杉村太蔵が語る「社会人偏差値」と、言語化しきれない人生

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概要

高田ふーみんが聞き手を務めるこのインタビューは、ゲストの人生を幼少期から順にたどる形式で始まった。ところが杉村太蔵は途中から、何度も語ってきた経歴をなぞる質問そのものに異を唱える。国体優勝から筑波大学中退、清掃員を経て外資系証券会社へ、そして国会議員を経てテレビへという経歴よりも、杉村が語ろうとしたのは「学歴より社会人偏差値」「過去は簡単に言語化できない」という考えだった。本稿では、話題の順序をおおむね保ちながら、その内容を整理する。

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テニスと「いい子」だった少年時代

杉村の父もテニスをしており、インターハイにも出場していたという。杉村自身は子どもの頃からテニスに触れ、本格的に始めたのは小学4年生ごろだった。どんな子どもだったかと聞かれると、「めちゃくちゃ優秀だった」「めちゃくちゃいい子だった」と答え、勉強もスポーツもでき、明るく、児童会長も務めた「いわゆるいい子」だったと振り返る。

テニスの実績として杉村がまず挙げたのは国体での優勝である。テニスは夏のスポーツで、北海道では半年ほど屋外でプレーできない。その北海道からテニスで国体を制したのは自分だけだと杉村は語る。国体優勝は高校3年生のときだった。

中学時代には、テニスの名門である九州の柳川高校からスカウトを受けた。全国中学選手権の会場で、柳川高校を何連覇にも導いた元デビスカップ監督の坂本監督から声をかけられたという。杉村は「北海道の高校で柳川を倒すことが夢なんです」と断り、監督は嬉しそうに「全国大会で待ってるぞ」と応じた。高田が「スポーツ漫画のワンシーン」と評したこのやりとりを、杉村は中学時代の大切な思い出として語った。

さらに、毎日新聞社が主催する毎日選手権の一般の部では、実業団選手も出る中で15歳10か月、高校1年生で優勝したという。この最年少記録はいまも破られていないと杉村は話す。

公立高校を選んだ理由と、体育館をめぐる思い出

進学先は札幌市立藻岩高校である。テニスがしたくてこの高校を選んだと杉村は言い、公立高校からの国体優勝は珍しいのではないかと付け加えた。旭川出身の杉村にとって札幌の市立高校は学区外からの受験で、市内から通う生徒より高い得点が必要だったという。学力の水準を問われると、旭川でいえば旭川北や旭川西くらいではないかとしつつ、その「賢さ」は自分の中で基準ではなかったと答えている。

在学中の思い出として杉村が「初出し」だと語ったのが、体育館をめぐる話である。冬の間、テニス部は体育館を使わせてもらう。本来は学校のルールでテニス部も使えることになっていたが、なぜか毎年テニス部が女子バスケットボール部に頭を下げに行く慣習があった。バレー部もバスケ部もそこそこ強かったが、せいぜいベスト4程度だった。全国レベルのテニス部から見て「まだ全国大会に行けないでしょう」という空気が出ていたかもしれないと、杉村は笑いながら認める。

当時の女子バスケ部のキャプテンからは、練習後に拾い忘れたテニスボールを「踏んだら怪我するから」と注意され、それが腹立たしかったという。一方で、バスケ部が使ったゴールは上げてから帰る約束だったのに、上げずに帰ることがあった。ゴールを上げないとテニスのサーブが打てず、しかもゴールを上げるレバーは彼女しか持っていない。杉村は学校中を探し回ったという。

聞き手から「何の話?」と突っ込まれつつ、杉村はこのキャプテンがいまはある自治体の議員になっていて、今でもよく会って話すと明かした。同じ高校の同期から政治家が2人出たことについて、「人間わからない」と語っている。

