夕張の「医療崩壊」で何が起きたのか:プライマリ・ケア医・森田洋之が語る、病院に頼りすぎない医療

YouTubeで開く ↗
概要

プライマリ・ケア医の森田洋之は、財政破綻で病院が大幅に縮小した北海道夕張市に自ら赴き、医療が減った町で住民の暮らしと健康がどう変わるかを見てきた。その経験から森田は、日本の高齢者医療には過剰な入院や延命的な処置が多く、病院や医療に頼りすぎない地域ケアのほうが人を幸福にすると主張する。本記事では、インタビューで語られた夕張での観察、医師になるまでの経緯、医療業界との対立、そしてコロナ禍で抱いた疑問を順にたどる。

23分で読めます

「何でも診る医者」としてのプライマリ・ケア

森田は医師になって20年あまりになる。専門を尋ねられると「ない」と答えるが、正確には内科の認定医と、総合診療領域のプライマリ・ケア認定医の資格を持っている。森田の説明では、内科は内科一般を指すのに対し、プライマリ・ケアや総合診療は外科、小児科、眼科、精神科まで含めた全体を診る領域である。

昔の町医者には「内科・小児科」と掲げ、精神科や産婦人科まで診る人も少なくなかった。今でも離島や田舎では専門医がなかなかいないため、医師がすべてを診なければならない。森田によれば、世界では医師の半分ほどがプライマリ・ケアに従事しており、日本のように専門医中心が強固なのはごく一部の国だけだという。現在、森田は自分で開業している。

「再生させた」のではなく「観察していた」

インタビュアーは、森田が財政破綻した夕張市の医療崩壊を「再生させた」と紹介した。森田はこれをはっきり否定し、自分はそこで観察していたにすぎないと語る。

森田は横浜出身で、夕張とはもともと縁がない。夕張行きはすべて本人の希望だった。医師になったのが31〜32歳で、研修を終えた5〜6年後なので、36〜37歳ごろのことだという。

夕張市が財政破綻した当時、昼も夕方もワイドショーが1か月ほど報じ続ける大ニュースになった。森田の説明によると、夕張はもともと炭鉱の町だった。九州の炭鉱には元からある町で石炭が採れた例もあるが、夕張は山奥にあり、ほとんど人が住んでいなかった場所に石炭が出たため、最大で12万人ほどが移り住んだ。住民の大半は炭鉱労働者だった。エネルギーの主役が石油に移って炭鉱が閉じると人口は急減し、現在は1万人を切って5,000人ほどになっている。

市は「炭鉱から観光へ」と観光に力を入れたが、それもうまくいかなかった。人口が減れば税収も減るが、支出を減らすスピードが急激な人口減少に追いつかなかった。産業がなくなり、人口が急減し、市は破綻した。借金の半分は国が肩代わりし、残りの半分は時間をかけて返済しており、今も返し続けているという。

171床の病院が19床になった町

森田が夕張に関心を持ったのは、医師になる前に経済学部で学んでいたからだ。財政破綻した町を見てみたくなった。夕張には171床の、そこそこ大きな総合病院的な市立病院があった。しかし運営できなくなり、19床の診療所に格下げされた。市内に病院は1つしかなく、その病床がほぼ10分の1になったのである。財政破綻と医療崩壊が重なり、しかも高齢化率は日本一。この町が今後どうなるのかに、森田は医療と経済の両面から強い興味を持った。

では、夕張で入院が必要な人はどれくらいいたのか。森田はこの問いを「微妙」と表現し、ここに医療の「闇」的な部分があると言う。大けがをした人は夕張では対応できず、札幌に送る。大きな手術もできないので、救急は夕張の守備範囲ではない。寝たきりの高齢者は、病院でなく施設でもよい。そう考えると、171床から19床に減って本当に困るのかが問題になる。

