰める方法が。やるしかないっていうことですよね、もうその時。未来に期待するしかないっていう。ああ。
で、そっから独立して1人でやり始めようって時に、AKBが作られるよっていうのを、私も1期生が目にしたポスターと同じタイミングで知って、自分から運営会社に「スタイリストっていますか」って連絡して。それがすごいもんな。で、まだ決まってないかもみたいな感じだったんで、「1度お会いしてもらえませんか」って言って、作品とか持ってって。へえ。
多分合格されるその女の子たちと、その時22歳ぐらいだったので、年もそんな変わんないので、面倒というか、楽屋のお世話だったりもできますよみたいな。ああ、前田敦子さんとか。あ、そうです。そうです。そうです。高橋みなみさんじゃないですか。そうです。そこの最終オーディションからは見てるので。へえ。
で、彼女たちと年齢近いし、マネージャーを1人雇って、スタイリストを1人雇うより、2人分のあれで1人雇えますよみたいな感じでプレゼンして、採用いただいて。
で、最初は秋元さんがやられてる京都造形芸術大学っていう、教鞭を取られてらっしゃったので、そこの事業の一環で、アイドルの衣装のデザインをするっていうので、学生さんのデザインを私が形にするっていう仕事をしてて。うん。はい。「会いたかった」っていう楽曲でメジャーデビューするタイミングで、秋元さんに、学生さんと同じコンペで全然いいので、私もデザインを混ぜてもらってもいいですかって言って。うーん。もうそこのガッツがまずすごいですよね。そうですかね。若かったんで。ああ。もう失うもの何もないじゃないですか。なのでガンガン行って、みたいな。
で、AKBの時代は、1番多分すっごい悩んだのが、いわゆる「ヘビーローテーション」が出て、「フライングゲット」の1年間ぐらいの、もういわゆるAKB大フィーバーの。はいはいはい。もう記憶にあります。はい。もうテレビつけたらAKBが出てて、それぞれで色々活躍してて、みたいな時代だったんですけども、そこでメンバーももちろんすごい悩んでた時期だと思うんですよ。うん。忙しすぎて。
でも私も同じくその1年間って、私が衣装じゃなかったら、もしかしたらAKBってもっと売れるのかなとか、すごい悩んだ1年ですか。何が正解なんだろう、衣装、この人たちに着せるのって、すごい1年間悩んで。うん。
でもそこはすごく大フィーバーの時期なので、うん。衣装のおかげで売れたとかっていう感じで思ったりはしないです。全然思ってないですよ。だからそれみんなに言われるんですけど、すごい港区とかでウェイってやってたんでしょ、当時、みたいな。もう盛り上がっちゃって、みたいな。本当になくて。へえ。本当にいつも、うん。もうデザインを描いては工場出しして、うん。色を決めて、布集めて、なんだかんだでもう毎日が過ぎてって、人とも出会ってないって感じなんで、自分が評価されてるっていう感覚もゼロですね。衣装のいいって評判も届いてないですね。今になってです。ああ。
今になってすごいみんな褒めてくれるみたいな。「フライングゲット」とかも、私は堤幸彦監督の世界観で、中国の唐の時代を踏襲するような感じの総選挙の楽曲だったんで、身分が高い、順位が高い人ほど袖が長くて、みたいな。結構効果なんで、それをモチーフにした衣装みたいなのを作って、結構本当にこだわって作ってるんです。
でもその衣装も当時のファンからは、ゴールドってイケイケな感じしてやだとか、ゴールドと黒なんて今のAKBじゃない、AKBは制服で、うん。うん。うん。チェックがいいんだとか、顔映りが悪く見えるとか、そんな言われました。こいつが衣装じゃない方がいいと思うとか、もうSNSとかに書かれてたと思うんですけど。うん。まあそれを見る時間もあんまりなかったんで。
だから本当に「フライングゲット」の話で言うと、堤幸彦監督がOKをいただいているし、秋元さんも「いいね」って言ってくれてて。うん。うん。で、実際本人たち、AKBのメンバーが、こういう衣装新鮮とか、動きやすいとか、かっこよく見える、総選挙選抜入ってよかったとかっていう風に本人たちは言ってくれてるから、一緒に頑張れてたっていう感じですね。うん。あ。
