才能もコネもない中で「桃が流れる川」を探し続けた作曲家・杉山勝彦の歩み
新R25チャンネル嵐、乃木坂46、中島美嘉などに楽曲を提供してきた作曲家の杉山勝彦さんは、自分を天才ではないと語る。この回では、偏差値40からの早稲田受験、学生時代にNHK教育番組のテーマ曲を勝ち取った経緯、1年近く曲が決まらなかった時期、31歳で作曲家の仕事を離れて路上ライブから始めたアーティスト活動、そして後進のための音楽事務所とスクールの設立までを振り返っている。聞き手は何度も「それは天才だからできたのでは」と尋ねるが、杉山さんの答えは一貫して「量をやっていた」「チャンスが来る場所を探し続けていた」というものだった。
年功序列への反発と、音楽に出会った高校時代
杉山さんの家は「割と硬い家」で、兄が2人おり、長兄は現在東大の教授を務めているという。兄たちに比べて自分は「箸にも棒にも引っかからない」子どもだったと本人は言う。転機として挙げたのは小学4年生頃の出来事だ。1つ上の兄が仕掛けてきた喧嘩で杉山さんが勝ちそうになったところ、父が止めに入り、理由も聞かずに杉山さんだけを叱った。杉山さんはそこで「年功序列は最悪だ」と感じ、早く生まれた人が偉いという仕組みではない仕事をしようと考えた。それ以来、物事を自分の頭で考えるようになり、ほとんどできなかった勉強もできるようになったという。
音楽に興味を持ったきっかけは中学の修学旅行のバスカラオケだった。歌いたかったMr.Childrenが入っておらず、仕方なく米米CLUBの「浪漫飛行」を歌ったところ女子に喜ばれ、「俺、音楽の才能があるんじゃないか」という「中二病」が始まったと本人は笑う。家で下手なミスチルを歌っていると、兄から「桜井さんはギターを弾きながら歌っているんだから、お前もギターくらい弾け」と言われた。母はピアノの先生で、兄2人は音楽教育を受けていたが、杉山さんだけはそれを拒んでいた。ギターも一度は指が痛いだけで披露する場もないと放り出している。
本気になったのは高校生のときだ。兄に誘われて近所のギター教室の無料見学に行き、上手い先生がマーシャルのアンプで爆音を鳴らすのを聞いて、「人類の怒りを代弁している」ように聞こえたという。こんなに格好いいものがあるのかと感じ、しかも音楽なら年齢が若い者でもヒットを出せる。年功序列への反発と情熱がそこで一致し、高校1年の時点で「あとはこれで食べられるようになるかだけ」と進路を決めた。お金を貯めてギターを買い、抱えたまま寝落ちするほど弾き続けた。
「曲を書けなければ食べられない」という兄の指摘と吹奏楽部
1曲弾けるようになった頃、「これで食っていく」と兄に話すと、「お前は本当にバカだな」と言われ、当時新聞に載っていた高額納税者の一覧を見せられた。B'zの稲葉浩志さんや松本孝弘さん、Mr.Childrenの桜井さんらの名前が並び、兄は「全員作曲をやっている人だ。曲を書けなければこうはなれない」と指摘した。杉山さんはここで、高校在学中にオリジナル曲をバンドでやれる人間になろうと目標を定めた。
音楽の知識がゼロだったため、軽音部のない高校で吹奏楽部に入った。弦楽器やフルートに興味があったわけではなく、ベースパートに入りながらエレキギターやエレキベースばかり練習していたという。それでも、大編成で多くの楽器が鳴る中で、どの楽器がどんな効果を持つか、コンガやティンバレスのようなパーカッションをどう演奏してどこに入れるかを間近で学べたことは、大人になってからでは身につけにくい経験として役立ったと振り返る。
部長まで務めた最後の演奏会では、エレキギターのソロを自分にやらせてほしいと頼み、アドリブも任された。杉山さん本人はエリック・クラプトンのつもりで弾いたが、保護者からは「寺内タケシみたい」と言われた。寺内タケシさんはすごい人だが自分はそのつもりではなかった、という体験から、発信したものが意図どおりに受け取られるわけではないと感じたという。高校時代にはオリジナル曲を3曲作っている。
偏差値40から4か月の早稲田受験
プロになる方法を調べようにも、今のようにネットで何でも出てくる時代ではなかった。そこで杉山さんは「プロをたくさん出しているところに行けばいい」と考えた。当時好きだった女の子がゴスペラーズにはまっており、勧められて聞いたところ格好よく、調べるとメンバーは早稲田大学のアカペラサークル「Street Corner Symphony」出身だった。ほかにも早稲田出身のミュージシャンが多くのサークルから出ていると知り、行き先を早稲田に決めた。
受験勉強の期間は4か月で、偏差値40からのスタートだった。高校の文化祭が9月末に終わるため、受験勉強は10月からと決めていたという。思ったより難しく間に合わないと焦りながらも、なんとか帳尻を合わせた。センター試験の1週間ほど前にその女の子と付き合い始めたといい、「受験期に別れるカップルの逆を行っていた」と語っている。
学部選びには特に動機がなく、建築が格好よく当時ランクも高かったという理由で理工系の建築を選んだが、必修が多く非常に忙しかったため「失敗した」と感じたという。実際には大学にはあまり行かず、学生会館のゴスペラーズが所属していたサークルに入り浸っていた。
アカペラで身につけた「引き算」の感覚
杉山さんはアカペラの経験がアイドル楽曲の制作と相性がよいと考えている。アイドル楽曲の作り手にアカペラ出身者が多いことも理解できるという。アカペラでは同時に出せる音が5つしかなく、リードボーカルとベースを除けば残りは3声だ。その中で和音を構成し、リズムも声で作る。曲をアカペラ用に編曲するときは、何を残し何を声で表現するかを決める「引き算」の作業になる。
アイドル楽曲について杉山さんは「骨格」が重要だと言う。何と何は最低条件として残すかを決め、そこからビルドアップしていく。音楽全体として骨格が良くなければならず、最低限の構成要素がいかにしっかりしているかが問われるという考えだ。その例として、同時発音数がごく少ないファミコン時代の「ドラゴンクエスト」の音楽を挙げ、あの制約の中で良い曲はオーケストラにすると大きな感動を生むと話した。アカペラでそうした感覚を少しつかめたのではないか、というのが本人の見立てだ。
失恋をきっかけに歌詞を学ぶ
大学3年生の頃、3年ほど付き合った恋人と別れた。それまで頑張っても叶わないという挫折をあまり経験してこなかった杉山さんは、「本当に無理なことってあるんだ」と感じた。このつらさを何のプラスにもできないのは嫌だと考え、そこから歌詞を猛勉強したという。当時は友人からも「曲はいいけど歌詞が微妙」と言われていた。
はったりで掴んだNHK教育番組のテーマ曲
歌詞の勉強を始めた頃、後輩から、親戚がNHKの近くで営むアパレル店のパーティーに、NHKの番組音楽を手がける人など業界関係者が来ると聞いた。杉山さんはいつも歌っているメンバーとパフォーマンスの準備をして参加した。何もせずに帰れば何も起こらないし、学生だから失うものもないと考え、「大学生です、余興やります、今流行りのハモネプです」と名乗り出た。ちょうどハモネプの第1回が放送された時期だった。
ゴスペラーズのカバーを披露すると、NHKの番組音楽を担当する女性に声をかけられ、「オリジナル曲は書けるの」と聞かれた。「書けない」と言えば終わると思い、食いつきすぎても負けだと考えて「書けますけど」と答え、名刺を受け取った。録音機材をあわてて買い、説明書を見ながら録音して送ると、「プロとは言えないがセンスはある」と評価され、教育番組で数秒使われた。
しかし数秒では印税にならない。杉山さんが「音楽で食べたいので、ちゃんと仕事にならないと意味がない」と伝えると、相手は「本当にバカね、でもその気持ちはいいわ」と言い、番組テーマ曲のコンペがあれば声をかけると約束した。ただし周りはプロなので絶対無理だとも念を押された。3か月ほど後に実際に話が来た。
杉山さんは、クオリティで勝負すればプロに負けると判断し、「ネタ勝負」に切り替えた。教育番組を一日中見続けると、オープニング曲は綺麗だが当たり障りがなく、インパクトのあるものや歌の入ったものはほとんどなかった。そこで番組名やコーナー名を連呼する、番組に「媚びまくる」歌を作ったところ、面白いという理由で採用された。全国放送の5分番組のテーマ曲だったため、当時個人では難しかったJASRACとの契約もでき、大学4年の終わり頃に印税を得られるようになった。
本人は、話していないだけで空振りも「三国志くらいの長さ」になるほどたくさんあったと強調する。業界関係者に会えば常に音源を渡し、知り合いを紹介してほしいと頼んだ。ゴスペラーズのリーダーの村上さんにも会うたびにオリジナル曲のCDを渡していたが、今思えばアーティストに渡しても意味がなかったと振り返る。CDを持っていなかったとき、埼玉の実家まで片道1時間半かけて取りに戻り、飲み会に戻ったこともあったという。