当時の森田のボスは村上先生だった。夕張の医療崩壊を救った人物と言われる医師である。村上先生は、高齢者の多い町に本当に必要なのは病院医療よりも「生活を支える医療」だと打ち出した。森田の説明では、認知症、骨粗しょう症、脳梗塞の後遺症といった老化現象は、医療で対処しても治らない。薬を出して治すふりはできるが、ほとんど治らない。だからといって突き放すのではなく、気持ちを聞いて寄り添い、在宅で過ごしてもらう。何かあればすぐ駆けつけ、訪問看護や在宅医療を入れる。そういう方針だった。

病床はほとんど埋まらず、死亡率も大きくは変わらなかった

普通に考えれば、19床では入院できない人があふれそうに思える。ところが、高齢者や家族と腹を割って話し合うと、病院でも施設でも家でもいいと言われた人たちの多くが「できれば家がいい」と答えたという。そこで、家で過ごしてもらう代わりに訪問看護を入れ、医師が月1回ほど訪問して生活環境を確認し、必要なら薬を出す。そうしていくと、19床の病床はほとんど埋まらなくなった。森田が赴任したときには、19床のうち多くても5床ほどしか使われていなかった。入院していたのは、がんの人、家族が介護できない人、容体の本当に悪い人、骨折した人などである。

医療が撤退したことで健康被害が出たのではないか。森田もそれが気になり、財政破綻・医療崩壊の前5年と後5年で死亡率を比べた。すると、ほとんどの病気で大きな差はなかったという。健康になったというより、病院で管理されずに家に帰れたことで、気持ちの面で健康になった人は多いだろう、と森田は見る。一方ではっきり表れたのは医療費の大幅な低下だった。入院費は高いので、入院しなければ医療費は下がる。

森田はこの点を強調する。村上先生は、経営だけを考えれば19床を満床にしたうえで在宅医療も行えばよかった。しかし満床を決して目指さず、本人と家族がどう暮らしたいかを聞き、在宅なら在宅、施設なら施設、病院なら病院を選んでいった。

なぜ病床は埋まってしまうのか

必要以上に入院させていたのか、という問いに対し、森田は、これは日本だけでなく医療の世界でよく起こることだと答えた。日本は人口あたりの病床数がアメリカやイギリスの5倍あるという。5倍も病人がいるはずはないのに、その病床はほぼ埋まっている。これは夕張と同じ構図だというのが森田の見方である。

入院させる側と入院したがる側の両方に理由がある。病院は満床のほうが利益が出る。スタッフを雇い給料を払っている以上、経営上は満床が有利になる。一方、高齢者の側には、少しでも体調が悪ければ入院したほうがいいという思い込みがある。

森田は、入院は特に高齢者にとって「安心ではない」と言う。コロナやインフルエンザなどの感染症が流行すると、面会制限や外出制限がかかり、人に会えなくなる。転倒してけがをしないよう歩行も禁止され、ベッドで座っているか寝ているよう生活を管理・制限される。歩けないことは高齢者にとって大きなストレスで、安全・安心のつもりで半年入院すると、みんな歩けなくなるという。

在宅でもできる医療、あえてしない点滴

森田によれば、今どき高齢者に入院で行う治療の多くは在宅でも行える。点滴もエコーもできるし、がんの人に麻薬を使うこともできる。ただ、森田自身は在宅で点滴をほとんどしない。治療のための点滴、たとえば抗生剤の投与は必要なら使うが、飲み薬で対処できるなら飲み薬を選ぶ。点滴は管や針のせいでトイレにも行きにくく、生活が制限されるからだ。飲み薬より点滴で一気に入れたほうがよいと判断するのは、年に1回ほどだという。

もう1つが水分補給のための点滴である。老衰で寝たきりになり、食事も水もとれなくなると、家族も医療者も「水分ぐらい足してあげたほうがいい」と考えがちだ。森田は、これは「あまり良くない」と言う。人間は、おそらく動物もすべて、亡くなるときには苦痛がないよう、食べられなく、飲まなくなるようにうまくプログラムされている。食べられないから死ぬのではなく、老衰の過程に食べられなくなるプロセスが組み込まれている、というのが森田の説明である。

