河江肖剰が語るクフ王の大ピラミッド:何のために、誰が、どう造ったのか
VAIENCE バイエンス約4500年前、ギザに建てられたクフ王の大ピラミッドを、古代エジプト人はどのように築いたのか。建設に関わった人々は本当に奴隷だったのか。内部に未知の空間はあるのか。VAIENCEの「バイエンストーク」はこうした問いを、ギザのピラミッド・タウンの発掘やピラミッドの3D計測に携わってきたエジプト考古学者・河江肖剰に投げかけた。河江は発掘資料と実験考古学の成果をもとに答えている。そのうえで、ピラミッドを見るときには石の大きさや神秘性よりも、その背後にある人間の組織や国家の仕組みに目を向けるべきだと話す。
白く輝いていた本来の姿と、段階的に変わったギザの景観
番組のナレーションは、ピラミッドの成り立ちから説明する。約4600年前、王の墓は日干しレンガのマスタバから巨大な石造の階段ピラミッドへと変わり、その後建築技術が急速に発展して、約4500年前にギザでクフ王の大ピラミッドが誕生した。
河江によれば、現在見えている姿は建造当初とは大きく違う。いまの大ピラミッドは石灰岩が露出しているが、もとは表面を良質で真っ白な化粧板が覆っていた。化粧板は後の時代にはぎ取られ、再利用されてしまった。そのため本来は、太陽の光を反射する美しい四角錐だったと考えられている。頂上には、古代にベンベン石と呼ばれたキャップストーンがあり、おそらく金と銀の合金であるエレクトラムがはめ込まれていたという。当時はナイル川の氾濫で、ピラミッドの麓近くまで水が来ていたともナレーションは伝える。
河江は、三大ピラミッドが最初から三つ並んでいたわけではない点も強調する。クフの時代のギザには大ピラミッドが一基あるだけだった。続いてカフラーが第二のピラミッドを建てると二基の景観になり、クフの孫にあたるメンカウラーが第三のピラミッドを造って初めて「三大ピラミッド」になった。一基、二基、三基と、それぞれの時代に違う景色があったというのが河江の説明である。三基とも、もとは化粧板で輝いていたという。
雨が降り、サバンナに近かった4500年前のギザ
当時の自然環境も、現在の乾燥した大地からは想像しにくいものだったと河江は言う。4500年前のギザは今より雨が多かった。その根拠として河江が挙げるのは、自身が発掘していたピラミッド・タウン、つまり当時の居住地の遺構である。そこにある日干しレンガ造りの大きな壁を調べると、レンガが雨で溶けた跡が見られるという。
出土した動物の骨も手がかりになる。人々は羊、ヤギ、牛といった質の良い肉を食べ、豚も少し食べていた。魚も大量に食べている。さらに、現在なら東アフリカで見られるようなガゼルやハーテビーストの骨も出ている。こうした点から河江は、当時のギザ周辺はサバンナに近い環境だったとも言えると述べる。
大ピラミッドの内部を歩く
続いて河江は、観光客として大ピラミッドに入る場合の経路に沿って内部を説明する。正規の入り口は現在閉じられている。観光客は、9世紀ごろのアラブの支配者アル=マアムーンが盗掘のために開けたとされる穴から入る。その穴を進むと上昇通路に出る。上昇通路との交差点のあたりには、下へ向かう下降通路もつながっている。
下降通路は非常に狭く、河江の言葉では「罰ゲームみたいに」ずっとしゃがんだまま進む。地表から30mほど下ると地下の間に着く。未完成の部屋で、なぜ未完成なのかには諸説ある。冥界を表しているという説や、そこから上に別の部屋を造ろうとしていたという説があるが、行き止まりで何もない。下降通路はほかのどこにもつながっていないので、上昇通路まで戻るしかない。
上昇通路もしゃがんで上っていく。しばらく進むと、ピラミッド内部で最も大きい空間である大回廊に出る。天井の高さは約8.7m、河江の言い方ではおよそ9mで、持ち送り式という方法で天井が少しずつ狭まっていく。初めて入る人には神秘的に感じられるかもしれないという。大回廊をさらに上った奥に、最後の部屋である王の間がある。王の間だけは石の材質が違い、部屋全体が花崗岩でできていて、少し暗い雰囲気だという。
大回廊の手前から水平に進むと、通称「王妃の間」がある。ただし、実際に王妃が埋葬されていたわけではない。王の間が暗く赤い花崗岩でできているのに対し、この部屋は白い石灰岩で造られている。そこから女性的だとみなされ、現代になってそう呼ばれるようになったと河江は説明する。
王の間の上には、「重量拡散の間」と呼ばれる5層の部屋がある。特別な許可がなければ入れない場所である。最上部は切妻式の三角形になっていて、上からかかる重さを分散させる役割を担っている。聞き手に「古代の技術から考えると複雑ですね」と言われると、河江は「めちゃくちゃ複雑」と応じた。これほど巨大で複雑な構造を、地下ではなくピラミッドの内部に造ったのはクフ独特だという。
なぜ造られたのか:王墓であり、世界観の表現でもある
ピラミッドの目的について、河江の答えは基本的には「王の墓」である。ピラミッドにはミイラも財宝もないとよく言われるが、それはクフ王のピラミッドに限った話ではない。世界遺産に登録されているメンフィス地区では70基以上のピラミッドが見つかっているが、王のミイラが完全な形で見つかった例はない。古代エジプトの王墓はほぼすべて盗掘されているからだと河江は言う。
一方で、ほかのピラミッドからは、ミイラの断片や、取り出した内臓を納めるカノプス容器の一部が見つかっている。ギザの三大ピラミッドにも石棺があり、カノプス容器を納める場所もある。こうした点から、王墓であることは「ほぼほぼ間違いない」と河江は述べる。ただし、ピラミッドは単に王を葬る場所だったのではない。太陽信仰、冥界の神オシリス、世界が生まれたとされる原初の丘などと結びついた、宇宙創生をはじめとする彼らの世界観と密接に関わる建造物でもあったという。
なぜ巨大化したのか:国家の成立と富の集中
王墓がなぜこれほど巨大になったのか。河江はもっと大きな視点で考える必要があると言う。ピラミッドが造られる約500年前に、エジプトに初めて国家が成立した。現代人には国があるのは当たり前でも、当初は国という概念そのものがなかった。
ナレーションの説明によれば、国家が成立すると行政や税の仕組みが整い、国中から集めた富が中央に集まるようになった。その富をどう使うかを考えたとき、彼らは王の墓を造ろうと考えた。河江は、国家成立から500年ほどのあいだに王墓がどんどん巨大化していった理由をこのように説明する。
建設者は奴隷だったのか:ピラミッド・タウンの食生活
かつて、ピラミッドを造ったのは奴隷だと言われていた。河江によると、この説の起点は「歴史の父」ヘロドトスの『歴史』にある。河江が子どもの頃まではその説が広く語られ、ハリウッド映画にも鞭打たれる奴隷がピラミッドを造る場面が描かれていた。
しかし、河江の師であるマーク・レーナーが隊長を務めたピラミッド・タウンの発掘調査では、そうした痕跡は見つかっていない。むしろ見えてきたのは非常に消費の大きい社会だった。パンを焼く大きな壺から、パン一つの大きさを計算する実験を行ったところ、約9500キロカロリーという超高カロリーのパンになった。これが4日に1度ほど配給されていたと河江は見ている。大量の羊やヤギの骨も出ており、2日か3日に1度は肉を食べていたことになる。河江はこれを古代としては「信じられない」ことだと話す。ナイル川で獲れるナマズやティラピアも大量に食べていた。さらに、ナイルアカシアを固形燃料として盛んに燃やしていた跡も見つかっている。これらから、建設者たちはかなり良い暮らしをしながらピラミッドを建てていたと推測できるという。
