「よろしくお願いします」は消えるのか――AIと消費電力による言語変化の仮説と、焼肉の焼き方から見えた「気遣い」の正体

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概要

ゆる言語学ラジオの雑談回である。前半では水野太貴が「丁寧な言い回しは、AIの消費電力を理由に近い将来消えるかもしれない」という仮説を出し、堀元見と議論する。水野自身もこの説を強く信じているわけではない。関心があるのは、消費電力が言語変化の要因になるという、これまでに見たことのない変化が起こりうるかという点だという。中盤では話が対面の会話に移り、水野が焼肉で肉を焼くのが速すぎるのではないかという悩みを、自著『会話の0.2秒を言語学する』の議論と重ねて掘り下げる。最後に同書の部数報告、印税寄付の今後、新しいポッドキャストについて話している。

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AIを挟んだメールは「AI同士の対話」になる

水野の出発点は、メールのやり取りにAIが入り込んでいる現状である。メールを書くときに生成AIを使う人は多い。受け取る側も、要件が詰め込まれた読みにくい「幕の内メール」をAIに要約させる。音声入力の精度も上がっており、水野の知人にはスマホに向かって話した内容をAIに整形させ、ビジネス文書やメールにする人がいるという。送り手も受け手もAIを使うなら、実際にはAI同士が対話しているような形になる、と水野は考える。

水野が面白がるのは、AIがカジュアルな話し言葉をフォーマルな文面に直している点だ。「このメールは失礼で腹が立つから、あなたの会社とは仕事したくないと返しておいて」という依頼が、きれいなビジネス文面になって送られる。受け手のAIはその包装をはがして中身だけを取り出す。堀元も、これでは余計な変換が二回起きているだけで、最初から中身を送ればよいという理屈は本質的にはその通りだと認める。

消費電力が敬語をなくすという仮説

ここで水野が持ち出すのが、OpenAIのサム・アルトマンCEOの発言である。ChatGPTに対する「ありがとう」「お願いします」といった礼儀正しい言葉が、数十億円分の電力消費につながっているという話だ。AIの消費電力が問題になれば、「お世話になっております」や「引き続きよろしくお願いします」は真っ先に削れる部分になる。そうなると、フォーマルとカジュアルの二つの形式を使い分けるのをやめ、消費電力を抑える観点から一本化する未来もありうる、と水野は言う。

その世界では、「よろしくお願いいたします」と送ると電力を無駄遣いするマナーの悪い人と見なされ、フランクな言葉遣いのほうが地球に優しく配慮が行き届いているとされるかもしれない。そうなってもあなたは敬語を使い続けるか、というのが水野の問題提起である。

堀元は、回りくどく真意を言わない話し方が嫌いなので、個人としてはこの方向に賛成だという。ただ、社会としては100年、200年経ってもそうはならない気がするとも言う。水野も、自分は二つの形式があるのは好きで、あってもいいと思っていると立場を明らかにしている。そのうえで、言語変化の要因として消費電力が効いたケースをこれまで見たことがなく、そこに新しい現象が起きるかもしれない点が興味深いのだと説明する。言いにくい言葉が変わったり、同じ意味の形式を二つ持つのは無駄だとして言語体系が効率を保とうとしたりすることはある。しかし消費電力という軸が加われば、丁寧な言葉以外にも予想外のところが変わる可能性がある、というのが水野の見立てである。堀元も、丁寧語かどうかはともかく、消費電力で言語行動が変わることは十分ありそうだと応じる。

ポケベル語と電報――技術の制約が言葉を変えた例

堀元は似た現象としてポケベルを挙げる。ポケベルは電話回線を使うため数字しか送れず、当時の女子高生は数字にメッセージを対応させる独自の言語を発達させた。「49」は「至急」で、待ち合わせ場所にいるから早く来いという意味になる。「11014」は「会いたいよ」を表していたという。1を「あ」とも「い」とも読み、「01」の部分は10から来ているのではないか、といった読み方の由来も、堀元が見ているサイトの説明として紹介された。堀元はさらに、文字数で課金される電報の世界でも、なるべく切り詰めて伝える工夫があったはずだと付け加える。水野はこれらをテクノロジーの制約による言語変化とまとめ、堀元はそのもっとドラスティックな変化が今起きていそうだと言う。

