「怒り」はなぜ娯楽になるのか 岡嶋裕史氏が語るSNSとXを分けて考える理由

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概要

スマートフォンからアプリを消しても、SNSを見るのをやめられない。新R25のインタビュアー・りんたろう氏のこの悩みを出発点に、中央大学国際情報学部教授の岡嶋裕史氏に話を聞いた回である。岡嶋氏の専門は情報セキュリティとネットワークで、昨年12月に『子どものSNS禁止より、大人のX規制が必要な理由』を出版した。岡嶋氏は、仲間内の閉じた空間としての「SNS」と、世界をフラットにつなぐ「拡散系」のサービスは性質が違うと考える。炎上はこの二つが組み合わさったときに起きる、というのが岡嶋氏の立場である。

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アプリを消しても、気づけば1時間

冒頭、りんたろう氏は同席者との雑談で自分の状況を説明する。取材を重ねるなかで、SNSは精神に良くない影響を与えていると感じるようになった。そこで昨年9月から、XとInstagramのアプリをスマートフォンから消している。投稿するときはパソコンのブラウザか、スマートフォンのSafariから入る。無意識にアプリを開くことはなくなった。ところが、投稿しようとXの画面を開くと、気づけばフィードを見て1時間が過ぎている。

同席者の一人は、見るときは6〜7時間見てしまうと話した。帰宅するとすぐInstagramのリールを開き、延々とスワイプするという。りんたろう氏もYouTubeで好きなチャンネルの新作を見ようとして、ショート動画に流れて1時間が過ぎることがある。「やりたかったことにたどり着けない」という。

りんたろう氏が不思議に思うのは、ショート動画と違ってXは基本的に文字だという点だ。視覚的な刺激が強いわけでも、情報量が多いわけでもないのに、なぜあれほど面白いのか。同席者からは、誰かと誰かが言い争っている様子が面白い、そこに人間のストーリーが垣間見えるのだろう、という意見が出た。りんたろう氏は、疲れているときほど見てしまうとも話す。他人の発信に引っ張られて寄り道をするうちに、自分が何をしたかったのかわからなくなり、自己肯定感も下がる。それがわかっていてアプリを消したのに、ブラウザで同じことをしている。この問いを岡嶋氏に持ち込んだ。

本当に言いたかったのは「XとSNSを分けよ」だった

りんたろう氏がこの本で目から鱗だったと語るのは、XやInstagramをいわゆるSNSと区別すべきだという議論である。岡嶋氏は、本当に書きたかったのはその点だけだと明かした。それだけでは売れないと思われたのか、刺激的なタイトルが付いたという。実際、子どものSNS禁止の話は冒頭で少し触れる程度だ。岡嶋氏は、出版時期がちょうどその議論が盛り上がっている時期と重なり、アカウントに鍵をかけたり潰したりしないとまずいと思ったと冗談交じりに話している。

執筆の動機について、岡嶋氏は政府の委員会に呼ばれた経験を挙げた。誹謗中傷や炎上がこれだけ起きていれば、どこかで歯止めをかけようという議論になるのは仕方がない。しかし、政策の現場で規制を唱える人の多くはSNSにそれほど関心がなく、議論が雑だと感じたという。世間の認識では、XもLINEもFacebookもまとめて「SNS」である。本来はXに少し制限をかけるだけでよいのに、巻き添えでFacebookやLINEまで潰されては良くない。岡嶋氏自身はSNSが好きなので、規制するとしても最小限に抑えたい。そのために、性質の違うものを分けておく必要があると考えた。

岡嶋氏は本の中で、Xのような拡散系サービスを「AOS」と名付けた。こんな言葉が流行るとは思っていないが、ラベルがないと書きにくかったという。日常の言葉として全部を「SNS」と呼ぶのは構わない。ただ、政策を議論するときは分けないとまずい、というのが岡嶋氏の考えである。

SNSは「井の中の蛙」をつくるサービス、エコーチェンバーは処世術

岡嶋氏によれば、もともとのSNSは「仲良しグループ」である。会員制で、招待されて入ってくる人は属性が似ており、同じ話題で盛り上がって喧嘩にならない。摩擦のない、気の置けない空間を作ろうというところから始まったサービスで、岡嶋氏はこれを「井の中の蛙を作ろうとするサービス」とも表現した。一方、Twitterは当時、自分たちはSNSではないとホームページで述べていた、と岡嶋氏は記憶している。囲い込むのではなく、世界中をフラットにつなぐ目的で作られたサービスだという。この二つが一緒に「SNS」と呼ばれるようになった。しかし、使う人も目的も、そこから生じる影響も違う、と岡嶋氏は言う。

