元DA PUMP・宮良忍が語る、16歳での母の死、脱退、そして人口700人の小浜島での14年
街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜沖縄県・八重山の小浜島で民宿と船のツアーを営む宮良忍は、1997年にDA PUMPのメンバーとしてデビューした。グループを離れた後、東京生活を切り上げて島へ戻り、14年がたつ。街録chの取材で宮良は、デビュー直前に亡くした母への思い、グループ在籍時に心を病んでいたこと、飲酒運転の事故、そして帰郷後に「芸能界よりハードかもしれない」と感じた島での再出発を語った。取材は旧盆の初日に行われ、終盤には聞き手の三谷が港で溺れかけるという出来事も起きている。
台風で予定が崩れた、宿なしの沖縄取材
取材は予定どおりには進まなかった。聞き手の三谷によれば、翌日に沖縄本島へ台風が上陸する見込みで、石垣島から那覇へ向かう便は欠航が決まっていた。今回の旅では宿を取らず、夜に生配信をして泊めてくれる人を探す計画だったという。以前大阪で一度だけ試した方法で、泊めてくれた人には1万円を払う。石垣島は人口約5万人なのでなんとかなるだろう、と三谷は考えていた。
出発前にはパソコンのOSアップデートに追われ、東京で買った土産を空港でなくしている。石垣島で代わりの品を探したが、どれも「石垣」と書かれていて小浜島の人に渡すには向かない。結局ゴディバを買い、なくしたことも正直に伝えることにした。そのうえで石垣島から小浜島へ向かった。
船「SEAEL」と、民宿を継いで14年
港で出迎えた宮良は、自分の船に取材班を乗せた。船名の「SEAEL」は子どもたちの名前に由来する。長男のセアくんの名前は英語の「SEA」、つまり海にちなみ、次男の名前の「L」を合わせて「SEAEL」とした。この船はクラウドファンディングで約3900万円を集めて購入したフィンランドのボートだという。
宮良は14年前に東京を引き上げ、両親が営んでいた民宿を継いだ。同時に船でのアテンドやシュノーケリングも始めた。小浜島は出身地であり、「ここが僕のふるさと」だと話す。
船好きになったのは子ども時代からだ。小浜島の学校は丘の上にあり、教室の窓から海が一望できた。フェリーが走っていく姿や引き波に憧れて、船にのめり込んだ。遠くを走る船を見て「あれは〇〇号だ」と名前を当てる遊びが流行っていたという。内陸に鉄道好きの子がいるように、小浜島には船好きの子がいた。
島の産業について聞かれると、宮良はサトウキビと畜産を挙げた。後輩が牛のブランドを一つ立ち上げたが、多くの農家は子牛を石垣島のセリに出す。買い付けた人がそれぞれの地方で牛を育て、その土地のブランド牛になる。
船では全開で時速80キロが出る。実際にスピードを上げて見せた先には、潮の引いたときだけ現れる砂州「幻の島」があった。宮良はエメラルドグリーンの海の色も解説した。浅い海域で底が白い砂なので、明るく淡い青に見える。波が立っているリーフの外側は急に深くなるため、色が濃くなる。水深1.3メートルほどの場所もあり、ときどきウミガメが顔を出すという。
「定刻どおり」ではなく、自然に合わせるアテンド
船のツアーは、はじめは民宿のオプションとして始めた。3年前に船が新しくなってからは、宿泊客以外も乗れるようにしている。ただ、じゃらんのようなサイトには載せず、大きく宣伝もしていない。客のほとんどはリピーターとその紹介で、東京時代の仲間が来ることもある。宮良のやり方を理解している人が多いので、やりやすいという。
宮良が言う「やり方」とは、天候に合わせて動くことだ。取材中も遠くに雨雲が見えていて、40〜50分でこちらに来るから、それまでに2人を港へ届けなければと気にしていた。今は何時集合・何時出発とルールが決まっているのが普通だ。しかし宮良によれば、出発を30分ずらせば晴れ間に出会えたかもしれず、その30分で景色は天と地ほど変わる。何度も来ている客はそれを察してくれる。
聞き手が「沖縄時間」という言葉を持ち出すと、宮良は、その言葉はあまり使わないし好きではないと答えた。バラエティ番組が作った言葉ではないか、とも話している。
旧盆の行事と、島へ戻る若者たち
取材日は8月25日で、小浜島ではこの日から旧盆だった。小浜島は伝統行事の多い島で、行事は旧暦に合わせて行われる。宮良によれば、盆は休みではなく、それ自体が一つの行事だ。先祖供養のために島の人が集まり、三線と横笛を鳴らしながら子どもたちも一緒に練り歩く。3日間かけて、各家の仏壇を一軒ずつ回る。宮良の家はこの日の4番目ぐらいで、夜11時ごろに回ってくる予定だった。庭にござを敷いて酒とつまみを並べ、皆で歌って先祖を楽しませる。一軒あたり40分ほどかかる。
こうした行事が今も続いている背景として、宮良はUターンの若者が多いことを挙げた。20代が多く、大学を出て少し働いてすぐ戻る人もいる。宮良の見方では、生まれてから中学3年まで島の伝統芸能を身近に感じて育つので、島を離れると寂しくなるのではないか。宮良自身も、16歳で島を出たあと、夏になると行事の匂いや音を思い出したという。島の人口は700人ちょっとで、戻った若者の多くはサトウキビや畜産、ホテルの設備関係などの仕事に就いている。
船とラジコンに夢中だった少年、ドローンの撮り方
宮良は中学生のころから月刊誌『ラジコン技術』と、ボートの雑誌『パーフェクトボート』を毎月買っていた。その延長でドローンも飛ばしている。船の屋根から離陸させ、片側の青空から始めて、幻の島と砂浜の青空で終わる構図で撮った。雲があるほうがダイナミックになること、光の当たり方や反射を見て角度を決めることを説明しながら、約27秒で撮影を終えた。動画として上げるなら編集なしでこのくらいの長さがいい、と人に渡すときのサイズまで考えているという。
宮良は現在46歳。小学1年までは石垣島で暮らした。両親はもともと小浜島の出身で、宮良が小学1年のときに島へ戻り、民宿を始めた。父は土木の仕事をしていて、民宿は主に母が切り盛りしていた。母は宮良が16歳のころに亡くなり、父が再婚して妹と弟が生まれ、きょうだいは5人になった。
小中学校は全校で60人前後、宮良の学年は5〜6人だった。宮良は冗談まじりに、尾崎豊の歌詞には共感できなかった、ひねくれる隙間がなかったと振り返る。
13歳で見たCHAGE and ASKAの武道館
芸能の夢が芽生えたのは早かった。中学1年のとき、衛星放送で1991年ごろのCHAGE and ASKAの武道館ライブを見た。大好きだった二人の姿に、自分もこの人たちのように武道館に立って歌いたいと思ったのが最初だという。もともと目立ちたがりで、人が喜ぶのが好きな性格でもあった。今も年に1回ほど、東京の沖縄料理店やライブハウスで歌わせてもらっているそうだ。
島で「芸能人になりたい」と言っても、誰も本気にしないので気にもされなかった。宮良にとってはそれがやりやすく、一人で淡々とギターを弾いた。風呂場はエコーがかかって気持ちいいので大声で歌い、5〜6軒先の家まで聞こえていたが、苦情は来なかった。
反対に遭ったのは中学3年の進路相談のときだ。沖縄アクターズスクールに入るために本島の高校へ行くと言って、初めて「無理だよ」と言われた。母はとても協力的だったが、父には心配もあったのだろうと宮良は話す。1歳上の兄は体操の池谷幸雄に憧れてオリンピックを目指し、すでに本島の興南高校へ進んでいた。宮良もそれを追うように本島の高校へ進学し、母と兄、妹、飼い犬とアパートで暮らした。父は民宿のため島に残った。
アクターズスクールで自然にできた4人
宮良が中学生のころ、沖縄アクターズスクールはすでに有名だった。安室奈美恵らのSUPER MONKEY'Sがいて、SPEEDやMAXのメンバーが東京と行き来しながら『夜もヒッパレ』に出ていた時期だったという。男性部門のような区分はなく男性は少なかったが、宮良が入ったときにはKENとYUKINARIがいて、その後ISSAが戻ってきた。4人とも「やんちゃでイケイケ」だったので自然とつるみ、一緒に練習したり遊んだりするうちにグループになっていった。大人に組まされたわけではない、と宮良は強調する。ちゃんと歌えるボーカルはISSAだけだった。
宮良自身は歌手志望だった。ただ、踊りながらの歌とは方向性が違ったし、ダンスも好きだったので、こだわりはなかったという。スクールは当時、国際通りの端にスタジオと事務局があり、最初は週2回ほど通った。男性には入学試験はなかったと宮良は記憶している。全国区になってからはオーディション形式になったのではないか、とも話した。
レッスンは最初から「踊りながら歌う」ことが前提だった。ダンスに加えて、ビートを刻みながらリズムを保って歌う基礎を教わった。年に1〜2回の発表会では、4人で自分たちで曲を選んだ。m.c.A・Tの「Feelin' Good -It's PARADISE-」をいいんじゃないかと選び、振り付けをして披露した。これが後にデビュー曲になる。グループ名が「DA PUMP」に決まったのはデビュー年の1997年初めごろで、それ以前は当時の校長が付けた別の名前があったという。
デビュー決定と、上京1か月前の母の死
定期公演を見に来た当時の事務所社長の平さんが「こいつらいいじゃねえか」と言ったことで、デビューへの道が開けた。4人は何も考えていなかった。宮良は入ってまだ1年半ほどだったが、アンナさんから突然「あんたたちデビュー決まったから」と告げられた。1996年11月に上京して東京でレッスンを受け、1997年6月11日にデビューした。宮良は17歳だった。
上京への気持ちは「よっしゃ」という高揚と不安の両方だった。そこに母の死が重なる。母はがんで、上京の1か月前に亡くなった。
宮良は当時の経緯を細かく語った。沖縄アクターズスクールの公演に4人で出ることが決まった翌日ごろ、病院に呼ばれ、母は余命1週間と告げられた。その1週間後が、ちょうど公演の日だった。母なら「とりあえず行ってこい」と言うだろうと思い、アンナさんにも事情を伝えたうえで公演に出た。出発前には「母ちゃん、ちょっと行ってくるから絶対待っとけよ」と声をかけた。東京から那覇に戻ってすぐ病院へ行くと、家族が集まっていた。「母ちゃん、帰ってきたよ」と言うと、母は一瞬目を開けて宮良の顔と目をしっかり見た。その1時間後に亡くなった。
宮良は、このことでデビューと上京に「いい意味での約束というか緊張感」が生まれたと振り返る。一番夢を応援してくれていた母がとても楽しみにしていたから、頑張らなければいけない。天国から背中を押されているような感覚だったという。他の3人に迷惑はかけられない、弱いところを見せられないという気持ちも、最初の原動力だった。