「言い訳」があれば慣習は一気に変わる

水野がこの説を推したい理由は、ほとんどの人がメールの「お疲れ様です」や「よろしくお願いします」に意味がないと薄々感じている点にある。水野自身、「引き続きよろしくお願いします」は何も言っておらず、何を引き続きお願いされているのかがずっと気になっていたという。誰かが「それはエコではない」と言い出せば、それを言い訳にして一気に変わるのではないか、と水野は考える。

堀元は、これは食器洗浄機が普及した理由と同じだと応じる。食洗機は「楽ですよ」と売っても「手で洗えばいい」と言われて広まらなかったが、「水道代が安くなり地球に優しい」と訴えたことで、それが購入の言い訳になって普及した、という話を聞いたことがあるそうだ。エコは言い訳としてかなり強い、というのが堀元の見方である。

水野はやや違う例として、Amazonの日本上陸を挙げる。本をネット通販で買える仕組みは、書店への配慮や面目があって、どの出版社も言い出せなかった。出版社が皆で組んで作るわけにもいかない。そこへ海外からまったく別の事業者が来たことで作れてしまった、という話を聞いたことがあるという。誰かが悪者を引き受ければ、欲しかった仕組みにあっさり転ぶ。言い訳を用意することが大事だ、と二人の意見は一致する。

水野はさらに、敬語をうまく使えず失礼になっていないかと不安に思っている人は多いと指摘する。ゆる言語学ラジオでも、失礼語辞典を読む回のように「誰かに失礼になるかもしれない」という話は再生数が伸びる。こうした潜在的な不安が広くあるなら、一形式でいいじゃないかという動きに共感する人も少なくないだろう、というのが水野の考えである。

非効率こそが礼儀だと考える人々

これに対し堀元は、今の社会を見るとそうならない気がすると述べ、非効率をよしとする人が多い例を挙げる。不動産投資の会社を経営し、インフルエンサーとしても知られる藤原社長が、日程調整ツールに怒っていたという話だ。

スピアのようなツールでは、リンクを開いて空いている時間を押せばその場でミーティングが確定し、カレンダー登録やオンライン会議のリンク生成まで済む。テキストで候補日を送ると、返事が来るまでの数時間に予定が埋まって往復が発生することがあるが、ツールなら確定を押した瞬間にカレンダーが押さえられるので行き違いがない。堀元はこれをとても便利だと思っている。ところが、40歳前後で合理的にバリバリ進めるタイプに見える藤原社長が、「最近の若いやつはツールで日程を送ってくるが、礼を失している」と強く怒っていた。

堀元はその気持ちがまったく分からないという。好意的に解釈すれば、「俺と会いたいなら日程をお前が真心を込めて送れ」ということだろうと推測する。それでもTwitterで賛同する人が多かったのを見て、相手のために無駄な時間を使うことこそが礼儀だと考える人は相当数いるのだと感じたそうだ。水野も、パートナーへのプレゼントにカタログギフトや金券が嫌がられるのは、相手のことを考えた時間の過程を喜んでいるからだと同意する。こうした価値観がなくならない限り「今後ともよろしくお願いします」もなくならない、というのが堀元の見方である。

堀元はさらに、宛名の「行」を二重線で消して「様」に直す慣習を挙げる。何の意味もなくインクの無駄だと何十年も思われながら続いている。結婚式の招待状の返信で「ご出席」の「ご」を消して丸をつけ、「喜んで」と書き添える作法も同じで、二人とも毎回ググるかどうかで盛り上がる(ご祝儀袋の書き方は二人とも毎回調べるという)。堀元は、みんなが資源の無駄だと思いながらも、常識を知っていることを示すプロトコルとして機能するから生き残るのではないかと考える。

水野は、それは今まで変える口実がなかったから均衡が保たれていただけだと返す。堀元も、インク不足はいま切実ではないが、電力のように切実な理由なら変わるかもしれないと一部認める。ただ、核融合が実用化されて電力逼迫がなくなるほうが早いかもしれない、とも付け加えた。水野も、技術の進展速度は考慮に入れておらず、あくまでシナリオの一つだと断っている。