ただし河江は留保もつけている。中央集権国家のなかで王の権力は絶対であり、その権力のもとで人々が集められたことは間違いないだろうという。それでも、鞭打たれる奴隷のイメージとは違うというのが河江の見解である。
何人で造ったのか
古代の人口は正確には分からない。一つの方法は、食料の供給量から逆算することである。非常に大まかな推定だが、古王国時代の人口は100万から300万人ほどだったと河江は紹介する。
大ピラミッドの建造に関わった人数にはさまざまな説がある。一つの推定では2万から3万人程度とされる。ただし全員が現場で石を積んでいたわけではない。現場で作業できる面積には限りがあるので、そこから考えると実際にピラミッドの作業に当たったのは4000人ほどではないか、と河江は見る。それ以外の人々は、食料の供給や物資の運搬などで関わっていたのではないかという。
石を切り出し、運び、据える
ナレーションによれば、建設はまず土地の選定から始まった。ギザは砂漠の砂地ではなく、石灰岩でできた台地である。古代エジプト人はこの台地を土台の一部として利用し、星や太陽の観測によって、各辺がほぼ正確に東西南北を向くよう方位を定めたと考えられている。
石切り場はピラミッドのすぐそばにある。ギザ台地で良質な石が採れることが、この場所が選ばれた理由の一つだろうと河江は言う。石を切るときには、閃緑岩などの硬い火成岩でできた石のハンマーを使い、人力でひたすら叩いて削った。叩き続けるとハンマー自体も削れて丸くなる。角度を変えながら使い続け、最後に真ん丸になって使えなくなったら捨てる。そうして捨てられたハンマーを、4500年後に考古学者が見つけることもあるという。
ある程度形を整えた石は現場に運ばれ、そこで再び加工するか、形が整っていればそのまま据えた。大きな石はおそらくソリに載せて運んだ。ピラミッド内部には、ギザから数百km南、エジプト南部の国境近くにあるアスワンから運ばれた60〜70トンの巨大な花崗岩もある。こうしたものはソリで運ばれたのだろうと河江は考えている。ソリで運ぶ様子の記録も実際に残っているという。
据え付けにはロープを使ったが、重すぎるとロープだけでは動かせない。そこで石に切り込みを入れ、てこの原理で押して据えた。それでも大変なので、下にモルタルを敷いて滑りやすくした。モルタルは固まれば接着剤のような役目も果たす。
部屋の造り方にも特徴がある。ピラミッドの部屋は基本的に地下にあり、岩盤をくり抜いて造られている。しかし大ピラミッドと、その前にクフの父スネフェルが造った赤ピラミッドと屈折ピラミッドだけは、部屋が地面より上にある。そのため、くり抜いたのではなく、ピラミッドを積み上げながら同時に空間も造っていったと河江は説明する。
積み上げの方法:傾斜路はどこにあったか
石を高く積み上げた方法には現在も複数の仮説がある。そのなかで河江は、傾斜路が「ほぼほぼ間違いない」と答える。傾斜路は古代エジプトで数千年にわたり使われ続けた方法だからだ。議論が分かれているのは、傾斜路の形状である。
河江が現在発掘しているのは、アビドス南のシンキにあるピラミッドである。クフの父か祖父の時代のもので、「シンキ」は地名であり「新規」の意味ではないと河江は断っている。このピラミッドには四つの面それぞれに傾斜路が残っていて、四方から石を運んだことが分かっているという。
大ピラミッドについて、河江は考古学者が重視する「コンテクスト」、つまり周囲の状況から考える。大ピラミッドはギザ台地の北端に立っており、北側はすぐ崖なので傾斜路を造れない。東と西には、ピラミッドの建造から数年後には王族や貴族がマスタバ墓を建て始めている。そうなると傾斜路を置けるのは南側しかない。しかも南側には巨大な石切り場が残っている。このことから河江は、ある高さまでは南側からの直線的な傾斜路で建て、その後はピラミッドの外側に螺旋状の傾斜路を造っていったのではないかと考えている。
この場合、最後の傾斜路の角度は20度近くになり、急すぎると指摘されることがある。しかし河江によれば、同時代のほかの傾斜路を調べると同程度の角度のものが実際に存在する。したがって20度は不可能な角度ではなく、重さについても2〜3トン程度の石であれば問題なく運べたはずだという。
「数分に1個」という計算は成り立たない
ナレーションは、大ピラミッドには平均約2.5トンの石が230万〜300万個使われたと言われていると紹介する。ただし、石の大きさや内部の密度が分かっていないため、これらはいずれも推計である。この個数を推定建造期間の約20年で割り、1個ずつ順に積んだとすると、数分に1個というペースになる。
河江はこの計算を退ける。1個ずつは積まないだろうという。石がまとまって運ばれてくれば10個を一度に積んだかもしれないし、その場で加工しながら次々に積んでいく。こうした計算は数字のマジックやトリックのようになってしまうと河江は言う。個数自体も分かっていない。ただ、実験考古学者の計算でも、人力での建造は十分可能な数字だとされている。
河江がむしろ知りたいのは、人々をまとめた組織力と人の動かし方である。実験考古学でも、大勢でロープを引くと力が分散し、一気に引くのは難しいという。古代の人々はそれができていた。河江はもう一つの例として、約100年前の記録を挙げる。エジプト最大の神殿であるカルナックのアメン神殿を修復した際、当時の人々は落ちていた何十トンもの石を重機なしで運んでいた。その様子を写したモノクロ写真が残っており、ちゃんと運べている。そこから河江は、人々をまとめる方法があったのだろうと考える。たとえば歌である。「えいやほ」のような掛け声は今でもよく使われており、そうした何かがあったのだろうと河江は話す。
現代に大ピラミッドは造れるか
古代の技術が現代より高かったのかと問われると、河江は「ない」と答える。技術的には今の方が上である。現代に国家として造れないとすれば、それは社会的・政治的に大問題になるからだと河江は見る。
実際の試算として河江が紹介するのは、1978年ごろに大林組が社内誌『季刊大林』で行った見積もりである。それによると、当時の価格で1250億円、工期5年ほどで造れるとされた。現代なら造れるのだろうと河江は言う。ただし、それを当時の技術で成し遂げたことの労力と時間は、まったく次元が違う。
河江はクフ王の石棺を例に挙げる。現在では墓石にも花崗岩が普通に使われるが、当時の花崗岩は王だけのものだった。クフの棺は花崗岩の塊をくり抜いて造られている。今なら人工ダイヤモンドの工具で簡単にくり抜けるが、4500年前は人工ダイヤどころか鉄も青銅も一般的ではない銅の時代だった。どうやってくり抜いたのかという問いに、河江は「気合いと根性ですよね」と答えた。実験考古学によれば、銅の工具で花崗岩をくり抜くには2万8000時間かかる。何チームに分かれて作業したかにもよるが、棺一つにおそらく9年から10年近くかかったことになり、時間の感覚がまったく違うと河江は言う。