その後、別の番組の曲も担当し、7年ほど使われたことで学生としてはかなりの収入になった。ただ杉山さんはこれをビギナーズラックで地に足がついたものではないと考え、使わずに貯めておいた。
大学院中退と、1年だけのサラリーマン
大学院に進んだのは、音楽で食べていけるようになるまでの2年間の「延命期間」のつもりだった。しかし研究室でゼミのために徹夜でプログラムを書きながら歌詞も書くような生活では、発表がうまくいくはずもなく、教授に厳しく叱られた。周りに迷惑をかけている、大学院は本気で勉強しに行く場所だと感じ、辞めることにした。ただ、叱られた印象だけを残して去るのは嫌だったため、合宿係を引き受けてテニストーナメントなどで合宿を盛り上げ、終わった直後に退学を申し出たという。
作曲家として独立することは事実上の個人事業主であり、起業と変わらないと杉山さんは考えていた。ビジネスマナーも知らず、営業もできず、音楽に打ち込みすぎてアルバイト経験もない。そこで1年間は必ず社会で働こうと決めた。建築業界では一人前になるのに5〜7年かかるため1年では意味がないと考え、1年目から色々やらせてくれそうな会社を選んだ。株の運用など「変なこと」も含め、様々な業務を経験したという。予備校のスタッフも務めた。
早稲田祭での直談判と佐藤善雄さんのスカウト
会社員時代の早稲田祭で、ゴスペラーズのメンバーとラッツ&スターのベースボーカル・佐藤善雄さんが土曜日に来場していた。本来OBが歌うのは日曜日、土曜日は現役生と決まっていたが、杉山さんは「この瞬間のためにずっとこのサークルにいた」と感じ、「5分だけ時間をくれ」と頼んで歌った。すると佐藤さんから「今の曲を書いたのはお前か」と声をかけられ、曲を持って遊びに来るよう誘われた。
オフィスで曲を聞いてもらうと、佐藤さんは「スーパースターになれるかわからないけど、スターぐらいにはなれるかもよ」と言ったという。コンペに参加させてもらうと、最初の1曲がアニメ「デルトラクエスト」のエンディングに採用された。1回目で決まることは本当にないと杉山さんは言い、今考えるとひやひやするほどアレンジが「ペラペラ」なデモだったと話す。
杉山さんは本来アーティストになりたかったが、佐藤さんから「作曲1本でやるなら最初は大手に行った方がいい」と助言され、ソニーを紹介された。曲を聞いたソニー側はその日からコンペを振ると決めた。そこから杉山さんは1日も休まず、毎日18時間ほど曲を書いていたという。
「桃が流れる川を探しに行き続けていた」
聞き手は、一発でコンペに通り、学生時代から認められていたことを挙げて「天才でなければできないのでは」と問う。杉山さんの答えは「めっちゃやっていた」というものだった。情報もなく、人に頼るのも苦手で、やり方は不器用だったが、量はこなしていたという。
杉山さんは自分の歩みを桃太郎の話にたとえた。川辺で待っていたら桃が流れてきたのではなく、「桃が流れる川を探しに行き続けていた」。山の上から川を見続け、桃らしきものが見えたら駆け降りていく。その桃が佐藤善雄さんの形をしていた、というのが杉山さんの説明だ。
嵐への提供の後、1年近く決まらなかった時期
ソニーでは嵐への提供が決まり、次のコンペでも嵐に決まった。しかしその後、KAT-TUNに1曲決まったあたりから、1年ほど全く曲が決まらなくなった。「本当に聞いてくれているのか」と思うほどだったという。スーザン・ボイルさんへの提供が決まりかけたものの、案件自体がなくなってしまったことも、久しぶりの結果だと思っていた分ダメージが大きかった。
この時期、杉山さんは友人に誘われて練馬の小さなアパートに引っ越したが、音を出した瞬間に3か所から苦情が来た。引っ越したばかりで移れないため、建築で学んだCADで図面を引き、1.5畳のボーカルブースを自作した。「最初で最後の建築学が役に立った瞬間」だという。部屋はブースとパソコンとベッドで埋まり、服を置く場所がないため廊下の太い突っ張り棒に掛けていた。人生で一番心拍が上がったのは、深夜にそれがガシャンと落ちたときだと語る。
毎日のように西友の冷凍うどんを食べていたが、食べられない状態だったわけではない。いつ曲が当たらなくなるかわからないので節約していたのだという。今なら「もっとちゃんと防音物件に住め」と思うと本人は言う。聞き手が長期的な視点を指摘すると、杉山さんは消費的なものを買うのが苦手で、3万円のゲームですらためらうが、スタジオのように多くの人の役に立ち今後の活動に使えるものには遠慮なく投資すると話した。
小倉さんのデモを聞いて変わった曲への向き合い方
結果が出なかった時期に、杉山さんはソニーの同僚で、JUJUの「やさしさで溢れるように」を書いた小倉さんのもとを訪ねた。同僚でも作曲は個人種目なのでライバルだが、小倉さんはとても良い人で、後に一緒に曲を作り乃木坂46にも共作で提供しているという。お寺の中のプレハブのようなスタジオで、「やさしさで溢れるように」のコンペ用デモを聞かせてもらった。
締め切り直前に作ったらしい粗さもあるデモだったが、杉山さんは他人のコンペ用デモで泣きそうになったのは後にも先にもこのときだけだと話す。すでに大ヒットしている曲なのに「これ売れると思う」と口にし、「もう売れてるよ」と返されたという。何が違ったのかという問いに、杉山さんは「小倉さんが生きてきた全てが乗っている」と答えた。そういう向き合い方で音楽を作らなければならない、自分が選ばれなかったのは順当だと感じ、人のせいにしてはいけないと思ったという。
それ以降、簡単に作って良いものができたから出す、ということをやめ、圧倒的に詰めるようになった。選考する側のスタッフも一人の音楽好きであり、時間をかけてデモを聞いてくれる。よくできて思いやりのある曲なら聞いていて楽しいし、そうでなければつらいはずだと杉山さんは考える。「自分はこんなに頑張っているのに」と言わなくなった瞬間に、曲が戦えるようになったと振り返る。
ギターからピアノへの切り替え
先輩との共作の経験も転機になった。先輩たちはみなピアノが上手く、ギターしか弾けない杉山さんは、このままでは勝負にならないと感じた。ただ全力で仕事をしている以上、練習の時間はない。そこで、毎日18時間作曲しているのだから、作曲を全部ピアノでやれば毎日18時間ピアノに触れられると考え、ギターでの作曲をやめた。習うことはなく作曲を通じて覚えただけで、「猫ふんじゃった」も弾けないというが、ピアノが弾けるようになるとアレンジも良くなっていったという。
また、1年目に書いた曲が後にリリースされた例もあり、杉山さんは頑張りがいつ認められるかはわからないと話す。当時は進化しているつもりなのになぜ結果が出ないのかと悩みながらも手は動かしていた。5年、10年経つとその経験が本当に良かったと思えるといい、振り返ればあの時期の成績が悪かったわけではなく、結果がたまたまそのとき結びつかなかっただけだと捉えている。
中島美嘉「一番綺麗な私を」で変わった立ち位置
1年近く結果が出なかった後に決まったのが、中島美嘉の「一番綺麗な私を」だった。杉山さんはこの曲で人生が変わったと言い、その理由を「曲のサイズ感」、つまり街のどこを歩いても流れるほど広まったことに求める。
ソニーでは先輩たちの曲がレコード大賞の賞を取ったり、翌年には小倉さんの「やさしさで溢れるように」が大ヒットしたりしていて、先輩の話を聞くのがつらいほどだった。杉山さんは「絶対に勝ってやる」と思い続けていたという。3年目に「一番綺麗な私を」が出て、同じ年に「好きで、好きで、好きで。」が紅白歌合戦で歌われた。ソニー・ミュージックパブリッシングの作曲家の中で末席に近い立場だったが、その顔ぶれで紅白の楽曲になったのはおそらく初めてではないか、と杉山さんは話す。3年目以降は結果で「ずっと1番だった」という。
その後、秋元康さんが生んだアイドルのムーブメントに移行していく。AKB48ではカップリング曲に多く決まり、姉妹グループや前田敦子さんの卒業関連の曲も手がけ、乃木坂46では「制服のマネキン」「君の名は希望」などの結果につながった。
31歳で作曲の新規依頼を断り、路上ライブへ
AKB48に最初に決まったデモで歌っていたのが、後に組むことになる上田さんだった。上田さんは大阪でインディーズのストリートミュージシャンとして活動し、Zeppを埋めるほどの動員があったという。東京に出てくるにあたり、クリエイターではなくアーティストとして一緒にやらないかと誘われた。
