「人生は伏線回収」――伊佐進一が語る、難病・受験の挫折から官僚15年、ミラーボール姿の広報委員長まで
トマホークTomahawk衆議院議員の伊佐進一氏は、元公明党で、現在は中道改革連合に所属し、広報委員長を務める。本人の説明では議員として5期目にあたる。スパンコールの衣装から「ミラーボール」と呼ばれている。このインタビューでは、兵庫の県営住宅で育った幼少期から、中学受験の失敗、東京大学での進路の迷い、科学技術行政と北京での外交官勤務、政界入り、落選、そしてYouTubeでの発信までが語られた。伊佐氏は、挫折も含めた経験が後になって意味を持つことを繰り返し「伏線回収」と表現し、それが話全体を通す軸になっている。
名刺より大きい「政治系YouTuber」の肩書き
伊佐氏の名刺では、「衆議院議員」よりも「政治系YouTuber」の文字のほうが大きい。落選していた期間に毎朝ニュース解説のライブ配信を続け、チャンネル登録者はもうすぐ20万人、毎日6〜7万人が視聴していると本人は話す。
ミラーボール姿になったのは「去年の4月」だという。きっかけは堀江貴文氏との対談だった。堀江氏から、公明党が真面目に一生懸命やっているのは分かるが地味すぎる、公明党といえばこの人という存在がいない、誰かが衣装を変えてポーズを決めるべきだと言われた。党の職員が「伊佐さんしかいません」と言い、本人も嫌ではなかったので引き受けた。すぐに上野の店へ服を買いに行き、この衣装に一目惚れしたという。
県営住宅での生い立ちと、4歳での難病
伊佐氏は兵庫県宝塚市の生まれで、小学2年から大阪府守口市で育った。守口は後に選挙区になる。宝塚では県営住宅に住み、所得の高い家庭ではなかったと振り返る。父親はトラック運転手などの職を転々とし、最も長く続いたのは製薬企業の営業だった。母親は看護師だった。
4歳のとき、右足の軟骨が溶けていくペルテス病を発症した。治っても歩行が困難になったり走れなくなったりする可能性がある病気だと説明されたという。足の付け根からつま先までギプスで固め、開いた両足の間を鉄パイプでつないで固定し、松葉杖で歩いていた。病院が熱心に診てくれたおかげで、1年ほどで奇跡的に治った。小学校に上がる前に回復し、今では趣味がフルマラソンだという。
骨折入院と一人の教師が開いた中学受験の道
小学4年になるまで、塾には一度も通っていなかった。家庭に経済的な余裕もなかった。転機は小学3年のときで、遊んでいて大きな骨折をし、1か月半ほど入院した。学校に戻ると算数の授業はだいぶ先に進んでいたが、担任が遅れを取り戻そうと力を入れてくれ、算数が好きだったこともあって1〜2日で追いついた。
この担任は「この子は中学受験をさせて進学校に入れたほうがいい」と家まで来て親に勧めた。親はお金がないと断ったが、担任は何度も足を運んだ。最後は親が根負けして塾に通わせることになった。伊佐氏は、この先生がいなければその後の大学受験も今の自分もなかったと話す。
志望校は灘中学で、次が甲陽学院などだった。合格が有望と言われていたが、灘に落ち、第2志望の東大寺学園にも落ちた。練習のつもりで受けた洛南に合格した。当時の洛南はまだこれから伸びていく途中の学校だった。これが伊佐氏にとって最初の挫折になる。
ただ、伊佐氏はこれを後で意味が分かった出来事として語る。洛南は塾に行かせず学校で教育を完結させる方針だったため、経済的に苦しかった家庭には合っていた。さらに、最終的には1学年で2〜3人しか選ばれない特待生になり、授業料が免除された。伊佐氏によれば、当時の入学者は45人×14クラスほどだった。結果的に最善の選択をしていたというのが本人の振り返りだ。
燃え尽きた中学時代と東大志望
特待生になったのは入学後の話で、中学時代の成績は下がる一方だった。小学4年から6年まで受験勉強を続けた反動で、中1の時点で燃え尽きていたという。上位で入学したが、最後は下から数えたほうが早い順位まで落ちた。中学時代は麻雀ばかりで、週末は友人と徹夜麻雀をしていた。中学の間は遊ばせてほしいと親と約束しており、高校に入ってから切り替えて本気で勉強を始めた。
