元DA PUMP・宮良忍が語る、16歳での母の死、脱退、そして人口700人の小浜島での14年

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概要

沖縄県・八重山の小浜島で民宿と船のツアーを営む宮良忍は、1997年にDA PUMPのメンバーとしてデビューした。グループを離れた後、東京生活を切り上げて島へ戻り、14年がたつ。街録chの取材で宮良は、デビュー直前に亡くした母への思い、グループ在籍時に心を病んでいたこと、飲酒運転の事故、そして帰郷後に「芸能界よりハードかもしれない」と感じた島での再出発を語った。取材は旧盆の初日に行われ、終盤には聞き手の三谷が港で溺れかけるという出来事も起きている。

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台風で予定が崩れた、宿なしの沖縄取材

取材は予定どおりには進まなかった。聞き手の三谷によれば、翌日に沖縄本島へ台風が上陸する見込みで、石垣島から那覇へ向かう便は欠航が決まっていた。今回の旅では宿を取らず、夜に生配信をして泊めてくれる人を探す計画だったという。以前大阪で一度だけ試した方法で、泊めてくれた人には1万円を払う。石垣島は人口約5万人なのでなんとかなるだろう、と三谷は考えていた。

出発前にはパソコンのOSアップデートに追われ、東京で買った土産を空港でなくしている。石垣島で代わりの品を探したが、どれも「石垣」と書かれていて小浜島の人に渡すには向かない。結局ゴディバを買い、なくしたことも正直に伝えることにした。そのうえで石垣島から小浜島へ向かった。

船「SEAEL」と、民宿を継いで14年

港で出迎えた宮良は、自分の船に取材班を乗せた。船名の「SEAEL」は子どもたちの名前に由来する。長男のセアくんの名前は英語の「SEA」、つまり海にちなみ、次男の名前の「L」を合わせて「SEAEL」とした。この船はクラウドファンディングで約3900万円を集めて購入したフィンランドのボートだという。

宮良は14年前に東京を引き上げ、両親が営んでいた民宿を継いだ。同時に船でのアテンドやシュノーケリングも始めた。小浜島は出身地であり、「ここが僕のふるさと」だと話す。

船好きになったのは子ども時代からだ。小浜島の学校は丘の上にあり、教室の窓から海が一望できた。フェリーが走っていく姿や引き波に憧れて、船にのめり込んだ。遠くを走る船を見て「あれは〇〇号だ」と名前を当てる遊びが流行っていたという。内陸に鉄道好きの子がいるように、小浜島には船好きの子がいた。

島の産業について聞かれると、宮良はサトウキビと畜産を挙げた。後輩が牛のブランドを一つ立ち上げたが、多くの農家は子牛を石垣島のセリに出す。買い付けた人がそれぞれの地方で牛を育て、その土地のブランド牛になる。

船では全開で時速80キロが出る。実際にスピードを上げて見せた先には、潮の引いたときだけ現れる砂州「幻の島」があった。宮良はエメラルドグリーンの海の色も解説した。浅い海域で底が白い砂なので、明るく淡い青に見える。波が立っているリーフの外側は急に深くなるため、色が濃くなる。水深1.3メートルほどの場所もあり、ときどきウミガメが顔を出すという。

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「定刻どおり」ではなく、自然に合わせるアテンド

船のツアーは、はじめは民宿のオプションとして始めた。3年前に船が新しくなってからは、宿泊客以外も乗れるようにしている。ただ、じゃらんのようなサイトには載せず、大きく宣伝もしていない。客のほとんどはリピーターとその紹介で、東京時代の仲間が来ることもある。宮良のやり方を理解している人が多いので、やりやすいという。

宮良が言う「やり方」とは、天候に合わせて動くことだ。取材中も遠くに雨雲が見えていて、40〜50分でこちらに来るから、それまでに2人を港へ届けなければと気にしていた。今は何時集合・何時出発とルールが決まっているのが普通だ。しかし宮良によれば、出発を30分ずらせば晴れ間に出会えたかもしれず、その30分で景色は天と地ほど変わる。何度も来ている客はそれを察してくれる。