ナレーションはこれを補足している。銅では花崗岩を直接削れないため、古代エジプト人は石英を含む砂を研磨剤に使い、砂をかけながら銅製のドリルを動かして少しずつ削った。クフ王の石棺にも、ドリルや筒状の工具によるものと考えられる加工跡が残っているという。
ミューオンが見つけた未知の空間
大ピラミッドで人が入れる主な空間は、長らく地下の間、王妃の間、王の間の三つだった。ほかにも部屋があるのではないかという話は昔からあったが、話の域を出なかった。それを科学的に見つけたのが、名古屋大学を含む日本・フランス・エジプトの国際調査チーム「スキャンピラミッド」である。
ナレーションによれば、チームは2017年、ミューオンを使った透視調査で大ピラミッド内部に未知の空間を発見したと発表した。ミューオンは宇宙線が大気中の原子と衝突して生まれ、地上に降り注ぐ素粒子である。厚い石も通り抜けるが、物質が厚く密度が高いほど数が減る。そこでピラミッド内部に検出器を置き、飛来するミューオンの数と方向を測った。その結果、既知の構造では説明できないほど多くのミューオンが通過する領域が確認された。北側の入り口付近でも2016年に同様の調査で別の空間が見つかっており、2023年には内視鏡による内部の撮影にも成功している。
河江の説明では、大回廊の上に大回廊と同じくらいの30m級の空間があり、チームはこれを「ビッグボイド」と呼んでいる。入り口付近で見つかった通路状の空間は「ノースフェイス・コリドー」と呼ばれており、撮影に成功したのはこちらである。一方、ビッグボイドはピラミッドの中心部にあって物理的に近づけず、現状ではミューオンのデータがその存在を示唆しているにすぎない。石を一つ外せば届くような場所ではなく、どれだけドリルで穴を開ければよいのかという話になる。そもそもピラミッドは文化財なので傷つけることは許されない。そのため、ビッグボイドの直接確認は難しいと河江は見ている。
ビッグボイドには何もない、と河江は推測する
ビッグボイドの中身について、河江は「中は気になりますけど」と前置きしたうえで、何かがあるとは思っていないと話す。大ピラミッドで最も重要なのは王の間である。王の間を造る過程で至上命令だったのは、ピラミッドも通路も壊れないようにして、そこに王の遺体を埋葬することだった。ビッグボイドはそのために造られた空間、つまり通路や空間を守るための構造だと河江は推測しており、中には何もないと考えている。
では、さらに別の未知の空間はあるのか。河江は「ないと思う」と答えつつ、「ただビッグボイドもないと思ってましたからね」と付け加えた。北側に別の通路があるのではないかという見方は以前からあった。ただ、河江たちが想定していたのは、切妻の大きな構造体の下だった。実際にはその裏側に見つかったという。この空間に意味があることは、河江たちの3次元計測調査からも示唆されている。それでも河江は、これ以上はないだろうと話した。
「小さいな」から始まった河江のエジプト
河江は大ピラミッドに1000回以上は行っていると言う。しかし19歳で初めて訪れたとき、最初に抱いた印象は「ちっちゃいな」だった。「これぐらいか」「何もないな」と感じたうえに、物売りがしつこかった。ラクダ引きが変な日本語で「全部ワンダラー」と迫ってきて、うんざりしたという。
河江がエジプトに興味を持ったのは、中高生の頃に見たテレビ番組がきっかけだった。フランスのジル・ドルミオンらが大ピラミッド内部に未知の空間があるという仮説を立て、水平通路の向こうにドリルで穴を開けた。これは問題にもなった。穴からは砂が出てきて、空間の発見には至らなかった。その後、日本の吉村先生が電磁波を使った探査で空間があるかもしれないと示し、それを面白いと思ったという。大学受験に失敗した後、自分が学びたいのはエジプトだと考えて現地へ渡った。
ナレーションによると、河江はその後およそ16年間エジプトで暮らした。4年間ガイドとして働いた後、奨学金を得てカイロ・アメリカン大学に進学し、エジプト考古学を本格的に学び始めた。
知識が深まるにつれて、ピラミッドの見え方は変わった。遺跡は予備知識なしで第一印象を味わうべきだという考え方もある。しかし河江は、知識を持ってから行く方が圧倒的に楽しめる「派」だと言う。王家の谷なら壁画の色が残っていて驚けるが、大ピラミッドの内部は何もない。それでも、王の棺として初めて花崗岩をくり抜いて造られた石棺があり、部屋全体が初めて花崗岩で造られた空間がある。棺一つに9年かかったと思えば、すごいと感じられる。だから今はピラミッドが本当に大きく感じられるのだと河江は話す。
ピラミッドの背後にある「人間のシステム」
ナレーションは、人類が4500年間ずっとピラミッドに魅了されてきたわけではないとも述べる。長い年月のうちにピラミッドは忘れられ、建材として石を持ち去られた時代もあった。世界的な関心が再び高まったのは、ナポレオンのエジプト遠征以降に考古学が発展したこの200年ほどのことだという。
では現代人にとって大ピラミッドとは何か。河江は時間のスパンから語り始める。現代人は数年どころか数か月、数日といった短い単位でものを見がちである。しかし巨視的に見ると、4500年前に生まれた国という概念、行政という概念、税という概念は今も使われている。それらはもしかすると4500年後も変わらないかもしれない。一方で、石造の巨大建造物を造ることのように、すでに失われたものもある。
何が古代から今まで変わらないのか。それを知るためにピラミッドを見るとき、人はつい神秘性や石の大きさに目を奪われる。しかし河江が見るべきだと言うのは、「ビハインド・ザ・スクリーン」、つまりその裏にある人間の営みのシステムである。それは人間の文明の根幹に関わるものであり、おそらく4500年後にも残る。そこを学ぶことで人間を理解できるのではないかと河江は述べる。
繰り返される盛衰のサイクル
大ピラミッドを生んだ強大な中央集権国家も、永遠には続かなかった。河江は「人間やっぱね、変わんない」と言う。官僚がしだいに力を持ち、力を持った官僚は腐敗する。そのサイクルからは抜け出せない。歴史に学べとよく言われるが、答えはすでに出ている。ピラミッドの時代で言えば、自然災害の影響もありながら中央集権体制が崩れ、そこからまた新しいものが生まれてくる。文明はこのサイクルを繰り返してきた。
問題は、それをどう捉えるかだと河江は言う。人間の定めとして受け入れる人もいれば、違う形に発展できると考えて新しいシステムを生み出そうとする人もいるだろう。権力を集中させるべきではないと考える人も出てくるだろう。ただ、社会はさまざまな人のさまざまな考えのなかで成り立っているので、一筋縄ではいかない、と河江は話を結んだ。番組は最後に、王朝が滅びても大ピラミッドは残ったと振り返り、文明が栄えて衰え、また新たな社会が生まれるという栄枯盛衰は人類にとって避けられない定めなのか、という問いを残して締めくくっている。
今回のバイエンストークは大ピラミッド。およそ4500年前、古代エジプト人はいかにしてこの巨大建造物を築いたのでしょうか?