東京に行きたい気持ちは強かったが、親からは私立は無理で国立ならいいと言われた。東京の国立なら東大に行きたいと考えた。将来の夢は医者や、世界で働く国連職員などいろいろ考えていたが、決まったものはなかった。政治家になりたいとは「全くなかった」という。
創価学会3世としての信仰観
伊佐氏の両親と祖父は、それぞれ別々に、たまたま同じ時期に創価学会に入会した。伊佐氏自身は2世とも3世とも言えるが、生まれた時から入会していた。
それでも伊佐氏は、親がやっているから素直に信仰する人はほとんどいないと考えている。悩みや人生の課題にぶつかったとき、信仰を通じて自分が成長した、一回り大きくなったと感じたから続けている、というのが本人の説明だ。政治的な支持も同じで、学会員が全員公明党を応援していると思われがちだが、特に若い世代はそうではないという。投票所ではプライバシーが守られており、公明党を応援していると言っても最後は別の名前を書くこともできる。学会員は公明党の議員と接する機会が多く、仕事ぶりを身近に見て「この人なら応援してもいい」と思うことはあった。ただ、それは自分で判断したうえでのことで、信仰も支持も自由だと伊佐氏は述べた。
学生時代は学生部の集まりにも参加していた。高校生の頃は活動が忙しいわけではなく、先輩が激励に来て、勉強でつまずいていれば教えてくれた。伊佐氏はそれを「励ましの組織」のようなものと表現している。
雅子さまに憧れた外交官志望と、航空宇宙工学科での落ちこぼれ
伊佐氏は数学や物理、化学が好きで、理科一類を目指していた。ところがセンター試験の直前、皇太子(現在の天皇陛下)と雅子さまのご成婚のニュースが流れた。外交官出身で通訳もこなす雅子さまの姿を見て、外交官になりたいと強く思ったという。文系に変えたいと言うと、教師も親も猛反対した。教科も足りていないし、受かってから考えろと言われ、そのまま理科一類に現役で合格した。
入学すると、もう一度受験し直す気持ちにはならなかった。しかし外交官への思いは消えなかった。東大には2年生までの成績で3年生からの学科を選ぶ進学振り分け制度がある。伊佐氏によれば、理系から法学部に進めるのは約1400人のうち上位1〜2人だけだった。必死に勉強してかなり良い成績は取れたが、トップ1〜2位には届かなかった。
せっかく取った成績がもったいないと考え、理系で一番難しい学科として航空宇宙工学科を選んだ。伊佐氏の記憶では定員は40〜50人ほどだった。しかし周りは宇宙が大好きで、ロケット開発に人生を捧げたいという学生ばかりだった。「なんとなくかっこいい」という動機で入った伊佐氏はついていけなくなり、卒業も危うくなった。友人に助けられてなんとか卒業できたが、卒業が決まる前にバックパッカーとしてヨーロッパへ卒業旅行に出て、現地から友人に電話して合格を確かめたという。卒業後5〜6年は、卒業できなかった夢を見続けた。
同級生の多くは大学院へ進んだ。伊佐氏は、こうした優秀な研究者を支援する仕事がしたいと考え、科学技術庁に入った。国家公務員試験の勉強は半年ほどだった。伊佐氏は、この試験は勉強時間に比例して合格率が上がるものではなく、集中してやって受かる人は受かる試験だと説明している。
はやぶさの予算を財務省に通い続けて勝ち取る
宇宙そのものは子どもの頃から好きだった。研究者を支えたいという思いで役所に入り、宇宙開発に関わることになった。担当したのが小惑星探査機「はやぶさ」だった。
はやぶさは小惑星イトカワに着陸して試料を採取し、帰還する計画だった。しかし帰路でエンジンが止まり、伊佐氏の説明では姿勢制御装置も4つのうち3つが壊れるなど、機体はボロボロだった。宇宙開発を担当する課にいた伊佐氏が財務省と交渉したが、財務省からは、帰ってくるかどうか分からない衛星に国民の税金はつけられない、プロジェクトは打ち切りだと言われた。しかも帰還して試料が採れていれば、分析のための真空の研究施設が必要で、その予算もいる。