杉山さんは実は作曲を始めた頃からアーティスト活動も並行していたが、同じモチベーションの人と出会えず、作曲で日本一になればそれ相応の人と組めるのではと考えて、アーティストになるために作曲家に絞ったのだという。ソニーからは「この子はもう日本一になる」と見られるほどの結果が出ていたが、誘いを受けて「俺はアーティストになりたくて音楽を始めたんだから」と31歳でソニーに辞意を伝えた。新規の曲は書かないが、すでに決まっている曲のフルサイズ化やリリースの対応は責任を持って全部やると伝えたという。
翌日から相方と充電式のアンプを引いて路上ライブを始めた。相方の東京での客は数人からのスタートだったが、半年ほどで数百人が集まり、警察に止められるほどになった。複数のメジャーレーベルから声がかかり、32歳でメジャーデビュー。相方は35歳だった。杉山さんは、ちゃんとやっていればレコード会社の人はちゃんと見てくれると感じたという。
2年でアーティスト契約は切れたが、それは夢を諦める理由にならないとインディーズで続けた。デビュー時にファンに武道館へ連れていくと約束していたため、中野サンプラザの単独公演を押さえたが、コロナ禍で配信中心の形になった。武道館を押さえるにはソールドアウトの実績が必要なため、コロナ明けにツアーを行い、渋谷の会場をソールドさせて武道館も押さえようと、体力と気力のあるうちに挑戦していた。しかし「いろんなことがあって」、活動は3年前に終わったという。
後進のための事務所CoWRITEとスクールCoLAB
アーティスト活動の終盤、専門学校の講演で小野春さんという学生に出会った。母子家庭で育ち、音楽の才能が素晴らしかったが、卒業までに食べられなければ就職すると話していた。杉山さんはその才能が埋もれるのはもったいないと考え、大阪から東京に出てくることを条件に2年間の生活費を負担すると申し出た。
一緒に音楽を始めたが、杉山さんとではキャリアも年齢も違いすぎる。ソニー時代に同世代とぶつかり合える環境があったことが自分にとって良かったため、そういう環境を作ろうと作家事務所CoWRITEを設立した。約2年半で作家は60名ほどになり、そのうち10〜12人ほどは音楽だけで生活しているという。数日前に発表された乃木坂46の次のアルバムのリード曲も、事務所の若手が作ったものだと話している。
事務所には、ソニー時代のほぼ同期である小川さんも「もう一回熱く戦いたい」と加わった。再会の中で、杉山さんの夢だった教育の話になり、スクールを作ることになった。熱意はあるがスキルがまだ足りない応募者が多かったこともあり、単に音楽を学ぶのではなく、仕事にするための音楽を伝える「プロへの最短経路」を目指した。講師は全員現役のプロで、生徒と一緒に悩み並走する形にしたという。CoLABは3か月で開校し、10人強から始まって現在は同時在籍78人ほどになった。
具体例として挙げたのが、2年生で入ってきた関口蒼太さんだ。ギターを半年ほど弾いた程度で入学し、人生最初に作った曲に見どころがあった。昨年リリースされた「モブノデレラ」はオリコン1位を獲得したという。杉山さんは「ちょっと手は入っている」と断りつつ、スクール出身者が結果を出していると話した。
事務所の運営で意識しているのは、作家同士の接点だ。杉山さんが所属していた作家事務所では作家が顔を合わせるのは年1回程度で、たまたまあったライティングセッションで先輩の作り方を知ることができた。その経験から、CoWRITEでは毎月末に勉強会を開き、各自の一押しの曲を爆音で流す。誰にも聞かれないのが一番つらいので、みんなの反応がわかるだけでも次への動機になると杉山さんは考えている。そのうえで、コンペを通すため、商業的に成功するためという観点から杉山さんがフィードバックし、その後の飲み会は事務所が全額負担するという。
4月からはボイストレーニングのスクールも開講する予定だ。歌が上手くなるだけではできることが限られるため、自分でレコーディングし、修正し、簡単な音源化まででき、ライブパフォーマンスにもつなげ、規模が小さい初期にどうファンを獲得するかまで含めて伝えたいという。杉山さんは、全部を自分でやれなければならないわけではないが、一度やってみて理解していることが大事だと考える。例としてインタビューを挙げ、自分もゲストを呼んで拙いながら聞き手をやった経験があるからインタビュアーの気持ちがわかり、気持ちがわかる程度でも一緒に仕事をしやすい人になれると話した。
若い人に伝えたいこと
将来に不安を抱える若い視聴者へのメッセージを求められ、杉山さんはまず、「今日何もできなかった」「理想の自分とはほど遠い」と悩むこと自体を、進んでいると受け止めてよいと話した。そのうえで、悩みを自分の中に閉じ込めず周りに声に出してみること。もし相手が嫌そうな顔をするなら、自分が相手の話を聞くときの姿勢がそうなっていない可能性が高い。聞く姿勢を持ったうえで悩みを共有し、フィードバックをもらったら一度試してみる。これを癖にして色々試していけば、多分変わるという。
杉山さんは、人はモチベーションがあるから動くのではなく、動いているからモチベーションが生まれると考えている。事務所の若手が「絶対結果を出す」と意気込む中、杉山さん自身がこの3年間、毎年100曲ほど書き続けて背中で示してきたという。ただ、さすがに疲れてきたので今は方向転換しようとしているとも明かした。
仕事部屋の公開
動画の最後には杉山さんの仕事部屋が紹介された。まず目を引くのは酸素カプセルだ。働きすぎもあって疲労が抜けない日が多く、「元気には投資すべき」と考えていたところ、同世代のギタリストの友人から「最近元気なんです」と酸素ボックスを勧められて導入したという。杉山さんは「20代の頃の、酒を飲んだ後の感覚に戻れる」と話す。かつては会食の後でも朝まで仕事ができたが、次第にアルコールのダメージを感じるようになり、カプセルでその感覚が戻るという。お酒は飲みたいとのことだ。
機材は作曲家の中ではシンプルな方で、メインで使っている機材の一つは修理中。レコーディングは別のスタジオで行うようになったため、この部屋は曲を作る場所だという。杉山さんはキーボードで弦やチェロなどの音を鳴らしながらパートを一つずつ重ねる様子を実演し、ベースを打ち込み、注文に応じてフレーズを加えると次第に曲らしくなっていくことを見せた。これを細かくビルドアップしていくと、普段聞いている杉山さんのサウンドになるという。
嵐、乃木坂46、中島美嘉。数々のヒット曲を生み出す作曲家・杉山勝彦さん。杉山さんのご経歴が異色ですよね。早稲田大卒でいらっしゃって
1年間だけサラリーマンやりました。それでソニーに辞めますと。うん。うん。1度は作曲家を辞めた過去も。
その次もまた嵐に曲決まったんですよ。へえ。やってるって思ってたんですけど、そこからしばらく全然曲が決まらなくなっちゃって。友達が練馬のちっちゃいアパートで隣空いたから来ればみたいな感じで、家賃も安かったしで行ったんですよ。でも音、苦情来ないよ。これ歌ってるけどとか言って、で音を出した瞬間3箇所から。
服を置く場所がないから廊下の突っ張り棒の一番ごっついやつでくっつけてやってて。でも人生で1番心拍が上がったのが、深夜にそれがガシャンって落ちた時。あれマジでビビりますよ、本当。毎日西友で買ってきた冷凍うどん食べてましたね。
秋元康さんに天才と言われた作曲家の、選ばれなかった時代とは。曲を生み出すこだわりの仕事部屋も大公開します。
はい、ちょっと2本目もよろしくお願いします。
あの日、僕はこの仕事を選んだ。何でもなかった自分から現在までの軌跡ということで、杉山さんのこれまでの歩みをちょっと深掘らせていただこうかなと思っていて。杉山さんのご経歴が異色ですよね。そうですね。変わってるんじゃないですかね、多分。変わってますよね。早稲田大卒でいらっしゃって、大学院にも行かれた。で、はい。中退しました。
して、その後サラリーマンに一旦なられて。そうですね。株の運用とか変なこと色々やってて、大学院卒の年齢で1年間だけサラリーマンやりました。うん。やって、その時予備校のスタッフ。スタッフ、はい。初めて予備校に行きました、その時。だからあの、すごくこう頭脳派ですよね、とかって聞くのもどうなんだろう。そうなのかな。ま、でも一応客観的に言うとそうかもしれないですね。
はい。そうですよね。で、その後に作家デビューされるっていうことで、こう波があるなと思ったりしていて。どうして今の道を選んだのかっていうのをちょっとまず最初に聞きたいんですけど。はい。作曲家になったきっかけっていうのは、はい、どういうところからなんでしょうか?