AIネイティブの子どもへの懸念をめぐって

水野は最近、「AI時代に言葉をどう使うべきか」「人々が自分で言葉をまとめなくなることに危機感はあるか」といった取材をよく受けるという。ただ、自分にはあまり切実な危機感がなく、歴史的にこういうことばかりだったという意味で楽観的だと話す。堀元も、生成AIとのやり取りで脳が腐る(ブレインロット)という派手な見出しには、そんなことはないと思っている。

一方で水野は、言語化やビジネス文書の作成、悩みの相談を自分でやった経験のあるうえでAIに外注している大人と違い、それを一度もやったことのないAIネイティブの子どもがどうなるかには、かなり危機感があると述べる。言語学者の川原繁人先生が新著『言語学者、生成AIを危ぶむ』で示している立場も、言葉を習得途中の子どもに使わせることへの反対であり、大人の利用をやめろと言っているわけではない。水野自身も同じ立場だという。

堀元はこれに対し、Macが普及し始めた頃に「学生にMacを持たせると脳が腐る」という論調が流行ったが、今ではクリエイティブの源泉として高校生に与えようという動きさえある、と述べて楽観を崩さない。AIの出力を見て「そうじゃない」とやり取りするうちに、自分でも考えるようになるはずだという。

水野は、別の角度から予想を示す。テキストではAIを挟むことで精度の高い返答ができるが、対面ではそうはいかない。そのため、テキストチャットでの印象と対面での印象がずれる現象が起き、即座に応答できるアドリブ力がより評価されるようになるのではないか。『会話の0.2秒を言語学する』で、0.2秒以内に応答しないと能力が低い、あるいは否定的な感情を持っていると思われがちだと論じたことを踏まえた見立てである。堀元も、マッチングアプリのチャットを生成AIに書かせている知人は多く、面倒だからという理由で、中にはAPIを使って完全に自動返信させている人もいると聞いたと話す。

水野はさらに、手紙から電話、メール、LINEやDiscordと、人類はより速くやり取りする手段を求め続けてきたが、行き着くと疲れて揺り戻しが起きていると指摘する。そのうえで、子どもにデジタル機器を与えても大丈夫だったという経験から今もどんどん与えているが、AIまで行くと実は越えてはいけない一線だったのに気づいていないだけ、という可能性はないかと問う。それは事後的にしか分からないから、川原先生は警鐘を鳴らしているのだろう、と水野は言う。

川原先生が特に警戒しているのは、子どもがAIと会話するツールで、本の中ではベネッセのAIしまじろうが例に挙がっているという。子育て中の先生は、子どもが機械と遊んでいてくれると親として助かる気持ちは分かるとしつつ、身体性やマルチモーダル性を伴わない相手との会話で「会話とはこういうものだ」と学んだ子どもが、人間と本当に会話できるのかを問題にしている。堀元はここで、テッド・チャンの短編(自動で子どもを育てる機能を備えた木製のロボットのような人形に赤ん坊を育てさせる話)を思い出し、その結果、赤ん坊が木製のものにしか親近感を抱かなくなるという落ちだった気がすると紹介する。水野は、大人でもAIに依存し、AIとの対話の末に亡くなった人の遺族が訴訟を起こした例もあると付け加える。

最終的に堀元は、自分は「むちゃくちゃになったらそのとき考えればいい」と思っているのかもしれず、それは子どものいない人間の意見だと認める。自分の友人がそうなったら感じ方は変わるかもしれない、とも言う。水野は、AIへの危機意識は別として、望むと望まざるとにかかわらずAIによる言語変化は毎年のように観測されるだろうとまとめ、その候補として「引き続きよろしくお願いします」「お疲れ様です」、そして「田中は今不在にしております」のような敬語を挙げた。堀元は、取引先の社長に送ったメールに、秘書への「適当に丁寧な挨拶を添えておけ」という指示まで含めてそのまま返信されてきたというアメリカンジョークや、領収書の宛名に「前株で」と言ったらそのまま書かれる話を持ち出し、結局みんな直接的なコミュニケーションをとりたい欲があるので、それがむき出しになっていくのかもしれないと述べる。水野は、AIが人間の人間性をより強く照らし出すかもしれない、と話を締めくくった。