「学歴」をめぐる応酬

高田は自らを「学歴にうるさい」と言い、学歴は大事だと考えている。兵庫県出身で京都大学経済学部に進んだ理由を問われ、「ほんまに学歴が欲しかった」と答えた。

これに杉村は真っ向から反論する。学歴よりも「社会人偏差値」の方がよほど大事だというのが杉村の立場である。学歴が立派でなくても年収2億円ほどの人の方がいいのではないかと問い、京都大学も世界ランキングでは30〜50位程度だろう、学歴にこだわるならもっと上を目指せばいいと畳みかけた。高田が「日本で2番目なんで許してください」と返すと、杉村は「日本の2番のどこに価値があるよ」と応じている。

ただし杉村は、学ぶ力そのものの価値は否定しない。10代・20代の学ぶ力の結晶が大学や高校だとすれば、重要なのは社会に出てからも学び続けることだという。東大などを出た人は周りに大勢いるが、30代・40代になって学ぶ力を持ち続けている人と手放した人とでは、人生のレースで一気に逆転が起きると杉村は見る。学歴は学ぶ力を一つの形で証明できるが、社会に出てからの学ぶ力は証明できない。その「証明できない強さ」こそが重要だというのである。

「わけのわからない勇気」と稼ぐ力

杉村は手元のペットボトルを例に取った。これを人に売ってどれだけ利益を上げられるか。安く仕入れて高く売るのが商売の基本だが、どう安く仕入れ、どう付加価値をつけるかは、学生時代に勉強したかどうかに関係なく、社会に出てから同じスタートラインで学び続けるしかないと語る。

そのうえで杉村は、これから勝つのは「多分ダメだろう、でもとりあえずやってみる」という「わけのわからない勇気」を持つ人間だと主張する。実際にやってみると、やはりダメなことが多い。そこでなぜダメだったのか、何が悪かったのかを考えるのが学ぶ力であり、改善してもう一度挑戦する。それもまたダメかもしれないが、それでもやってみる。この勇気を持ち続けられるかどうかで30代以降に差が出ると、46歳の杉村は語った。自身も失敗の連続で、トライを繰り返す中で過去の失敗から教訓を得てきたという。

杉村は社会人偏差値を一言で言えば「年収」、つまり稼ぐ力だと定義する。学歴には「入って卒業する」というゴールがあるが、社会人にはゴールがない。だからこそ挑戦と学びをずっと続けられるモチベーションが重要になると杉村は考えている。

台本通りのインタビューへの異議

この時点で杉村は、インタビューの進め方そのものに注文をつけ始める。聞かれたことだけに答えるのはどうなのか、台本通りに進むわけがない、と。高田が大学、証券会社、小泉チルドレン時代の話を聞きたいと言うと、杉村は「もう飽きた」「その話何万回してると思ってんの」と返した。テニス部時代の体育館の話は初出しなのだから、そちらこそ価値があるという主張である。

それでも聞き手の質問に応じる形で、話は大学時代へと進んでいく。

筑波大学体育専門学群という進路

杉村はテニスで筑波大学体育専門学群に進んだ。スポーツの名門で、杉村によれば卒業後の進路は幅広い。アディダス、ウィルソン、ヨネックス、ダンロップ、ナイキといったスポーツ用品メーカー、コカ・コーラや味の素などの飲料・食品メーカー、プロ野球やJリーグの球団、オリンピック競技ごとにある競技団体、スポーツ新聞などのマスコミがある。前身が東京教育大学であることから、最も王道の進路は学校の先生だったかもしれないという。

証券会社の「底辺中の底辺」から

では、なぜ外資系証券会社に入れたのか。高田の問いに対し、杉村は筑波大学から入ったのではないと答える。大学を中退し、その会社で清掃員をしていたところ「うちで使ってやる」と声をかけられたのだという。

