才能もコネもない中で「桃が流れる川」を探し続けた作曲家・杉山勝彦の歩み

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概要

嵐、乃木坂46、中島美嘉などに楽曲を提供してきた作曲家の杉山勝彦さんは、自分を天才ではないと語る。この回では、偏差値40からの早稲田受験、学生時代にNHK教育番組のテーマ曲を勝ち取った経緯、1年近く曲が決まらなかった時期、31歳で作曲家の仕事を離れて路上ライブから始めたアーティスト活動、そして後進のための音楽事務所とスクールの設立までを振り返っている。聞き手は何度も「それは天才だからできたのでは」と尋ねるが、杉山さんの答えは一貫して「量をやっていた」「チャンスが来る場所を探し続けていた」というものだった。

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年功序列への反発と、音楽に出会った高校時代

杉山さんの家は「割と硬い家」で、兄が2人おり、長兄は現在東大の教授を務めているという。兄たちに比べて自分は「箸にも棒にも引っかからない」子どもだったと本人は言う。転機として挙げたのは小学4年生頃の出来事だ。1つ上の兄が仕掛けてきた喧嘩で杉山さんが勝ちそうになったところ、父が止めに入り、理由も聞かずに杉山さんだけを叱った。杉山さんはそこで「年功序列は最悪だ」と感じ、早く生まれた人が偉いという仕組みではない仕事をしようと考えた。それ以来、物事を自分の頭で考えるようになり、ほとんどできなかった勉強もできるようになったという。

音楽に興味を持ったきっかけは中学の修学旅行のバスカラオケだった。歌いたかったMr.Childrenが入っておらず、仕方なく米米CLUBの「浪漫飛行」を歌ったところ女子に喜ばれ、「俺、音楽の才能があるんじゃないか」という「中二病」が始まったと本人は笑う。家で下手なミスチルを歌っていると、兄から「桜井さんはギターを弾きながら歌っているんだから、お前もギターくらい弾け」と言われた。母はピアノの先生で、兄2人は音楽教育を受けていたが、杉山さんだけはそれを拒んでいた。ギターも一度は指が痛いだけで披露する場もないと放り出している。

本気になったのは高校生のときだ。兄に誘われて近所のギター教室の無料見学に行き、上手い先生がマーシャルのアンプで爆音を鳴らすのを聞いて、「人類の怒りを代弁している」ように聞こえたという。こんなに格好いいものがあるのかと感じ、しかも音楽なら年齢が若い者でもヒットを出せる。年功序列への反発と情熱がそこで一致し、高校1年の時点で「あとはこれで食べられるようになるかだけ」と進路を決めた。お金を貯めてギターを買い、抱えたまま寝落ちするほど弾き続けた。

「曲を書けなければ食べられない」という兄の指摘と吹奏楽部

1曲弾けるようになった頃、「これで食っていく」と兄に話すと、「お前は本当にバカだな」と言われ、当時新聞に載っていた高額納税者の一覧を見せられた。B'zの稲葉浩志さんや松本孝弘さん、Mr.Childrenの桜井さんらの名前が並び、兄は「全員作曲をやっている人だ。曲を書けなければこうはなれない」と指摘した。杉山さんはここで、高校在学中にオリジナル曲をバンドでやれる人間になろうと目標を定めた。

音楽の知識がゼロだったため、軽音部のない高校で吹奏楽部に入った。弦楽器やフルートに興味があったわけではなく、ベースパートに入りながらエレキギターやエレキベースばかり練習していたという。それでも、大編成で多くの楽器が鳴る中で、どの楽器がどんな効果を持つか、コンガやティンバレスのようなパーカッションをどう演奏してどこに入れるかを間近で学べたことは、大人になってからでは身につけにくい経験として役立ったと振り返る。

部長まで務めた最後の演奏会では、エレキギターのソロを自分にやらせてほしいと頼み、アドリブも任された。杉山さん本人はエリック・クラプトンのつもりで弾いたが、保護者からは「寺内タケシみたい」と言われた。寺内タケシさんはすごい人だが自分はそのつもりではなかった、という体験から、発信したものが意図どおりに受け取られるわけではないと感じたという。高校時代にはオリジナル曲を3曲作っている。