一方で研究者たちは寝ずに軌道計算をし、ここを組み合わせればいけるのではないかと知恵を絞っていた。伊佐氏は、その人たちに「予算が取れなかったので解散してください」とは絶対に言えないと思った。財務省に何度も通い、断られても通い続けた。財務省が最も忙しい12月にも頼みに行くと、主計局の担当者から、予算をつけるからもう来ないでくれと言われ、予算がついた。はやぶさはプロジェクトが続行され、最後はオーストラリア上空から地球に帰還した。伊佐氏は涙が出そうになったと振り返る。
はやぶさについては映画が3本作られた。話を聞きつけたプロデューサーに伊佐氏が経緯を話すと、それを映画に入れたいと言われた。ところが実際に映画を見に行くと、文部科学省の職員が「帰ってくるか分からない衛星に予算はつけられない」と言う場面になっていた。実際には文科省の職員が財務省と交渉して予算を取ってきたのだが、映画では分かりやすくするために、自分にあたる人物が悪役になっていたと伊佐氏は笑う。
月250時間の残業とバックパッカー旅
伊佐氏はバックパッカーとして、南極以外の大陸を旅し、50〜60か国を訪れたという。役所で働いている間も、1週間休みがあれば出かけていた。霞が関で働いていると、広い青空を見たくなったと話す。旅程は最初と最後だけを決め、その間は何が起きるか分からない旅だった。東南アジアのほとんど、インド、パキスタン、中央アジア、ヨーロッパ全域、北米、中南米、アフリカを回った。群衆を威嚇する銃撃の中に居合わせたこともあり、20代のアメリカ留学中に中南米を旅した際には、ペルーだったと思われる場所で5〜6人に襲われて身ぐるみを剥がされたこともある。
留学のきっかけは過酷な働き方だった。伊佐氏によると、当時の残業は月250時間ほどで、1週間のうち家で寝る日はなかった。夜中の3時頃まで働き、パイプ椅子で寝て、庁舎のシャワーを使った。土日も洗濯物を取りに帰るだけで、また職場に戻って仕事をしていた。この生活から抜け出したいと考え、入省4〜5年目に国費留学を目指した。
選考はTOEFLで一定の点数を取ったうえで、面接と役所の推薦で決まる。伊佐氏は大学受験の頃から英語が苦手で、特にリスニングが得意ではなかった。枠は3人で候補は4人、伊佐氏は4番手だった。しかし最後のスピーキングの面接で、話すのが好きだったこともあって積極的に話し、3番手と入れ替わってぎりぎりで留学が決まった。
ワシントンで見た9.11と、アメリカの中国理解の限界
2年間の国費留学では、学費と生活費が支給され、勉強だけに打ち込めた。専攻は中国経済を中心とするチャイナスタディーズだった。伊佐氏は、日米同盟は重要だが中国も大事で、日米中の三角関係の中で日本が外交や経済でどう立ち回るかが重要だと考えていた。いずれ北京の日本大使館で働きたいと思っていたが、その前にアメリカが中国をどう見ているかを知りたかった。
選んだのは、ワシントンDCにあるジョンズ・ホプキンス大学の高等国際問題研究大学院(SAIS)だった。伊佐氏の説明では、政権に直結した大学院で、学長のウォルフォウィッツ氏は当時のブッシュ政権で超保守派・ネオコンの思想を主導していた人物だった。授業の初日が2001年9月11日の同時多発テロの日で、伊佐氏の家はペンタゴンの近くにあり、家から煙が見えたという。そこからアメリカの外交政策は一気にアフガニスタン戦争へ向かった。伊佐氏によれば、教員が超保守派だと学生は皆リベラルになり、討論会では学生と教員が激しくぶつかっていた。
2年間での伊佐氏の結論は、アメリカも中国のことを正しく理解していなかった、というものだ。当時は世界中が安い労働力を求めて中国の沿岸部に工場を建てていた。伊佐氏は、これほど投資が集まれば労働力が不足し、賃金が上がって投資先としての魅力が薄れるのではないかと疑問を持った。しかし教員は、中国には内陸に巨大な農村部があり、そこから半永久的に労働力を供給できるから、沿岸部の賃金が上がることはありえないと答えた。ところが伊佐氏が帰国してほどなく賃金は上がり始め、中国は「世界の工場」ではなくなっていった、と伊佐氏は語る。