聞き手が「沖縄時間」という言葉を持ち出すと、宮良は、その言葉はあまり使わないし好きではないと答えた。バラエティ番組が作った言葉ではないか、とも話している。

旧盆の行事と、島へ戻る若者たち

取材日は8月25日で、小浜島ではこの日から旧盆だった。小浜島は伝統行事の多い島で、行事は旧暦に合わせて行われる。宮良によれば、盆は休みではなく、それ自体が一つの行事だ。先祖供養のために島の人が集まり、三線と横笛を鳴らしながら子どもたちも一緒に練り歩く。3日間かけて、各家の仏壇を一軒ずつ回る。宮良の家はこの日の4番目ぐらいで、夜11時ごろに回ってくる予定だった。庭にござを敷いて酒とつまみを並べ、皆で歌って先祖を楽しませる。一軒あたり40分ほどかかる。

こうした行事が今も続いている背景として、宮良はUターンの若者が多いことを挙げた。20代が多く、大学を出て少し働いてすぐ戻る人もいる。宮良の見方では、生まれてから中学3年まで島の伝統芸能を身近に感じて育つので、島を離れると寂しくなるのではないか。宮良自身も、16歳で島を出たあと、夏になると行事の匂いや音を思い出したという。島の人口は700人ちょっとで、戻った若者の多くはサトウキビや畜産、ホテルの設備関係などの仕事に就いている。

船とラジコンに夢中だった少年、ドローンの撮り方

宮良は中学生のころから月刊誌『ラジコン技術』と、ボートの雑誌『パーフェクトボート』を毎月買っていた。その延長でドローンも飛ばしている。船の屋根から離陸させ、片側の青空から始めて、幻の島と砂浜の青空で終わる構図で撮った。雲があるほうがダイナミックになること、光の当たり方や反射を見て角度を決めることを説明しながら、約27秒で撮影を終えた。動画として上げるなら編集なしでこのくらいの長さがいい、と人に渡すときのサイズまで考えているという。

宮良は現在46歳。小学1年までは石垣島で暮らした。両親はもともと小浜島の出身で、宮良が小学1年のときに島へ戻り、民宿を始めた。父は土木の仕事をしていて、民宿は主に母が切り盛りしていた。母は宮良が16歳のころに亡くなり、父が再婚して妹と弟が生まれ、きょうだいは5人になった。

小中学校は全校で60人前後、宮良の学年は5〜6人だった。宮良は冗談まじりに、尾崎豊の歌詞には共感できなかった、ひねくれる隙間がなかったと振り返る。

13歳で見たCHAGE and ASKAの武道館

芸能の夢が芽生えたのは早かった。中学1年のとき、衛星放送で1991年ごろのCHAGE and ASKAの武道館ライブを見た。大好きだった二人の姿に、自分もこの人たちのように武道館に立って歌いたいと思ったのが最初だという。もともと目立ちたがりで、人が喜ぶのが好きな性格でもあった。今も年に1回ほど、東京の沖縄料理店やライブハウスで歌わせてもらっているそうだ。

島で「芸能人になりたい」と言っても、誰も本気にしないので気にもされなかった。宮良にとってはそれがやりやすく、一人で淡々とギターを弾いた。風呂場はエコーがかかって気持ちいいので大声で歌い、5〜6軒先の家まで聞こえていたが、苦情は来なかった。

反対に遭ったのは中学3年の進路相談のときだ。沖縄アクターズスクールに入るために本島の高校へ行くと言って、初めて「無理だよ」と言われた。母はとても協力的だったが、父には心配もあったのだろうと宮良は話す。1歳上の兄は体操の池谷幸雄に憧れてオリンピックを目指し、すでに本島の興南高校へ進んでいた。宮良もそれを追うように本島の高校へ進学し、母と兄、妹、飼い犬とアパートで暮らした。父は民宿のため島に残った。