偏差値40から4か月の早稲田受験

プロになる方法を調べようにも、今のようにネットで何でも出てくる時代ではなかった。そこで杉山さんは「プロをたくさん出しているところに行けばいい」と考えた。当時好きだった女の子がゴスペラーズにはまっており、勧められて聞いたところ格好よく、調べるとメンバーは早稲田大学のアカペラサークル「Street Corner Symphony」出身だった。ほかにも早稲田出身のミュージシャンが多くのサークルから出ていると知り、行き先を早稲田に決めた。

受験勉強の期間は4か月で、偏差値40からのスタートだった。高校の文化祭が9月末に終わるため、受験勉強は10月からと決めていたという。思ったより難しく間に合わないと焦りながらも、なんとか帳尻を合わせた。センター試験の1週間ほど前にその女の子と付き合い始めたといい、「受験期に別れるカップルの逆を行っていた」と語っている。

学部選びには特に動機がなく、建築が格好よく当時ランクも高かったという理由で理工系の建築を選んだが、必修が多く非常に忙しかったため「失敗した」と感じたという。実際には大学にはあまり行かず、学生会館のゴスペラーズが所属していたサークルに入り浸っていた。

アカペラで身につけた「引き算」の感覚

杉山さんはアカペラの経験がアイドル楽曲の制作と相性がよいと考えている。アイドル楽曲の作り手にアカペラ出身者が多いことも理解できるという。アカペラでは同時に出せる音が5つしかなく、リードボーカルとベースを除けば残りは3声だ。その中で和音を構成し、リズムも声で作る。曲をアカペラ用に編曲するときは、何を残し何を声で表現するかを決める「引き算」の作業になる。

アイドル楽曲について杉山さんは「骨格」が重要だと言う。何と何は最低条件として残すかを決め、そこからビルドアップしていく。音楽全体として骨格が良くなければならず、最低限の構成要素がいかにしっかりしているかが問われるという考えだ。その例として、同時発音数がごく少ないファミコン時代の「ドラゴンクエスト」の音楽を挙げ、あの制約の中で良い曲はオーケストラにすると大きな感動を生むと話した。アカペラでそうした感覚を少しつかめたのではないか、というのが本人の見立てだ。

失恋をきっかけに歌詞を学ぶ

大学3年生の頃、3年ほど付き合った恋人と別れた。それまで頑張っても叶わないという挫折をあまり経験してこなかった杉山さんは、「本当に無理なことってあるんだ」と感じた。このつらさを何のプラスにもできないのは嫌だと考え、そこから歌詞を猛勉強したという。当時は友人からも「曲はいいけど歌詞が微妙」と言われていた。

はったりで掴んだNHK教育番組のテーマ曲

歌詞の勉強を始めた頃、後輩から、親戚がNHKの近くで営むアパレル店のパーティーに、NHKの番組音楽を手がける人など業界関係者が来ると聞いた。杉山さんはいつも歌っているメンバーとパフォーマンスの準備をして参加した。何もせずに帰れば何も起こらないし、学生だから失うものもないと考え、「大学生です、余興やります、今流行りのハモネプです」と名乗り出た。ちょうどハモネプの第1回が放送された時期だった。

ゴスペラーズのカバーを披露すると、NHKの番組音楽を担当する女性に声をかけられ、「オリジナル曲は書けるの」と聞かれた。「書けない」と言えば終わると思い、食いつきすぎても負けだと考えて「書けますけど」と答え、名刺を受け取った。録音機材をあわてて買い、説明書を見ながら録音して送ると、「プロとは言えないがセンスはある」と評価され、教育番組で数秒使われた。

しかし数秒では印税にならない。杉山さんが「音楽で食べたいので、ちゃんと仕事にならないと意味がない」と伝えると、相手は「本当にバカね、でもその気持ちはいいわ」と言い、番組テーマ曲のコンペがあれば声をかけると約束した。ただし周りはプロなので絶対無理だとも念を押された。3か月ほど後に実際に話が来た。