そこへ余計な点滴を入れると、足やお腹に水がたまってむくみ、肺にもたまって痰が大量に出る。痰の吸引では鼻から管を気管の下まで入れて吸い取るため、とても痛い。それでも病院では日常的に行われている。組み込まれたプログラムどおりに見守れば、ほとんど医療的な介入をしなくても、苦しまずに、子どもたちに囲まれて笑顔を見せながら亡くなっていく。言葉は少ししか出なくても、聞こえているので会話も少しできる。森田はこれを「本当の老衰」「穏やかな看取り」と呼び、人為的に介入しないほうが絶対によいと言い切る。ただし、これは病院の医師もほとんど知らないことで、自分も知らなかったと認めている。

病院でこれが主流にならない理由として、森田は、患者は病院を安全・安心だと思っており、病院側も入院しているのに何もしないという選択がとりにくいことを挙げた。何もしないなら病院にいる意味がない、という発想になる。もっとも、病院が意図してそう考えているわけではなく、点滴をするのが当たり前になっているのだろうとも付け加えている。普段の医療介入はできるだけ抑え、いざというときにはしっかり対応する在宅医療を行うと、人々の満足度が大きく上がる。それが森田の気づきだという。

「スイッチ」で動いてきた少年時代

森田は現在54歳で、横浜の金沢文庫や金沢八景のあたりで生まれた。父は早稲田を出て日産に勤め、52歳ごろに退職して書道の先生になった。母は専業主婦で、50歳で亡くなっている。3人兄弟の真ん中で、両親、兄弟、祖父母、親戚にも医師は1人もいない。看護師もいない。医者になろうとはまったく思っていなかったという。

子どものころはテストの点が極端だった。算数は何もしなくてもできたが、覚える必要がある理科や社会はだめだった。興味のない話はまったく聞けず、授業も聞けなかった。本人は、今なら発達障害と言われるだろうと振り返る。小学2年生のときにはパンツ一丁で廊下に立たされたという。

転機は小学3、4年生のころだった。みんな野球をしていて、2つ上の兄はエース級にうまかった。自分はレギュラーにもなれずつまらないと感じていたとき、勉強なら兄に勝てるかもしれないと思い、突然「スイッチ」が入った。自分から塾に行くと言い出すと、塾の先生は話がうまく、話を聞けた。成績が上がるのがゲームのようで猛勉強し、渋谷の中高一貫校・駒場東邦に合格した。兄も弟も地元の中学に進んだなかで、自分だけ横浜から渋谷に通った。

合格するとゲームは終わった。中学ではゲームばかりし、中学3年でギターを始めて高校時代はずっとバンドをやった。駒場東邦ではずっと最下位だった。浪人して、同級生たちが東大などに進むのを見て「あいつらが行けるなら」ともう一度スイッチを入れ、一橋大学経済学部に入った。そこでもまたゲーム終了で、まったく勉強しなかった。

「やりたくないことをやらない」努力

大学時代にも、なりたいものはなかった。1つだけあったのは、就職したくないという思いだった。人の話が聞けないので、組織に入って上司の命令を聞くことができない。自分で納得して決めたことは一気にやるが、納得しないで言われたことは一切やらない。

「やりたいことをやれていいね」と言われることについて、森田は、やりたいことをやっているのは確かだが、それ以上に、やりたくないことを断って一切やらないほうに努力してきたと語る。まずマイナスを回避するところから入ったのだという。同級生が銀行、商社、官僚へと就職していくなか、森田は就職活動をまったくせず、学生のほうが何かと有利だからと、最後の単位だけ残して2回留年した。両親は勉強しろとも就職しろとも一度も言わなかったという。