そのうえで岡嶋氏は、エコーチェンバーがないと人生はつらい、と語る。人が最初にエコーチェンバーを作るのは、保育園や幼稚園のクラスだという。十数人から30人ほどの集団に放り込まれ、全員とフラットにつながるのは恐怖である。価値観の違う相手にいちいち苛立ったり落ち込んだりするのはつらいから、話や価値観の合う子で2〜3人の仲良しグループを作り、その生活を乗り切る。岡嶋氏はこれを、心安らかに生きるための自然な処世術であり、生活の知恵だとみる。岡嶋氏自身はグループに入れず、幼稚園では一人で砂遊びをしていたという。

ただし、幼稚園のクラスでは母集団が20〜30人しかない。価値観や背景がぴったり合う相手はそうそう見つからない。Facebookなら母集団は30億人いる。その中から自分とぴったり合う10人を集めれば、自分のコピーのような人たちとの集団も作れる。何を言っても「いいね」と言ってもらえる、摩擦のない同質な集団である。岡嶋氏は、これがデジタル技術の面白いところだと語る。

インターネットの理念とSNSは相性が悪い

では、なぜXのようなサービスが求められたのか。岡嶋氏はまず、インターネットとSNSはそもそも相性が悪いのではないかと述べる。インターネットは、幼稚園児とアメリカ大統領がつながるように、人々をフラットにつなぐものとして登場し、情報の民主化や技術の勝利として語られた。その理念からすれば、SNSは許しがたいゲーテッドコミュニティである。部外者は入れず、Googleのクローラーが入れても中身は検索結果に出ない。世界を透明にしようとしていたのに、仲良しグループで固まって見えない場所を作った、というわけだ。

それでも、インターネットの荒野はつらいので、人はSNSの中で仲良くする。すると今度は、他のグループの中で何が起きているのかを知りたくなる。そこで、フィルターバブルをぶち抜くような、元々のインターネットに近いサービスが求められた。その役割を果たしているのがXだ、と岡嶋氏は見ている。

フィルターバブル同士の衝突が炎上を生む

りんたろう氏はここで本の要点を整理した。SNSが各所にフィルターバブルを生み、その中で意見が濃縮される。Xがそれらをつなぐことで、バブルの中では許されていた常識外れの振る舞いが外に解き放たれる。「あんなことをやっている奴がいるのか」となって炎上する。これが繰り返されている、という読み方である。

岡嶋氏はこれに同意したうえで補足する。仲間内で盛り上がって極端になること自体は、昔からあった。幼稚園のクラスで自然に生まれるのがエコーチェンバーだとすれば、SNSは同じことを技術の力で人為的に、しかも強固に起こす。「この中にはあなたにとって気持ちのいいものしかないから、安心して長くいてください。長くいてくれれば広告接触時間が増えて我々が儲かる」というのがSNSのビジネスモデルだ、と岡嶋氏は説明する。その中で意見が先鋭化するだけなら、罪はないかもしれない。だが、Xをはじめとする拡散系サービスがそれらをつないでしまうと、ダメージが大きくなる。Xだけ、SNSだけならそれほどではないが、組み合わさると危険になる、というのが岡嶋氏の見立てだ。

岡嶋氏は、拡散系の機能を持つものとして、Xのほかに、Instagram、TikTok、YouTubeのショートやコメント欄、Yahoo!ニュースのコメント欄なども挙げている。

「怒り」は面白い、だからプロレスを見たくなる

なぜ人はXに惹きつけられるのか。岡嶋氏は、自分自身も離れられないので処方箋は示せないと笑いながら、摩擦や違和感はエンタメとして面白いと答えた。怒りを楽しんでいる人は自分でも止められないだろうし、実際楽しいのだろう、という。

岡嶋氏は例を挙げて説明する。あるフィルターバブルの中で、寿司屋で醤油差しを鼻に突っ込むのが面白い、と盛り上がっている集団がいる。昔もそういう人はいたが、店の親父さんに叱られて終わっていた。しかしバブルの中では、本来それを正すべき周囲の人や家族にも見えないところで事が進む。一方で、清潔こそが正義だと固まっている別のグループもある。それぞれが閉じた空間で永遠に生きていけるなら、それで幸せかもしれない。しかし、フィルターバブルを作る技術はまだ洗練されておらず、ときどき接触が起きてしまう。そのうえ、両者をつなげて注目を集めれば儲かると考え、それを仕事にしている人もいる。そのプラットフォームがXだ、と岡嶋氏は言う。