杉山さんは、クオリティで勝負すればプロに負けると判断し、「ネタ勝負」に切り替えた。教育番組を一日中見続けると、オープニング曲は綺麗だが当たり障りがなく、インパクトのあるものや歌の入ったものはほとんどなかった。そこで番組名やコーナー名を連呼する、番組に「媚びまくる」歌を作ったところ、面白いという理由で採用された。全国放送の5分番組のテーマ曲だったため、当時個人では難しかったJASRACとの契約もでき、大学4年の終わり頃に印税を得られるようになった。

本人は、話していないだけで空振りも「三国志くらいの長さ」になるほどたくさんあったと強調する。業界関係者に会えば常に音源を渡し、知り合いを紹介してほしいと頼んだ。ゴスペラーズのリーダーの村上さんにも会うたびにオリジナル曲のCDを渡していたが、今思えばアーティストに渡しても意味がなかったと振り返る。CDを持っていなかったとき、埼玉の実家まで片道1時間半かけて取りに戻り、飲み会に戻ったこともあったという。

その後、別の番組の曲も担当し、7年ほど使われたことで学生としてはかなりの収入になった。ただ杉山さんはこれをビギナーズラックで地に足がついたものではないと考え、使わずに貯めておいた。

大学院中退と、1年だけのサラリーマン

大学院に進んだのは、音楽で食べていけるようになるまでの2年間の「延命期間」のつもりだった。しかし研究室でゼミのために徹夜でプログラムを書きながら歌詞も書くような生活では、発表がうまくいくはずもなく、教授に厳しく叱られた。周りに迷惑をかけている、大学院は本気で勉強しに行く場所だと感じ、辞めることにした。ただ、叱られた印象だけを残して去るのは嫌だったため、合宿係を引き受けてテニストーナメントなどで合宿を盛り上げ、終わった直後に退学を申し出たという。

作曲家として独立することは事実上の個人事業主であり、起業と変わらないと杉山さんは考えていた。ビジネスマナーも知らず、営業もできず、音楽に打ち込みすぎてアルバイト経験もない。そこで1年間は必ず社会で働こうと決めた。建築業界では一人前になるのに5〜7年かかるため1年では意味がないと考え、1年目から色々やらせてくれそうな会社を選んだ。株の運用など「変なこと」も含め、様々な業務を経験したという。予備校のスタッフも務めた。

早稲田祭での直談判と佐藤善雄さんのスカウト

会社員時代の早稲田祭で、ゴスペラーズのメンバーとラッツ&スターのベースボーカル・佐藤善雄さんが土曜日に来場していた。本来OBが歌うのは日曜日、土曜日は現役生と決まっていたが、杉山さんは「この瞬間のためにずっとこのサークルにいた」と感じ、「5分だけ時間をくれ」と頼んで歌った。すると佐藤さんから「今の曲を書いたのはお前か」と声をかけられ、曲を持って遊びに来るよう誘われた。

オフィスで曲を聞いてもらうと、佐藤さんは「スーパースターになれるかわからないけど、スターぐらいにはなれるかもよ」と言ったという。コンペに参加させてもらうと、最初の1曲がアニメ「デルトラクエスト」のエンディングに採用された。1回目で決まることは本当にないと杉山さんは言い、今考えるとひやひやするほどアレンジが「ペラペラ」なデモだったと話す。

杉山さんは本来アーティストになりたかったが、佐藤さんから「作曲1本でやるなら最初は大手に行った方がいい」と助言され、ソニーを紹介された。曲を聞いたソニー側はその日からコンペを振ると決めた。そこから杉山さんは1日も休まず、毎日18時間ほど曲を書いていたという。

「桃が流れる川を探しに行き続けていた」

聞き手は、一発でコンペに通り、学生時代から認められていたことを挙げて「天才でなければできないのでは」と問う。杉山さんの答えは「めっちゃやっていた」というものだった。情報もなく、人に頼るのも苦手で、やり方は不器用だったが、量はこなしていたという。