焼肉で肉を焼くのが速すぎる問題

対面のコミュニケーションの話が出たところで、水野が「僕、焼肉屋で肉を焼くのが速いですか?」と尋ねる。堀元は即座に速いと答える。二人は収録の合間にマネージャーと三人でよく焼肉に行くが、水野は三人分の肉をすごい勢いで焼いていくという。

水野がこの問題を考えるきっかけは、以前堀元に言われた「水野さんって定型の気遣いしかできないよね」という言葉だった。サラダを取り分け、おしぼりを配るなど気が利くように見えるが、言うべきでないであろう他人の秘密は平気で口にする。場面ごとに相手が何を望んでいるかを汲むことができていない、という指摘である。

これを踏まえて水野が自己分析すると、肉を焼くのも気遣いではなく、網という資源が空いていたら埋める、という最適化にすぎないという。それも同席者ではなく、店の回転率の観点での最適化だと口を滑らせ、堀元に「なんで店の人目線なんだよ」と突っ込まれる。サラダを取り分けるのは、誰も取らずに食べ始められない時間が無駄だから。グラスが空いたら次の飲み物を聞くのも、相手を思ってではなく、空いていたら埋めたほうがいいから。そこに真心はなく、自分が今まで気遣いと言われてきたものは、相手の心を参照しない「PのときはQせよ」という規則に落とし込めるものだった、と水野は整理する。もっとも、何もしないよりは上等だとも考えており、この人はこうしてほしそうだからこうする、という上の段階とのあいだには大きな認知的リソースの差があると述べる。

水野によれば、なかなか食べない人の皿に肉が滞留していれば気を回すことはあるという。ただ、堀元が同席者の皿に肉が4枚たまっているのを見たと言うと、水野は4枚になると検知すると答え、堀元に2枚で検知すべきだと言われる。水野は2枚だとゆっくり食べているだけの可能性があると反論しつつ、自分は腹が減っているから食べたいという欲望もあると認めた。

怖いのは、焼くのが速いと誰も教えてくれないことだと水野は言う。最適な焼き方は受験でも出なかったので、自分のような人間は網に何も乗っていない時間を埋めたがってしまう。堀元はこれを受けて、水野の人生は余白を埋め続けていると指摘する。まる一日どころか一時間も何もしない時間がなく、堀元と二人で食事に行くときでさえ、堀元がトイレに立った時間のために本を持っていく。焼き網もそれと一貫しており、水野は「余白を埋める」という一行のソースコードで表せる産業用ロボットだ、と堀元はからかう。

『会話の0.2秒を言語学する』と同じ構造

水野は、焼肉は例にすぎず、自著の話と構造が同じだと考えている。自分は間を埋めて早く動こうとし、そのリズムで場を支配してしまう。食べるのが遅い人や胃袋の小さい人もいるのに、焼くペースという場の資源を管理できる有利な立場にいながら、その務めを果たさず、自分が食べたいから焼いている。会議のファシリテーターでもないのに喋りすぎてしまうのと同じことを、自分はいろいろな場所でしているのではないか。言語学を勉強して会話の問題に気づいた今、それに気づいたときの恐怖は大きいという。

堀元は、水野は悩むのが好きで自分を痛めつけるのが好きだと言いつつ、実際には水野は一緒に焼肉に行った人を平均より圧倒的に楽しませる能力が高いと評価する。速く焼かれても誰も気を悪くしておらず、「こいつ焼くの速いな」と事実として思われているだけで、問題はないというのが堀元の見方だ。水野が、食べたいペースは直接観察できないと言うと、堀元は見れば分かると返し、自分は食べていない人がいれば次の一枚は自分の分だけ焼く、と説明する。水野はこれを聞いて、常に全員分を同時に焼いていたのは自分なりの公平の実践で、ロールズの無知のベールに従った「社会主義的な焼肉」だったと冗談めかし、焼けた後で分配すればよいのだから一枚ずつ焼いてもよいのだと初めて気づく。堀元は、人数分一気に焼くべきだという思い込みを「劇場のイドラ」ならぬ「焼肉のイドラ」と呼ぶ。