割と硬い家で、僕、兄が2人いて、長男が今東大の教授やってるぐらいの硬さなんですよ。え?あ、そうなんですか。すごい優秀。で、ま、すごいすごい優秀で、で、ま、それと比べたらもう全く箸にも棒にも引っかからないのが僕だったんですよ。割と長男を大事にする家っていうか、ま、昔そんな感じだったんですけど、だから別に無理もないし、そんなもんだぐらいな。うん。
ただある時に1個上のお兄さんと、兄弟が、ま、男3兄弟なんで喧嘩になるんですけど、兄が吹っかけてきたんですけど、ま、僕の腕っぷしが良かったから勝っちゃいそうになって、で、それを父が止めたんですよ。で、それは全然普通のことだと思うんですけど、理由聞いて欲しかったんですけど、兄に楯突くとは何事かってやられて、ビシビシってやられて、ええってなったんですよ。で、いや、兄貴から吹っかけてきたんだけどみたいな。
で、なんだよ、年功序列ってと思って、なんか年功序列最悪だなと思って、年齢が早く生まれた人が偉いみたいなんじゃない仕事なって、その小4ぐらいの時に思って、それから物事を自分の頭で考えるようになったんですよ。うん。
それ、ま、小学校のお勉強ですら、ほぼ全くできないってことあったんですけど、割と、ま、その勉強もできるようになって。で、中学校ぐらいの時は賑やかな友達と一緒にいたんで、修学旅行のバスとかカラオケとかです。で、当時ミスチル歌いたかったけど、ミスチルが入ってなくて、ちょっと懐かしいのしか入ってなかった。少し前の絶妙にずれてるのが入ってますよね、バスって。
そう。なんかその中では一番好きな米米CLUBさんの「浪漫飛行」があって、おっと思って、これ歌うわと書いてやって歌ったら、女の子がチヤホヤしてくれたんですよ。で、俺音楽の才能があるんじゃねっていう中二病がスタートしたんですよ。なわけないのにっていう。
それで家で下手くそなミスチルを歌ってたんですよ。そしたら兄が見かねて。兄2人は音楽教育やった人で、僕だけ突っぱねたんですよ。あ、そうなんだ。母親はピアノの先生だった。ええ。いや、お前、桜井さんギター弾きながら歌ってんだから、お前もギターぐらい弾けよとかって言われて渡されたんだけど、弾いててなんか指は痛くなるし、披露する場所もないし、意味ないやと思ってポイってやってたんですよ。うん。はい。
で、高校生のタイミングで、近所にすごいいいギターの先生いるから、見学無料って言うからちょっと1回見に行こうよって兄が誘ってくれて。目の前でいいギターを、そのうまい先生がなんかマーシャルで爆音でこう弾いてるのを聞いた時に、進撃の巨人じゃないですけど、人類の怒りを代弁してるかのような音に聞こえて、やばいやこれと思って。こんなにかっこいいものがこの世界にあるのかと思って。
これだと思って。しかも音楽だったら若い方がヒットしてバーっと。情熱の関係ね、完璧だ、これだ。で、あとは俺の人生で、これで食べられるようになるかだけでいいじゃんと思って。ああ、もう高校生の時に。1年生で決めたんですね、そこは。決まった。だからもうどうやって食べられるかに変わったんですよ。ああ。え、早いですね。
雷に打たれちゃったんですよ。で、ギター貯金して買ってきて、もうそっからもう抱えて寝落ちするぐらいまでずっと弾く、夢中になったんですよ。へえ。
で、1曲弾けるようになったら、大体、ま、中二病の男の子がみんな言うんですけど、俺これで食ってくわって言うんですよ、みんな。無理だろっていう突っ込みあるんですけど。で、それを、ま、僕も同じこと、歴史は繰り返すでやったんですよ。そしたら、いや、無理に決まってんだろうがみたいになり。兄貴にこう、なんかどうやったら音楽で食っていけるかなって言ったら、お前は本当にバカだなって言って。当時新聞にこう高額納税者ってあったんですよ。
B'zの稲葉浩志さん、B'zの松本さんとかこうやって名前あって、Mr.Childrenの桜井さん、サザンオールスターズですけど、並んでて、お前見ろと、これ全員作曲やってる人。うん。なるほど。で、曲書けなかったらこうはなれない。食える確率はやっぱ曲書かなきゃ無理だろうみたいに言うて。うん。曲かって思ったんですけど。
とりあえず高校生中にオリジナル曲をバンドでやれるやつになろうと思って、で、それをやるには音楽の知識ゼロだったんで学ばないとダメだと思って。軽音部とかなかったんで吹奏楽部に入ったんですよ。それで別にでも弦とか弾きたかったわけじゃないし、なんかフルート吹きたかったわけじゃないから、ベースパートに入ってもエレキギターとかエレキベースばっかりやってて。うん。私も吹奏楽だったんですけど、エレキとかって結構あの一部の楽曲しか使わないです。本当にそれ以外何やってたんですか?って思うんですけど。
いや、本当に延々練習した、そればっかやってて、で、将来にやりたいのはこっちだと思って。なるほど。でもいろんな帯域でいろんな楽器が鳴るから、どの楽器がどういう効果があったとか、パーカッションとかも例えばコンガとかティンバレスとか、なんか大人になってから学んだら大変だけど、そういうのを見て学ぶじゃないですか。どうやって演奏して、どういうふうに入るとか。なんでそういうのはすごく役立ったんですけど。
僕はやっぱ最後の演奏会とかでも一応部長までやってたんですけど、エレキギターのソロ弾きたいから、いや俺はなんかソロはエレキにさせてくれみたいな。で、爆音でマーシャルでストラト4つで弾くんだみたいなこと言って。いや、いいよって言って先生がアドリブとかも取れたんで、やったんですよ。僕はエリック・クラプトンみたいなつもりでそれを弾いてたら、なんか父兄のみんなのお母さんがうわってなってくれたんですけど、すごい寺内タケシみたいって。寺内タケシさんはすごいけど、俺寺内タケシさんのつもりじゃなかったんだけどなって。そこでなんか自分が発信したものもその通りに受け取ってもらえるわけじゃないんだなとか、なんか色々感じるものはあったんですけど。
オリジナル曲も3曲作って。うん。へえ。いよいよプロになりたいじゃないですか。どうやったらプロになれるかなと思って。今みたいにネット叩けば何でも出てくる時代じゃないから。あ、わかんない。わかんないですよね。で、そしたらプロたくさん出してるとこに行けばいいと思って。
その当時すごい好きだった女の子がいて、で、その子がゴスペラーズさんにハマってたんですよ。で、これすごいいいから先輩聞いてみなよとか言って。で、聞いたらすげえかっこいいしと思って、で調べたらストリートコーナーシンフォニーっていう早稲田大学のアカペラサークル出身。へえ。あ、そうなんだみたいな。で、それ以外にも小室哲哉さんもそうですし、早稲田出身のミュージシャンっていろんなサークルからこう出てるってのも知ってたんで、え、めっちゃいいじゃんと思って、あ、ここに行けばいいんだなと思って。へえ。先に行って待ってようぐらいでいたんですよ。なるほど。はい。
そんで受験、もう4ヶ月受験で。4ヶ月受験。血反吐吐くぐらい勉強しましたけど。それで受かるのがすごいですよね。偏差値40からの大逆転受験ですよ。なんかリアルビリギャルみたいな。いや、本当です。本当本当にそんな感じでした。
もっと早く見つけることはできなかったんですか?早稲田だって。いや、あの文化祭があったんで。文化祭が華だったんですよ。それは9月の末だったんで、10月からって決まってたんですよ、僕の中での大学受験は。計画があったんですね。そう。そしたら思ったよりむずくて、やばいやんこれ全然間に合わんと思って。うん。うん。うん。
で、まあ、なんとか一応帳尻合わせて頑張ったんですけど、でも1月とかなんかその子とデートとかして。センター試験の1週間ぐらい前で付き合い始めてみたいな。普通なんかセンターのタイミングで付き合ってたカップルが別れるみたいな、言うじゃないですか。逆行ってたんで、世の中に逆行してたんです。でもカウンターの精神がその時からあるんじゃないか。あるんですかね。
それで大学入って。音楽とかこう恋愛とかの事情で行ってるだけで、別に早稲田に入って何を学びたいとかなかったんですよ。うん。うん。で、字面が建築ってかっこいいから。当時、ま、ゼミのあれでランク高かったと思って、ここに行っときゃかっこいいだろうと思って入ったら、クソ忙しくて、めっちゃ失敗したと思って。もうここじゃなかったみたいな。なんで教育にしなかったんだみたいな。
工学部、うん、イメージはありますね。2年で卒業単位ぐらいまで普通に行っちゃうんですよ、みんな。120単位ぐらいまで。ええ、そうなんですか。でも必修が忙しすぎて、3、4年なんかあんまり大学に行けないみたいな。うん。うん。うん。ま、僕はそもそもあんま行かなかったんですけど。うん。学生会館ばっかり行って。何してたんですか?