古代の技術から考えると複雑です。めちゃくちゃ複雑ですね。気合いと根性ですよね。
数百万もの石を切り出し、運び、積み上げた人々は本当に奴隷だったのか?
2日か3日に1度ぐらい肉食ってるとか。歌とか歌うんですよね。
そして未知の空間には何があるのでしょうか?
未知の空間、部屋があるんじゃないかっていうのはずっと昔から言われていて。今回はエジプト考古学者・河江肖剰をゲストに、皆様を大ピラミッドに残された4500年の謎へご案内しましょう。
今からおよそ4600年前、エジプトで王の墓は日干しレンガのマスタバと呼ばれる形態から、巨大な石造の階段ピラミッドへと姿を変えました。その後、建造技術は急速に発展。およそ4500年前、ギザの地にクフ王の大ピラミッドが誕生します。
しかし現在私たちが目にしているのは本来の姿ではありません。
誕生時はもう全くというか、やっぱ違ってますよね。今はピラミッドって石灰岩で大ピラミッドはできているんですけれど、やはり4500年間の間で表面の化粧板っていう良質な、もう真っ白のものがはぎ取られて、これ再利用されちゃうんですけれど、後の時代に。なくなっているのが、昔は本当に綺麗な四角錐の、何でしょうね、太陽の光を浴びて反射するような形だったと想像されてますし、あとピラミッドの頂上部ですよね。そのピラミッドの頂上部のところには、おそらく金と銀の合金のエレクトラム、これがはめ込まれるような、ベンベン石と古代で呼ばれてたんですけれど、キャップストーン、あるいはピラミディオン、その頂上の石があったので、本当にすごい景色というか建造物がギザ台地にそびえ立っていたっていう形だと思います。
また当時はナイル川の氾濫によってピラミッドの麓近くまで水が来ていました。白く輝く大ピラミッドが水面に映る。現在とはまるで異なる光景が広がっていたと考えられています。
三大ピラミッド、3つとも実際にはそういうキラキラだったんですが、ただギザって元々当然ですけど一大ピラミッドしかなかったわけですよね、クフの時代に。で、続いてカフラーという方が2番目のピラミッドを建てますけれど、2つ目のピラミッドが建った時にはギザの二大ピラミッドで、また全く違う光景がそこにはあったので。我々が今見ている三大ピラミッドっていうのは、その3番目の、クフ王のこれ孫に当たりますけれど、メンカウラーが作って初めて三大ピラミッドになったので。ギザの一大ピラミッド、二大ピラミッド、三大ピラミッドっていうので、それぞれに異なる景色が大地にはありました。
そしてその景色を取り囲んでいたのは、現在の乾燥した大地からは想像しにくい自然環境でした。
4500年前のギザっていうのは、今よりももっと雨は降ってましたね。なんかね、ピラミッドと雨ってあんまりイメージが、想像がつかないかもしれないんですけれど、実際に私が発掘調査をしていたピラミッド・タウンっていう当時の居住地があって、そこに人々が実際に住んでました。レンガで作られた本当に大きな壁なんですけれど、そこの壁遺構を調べると、日干しレンガが雨によってこれ溶けてるんですよ、雨によって。
また出てきてる動物の骨なんかを調べると、彼らが食べていたのは非常にいい、羊とかヤギとか牛とかね、実は豚なんかもちょっと食べていたり、あと魚なんかもたくさん食べてるんですが、その他にも今でいうところの東アフリカで見れるようなガゼルとかハーテビーストとか、そういったのもあったので、サバンナに近いような形にも言えると思います。
このように現在とはまるで異なる環境の中に築かれた大ピラミッド。それではその内部には一体どのような構造が存在しているのでしょうか?お次はクフ王の大ピラミッド内部の探索に向かいましょう。
ピラミッドって今、例えば観光客で行くとすると、正規の入口から入れないんですよ。正規の入り口は閉まってしまっていて、今行くのは後の時代、9世紀の太守アル・マームーンっていう、アラブの支配者ですよね、エジプトの、がいたんですけれど、その人が盗掘用に開けたって言われている穴から入ります。
で、そこの穴から入っていくと上昇通路っていう通路に到着します。で、その上昇通路っていうのは上の玄室に繋がっていくものなんですけれど、上昇通路と共に下の方にも行く下降通路っていうのも、実はちょうどその交差点ぐらいのところに繋がるんですけれど、下降通路っていうところから入っていくと、非常に狭い中ずっとね、しゃがんでしゃがんでしゃがんで、なんか罰ゲームみたいにずっとしゃがんで、地下大体あれは30mぐらいだったかな、地上から行くと未完成の部屋に到着する。
で、そこ未完成の部屋で、なんで未完成なのかっていうのは諸説あって、冥界を表してるとか、あるいはそこのところから別の部屋を上に作ろうとしていったんじゃないかっていう説はあるんですけれど、もう行き止まりです。何もない。未完成。で、そこの下降通路はもうどこにも繋がってなくて、もう上昇通路に戻るしかないので。
で、戻ってまた今度上昇通路まで行くと、今度上昇通路もまたしゃがんでいくんですけれど、しゃがんでしゃがんでしゃがんでいって、しばらく上まで上がっていくと、今度ピラミッドの中では1番大きい大回廊っていう、天井高が9mぐらい、8.7かな、9mぐらいある、持ち送り式って言うんですけれど、少しずつ少しずつ天井が狭くなっている、すごいこう、何でしょうね、初めて入る人はなんか神秘的っていう風に感じる人もいると思うんですけれど。
で、その空間に入って、さらにその空間を超えた奥に1番最後、王の間があります。で、王の間だけは石の材質が違っていて、部屋全体が花崗岩になっている、ちょっと暗い感じです。
で、もう1つ部屋があって、そのもう1つの部屋っていうのは、大回廊っていうのをずっと上に上がると玄室なんですけど、大回廊を今度水平にそのまままっすぐ行くような部屋もあって、それが王妃の間って通称言われてます。ただ通称だけで、実際に王妃が埋葬されていたのではなくて、そこは王の間が花崗岩の暗い赤い石で作られているのに対して、王妃の間は石灰岩の白いもので作られているので、女性的っていう風な、現代の呼び名にはなっています。
さらにこんな特殊な空間も存在すると言います。
王の間の上に重量拡散の間って呼ばれている5つの矢倉の部屋があります。ここは本当に特別な許可がないと行けないところですね。で、重量拡散の間っていう部屋があって、1番上のところは切妻式の三角形になっていて、それによって上からの重量を拡散するっていう、そういう役目になっている部屋があります。
古代の技術から考えると複雑ですね。
めちゃくちゃ複雑ですね。あれだけ巨大なものを、やっぱり複雑なものを作るっていうのは、クフ王以外にないので。やっぱりピラミッドの地下ではなくて、ピラミッドの中にそれだけ複雑なものを作るっていうのはクフ独特ですね。
複雑な空間をその内部に作り込んだクフ王の大ピラミッド。古代エジプト人は一体何のためにこれほど巨大な建造物を築いたのでしょうか?