入社後の立場について杉村は、組織の中で「底辺中の底辺」だったと繰り返す。ほかの社員が資料作成といえばパワーポイントやエクセルで作るところを、杉村の仕事は分厚いレポートを正確にホチキス止めすることだった。30部を作るとき、いかに美しく仕上げるかにはそれなりにテクニックがいるという。学歴も資格もなく、少しでも役に立って首にならないよう必死だったと振り返る。

カフェラテの逸話

その必死さを示す例として杉村が語ったのが、カフェラテの話である。当時の調査部長は、その人の評価でソニー株が大きく上下するほど市場に影響力のあるアナリストだった。その部長のアシスタントがよくカフェラテを頼まれていたが、買ってくるのがとても遅い。オフィスは20階、タリーズは19階にあった。

ある日、アシスタントが戻る前に部長は会議に出てしまった。戻ってきたアシスタントは、行き場のなくなったカフェラテを自分で飲み始めた。そこへ部長が戻って「カフェラテは?」と聞くと、「飲んじゃいました」と答えたという。

杉村はこの部長に、今度から自分に買いに行かせてほしいと申し出た。そしてタリーズのアルバイトと仲良くなり、「自分が電話して『カフェラテ』とだけ言ったら、ほかを止めてでも真っ先に作ってほしい。自分が飲むのではなく部長が飲むものだから、誰も文句は言わない」と頼んだ。頼まれるとすぐ電話し、1階分をエレベーターではなく階段で駆け下りると、行列ができていてもカフェラテはもう出来上がっている。すぐに戻って「お待たせしました」と差し出すと、部長は早さに驚いたという。この部長は今でも杉村にアドバイスをくれ、さまざまな事業でも助けてくれていると杉村は話す。

上司に可愛がられるということ

杉村が自分の人生で自慢できることとして挙げたのは、上司に恵まれたことだ。証券会社では優秀な社員たちに可愛がられ、多くを教わった。その期間が人生で最も成長させてもらい、勉強させてもらった時期だと杉村は語る。政治の世界でも小泉純一郎や竹中平蔵らに、現在はテレビ番組のプロデューサーに、自分の息子のように育ててもらっているという。

可愛がられることの一つの定義として、杉村は「チャンスをくれた」ことを挙げる。ホチキス止めの清掃員出身の男に、「東京ガスが新しくつくった施設の説明会に、俺の代わりに宇都宮まで行ってきてくれ」と任せてくれた。これが杉村の人生初の出張で、今でも忘れていないという。

なぜ可愛がられたのかについて、杉村はライバル視されていなかったからではないかと推測する。高田が「雑魚臭」と言い換えると、それとも少し違うと否定しつつ、本当に末端の人間だったから育てがいがあったのではないかと話した。そのうえで杉村は、今の時代は学歴よりも愛嬌が重要だと言う。IQも重要だが、IQと愛嬌の組み合わせで考えると、IQが高くても愛嬌がない人より、IQがそこそこでも愛嬌のある人の方が結局チャンスが来るのではないか、というのが杉村の見立てである。

6年かけての中退と、80歳からの夢

筑波大学は6年かけて中退した。杉村は、中退したことを今でも人生の後悔として抱えていると明かす。「なんでもう少し頑張れなかったのか」と。同じく京都大学経済学部を6年生で中退した高田も、後悔していると応じた。

なぜ中退したのかとよく聞かれ、その場では何かしら答えるものの、どれも自分の中でしっくりくる理由ではないと杉村は言う。当時は就職氷河期で、大卒の内定率が6割に届かない状況だった。卒業まではあと10数単位ほどだったという。

杉村には人生最後の夢がある。やるべきことを一通り終えたら、80歳を過ぎてもう一度筑波大学体育専門学群に入り、80歳の体で体育を学び、「人生100年時代にどういう社会にしたらいいか」を卒業論文にして卒業すること。学歴にこだわっているわけではないが、中退のままでは死ねない、できるなら卒業してから死にたいと語り、自分の人生のこの部分は失敗したと本当に悔やんでいると述べた。