今ってめちゃめちゃ「フライングゲット」の衣装いい衣装、とかなったりとかしてるんで、今もし悩んでる方がいらっしゃるなら、その評価ってちょっとのことで変わるよ。
で、やっぱね、裏方で、やっぱうはうはに見えたんでしょうね。うん。うん。うん。うん。全然もらってもないですし、リアルな話で。もう会社員だったし、本当に地下労働施設で本当やってるレベルの感じでした。
もっと有名な衣装さんとかがやった方が、うん。うん。そう、1つ話題が噛むじゃないですか。その方がいいんじゃないかっていうのをすごく悩んでて。それこそその辺から部下とか増えていって、まだ会社にはなってないんで、オサレカンパニーにはなってないんで。でも入って3ヶ月ぐらいでいなくなっちゃったりとか。忙しくてその入ってきた子たちも構ってあげられないし、ただただ忙しいだけみたいな感じになっちゃって、全てが悪循環で。自分にも自信持てず。でも時間がないから、とにかくわーって出して、秋元さんにオッケーもらったものをもう作っていくっていう。
ここで救われてるのは、秋元さんが新しい衣装さんとか有名な人を連れてこなかったことです。なるほど。ああ。大枠の部分で、しのぶに任せるっていう形を取ってくれたんで。本当に秋元さんにはそこを感謝というか、任せようと思えば絶対他に任せられたんですよ。本当に有名な方とか、名前がある方とか、本当にいろんな選択肢があった中、信じて任せてくれた。うん。それに応えなきゃっていう気持ちはめっちゃありました。
あとはメンバーと、まだ見たい景色があるから一緒に頑張んなきゃっていう、この子たちも頑張ってるから私も頑張んなきゃっていう気持ちで、とにかく自分を奮い立たせて。向いてる向いてないとか考え出しちゃったら、うん。もう答えが「向いてない」になっちゃうんで、考えないようにして、とにかく忙しくしてたっていう感じですね。
で、みんないろんなこと言ってくるんですよ。秋元さん本人には言わないです。周りのスタッフの方とかが、もっとこうした方がいいんじゃない、ああした方がいいんじゃない、どうもこうのって。要は衣装の知識がなかったりとか。理由があって私はそうしてるのに。なるほど。うん。秋元さんと色々、今度はこうしようって言ってやってるのに、それを全然わからないっていうか。うん。で、そういう人が、例えばファンから言われた言葉とかを直接私に言ってきたりとか。当時は私が1番下ぐらいの、年齢もそうですし、本当に上の人ばっかりだったので、悩みました、その辺は。
あ、どう抜けたんですか、そこは。2つあって。はい。1つは、とにかくもう秋元さんが任せてくれてることが答えだって思うようにしました。だから例えば会社に所属してる人もそうですし、自分にどんなに何かあっても、結局任せてくれてる、所属させてくれてるっていうのが答えだなっていうのを思うようにして。あと、会社にしようと思うんです、やっぱり。あ。
で、1つは、1人で戦うのも限界だと思って。あ、そうなんだ。うん。いろんなこといろんな人に言われるから、え、分かってるよ、みたいな。うん。こっちも気もなくて、予算内でこう色々やってるからっていう、これを共有する仲間が欲しいと思ったんです、まず。なるほど。はい。
その時ちょうど部下で入ってきた子に、「そんなに私たち頼りないですか」って言われたんですよ。あ、うん。それは今の松本さんなんです。ああ、そうなんですね。そう。「もっと私たちやれますけど」みたいな。ほう。っていう風に言われて、頼ってもいいのかな、みたいな。ああ。って言って、「いや、頼んないと無理でしょ」みたいな。なるほど。感じで言ってくれて。その時に、大きな子の言う通りにはもう会社にして、うん。組織にして、ちゃんと仲間を作ろうっていう風にそこで思うんです。うんうん。うん。