堀元は水野のこうした思い込みの別の例として、誰かに会う前の予習を挙げる。水野は、会う相手に著作があれば読んでいくことを鉄のルールにしている。できれば全著作を読み、厳しければ最新刊を一冊読むが、一冊だけだと後悔するという。月に会う著者の数を制限しないと予習量が追いつかないほどだ。堀元も読んでいったほうが楽しいのは分かると言いつつ、時間がなければ諦めて出たとこ勝負にする。水野の姿勢は肉を全部焼くのと似て強迫的に見え、それでなぜ楽しく生きられるのか不思議だと述べる。水野は、きついとはあまり思っておらず、読書は自分の認知特性に合っているからできるが、アーティストの全作品を聴いてから会うのは負荷が大きくてできない、と答えている。

焼肉を焼くべきは「一番がさつな人」

水野はそれでも、もっと場に合ったペースで焼ける人がいるのに、なぜ自分が率先して焼きたがり、しかもそれを気配りだと自己認識しているのか、という論点は残ると食い下がる。会話に参加しながらうまく焼くという理想の状態は存在しないのか、と問う。

堀元の答えは、存在しないのではないか、というものだ。細やかに気を配る人が焼くと、会話のリソースを配慮に持っていかれ、焼肉屋の店員のようになって場に入れない。それはその人がかわいそうだ。だから、あまり何も考えない人が焼いているほうが場全体の幸せは最大化され、一番がさつな人が焼くのが正しいと堀元は言う。「人は能力の限界まで出世する」というピーターの法則になぞらえて「人はがさつさの限界まで肉を焼く」とまで言うが、水野にはその例えは無理があると指摘された。

水野が、ネギタン塩をひっくり返してネギを全部網の下に落としてもいいのかと尋ねると、堀元は、みんな薄々気づいているが言わないだけで、会食での食事は社会的な媒介にすぎないから、よほどの食事ガチ勢でない限りベストの状態で食べられなくてもいいと思っているはずだと答える。水野は昔、目上の人に「肉を何回もひっくり返すな」と注意されたことがあり、肉汁が落ちて美味しくなくなるからだというその指摘が、焼肉に関する配慮が初めて芽生えた瞬間だったと振り返る。裏を返せば、それまで誰も言ってくれなかったということでもある。水野は視聴者に、自分の食べたいペースで肉を焼く人が焼肉を仕切っていたらどう思うか、コメントで教えてほしいと呼びかけた。

トングを持つことは責任を引き受けること

堀元によれば、みんなが一番嫌なのは、焼いていいのか、失敗したら嫌だとくよくよする状況だという。水野が、焼肉に失敗して嫌だということがあるのかと驚くと、堀元はそれを自己肯定感の高い陽キャの発想だと指摘する。

水野の考えでは、網に置かれた肉はその人の持ち物になり、管理責任はその人にある。トングは使われるために置いてあるのだから、誰かが使えばいいし、持って後悔したら置けばいい。これに対し堀元は、陰キャは一挙手一投足がおかしくないかを常に気にして生活していると説明する。トングを持てば責任を引き受けたことになり、一度持ったトングを置けば「焼こうとしたけれどどうしていいか分からなくなったんだな」という目を向けられる。だからサラダにトングが添えてあっても取り分けない。体育のバスケットボールでパスされるのが怖いのと同じで、ボールを持てば責任が生じる。堀元は、自分で肉を焼かねばならない状態は地獄の業火に焼かれるような罰であり、網の上の肉に自分を重ね合わせるとまで言う。

だから陰キャにとっては、水野が置いた肉が多少焦げていてそれを食べるほうが、責任を負うよりよほど軽い罪であり、水野が率先して焼いたり取り分けたりしてくれることはありがたい、というのが堀元の結論である。水野は、肉を焼くのはやめないが焼き方は調整しそうだと答えた。