迷っていた時期もあったかと問われると、杉村は大いにあったと答える。今の自分がこの先に待っていると分かっていたら、あの頃のような不安や苦しさはなかっただろうという。明るく元気に映っているかもしれないが、自分の人生も悔しいことの連続だったと話し、ここで「そう簡単に言語化できると思ったら大間違いだ」と繰り返した。

テレビへの転身と「バッシング」の受け止め方

高田が楽しみにしていたという小泉チルドレン時代の話を切り出すと、杉村は「知ってるのにまた聞くのが嫌なのよ」と返した。若い2人なのだから新しいことを聞いてくれると思っていた、その話はほかの動画にいくらでも出ている、と。今日この動画で言いたいことは「自分の人生はそう簡単に言語化できない」ということだという。事前にこのチャンネルの動画を見て、Wikipediaをなぞるような質問が来るだろう、つまらなそうだと思ったので、違うことを伝えたかったと杉村は明かした。

それでも高田は、国会議員を辞めた後にテレビで引っ張りだこになった経緯を尋ねた。杉村によれば、声をかけてくれたのは『サンデー・ジャポン』だった。世間からバッシングされた政治家から、どう気持ちを切り替えたのかという問いに、杉村は「本当に申し訳ないけど、そうでもない」と前提を否定する。本当にバッシングされていたなら、テレビはそんなに使わないはずだという理屈である。

議員を辞めたときの不安については、元いた証券会社の人たちが「大丈夫だぞ」と支えてくれたと語る。そして、派遣社員で雑用から始めた自分だが、あのまま会社にいたら間違いなくトップになっていた、今ごろCEOだと「断言」した。杉村はここで「言い切る力が重要」だと付け加えている。

硬い本と格闘する訓練

杉村が自分の強みとして挙げたのは、健康で体力があったこと、そして文章を読んで理解する力があったことだ。視聴者にも勧めたい訓練として、硬い本を読み、歯を食いしばって自分なりに理解できるまで文章と格闘することを挙げる。これを証券会社に入ったときに叩き込まれ、今の自分にとても役立っているという。

メディアでは「ちゃらんぽらん」なイメージもあるが、実は日々勉強しているのかと問われると、杉村は「もし僕がちゃらんぽらんだったら」なかなか今のようにはならないのではないかと答えた。当選回数を重ねる政治家も、長く活躍するスポーツ選手も、陰で努力しているという。

その流れで杉村は、YouTubeを7年続けている2人に水を向ける。7年間、努力し、いろいろなことを試し、苦しい時期もあったはずで、それは学歴よりはるかに価値のある力だと杉村は言う。「京都大学の何とか学部」よりも、この7年間の方を社会は評価する、何をやってきたかが問われるのだと。

収録後に語られた「型」の話

杉村はこの後『TVタックル』の収録があると言い、高田は「難しすぎる回になってしまった」と戸惑いを見せる。杉村は締めの言葉として「言語化できないから人生は表にできない」と返した。

カメラが回り続けた延長戦で、高田は、いつもはゲストについて調べてくるのが礼儀だと考えていると話した。杉村は、それは正しいのではないかと応じている。今の課題を問われると、高田はYouTubeで過去に伸びた企画を繰り返すうちにマンネリ化し、新鮮さがなくなっていることを挙げ、もっと変化球のある企画をやりたいと語った。杉村は、過去の成功体験でやろうとするとそうなるのではないかと思ったから、今日はあえてまったく違うやり方をしたのだと明かす。高田は、ずっと時間を気にしながら型にはまっていたと振り返り、今日で課題が見えたかもしれないと答えた。

杉村は最後に、自分は「カレーを頼んだらミートソースが出てきて、それを美味しく食べる人生」がいいと語った。予定通りに進まない展開をどう受け止めるかという問いを残したまま、杉村は2人に「心から応援してます」と声をかけて収録を終えた。