大学院の卒業要件として、中国経済に関する論文について中国語で議論できなければならなかった。中国語の検定は最上級まで取ったという。
北京大使館で見た中国と、1万5000部売れた本
帰国後も宇宙開発などを担当した後、希望していた北京の日本大使館への赴任が決まった。2007年から2010年まで外交官として日中外交の現場で働いた。伊佐氏はこれを、かつて諦めた外交官の夢がここで叶ったと捉え、「伏線回収」の一例として挙げる。
在任中の2008年8月には北京オリンピックがあり、中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国になった。伊佐氏が担当したのは、今でいう経済安全保障に近い仕事で、日本の技術をどう守り、どう連携すれば国益にかなうかを中国との間で扱っていた。人民解放軍が行うロケット打ち上げを見学させてもらったこともあり、今なら外国人に見せることは絶対にありえないと伊佐氏は言う。そうした現場の状況を調べ、客観的なレポートにまとめて大使に見せたところ、本にしたほうがいいと勧められた。帰国後に出版すると、現場の実態をデータに基づいて書いた本が当時なかったこともあり、1万5000部売れた。ただ、その印税は後の選挙で全部なくなったという。帰国後は中国と科学技術を専門にしていこうと考えていた。
東日本大震災と、山口代表からの電話
帰国すると民主党政権になっており、伊佐氏は副大臣秘書官になった。そこで東日本大震災が起きた。文部科学省は放射線を担当していたが、伊佐氏によれば、情報のやり取りがうまくいかず、放射線が拡散していく福島の地域に人を避難させてしまうようなこともあった。国家の危機では政治がしっかりしなければ国民が不幸になる、官僚の力ではどうにもならないと打ちひしがれていたという。
そのとき、副大臣室に公明党の山口那津男代表から電話がかかってきた。「公明党の山口ですけど」と言われ、伊佐氏は「どの山口さんですか」と聞き返してしまった。会ってみると、守口出身だろう、大阪6区で頑張ってきた公明党の議員が引退するから次をどうかと打診された。政治がなんとかしなければと思っていた時期だったので、伊佐氏は「時というものがある」と感じて決意し、36歳で文部科学省を辞めた。官僚生活は約15年だった。
ボーナスが出るまで待ってほしいと頼んだが、当時は野田政権で、いつ選挙になるか分からなかった。文科省の幹部に相談しても、党が言っているのだから早く辞めたほうがいいと言われ、すぐに辞めて地元で活動を始めた。ところがそこから1年半、選挙はなかった。東京出身の妻は第1子を妊娠中だったが、一緒に大阪で頑張ろうと決意してくれた。伊佐氏は1年半、早朝から365日、一軒ずつ回るドブ板の活動を続けた。党からは生活費をいくらか受け取ったが、選挙費用は自分で出し、貯金を使い切った。そして初当選した。
家族の負担と、落選で初めて行けた沖縄
当選すると平日は国会で東京、週末は地元で地域行事を回るため、家にいる時間はさらに減った。2人目の子どもも生まれたが、妻は親もいない知らない土地でずっと一人で子育てをしてきた。伊佐氏は相当しんどかったと思うと話す。
皮肉なことに、落選中は家族にとっては「パパがいる」時間になった。それまで家族旅行といえば、すぐ戻れる有馬温泉に1泊2日行く程度だった。伊佐という姓は沖縄の名前で、ルーツは名護にあるという。落選して初めて、子どもたちに自分のルーツである沖縄を見せ、ひめゆりの塔など沖縄戦ゆかりの場所に連れて行けた。妻も沖縄は初めてだった。議員でなかった期間は1年ちょっとだったという。
ドブ板の限界を感じてYouTubeへ振り切る
大阪は維新が強く、厳しい戦いになることは分かっていた。伊佐氏は朝6時半から一人で駅に立ち、時間が空けばスーパーの前で一人で街頭演説をし、呼ばれていない地域行事にも顔を出した。どれだけ多くの人に直接会えるかを考えて活動したが、それでも負けた。