ピラミッドが作られた目的というのは、やはり基本的には墓ですね。やっぱり王墓として作られているので。クフであればその墓をピラミッドとして作って、その中に玄室、王の間があり、棺と。よくピラミッドはそれでも中にミイラもないし財宝もないっていう風には言われるんですけれど、これはクフ王のピラミッドに限らず、エジプトのピラミッド、今例えばメンフィス地区、世界遺産の1つに認定されているところで、70基以上のものが発見されていますけれど、そういったところから、じゃあ王のミイラが完璧な形で発見されているのかと言うと、これはやっぱり盗掘に遭ってしまってるのでないんですよね。基本的に古代エジプトの王墓っていうのはもうほぼほぼ盗掘されるので。
ただ他のピラミッドなんかを調べてみると、ミイラの断片とか、内臓を取ってそれをカノポスの容器っていうのに入れるんですけれど、その容器の一部とか、こういったものが見つかっているので。ギザの三大ピラミッドもそれぞれ石棺があったり、カノポスの容器を納める場所があったりするので、王墓というのはほぼほぼ間違いないと思います。
ただピラミッドっていうのは単純に王の墓を納めるというだけではなくて、太陽信仰と関わってるとか、冥界の神オシリスと関わっているとか、あるいは世界が生まれた原初の丘と関わっているとか、そういった宇宙創生、彼らの世界観、こういったものと密接に結びついてはいた建造物です。
ではなぜ王の墓はこれほど巨大な建造物へと発展したのでしょうか?その背景には古代エジプトにおける国家の成立がありました。
これはもう少し大きな視点で考えないといけないと思うんですけれど、ピラミッドが作られる500年ぐらい前に、初めてその国というものができるわけですよね。今の現代人の我々の感覚だと、国ってあって当たり前かもしれないんですけれど、国の概念がなかったんですよね、当初は。
国家が成立すると行政や税の仕組みが整えられ、国中から集められた富が中央へ集約されるようになります。そしてその富をどのように用いるのかを考えることになります。
彼らが考えたのは、それをピラミッドに、王墓に、王の墓に作ろうっていう風に考えたわけですよね。そのために最初の500年前のものからどんどんどんどんとピラミッドっていうのが、王の墓でしょうね、王の墓っていうのが巨大に巨大になっていくっていう風な理由だと思います。
こうして古代エジプト人の信仰と国家に集中した富によって大ピラミッドは誕生しました。では、現代のような科学技術のない4500年前に、人々はいかにしてこれほど巨大な建造物を築き上げたのでしょうか?お次は大ピラミッドの建造方法に迫ります。
大ピラミッドの建造には、石を切り出すもの、運ぶもの、積み上げるもの、そして彼らを支える数多くの人々が関わっていました。
昔エジプトのピラミッドを作った人たちはやっぱり奴隷だって言われていたんですけれど、これは古くは歴史の父ヘロドトスが書いた『歴史』という書物の中に、奴隷によって建てられたっていう風に言っていたので、その説というのがずっと、本当に私が子供の頃ぐらいまでは言われていたり、ハリウッドの映画の中なんかにも、なんか鞭でね、奴隷によってピラミッドが作られているシーンなんかが再現されていたりしたんですが。
私たちが発掘調査、マーク・レーナーっていう私の先生なんかが隊長になった発掘調査をしたピラミッド・タウンなんかを見る限り、そういったものはない。非常に何でしょうね、超消費社会がそこにはあったので。食べているものもものすごくいいもの食べてますし、パン1つ焼く壺みたいなのがあるんですけれど、そういったものを考えて、計算して実験考古学でやったことがあるんですけど、9500kcalの、もうなんかすごいでかい、もう超高カロリーのものを多分4日に1度ぐらい配給されてたので。
あるいは発掘調査なんかをしていくと、大量の羊とかヤギとかの骨が出てきて、これは古代においては信じられないんですけどね、2日か3日に1度ぐらい肉食ってるとか、とんでもないことが分かったり。あとはナイル川から取れるナマズ、ティラピア、そういったものを大量にやっぱり食べているっていうのも分かっているので、食事はすごくいいものを食べてるっていうのが分かってます。
さらに固形燃料も、4500年前にしては信じられない、ナイルアカシアっていうね、固形燃料をバンバン使って火を焚いていたりもするのが分かったりするので、非常にいい暮らしをしながらピラミッドを建ててたんだろうというのは推測できます。
ただもちろん当時として、中央集権国家の中で王の権力というのは絶対なので、その王の絶対的な権力の中で人々が集められたっていうのは間違いはないと思うんですけれど、ただ鞭打たれた奴隷たちというのとは違うと思います。
このようにピラミッドの建造を行っていたのは奴隷ではなかったというのが、現代科学によって導き出されている答えなのです。それでは、一体どれぐらいの人数によってピラミッドは建造されていたのでしょうか?