あのゴスペラーズさんが入ってたサークルに行きました。それがすごい良かったのが、アカペラ出身のクリエイターの方って結構いらっしゃって、〇〇さんもそうなんですよ。京都大学でアカペラやってらして。なんかアカペラって全部歌だけでやるじゃないですか。で、コーラスで合いの手みたいのをやるんですよ。例えば主旋律の歌詞に合いの手みたいなのを。あ。あ、そうそうそうそう。それを言葉で言ったりもするんですよ。あ。それってすごくアイドル文化と相性良くて、アイドルの楽曲のクリエイターが結構アカペラ出身で出るのを結構理解できるみたいな。
うん。何が共通してるというか、活かせるんですか?音を究極まで削る作業じゃないですか、アカペラって。5つしか同時発音できなくて、リードボーカルで1人減ったら、もう1人はま、ベースじゃないですか。あと3つしか声がないから、それでハーモニーを構成したりとか、リズムを声で作ったりするわけじゃないですか。
だから曲を例えばアカペラアレンジする時って、何をどう省くかっていう引き算のあれなんですよね。で、これだけ残して、これを声で表現してってやって、あ、秀逸だねとかっていう感じのものなんで、その引き算の概念は結構役立ってる気はします。
うん。アイドルの楽曲は引き算なんですか?骨格ですよ。何と何は絶対最低条件で残そう。で、そこからビルドアップするみたいな感じで。なんで、ま、アイドルの楽曲はというか、音楽全体がやっぱ骨格が良くないとっていうあれがあるんで。その最低構成要素がいかにしっかりできてるかみたいな。
ファミコンの音楽で、ドラゴンクエストの音楽とか、あんな同時発音が2音、3音しかない音楽なのにすっごい表現良くて。そのファミコンでいい曲って、オーケストラにしたらものすごい感動になったりするみたいなのがあって。だからそういう感覚みたいなのはちょっと詰めたのはあったんじゃないかなと思います。
付き合った子と大学3年生の時に別れちゃったんですよ。3年間ぐらい付き合ってくれてて。で、その時はあんまりにも辛くて。頑張って叶わないってこと、そこまでそういう挫折を経験しないでそこまで来てて。でも男女でもう別れたら無理じゃないですか。で、あ、本当に無理なことってあるんだみたいになって。これがそのまま何にもプラスのことにできないのやだなと思ってて。で、そこでめっちゃ歌詞勉強したんですよ。ええ。
で、歌詞書けてなくて全然。よく、その曲はいいんだけど歌詞がカツは微妙だよなとかって言われてたんですよ、友達にも。ちょうどそれで歌詞勉強し始めたぐらいの時に、ゴスペラーズさんをスカウトした方に僕もスカウトしていただいたんですよ。佐藤。そう、善雄さんですね。あの、ラッツ&スターのベースボーカルの佐藤善雄さんなんですけど。
後輩が、なんか親戚がNHKの近くでアパレルのお店やってるみたいな。で、そこのパーティーがあって、そこによくNHKの音楽とかつけてる人来るよみたいな、音楽業界の方来るよみたいなのがあって。え、行かない?みたいになってたから、あ、絶対行くって言って。で、パフォーマンスできるようにして行こうぜっつって、いつも歌ってるメンバーで行って。
で、行った時に何もやらないで帰ったら何も起こらないじゃないですか。学生だし失うものもないから、すいません、大学生です、余興やりますとか言って。で、今流行りのハモネプですとか言って。ハモネプがちょうど1回目行われたぐらいのタイミングだったんで。で、そのゴスペラーズさんのカバーとかこうやったら、あ、あんたたち本気で音楽やってるのねっつって、そのNHKの音楽つけてらっしゃる方が声かけてくださって。
オリジナル曲書けるのって言われて。え、書けますよとか言って。書けねえって言ったら終わると思って、食いついたら負けだと思って、お、書けますけどとか言って。あ、書ける?じゃあ送ってきてって言って名刺パッてされて。あ、いいんですか?送っちゃいますよ。うんと思って。で、録音機材をあてもなく買って、説明書を見ながらこれでいいのかとか思いながらこうやって録音して、で送ったんですよ。そしたらプロとは言えないけどセンスはあるみたいって言って、テレビで流してくれたんです。へえ。
教育番組で。でも数秒なんで。で、僕はま、あくまで音楽で食いたいじゃないですか。数秒のあれなんで印税入らなかったんですよ。いや違うんすよ、俺音楽で食べたいからって言って、ちゃんと仕事にならないと意味ないんすよとかって言ったら、あんた本当バカねって言って、でもその気持ちはいいわって言われて。女性の方だったんですけど、じゃ次番組のテーマ曲のコンペがあったら話を振ってあげる、でも周りプロだからもう絶対無理だからねみたいな。で、ちょうど3ヶ月後ぐらいにその話来たんですよ。うん。うん。うん。
絶対やろうと思って。でもやっぱ勝つには、普通に勝負したらクオリティで絶対負けてると。うん。あ、プロには。はい。勝てないって。じゃ、クオリティ勝負はやめようと。じゃ、ネタ勝負だと思って。で、ずっと見てたんですよ、教育番組1日中。で、すごい、ま、綺麗な曲とか、可愛らしい曲とかいっぱいあるんですけど、でも基本的にオープニングとかは綺麗だけど当たり障りないっていうか、インパクトあるよとかじゃないのがあって。じゃあ歌がほとんどないから、うん、歌にしようと思って。
で、その番組に媚びまくる歌を作って、もう番組名とかコーナー名とか連呼するようなのを作ったんですよ。そしたら面白いっていう理由だけで採用になって。ええ、すごい。それで当時JASRACで個人で契約するのって大変だったんですけど、一応全国放送の5分番組のテーマ曲だったんで、番組テーマなんで、それ該当してJASRACと契約して印税もらえるようになったんですよ。それ、大学生?大学部の最後ぐらいです。すごいですね。
空振りも本当はいっぱいあるんですよ。言ってないだけで。長くなりすぎちゃうから、三国志ぐらいの長さになっちゃうんで。そういう関係者とかに会ったら、やっぱ常になんか音源を渡したりとか、とにかく業界に近づこうとして。へえ。知り合いの方がいたら紹介してくださいとかっていうのはやってて。今思えばバカなんですけど、そのゴスペラーズの村上さんとか、色々されてるリーダーの方に会うたびにオリジナル曲のCD渡してました。
でもアーティストに渡しても意味ないんよ。レコード会社の人でもないし、事務所の人でもないから。絶対、俺に渡されてもな、これって。で、例えば自分が用意してない時に村上さんがいらして、渡したいけど持ってなくて。でも僕実家が埼玉なんで、往復なんかドアtoドアで1時間半ぐらいかかってたんですよ。だからもう飲み会なんてどうでもいいやと思って、3時間後でもまだ多分いますかって、多分いると思うよって言って、戻って取りに行ってとかやってましたね。
で、その後の〇〇っていう番組の曲をやらせてもらって。で、それ7年間ぐらい使ってくださった。放送印税って割といいので、学生さんにしては結構、ま、いい実入りになったんですけど。周りのバイトやってるのと違う状態の経済状態になっても、何かそれで使っちゃっても、そんなビギナーズラックみたいなもので地に足がついてるわけじゃないし、ダメだなと思って、ま、それプールしてたんですよ。へえ。
で、大学院に入って、初めはその2年間の延命期間、なんとか音楽で食いつないでいけるまでの延命にしようと思ったんですけど。そしたら研究室で、なんかじゃあ明日のゼミのために徹夜でプログラム書きますとか言ってやってながら歌詞書いてたわけで。ほんでゼミのプレゼンなんかできるわけなくて、ですっごい怒られたんですよ、先生に。いやこれはちょっとみんなに迷惑かけてるなと思って。これは辞めるべきだなみたいな。やっぱ大学院って本気で勉強しに行く場所だなと思って辞めたんですよ。
良くない印象を残して辞めたくなくて、合宿行って、合宿係やりますとか言って合宿盛り上げて、テニストーナメントとかやって盛り上げて。ほんでその印象で終わった瞬間に辞めますと言って辞めました。え、すごい。その渡り歩き方がすごいですね、やっぱり。だってゼミで怒られた記憶だけ残して去るの嫌じゃないですか?嫌ですね。後味残りますもんね。はい。
ただ作曲家で独立するって、ま、事実上個人事業主じゃないですか。ま、起業するのと変わんないって、法人格を持ってるかそうじゃないかってだけなんで。別に社会のビジネスマナーのことを知ってるわけじゃないし、簡単な営業すらできない自分で。で、音楽にかけすぎてたからバイト経験とかがあるわけでもないから、いろんなことは未熟だよな、どう考えてもと思って。でもやっぱ1年間は絶対社会で働いた方がいいなと思って。うん。それで1年で決めて、うん、やったんですよ。〇〇も学びたくて。うん。サラリーマン。はい。うん。
それで建築の就職をしても、ま、よく5から7年とかかけて1人前になってくれればいいよみたいな世界で。1年間だけいても何もならないだろうなと思ったんで、それでなんかいろんなこと1年目からやらせてくれそうな会社に入って。