杉山さんは自分の歩みを桃太郎の話にたとえた。川辺で待っていたら桃が流れてきたのではなく、「桃が流れる川を探しに行き続けていた」。山の上から川を見続け、桃らしきものが見えたら駆け降りていく。その桃が佐藤善雄さんの形をしていた、というのが杉山さんの説明だ。

嵐への提供の後、1年近く決まらなかった時期

ソニーでは嵐への提供が決まり、次のコンペでも嵐に決まった。しかしその後、KAT-TUNに1曲決まったあたりから、1年ほど全く曲が決まらなくなった。「本当に聞いてくれているのか」と思うほどだったという。スーザン・ボイルさんへの提供が決まりかけたものの、案件自体がなくなってしまったことも、久しぶりの結果だと思っていた分ダメージが大きかった。

この時期、杉山さんは友人に誘われて練馬の小さなアパートに引っ越したが、音を出した瞬間に3か所から苦情が来た。引っ越したばかりで移れないため、建築で学んだCADで図面を引き、1.5畳のボーカルブースを自作した。「最初で最後の建築学が役に立った瞬間」だという。部屋はブースとパソコンとベッドで埋まり、服を置く場所がないため廊下の太い突っ張り棒に掛けていた。人生で一番心拍が上がったのは、深夜にそれがガシャンと落ちたときだと語る。

毎日のように西友の冷凍うどんを食べていたが、食べられない状態だったわけではない。いつ曲が当たらなくなるかわからないので節約していたのだという。今なら「もっとちゃんと防音物件に住め」と思うと本人は言う。聞き手が長期的な視点を指摘すると、杉山さんは消費的なものを買うのが苦手で、3万円のゲームですらためらうが、スタジオのように多くの人の役に立ち今後の活動に使えるものには遠慮なく投資すると話した。

小倉さんのデモを聞いて変わった曲への向き合い方

結果が出なかった時期に、杉山さんはソニーの同僚で、JUJUの「やさしさで溢れるように」を書いた小倉さんのもとを訪ねた。同僚でも作曲は個人種目なのでライバルだが、小倉さんはとても良い人で、後に一緒に曲を作り乃木坂46にも共作で提供しているという。お寺の中のプレハブのようなスタジオで、「やさしさで溢れるように」のコンペ用デモを聞かせてもらった。

締め切り直前に作ったらしい粗さもあるデモだったが、杉山さんは他人のコンペ用デモで泣きそうになったのは後にも先にもこのときだけだと話す。すでに大ヒットしている曲なのに「これ売れると思う」と口にし、「もう売れてるよ」と返されたという。何が違ったのかという問いに、杉山さんは「小倉さんが生きてきた全てが乗っている」と答えた。そういう向き合い方で音楽を作らなければならない、自分が選ばれなかったのは順当だと感じ、人のせいにしてはいけないと思ったという。

それ以降、簡単に作って良いものができたから出す、ということをやめ、圧倒的に詰めるようになった。選考する側のスタッフも一人の音楽好きであり、時間をかけてデモを聞いてくれる。よくできて思いやりのある曲なら聞いていて楽しいし、そうでなければつらいはずだと杉山さんは考える。「自分はこんなに頑張っているのに」と言わなくなった瞬間に、曲が戦えるようになったと振り返る。

ギターからピアノへの切り替え

先輩との共作の経験も転機になった。先輩たちはみなピアノが上手く、ギターしか弾けない杉山さんは、このままでは勝負にならないと感じた。ただ全力で仕事をしている以上、練習の時間はない。そこで、毎日18時間作曲しているのだから、作曲を全部ピアノでやれば毎日18時間ピアノに触れられると考え、ギターでの作曲をやめた。習うことはなく作曲を通じて覚えただけで、「猫ふんじゃった」も弾けないというが、ピアノが弾けるようになるとアレンジも良くなっていったという。

また、1年目に書いた曲が後にリリースされた例もあり、杉山さんは頑張りがいつ認められるかはわからないと話す。当時は進化しているつもりなのになぜ結果が出ないのかと悩みながらも手は動かしていた。5年、10年経つとその経験が本当に良かったと思えるといい、振り返ればあの時期の成績が悪かったわけではなく、結果がたまたまそのとき結びつかなかっただけだと捉えている。