当時のやっぱり古代の人口って分からないんですよ。今のようにやっぱり人口を数えられるわけではないので。で、その中でじゃあ人口の推移どうするのかと言うと、1つの方法としては、どれくらいの食料の供給量があったのかっていうことから逆算するっていうような方法もあって、もう本当に大雑把なんですけれど、古王国時代のピラミッドを作られた時代であれば100万から300万で。
その中で、じゃあ大ピラミッドを作った人たちがどれくらいいたのかっていう推測は、いろんな説はあるんですけれど、1つの推測では2万から3万ぐらいの人たちがピラミッド建造には関わったんじゃないか。ただ2万から3万っていうのが全員ピラミッドを作ったのかっていうとそうではなく、ピラミッドのその現場で活躍できる面積の問題もあるので、そこから考えると4000、それぐらいでピラミッドをしていて、その他の人々は例えば実際に食料を供給するとか、物資を運ぶとか、そういった形で関わっていたんではないかな。
そして大ピラミッドの建造は土地の選定から始まります。ギザは砂漠の砂地ではなく、石灰岩でできた台地です。古代エジプト人はこの台地を土台の一部として利用し、星や太陽を観測することで、各辺がほぼ正確に東西南北を向くよう方位を定めたと考えられています。こうして建造の基準を整えた後、石を切り出し、運び、積み上げる作業へと移っていきました。
石はまず大事なのが、石切り場から運んでくるんですけれど、石切り場はすぐそばにあります。ギザであればギザ台地、ここに良質な石が取れるっていうので、そこをおそらく選んだんだと思いますね。で、そこのところで切って運ぶんですけど、切り方もどうやってやったのかって言うと、基本的には石のハンマーを使います。石のハンマーはこれは火成岩製の、閃緑岩とか、そういう硬い石のハンマーを使って、人力でガンガンガンガンガンガンガンガンガンとこう削っていきます。
で、面白いのが、ガンガンガンガン削るとやっぱり削れていくので丸くなってくるんですよ。最初は石のハンマーみたいなのがあったら、ある程度の形で削ってくんですけど、丸くなったらちょっとこう変えて削って、変えて削って、最後まん丸になって使えなくなるなと思ったら捨てるみたいな。で、そういうのを我々考古学者が4500年後に見つけるとかあったりするんですけれど。
で、ある程度形を整えたら、それをそのまま現場に運んでいきます。で、現場に運んでいって、そこでもう1度加工したり、あるいはもうある程度形が整っていたらそのままそれを設置していくような形になります。
で、運ぶ時に大きいものはおそらくソリに載せてたはずです。例えばピラミッドの中では70tとか60tとか巨大な花崗岩、これはアスワンっていう、ギザからずっと数百km離れた南の、エジプトの南の国境のところなんですけど、そこから運ばれた石なんかがありますが、そういう巨大なものはソリにおそらく載せられたのかなとは思います。ソリの記録とかいうのも実際に残っているので。
で、じゃあ現地のところで、じゃあこちらのところに設置しようっていう時には、もちろんこれ紐とかをね、使って運んでいって、設置する時もそういう風に紐を使うんですけれど、あまりにも重いと紐だけでは無理なので、テコの原理を使って、石なんかをこう削って、そこでぐっとテコを使って押して設置するとか。ただそれだけでも大変なので、下にモルタル、こういったものを敷いて、潤滑油ではないんですけれど、潤滑剤として設置しやすくする。で、さらにモルタルっていうのは固まったら今度こちらのところ接着剤みたいにもなるので、そのようにして石っていうのは積んでいったりします。
で、石を運びながら、大ピラミッドに関してもなんですけれど、ピラミッドって基本的には地下に部屋があるんですよね。つまり地下に部屋があるっていうことは、くり抜いて部屋作ってるんですけど、大ピラミッドと、あと大ピラミッドの前に作られた、クフの父親のスネフェルが作った赤ピラミッド、屈折ピラミッドだけは、ピラミッドの中、台地よりも上にあるので、それはくり抜いたんではなくて、ピラミッドを作ると同時に空間も作りながら作ってます。
このように石を切り出し、運び、配置する方法は明らかになりつつあります。しかしそれらを高く積み上げた方法については、現在も複数の仮説が存在しています。石の積み上げにおいて最も有力な説はどのようなものなのでしょうか?
もうやっぱ傾斜路ですね。傾斜路はもう古代エジプトにおいて数千年間ずっと使われてたので、もう間違いなく、ほぼほぼ傾斜路だと思います。で、その傾斜路の形状がどうだったのかっていうのは、今いろんな説がある形ですね。
例えばその本当に残っている傾斜路から考えると、私が今発掘調査をしているのは、クフのおそらく父親もしくはおじいさんの時代の、シンキっていう、シンキは場所の名前で新しいって意味ではなくて、のピラミッドがあって。そこのところはピラミッドの4つの面にそれぞれ傾斜路が残ってるんですよ。そのために4つの面から石を運んだっていうのが分かってたりしますね。
ただクフ王の方に関して言えば、これはやっぱりコンテキストっていうのを私たち考古学者は重視するんですけれど、周囲の状況、これすごい重要で。例えば大ピラミッドはギザ台地っていう台地に建ってるんですけれど、北はギザ台地の端っこなんですよ。北端なんですよ。つまり北側からはもう台地の端っこなんで、そこに傾斜路って作れないんですよね。もうすぐそばは崖っぷちになってるんで、バンと。
で、西と東って言うと、クフのピラミッドが建てられてから数年後にはもうマスタバって言って、貴族とか王族たちが東と西にはお墓建て始めてるんですよ。そう考えると傾斜路ってどこに建てるかって言うと、南側しかないんですよね。で、なおかつ南側に石切り場が残ってるんですよ、巨大な。そのために南側から直線的な傾斜路で、ある一定の高さまではピラミッドは建てられたと思います。で、その後はおそらく螺旋状に傾斜路っていうのを、外側にですけど、作っていったんじゃないかなと思います。
ただ1番最後の傾斜路の角度っていうのが20°近くになっちゃうのかな。それは非常に高いっていう風には言われるんですけれど、私自身なんかが別の同時代、その時代の他の傾斜路なんかを調べると、同じぐらいのものってやっぱり存在するんですよ。そこから考えると、20°は全然不可能な傾斜角ではないですし、重さに関して言っても、2.5tのものっていうのはもう全く問題なく運べたはずです。
そしてクフの大ピラミッドには平均およそ2.5tの石が230万から300万個ほど使われたと言われています。とはいえ、石の大きさや内部の密度が分かっていないため、これらはいずれも推計です。そしてこの個数を、推定されるおよそ20年という建造期間で単純に考えると、1つずつ順番に積み上げた場合、数分に1個というペースになります。しかし。