母は39歳で亡くなった。46歳の宮良はもう母の年齢を越えている。宮良が小学校高学年のころ、母は婦人の主張大会で地区優勝し、石垣の市民会館でも発表した。その原稿が今も残っている。「子どもたちが島を離れる時までは、飽きるほど小浜島の海で毎日泳がせてあげたい」といった内容だったという。一緒にいられた時間は短かったが、今の自分の人としてのベースになっていると宮良は話す。母は優しく、叱るべきところは叱り、子どものために我慢する人だった。旧盆のこの日は、その母が帰ってくる日でもある。宮良は四十九日と納骨を済ませてから、一人遅れて上京した。
新宿の展望台と、フランクすぎた島育ち
メンバーはとても心配してくれた。ただ宮良は、心配をかけたくない気持ちが強かった。レッスンの後には新宿センタービルの展望台へ行き、東京の夜景を眺めた。他の3人にも周りにも見せられない、母を思って泣くことができる唯一の時間だったという。昔から高いところが好きで、悩んだときに見下ろすと気持ちが大きくなれるそうだ。デビュー後も、ときどき通っていた。
本島出身の3人との違いも感じた。島ではご近所が皆知り合いで、誰にでも挨拶する。その感覚のまま、宮良は目上の人にも「どうも、しのぶです」と接していた。礼儀のないフランクさではないが、自由すぎる自分に気づいて改めた場面があったという。
東京では午前にボイストレーニング、午後にダンス、夕方に腹式呼吸のトレーニングと、一日中レッスンが続いた。4人とも高校は中退していて、学校に行くという選択肢は1ミリもなかった。デビュー前はエイベックスが持っていたヴェルファーレで月2回ほどステージに立ったが、無名なので誰にも気にされなかった。デビューが近づくとプロモーションで忙しくなった。宮良によれば、沖縄アクターズスクールが注目され始めた時期で、男性4人組というわかりやすさも注目されやすかったのかもしれないという。
デビュー後の日々、紅白と武道館
デビュー後はスケジュールが詰まっていたが、宮良は「こなしていた」と言う。島育ちで周りをあまり気にしないので、街もぶらぶら一人で歩いた。東京では5〜6回引っ越したが、必ず商店街の近くを選び、カウンターのある店に一人で入ってマスターと仲良くなった。そうした東京のつながりは今も宝物だという。一方で一人の時間も大事にするタイプで、帰りたいときに帰れる店をたくさん見つけていた。
チャートの順位のような数字の目標について、宮良は、自分たちは知らなくていいと考えていた。それは事務所やレコード会社のビジネス側の仕事で、メンバーはレコーディングを終えて「いいのができたね」と喜び合う。オリコン1位に入るかどうかを考えることはなかった。
歌いたい気持ちについては、ISSAというボーカルがいるので特になかったと話す。アルバムでラップをしたり、コーラスで歌ったりした。2000年ごろにはソロプロジェクトがあり、ISSAと宮良がそれぞれアルバムを出した。宮良はこのとき、ミュージシャンに曲を書いてもらったり、BEGINに相談に行ったりした。三線を弾き始め、自分で詞を書く作業もこのとき初めて経験した。
紅白歌合戦には1998年から2002年まで5年連続で出場した。宮良の記憶では、初回は「Rhapsody in Blue」だったという。6年目の2003年に選ばれなかったときも、大きな焦りはなく「あ、そうなんだ」ぐらいだったと話す。
中学1年で抱いた夢だった武道館には、ファーストツアーの初日に立った。幕が開いた瞬間の感動には、母への思いも重なっていた。取材の年の2月には、久しぶりに武道館でCHAGE and ASKAのライブを見た。その1か月後には沖縄アクターズスクールのイベントで、宮良自身がまた武道館のステージに立った。「何とも言えない2月でした」と宮良は振り返る。
沖縄から音楽の才能が生まれる理由
沖縄からなぜ音楽の才能が多く生まれるのか。聞き手の問いに、宮良は「永遠のテーマ」で答えるのは難しいとしつつ、いくつかの仮説を挙げた。アクターズスクールがあったからか。本島に米軍基地が多く、外国の音楽が流れていたからか。BEGINのようにこうした景色の中で育ち、旧盆のような先祖崇拝や家族・島のつながりの文化があるからか。
宮良は、沖縄の人のDNAに「歌って踊れる」ことが刻まれているわけでは絶対にないと考えている。そのうえで、風土的なものではないかと話した。本土とは歴史的背景や文化、伝統が少しずつ違い、交わらない部分があるからこそ個性が出やすいのかもしれない。ただし簡単には言えない、とも付け加えている。
気づかないまま病んでいた日々と、飲酒運転の事故
宮良はその後グループを離れる。1年間休養する形だったが、そのまま戻らなかった。休養中のことはあまり記憶にないという。病んでいたからだ。
聞き手は、不祥事を起こして病んだのか、それ以前から病んでいたのかを尋ねた。宮良の答えは「その前から」だった。理由については、グループなので色々あったとだけ話した。誰かが悪いというより、自分がそこについていけなかった部分もあったという。
宮良が強調したのは、当時の自分が病んでいることに気づいていなかった点だ。後になってスタッフから「あのときお前はもうやばかった」と言われた。病んでいる人はたぶん自分で気づかないまま、一人のときにマイナスへ、マイナスへと向かい、悪循環に入るのだろうと語る。上京したてのころのフランクさも、そのころには失われていた。
事故の前から、心の中にはグループを辞めたいという気持ちがあった。宮良は飲酒運転という「とんでもないこと」で事故を起こしたとはっきり述べ、多くの人に迷惑をかけたと反省を口にした。そのうえで、事故の「おかげで」などとはとても言えないと断っている。一方で、心の隅に「もしかしたらお母さんがそうしてくれたのかな」と、自分で勝手に逃げ道を作ってしまった部分もあったと認めた。
当時の自分に何か言えるとしたら何と言うか。この問いに、宮良は「たぶんない」と答えた。海を見て3日休むといったことをしても関係なかった。時間が必要だったのかもしれない、という。
32歳での帰郷は「逆のデビュー」
脱退から帰郷までの6年ほど、宮良には特に仕事がなく、ときどきライブをする程度だった。このままでいいのかという葛藤は、最後の1年ほど強くあった。帰郷を決めたのは、その前の年の盆に小浜島へ帰っていたときだ。3日目の送り日に、ふと「お母さんが戻ってこいと言っているな」という直感があり、その場で東京を引き上げると決めた。行くときも帰るときもすべて母がきっかけだと宮良は言い、「なんだそれって感じもあるかもしれないけど」と付け加えた。
32歳で戻った島の暮らしを、宮良は「逆のデビュー」と表現する。芸能界よりハードかもしれない、とも言う。理由は伝統行事だ。細かいものを合わせると年に10ほどあり、集まりも多い。方言も使う。説明書はなく、丁寧に教えてくれるわけでもない。自分から聞かないと手探りでしかできない。宮良は後輩に聞きながら、地道に覚えていった。旧盆の期間は前日から30日まで宿を休みにしていて、地元として行事をきちんとやらないと島には住めないという。
帰ってきた当初は「少し見下されている」と感じたと宮良は話す。ずっと東京にいたこいつは何もわからないだろう、という雰囲気があった。ただ、それは覚悟して帰ってきた。島にずっといる人にとって行事は当たり前だが、一度離れると忘れてしまう。それを取り戻す作業は大変で、今もわからないことが多い。これは宮良だけでなく、外へ出て戻った人は皆経験していることで、「俺が戻ったときはもっときつかった」と言う人もいるという。
一方で、良かったこともある。16年間の沖縄生活と16年間の東京生活で、どちらの良さも悪さも知ることができた。そんな人はほかにいないのではないか、と宮良は話す。
帰郷時は独身だった。妻は島外の出身で、小浜島のリゾートホテルのスパでエステティシャンとして働いていた。港で見かけて気になり、声をかけて一緒に飲むようになったという。
民宿の経営も最初からうまくいったわけではない。母がやっていたので何となくは知っていたが、実際には接客も掃除も料理もしなければならない。最初の2〜3年はがむしゃらだった。しっくりくるまでに10年かかったという。
3900万円のクラウドファンディング
3年前、コロナ禍のころ、宮良はフィンランドのボートメーカーAxoparの船を八重山の海に浮かべたいと強く思った。しかし金額が大きい。妻からクラウドファンディングを勧められたが、人からお金を募ることにためらいがあり、2か月ほど考えてから始めると決めた。その後も数か月、文章を考え、「お前は本当にできるのか」と自分と向き合った。自分の軸がぶれたら絶対にできないと思い、やるからには必ず達成すると決めたという。
宣伝はSNSのほか、チラシを作って各地の友人に送り、連絡を取って頼んだ。出だしは一気に伸びたが、中だるみがあり、終了の2〜3日前でも目標の半分に届いていなかった。知人からは「大丈夫?やばくない?」と電話が来た。それでも宮良には妙な自信があり、「大丈夫、絶対大丈夫」と言い続けた。すると、無理だと思っていた周りが「あいつ全然諦めてない」と盛り上げてくれた。最後の2日ほどで2000万円近くが集まり、達成した。
DA PUMP時代に世話になった人たちも応援してくれた。最終夜には、ライブを手がけていたコンサートプロデューサーが「ライブどころじゃない」と言いながら、ずっとクラウドファンディングを気にしていたという。コロナ禍の暗い時期だったので、知人から「最高なイベントだった、ありがとう」と言われたこともあった。支援者は1047人ほど。リターンは原則として無期限にしており、タイミングが合わず乗れていない人も多いので、全員が乗り終えるまで船を綺麗に保つつもりだという。
DA PUMPは、宮良以外にもメンバーが抜けてISSA以外が入れ替わった後、再び紅白に出場した。宮良はそのことを「1ファンとして」喜ぶ。翌年はDA PUMPの30周年で、30年歌い続けているISSAはすごいと話した。今も家族ぐるみで仲が良く、この日も本当はISSAの家族と石垣で1泊する予定だった。旧盆で宮良が動けないため取りやめたという。
これからのこと、子どもたち、島の人の強さ
今後について、宮良は特別な計画はないと話す。子どもは小学4年と2年の男の子。船は新しくなり、宿もようやくしっくりきた。今は毎日、客をどう楽しませるかに集中している。自由人なので、来年あたり何かやりたいことが出てくるかもしれない。出てきたら全力でやればいい、という。