中島美嘉「一番綺麗な私を」で変わった立ち位置

1年近く結果が出なかった後に決まったのが、中島美嘉の「一番綺麗な私を」だった。杉山さんはこの曲で人生が変わったと言い、その理由を「曲のサイズ感」、つまり街のどこを歩いても流れるほど広まったことに求める。

ソニーでは先輩たちの曲がレコード大賞の賞を取ったり、翌年には小倉さんの「やさしさで溢れるように」が大ヒットしたりしていて、先輩の話を聞くのがつらいほどだった。杉山さんは「絶対に勝ってやる」と思い続けていたという。3年目に「一番綺麗な私を」が出て、同じ年に「好きで、好きで、好きで。」が紅白歌合戦で歌われた。ソニー・ミュージックパブリッシングの作曲家の中で末席に近い立場だったが、その顔ぶれで紅白の楽曲になったのはおそらく初めてではないか、と杉山さんは話す。3年目以降は結果で「ずっと1番だった」という。

その後、秋元康さんが生んだアイドルのムーブメントに移行していく。AKB48ではカップリング曲に多く決まり、姉妹グループや前田敦子さんの卒業関連の曲も手がけ、乃木坂46では「制服のマネキン」「君の名は希望」などの結果につながった。

31歳で作曲の新規依頼を断り、路上ライブへ

AKB48に最初に決まったデモで歌っていたのが、後に組むことになる上田さんだった。上田さんは大阪でインディーズのストリートミュージシャンとして活動し、Zeppを埋めるほどの動員があったという。東京に出てくるにあたり、クリエイターではなくアーティストとして一緒にやらないかと誘われた。

杉山さんは実は作曲を始めた頃からアーティスト活動も並行していたが、同じモチベーションの人と出会えず、作曲で日本一になればそれ相応の人と組めるのではと考えて、アーティストになるために作曲家に絞ったのだという。ソニーからは「この子はもう日本一になる」と見られるほどの結果が出ていたが、誘いを受けて「俺はアーティストになりたくて音楽を始めたんだから」と31歳でソニーに辞意を伝えた。新規の曲は書かないが、すでに決まっている曲のフルサイズ化やリリースの対応は責任を持って全部やると伝えたという。

翌日から相方と充電式のアンプを引いて路上ライブを始めた。相方の東京での客は数人からのスタートだったが、半年ほどで数百人が集まり、警察に止められるほどになった。複数のメジャーレーベルから声がかかり、32歳でメジャーデビュー。相方は35歳だった。杉山さんは、ちゃんとやっていればレコード会社の人はちゃんと見てくれると感じたという。

2年でアーティスト契約は切れたが、それは夢を諦める理由にならないとインディーズで続けた。デビュー時にファンに武道館へ連れていくと約束していたため、中野サンプラザの単独公演を押さえたが、コロナ禍で配信中心の形になった。武道館を押さえるにはソールドアウトの実績が必要なため、コロナ明けにツアーを行い、渋谷の会場をソールドさせて武道館も押さえようと、体力と気力のあるうちに挑戦していた。しかし「いろんなことがあって」、活動は3年前に終わったという。

後進のための事務所CoWRITEとスクールCoLAB

アーティスト活動の終盤、専門学校の講演で小野春さんという学生に出会った。母子家庭で育ち、音楽の才能が素晴らしかったが、卒業までに食べられなければ就職すると話していた。杉山さんはその才能が埋もれるのはもったいないと考え、大阪から東京に出てくることを条件に2年間の生活費を負担すると申し出た。

一緒に音楽を始めたが、杉山さんとではキャリアも年齢も違いすぎる。ソニー時代に同世代とぶつかり合える環境があったことが自分にとって良かったため、そういう環境を作ろうと作家事務所CoWRITEを設立した。約2年半で作家は60名ほどになり、そのうち10〜12人ほどは音楽だけで生活しているという。数日前に発表された乃木坂46の次のアルバムのリード曲も、事務所の若手が作ったものだと話している。