いや、1個ずつ積まないでしょうね。シンプルな、そんな1個ずつ積みませんと。石がぶわっとこう運ばれてきたらね、もう10個いっぺんに積んだかもしれないし、その場で加工してどんどん積んでいくので、当然ながら1個ずつは積まないので。それはもうなんか数字の、何でしょうね、なんかもうマジックというかね、なんかトリックみたいになってしまうので。230万から300万個っていうその個数も違いますし、実際分からないっていう話をしましたし。
ただ実際にやっぱりピラミッドをそれで作ることが可能なのかっていう計算なんかも実験考古学の先生なんかはしていますけれど、十分に可能な数ではあります。むしろやっぱり私たちが知りたいのは、やっぱり人々をまとめた組織力とか。あと石が運べるっていう風な話はしたんですけれど、人力で運べるんですけれど、やっぱりこれは何でしょうね、人の動かし方、やっぱり途方もないものがあると思います。
実験考古学の中でも、ロープで引っ張る時にやっぱり分散するんですよ。一気に引けないんですよ。それを古代の人たちはしていたっていうのと、古代の人たちだけじゃなくて、これは100年ぐらい前の記録が残ってるんですけれど、エジプト最大の神殿でカルナック・アメン神殿っていう神殿があって、そのアメン神殿の再現というか修復作業かな、の時に落ちていた巨大な石、それこそ何十tもあるような石を、当時の人たちは重機なしに運んでいるモノクロの写真なんか残ってるんですけど、ちゃんとやっぱり運べてるんですよね。
そこから考えると、やっぱりちゃんと人々をまとめる方法はあったんだろうなと。昔で言うと歌とか歌うんですよね。歌歌ったりとか。えいやほ、えいやほとか、今でもよくやってんですけど、そういうやっぱり人々をまとめるような、こうね、何かあったんだろうなっていうのは思ってます。
今と比べて技術が高いというのは、ないですね。もう言い切っちゃいますけど、今と比べて技術が高いっていうのはないですが、むしろやっぱりそうですね、国としてじゃあ今ピラミッドを作るっていう時に、じゃあ作れるのかって言ったらね、やっぱり社会的に、政治的にやっぱり大問題になると思うので、それで作れないという話だと思います。
つまり現代の技術をもってすれば、大ピラミッドを作ること自体は決して不可能ではないと河江肖剰は話します。
1978年かなに、大林組がピラミッドを作ったらっていうことで、『季刊大林』っていう雑誌の中で、それの見積もりみたいなのをやったことがあるんですけれど、当時で1250億、その後工期が5年間かなで作れるっていう風に彼らは言ってるので、作れるんだと思います。ただやっぱり当時の技術でそれを行ったっていうことなので、その辺りはやっぱり労力は全く違いますし、かける時間も違いますよね。
例えば花崗岩、今だと墓石、お墓なんかの石はね、花崗岩で作られていますけれど、昔はやっぱり花崗岩って王だけのものだったので。クフの棺がそうなんですけど、くり抜いてるんですよね、バーンとね。で、今だと人工ダイヤ作ってね、くり抜けますけど全然。昔、人工ダイヤどころか鉄も一般的ではない、青銅も一般的じゃなかったので、銅の時代なの、4500年前って。
じゃあ、どういう風にして実際それくり抜いたのかって言うと、気合いと根性ですよね。実際にやっぱり銅とかを使って花崗岩をくり抜いていくっていう時に、これも実験考古学なんかでやってますけれど、2万8000時間かかるんで。これも何チームかに分かれていたのかっていうのにはよりますけど、おそらく9年、10年近くかかって棺1つ作るんで。そういうのを考えると、時間の概念とかね、それは全然違いますよね。
銅は花崗岩よりも柔らかく、そのままでは花崗岩を削ることはできません。そこで古代エジプト人は石英を含む砂を研磨剤として利用しました。砂をかけながら銅製のキリを動かし、花崗岩を少しずつ削っていったのです。実際、クフ王の石棺には現在も、キリや筒の工具によるものと考えられる加工痕が残されています。
現代技術を使えば大ピラミッドを再現することは可能です。しかし4500年前にそれを実現したのは、限られた道具を工夫し、膨大な時間と労力を積み重ねた古代エジプトの民の知恵と組織力だったのです。
建造からおよそ4500年。しかし大ピラミッドの内部は全てが明らかになったわけではありません。その石の奥には、今も私たちの知らない未知の空間が残されている可能性があります。
未知の空間が残っている可能性は、元々ピラミッドのその私たちがアクセスできるところは、メインの3つ、地下の間、王妃の間、王の間だけだったんですけど、まだ別の未知の空間、部屋があるんじゃないかっていうのはずっと昔から言われていて。ただそれはもう何でしょうね、話にしかすぎなかったんですけれど、それが本当に科学的に見つかったのが、宇宙から降り注ぐ素粒子ミューオンを用いて、名古屋大学含めた国際調査チーム、スキャンピラミッド・ミッション、フランス、日本、エジプトの調査チームが見つけたものですね。
2017年、研究チームはミューオンを利用した透視調査によって、大ピラミッド内部に未知の空間を発見したと発表しました。ミューオンとは、宇宙線が大気中の原子と衝突して生まれ、地上へ降り注ぐ素粒子です。分厚い石を通り抜けますが、物質が厚く密度が高いほどその数は減少します。そこでピラミッド内部に検出器を置き、飛来する数と方向を測定。その結果、既知の構造では説明できないほど多くのミューオンが通過する領域が確認されたのです。
また、北側入り口付近では2016年に同じくミューオンを用いた調査によって別の空間が発見されており、2023年には内視鏡による内部の撮影にも成功しています。
大回廊の上に同じような30m級の空間がある。彼らはビッグボイドっていう風に呼んでますけれど、が見つかったのと、あとは入口付近にもやはり通路のようなものがあるっていうの、ノースフェイス・コリドーかな、って呼ばれている、2つのうち1つの北側の方の通路は撮影にも成功。
ビッグボイドに関して言えば、もう本当にピラミッドの真ん中なので、アクセスはできないので、フィジカルな意味で本当に視認できるようなものではないので、今のところはミューオンの情報でしかその存在というのは示唆されてはいないです。石1つとかじゃないので、もう中なので。それこそもう穴をドリルでどれだけ開ければいいんだっていう話にもなってしまうので。やっぱりピラミッドは文化財なので、傷つけるっていうのはNGなので、そこのところはビッグボイドに関しては難しいと思います。
ではビッグボイドの中には一体何があるのでしょうか?
中は気になりますけど、私自身は中に何かがあるっていう風には思ってはいないですね。ここはやっぱりもう1番重要なのは玄室、王の間なので、その王の間を作るっていう過程の中で、王の間が作られた時にさらに重要なのは、ピラミッドが壊れずに、通路も壊れずに、そこに王の遺体を埋葬するっていうことがやっぱ至上命令というか、1番重要なことだったので、そのために作られた空間じゃないかなと思います。通路や空間を守るために作られたものだと私は推測してます。中に何もないと思います。
ビッグボイドの中に何かが納められている可能性は低いと考える河江肖剰。では大ピラミッドの内部に、さらに別の未知の空間が残されている可能性はないのでしょうか?