今の望みは、毎日ツアーを事故も怪我もなく終えることだ。客が島を出るとき、少し緩んだ表情で帰ってもらえるように、一日一日を丁寧に締めくくりたい。宮良はそれが意外と難しいとも言う。人間は余裕がないと切羽詰まり、「今の言葉遣い、ちょっとトゲが出ちゃったかな」ということになる。東京で追われる日々の辛さも知っているからこそ、流れるように遊んでもらいたい。食事でも何でも「こうでなければいけない」というルール作りは好きではなく、その人に合った流れを自然に作りたいと話した。
子どもには、普通に育ち、自分が誇れるものを一つでも見つけてくれればいいと願っている。家族が仲良く健康でいられれば十分で、勉強ができなくてもかまわない。芸能界に行きたいと言われたらどうするかという質問には、こう答えた。薄っぺらい熱意ではなく、自分でしっかり決意して報告してくれるなら全力で応援する。身近なことなら「やってみれば」でいいが、あの世界に行くならちゃんと決めてもらう。ただ、どちらにしても自分はノーとは言わないだろう、という。
聞き手は、以前取材した僧侶が「何でもいいから信じるものがある人は強い」と言っていたことを紹介した。宮良は、小浜島の人はその意味で皆強いと応じた。中学3年まで島で聞いてきた行事の音が体に残っていて、それが生きる糧や強さにつながっている。都会では生きる糧を頑張って見つけなければならないときがあるが、島では暮らしを大事にすること自体がすでにそれになっている。「だからみんな元気ですよ」と宮良は語った。
港で溺れかけた聞き手と、命を救った一言
取材後、宮良は取材班の宿を探してくれた。民宿の隣で泊まれることになり、夜の旧盆行事の撮影も後で相談することになった。港の食堂で昼食をとった後、事件が起きる。
港でシュノーケリングをしていた三谷が溺れかけたのだ。港の中は浅いが、船が入るため深く掘られた場所がある。サンゴがありそうな場所を探しているうちに急に足がつかなくなり、4メートルほどの深さの場所へ流された。三谷は、最初はそれほどでもないかもしれないと思ったが、パニックになり、「助けて」と叫び続けたという。宮良はその声に気づかなかった。気づいたのは長男のセアくんだった。駆けつけた宮良は、助けを求めているのが三谷だとわかって驚いたという。三谷はテトラポッドのほうへ流されていて、その先へさらに流されていたら危なかったと振り返った。
宮良は「簡単に人は溺れますからね」と話し、旧盆の間は海に入ってはいけないという言い伝えにも触れた。宿に戻った三谷は、まだ体が震えていると繰り返した。人生で初めての経験で、これからはライフジャケットを着け、人がいる場所で泳ぐと話している。この日の夜8時、取材班は宮良の家で食事をとり、旧盆の行事に同行する約束をした。
紅白はもうデビューしてすぐですか? 紅白はね、98年、99年、2000年、2001年、2002年までかな。1回目はね、確かラプソディ・イン・ブルーかな。
三谷さん、じゃあ一瞬スピード出しちゃっていいですか? いいです。いいですよ。 小浜島が出身地。 そう。もうここが僕の故郷。
元々ね、親がやってた民宿を、僕が14年前に東京を引き上げて、継いだ形。当時僕の母がもう上京する1ヶ月前に亡くなってるので。ガンだったんですけど、1番やっぱ僕の夢をこう応援しててくれたので、母との約束じゃないんだけど、いい意味でのなんかこう約束というか緊張感みたいな。
お母さんがね、すごい楽しみにしてたので、天国からこう背中押されてるような、そんな感じでした。 忍さんがそのDA PUMPを離れることになって、 このままでいいのかなっていう葛藤はやっぱ抱いてましたよ。
で、気づいたらなんか見事に病んじゃって、もう1回ちょっと島に戻ってきて、その時、その時の僕は病んでることに気づいてないんですよ、本人。 うん。 後々スタッフの人に聞いたら「いや、あん時お前もうやばかったよ」とか言われるけど。飲酒運転っていうもうとんでもないことをしてしまった、起こした事故なので。
それで病んでたのは、ちょっと不祥事を起こしちゃって病んだのか、それとも その前から病んでたんですよ。 へえ。
で、そっからまた1からこう、島でのその歩み方をスタートして。最初僕が帰ってきた時は、やっぱり若干こう見下されてるなっていう感はやっぱ感じてたんで、最初の2、3年ぐらいはもうがむしゃらになんかやってた感じでした。
こう病んじゃった時期があったじゃないですか。今思うと、どうしてたら良かったかなと思いますか? あん時の僕にもし言えるとしたら はい。はい。やばあくれてる。
はい。とりあえずやってきました、石垣島。 はい。
今回沖縄出張ってことで、明日本島の方に台風が上陸するらしくて。で、我々は今石垣島にいて、今日取材したら、明日の朝、本当は沖縄の那覇空港に行く予定だったんだけど、その飛行機がもう欠航決定していて、明日何にも予定なく石垣島で1日過ごすことになります。 別にいいわけじゃない。
そう。今はめっちゃいいんだけどね。今回のまた旅はですね、一応宿は取らずに、毎回夜に生配信をして泊めてくれる人を探すっていうのを、1回だけやったことあるんだけど、大阪で。それをちょっと沖縄でやってみたいなって思ってるところです。 はい。
石垣島も調べたら人口5万人くらいいるんで、なんとかなるんじゃないかなって。 いや、でも、まあ、なんとか見つけろ。 なんとか見つけるっていう。一応ね、泊めてくれた人には1万円払うっていう。とりあえずね、今からこの石垣島から小浜島に行きたいと思います。 はい。 じゃあ行きましょう。
とりあえずまず、11、結構欠航してる。 すごい。西表上原、小浜島はオッケー。欠航してない。そやからや山やなんだけど。 1、2、3、4、5、6、7、8。あ、そうだ。8つあるから。やましょうっていう名前、一緒でよろしいですか? ちょっと大丈夫。 1枚にまとめます。
終わらせなきゃいけない編集、結局終わらせられずに来ちゃって。で、いつもデスクトップでやってるからさ。OSをちょっとアップデートしなきゃいけない。 まずアップデートだし。 そうで、羽田でアップデートしきれなくてさ。 うん。 飛行機搭乗する時にノートパソコン広げたまんまの人、初めて見た。 そう。搭乗ギリギリまで、インストールするための新しいOSをダウンロードしなきゃいけなかった。 まだダウンロードしきれてないんじゃないですか?そのOSを。 あ、残り30分。 残り25分で出発だから、いい線のとこまで行けんじゃないかなと思うんだけど。
今日、東京からのお土産をさ、このアップデートの作業に追われてたせいでさ、なくしちゃったんだよね、空港で。 なんか青い袋なくなってるなって。 そう。3つほど買ったんだけどさ。石垣島の特産品を小浜島の人に渡してもな。一応ちょっと探してみる。東京っぽいの。まあ、大丈夫だろ。盗まれないだろ。 ないか。 東京、 東京ちんすこうはさすがに渡せないもん。 懐中とか、っちょとか、かぱこぱエビ、カントリーマアム紫いももある。ブラックサンダー沖縄とか。 これもないわ。むしろ石垣って書いてないものがないわ。なくしたことも含めて説明する。 うん。 まあいいか。じゃ、これゴディバとか渡してみる。意外と現地の人買わない。 ない。 うん。 東京から買ってきたものをなくしましたって正直に言えばいいか。何もないよりいいもんな。 俺沖縄系かな?クール。あ、知ってる?見た。見た。 ゴディバで4680。
じゃあ。 元気中んでこんな色。 ちょっと乳製品っぽい。 乳製品あるでしょ。 あ、美味しい。普通に甘いもん好きな人だったら結構好きかも。
1700。あ、3400円か。 こっちやっぱめっちゃ綺麗な。
あ、すごいな。 初めまして。すみません、街録チャンネルの三谷と申します。 よろしくお願いします。 よろしくお願いします。 もう船すぐそこに止めてあるので。
分かりました。この船あるんですよね。 だからそのフィンランドです。 フィンランドです。調べたですか? なんかクラファンで4000万、3900万。 そう、約3900万です。 は、すげえ。 じゃ、これ乗せていただけるんですよ。嬉しい。
これうちの子供の名前です。 あ、そうなんすかね。 これね、うちの長男がセアって言うんですよ。 ええ、セア君。 で、セアでSEAで、海なんです。で、次男君がELなんで。 へえ。 それでこの船の名前はSEAELっていう。 へえ。SEAEL。 SEAELです。 え、いい名前ですね。
そうです。どうぞ。どうぞ。座ってください。じゃあ一応だけ。あ、すいません。ちょっとそっち水、気をつけてください。
え、忍さん、今は はい。 民宿経営しながらこういうクルーザーで お客さんを海に連れてって ご案内するみたいなお仕事もしてるってこと。 そうです。
元々ね、親がやってた民宿を、僕が14年前に東京を引き上げて、継いだ形で、同時にこういう船の、アテンドというか、シュノーケリングみたいなのをやってて。 うん。 しかも14年になられるんですね、この。 そうですよ。そうなんですよ。
あ、小浜島が出身地。 そう。もうここが僕の故郷。だから小さい頃から、ああいう風にフェリー走ってるじゃないですか。ああいうフェリーをずっと学校の教室の窓から眺めてたんです。学校がね、丘の上にあるので、もう海が全部見渡せて、ああいう風に走っていく船の波しぶきとかかっこよくて、それで船にのめり込んでいった。この船の自由なスタイルが大好き。
え、学校からは海も船も見えるんですね。 見えます。 めちゃくちゃいいですね。 船もね、いろんな種類があるので、その遠くを走る船を見て、あれはすばる号だとか名前を当てるっていうのが流行ってました。
内陸の方だと電車オタクみたいな子たちはいるけど、小浜島だと船オタクがいるんですね。 八重山諸島の中で、小浜島は特徴的には何を推してる? 特産品っていうのはやっぱサトウキビだったりとか。
若いそのUターン組の青年が多くて。 あ、そうなんです。そう。その子たちはみんなもう畜産、牛の方 へえ。 やったりしてて。 これで牛が美味しいんですか? ミファ牛っていうブランドを後輩が1つ立ち上げたんですけど。 ほうほう。 で、それ以外は子牛を石垣島に運んで競りに出して。で、それを買い付けに来た人たちが買ってった地方で育った牛が、その地方のブランドになる。
あ、じゃ、ブランド牛の大元がここにいるんですか? 大元っていうか、まあ、更新になっちゃう。まあまあ、そういうことだと思います。 三谷さん、じゃあ一瞬スピード出しちゃっていいですか?