2回目の留年中に阪神・淡路大震災が起きた。暇だった森田は、テレビでは分からない現場を見たいと思い、まずボランティアに行った。ボランティアは1〜2週間で帰されてしまうため、大学に貼ってあった仮設住宅の建設現場のアルバイトに応募し、半年ほど働いた。そこで出会った医師が、医学部という選択肢を示してくれた。一橋を出たのにぶらぶらして肉体労働をしている若者に、医者にでもなれと軽く勧めた程度だったのだろう、と森田は言う。

しかし森田は、医学部ならさらに6年就職しなくて済み、資格があれば組織の論理に縛られず将来独立できると考えた。医者は自分に向いているかもしれないと気づき、また半年ほどスイッチを入れて勉強し、宮崎医科大学(現・宮崎大学)に合格した。このときは父親に「ふざけるな」と言われたという。

インディーズデビューと挫折

医学部に入っても、医師になりたいという気持ちは強くなく、今度はバンドに打ち込んだ。バンド名は「ピッチャーゴロ」。ギターポップや渋谷系の音楽で、大学5、6年生のころにインディーズデビューし、アルバム2枚とシングル1枚を出した。

森田自身は、研修医は一応やりつつ、GReeeeNのように歯科医をしながら音楽を続けるような形ができればと漠然と考えていた。しかしメンバーは全員医学部生で、将来をかけるところまではいかなかった。バンドは大して売れず、3枚目のアルバムも出せなかった。研修が忙しく挫折している暇もなかったが、気持ちとしては「もうダメかな」と思っていたという。

夕張へ行くと決めた理由

研修は初期研修2年のあと内科の研修に進み、その3年目の途中で夕張が財政破綻した。音楽は売れず、医者として生きていくなら何か面白いことはないかと思っていたところだった。病院が潰れて医療が10分の1に縮小した町で、これからは生活を支える医療でやっていくという村上先生が現れた。森田は村上先生の本を読んで大いに盛り上がり、行くことを決めた。

入院や点滴が当然という風潮への疑問は当時からあったのか。森田によると、点滴についての問題意識はまだほとんどなかった。ただ、まったく食べられない人に鼻から管を入れて栄養を入れ、何年も天井を見たままほとんど反応もない。そういう人が6人部屋を全部埋め、それが何部屋もある。こうした医療が本当に人の幸福に役立っているのかという疑問は、研修のころからあったという。

経済学部出身ということもあり、森田には全体を一度把握しないと気が済まない性分がある。イギリスやフランスなどの先進国では専門医療とプライマリ・ケアがはっきり分かれていることも知っていた。大病院の研修で専門医療の世界は5年ほどかけて一通り見たので、次はプライマリ・ケアの世界を見学したい。本人にとっては軽い気持ちだった。当時、上の子は2歳、下の子は生後3か月ほどで、周囲から強く反対されたが、「最終的には1人でも行く」と押し切った。

愛人刺傷事件と突然の院長就任

森田が着任したのは、病院が19床になって1年ほど後だった。医師は多いときで4人ほどで、森田は研修明けのいちばん下だった。在宅医療はすでに始まっていたが、まだ浸透していなかった。大きな病院がなくなった不安は住民にとって大きく、村上先生は夕張市民から激しく攻撃された。森田は「本当にかわいそうだった」と振り返る。

赴任から数年たったころ(森田は4年目だったかと言いつつ、はっきり覚えていないとしている)、村上先生が突然辞めることになる。村上先生は妻子を置いて単身赴任しており、夕張の一軒家に1人で住んでいた。その隣の家に森田一家が住んでいた。村上先生が地方講演で出張している間に、その家で、村上先生の愛人が別の愛人を包丁で刺す事件が起きた。刺された人は命を取り留め、未遂に終わった。NHKや民放各局が押し寄せて森田の家も囲まれ、警察が来て、ドクターヘリも飛んだ。村上先生は責任を取る形で病院を去った。