ショックだった場面がある。投票日に投票所の外の掲示板の前にいると、子ども連れの若い夫婦が来て、「伊佐進一や、ポスターでよく見る」と話していた。二人とも会ったことはなく、「公明党と維新やったら、やっぱり維新やろな」と言って投票所に入っていった。伊佐氏はここで、どれだけ地域を回っても会えない人のほうが多いと痛感した。「次はもっと頑張ります」では受からないと考え、YouTubeやSNSに力を入れることにした。毎朝駅に立つ代わりに、毎朝ニュース解説のライブ配信を始めた。公明党のサブチャンネルも手がけた。
本来は小選挙区で勝つための取り組みだった。しかし中道改革連合ができたことで小選挙区では戦えなくなり、比例に回った。名簿で上位に載せてもらい、比例で当選したと伊佐氏は説明する。
ミラーボールの広報委員長と、資金も職員もない新党
これだけ発信してきたことに加え、ミラーボール姿は目立つため、各地から呼ばれるようになった。去年夏の参院選では全国を回ったが、依頼の多くは「ミラーボールで来てほしい」というものだった。衣装は4万円で作りはしっかりしているが、非常に暑い。1着しかないうえ、クリーニングに出すとスパンコールが落ちるため、手入れは消臭スプレーで済ませている。見かねた支援者がスパンコールのベストやTシャツを作ってくれるなど、グッズも生まれた。伊佐氏は、広報委員長は自分でもやりたかった役割であり、党の広報だけでなく自分自身が発信する役割も大きいと話す。
中道改革連合では、選挙後の2月に広報委員長になった。しかし結党したばかりで、金庫の中身はゼロだった。党の主な収入源である政党交付金は4月にならないと入らない。立憲民主党と公明党はまだそれぞれ存在していて職員もいるが、中道には党職員が一人もいなかった。そのため新しい企画は、4月に資金が入り、立憲と公明から職員が何人か派遣されてから動かすことになる。それまでにできたのは、中道の切り抜き動画づくりやゲリラ的なライブ配信くらいだった。どんな企画をやるかはまさにこれから考える段階だという。
コロナ禍の厚労副大臣として果たした「伏線回収」
最後に若い視聴者へのメッセージを求められた伊佐氏は、自公政権で財務大臣政務官と厚生労働副大臣を務めた経験を語った。厚労副大臣に就いたのは、新型コロナの第8波で感染者数が最も多い時期だった。加藤勝信大臣と、自分たちの在任中に日常生活を取り戻そうと話し合ったという。
そのために取り組んだのは3つだった。病院に入れない、保健所に電話がつながらないといった状況を改善する医療提供体制の整備。国民にワクチンを接種してもらうことと、海外から日本国民のためにワクチンを確保すること。そして治療薬の開発である。伊佐氏は海外との交渉にも関わった。最終的にこの3つがそろい、春にコロナはインフルエンザと同じ5類に移行し、ステイホームから日常生活に戻った。
伊佐氏は、副大臣秘書官として東日本大震災に直面し、危機のときこそ政治がしっかりしなければと考えて政治家になった。その自分が今度は副大臣として国家の危機に巡り合った。これもまさに伏線回収だったと振り返る。山あり谷ありで、大きな挫折も経験してきたが、その時々で一生懸命やってきたから、当時できなかったことも後で全部つながってきた。だから「人生は伏線回収」だということを伝えたい、と伊佐氏は締めくくった。
バントくと、どこです?Sランです。ということで、自己紹介お願いいたします。
はい。ラブ&ピース。衆議院議員の伊佐進一です。現在中道改革連合で、元公明党で、今だから5期目で、今広報委員長やってます。伊佐と言います。よろしくお願いします。別名ミラーボールと言います。[笑い]
お願いします。よろしくお願いします。
ちょっとポスター見たんですけど、政治系YouTuberみたいな。
そう、そう。あの、名刺もそうなんすよ。
あ、そうなんですね。
私の名刺も衆議院議員って書いてるより政治系YouTuberの方がでかくないですか?