あ、いいです。いいです。 お、すげえ。あ、いい。 ちょっとこの爽快な感じを。 え、相すね。 全開にすると80km出るんです。 80km。ええ、気持ちいいですね。 ちゃんと捕まっててくださいね。じゃあ1回出しますね。 80km。了解です。 じゃあ行きます。 早っ。 70kmちょいぐらいで。 早かったっすね。あ、あの小さい島は何ですか?
これがね、幻の砂浜っていう、干潮時に現れる、サンドバーみたいな。 へえ。 そんな感じの。 あれ幻の島なんですね。 嬉しい。 めっちゃ遠浅ですね、なんか。 そうなんですよね。今もうこっち1.3mしかないんで、足届いちゃいます。 そうです。 へえ。 たまにね、亀が顔出すんで。 え、本当ですか? そう。
綺麗ですね、海、やっぱ。エメラルドグリーンって言うんですか? 浅い海域で海底が砂地になってるので うん。うん。うん。 余計薄いライトなブルーが。 あ、そうか。全部砂だから、白い砂だから。 砂だ。そう、そう、そう。逆にあそこ波立ってるじゃないですか。 はい。 あれリーフなんですけど、波の奥側は濃いじゃないですか、色が。あそこからもう深くなってるので、深いと色が濃くなる。
この生活、14年やってらっしゃるんですもんね。 14年やってますね。 民宿に泊まりに来た人を案内してるって感じなんですか?このクルーズに。 最初は、始めた当時は民宿のオプションとして始めて、今は船が新しくなって、もう3年経つんですけど、宿泊されてない方もみんな乗れちゃう感じで。そんなに表向きに宣伝してないんですよ。例えばじゃらんとか、そういうのに載っけたりとか。 あ、そうなんですか。 うちはもう大体リピーターさんがもうほぼ。 うん。うん。うん。 プラスそのリピーターさんの紹介だったりとか、あとはその当時東京に行った時の友達、仲間のメンバーが来てくれたりとかするので、僕のやり方を理解してくれてる人が多いので。 はあはあ。 だから僕としてもやりやすいというか。
どういうやり方なんすか?ちなみに。 基本的に、今日でも例えばあそこ雨あるじゃないですか。 はい。はい。はい。 あれがもうあと4、50分ぐらいしたらここにやってくるんで。 あは。 つまり雨になっちゃうな。 そうなんですよ。だからちょっと急いで、あれが来る前に僕は小浜港に2人を届けなきゃいけないとか心配しちゃってるわけです。で、そういうのを何度も来てるお客さんの方っていうのは察知してくれるので、その定刻通りじゃないアテンドの仕方というか、自然に合わせたアテンドの仕方を理解してくれてるので。 へえ。
今ってやっぱどうしても、全部もうルールが決まっちゃってて定刻通りじゃないですか。みんなもう何時集合、何時出発とか。でもそうすると、例えばそれ30分出発をずらしたら、この晴れ間に会えてたかもしれないのに、その30分で うんうん。 天と地の差になっちゃうんですよ、景色が。 うん。うん。 だから、そういうのを理解してくれてる皆様が多いのでやりやすいです。 へえ。
沖縄時間とか言ったりもしますもんね。その時間をそんなにあんまり。 あんま僕はウチナータイムってあんま使わないし、あんま好きじゃないという。 あ、それそうか。それ東京が作った言葉って感じなんですか? いや、バラエティ番組が作った言葉じゃないですか?わかんないです。 そうですね。え、いいです。 はい。
まあ、故郷の小浜島がものすごく伝統行事の多い島なので。沖縄、小浜島とかってもう旧暦で暦読み、そこに合わした行事が多いので。 へえ。 なので、今日8月の25日、 うん。うん。 こっちはね、今日からお盆なんです。 旧盆。 そう、そう。旧盆なんです。今日がご先祖様を迎える日なので。 ああ。
お、休むってことですか?盆の用は? いや、休むっていうよりも、その盆の時ももう1つの行事として色々とやることがあるので。先祖供養のために島の人たちが集まって、三線、横笛で、子供たちが周りを練り歩きみたいな感じで、ご先祖様のいる仏壇のお家をこの3日間をかけて一軒一軒回るんです。今日僕のお家がね、4番目ぐらいです。だから夜中11時ぐらいかな。 夜中11時。 そうです。 に回ってくる。 回ってきます。で、庭に、ござですね。ござ敷いてお酒とかつまみとか並べて、で、そこでみんな歌ってご先祖様を楽しませて へえ。 っていうのを1軒大体40分ぐらいかな。そういうのをやって先祖供養するっていうのがもう昔から。 ああ、そういう文化なんですね。
そうですね。もうそれちゃんと残ってる、続いてるので。若い青年たちももう結構Uターンで帰ってきてる子たち多いので。 はあ。大体Uターンで帰ってくる人って何歳ぐらいの方が多い? 今20代多いですよ。大学出てちょっと働いてすぐ戻っちゃうとか。生まれた時から中学校3年生までに、その島の伝統行事をずっと身近で感じて育ってるわけだから、やっぱ離れた時にそれが寂しかったりとか、そういうのがやっぱ残ってんだろうね。うん。
僕もだから昔ありましたよ。 うん。 16で夏が来ると、その島の行事の匂いとか香りとか音を思い出したりとかして。
人口で言うと何人くらいいるんですか?小浜島は。 700ちょいぐらいかな。 そう、それで皆さん、そのUターンで戻ってくる若者は、 うん。 仕事としてこういう観光業って感じなんですか? いや、大体がね、サトウキビと、畜産がメインで、あとはもうホテルの設備とか。 ドローンとかも飛ばすサービスもしてるんですか?
はい。ラジコンオタクなんで。中1からラジコン技術を買ってたんで。知ってます?ラジコン技術っていう。 え、何そのラジコン技術って? ラジコン技術っていう月刊誌で、もうラジコン専門誌みたいな。 はは。 やつで。それもそうだし、あと中1からパーフェクトボートっていうボートの雑誌も毎月買ってた。 はあ。 本当そういうなんか大好きだったんですよ。だから本当に自然と。 ちょっとドローン飛ばしますか。
お、いいっすか? 飛ばしましょう。ちょっと曇っちゃった。 ここに乗っけて飛ばすんですね。 そう、そう、そう。屋根から。 ああ。 じゃあ飛ばしますね。 あ、お願いします。 離陸。 雲あった方がやっぱダイナミックだったりしますね。 ね、思いました。 で、反対の空も綺麗なので、まずはここの青空から始まって、あそこの青空と砂浜で終わりますでしょ。 へえ、すげえ。 とか、やっぱ周り見て、どの角度が綺麗かっていうのを見ながら飛ばさないと。 この景色見ながら、自分でその作るんですね。 その光の具合とか、反射してる具合とかも全部。 へえ。 回しますね。じゃあもう20秒ぐらいかな。
今、正面の青空入って、で、今度そこの幻の島の青空で、ちょっと上げてあげて、その小浜島の全景を見て、ストップで27秒。動画に上げるんだったら、編集なしでこれぐらいが1番。 すごい。そこまで考えてるんですね。 そこまで。だから人に渡す時のサイズ感とか考えちゃってるから、なんかこうサクっと終わっちゃうんだよね。 すご。へえ。 いい。 本当そういうの大好きだったんすよ。だから本当に自然と。
え、今年齢で何歳になるの? 今46歳です。 生まれた時からこの小浜島ってことなんですか? いや、最初はね、石垣。小学1年生までは石垣島で。親は元々小浜島なんですけど、石垣をもう出て小浜に戻ってきて、親が民宿を始めたのが小学校1年生からで、そっからもうずっと小浜で。で、中学校3年生まで行って、高校1年生から沖縄アクターズスクールに入るために沖縄本島の高校に。 ああ。
最初、小1まで石垣島での暮らしっていうのは、えっと、お父さんそこで何してたんですか?仕事は。 親父はもう土木関係やってて。 そっか。民宿はじゃあご両親が始めた事業なんですね。 そうです。もう大体メインは僕の母がやってたんですけど、僕の母親はね、16の頃にもう亡くなっちゃってるので。で、そっから親父が再婚して、また2人、妹と弟ができて、5人兄弟です。 あ、そういうことなんですね。 そうです。 じゃ、当時3人兄弟で暮らしたってことですか? そうです。 ああ。
小学校の人数って何人ぐらいなんですか? 小中合わして全生徒で今60、当時もそうだけど60前後ぐらいだ。1クラスしかなくて、5、6人。僕の時で6人ぐらいだから、尾崎豊さんの歌詞にあまり共感ができない。ひねくれる隙間がなくて。 やっぱ5、6人だとひねくれる隙間。 ひねくれてもどうなのっていう。 男女でどうな 5、6人の、男4の女3ぐらいでした。
それで、その芸能の夢っていうのは、あのぐらいから芽生えてる感じなんですか? 結構早かったです。中学校1年生の時にはもう。僕、CHAGE and ASKAさんが大大好きすぎて、たまたま中1の頃に衛星かなで、91年のツアーかなんかの武道館ライブが流れてて、それを見て、あ、俺もこの人たちみたいに武道館に立って歌いたいっていうのが、もう1番最初です。