2番手の医師もすでに辞めていたため、研修明けからまだ年数の浅い森田がいきなり院長になった。そもそも組織が嫌いで、トップになどなりたくなかったが、ほかに選択肢はなかった。さらに院長就任後、警察から、刺した側の女性がこの病院で看護師として働いていたが、免許を確認していたかと問われた。結局、免許は偽造されていたらしい。偽看護師を雇って注射などの医療行為をさせていたことになるため、森田は院長として保健所へ謝罪に行き、反省文のような書類や各種手続きに追われた。刺された人には菓子折りを持ってお詫びに行った。体重は10キロほど減り、妻は夜逃げしようと言うほど心配したという。

そのうえ、隣町で新たに医療機関を始めた村上先生の一派と、夕張に残った森田の一派とで、派閥のようなにらみ合いが始まった。森田は村上先生を嫌いになったわけではないが、周囲からはそう見られた。派閥の具体的な中身は「生々しすぎて言えない」として語らなかった。財政破綻前後のデータを村上先生と一緒に研究するつもりだったが、それもかなわなかった。森田は院長として1年務めたところで限界を感じて辞めた。いちばんきつかったのは仕事ではなく派閥だったという。

在宅医療がどう住民に受け入れられたのかについて、森田は、時間がたてば浸透していったと語る。腹を割って話し、信頼関係を築き、家でも病院でも施設でも最後まで寄り添う。そうした医療は口コミで広まっていったという。

TEDx「医療崩壊のすすめ」と医師会からの反発

夕張を出た森田は九州に戻り、集めたデータを分析して本やレポートにまとめた。最も反響が大きかったのは、夕張を出て2年目ごろに登壇したTEDx鹿児島でのプレゼンテーションだった。タイトルは「医療崩壊のすすめ」。患者や住民の個別事例を示しながら、医療費は下がったが健康度は下がらなかったことを伝えた。

プレゼンの論旨は次のようなものだった。夕張は医療崩壊した特殊な町の事例だが、日本全体も世界一病床が多い。その病床は幸せにつながっているのか。日本は高齢化の先進地であり、これから世界が高齢化していくなかで、病院や医療が減っても医療費を減らせ、健康度は変わらないという高齢化の未来の姿を、夕張は最もよい形で示したのではないか。

反響は大きかったが、医療業界からは「とんでもないやつ」と言われ、特に日本医師会からは強く嫌われていると森田は言う。森田の説明では、医師会は開業医が中心の医師側の代表団体で、政治にも圧力をかけられ、さまざまな利権を持つ。病院がなくても大丈夫だという主張は、その根本を突き崩しかねない。極端に言えば、少なくとも今ある病院の2〜3割はいらないのではないかという話になり、病院が潰されるという議論にもなりかねない。もっとも、ほとんどが民間なので実際に潰されることはないだろうとも森田は言う。具体的な圧力は受けていない。どの組織にも属しておらず、医師会にも入っていないので、圧力のかけようがないからだという。

医師がほとんど介入しない地域ケアへ

九州に戻ってしばらく、森田はフリーの医師として精神科病院や小児の病院など、あらゆる現場を把握するために週1回ずつアルバイトをして生計を立てた。そのなかで、鹿児島の田舎のある地区で、介護のレベルが非常に高い人たちに出会った。夕張では村上先生のもとに訪問看護と介護があったが、そこでは医師はたまに来る程度で、介護施設が地域の人たちと非常に密な関係をつくり、ほぼ介護だけで完結していた。

この人たちと組めば、夕張よりさらに医療のいらない世界ができるのではないか。そう考えた森田は、5〜6年前にその地域で開業した。ほとんど医療が介入せず、家族と地域の人たちと介護職で看取る。江戸時代や明治時代まで、人間はそうして家族と地域で看取ってきた、病院などなかったのだから、と森田は言う。