網に置くことと、肉を管理することは別

話は焼き加減にも及ぶ。堀元は、水野がタンなどを赤みの残る状態で取らず、しっかり火を通したがると指摘する。レアのほうがうまいので、レアで食べればいいのにと薄々思っていたという。水野の答えは、網に置かれた時点で自由市場なのだから、なぜあなたが取らないのか、というものだった。堀元は三人で三枚なら一人一枚ずつだと思っていたが、水野にとってはそれも所有の条件ではない。

水野の世界モデルでは、空いている網という資源を活用するまでが自分の仕事で、三枚焼けばそれぞれ一切れずつ各自のものになる。置いた責任はあるので焼けたら回すが、取りたいタイミングで取ってもらえばよく、なぜ水野が「いいよ」と言うまで待っていたのかが逆に理解できないという。堀元は、水野が置いてトングを持っているのだから水野が面倒を見るのだろうと勝手に思っていた。

焼けているのに相手が取らず、どんどん焦げていく場合について、水野は、満腹なのかその部位が嫌いなのかを推論するが、基本的に不可解な自然現象のように捉えると言う。「焼けてるっぽいよ」と言うときには、網の脇ではなく相手の皿に置き、タレに放り込むこともあると水野が明かすと、堀元はそれを自己決定権の侵害、インフォームド・コンセントを無視したパターナリズムだと笑いながら責める。一方で水野は、相手が取らずに網の脇で焦げている肉は、いらないのだろうと判断してそのままにするかもしれないと言う。

ここで二人の違いがはっきりする。堀元は、自分が作った料理を一番うまい状態で食べてほしい欲があり、恋人に出した野菜炒めが放っておかれると気になる。冷めたものを食べて料理が下手だと思われたくないというプライドかもしれない、と自己分析する。水野は、自分の作った料理を食べてもらえなくてもどうでもよく、お腹がいっぱいなのか嫌いなのかと考えるだけだという。焼肉の網は同席者によって分割される領域であり、最初に置くことには関与するが、その後各自の領域で焦げたものについては関与しない、というのが水野の考えである。

堀元は、そのモデルで生きていない人も一定数いると述べ、陰キャの視点を再び説明する。焼肉全体を仕切るモデレーター型の人がいれば、その人が「焼けたよ」と言う前に食べると「なぜ今食べたのか」という目にさらされる。モデレーターがいなくても、変なタイミングで食べる人というレッテルを貼られるリスクがある。水野は、「変なタイミングで食べるよね」と言われるならキャラクターとしておいしいのではと返すが、堀元はそれこそ陽キャの発想で、陰キャは注目を避けるために参加しているのだと言う。文化祭の打ち上げに一人だけ来なかったら空気を壊したと思われるから仕方なく参加するのと同じで、ボールは持たされたくない。だから誰かが食べ始めるまで様子を伺い続ける。水野は焼けた肉をまず上座や偉い人から順に回し、自分は最後に取るので、責任を一切負わずに済む陰キャにとってありがたい。従いたい人は「従いたい」と言い出せないが、従いたくない人は「自分で焼くからお前は焼くな」と言える。だから水野はそのままでいい、と堀元は結論づける。元陰キャとして、良い従属先がいるのが一番嬉しいという。

水野は最後に、焼肉は正解を誰も教えてくれないのに参加者の裁量が大きく、人間力が出る場なのではないかと述べる。人を見て何を求めているかを考え、場全体をうまく整えられる人が良いとされる。どのくらい焼けたら美味しいと思うかや箸のマナーなど、文化資本の差も出る。水野の実家は、油が家中に飛び散るホットプレートで焼肉をする家だったので、焼肉にはあまりなじみがないという。堀元は、上流階級の焼肉のハビトゥスがありそうだと応じた。

『会話の0.2秒を言語学する』6万部と印税寄付のこれから

最後の話題は水野の著書の報告である。昨年8月末に刊行した際、告知動画で3万部突破を目標に掲げていたが、刊行から6か月の時点で6万部に達し、目標の2倍を達成した。番組内では報告していなかったため、改めて視聴者に感謝を述べている。印税の寄付については、収録時点から見て翌日の朝に、ゆる学徒カフェで贈呈式を行う予定だと話している。