へえ。あ、じゃあ はい。 どっちかっていうとああいう歌だったんですよね。 最初ステージでこうもう気持ちよく歌いたいっていう。あとなんかこう性格的に目立ちたがり屋というか、人が喜ぶのが大好きだったんで。 今もだって、それを活動として年に1回ぐらい。 そうですね、1回ぐらいで東京の方の沖縄料理屋さんとか、ライブハウスとかでちょこっとやらしてはもらってるんですけど。 最初もああいう うん。 歌手の、2人組のユニットみたいなになるのがなんか。 そうだったんですね。
周りの反応とかはどんな感じなんですか?その小浜島で芸能人になりたいっていう。 誰もが無理だと思ってるから、どうせ誰も気にしてこないから、僕的にはやりやすかったですよね。何バカなこと言ってんだよなんてこともなく、1人淡々とギター弾いてやってました。お風呂場がすごいエコーかかって気持ちいいじゃないですか。そこで大声で歌ってて、5、6軒隣の人のうちまでもうよく聞こえてたとか。 どうですか?そういうのにもクレームとか、もう全く来ないような、やっぱのどかな環境ですもんね、きっとね。その夢とかをその馬鹿にする人がいないんですね。
そのやり始めはね。いざそれが中学校3年生になります。進路相談になります。じゃ、高校どうするってなってきた時に、俺はもうそういう世界に行きたいからアクターズスクールに入るとか言うと、その時にようやくこう、無理だよ、何言ってんだよとか、反対とかさ。 そこでざわつくんですね。 ざわつくというか、うちの母親はもうすごい協力的で、すごくもう応援してくれてたんですけど、やっぱ親父としては、心配もあったんじゃないですか。もしダメだったらとか。
上と下の兄弟はどういう感想だったんですか? うちの兄貴も1個上なんですけど、池谷幸雄さんに憧れてオリンピック目指してたので、もう先に沖縄本島の興南高校に夢を追いかけてもう旅立っちゃったの。 はあ。 で、また僕もそれを追うように沖縄本島の高校にして。 そ、お兄さんは下宿してるんですか?どっかに? 最初は興南高校の寮生活で。で、僕ももう小浜島から出て高校、沖縄本島に行くんであれば、母親ももう一緒に来てってことでアパート借りて。僕と母親と兄貴と妹と、あとミッていうワンちゃんと。 親父1人置いて。 お父さん民宿の仕事がある。 そうそう。いや、まあまあ、親父はもうとりあえず置いといて。
アクターズスクールはもう当時有名だったんですか? あ、もう有名でしたよ。僕が中3の頃には安室奈美恵さん、SUPER MONKEY'Sがそろそろかな。もうSPEEDのメンバーとかMAXのメンバーとかがもうちょうど東京行ったり来たりで、なんか夜もヒッパレとかに出てたりとかしてる時ぐらいだったかな、確か。
その時ってなんか男性部みたいなものもすでにあったんですか? そういう分け方はしていなくて、男性もいたんだけどやっぱ少ないし。たまたま僕が入った時には、もうKENとYUKINARIはいて。 うん。うん。 で、その後に元々入ってたISSAがまた戻ってきて。で、自然とグループ作る前から4人がやっぱそのなんかやんちゃっていうか、イケイケだったので、 うん。うん。 4人でつるんで練習したり遊んでたりしてて、もう知らず知らずにこう。
じゃ、DA PUMPは大人から別にお前たち組めってやったわけじゃないの? へえ。 なんとなく自然な形で4人が集まる。 僕が入る前は2人でやってて、で、僕が入って。でもちゃんとした4人でなんかやるっていうのは、もうISSAがちゃんと入ってきて。ちゃんとボーカルが歌えるのはもうISSAだけだったんで。 忍さんはどうだったんですか? 歌やりたかったじゃないですか?最初。 やりたかったけど、どっちかっていうと歌謡曲なんでね。踊ってっていうところでの歌の感じとは方向性がやっぱ違ってたので。でもそれはそれでやっぱダンスも好きだったので、もう何も気にせず、そこはそこでっていう感じで。 はい。そうなんですね。
え、アクターズスクールって当時どこにあるんですか?場所は。 僕が入学した時は、国際通りの端の方です。スタジオがあって、校長室も事務局も。最初は週2ぐらいだったかな。 うん。うん。 で、通ってて。 それってなんか試験とかあるんですか?その入る上で。 男に関してはまだなかったんじゃないかな、誰でも。でもその後にやっぱりアクターズスクールがもう全国区になってからは、やっぱそのオーディション形式になったと思うんですけど、僕らの時はまだ。 だから特に試験とかなかったんですね。 特になかったですね。
ダンスを普通にレッスンしてくれるんですか? ダンスのレッスンもそうなんだけど、ビートの打ち込み方とか、そういうなんか基礎的なリズムをこうちゃんとキープしながら歌う。 もう最初から踊って歌うっていうレッスン。 もう、もうありき。そうそう、そうなんです。 はあ。 やっぱ発表会ってあるので、年に1、2回ぐらいかな。その公演の時とかに、4人になった時も自分たちで曲を選んで、M.C.A・Tの『Feelin' Good -It's PARADISE-』っていう曲を、4人であの曲いいんじゃねって選んで振り付けをして、それをやって。で、それが後々デビュー曲になった。
『Feelin' Good』って元々はM.C.A・Tさんの楽曲で。 DA PUMPって名前になるのがいつですか? デビューが97年の6月11日で、97年のそれこそもうギリギリ頭ぐらいに決まったんじゃないかな、多分。 アクターズスクール自体は、また別の名前があったんですよ。 お、なんて名前だったんですか? 当時のアクターズスクールのマキノ校長が、ビザキットっていう名前をつけて。 早みたいな。 なぜそうだったのかちょっとわかんないですけど。 ああ。
え、97年、忍さん何歳ですか? 17歳です。定期公演っていうのが年に1、2回やってて、その公演に当時の事務所の社長の平さんが見に来てくれた時に、こいつらいいじゃねえかってなった。 てからがですね、 そっから。そう、行けるぞってなったんですね。その先が見えたというか。 いや、でも僕らはその一切考えてなかったので。まだまだ全然、僕なんてまだ入ってそれこそ1年半ぐらいしか経ってないし。いきなりアンナさんから「あんたたちデビュー決まったから」。 上京する前に、デビュー決まったからって感じなんですね。 決まったからって言われて、デビュー前から上京して、また東京でレッスンして。 へえ。
え、それ忍さんはどんな感覚なんですか?八重山諸島とか中の方に来て はい。 まだ1年ちょっとで、ちょっとやっと暮らし慣れてきたかなぐらいじゃないですか? いや、でも僕の場合はよっしゃって感じでしたよ。不安もあったけど。当時僕の母がもう上京する1ヶ月前に亡くなってるので、やっぱそういうのも重なったりして、母との約束じゃないんだけど、もうこの夢は絶対にこう達成したいっていう。だからもしかしたら他の3人とはちょっと違う気持ちというのはあったかもしれないです。 お母さんご病気だったんですか? ちょっとね、ガンだったんですけど、1番やっぱ僕の夢をこう応援しててくれたので、
まあ、そういうこともあって。未だに覚えてますよ。沖縄アクターズスクールの小だ公演っていうのがあって、 うん。うん。 で、僕たち4人もそこに出るっていうことで。その次の日ぐらいに病院から呼ばれてお母さんのとこ行ったら、もうあと1週間みたいな。小場公演のその1週間後っていうのがドンピシャになっちゃって。 うん。うん。 で、まあ、自分の母親だから、 うん。 もうとりあえず行ってこいって言ってくれるだろうなっていうのはもう思ってたし。で、それで、アンナさんにも一応事情は伝えて、一応もう母が1週間って言われてるんですけどって。まあアンナさん確かあの時ね、もうこれはもう忍が決めなっていう感じだったんですけど、まあ結局僕はもう行って。 うん。
で、東京から那覇に戻り着いて、そっからもう病院行った1時間後に亡くなっちゃったんです。だから行く前に、母ちゃん俺ちょっと行ってくるから絶対待っとけよみたいなこと言って。で、もう病院行ったらもうみんな集まってて、まあもちろん目も開けないですよ、それはもう。 うん。 で、母ちゃん、もう母ちゃん、帰ってきたよっつったら、もう一瞬目を開けて、もうしっかり僕の顔と目を見てくれて、で、そっからもう1時間後に亡くなっちゃったんですけど。 うん。 まあ、そういうのもあったので、なんかこうちょっとデビューっていうことに対してと、上京するっていうことに対しては、いい意味でのなんかこう約束というか緊張感みたいな。
うん。 あとは他の3人に迷惑はもうかけられない、弱いとこを見せられないとかいうモチベーションでしたね、最初は。 そうだな。もう絶対成功させてやるっていうもう気持ちあるんですね、その時にはもう。 お母さんがね、すごい楽しみにしてたので。もちろん自分本位での、やっぱそういう世界に行きたいとか、夢になりたいっていうのもあったんだけど、とりあえずもう頑張らなきゃいけないっていう。もう天国からこう背中押されてるような、そんな感じでした。 年齢で言うと何歳?