アクターズスクールで自然にできた4人

宮良が中学生のころ、沖縄アクターズスクールはすでに有名だった。安室奈美恵らのSUPER MONKEY'Sがいて、SPEEDやMAXのメンバーが東京と行き来しながら『夜もヒッパレ』に出ていた時期だったという。男性部門のような区分はなく男性は少なかったが、宮良が入ったときにはKENとYUKINARIがいて、その後ISSAが戻ってきた。4人とも「やんちゃでイケイケ」だったので自然とつるみ、一緒に練習したり遊んだりするうちにグループになっていった。大人に組まされたわけではない、と宮良は強調する。ちゃんと歌えるボーカルはISSAだけだった。

宮良自身は歌手志望だった。ただ、踊りながらの歌とは方向性が違ったし、ダンスも好きだったので、こだわりはなかったという。スクールは当時、国際通りの端にスタジオと事務局があり、最初は週2回ほど通った。男性には入学試験はなかったと宮良は記憶している。全国区になってからはオーディション形式になったのではないか、とも話した。

レッスンは最初から「踊りながら歌う」ことが前提だった。ダンスに加えて、ビートを刻みながらリズムを保って歌う基礎を教わった。年に1〜2回の発表会では、4人で自分たちで曲を選んだ。m.c.A・Tの「Feelin' Good -It's PARADISE-」をいいんじゃないかと選び、振り付けをして披露した。これが後にデビュー曲になる。グループ名が「DA PUMP」に決まったのはデビュー年の1997年初めごろで、それ以前は当時の校長が付けた別の名前があったという。

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デビュー決定と、上京1か月前の母の死

定期公演を見に来た当時の事務所社長の平さんが「こいつらいいじゃねえか」と言ったことで、デビューへの道が開けた。4人は何も考えていなかった。宮良は入ってまだ1年半ほどだったが、アンナさんから突然「あんたたちデビュー決まったから」と告げられた。1996年11月に上京して東京でレッスンを受け、1997年6月11日にデビューした。宮良は17歳だった。

上京への気持ちは「よっしゃ」という高揚と不安の両方だった。そこに母の死が重なる。母はがんで、上京の1か月前に亡くなった。

宮良は当時の経緯を細かく語った。沖縄アクターズスクールの公演に4人で出ることが決まった翌日ごろ、病院に呼ばれ、母は余命1週間と告げられた。その1週間後が、ちょうど公演の日だった。母なら「とりあえず行ってこい」と言うだろうと思い、アンナさんにも事情を伝えたうえで公演に出た。出発前には「母ちゃん、ちょっと行ってくるから絶対待っとけよ」と声をかけた。東京から那覇に戻ってすぐ病院へ行くと、家族が集まっていた。「母ちゃん、帰ってきたよ」と言うと、母は一瞬目を開けて宮良の顔と目をしっかり見た。その1時間後に亡くなった。

宮良は、このことでデビューと上京に「いい意味での約束というか緊張感」が生まれたと振り返る。一番夢を応援してくれていた母がとても楽しみにしていたから、頑張らなければいけない。天国から背中を押されているような感覚だったという。他の3人に迷惑はかけられない、弱いところを見せられないという気持ちも、最初の原動力だった。

母は39歳で亡くなった。46歳の宮良はもう母の年齢を越えている。宮良が小学校高学年のころ、母は婦人の主張大会で地区優勝し、石垣の市民会館でも発表した。その原稿が今も残っている。「子どもたちが島を離れる時までは、飽きるほど小浜島の海で毎日泳がせてあげたい」といった内容だったという。一緒にいられた時間は短かったが、今の自分の人としてのベースになっていると宮良は話す。母は優しく、叱るべきところは叱り、子どものために我慢する人だった。旧盆のこの日は、その母が帰ってくる日でもある。宮良は四十九日と納骨を済ませてから、一人遅れて上京した。

新宿の展望台と、フランクすぎた島育ち

メンバーはとても心配してくれた。ただ宮良は、心配をかけたくない気持ちが強かった。レッスンの後には新宿センタービルの展望台へ行き、東京の夜景を眺めた。他の3人にも周りにも見せられない、母を思って泣くことができる唯一の時間だったという。昔から高いところが好きで、悩んだときに見下ろすと気持ちが大きくなれるそうだ。デビュー後も、ときどき通っていた。