事務所には、ソニー時代のほぼ同期である小川さんも「もう一回熱く戦いたい」と加わった。再会の中で、杉山さんの夢だった教育の話になり、スクールを作ることになった。熱意はあるがスキルがまだ足りない応募者が多かったこともあり、単に音楽を学ぶのではなく、仕事にするための音楽を伝える「プロへの最短経路」を目指した。講師は全員現役のプロで、生徒と一緒に悩み並走する形にしたという。CoLABは3か月で開校し、10人強から始まって現在は同時在籍78人ほどになった。

具体例として挙げたのが、2年生で入ってきた関口蒼太さんだ。ギターを半年ほど弾いた程度で入学し、人生最初に作った曲に見どころがあった。昨年リリースされた「モブノデレラ」はオリコン1位を獲得したという。杉山さんは「ちょっと手は入っている」と断りつつ、スクール出身者が結果を出していると話した。

事務所の運営で意識しているのは、作家同士の接点だ。杉山さんが所属していた作家事務所では作家が顔を合わせるのは年1回程度で、たまたまあったライティングセッションで先輩の作り方を知ることができた。その経験から、CoWRITEでは毎月末に勉強会を開き、各自の一押しの曲を爆音で流す。誰にも聞かれないのが一番つらいので、みんなの反応がわかるだけでも次への動機になると杉山さんは考えている。そのうえで、コンペを通すため、商業的に成功するためという観点から杉山さんがフィードバックし、その後の飲み会は事務所が全額負担するという。

4月からはボイストレーニングのスクールも開講する予定だ。歌が上手くなるだけではできることが限られるため、自分でレコーディングし、修正し、簡単な音源化まででき、ライブパフォーマンスにもつなげ、規模が小さい初期にどうファンを獲得するかまで含めて伝えたいという。杉山さんは、全部を自分でやれなければならないわけではないが、一度やってみて理解していることが大事だと考える。例としてインタビューを挙げ、自分もゲストを呼んで拙いながら聞き手をやった経験があるからインタビュアーの気持ちがわかり、気持ちがわかる程度でも一緒に仕事をしやすい人になれると話した。

若い人に伝えたいこと

将来に不安を抱える若い視聴者へのメッセージを求められ、杉山さんはまず、「今日何もできなかった」「理想の自分とはほど遠い」と悩むこと自体を、進んでいると受け止めてよいと話した。そのうえで、悩みを自分の中に閉じ込めず周りに声に出してみること。もし相手が嫌そうな顔をするなら、自分が相手の話を聞くときの姿勢がそうなっていない可能性が高い。聞く姿勢を持ったうえで悩みを共有し、フィードバックをもらったら一度試してみる。これを癖にして色々試していけば、多分変わるという。

杉山さんは、人はモチベーションがあるから動くのではなく、動いているからモチベーションが生まれると考えている。事務所の若手が「絶対結果を出す」と意気込む中、杉山さん自身がこの3年間、毎年100曲ほど書き続けて背中で示してきたという。ただ、さすがに疲れてきたので今は方向転換しようとしているとも明かした。

仕事部屋の公開

動画の最後には杉山さんの仕事部屋が紹介された。まず目を引くのは酸素カプセルだ。働きすぎもあって疲労が抜けない日が多く、「元気には投資すべき」と考えていたところ、同世代のギタリストの友人から「最近元気なんです」と酸素ボックスを勧められて導入したという。杉山さんは「20代の頃の、酒を飲んだ後の感覚に戻れる」と話す。かつては会食の後でも朝まで仕事ができたが、次第にアルコールのダメージを感じるようになり、カプセルでその感覚が戻るという。お酒は飲みたいとのことだ。

機材は作曲家の中ではシンプルな方で、メインで使っている機材の一つは修理中。レコーディングは別のスタジオで行うようになったため、この部屋は曲を作る場所だという。杉山さんはキーボードで弦やチェロなどの音を鳴らしながらパートを一つずつ重ねる様子を実演し、ベースを打ち込み、注文に応じてフレーズを加えると次第に曲らしくなっていくことを見せた。これを細かくビルドアップしていくと、普段聞いている杉山さんのサウンドになるという。