39です。 若い。 もう僕46なんで、もう越しちゃったんですけど。 そっか、早すぎ。 早すぎですね。 うん。
昔、母が婦人の主張みたいな、僕が小学校高学年ぐらいの時かな、その地区大会で優勝して、石垣の市民会館とかでも発表した、その原稿とかも残ってるんですけど、その中にこう、いつか私たちの子供たちがその島を離れた時に、それまではなんかもう飽きるほど小浜島の海で毎日泳がせてあげたいとか、そういうなんかことを話してたりとか。 うんうん。 一緒にいれる時間っていうのはもう短かったんですけど、もうものすごく今でも残ってるし、それも僕の今のその人としてのベースになってたりするんです。 どんな方だったんですか?お母さんは。
母ちゃん優しかったね。すっごい優しかったんだけど、叱るとこはちゃんと叱ってくれるし。でも我慢する人だったから。自分を殺してでも子供のためにとかさ、そういう我慢の仕方をする人。 うん。うん。うん。 だから、それこそ今日ほら旧盆だから、お母さん帰ってくるから。 うん。うん。うん。お葬式は出れたんですか? もちろん、もちろん。もう初七日まで終わらせて。もう小浜にもう墓もあるし。 うん。 で、納骨までして、そっから遅れて僕だけ上京した形になるんです。
他のメンバーとかどういう風な感じで。 めちゃめちゃやっぱもう心配してたし、同情とかっていうよりも、なんかこう大きくみんな心配してくれて。でも逆に僕はそこが、そういう変に心配をかけたくないっていうのがあったりして。レッスン終わった後、新宿センタービルの展望台行って、展望デッキ行って、 うん。 東京の夜景を眺めながら、他の3人、周りには見せられない、唯一こう泣き、母を偲べるような時間をこう作ってました。 新宿の展望台って。 センター、渋いでしょ。 それを自力で見つけたんですね。 なんかね、昔から高いとこ大好きで。悩んだりとかしたら、やっぱ高いとこから下を見下ろすと、すごくこう気持ちが うん。 大きくなれる。 はあ。
え、3人は那覇とか本島出身なの? そうです。そうです。 離島と本島の出身で、これ感覚違うなと思うこととかもあったりしたんですか? あ、それはもうやっぱしょうがなくありますよ。さっきも言ったみたいに、その尾崎豊さんに共感できなかったって言ったり、ひねくれる要素が1mmもなかったので、ものすごく僕1人だけフランクだったんですよ。目上の人に対して礼儀のないフランクさじゃなくて、小浜で育ったから、ご近所さんみんな知り合いだし、挨拶もするし、そんな感覚だったから、あ、どうも忍ですみたいな、どこでもそんな感じになったから。そこで、あ、このやり方はダメなんだって気づいたりとか。
ああ、そうそう。フランクすぎる。めっちゃ偉い人にもその感じで行くみたいなこと。 まあまあ、場面でそれは違う時もあるんだけど、ちょっとどっか自由すぎた自分っていうのはありましたね。あ、ちょっと俺待って。ここストップだなみたいな。ちょっと自由すぎるなっていうのありました。
東京ではどれぐらいの期間レッスンしたんですか? 午前ボイスレッスン、午後ダンスレッスン、夕方からまた腹式呼吸のトレーニングみたいな。だから意外ともう1日やっちゃってみたい。 学校行ってんですか?みんな。 学校行ってないです。みんな高校中退です。 そ、学校行くっていうことが1mmの選択肢もなかったという。 でもその時はもう、学校って何、みんな1mmも考えてなかった。
え、実際上京して何ヶ月のレッスンを経て『Feelin' Good』でデビューしてるんですか? 半年ぐらいかな?半年後。96年の11月に上京してるんですよ。 うん。うん。 で、翌年の6月にデビューなので、約半年ぐらい。 はあ。 うん。
でも、何て言うんですか?最初からもう仕上がってる感じでデビューしてるっていう。 いや、いや、いや、もう全然全然。デビュー前は当時のヴェルファーレ、エイベックスの持ってたあの箱で月2ぐらいかな。まだデビュー前で『Feelin' Good』を4人でこうやるっていう。みんな誰も知らないから。 そっか。誰にも気にもされないみたいな。 そうそうそう。まだ無名だし。
それってデビュー直前までそんな感じですか? デビュー直前だと、当時だと結構プロモーションとかしてたと思うので、もうデビュー前からなんかイベントはもうやっちゃってたと思います。 ああ。 本当パーンって感じでした。安室さんとかMAX姉さんとか、あとSPEEDのみんなとかがもう先にデビューしちゃってて、沖縄アクターズスクールっていうものがちょうど注目され始めてる時っていうのもあったので、そこから男性4人組っていうなんかこうキャッチーなのも、多分注目されやすいってのもあったかもしれないですよ。
え、でもそのスケジュールとかは はい。 デビューしてからどういう感じなんですか? もうギッチリでしたよね。朝から。 その忙しさみたいなのは耐えれたもんなんすか?対応できたもん? あ、でもこなしてましたよ。ちゃんとしっかり。 もうデビューしてからも、その新宿のそのセンタービルの あ、たまに行ってましたよ。 あ、行けましたか? 行ってましたよ、たまに。
そっか、人がいないから、まさかDA PUMPの忍さんがそこにいるとは誰も思わないのか。 だし、やっぱさっきも言ったように、こういう島で生まれ育ったんで、あんまり周り気にしてなくて。 はあ。 当時も普通にぷらーっと街歩いてたりとか、結構1人でどこでも行っちゃうタイプなんですよ。 うん。うん。うん。 1人で東京住んでた時も5、6回か引っ越したんだけど、必ず商店街が近くにある場所を選んだりして、 うん。 で、先にもうどっかカウンターのあるお店を1人でパンパンパンパン入って、そのマスターと仲良くなって、1人でも行けるような店をいっぱい見つけて。 はあ。 だから今でもその繋がりのまま、いっぱいいますからね。東京でのやっぱその繋がりは、ずっと今でも宝もんですよね。それは本当に。
そうだ。小浜島で育った人って、めっちゃ仲良くなるのがうまいんですね。 でも意外と、こう見えて1人の時間も大事にするタイプなので。 うん。 だから1人で動いてる方が楽なんです。帰りたい時に帰れるし、帰りたいと思ったら帰れるように、そういうお店をいっぱいこう探して。
え、なんか当時そのデビューした時のDA PUMPには数値的な目標とか課されてたりするんですか? 僕らはやっぱそこには無知でいいと思うんですよ、やっぱり当時は。 うん。 やっぱそこは事務所だったりレコード会社さんだったりは、それがもうビジネス側だから。どっちかって言うと、レコーディング終わっても、あ、良くできたねっていう、そのみんなでの称賛の仕方で、そのオリコン1位に入る入らないっていうとこの考えではなかったです。 ああ。
それで言って、特徴的に例えば『Joyful』とか『アイワンダー』とかって、ちょっと。 勉強しました。 僕普通に聞いてたから、カラオケでも歌ってましたし。 カラオケだったんで。 あららら。 『Joyful』とかめっちゃ歌ってましたよ。 中学生ぐらい。 『Joyful』ね。今の大崎ゲートシティ、大崎駅、 うん。うん。 あっちがオープン前に、PVはそこで撮って。 へえ。
ああいうのってCHAGE and ASKAさんが歌ってても自然なぐらいのポップスじゃないですか。歌いたいって気持ちはなかったんですか?いい感じになるんじゃないかなと思って。 いやいやいや、もうISSAはもうプロですから。もうデビュー前からもそうだけど、もうISSAがもうボーカルとしているので、僕は僕でもそこで歌いたいっていうのはもう特にはなかったです。まあ、ラップはちゃんと、アルバムとかだったらやったりとか、あとはコーラスで歌ってとか。 なるほど。 そうそうそう。いや、もうそこはもうISSAが立ってっていう感じです。僕はカラオケ行ったら、ミ釣りとかシャランキーとか、チャゲアスを熱唱してるっていう。 はあ。
ソロとかで、 はい。 そのDA PUMPの活動をしながら、曲出そうみたいになったりとかしなかったんですか? いや、1回ね、2000年ぐらいかな、そのソロプロジェクトっていうのがあって、ISSAがアルバムを出して、僕がアルバムを出して。一応半年ぐらいかな、そういう期間はあったんですよ。まあ、そん時に僕は海の宮田さんにお願いして曲を書いてもらったりとか。 うん。うん。うん。 で、あとBEGINの栄昇さんに相談行ったりとか。そこで三線を弾き始めたりとかして、で、自分で詞を書いたりとかっていう作業は、そん時に初めてやったりして。
え、紅白はもうデビューしてすぐですか? 紅白はね、98年、99年、2000年、2001年、2002年までかな。 1回目は何ですか?はもう、もうちょっと後ですもんね。 1回目はね、確かラプソディ・イン・ブルーかな。
あ、は。武道館に立つのこそ、1個そのデビューする前の夢だったですね。 そうです。ファーストツアーの初日の武道館、もう幕が開いた瞬間のあの何とも言えない感動は。やっぱりお母さんに対しての気持ちもあったので。 それこそ今年の2月に久しぶりに、ASKAさんのライブを武道館に見に行って、 うん。 その時ももう何とも言えない気分でした。この方に憧れて、この武道館でライブに立ちたいって思ってて、また未だにこうやって武道館でASKAさんのライブを見れてっていうこと。プラスその1ヶ月後に沖縄アクターズスクールのイベントがまた武道館であって、1ヶ月後に今度は僕がまた武道館に立たしてもらって。だから何とも言えない2月でしたね。
2回武道館に行く。 そうだ。沖縄がそういうBEGINさんとか安室さんとか含めて、なんかその音楽が強いってのは、どういう理由があると思うんですか? そこね、永遠のテーマというか、答え難しいですよね。 なぜそうなんだろうって思った時に、 うん。 沖縄アクターズスクールがあったからなのか、沖縄本島に米軍の基地がたくさんあって、そっから外国の音楽が流れてたせいなのか。はたまたBEGINさんに関しては、やっぱこういう景色の中で育って、で、さっき話した今日から旧盆っていうのもあったり、その先祖崇拝じゃないけど、そういう家族同士の、島の、沖縄とか、 うん。 そういうカルチャーみたいなものがあるからこそなのか。
うん。決してDNAの中に、沖縄の人だから、DNAの中にあなたは歌って踊れる、あなたは歌うまいとか、そういうのは絶対入ってないと思うんですよ。 うん。 だからやっぱその風土的なものなのかな。ちょっとそこはね、簡単にちょっと言い難いな。
だって、ちょっと定期的に歌姫みたいな人が現れるじゃないですか。 だって今もAwichさんとか、こう世界中で舞台に活躍したりとか。 ですね。 で、Coccoさんみたいに、その自分で作曲できる人もいるし、まあもう安室さんなんて言わずもがなというか。 はいはいはい。 って意味では、ちょっと密が濃いというかね、濃厚なアーティストいっぱいいますよね。 うん。で、そういう意味では、まあ1つの、やっぱその本土と沖縄って、やっぱ歴史とか歴史的背景とか文化がやっぱ若干、伝統とかも違うから、相容れない部分があるからこそ、そういう風にこう出てきやすいのかな。うん。
うん。そ、それで言うと、さっきその5年連続、その後、6年目その選ばれなかった時とかって、なんか焦りとかになったりするんですか?それとも、そんな気にしてない感じです?みんな。 その時は2003年だから、大きくこう焦りみたいなのは多分なかったと思うです。 うーん。そっか。 あ、そうなんだぐらいな。
忍さんがそのDA PUMPを離れることになって、1回1年休養されるっていう感じなんですか? そうです。そうです。戻らなかったんですけどね。 その1年ってどんなこと考えてたんですか? その1年は、ちょっと記憶なかったかな?ちょっと病んでたので。
それで病んでたのは、ちょっと不祥事を起こしちゃって病んだのか、それとも その前から病んでたんですよ。 へえ。 その前からちょっと病んでて。 それはどんな理由があるんですか? まあちょっと色々ね。グループだから、ちょっと色々あって。 ああ、まあまあ、なるほどな。 そう、そう。だから別に誰が悪いとかっていうよりも、ただ自分が、そこについていけなかったっていう部分とかもあったりとかしながら。 うん。
で、気づいたらなんか見事に病んじゃって、もう1回ちょっと島に戻ってきて、そん時に、まあ病んじゃって。まあそれは思ってる時には絶対見せないけど。 うん。うん。 その病んでるのを見せないのも、結構うまくなってるんですか? そもそもその時の僕は、病んでることに気づいてないんですよ、本人。後々スタッフの人に聞いたら、いや、あん時お前もうやばかったよとか言われるけど。多分病んでる人って多分気づいてない。もうマイナスマイナスに、1人の時になっちゃうから。 それで多分、変な悪循環じゃない。
そうです。 その上京したての頃のそういう感じも完全に失われた、そのフランクでなんか。 あ、そん時はもうちょっとあんな感じでしたね。あの雲のような。 雲のような。 上京はこのすっかりすっきり青空だったと。例え分かりやすいやからこれ。 まあ、大好きだった東京を引き上げて、14年前に。もうある意味こっちが故郷だったけど、32で戻ってくると島の行事もずっと参加してなかったから一切わかんないし、後輩に聞いたりしながらやったりとか。 うん。
また逆のデビューみたいな。なかなか芸能界よりハードですよ。こっちの方がハードかもしれない。
へえ。そっか。島に戻るってこと自体も。
そう。島にやっぱもう年重ねすぎちゃって島戻るって多分結構ね、億劫になるというか。逆になんかこう良かったなって思うのは、16年間沖縄生活で16年間東京生活できたっていうので、どっちの良さも究極に知ってる。
いや、そうすね。
多分他にいないと思うんですよ。逆はいたとしても。だからこう色々見えちゃう時があるんですね。どっちの良さもどっちの悪いところもこう知っちゃってるから。
こういうひねくれる要素がないところで育った少年が、そういう世界で引き上げてきて、でそっからまた1からこう島でのその歩み方をスタートして。本当引き上げるまでの6年間っていうのは迷いがある感じなんですか?その戻ることなのか残ることなのかみたいな。
迷いはありましたね。でもこのまま特に仕事もやっぱりしてなかったので、たまにライブしてぐらいだったので、このままでいいのかなっていう葛藤はやっぱ抱いてました。ずっと6年葛藤してたわけではないです。もう最後の1年ぐらいかな。
まあでも地元に戻ろう、帰ろうってきっかけも、1年前のお盆に東京から小浜に帰ってきてた時に、3日目の送り日の時になんかこう、あ、お母さんが戻ってこいって言ってんなみたいな。ちょっとそういう直感があって。で、それで、あ、もう引き上げようってそこでもバンって決めて。
行く時も帰る時も全て母親って話ですよね。
へえ。
まあ、ちょっとなんだそれって感じもあるかもしれないけど、直感的に僕にはそういうの。
帰ってからの大変さ。東京のあの芸能の多忙の時よりもなんならハードかもしれないってどういうハードさなんですか?