本島出身の3人との違いも感じた。島ではご近所が皆知り合いで、誰にでも挨拶する。その感覚のまま、宮良は目上の人にも「どうも、しのぶです」と接していた。礼儀のないフランクさではないが、自由すぎる自分に気づいて改めた場面があったという。

東京では午前にボイストレーニング、午後にダンス、夕方に腹式呼吸のトレーニングと、一日中レッスンが続いた。4人とも高校は中退していて、学校に行くという選択肢は1ミリもなかった。デビュー前はエイベックスが持っていたヴェルファーレで月2回ほどステージに立ったが、無名なので誰にも気にされなかった。デビューが近づくとプロモーションで忙しくなった。宮良によれば、沖縄アクターズスクールが注目され始めた時期で、男性4人組というわかりやすさも注目されやすかったのかもしれないという。

デビュー後の日々、紅白と武道館

デビュー後はスケジュールが詰まっていたが、宮良は「こなしていた」と言う。島育ちで周りをあまり気にしないので、街もぶらぶら一人で歩いた。東京では5〜6回引っ越したが、必ず商店街の近くを選び、カウンターのある店に一人で入ってマスターと仲良くなった。そうした東京のつながりは今も宝物だという。一方で一人の時間も大事にするタイプで、帰りたいときに帰れる店をたくさん見つけていた。

チャートの順位のような数字の目標について、宮良は、自分たちは知らなくていいと考えていた。それは事務所やレコード会社のビジネス側の仕事で、メンバーはレコーディングを終えて「いいのができたね」と喜び合う。オリコン1位に入るかどうかを考えることはなかった。

歌いたい気持ちについては、ISSAというボーカルがいるので特になかったと話す。アルバムでラップをしたり、コーラスで歌ったりした。2000年ごろにはソロプロジェクトがあり、ISSAと宮良がそれぞれアルバムを出した。宮良はこのとき、ミュージシャンに曲を書いてもらったり、BEGINに相談に行ったりした。三線を弾き始め、自分で詞を書く作業もこのとき初めて経験した。

紅白歌合戦には1998年から2002年まで5年連続で出場した。宮良の記憶では、初回は「Rhapsody in Blue」だったという。6年目の2003年に選ばれなかったときも、大きな焦りはなく「あ、そうなんだ」ぐらいだったと話す。

中学1年で抱いた夢だった武道館には、ファーストツアーの初日に立った。幕が開いた瞬間の感動には、母への思いも重なっていた。取材の年の2月には、久しぶりに武道館でCHAGE and ASKAのライブを見た。その1か月後には沖縄アクターズスクールのイベントで、宮良自身がまた武道館のステージに立った。「何とも言えない2月でした」と宮良は振り返る。

沖縄から音楽の才能が生まれる理由

沖縄からなぜ音楽の才能が多く生まれるのか。聞き手の問いに、宮良は「永遠のテーマ」で答えるのは難しいとしつつ、いくつかの仮説を挙げた。アクターズスクールがあったからか。本島に米軍基地が多く、外国の音楽が流れていたからか。BEGINのようにこうした景色の中で育ち、旧盆のような先祖崇拝や家族・島のつながりの文化があるからか。

宮良は、沖縄の人のDNAに「歌って踊れる」ことが刻まれているわけでは絶対にないと考えている。そのうえで、風土的なものではないかと話した。本土とは歴史的背景や文化、伝統が少しずつ違い、交わらない部分があるからこそ個性が出やすいのかもしれない。ただし簡単には言えない、とも付け加えている。

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気づかないまま病んでいた日々と、飲酒運転の事故

宮良はその後グループを離れる。1年間休養する形だったが、そのまま戻らなかった。休養中のことはあまり記憶にないという。病んでいたからだ。

聞き手は、不祥事を起こして病んだのか、それ以前から病んでいたのかを尋ねた。宮良の答えは「その前から」だった。理由については、グループなので色々あったとだけ話した。誰かが悪いというより、自分がそこについていけなかった部分もあったという。

