灘の生徒会長は、なぜ東京科学大医学部ではなく慶應理工を選んだのか:高田拓人が語る受験と「目立つ」ための選択

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概要

灘中学校・高等学校で生徒会長を務め、在学中にAI関連の会社を起業した高田拓人(たかたたくと)が、自身の経歴と進路選択について語った。2007年生まれの高田は、大学入学共通テストで得点率約91%を取りながら東京大学に不合格となった。その後、後期日程で合格した東京科学大学医学部には進まず、慶應義塾大学理工学部に進学した。医学部を選ばなかったことで批判を受けたこの選択に、どんな考えがあったのか。幼少期から受験当日までの経緯を追う。

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医学部を蹴ったことへの「プチ炎上」

高田によると、東京科学大学医学部を辞退して慶應理工に進学したことは、XやYouTubeで「プチ炎上」した。批判の中心は、慶應の医学部ならまだしも、国立の医学部に受かったのなら医学部に行くべきだという意見だったという。

もう一つの批判は枠の問題だった。後期日程の募集は10枠しかなく、辞退すればその分は補欠合格で埋まるものの、補欠の人を待たせることになる。高田はこの点について「本当に申し訳ない」と述べ、自分でも心苦しい部分だったと認めている。ただし、慶應理工を辞退しても慶應側で補欠の人を待たせることになる。どちらを選んでも誰かに迷惑をかけるのは分かっていたので、そのぶん真剣に考えて決めたと説明した。

情報系ではなく機械・ロボットを学ぶ理由

慶應理工で何を学ぶのかと聞かれ、高田は意外な答えを返した。AIの会社を経営しているので情報系に進むと思われがちだが、むしろ機械系やロボット系に関心があるという。5年後、10年後に一番注目を集めているのはそちらの分野だろうと考えているからだ。

高田の見方では、AIはすでに多くの人が取り組んでいる分野であり、自分が学んでも学ばなくてもAIの未来はあまり変わらない。自分が行く意味のある分野を考えると、もう少し先を見据えた学問を学ぶべきだと考えた。慶應にはその分野で強い研究室があることも理由に挙げている。

灘の中でもこの進路は珍しいという。灘では医学部志向が以前ほど絶対的ではなくなってきた雰囲気はあるものの、現役で慶應理工に進んだのは今年は自分一人かもしれないと高田は話す。灘の生徒は浪人への抵抗が少なく、現役で東大に落ちたらもう一度挑戦する人が多い。高田自身は、浪人はできないと感じていたことと、早く東京に出たいという思いが強かったことから、浪人しない道を選んだ。

幼少期:公文、習い事、そして算数オリンピック

高田は大阪府高槻市の出身で、幼稚園は公文が運営する幼稚園に通った。公文の進度はそこそこ進んでいたが、園の中では普通くらいで、特に勉強が好きだったわけではないという。四則演算はできていたと思うが、本人もあまり覚えていないそうだ。父親は大企業に勤める会社員である。

小学校受験はせず、小学校入学と同時に兵庫県西宮市へ引っ越して公立小学校に入った。半数近くが中学受験をするような、教育熱心な地域だったという。幼稚園から小学校低学年にかけては、サッカー、公文、お絵かき教室などに通った。ピアノも始めたが、練習せずすぐにやめている。色々とやらせてもらえた一方で、飽きっぽくて長続きしなかったと本人は振り返る。

転機は小学3年生のときだった。周りが中学受験をするので自分もしようかという流れになり、中学受験塾の公開テストを受けたところ1位を取った。それまでは難しい本を読んで褒められる程度で、自分がとりわけ頭がいいとは思っていなかったという。その後、塾(浜学園にも通っていた)から勧められて算数オリンピックの3年生向けの大会を受け、入賞者の一人になった。このあたりで初めて「勉強ができるのかもしれない」と思い始めたと語る。

家族については、父親は地方から帝国大学系の大学に進み、母親も指定校推薦でいい大学に進学したという。ただ、親族に東大卒がいるわけではなく、医師が何人かいる程度だという。

算数は苦手、国語が武器

算数オリンピックで入賞したものの、高田は数学が得意だったわけではない。数学が得意だった瞬間は小学3年生のその一回きりで、計算は非常に遅く、灘の同学年の中でも1、2番目に遅いくらいだったという。一貫して得意だったのは国語である。

灘を目指したのも、最初から意識していたわけではなかった。親は灘を「すごい人たちが行くところ」と見ていて、縁のない話だと思っていたらしい。ところが成績が灘コースに入れる水準だったので灘コースに入り、そこでずっと一番上のクラスにいた。小学6年生の頃は週6日塾に通い、日曜日は朝9時から夜9時まで勉強していた。

模試は基本的にA判定で、本番でも合格最低点より60点ほど上回り、順位は10何番目くらいだったという。入試の国語は、1日目が80点満点中60点ほど、2日目が120点満点中100点近くだった。後の共通テストでも国語は200点満点中186点を取っている。