ハードというかやっぱその伝統行事が多いので、そこを覚えるのもやっぱり大変だし、やっぱ島の方言も使うし、で説明書があるわけではないので教えてくれないんですよ、丁寧には。自分からこうやっぱ聞かないと手探りでしかできないわけじゃないですか。だからそういうところも地道に地道にこう聞いたりしながら。あ、もちろん教えてもくれるんだけど、もうあれわかんないから、やり方が。
行事って年に何回あるんですか?
細かいの合わせたら10個ぐらいあるんじゃないですか?多分集まりが多いです。だから7月、8月、この今8月、この季節でもやっぱりもう昨日から宿も閉めてるし、お盆なので30日までは宿はクローズにしてと。ローカル地元なんでそういうのはしっかりやらないと、僕も小浜には住めないし。
はあ。昔の忍ちゃんって感じなのか、DA PUMPの忍だって見られてるのか、どっちが多いですか?最初の頃とかって。
まあ最初僕が帰ってきた時はやっぱり若干こう、あの、言い方失礼ですけど、あ、見下されてるなっていう感はやっぱ感じてたので。行事の多い島だから、こいつずっと東京だから何もわからんよみたいなっていう雰囲気はもう分かってるんです。それありきだと思って帰ってきてるから。
島にずっといる人たちはね、それが当たり前だからずっとそれをやってるからわかってる。1回やっぱ離れてしまうと、そういう行事に関してのことがやっぱもう薄れ、忘れてるから、それをまた取り戻す作業っていうのはやっぱものすごく。未だに全然もうわかんないこと多いし、だからって意味では本当に芸能界より大変だなって思うんですよ。
ええ、すごい。認めてもらう期間が必要ってことですね。そのちゃんと小浜に根付く覚悟がある。
そうですね。でもみんなそうですよ。1回外出て戻ってくる人たちはやっぱみんなそうで、やっぱそういう苦労は僕だけじゃなくみんな知ってます。僕なんか最初戻った時あんなだったよ、今よりももっときつかったよとか。
へえ。忍さん独身の状態で戻ってきてる?
そうです。独身の状態です。
奥様はえっと島出身の方なんですか?
時の子です。小浜島のあのリゾートホテルにエステティシャンなので、ホテルのスパで働いてて、でたまに港とかであの見たりして、で気になって声かけたりして一緒に飲むようになって。
そういうとこ。民宿の経営はこう最初から今みたいにこううまくいってたんですか?
行かないよ、そんなうまく。やっぱもう手探りです。一応昔親がね、お母さんがやってたっていうのもあったりとかして、なんとなくは知ってはいても、実際やってみるとね、接客もしなきゃいけない、掃除もしなきゃいけない、ご飯も作らなきゃいけない、っていうのはやっぱ最初の2、3年ぐらいはもうがむしゃらになんかやってた感じでしたね。ようやく今ぐらいでなんかこうちょっとしっくり来た。
時間かかりましたよ。10年経ってようやくなんかしっくりしたかな。お客さんもリピーターの皆さんもいっぱいついてくれて、で、3年前に新しくボートもクラウドファンディングして購入して。
3900万のこのクルーザーをクラウドファンディングしようってのはなんかどんな経緯で?
ちょうどね当時コロナ禍だったんですよ。船オタクなので、もうこのアクソパーっていうボートなんですけど、もうこのボートだな、八重山の海にこのボートを浮かべたいなっていうのが強く思ってて。やっぱどうしても額が額なので、その時嫁から、クラウドファンディングやってみたらって。最初はなんか僕も人様からそうやってなんかお金を募ってっていうのはどうなんだろうってなかなか踏み切れなくて。
まあでもそっから2ヶ月ぐらいじっくり考えて、よしやってみようって決めて始めて。でもいざやってみようってなっても、そんなにね簡単にできるものではないので、額も額だし。そっからまた何ヶ月間か、その文章もそうなんですけど考えたりとか、あとはもうひたすらこう自分と向き合って、お前本当できるのか。基本的にもう自分自身が軸ぶれちゃったら絶対にできないと思ったんで、もうやるからにはもう絶対達成させてやるっていう気持ちで。
はあ。3900万円って相当な金額でしょうね。どうやって達成したんですか?
まあSNSと、あとは、まあチラシみたいなの作っていろんな地方の友達に送って宣伝お願いしますみたいな。あとはもう連絡してとか。
で、やり始めのスタート出しは一瞬バンっていくんだけど、やっぱ中だるみがあって、最終日の2日前、3日前ぐらいも半分ぐらいも確か行ってなくて。
え。
でもね、なんか変な自信があって、もういや俺は絶対これ達成できるって。ひたすらもうみんな、まあ心配して電話来たりするんですよ、知り合いからは。これ大丈夫?やばくない?って。いや、大丈夫だから。絶対大丈夫だからって、ずっと。大丈夫?できる?大丈夫大丈夫って、心配してる方に言われても言い続けたら、周りが、もう無理だろうと思ってた人が、いや、忍あいつ全然諦めてない、あ、いや、やばいなってなって、周りがまたこう持ち上げてくれて、あ、あいつこれ諦めてない、これ行けるみたいな。そういうムードにまた最後なって。ラスト2日ぐらいで2000万近くバンと集まったみたいな。
です。
だから、DA PUMP的にお世話になった人たちもやっぱり応援してくれてるんですけど、もうみんなラストの夜すごい興奮して。コンサートのプロデューサーの人とかもなんか応援してくれて、当日三浦大知君のライブかなんかやってて、もう大知のライブどころじゃないとか言って、ずっとクラファンの最終日の僕の、気にしててくれて。達成した時も本当にもう喜んでくれて。
で、ちょうどね、コロナっていうのもあって、雰囲気的にね、暗い名治もあった中で、逆にある知り合いの方からはなんか、ありがとう、もう最高なイベントだったって。やっぱ本当もうその人に恵まれてるなっていうのは本当にひしひしと感じました。
何人の人から、その金額は集まったんですか?
1047名ぐらい。
はあ。それぐらいの人数がいないと絶対その額が集まんないですもんね。リターンとしてみんなこれ乗りに行くみたいな感じですか?
リターンもね、知り合いの人たちはもう、リターンで期限が決まったりしてるんですよ、一応立ち上げて。でも基本的にもうリターン無期限で僕やってるので、もういつでもいいよって。なかなかみんなタイミング合わなくてリターン使えてない人もたくさんいるんだけど、もうだからみんなが乗り切るまではもう綺麗に。元々船好きだから綺麗にはしてるんですけど。
てか、ちなみにそのDA PUMPで言うと、1回ISSAさん以外全員抜けてから新しい体制になって、そっからまた紅白に返り咲きってのもすごいことですね。「U.S.A.」でバーンって行って。
そこまでね、やっぱ長かったじゃないですか。まあ僕も一応1ファンとして。なんだかんだ来年DA PUMP時代が30周年。
30年ってすごいすね。
いや、30年歌ってるISSAもすごいよ。すごいことだと思います。
やり続けるってすごいっすね。
すごい。何でもそうだけど、本当もうやり続けてることすごいなって。もう中堅より上じゃないですか、やっぱりISSAとかって。
Instagramとか見てると今も普通に会ったりとかされてるもんね。
そう、そう、そう。家族同士で仲良くて。今日本当は石垣でISSAファミリーと一泊する予定だったんですけど。
あ、そうですか。
そう、そう、そう。でも今日から旧盆だから僕が動けないから、ちょっともうなしにしようって。普通に仲いいので。
ああ、すごい。え、ここからはなんかどうしていきたいとかってあるんですか?