その当時のことを聞くと、助けたいと思ったんですって。これは嬉しい話だなと思って。誰よりもやってるし、誰よりも寝てないし、誰よりもやってるのに、いつもなんか傷ついてるって思ったって。だから力になりたいって思ったから、あの時言ったんだよって。そう、もう10年後ぐらいとかに言われるんですけど。あ、同じように共有しようとしてくれてるんだ、みたいな。私の辛いこの感じとか、誰にも頼れない感じとか、荷物持とうとしてくれてるみたいなのが本当にありがたいなっていうのと、それだけでも気持ちは楽になったんです。この彼女たち、彼らの人生も、やっぱちゃんとスタイリストとしてやっていけるような風にしなきゃだめだ、その責任があるっていう風にも思うようになったんですよ。うん。うん。うん。うん。
で、そこで、そんな悩んでる場合じゃないって言ってシフトしたんですよ。で、私は今自分の周りにいる、支えようとしてくれてる人たちを大事にして、それをさらに広げる活動をしようと思って。その結果AKBにそれが還元できれば一番いいなと思って。
で、あともう1つ、秋元さんに、今だから話すんですけど、当時のスタッフのおじさんとか、わーって言ってくるやつとかが、メンバーも含めて、メンバーがなっちゃうんですよ。年齢近いから。そんなこと言うのとか、やってることおかしいと思うことが結構あったりして。で、それを秋元さんに言ったことがあるんですよ。へえ。
こうこうこういうことがあって、こうこうで、みたいな。そのご飯とかを食べてる時とかに。秋元さんに、「まあ、しのぶが言ってることが正しいと思うよ。ただ世の中には理由がある。そこの立場にいる人も、しのぶは知らないかもしれないけど、昔すごく実績を残して、だから何かを任されてたりとか」。うん。「だからその人たちがやってることとか言ってることとかがおかしいって、しのぶ自身が思うんだったら、お前が変わるしかない」って言われたんですよ。はあ。
で、どういうことかって言うと、はい。「その人たちよりも偉くなるしかないんだ。その人たちよりも発言力があるようにならなきゃいけないんだ」っていう風に言われて。うん。「で、しのぶはどうなりたいんだ? 衣装の一衣装さんでいいのか? それともちゃんと衣装として、茅野しのぶとして、それを考える時期なんじゃないか」って。大丈夫? うん。涙。大丈夫です。大丈夫です。うん。「時期なんじゃないか」ってすごい言ってくれて。うん。うん。うん。
そんなこと考えたことなかったんですよ。うん。自分のキャリアとか、今が精一杯だったから。秋元さんってそこまで考えてくれてるんだっていう風に思って。じゃあ自分がこれはおかしいと思うことは、うん。変えていけるような、やっぱ発言権をそこで持たなきゃいけないし。うん。うん。そんな簡単な道ではないんですけど、その後。そう、そう。簡単な道ではないんですけど、でも少なくともあの時代よりも、私の話に耳を傾けてくれる人が増えたとは思うんですよ。あー。
やっぱ本当に正直、キャリアアップしてくって相当難しい。うん。で、この業界って男性社会でもあったので、今は全然変わってきてると思うんですけど、結構踏ん張って頑張ったなっていうのは結構思うと思うんですよ。多分私の年代ってみんなそうだと思うんですけど。私は43なんですけど、他の40代の女性とかが30代で絶対戦ったと思います。その産休の問題とか。もう本当に私もいろんなこと戦いました。
それは自分のためでもあるけど、その先にいる、私を信じてついてきてくれてる部下たちが、もっと働きやすい環境で、もっとこの仕事やってて良かったって思ってほしいっていうのをすごい思って。じゃあ今のままじゃダメだから、うん。じゃあ会社にしようって、やっぱりそこで思って、相談して。
だから悩む時期はね、多分誰でもあると思うんですけど、私もそこで悩む1年間がなかったら、もしかしたら会社化してないかもしれないし、極論ちょっと違う仕事してたかもしれないですね。もうスナックやりたいとか。ああ。とか、ずっとそうなんですよ。やりたいとか。
さらに私、支配人っていうのをAKBのやるんですけど、その時期も辛くて。うん。もう本当、一生分そこで悩んだと思いますね。何に1番悩んだんですか? まずその衣装っていう仕事が大前提であるんで、それもやんなきゃいけない。支配人としてやんなきゃいけない。