目標を早く突破したため、次の目標は10万部に置いているという。10万部に達すると新潮社が革装の特装本を作ってくれる、というのも水野の楽しみの一つである。堀元の『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』はまだ2万6000部ほどだが、3000部ずつ重版を重ねており、水野はロングセラーの傾向だと評価する。

10万部に達したら、水野は寄付の枠を増やすつもりだという。今回は寄付を受けたいという言語学関係者から多くの応募があったが、一人に絞らなければならなかった。枠を増やすとともに、企業にスポンサーとして一枠どうかと営業をかける展開も考えている。

これに対し堀元は、NPOを作らないと機会損失が大きいと指摘する。法人が個人に普通に寄付すると損金に算入できず、100万円を渡すとそれにかかる法人税(堀元の例では33万円ほど)も負担することになり、企業にとって実質133万円の持ち出しのように見える。寄付金を損金算入できる認定NPOを通せば法人税分が浮くので、そうしないと企業は手を挙げにくいだろう、というのが堀元の見立てである。認定を取るのは大変なので、どこかに落ちている認定NPO法人を買ってこられないか、と冗談を交えつつ話し、隠れ蓑にして汚職や脱税をするつもりは一切ない、と「いい意味で」を連発して笑いを取った。そのうえで、理念に共感した企業が認定NPOに寄付し、そこを通じて言語学の関係者にお金を渡す形なら違法ではなく、事務や窓口を担ってくれるところが名乗り出ればの話だと真面目に整理している。

水野によれば、今回の寄付は所得税と住民税を払った後のお金から出している。刊行時の告知動画では経費に算入すると話していたが、それは厳しそうだと分かったという。学生に納税させるか自分が納税するかという選択なら、自分が納税するほうがいい、と水野は判断した。この分野は堀元が得意なので相談するかもしれないと話し、10万部突破時に協力できる関係者がいれば、と呼びかけた。登録者が約44万人いるのだから、まだ38万人は買っていない計算になる、という冗談も添えられている。

新ポッドキャスト「神保町で会いましょう」

水野は本の執筆動機の一つとして、堀元抜きで面白いものを作れるか試したいと語っていたが、同じ動機で始めたものがもう一つある。水野がMCを務める街ブラのポッドキャスト「神保町で会いましょう」である。コンセプトは、ゲストを招いて神保町に何かを「プロジェクション」してもらうことだという。

初回のゲストは、ジャンクションの写真集で知られる大山さんだった。水野が大好きなこの人物は、古本屋でもカレー屋でもなく竹橋ジャンクションに向かい、街のコンクリートを見て「拡張された千葉」と言ったという。千葉の山を切り崩して砂を採り、それがコンクリートになって東京の建築ができているので、大山さんは神保町に千葉を投影したわけである。収録時点ではまだ2回分しか録っていないが、水野は結構面白いと感じている。

初回を聴いた堀元は、水野がしっとりしていて、文化人っぽい会話をしていてモテそうだったと評し、ゆる言語学ラジオでは堀元に引きずられているだけなのかと冗談を言う。水野は制作の方針の違いを説明する。制作に入っているポッドキャスト制作会社は、スタジオでがっちり台本を組んで作ることを望まず、環境音が入ってもよく、工事やトラックの音も入っている。長尺で回して面白い部分だけを使うので、ゆる言語学ラジオが90分収録で80分以上の素材になるのに対し、大山さんの回は4〜5時間のロケで2時間程度の番組になったという。違う筋力を使ううえ、これまで堀元にかなり頼っていたことにも気づいたそうだ。堀元は、自分は3分ほど展開がないと何かしなければと慌てる性質なので、ゆる言語学ラジオには展開が多く、いらない展開を作ってコメント欄で怒られると話す。脱線が多いと感じている人には「神保町で会いましょう」のほうが合うかもしれないという。

締めくくりに二人は、焼肉について「自分ならこうしたい」「水野タイプをどう思うか」という意見をコメントで寄せてほしいと呼びかけた。水野は、ポッドキャストはYouTubeと違ってコメントが見えにくく、刺さっているのか不安なので、面白いと思ったら感想を書いたりXで投稿したりしてほしいと付け加えている。