はい。[笑い]確かに。がっつりYouTuberとしても活動されてるということですか?
そうですね。やっぱ広報委員長なので、元々その落選期間中も毎日毎朝YouTubeの配信やってまして、ニュースライブみたいな、毎朝ニュース解説やってたんですよ。それが結構伸びて、今チャンネル登録もうすぐ20万人ですけど、毎日6、7万人は見てくれてまして。
ええ、すごい。[笑い]
もうYouTuberとしての活動が色々ありまして。
声の入れ方がYouTuberっすよね。さっきまでカメラ外で話してた声とカメラ入って。
それ言わんといて。それ言わんといて。[笑い]ちょっとね。それ言わんといて。
すごい。異名がミラーボールということで、いつからこの服装なんですか?
はい。これは去年の4月に覚醒しまして。
去年なんですね。
去年ホリエモンに言われたんですよ。堀江さんと対談した時に、公明党、旧公明党なんで、公明党がすごい真面目で一生懸命やってるのは分かるけど地味すぎると。公明党ったらこの人っていうのがわからんから、誰かが衣装を変えてポーズ決めなあかんみたいに言われて。ほんなら党の職員が、どしたら、伊佐さんしかいませんみたいな話になって[笑い]、僕も嫌じゃないんで、じゃあやりますって言って、すぐ上野のマジックショップ屋さんに服買いに行って、これに一目惚れして、この服に。[笑い]これ買って。
すごいすね。ということで、このチャンネルは人生をお振り返りさせていただくチャンネルなんですけども、出身はまずどちらですか?
はい。出身は小学校2年からはずっと大阪守口やったんですけど、その地元の選挙やったんですけど、その前は、生まれは兵庫県の宝塚市ってとこです。本当の県営住宅っていうか、所得もちろんそんなに高い人たちって県営住宅いないと思うんですけど、所得もそういう家庭で育って。
親御さんは何やられた…いや、ごめんなさい。親御さんのお仕事っていうのは?
いや、父親も転々としてて、いろんなことやってました。トラックの運転手やったこともあれば、いろんな仕事で、最後に仕事が1番長く続いたのが製薬企業の営業。母親は看護師やってました。
へえ。幼少期に何か病気になられたんですか?
ああ、そうですね。4歳の頃で、ペルテス病っていう病気で、右足の軟骨が溶けていく難病みたいな。で、治ったとしても多分ずっと歩行に困難だったり、走ったりできないとかっていうような病気でした。で、でも本当ありがたいことに、私が行った病院の方が本当にすごい一生懸命見てくれて、奇跡的にっていうか1年間で治って。だから小学校上がる前に治ったので良かったんですけど、別に今足なんともないですし、趣味マラソンっていうぐらいですから。フルマラソン走れるぐらいなんで、全然もう完治しましたね。[笑い]
でもそん時の写真とか見てるとみんな、え、こんなんやったんて言われるんですけど。足をギプスで固定するんですけど、付け根からつま先までギプス、両方とも両足。で、その両足を足開いて、ここを鉄パイプで固定するみたいな。で、それで松葉杖で歩いてたっていう。
へえ。その中で勉強とかは結構されてたんですか?