宮良が強調したのは、当時の自分が病んでいることに気づいていなかった点だ。後になってスタッフから「あのときお前はもうやばかった」と言われた。病んでいる人はたぶん自分で気づかないまま、一人のときにマイナスへ、マイナスへと向かい、悪循環に入るのだろうと語る。上京したてのころのフランクさも、そのころには失われていた。

事故の前から、心の中にはグループを辞めたいという気持ちがあった。宮良は飲酒運転という「とんでもないこと」で事故を起こしたとはっきり述べ、多くの人に迷惑をかけたと反省を口にした。そのうえで、事故の「おかげで」などとはとても言えないと断っている。一方で、心の隅に「もしかしたらお母さんがそうしてくれたのかな」と、自分で勝手に逃げ道を作ってしまった部分もあったと認めた。

当時の自分に何か言えるとしたら何と言うか。この問いに、宮良は「たぶんない」と答えた。海を見て3日休むといったことをしても関係なかった。時間が必要だったのかもしれない、という。

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32歳での帰郷は「逆のデビュー」

脱退から帰郷までの6年ほど、宮良には特に仕事がなく、ときどきライブをする程度だった。このままでいいのかという葛藤は、最後の1年ほど強くあった。帰郷を決めたのは、その前の年の盆に小浜島へ帰っていたときだ。3日目の送り日に、ふと「お母さんが戻ってこいと言っているな」という直感があり、その場で東京を引き上げると決めた。行くときも帰るときもすべて母がきっかけだと宮良は言い、「なんだそれって感じもあるかもしれないけど」と付け加えた。

32歳で戻った島の暮らしを、宮良は「逆のデビュー」と表現する。芸能界よりハードかもしれない、とも言う。理由は伝統行事だ。細かいものを合わせると年に10ほどあり、集まりも多い。方言も使う。説明書はなく、丁寧に教えてくれるわけでもない。自分から聞かないと手探りでしかできない。宮良は後輩に聞きながら、地道に覚えていった。旧盆の期間は前日から30日まで宿を休みにしていて、地元として行事をきちんとやらないと島には住めないという。

帰ってきた当初は「少し見下されている」と感じたと宮良は話す。ずっと東京にいたこいつは何もわからないだろう、という雰囲気があった。ただ、それは覚悟して帰ってきた。島にずっといる人にとって行事は当たり前だが、一度離れると忘れてしまう。それを取り戻す作業は大変で、今もわからないことが多い。これは宮良だけでなく、外へ出て戻った人は皆経験していることで、「俺が戻ったときはもっときつかった」と言う人もいるという。

一方で、良かったこともある。16年間の沖縄生活と16年間の東京生活で、どちらの良さも悪さも知ることができた。そんな人はほかにいないのではないか、と宮良は話す。

帰郷時は独身だった。妻は島外の出身で、小浜島のリゾートホテルのスパでエステティシャンとして働いていた。港で見かけて気になり、声をかけて一緒に飲むようになったという。

民宿の経営も最初からうまくいったわけではない。母がやっていたので何となくは知っていたが、実際には接客も掃除も料理もしなければならない。最初の2〜3年はがむしゃらだった。しっくりくるまでに10年かかったという。

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3900万円のクラウドファンディング

3年前、コロナ禍のころ、宮良はフィンランドのボートメーカーAxoparの船を八重山の海に浮かべたいと強く思った。しかし金額が大きい。妻からクラウドファンディングを勧められたが、人からお金を募ることにためらいがあり、2か月ほど考えてから始めると決めた。その後も数か月、文章を考え、「お前は本当にできるのか」と自分と向き合った。自分の軸がぶれたら絶対にできないと思い、やるからには必ず達成すると決めたという。

宣伝はSNSのほか、チラシを作って各地の友人に送り、連絡を取って頼んだ。出だしは一気に伸びたが、中だるみがあり、終了の2〜3日前でも目標の半分に届いていなかった。知人からは「大丈夫?やばくない?」と電話が来た。それでも宮良には妙な自信があり、「大丈夫、絶対大丈夫」と言い続けた。すると、無理だと思っていた周りが「あいつ全然諦めてない」と盛り上げてくれた。最後の2日ほどで2000万円近くが集まり、達成した。