考えがまだ偏っていない段階で接触していれば、話し合いで済んだかもしれない。だが、意見がある程度煮詰まってからいきなりつなげられれば、大喧嘩になる。そしてそのプロレスを、みんなが見たいと思ってしまう。傍から見ている分には楽しいからだ。岡嶋氏は、この構造はなかなか変えられないのではないかと述べた。

岡嶋氏は、幼稚園などに呼ばれたときは「相手の気持ちを考えて言葉に気をつければ炎上は起きない」と話すという。しかし自分ではそれを信じていない、と明かした。小さな子にはそう言わなければならないが、マナーやモラルで止められる問題ではないと考えている。だから何らかの規制はかかっていくだろう。そのときは、自由さをできるだけ失わない形でどう規制するか、規制をユーザーに見える形で行うか見えない形で行うか、よく議論して作るべきだ、というのが岡嶋氏の意見である。

炎上を減らす二つの方向と、本の結論

どう規制すればよいのか。岡嶋氏は、SNSのように似た者同士で心地よい空間を作るサービスも、Xのように世界をフラットにつないで全体を見渡せるようにするサービスも、単体ならそれほど燃えないと考える。閉じた集団がカルトのようになったとしても、その中だけの話で終わる。中の人が幸せかどうかはわからないが、とも付け加えた。逆にフラットにつながっているだけなら、人は個人として社会と向き合う。仲間がいないので極端な考えが熟成されにくく、喧嘩が起きても瞬間的に終わる。大炎上が何年も粘着的に続くには、熟成されて凝り固まった集団同士が接触する必要がある、と岡嶋氏は見ている。

そこで岡嶋氏が示す処方箋は、どちらか一方にしてしまうことだ。一つは、世界中とつながる部分をどこかで少し切り、インターネットの透明度を下げる方向。もう一つは、SNSのフィルターバブルを潰し、仲間で固まれないようにする方向である。友達を作る能力がない自分にとってはとても良い世界線だ、と岡嶋氏は笑う。後者なら、仲間同士で意見を発酵させる場がなくなり、極端な意見になりにくく、喧嘩も瞬間的に終わるかもしれない。

ただし本の結論は前者だという。友達をなくせという案は、自分にとってユートピアでも、多くの人には受け入れられないだろうからだ。せっかく世界がフラットにつながったのに、なぜ不透明にするのか、という反論も予想される。それでも、不透明にするのか、伝わる速度を落とすのか、何らかの形でブレーキをかければ、ちょっとした操作で現状の問題はかなり消せるのではないか、と岡嶋氏は考えている。

プラットフォームはアテンションを手放せない

もっとも岡嶋氏は、プラットフォーム側はこうした規制に賛成しないだろうと見ている。炎上は収益になるからだ。岡嶋氏の整理では、SNSのように繭の中に閉じこもる形はアテンションに対して「微テンション」、つまり穏やかな状態を保つものである。一方、Xのようなサービスは、新しい炎上や新しい祭りで注目を集め、人が集まることで収益を上げる。ビジネスモデルとして比べたとき、勝ったのはアテンションの側だった。

炎上で注目が集まればお金になる。その構造がわかってしまった以上、アテンションを減らす施策をとってほしいと言っても、それは収益の根幹を削れという話になる。岡嶋氏はこれを、プロレス団体に「暴力は良くないから穏やかにしてほしい」と頼むのと同じだとたとえ、興行元としてはやれないだろうと述べた。

第3の案:自分以外すべてAIのSNS

規制が行われないまま進んだら、どうなるのか。岡嶋氏は、怒りを燃料にして注目を集め続ける状態はみんなつらいので、個人がそれを避ける行動をとっていくかもしれない、と述べる。そこで岡嶋氏が持ち出したのが、バンダイナムコが行っていたネタ企画である。自分以外の全員がAIというSNSだ。