で、その最中、早稲田祭の時に、土曜日の方にそのゴスペラーズのメンバーの方と佐藤善雄さんがいらしてたんですよ。はい。本当はOBは日曜日に歌うって決まってて、うん、で、土曜日は現役生って決まってたんですけど、土曜日にいたんですよ。今この瞬間パフォーマンスするために俺はここのサークルにずっといたんだみたいな。頼む、5分だけ時間くれって言って。うん。
それでやった時に、今の曲書いたのお前かって言って、佐藤さんがスカウトしてくださったんです。半分尻尾振ってんのがバレながらも、そうっすけどみたいな。うん。ちょっと斜に構えて。で、今度曲持って遊びに来なって言ってくださって。行けますかっつって速攻会社に申請出しまして、この日の、この日行きますって。1日でいいんだよって言われて。うん。もう見えちゃってるもん。はい、見えちゃってる。尻尾が見えちゃって、振ってんの。
それでオフィスにお邪魔して曲聞いていただいた時に、お前さ、スーパースターになれるかわかんねえけど、スターぐらいにはなれるかもよって言ってくださったんですよ。え、あのラッツの佐藤善雄が言ってくれてると思って、なんか、うん、もしかしてってなっちゃうじゃないですか。そう。そうですね。やっぱりスーパースターから。あ、アホなんで信じちゃうじゃないですか。
今一応コンペあるからやってみるって言われて。あ、やらせてくださいっつって、で、オフで書いたら、その1曲目は通ったんですよ。へえ。で、アニメのエンディングで、デルトラクエストっていうアニメのやつ。本当ラッキーですよ。1回で取るなんて本当ないんで。どうして受かったとか、あるんですかね。いや、いい曲だったんじゃないですか?いや、そうでした。そうでした。そうでした。失礼いたしました。
いや、でも本当になんか今考えたらヒヤヒヤするぐらいのデモなんですよ。ええ、そうなんだ。あ、曲は割といいんですけど。うん。うん。アレンジとかもやばすぎて。うん。うん。そんなデモ出してくる子いないよ、他にっていうぐらいのまだペラペラだったんですけど。へえ。
お前やるな、1曲で取るなんてさってなって。もう作曲1本でやってくんでって。だ、本当はアーティストになりたかったんですよ。ああ、そっか。その桜井さんの背中見てかっけえなと思ってたんで、佐藤さんのプロデュースでお願いしますってあれで。その会社員を辞めたタイミングで、ま、ご挨拶に行った時に、これ1本でやってくんだったら大手に最初行った方がいいよっておっしゃってくださって。で、ソニーを紹介してくださって。で、曲聞いていただいた時に、この曲が書けるなら今日からコンペ振りますって言ってくださって。
それでもうそっからもう本当に1日も休まず毎日18時間ぐらい曲書いてたんじゃないですかね、多分。いや、でもなんか今までの話聞いてると、どうしてもなんか天才ではないという、その前回のインタビューとちょっとかなり離れてる内容だなと思ってて。やっぱり天才、どんどんコンペをもう一発で通ったりとか、学生時代にこう認められたりとか、佐藤さんに。もうそれってやっぱ天才じゃないとできないんじゃないかなって思うんですけど。
いや、めっちゃやってたんですよ。めっちゃやってたんです。なるほど。量の上でってことで。はい。やり方不器用だったと思うんですけど、情報もなかったし、人に頼るのがすごく苦手だったんで。ああ、でも量はやってましたね、多分、当時から。まだ信じてないんですよ、なんか。だから、だから桃が流れてきたんですよ。なるほど。だから桃を掴んだってことですね。
はい。それが佐藤善雄さんの形してたんですよ。で、ベースボーカル歌いながら桃が。そんなこと言ったら怒られますけど。なんなら桃が流れる川を探しに行き続けてたって話なんですよ。川の〇〇をただ待ってるんじゃなくて、山の上からもう川見続けてて、なんかあれ桃じゃねえかって駆け降りるみたいな。そして割ったら桃太郎が出て、いい曲ができたっていうこと。そうそう。
それで嵐に曲が決まって、そこからあの、もう本当いろんなアーティストさんに途切れることなく続けていくみたいな感じになるんですか?その次もまた嵐に曲決まったんですよ。へえ。
んですけど、そこからしばらく全然曲が決まらなくなっちゃって。へえ。2年目、KAT-TUNに1曲決まって、その後かな。1番決まんなかったのは、1年ぐらい全然決まんなくて。本当に曲聞いてくれてんのかなぐらいな、ああ、気持ちになって。うん。スーザン・ボイルさんっていたじゃないですか。に決まりかけて、でも結局案件自体がなくなっちゃって。久しぶりの結果かなって思ってたところでそうあったんで、結構ダメージがあったんですけど。
今思えば、友達が練馬のなんかちっちゃいアパートで隣空いたから来ればみたいな感じで。うん。で、でも苦情、歌ってるけどと言って、で、音出した瞬間3箇所から。これは絶対ダメだってなって。引っ越したばっかりで引っ越せないじゃないですか。だからボーカルブース自分で作ったんですよ。そうですね。え、どういうことで。1番安いと思って。それが自分で図面、CADとか使えたんで、建築学んで。はい。すごい、そこで活きるんだ。初めて建築学が。そう、最初で最後の建築学が意味あって。
で、1.5畳のボーカルブース作って、その中で根性で録ってたんですけど。まあ、狭すぎて、もう家の中1歩も歩けないぐらいな感じなんですよ。ブースがあって、パソコンとかあって、ま、一応ベッドがあって。なんで服を置く場所がないから、廊下の突っ張り棒の一番ごっついやつでくっつけてやってて。でも人生で1番心拍が上がったのが、深夜にそれがガシャンって落ちた時。あれマジでビビりますよ。あれ本当。エピソードが特殊。
そう、だからもうそれで毎日なんか西友で買ってきた冷凍うどん食べてました。そうなんですね。とは言って、ま、全然食えない状態ではなかったんですけど、でもいつ曲が当たらなくなるかとかわかんないじゃないですか。あ、そっか。だからあらかじめちょっと節制しておこうみたいな感じ。ああ、なるほど。はい。本当無駄だったなって思います、今。もうちょっとちゃんと防音物件住めよって今だったら思うんですよ。
でもなんか極めて客観的で冷静ですよね。未来を見据えてるというか、決して目の前のいいものに飛びつかないって感じありますよね。あ、ちょっとあるかもしんないですね。長い目で見てどうかみたいな。うん。だから消費っぽいものを買うのすごい苦手で。未だになんか3万円のゲームとかを買うのに、いやゲームは時間もったいないかなとかためらっちゃうんですよ。で、ただスタジオを作るとかって、これはみんなのためにすごい役立つし、今後のいろんな活動に使えるとかってなった場合には、もう遠慮なく容赦なくバンって作れるんですけど。すごい。
1番結果出なかった後で出たのが、その中島美嘉さんの「一番綺麗な私を」って曲で。はい。え、あれって人生変わりましたね。それはどうしてですか?やっぱ曲のサイズ感ですね。サイズ感。あの、街のどこ歩いてても流れるぐらいになったんで。
あの曲が。で、それまでソニーで、1年目は山本加津彦さんの、あの「愛の歌」って、その〇〇さんのレコード大賞の新人賞かなとか獲った曲で。その次の年が小倉さんが「やさしさで溢れるように」で。どちらも名曲ですね。もうすごい。それがもう半端なく売れて、先輩の話聞いてんのが辛いぐらいなのを、絶対俺勝ってやるとかもずっと思ってて。で、3年目で僕それだったんですよ。おお、すごいですね。
で、「一番綺麗な私を」と、その年あの〇〇さんの「好きで好きで好きで」が出て、で紅白歌合戦に曲行って。だからそのソニー・ミュージックパブリッシングの作曲家の、多分初期メンの僕、末っ子ぐらいのポジションだったんですけど、そのメンツの中で紅白の楽曲になったの最初だったんじゃないかな。へえ。で、だから3年目からはずっと1番でしたね、僕は。結果。先輩を飛び越えて。はい。
でもやっぱりその結果が出なかった時代、選ばれなかった時代というんですかね。ちょっと前の動画と紐付けると。はい。その時代はどう、それに向き合っていたというか。
「やさしさで溢れるように」書かれた小倉さんのところに最初に遊びに行かしてもらったんですよ。で、何が違うんだろうと思って。同僚であるけど、やっぱ個人種目なんでライバルじゃないですか。ですね。で、でもすごいいい人で、一緒に曲も作って、一緒にあの乃木坂にも提供させてもらったりしてるんですけど。で、その方なんかお坊さんで、なんかお寺の中にプレハブみたいなスタジオになってて、これいいんかいと思いながら。で、そこで一緒に曲作らしてもらったりしたんですけど。
で、小倉さん、あの「やさしさで溢れるように」のデモ聞かしてもらえないですか。いいですよって言ってかけてくれたんですよ。うん。で、それ聞いた時にとてつもない曲に、オーラって言ったら変な話なんですけど、なんですけど、もう多分締め切り直前だったんだろうなっていうような粗もめっちゃあるデモだったんですけど、人のコンペのデモで本当に泣きそうになったのは、後にも先にもあの時ぐらいですね。
もうとっくに大ヒットしてる曲なのに。小倉さん、俺これ売れると思うわって言って。いや、もう売れてるよっていう。めちゃめちゃ売れとるわみたいな。あの時の悔しさったらなかったですね。何が違いましたか?小倉さんが生きてきた全てが乗ってるなと思って。そういう向き合い方して音楽作らないとって思って。選ばれなかったのは順当だなみたいな。これはやっぱレベルが違うなって思いましたね。ああ、そうなんだ。うん。