DA PUMP時代に世話になった人たちも応援してくれた。最終夜には、ライブを手がけていたコンサートプロデューサーが「ライブどころじゃない」と言いながら、ずっとクラウドファンディングを気にしていたという。コロナ禍の暗い時期だったので、知人から「最高なイベントだった、ありがとう」と言われたこともあった。支援者は1047人ほど。リターンは原則として無期限にしており、タイミングが合わず乗れていない人も多いので、全員が乗り終えるまで船を綺麗に保つつもりだという。

DA PUMPは、宮良以外にもメンバーが抜けてISSA以外が入れ替わった後、再び紅白に出場した。宮良はそのことを「1ファンとして」喜ぶ。翌年はDA PUMPの30周年で、30年歌い続けているISSAはすごいと話した。今も家族ぐるみで仲が良く、この日も本当はISSAの家族と石垣で1泊する予定だった。旧盆で宮良が動けないため取りやめたという。

これからのこと、子どもたち、島の人の強さ

今後について、宮良は特別な計画はないと話す。子どもは小学4年と2年の男の子。船は新しくなり、宿もようやくしっくりきた。今は毎日、客をどう楽しませるかに集中している。自由人なので、来年あたり何かやりたいことが出てくるかもしれない。出てきたら全力でやればいい、という。

今の望みは、毎日ツアーを事故も怪我もなく終えることだ。客が島を出るとき、少し緩んだ表情で帰ってもらえるように、一日一日を丁寧に締めくくりたい。宮良はそれが意外と難しいとも言う。人間は余裕がないと切羽詰まり、「今の言葉遣い、ちょっとトゲが出ちゃったかな」ということになる。東京で追われる日々の辛さも知っているからこそ、流れるように遊んでもらいたい。食事でも何でも「こうでなければいけない」というルール作りは好きではなく、その人に合った流れを自然に作りたいと話した。

子どもには、普通に育ち、自分が誇れるものを一つでも見つけてくれればいいと願っている。家族が仲良く健康でいられれば十分で、勉強ができなくてもかまわない。芸能界に行きたいと言われたらどうするかという質問には、こう答えた。薄っぺらい熱意ではなく、自分でしっかり決意して報告してくれるなら全力で応援する。身近なことなら「やってみれば」でいいが、あの世界に行くならちゃんと決めてもらう。ただ、どちらにしても自分はノーとは言わないだろう、という。

聞き手は、以前取材した僧侶が「何でもいいから信じるものがある人は強い」と言っていたことを紹介した。宮良は、小浜島の人はその意味で皆強いと応じた。中学3年まで島で聞いてきた行事の音が体に残っていて、それが生きる糧や強さにつながっている。都会では生きる糧を頑張って見つけなければならないときがあるが、島では暮らしを大事にすること自体がすでにそれになっている。「だからみんな元気ですよ」と宮良は語った。

港で溺れかけた聞き手と、命を救った一言

取材後、宮良は取材班の宿を探してくれた。民宿の隣で泊まれることになり、夜の旧盆行事の撮影も後で相談することになった。港の食堂で昼食をとった後、事件が起きる。

港でシュノーケリングをしていた三谷が溺れかけたのだ。港の中は浅いが、船が入るため深く掘られた場所がある。サンゴがありそうな場所を探しているうちに急に足がつかなくなり、4メートルほどの深さの場所へ流された。三谷は、最初はそれほどでもないかもしれないと思ったが、パニックになり、「助けて」と叫び続けたという。宮良はその声に気づかなかった。気づいたのは長男のセアくんだった。駆けつけた宮良は、助けを求めているのが三谷だとわかって驚いたという。三谷はテトラポッドのほうへ流されていて、その先へさらに流されていたら危なかったと振り返った。

宮良は「簡単に人は溺れますからね」と話し、旧盆の間は海に入ってはいけないという言い伝えにも触れた。宿に戻った三谷は、まだ体が震えていると繰り返した。人生で初めての経験で、これからはライフジャケットを着け、人がいる場所で泳ぐと話している。この日の夜8時、取材班は宮良の家で食事をとり、旧盆の行事に同行する約束をした。