鼻からのチューブは一切使わず、最期にも点滴をほぼしないので、痰の吸引もほぼない。きれいに枯れていき、最後まで穏やかに、少し会話もしながら亡くなっていく。それで十分に成り立っており、もしかしたら病院より寿命が延びているかもしれない。ただし同じ人で比べることはできないので、比較はできないとも断っている。

森田が描く看取りの場面では、遠くの家族も集まり、妻はずっと声をかけ続け、夫はビールを飲みながら見守り、ときどき声をかけに行く。手でさすり、孫がその辺をわちゃわちゃ走り回っている。外出も面会もできない病院では、こうした看取りはできない。こちらのほうが圧倒的に人間的で幸福度が高いことは「断言します」と森田は述べた。

悪意のない「ビジネス」が生む過剰医療

では、なぜ医療は逆の方向に進んだのか。森田は「医療信仰」だろうと言う。病院のほうが「なんとなく」安心だと思ってしまう。インタビュアー自身も、話を聞く前はそう思っていた。森田も以前はそうだったという。

森田自身は、医師として金を稼ぎたいという気持ちは一切なく、生活できればよいと言う。これに対し、医師のほとんどは「医者なんだから儲けて何が悪い」と思っている、というのが森田の見方である。どの医師も、自分は患者第一で、医療を使っているだけだと思っている。しかし結果を見ればビジネスが入っている。鹿児島県などが静岡県の2倍も病人を抱えているはずがないのに、病床が埋まっている、と森田は指摘する。

ただし、そこに悪意はまったくないとも言う。医師は本当に入院が必要だと思っており、患者も入院したほうが安心だと思っている。だから両者が噛み合っている。ある意味では幸せだが、実際には生活が制限され、高齢者の幸福は損なわれる。この問題はミクロで見るかマクロで見るかでまったく変わる。森田には経済学の素養があるので分かるが、その素養のない医師には一切話が通じないという。

変えるための3つの道

この状況をどう変えるか。森田は3つの方法を挙げた。

1つ目は、若手を育てるなどして医療業界の意識を内側から変えること。しかし森田は、これは厳しいと見る。ビジネス感覚で金銭にモチベーションが向く医師が多く、時代的に仕方ない面もあるが、ビジネスを捨てろと言っても無理だろうという。

2つ目は、国や行政が診療報酬や病床の制度を変えること。これもあまり期待できないと森田は言う。行政は医師会や製薬業界、医療業界と「ズブズブ」で、「マッチポンプ」であり「回転ドア」だからだという。森田の言う回転ドアとは、行政と医療業界のトップが天下りなどで入れ替わり、交流していることを指す。そのため行政は業界に忖度しまくる、と森田は見ている。

3つ目は、市民や患者の意識が変わること。高齢者に限らず、医療にかかれば安心、入院すれば安心というイメージががらりと変わること。これも難しいが、3つの中では最も近道だと森田は考えており、そのために毎日YouTubeを更新し、本を書いているという。

コロナワクチンへの疑問

森田は、行政と業界の癒着の典型がコロナワクチンだと言う。森田はワクチンに反対の立場で、患者に接種せず、自分も接種していない。現場の患者の話というミクロの視点とは別に、データというマクロの視点も見ないと気が済まない、という姿勢から語られた内容は、以下のようなものだった。

まず、当初は接種部位にとどまって全身には回らないと言われていた。しかし森田によれば、ファイザーのレポートに載っているラットの実験では、微量ながら筋肉、目、脳、皮膚などさまざまな臓器にワクチン成分が検出された。なかでも卵巣への集積が突出しており、ほかの臓器が0.いくつという値なのに、卵巣は10を超えていたという。ワクチンがどこに回るかは種類によるが、ファイザーのワクチンは接種部位で抗体をつくるので全身の副作用はほぼないと理論的に言われていた。それにもかかわらず全身に回り、卵巣に多く集まっていた、というのが森田の説明である。