大ピラミッドの中はね、ないと思うんですけどね。ただビッグボイドもないと思ってましたからね。その北側のところは別のものがあるんじゃないかとはずっと言われてたんですよ、別の通路が。ただ位置が違いましたね。私たちが考えている位置とは違って、切妻の大きな構造体がバーンって見えてるんですけれど、その下にあるって思ってましたけど、その裏にあったんですよね。ただ今それは意味があるものだっていうのは、我々の3次元計測の調査からは示唆されてはいますけれど。まあそうですね、これ以上はないと思うんですけれど。
私、ピラミッド何回行ったのか、何回行ったんでしょうね。1000回以上は行ってるとは思うんですけれどね。
そんな河江肖剰が初めて大ピラミッドを訪れたのは19歳の頃。その時抱いた第一印象は現在とはまるで異なるものでした。
ああ、ちっちゃいなと思いましたね。これぐらいかみたいな。なんか逆に、え?みたいな、何もないなみたいな。で、逆にあと、なんかもう物売りとかがひどくてね、ラクダ乗らんか、ワンダラー、ワンダラー、全部ワンダラーとか変な日本語でね、来て、それでなんか無駄なみたいな、なんかそういう感じでしたね。
元々私がエジプトに、というかピラミッドに興味を持ったっていうのが、中高生ぐらいの時にテレビを見たのがきっかけで。今だとYouTubeにそれこそね、なるかもしれないんですけれど、そこのところで大ピラミッド内部には未知の空間があるんじゃないかっていうのを、フランスのパトリス・ゴイダンとジル・ドルミオンっていう人がやっていて。当時はピラミッドの中に穴とか開けたんですよね。水平通路っていう通路があって、その向こう側に彼らは仮説として空間があるはずだっていう風に言って、ドリルで穴を開けて、それをやってたんですよね。ただそれ結構問題になって、穴開けたっていうんで。
で、さらに空間発見されたのかって言うと、当時は穴のところから砂が出てきたんですよ。わっ、で、砂が出てきて、なんだみたいな。で、その後、日本のピラミッド研究を当時していた吉村先生が、電磁波を使ったら、もしかしたら空間があるんじゃないかみたいなことをやっていて、面白いなと思ったのがきっかけで。エジプトに、大学受験に当時失敗したんですけれど、失敗した後、自分が勉強したかったのがエジプトなので行ってみようと思って行ったのが、きっかけではあったんですけどね。
こうして19歳でエジプトへ渡った河江肖剰は、現地でガイドとして働きながら、およそ16年間をエジプトで過ごしました。4年ガイドを務めた後、奨学金を得てカイロ・アメリカン大学へ進学し、エジプト考古学を本格的に学び始めます。知識を深めるにつれて、かつて小さい、何もないと感じた大ピラミッドの見え方は次第に変わっていきました。
ピラミッドもそうなんですけれど、これ私もよく言うんですけれど、考古学とか古代の遺跡って、知識持ってから行くのと、知識なく行くのとでは全然違うので。例えばなんかこう第一印象で素晴らしいって感じてくださいってあると思うんですけど、私は知識持ってから行った方が圧倒的に楽しめると思ってる派ですね。古代のものってやっぱり想像によっていろんなものが見えてくるので。
現地なんかに行くと何にもないので。王家の谷、歴代のファラオが眠る、あそこは行ったら色が残ってたら、壁が残ってたりして、うわっと思うんですけれど、それと比べても何もないんですけど、それが4500年前に、初めて王の棺としては作られたくり抜かれた花崗岩とか、部屋としても初めて部屋全体が花崗岩で作られたとかいう風なものを考えて、棺1つに9年とか思うと、やっぱりすごいなと思うので。そういうやっぱり知識持ってから、古代に関しては行くと面白いと思います。だから今はピラミッドは本当大きく感じますね。
人類は4500年間ピラミッドに魅了され続けたわけではないですね。
ピラミッドは長い年月の中で忘れ去られ、時には建材として石を持ち去られた時代もありました。再び世界的な関心が高まったのは、ナポレオンのエジプト遠征以降、考古学が発展したこの200年のことです。では現代を生きる私たちにとって、大ピラミッドとは一体どのような存在なのでしょうか?
4500年後何が残ってると思いますかっていう。現代の人たちってやっぱりスパンが短いじゃないですか。数年よりも数ヶ月とか数日とか。でもそれをすごい巨視的な目で見た時に、4500年前に例えば国っていう概念とか、行政って概念とか、税って概念とかがまだ今でも使われてるわけですよね。そうするとそれは人類にとって、文明にとって、多分もしかしたら4500年後も変わらないことかもしれないので、そういうものを学べると思いますね。
でもそうじゃない、例えば石造で作るとかいうのはもうそれは廃されていってるし。何が今も古代も変わらないのかっていうのを見る時に、ピラミッドを見たら、そのピラミッドの神秘性とか、その石が大きいとかみんな見ちゃうんですけど、そうじゃない、ビハインド・ザ・スクリーンじゃないんですけれど、その裏に存在する人間としての営みのシステムですよね。それを、人間のやっぱり文明としての根幹に関わるものなので、おそらく4500年後もあるものなので、そこを学んだ上で人間を理解できるんじゃないかなと思います。
大ピラミッドを生み出したのは、王のもとに権力と富が集中する強大な中央集権国家でした。しかしその体制も永遠に続いたわけではありません。
もう人間やっぱね、変わんないんですよ。やっぱりその官僚がどんどん力を持ち始めるわけですよね。官僚が力を持ったらどうなるのかというと、腐敗するんですよ、やっぱこれは。でもそのサイクルからは抜け出ないんで。じゃあどうすべきかっていうのを、よく歴史から学べって言いますけれど、もう答えは出てるんですけれど、同じようなやっぱりサイクルを繰り返して。やっぱり文明、ピラミッドであれば、やっぱりそこのところから中央集権化っていうのが、これ自然の災害もあるんですけれど、滅んでいく。で、そこからまた新しいものが生まれてくるっていう、そういうサイクルを繰り返しているので、そこをどう捉えるかですよね。
もうそれは人間のある種の定めだとして捉えるのか、あるいはそうじゃない形に発展するっていう風に考える人たちがいれば、そこから別のシステムに、今度は新しいものを生み出そうとするようにする人もいると思いますし、権力はやっぱり集中させるべきではないっていう風に考える人も出てくると思いますし。ただやっぱり一筋縄ではいかないですよね。やっぱりいろんな人たちがいろんな考えの中で社会っていうのが構築されてるので。
4500年前、古代エジプトの繁栄の極みで築かれた大ピラミッド。王朝が滅び、時代が移り変わっても、その姿は現在まで残されています。文明が栄え、やがて衰え、そこから再び新たな社会が誕生する。人類にとってこの栄枯盛衰は避けることのできない定めなのでしょうか?
今回のバイエンスはここまで。またお会いしましょう。
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