勉強以外に自分のアイデンティティを求めて

それだけの成績でも、高田は中学受験の頃から「勉強では本当に敵わない人がいる」と感じていた。首席クラスの人たちは努力して追いつけるレベルではなかった。そこで灘に入った頃から、自分のアイデンティティは勉強ではない、勉強ではない何かでありたいと考え、勉強以外の活動に力を入れ始めた。

中学入学時から生徒会長になろうと考え、生徒会に入り、部活もいくつも掛け持ちした。当初は陸上部を含めて5つほどの部に入り、中学時代は主に陸上部とディベートに取り組んだ。日本語ディベートでは中学3年生のとき、チームで全国大会3位になっている。

中学時代に最も力を入れていたのは競技プログラミングだった。何かのオリンピックに挑戦したかったが、数学や物理では自分に勝ち目はないと考えた。情報なら取り組む人がまだ少ないので勝負できるかもしれないと思って始めたという。灘の同学年では取り組む人も少なく手応えを感じていたが、同学年に明らかに敵わないレベルの人がいて、その後は生徒会の活動に軸足を移した。

高田は自分の根にあるものを「究極的には目立ちたがり屋」だと表現する。目立つにはオリジナリティが必要で、灘にいて東大に合格しても目立たない。勉強で目立つには並外れたレベルが要るので、ほかにどうすれば目立てるかを考えてきたと話す。

灘の生徒会長選挙

灘の生徒会長は、権力が大きいわけではないが、憧れの存在ではあったという。高田は例として芦屋市長の高島崚輔を挙げた。高島は灘で生徒会長を務め、東大を経てハーバード大学を卒業し、最年少で芦屋市長になった人物である。海外大学への進学なども含め、勉強だけではない存在として見られていたという。

高田は中学・高校の両方で生徒会長を務めた。中学では親友との一騎打ちを制し、高校では5人が立候補する中、それまでの生徒会活動や文化祭運営の実績を積み重ねていたこともあって、ある程度の差をつけて当選した。選挙運動は本物の選挙並みで、朝に校門で挨拶をし、自費でのぼりを作って立て、休み時間に教室を回り、ポスターを大量に貼ったという。

生徒会長としては、中高5年間ずっと携わってきた文化祭や体育祭などの行事運営で中心的な役割を担った。各委員会で副委員長のような立場も兼ねていたという。

高校1年の挫折:「好きなこと」がない

中学の生徒会長任期を終えた高校1年生の頃、高田は深く悩んだ。それまでの活動は、どれも好きだからではなく、目立てるという打算でやってきたものだった。すごい人たちは結局、好きでやっているからああなれるのではないか。自分には好きなことがなく、人生の意味が分からない。そう考えて毎晩眠れず、涙が出てくるような時期があったという。

この悩みが解決したわけではない、と高田は断ったうえで、一つの考えにたどり着いたと話す。好きなことでなくてもいい。自分にできることで価値を生み出し、自分も他人も幸せにできるなら、「好き」が原動力でなくてもかまわない。そう考えるようになって、物事を決められるようになった。高校1年生のこの時期が転機だったかもしれないという。

好きなことは今もないのかと聞かれると、高田は「今もない」と答えた。人を好きになることはあるが、人生をかけてもいいと思えるほど何かを好きになることはなかなかないという。

在学中の起業とAIコミュニティ

高田は高校2年生の10月に起業した。社員は雇わず、営業もエンジニアリングも自分一人でこなした。受験の時期には事業を止めることを最初から決めていたので、受験までに終えられる仕事を選んで受けていたという。業務はAIを活用したシステムの開発で、その一部を作る案件が中心だった。

中学時代から起業への憧れがあり、プログラミングもその延長で始めた。中学2年生のときには応用情報技術者試験を受け、令和4年度春期試験で最年少合格している。受験料を払ってもらったのに試験3日前まで勉強しておらず、教科書は読み終わらないと判断した。過去問をひたすら繰り返して10時間ほど集中して勉強し、受かるわけがないと思って受けたら合格したという。ただ、この経験のせいで「どうにかなるだろう」と少し思うようになってしまった面もある、と本人は振り返る。

AIについては、中高生のうちに学ぶ意味が大きいと考えていた。しかし中高生がAIを学ぼうとしても、何をすればいいか分からない。そこで学校内にAIを学ぶコミュニティを作り、中学生を中心に約100人が参加した。AIを学ぶための情報を提供したり、東京大学が提供する講座を紹介したりして、最初のきっかけを作る活動をしていた。高田自身も東大の松尾研究室が公開しているAI講座から学び始め、その後は松尾研究所などでエンジニアとしての経験を積んだ。