当初、森田はネズミの話であり微量だから大した影響はないと考えていた。しかし2021〜2022年ごろから卵巣がんや死産率が急に増えていると森田は言う。それまで徐々に下がっていた死産率が上がったという。さらに、ワクチン接種が始まってから日本人の死亡数が10万人、15万人と増えているとも述べた。森田はこれらについて、ワクチンとの因果関係ははっきりせず断定はできないが、「かなり怪しい」というのがワクチンに反対する人たちの主な主張だと説明する。国は重大な懸念は認められないと国会で答弁し続けているが、疑わしいなら調べるのが筋だと森田は言う。国が調べない理由については、製薬会社との契約や癒着があるのだろうと推測している。

見切り発車だったかという問いに、森田は「間違いない」と答えた。緊急承認であり、病気が出て1年でワクチンができることは普通ありえない、というのがその理由である。森田は、医学は大きく進歩しているイメージがあるが、次々に出る新薬のほとんどは「ポンコツ」で、統計をとると少し成績がよいという程度のものが多く、個人が実感できるほどの薬はほぼないと言う。新薬は基本的に使わないのが医学の鉄則であり、後からどんな副作用が出るか分からないからだという。例として、薬害エイズや、普通の薬局で売られていたのちに胎児への危険が分かって世界的に禁止されたサリドマイドを挙げた。

森田は、余命が短い高齢者や、免疫力が下がってコロナで亡くなりやすい人がリスクをとって接種するなら、百歩譲って分かると言う。しかし若者まで全員に打たせ、最終的には生後6か月の赤ちゃんまで対象にしたことには強い疑問を示した。そうした声を上げると、国、医師会、製薬会社の「ズブズブ」の仕組みの中で叩かれるのだという。

「目に見えない恐怖」に支配されないために

現在もワクチンは希望すれば接種できるが、ほとんど打たれていないと森田は言う。一方でコロナは今も流行しており、収束したのではなく「ただの風邪になっただけ」だという。森田に言わせれば、最初からただの風邪だった。かつても高齢者は、風邪をこじらせて肺炎になり、毎年10万人以上亡くなっていた。コロナ以降は肺炎が7万人に減り、コロナが3万人増えた。だから何も変わっていないのではないか、というのが森田の見方である。

インタビュアーが、実績とデータに基づいて発言する医師が増えなければ陰謀論として片付けられてしまうのではないかと問うと、森田も同意した。コロナが本当に怖かったのか、ワクチンが本当に効いたのかをきちんと検証しなければ、次に同じことが起きたときに繰り返してしまう。本当に危険なウイルスなら徹底的に対処すべきだが、大したことのないウイルスに過剰に怖がり、過剰に反応してしまうおそれもある、と森田は言う。

森田が強調したのは恐怖の力である。恐怖は人の心を支配し、冷静に考えられなくさせる。もし誰かが国を思いどおりに動かそうとするなら、恐怖で支配すれば簡単に動く。そのことがコロナでよく分かった、と森田は語る。ミサイルや核兵器は目に見えるが、感染症は目に見えないので最も恐怖を与えやすい。目に見えない恐怖がどれほど世界を変えられるかを体験した以上、それをもう一度やりたくなる人が出てきてもおかしくない、と森田は懸念を示した。

孤立と、草の根への期待

夕張の医療崩壊とコロナ騒動を、医師と経済学の両方の視点で見られたことは有意義だったかと問われると、森田はそうだと認めつつ、「逆に孤立しました」と答えた。両方をやった人はほとんどおらず、自分にしか見えていない世界だからだという。医療業界では完全に孤立している一方、理解してくれる少数の医師たちからの支持は非常に熱いとも語る。自分の側が本質だという確信は揺らいでいない。

そのうえで森田は、医療業界や行政に多くは期待できず、草の根から市民の意識を変えることに、せめてもの望みをかけていると述べて話を締めくくった。