とがかった気になっちゃったりとかするんですよね。で、メンバーから直接聞くんじゃなくて、スタッフからまた聞いた気になっちゃったりとか。その中で、こうした方がいい、出した方がいいっていうのを、その時の運営の方々とかに話とかがあっても、そこまでまだその話が通らなくて。支配人なのにもっと上の人がいる、みたいな。うん。うん。うん。で、その人たちが決めるから。でもそういうのってファンには関係ないことだし、ファンに言うことでもないから。うん。うん。
だからファンから色々言われることがあって、こうした方がいいと思うってこういう風に言ってるけど、実現化しない。しないってなると、またファンからそれはクレームになるから。お飾り支配人ってよく言われてたし。本当リアルな話じゃ、給料変わらないから、全然据え置きっていうか。そう。だから単純に忙しくなってきて、誰にも望まれてないし、部下たちには心配されるし、メンバーも心配してるし。
あれって私じゃない方がいいんじゃないかなっていう風に思ってるのと同時に、ファンも、もう支配人変わった方がいいみたいなのをSNSでめっちゃやるから。こうした方がいいって思ってることもなかなか変えられなかったりとかで中途半端になっちゃって。その当時作った衣装とかも、衣装自体も叩かれてて。うん。ああ。それはそうかなと思うんですよ。別に私は手を抜いて作ったつもりはなくても、じゃあこのチェックは誰々に任せるっていう風になったりとか。
元々向いてないのは分かってたんで、長くやっても3年ですっていうのは元々引き受ける時に言って、次の後任の間のつなぎだと思ってほしいっていうのは、すごい裏では言ってたんですけど。でも、そこでやっぱり学んだこともあって。よく言うじゃないですか、全部が役に立つって。支配人だけは役に立たないってずっと思ってたんですよ。思ってたんですけど。
やっぱAKB以外のアイドルグループとかをやる中で、ファンの心理っていうのを、やっぱり衣装とかで考える機会っていうのがあった時に、こういう風にしたら、こういう風にみんな思うだろうなとか、うん。想像できるように。うん。本当に大げさかもしれないけど、本当に自分の人生をかけて応援してる人がいて、彼女たちに会うたびに、本当に日々の仕事を頑張ってて、ライブを見ることをそれをモチベに日々を生きてる、うん。みたいな方々がたくさんいるっていうのを身をもって知ったんです。はい。
だとするなら、ファンが来るライブとかは、本当ファンのためにあるものなんだっていうのをすごく、うん。思ったんですよ。なのでライブ衣装とかは、もちろん演出の意向もあるんですよ。それが大前提なんですけど、そこにファンが喜ぶやっぱエッセンスっていうのは、ライブに関しては相当入れようと思って。うん。うん。メンバーが近くに来て嬉しいギミックだったりとか、ライブ見た後に「あの衣装良かったよね」って議論できるような衣装だったりっていうのを思い得る空間作りをしようっていうのは、その時にやっぱり思えた感情だったんで。うん。
さあ行くぞ。立場的にも何かものを言える立場でもなかったっていうのも合わさって、すごく悩まれたんだろうなって聞いていたんですけど、私もやっぱりちょっとそういうところがあって、いつまでもこの小娘がっていうのが抜けないんですよね。そうですね。良くも悪くも。どうやったら、女性としてもそうですし、階段を登ってその人たちよりも偉くなることができるんだろうなっていう。
そうです。ある時気づいたんですよ。すごい必死に頑張って、ああでもないこうでもないって言ってたんですけど、言えば言うほど頑なになるな、みたいな。うん。
秋元さんに対しても、やっぱり私ちょっとあるものもあるんで。ああ、そうなんですね。本当デザイン側の催促だとか、本当に借金取りかってぐらい、うん。連絡したりしますからね。そう。付き合ってるかってぐらい。何をして。電話がかかってきて、「女の子がポニーテールの根元につけてるアクセサリーって、何ていうの?」って言われて、「シュシュですか」って言ったら、「あ、そうだそうだ、ありがとう」って言って切れて。恋バナとかしたりします。そうなんです。
20代から秋元康さんの隣で奮闘し、男性社会を生き抜いてきたしのぶさんの最強コミュニケーション術と
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