岡嶋氏によれば、SNSの一番の不確定要素は人間である。SNSは「ここにはあなたに似た人が集まっているから、何を言ってもいいねと言ってもらえる」という快適さで人を引き留める。だが、その快適さを作っているのは周りの人間であり、人間は何をするかわからない。仲間だと思って発言したのに急に言い返され、快適だった場所がつらい空間に変わることもある。それなら不確定要素である人間を排除し、相手をするのはアバターとその背後のAIだけにすればよい。そうすれば何を言っても反論されず、持ち上げてもらえるだろう、というわけだ。

岡嶋氏は、X型のサービスでも、AI同士が投稿し合って喧嘩している様子は「いいな」と思うという。これまで炎上を楽しむことは、傷ついている人がいるのに不謹慎だと言われてきた。罵倒し合っているのがAIなら、腕組みして眺めていてもいいかもしれない。誰も傷つかないからだ。岡嶋氏は、この意見が叩かれるものだと自覚している。それでも、傷つく人を出さずにコミュニケーションの欲求を満たし、ときには荒れたインターネットも見たいという欲求を満たす方法として、一つありではないかと話す。りんたろう氏は、一人ひとりにAIで作った空間を与え、誰も同じ世界を見ない世界線か、と応じた。岡嶋氏は、これが本に書いた3つ目の案であり、多くの人にとってはディストピアだが、自分にとっては理想郷だと認めている。

岡嶋氏はここで、キアヌ・リーブス主演の映画『マトリックス』を引き合いに出した。この映画の受け止め方は二通りあると岡嶋氏は考える。主人公に自己投影できる人と、絶対にできない人だ。人々はコンピューターの養分として寝かされ、いい夢を見させてもらっている。そこへ現実に引き戻しに来る者がいる。キアヌ・リーブスのように容姿も才能もある人なら現実も楽しいだろう。しかし、現実に戻ってもつらいことしかない人にとっては、なぜ起こしに来たのかと腹が立つだろう。岡嶋氏は、自分はそのど真ん中にいたと話し、そういう人にとって自分以外すべてAIのSNSは極上かもしれないと述べた。誰にも共感してもらえないだろう第3の解決策としてあげておきたい、という位置づけである。

疲れているときこそ、アテンションの行き先を自分で決める

りんたろう氏は最後に、全員AIの世界はまだ遠い未来だとして、若い世代はこの泥沼化したネット空間をどう生きればいいかを尋ねた。岡嶋氏も、技術的には可能かもしれないが人が受け入れないだろうと述べている。

岡嶋氏の答えは、アテンションの向け先を自分で決めることの価値に関わるものだった。情報量が膨大な中で、Xのように選別された情報をシャワーのように浴びせ、どこに注意を向ければいいかを常に提案してくれるサービスは楽で気持ちいい。しかし、アテンションがお金になるという現実を踏まえても、アテンションはとても貴重なものだと岡嶋氏は言う。人生の時間は限られている。何に注意を向け、そこから学んだり楽しんだりするか。Xが短期的に強い快楽を与えてくれるとしても、効率では劣るかもしれないが、自分で決めて失敗したり、自分で決めた結果いい思いをしたりする。そういう快楽を楽しめるようになるといい、というのが岡嶋氏の考えだ。

岡嶋氏自身も、疲れていると意思決定をしたり自分で探したりするのが面倒になり、本を1冊読みたいと思ってもついXを開いてしまうという。YouTubeの10分の動画すら重たく感じる、という話にはりんたろう氏も同意した。それでも抗って自分で決め、その結果Xよりずっとつまらない本を読むことになったとしても、自分でアテンションの行く先を決めることは貴重だ、と岡嶋氏は繰り返す。自分で選べば冴えないものに当たる確率も高い。しかし、結果が冴えなくても自分で決めるのは面白いことだと伝えたい、という。

ただし岡嶋氏は、今の世代からは「自分で決めて快適さが下がるなら全部AIに任せたほうがいい」という人が多く出てくるかもしれない、とも認める。その場合は、相手が全員AIのSNSを堂々と提案するだけなので、どちらに転んでも自分には面白い、と笑った。

「いつの間にかこうなった」を避けたい

岡嶋氏は、これからどんな世界を作っていくのかを考えるのはとても楽しいと話す。とくに学生には、その議論に能動的に関わってほしいという。一方で、多くの人にとっては「いつの間にかこうなっていた」という結果になるのだろう、とも述べた。そうしたくはないので、学生にさまざまなことを伝えていくのが残りの人生の役割だと考えている、と語って対話は終わった。りんたろう氏も、メディアの立場として、情報空間がどうなっていくかを注視しなければならないと受け止めている。