ハッカソン優勝と模擬国連での挫折

高校2年生で、生徒会長になる直前にはハッカソンにも参加している。短期間でアプリを作るコンテストで、起業を見据えてやるべきことをやる一環だったという。東大生や同志社の学生が多く参加する大会で、高校生は高田一人だった。

大会は2段階で行われた。まずアイデアを競う個人戦があり、高田はここで優勝した。本人も驚いたという。次に勝ち残ったアイデアからチームを作ってプロダクトを開発し、そのチーム戦でも優勝した。

一方で、うまくいかなかった活動もある。模擬国連は、高校生が各国の役割を担って議論し、最終的に決議案をまとめる大会で、合意形成に最も貢献した人が表彰される。高田はガツガツしたコミュニケーションが得意ではなく、性格も暗めだと自己分析している。海外的な押しの強いコミュニケーションが求められる場で、結果は残せなかったという。

推薦を断念し、高3の6月から一般受験へ

高校2年の秋の時点では、進学先として海外大学も考えていた。しかし英語力が間に合わないと判断した。高校3年の6月に事業を一旦止めれば東大に受かるのではないかと考え、東大を目指すことにした。

東大の推薦入試も目指したが、灘から受験できるのは3人までという学校内の枠があり、受けられなかった。高田によると、推薦ではオリンピック系の実績を持つ生徒が有利で、自分は成績も足りないと見られたのではないかという。

受験勉強を本格的に始めた時点では、判定はDやCだった。今から塾に行っても遅いと考え、分からないことはすべてAIに質問して独学で進めた。周りの受験生も分からないところはAIに聞いていたという。

ただ、勉強は好きではなかった。1日8〜10時間の勉強はなかなかできず、9月の体育祭では応援団も務めたため、疲れて勉強できない日も多かった。十分に勉強したとは言えないと本人は認めている。それでも成績は上がり、A判定も取れるようになった。ただ、数学は東大模試で灘の中で最下位を取るほど苦手なままだった。

共通テスト913点、そして東大不合格

1月の共通テストは非常によくでき、1000点満点中913点、得点率91%を取った。今年は難しかったとも言われており、高田は例年に換算すれば94%ほどの感覚だと話す。

東大の二次試験当日は、数学が難しくなったと言われていた。もともと数学は得意ではないので問題ないだろうと考え、国語もかなりできた手応えがあった。これまで本番でなんとかなってきたという思いもあり、合格を確信していた。自己採点を予備校の解答速報と照らし合わせてYouTubeに上げ、合格発表の直前も受かると思って動画を回していたという。

結果は不合格だった。最初は受験番号を間違えたのではないかと思うほど信じられなかったが、落ちたなら仕方がないと考え、30分ほどで完全に気持ちを切り替えた。

得点開示では、自己採点から50点ほど下がっていた。国語だけは高かったが、それ以外の科目は大きく下がっていた。部分点がまったく取れなかった場合として想定していた点数とちょうど一致していたという。合格最低点との差は15点ほどで、不合格者の中でもAランクではなくBランクだった。国語は53点、数学は120点満点中20点台だった。

高田は数学の失敗を勉強法の問題だと分析している。AIに聞いてばかりで、理解はしていても手を動かしていないのでミスをする。鉛筆を一度も持たない日が何日もあるような勉強ではだめだと身をもって感じたと話す。AIは絶対に活用すべきだが、手も動かさなければならない、というのが高田の結論である。

後期日程と慶應理工という最終判断

東大に落ちた後、高田は後期日程で東京科学大学医学部を受験した。ここは通常、理科三類志望者が多く受ける試験だという。東京に出ることが大前提で、国立で後期日程があるのは主に一橋大学と東京科学大学だった。高田は医学か工学のテクノロジーで社会を変えたいと考えていたので、東京科学大学の方が近いと判断して出願した。私立は慶應理工学部だけを受けていた。

後期試験を受けに行った時点では、医学部に進むつもりだったという。しかし医学部への解像度は高くなかった。試験後に先輩などから医学部の実情や慶應の実情を詳しく聞き、社会を変えるうえで力を発揮するには慶應理工の方がいいのではないかと考えるようになった。

一般的には、国立医学部に受かったならそちらに行くべきだという考えが普通かもしれない、と高田も認める。そのうえで、普通ではない人生を送ろうとしている自分に普通の考えが当てはまるかは考え直さなければならないと考え、真剣に検討した末に慶應理工への進学を決めた。

これから

受験が終わり、高田は会社を再開する。まずは小さく始めるという。YouTubeなどの発信にも個人で、また他の人とも取り組みたいと話した。自分の人生を包み隠さず公開していくので、SNSをフォローしてほしい。そして最後に「是非目立たせてください」と締めくくった。

好きなことがないまま、目立ちたいという自覚と「できることで価値を生む」という基準で選び続けてきた高田が、慶應理工でその基準をどう使っていくのか。本人の中でもまだ答えの出ていない問いとして残されている。