もう子供も4年生と2年生の男の子で、船も新しくなって、宿もようやくこうなんかこうしっくり来てる感じなので、今何かをするとかっていうのはなく、今もう日々毎日お客さんをこうどう楽しませるかっていうことに集中してます。でも結局僕って自由人なんで、来年あたりにまたなんかしら、あ、これやりてえなとか多分なんか出てくるかもしれないし、出てきたらそれ全力で頑張ればいいかなっていう。
そうですね。もう今は特に望みはないですね。毎日毎日をもう安全に事故も怪我もなくツアーも終わらせて、でお客さんが小浜を出る時に、あのちょっと緩んだ表情で帰っていってもらえるような、その締めくくり方を毎日毎日丁寧にできるかなっていう。
それって意外と難しいんですけどね。
あ、そう。
大変だし。毎日毎日を丁寧に続けるって多分なかなかね。人間だからやっぱり余裕がないと切羽詰まっちゃったりとかして。あ、今の言葉遣いあれだな、これお客さんにちょっとトゲ出ちゃったかなとかさ、やっぱさ、なっちゃうわけだから。そういうのじゃなく日々を丁寧にこうできればなって。
なるほど。しかもその、なんていうか、東京の人の辛さもまあ痛いほど知ってますもんね、きっと。その日々忙殺されてる感じの。
そうなんですよ。どっちも知ってるから。
はい。
そう。こう流れるようにこう遊んでもらう。食事にしても何にしても、こうじゃなきゃいけないみたいなルール作りがあんま好きじゃないので。だからその人に合った流れをうまくこう自然に作ってあげる。
あ、でもね、それで言うと、その一時こう病んじゃった時期があったじゃないですか。今思うと、どうしてたら良かったかなって思いますか?その、あん時の僕にもし言えるとしたら。
はいはい。いや、多分ないですね。
あ、方法はない。
方法はあん時はもう。
なるほどな。そう、この海の景色を見て3日休むとかそんなことしたところで別に。
いや、多分関係ない。ちょっと時間が必要だったかもしれない。
それをもうやめるってことの選択以外はなかったってことすね。
まあ事故起こす前から、もうやめたいっていうのはもう心の中にあったので。
はあ。まあ、そうだ。
本当いろんな人に迷惑かけたんだけど、やっぱりちょっと事故をきっかけにちょっとやめれたというか。あの申し訳ないけど、起こしたことにはもう反省してるけど。
え、これでちょっとやめれるなって思ったり安心してるところもあったりするんですか?
あの、まあこれはね、本当にもう飲酒運転っていうもうとんでもないことをしてしまって起こしたあの事故なので、これのおかげでとか、とてもじゃないけどそんなことはもちろん言えないし。でも心の隅っこにちょっとやっぱ、あ、これももしかしたらなんかあのお母さんがそうしてくれたのかなとかって、どっかこう自分で勝手に逃げ作っちゃったりとか、そう思っちゃったみたい。
あ、なるほど。え、お子さんたちはなんかどんなことが好きな子供なんすか?夢あったりするんですか?
まあ、まだまだ、だってまだ4年生と2年生なんで。
そっか。
もう人として、もう普通に育ってくれたら。1番自分が誇れる何かを1つでも見つけてくれたら、もうそれで。あとはもう家族が仲良く健康でいられればもう十分。全然勉強できなくたっていいし。
同じように芸能界に行きたいみたいだったら、それはどうしますか?応援しますか?
薄っぺらい熱意じゃなくて、ちゃんと自分でしっかりあの決意して、それをちゃんと報告してくれたら、もう全力で応援します。もっと身近でできることだったら、まあやってみればっていいけど、さすがにそういう世界に行ってみたいってなると、いやいやもうさすがにもうちゃんと決心してもらわないと。まあでも、どっちにしろ何にしろ、子供がやりたいことに多分僕はノーとは言わないと思う。
いや、ありがとうございます。めちゃ面白かったです。この前お坊さんで、昔看護師やってたみたいな人を取材したんですよ。なんかその人、何でもいいからちゃんとなんか信じるものがある人はなんか強いですって言ってましたね。小浜島の場合とかその王ジとかっていうその。
ああ、みんなそういう意味ではもう強いと思いますよ。
そう、そういう強さがきっとあるんだろうなってなんか思いましたね。
強いと思います。やっぱ僕もその小学校3年生までやっぱり小浜島にいて、でそこで流れてくる行事の音だったりとか、それが植え付けられてるっていうか残ってるので、そういうとこはやっぱ生きる糧というか、強さにもそこも繋がってると思うんですけど。
そうそう、だから生きる糧があるんだろうなっていう。しかもその、都会だとなんか頑張って見つける時あるじゃないですか。
まあまあそうですね。
でも島の暮らしを大事にするっていうことがもうすでにそれになっちゃってるんで。
だからみんな元気ですよ。みんな元気。
それってめっちゃくちゃ。
みんな元気元気。ああ、今日そのキの感じもちょっと見せたら、なるほどねってなるんだよなあ。
エアビとかで泊まれる宿とか見つけれますかね?
隣空いてるかな?聞いてみましょうか?
僕らどっちにしろ本当はあの明日のフライト、明日のフライトはだからなくなったんですよ。
欠航ですか?
欠航です。欠航の連絡がもう来て。
今日来ました?
あ、昨日来ましたね。昨日の夜に、電話の後ぐらい。
いや、本当はね、今日の夜とかもし泊まれるんだったら、見たら最高だったと思いますよ。そういうの。
え、それってもし僕ら残ったら撮らせてもらえるんですか?
あ、それは撮るのは可能なんですけど。
綺麗だな。
楽しかったですか?
いや、楽しかった。
あ、良かった。めっちゃ好きなんで。
良かった。お昼って食べました?
あ、いや、まだ食べてないです。
一応ね、港に3軒飲食店はあるので。
あの、直接行ってまたやりとりします。はい、ありがとうございます。はい、失礼します。とりあえずオッケーなので、そういうことにしましょう。
あ、ありがとうございます。
で、ちょっとその夜の希望の撮影に関しても僕またあの、後々説明するので。
分かりました。ありがとうございます。
ありがとうございます。嬉しい。
じゃ、これ1回外しちゃっていいです。
分かりました。1回もらいます。
あ、ありがとうございます。
撮影OK出ました。
あ、ありがとうございます。すいません。嬉しいですね。
え、先輩のお店なんですね。忍さんの先輩。
はい。
新中。お疲れ様です。
麺に黒糖がなんか練り込まれてるみたいな。そう。いただきます。
うまい。おいしい。本当誰もいないすね。誰もいない。
はあはあ。
1回シャワー浴びて落ち着きましょう。
はい。すいません。ああ、死ぬかと思った。ありがとうございます、すいません。本当に本当に死ぬかと思いました。
あれはビビっちゃうね。いや、そして何があって、あの助けてって言ってる人がまさかの三谷さんだったってほうが僕はびっくりですけどね。
ここで助けてって言って、あ、なんかちょうど船来たぞと思って、こっち向いてくんないかなと思ったら本当に来てくれて、知ったらそれがあれ忍さんだみたいな。さっきまでね、インタビューしてたんだけど。やっぱ改めて海の恐ろしさを知りましたね。
いや、海怖いですよ、本当。
こんな浅いところで、足もつけてるのにこんな溺れるような感じになると思わなかったですね。
簡単に人溺れますからね。やっぱライフジャケット着用しないと。
いや、思いました。本当に。
で、港内だとやっぱどうしても船が入るから、深く掘られてる場所とそうじゃない場所があるから。
めっちゃ浅すぎて。
そう、そう。行っちゃうでしょ。そしたらいきなりストーンと落ちてるから。
そう。こんな浅いのかみたいな。もうちょっと深くてサンゴっぽいものあるとこないかなとかって。
いやいや、もう港の中汚くて全然ないですよ、そういうの。
そうなんですね。見当たんないわ、見当たんないよって言ったら急に深くなって、あれみたいな。したらなんかどんどんどんどん流されてって、あれもう結構パニック起こしてました。助けてって言わないと助かんないかもって思ってから、助けてを連呼しましたね。
素晴らしい。
ちょっとこれそれほどでもないかもしんないなとかって思ったりもしたんですけど、でもとはいえ無理じゃないかみたいな。
で、それをなんかね、コトしてるかと勘違いしちゃったっていうと、あれ、2兵もいないしみたいな、どこだみたいな感じになりましたね。
なんかね、沖縄の風習で、その旧盆中は海に入っちゃダメっていうなんか言い伝えがあって。
お盆って確かに。
そう。あ、それ全国区かな。多分全国。
息子さんが。
せや君が、そう、せや君が助けてに気づいてくれたから。
ありがとう、本当に。
だから僕聞こえなかったもん。
いや、マジで命の恩人ですよ。
なんか助けてって言ってるって言うから。
気づいてくれなかったら本当に死んでた。
いや、どういう?
え、なんかあのテトラポッドあったじゃん。テトラポッドの方に流されてったと思うんだけど、あれ奇跡的にテトラポッドじゃない、さらに流された奥の方出てったらやばいなと思って。
足つかないからね。4mぐらい。
そんなにあるんだ。ちょっと一生忘れられない小浜島になりましたね。
で、宿がこの右側で。
あ、はい。ありがとうございます。
うちの家がそこなんで、隣なんで。
あ、ありがとうございます。
ちょっと待って。もうこれで乗れようか。これからちょっと船洗って片付けて、でその後にちょっとまたお墓行ったりとかバタバタ動いちゃってるので。
分かりました。
で、今日ね、あの、9時からそのさっき話してたのが、まあまあ例えばそう分かりやすく言ってるだけなんですけど、それが始まるので、え、8時に僕の家の方に来てもらって、そこでちょっとあの、ご飯食べてもらって、そっから一緒に行きましょう。
はい。あ、分かりました。じゃ、ちょっとそれまでに色々なんか整理しときますね。
オッケーです。まあまあ、それまではもうちょっとゆっくりして。
あ、分かりました。すいません。
じゃあ行きましょう。
あ、そう、そうです。ありがとうございます。すごい素敵な。お願いします。すごい。あ、すいません、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ありがとうございます。
そしたらちょっと布団用意してきますね。
ありがとうございます。
すごい。めっちゃ綺麗じゃん。めっちゃいいすね。これ屋根とか。もうなんか新しい機能になるね。いい。めっちゃね。
いや、てかマジで本当にあれだわ。あの、マジで溺れかけたから、なんていうか体が普通に震えてる。なんかちょっと普通に。いや、本当に命の危機、本当に。いや、人生初めてです。いや、結構人生初めてぐらいかもしんない。俺こういうことになったことないもん、今まで。
いや、海、海危ないわ。ライフジャケット。これからマジでライフジャケットは必要だな。あと絶対人がいるところで。
確かにそれは思ったんだよ。マジで安心してたら。
まあ、8時までまだあるからゆっくりしよう。もう。
あ、本当死ぬかと思った。マジ助かったわ。優しさ。
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生きてさえいればいい。自殺なんてないのさ。誰が君を殺した
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