だから人のせいにしてちゃダメだなって思いましたね。簡単にパッてできて、なんかいいものできた、出そうってやらなくなりましたね。ものすごいそれを詰めるように、圧倒的に詰めるようになりましたね、それから。絶対にこれは評価されるっていう曲を出すっていう。あ、そうですね。
で、少なくとも向こうのスタッフさんも、その音楽を選考する方も、1人の人で音楽ラバーで、すごい時間をかけて我々のデモテープを聞いてくださるわけじゃないですか。うん。で、その時にすごくよくできて思いやりあってって曲だったら聞いてて楽しいと思いますし、なんか逆にそうじゃなかったら辛いと思うんですよ。同じ案件で同じような曲がこう、ただなんか作りましたみたいな。お互いにとって辛いと思ってて。ただ自分でこんなに頑張ってるのにとかって言うんじゃなくなった瞬間に選ばれたと思いますよ、曲が。ああ、そうなんだ。
うん。でも、ま、振り返ると、でもその「好きで好きで好きで」って、僕作曲家1年目の時に作ってたんですけどね。うん。その時に書いてた曲が後で結構認めていただいたというか、リリースされたんですよ。そうなんですか。で、その時の頑張りがいつ認められるかってわかんないって思ってて。
前回の回で、その悩んでることも進んでることって。ま、その時自分は絶対悩んでたと思うんですよ。なんで結構進化してるつもりなのに、なんで1年目より結果出ないんだろうとすごい悩みながらも、ま、手は動かしてたっていうのがあって。でもそれ実はすごく進んでて。5年、10年経ってみると、あの経験は本当に良かったなって思いますね、今。
だからその年が振り返ると成績が悪かったわけでは実はないっていう感じなんですよね。その結果がたまたまその時結びつかなかったのがあった。のがすごく良くて。そのいろんなことを悩んで、色々自分も変えていくじゃないですか。ただ同じことを繰り返しててもダメだとか。うん。
あとやっぱ先輩たちと共作とかをやった時に、みんなピアノ上手だったんですよ。で、僕ピアノは全く弾けない人間だったんで、ギターだけだったんで、ピアノを弾けるようにしなきゃこの人たちと勝負にならないって思ったんですよね。敵は強いぞって思って。でもずっと全力で仕事してるから、それやる時間ないじゃないですか。で考えたんですよ。
どうやったらピアノ1年後弾けるんだ俺はと思った時に、作曲毎日18時間とかやってんだから、ゴリ押しで全部作曲ピアノでやればよくねと思ったんですよ。そしたら毎日18時間ピアノ触れるじゃんって思って。ピアノに移行したんですね。そうなんですよ。ギターで作ってたのをやめて。すごい。それでピアノ結構弾けるようになって、アレンジも良くなってったみたいな。うん。うん。うん。
本当これでしたもん、その時。あ、そうなんですか。はい。習ってないでしょ、僕。もう全部独学で、その作曲でやってただけなんで。そうです。猫踏んじゃったぐらいわかんないけど。猫踏んじゃったも聞いたことない。はい。
そのあとはもう本当に順当に、もう途切れることなく。そうですね。その辺からアイドル全盛というかの時代に移行しつつあったんで。秋元康さんが作られたムーブメントがやっぱあって、で、そっちに移行して。うん。で、初めはやっぱなかなか。今度はAKB48でカップリングとかにはいっぱい決まるんですけど。兄弟グループに。あ、「夢の河」も大好きですね。前田さんの卒業曲とかもやらせていただいて。それで乃木坂に至るぐらいな感じなんですよね。
作曲家としてはもう結構バーっと行ってるタイミングで。ちょうどAKB48に最初に決まったデモも、後にアーティストとして一緒に組む上田剛士が歌ってくれてて。はい。彼ストリートミュージシャンで、1人でインディーズアーティストで、あのZepp埋めるぐらいこうやってたんですよ、大阪で。はい。
で、東京に出てくるからって、で、クリエイターとしてじゃなくてアーティストとして一緒にやらへんかって言ってくれて。僕自身が元々やっぱアーティストになりたくて音楽を始めた人間だったんで。実はその作曲始めた時もアーティストもやってたんですよ、同時に。ただやっぱ同じようなモチベーションの人となかなか出会えなくて、これじゃ叶わないなと思って。じゃあ作曲で日本一になったら、それ相応の人と組めるんじゃねって思って、アーティストになるために作曲家に絞ったんですよ、1回。そういうことだったんですね。
そう。それで「制服のマネキン」とか「君の名は希望」とかあの辺のバーっていう結果になって。で、もうソニーからも、もうこの子もう日本一になるわみたいな。てか多分普通に順当にそうなりそうだなっていうぐらいの結果をやってたんですけど。で、そのタイミングで一緒にやらへんって言ってもらっちゃったもんだから、じゃあやろうっつって。俺はアーティストになりたくて音楽始めてんだからっつって。
で、それで31歳の時ですね。それでソニーに辞めますと。あの新規の曲は書けませんと。で、今までのやつでフルサイズにしてくださいとか、リリース決まったりとか、それを責任持ってやるのは筋なんで、それは全部やらせていただきます。で、次の日からストリートライブに相方と一緒に充電式のアンプガラガラやって。へえ。
ま、今で本当ストリートライブっていうあれですけど、お客さんがその相方の東京の人は数人ぐらいのところから始まって。でも半年で多分数百人ストリートライブに来るぐらいな。だから告知もしてないのに、もう警察に止められちゃうぐらい人が集まるところまで行って。メジャーレーベル数社から声をかけていただいてメジャーデビューが決まって。その次の年の1月29日かな。え、メジャーデビューも。32歳のタイミングでして。うん。へえ。
なるほど。アーティストと考えると確かに遅咲きですよね、そこは。はい。相方35だったんで。そうなんだ。だから、ま、結構夢はあるなっていう。ちゃんとやってたら、そういうレコード会社の人ってちゃんと見てくれんだなっていうのは思いましたね。
で、2年間でアーティスト契約が、ま、切れたんですけど、それは夢を諦める理由にはならないからって言って、インディーズで自力でやろうよって言ってやって。で、武道館にみんな連れてくからってデビューの時にみんなに言ってたんで。中野サンプラザの単独公演を押さえてて、コロナになっちゃって。ま、結局配信っていう形かなで、ま、ほとんど〇〇確か削ってやったんですけど。
武道館を押さえるのにソールドアウトとかできてないと申請ダメなんですよね。じゃ、もう1回コロナが明けるぐらいのタイミングで再トライしようって。ツアーをやって、その後〇〇をソールドして武道館も押さえよう。ま、それをソールドできるかどうかは置いといて、体力と気力と全部あるうちにやろうっていうのをやってたんですけど。ま、いろんなことがあって、結局〇〇を最後やって終わったんですけど。あ、そうなんだ。それが3年前です。
ちょうどそのアーティストの最後ぐらいに、小野春君っていう、専門学校で講演行ってた時に出会った子がいて。で、その子は、ま、母子家庭で、でも音楽の才能が素晴らしくて、この人と音楽をやりたいと思ったんですけど。卒業するまでに食えなければ、ま、就職しようかなと思ってるって言って。え、この才能埋もれちゃうのもったいないなと思って。じゃあ、もう2年間生活費持つからって。うん。〇〇さんの話をして。うん。で、東京出てくるのが条件だよって。大阪の子だったんで。へえ。
それで出てきて、一緒にまず音楽をやろうってやったんですけど。やっぱ僕とだとキャリアも年齢も違いすぎるので。同世代でバチバチする方が絶対僕も良かったんで、ソニーの時に。じゃ、そういう環境を作ろうと思って、作家事務所CoWRITEを作ったんですよ。うん。うん。
それで今2年半ぐらいですけど、で、今60名ぐらい作家がいる状態になって。でも10人ぐらいはそれ1本、音楽で食ってますね。12人ぐらいかな。すごい。へえ。つい数日前に発表された乃木坂の次のアルバムリード曲も、うちの事務所の若手で作った曲ですし。
事務所を作って、ま、色々あの優れた子は集まってくれたんですけど、その中で僕とソニー時代のほとんど同期の小川さんっていう人がいて。その人が来てくれた時に、久しぶりもう1回熱く戦いたいから杉山さんとやりたいんだよって来てくれて。あ、ありがとうございますとかって言って。その久しぶりに再会してる時に、僕、教育は夢だったんですよね。
じゃあスクールやっちゃうっていう風になって。ま、ちょうど色々、なんか熱意はあるけどスキルはまだまだって子がもういっぱい応募してきてたんで。プロに至る最短経路っていうか、ただ音楽を学習するんじゃなくて、仕事にできるための音楽を伝えられるスクールを作れたらいいよねっていう。で、ま、一緒に目指す音楽へ悩んで一緒に並走できる、先生は全員プロの現役の音楽家っていうのを作ろうっていうことで、そのCoLABっていうのを作って。そこから3ヶ月後に開校したんですよ。へ、3ヶ月で作ったんですか?
で、初め10人ちょっとぐらいの生徒さんから始まって、今同時在籍で78人ぐらいの学校になりましたね。1人具体例で、ここ2年生で入ってきた関口内蒼太君っていう子が最初に作った曲で、ま、すごく見所がある曲だったんで。うん。うん。人生最初の曲ですよ。ギター半年ぐらい弾いたことあるぐらいの子ですが入ってきて。昨年リリースされたのが「モブノデレラ」っていう曲で。そうなんだ。オリコン1位を獲得して。なんで、ま、スクール出身で、ま、ちょっと僕入ってますけど、オリコン1位はちゃんと取ってる子も出てるっていう。
うん。いや、なんかちゃんとこう後進も、あの育成する、後輩も育成していくっていうマインドがすごくおありですよね、やっぱり。なんか。そうですね。作家事務所って1年に1回ぐらいしか顔合わせなかったんですよ。うん。
で、ライティングセッションって言って、みんなで集まって曲を作るっていうのがたまたまあっただけで、先輩がどういう風に作ってるのかとか知れたんで、それがあった方がいいなって僕は思ったんで、うちはもう毎月勉強会っていうのを月末に開いてて、みんなのその月に作った一押しの曲を流していくと。爆音で流して。誰にも聞かれないってのが一番辛いんで。
で、聞いてみんなのリアクションが分かるだけでもだいぶ次へのモチベーションになるっていうのと、僕としてはみんな作ったもの素晴らしいんですけど、よりコンペに通していくとか、商業的に成功するためにっていう意味で、僕はフィードバックを皆さんにしていくっていうのをやってて、その後みんなで飲みに行くんですけど、全部事務所持ちで。
へえ。
4月からはボイストレーニングのスクールも新たに開講しようとしていて、ただ歌がうまくなるだけだとできることがすごい限られてて、例えば自分でレックもできる、それを修正もできる、簡単な音源化もできる、しかもライブパフォーマンスにつなげられるとか、例えばちょっとライバー的な要素もあるんですけど、初期のすごい規模が小さい時にどうやってファンを獲得していくのかっていう動きとかも含めて、トータルで教えるっていうか、お伝えするっていうものを作ろうとしてて。
もちろんボイストレーニングが一番メインにはなるんですけど、僕は全部を自分でやれなきゃいけないってことはないと思うんですけど、1回やってみたことがあって理解してるのはすごい大事だと思うんですよね。
インタビュアーの気持ちも、僕は例えばゲストをお呼びして下手くそなりにこうやった経験があったりするから、そうすると気持ちが分かるじゃないですか。
はい。
気持ちが分かる程度でも、仕事を一緒に進めていくのにはものすごく仕事しやすい人になると思うんですよね。
確かに。それがだから杉山さんの選ばれる理由にもなるんだろうなって思って。今若い子たち、自分ってこれからどうなってくんだろうとか、今の自分の才能ってどうやったら開花できるんだろうとかって不安に思って過ごしてる子も、このメディアを見てくれてる人たちにすごい多いんですけど、そういう子たちに改めてこれだけはっていうことを伝えるとしたら、どういうことになりますか?
今日何もできなかった、進まなかったって悩んでる人とかって結構いると思うんですよ。その理想の自分とはほど遠いって。でもその悩むことも本当にまず進んでるって受け止めちゃっていいと思うんですよ。で、その悩んだことを自分1人の中に閉じ込めないで、周りの人に声を出してみる。それで例えばあんまりみんな嫌そうな顔するなとか、そんな悲しいことがあるとしたら、相手の話を聞く時に上手じゃない可能性が高いです。
よく人に自分の話をちゃんと聞いてもらうためには自分も聞く姿勢が必要だとかっていうのがあると思うんで、それをクリアして悩んでたものを人に共有することもできて、で、相手からのフィードバックがあって、それに答えてくれたら1回試してみるっていうのを癖にして、全部色々試していったら多分変わります。
人間のモチベーションって、基本的にモチベーションがあるから僕は動いてなくて、動いてるからモチベーションがあるわけなんですよね。
うん。
例えば若い子が事務所にいっぱい入ってきました。「俺は絶対結果出せるぞ」とか言って啖呵切っちゃうんですよ、先に。そうそう。もう曲書くしかないじゃないですか。そんな一発で決まるわけないから。で、むちゃくちゃこの3年間で毎年100曲ぐらいずつ書き続けて、どうだとかいうのもやってる感じなんですよね。
背中で示して。
はい。でももういい加減に疲れてきたんで、ちょっと今方向転換しようとしてるんですけど。
そうなんですね。でもそれが全部学べるのがCoWRITEなのかなと思います。みんなでそういう共有する時間もあり、自分のことを吟味する時間もあり、その精神というのはこの会社にこれからどんどん根付いていくものなんだろうなと思って。聞かせていただきましたね。
失礼します。
どうぞ。ここが杉山さんのスタジオです。
おお。え、ちょっとこれがおかしいんですよ。
おかしい。え、これは酸素カプセルですよね。
酸素カプセルですね。
これはなぜあるんですか?
これ、働きすぎもあるんですけど、疲労が抜けない日が結構多くて。元気には投資をすべきだと。
すごく。
で、友達のギタリストの佐々木コジロー貴之さんっていう、本当に超一流の方がいるんですけど、その方と色々電話してて、いつも疲れ溜まってないですかみたいな話とか、世代が近いんで言ってたら、「最近僕元気なんですよ」って言って、何それっていう話になって、酸素ボックスいいっすよみたいになって。
今走らせてしまいましたので。
今ちょうど酸素カプセルに入った。
今ね、めちゃめちゃ息切れてるんですよね。いや、ごめんなさい。今日は僕が悪いですよ。僕が鍵を忘れて。
こんな言い方したらあれですけど、20代の酒飲んだ後の感覚に戻れます。
はい。ええ、すごい。それはすごい。
昔はお酒飲んだ後でも仕事バンバンできたんですよ。だからあんまり会食とか恐れず行って、そっから朝まで仕事すればいいやみたいな感覚だったんですけど、だんだんそれがもう無理になってきて。良くないなと思って、やっぱアルコールのダメージ来るなって思ったら、結構それに戻りますね。
でもお酒は飲みたいっていうことですね。
飲みたいです。
是非ちょっとこちらの機材の方も、一番のこだわりポイントみたいなのをあげると。
はい。作曲家の中ではシンプルなやつで、今1個ちょっと一番メインで使ってるものが入院中なんですけど。
ああ、そうそう。
最近もうレコーディングしてる時はさっきのスタジオに行く感じになったんで、曲を作るっていう感じの場所なんですけど、ここでいつも本当にあういですねっていうのをやってる感じです。
ここで結構やってる。
え、ここで。
いろんな楽器の音を、これで鳴らすってことができるんですよね。例えば元だったらこう。とか、チェロだったら、みたいな。普通に今適当なのを弾いたんですけど、こういうのができた時に、それをレコーディングをして、パートを1個1個作っていく。例えばこれに、とか、例えばこう弾いたやつを、こう打たれてるわけですよね。
ベースは、例えばこうやってた。ちょっとこれだとすごい機械的なんですけど。
で、そういうのに例えばちょっと注文必要なんですけど。
おお、何でもやってくださる。
こんないいなんですよって言われたんですけど、例えばこんなっていう風に、こうやると割と曲っぽくなってくるっていう感じの。
いつも聞いてる杉山サウンドです。
これをバチバチにビルドアップして細かいことをやってくと、ああいう感じになるっていう感じなんですけど。
震えてます。すごいものを、インタビューからこんな素敵なところまで見せていただいて、本当にありがとうございます。
今のために2年練習してきました。嘘です。
ギャグセンスも高い。こういう風に作曲家の方が作ってるんだなっていうのをご覧の皆さんも分かったと思うので、本当にいい経験になりました。ありがとうございました。
ありがとうございます。
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