あのね、小学校4年生に上がるまでは塾って1つも行ったことなかったです。親もそんな子供を行かせるなんて、経済的な余裕もなかったし。ところが小学校3年生の頃、友達と遊んでたら、なんかやってるうちに結構な骨折してもうたんですよ。骨折して病院に1ヶ月以上入院したんですよ。1ヶ月半ぐらいかな。
へえ。
で、その間当然授業進むじゃないですか。で、算数も終わりとかワーッと進んでって、ほんで1ヶ月半ぶり、2ヶ月ぶりぐらいで学校戻ってきました。で、先生も心配して、今までの分取り戻そうと思って一生懸命やってくれたんですよね。ほんなら僕算数好きやったのもあって、結構1日2日で追いついたんですよ。それがまたまたま自分が好きやったっていうのもあったんですけど、算数が。ただ先生がすごい期待してくれて、絶対この子は中学受験さして進学校入れた方がいいって親んとこに来て言ってくれたんですよね。ほんなら親は、いやいや、うちの子がそんなんすよみたいな、お金もうちないしみたいなんで断ったらしいんですよ。
ええ。
ところが先生が熱心で何度も来てくれたんですよ。絶対塾入れてあげて中学受験した方がいいよって、すっごい何度も言ってくれたんで、親が根負けして、それやったら1回塾入れてみるわって言って塾行ったんですよ。ほんで中学受験して。それがなかったら多分、その後の大学受験とか今の私には繋がってないと思うんですよね。
はあ。当時で志望校とかあったんですか?
当時は行きたいとこありました。灘中学っていうとこで。が無理やったら甲陽っていうところがあったりとか、いくつかあったんですけど、で、そん時にやっぱ挫折を味わって。結構な、灘いけるかもって言われてたんですよ。でも結局試験に落ちて、第2志望で受けてた奈良県の東大寺学園っていうのがあって、そこも落ちてもうたんですよ。で、試験の練習で受けた洛南に受かって。ただ洛南っていうのは当時は、今って言ったら京大が1番入学者多いんです。まだでもこれから伸びていくとこだったんですけど、その後入ってみるとね。でもそういうの分かってなくって、だから結局それが1つ目の人生の挫折っていうか。でも結局ね、やっぱ人生って私伏線回収やと思ってるんで、これが後で意味があったって分かってくるんですよね。
え、気になる。[笑い]すごいYouTuberだから。
[笑い]次回。
いや、洛南の教育方針って、絶対塾を行かせず、うちの学校で絶対教育を完結させるっていうのが方針だったんですよ。だから、そんなに経済的にも大変だったので、私立中学、私立高校だったけど、最終的には特待生にしてもらって、授業料も免除されてたりとか。結局は実はベストの選択をしてたっていう。
ああ、はいはいはい。それ何人ぐらいがなれるもんなんですか?特待生とかって。
あ、2人とか3人とか。
あ、そうなんですか。え、洛南は当時その入学者どのぐらいいらっしゃったんですか?
45人×14クラス。
え、そんないるんすね?
600ぐらい。700人、1000人した方がいいましたよね。
じゃあ成績はトップ5ぐらいにはずっといらっしゃって…
まあでもそうでもなかったんすけどね。中学入ってから、もう受験4年、5年、6年で頑張り続けてきたので、燃え尽きた感がすでに中1であって、中1からは全く勉強しなくなったんですよ。
え、あ、そうなんですね。
だから最後特待生になったのはここ入った後の話で、結構上位で入ったんですけど、どんどんどんどん落ちてくんですよ。で、最後は下から数えた方が早いぐらいまで。もう中学の時はね、麻雀ばっかりしてました。
あ、早いですね。
もう徹マンをひたすら友達とやって、土日になったら友達で徹マンやるみたいなのをやってましたね。[笑い]
へえ。それが高校になって急に勉強し始めるってことですか?
親との約束で、もう中学は遊ばしてくれっていう約束してたんですよ。でも高校に入ってから切り替えて、本気でやるようになりました、勉強。
それはいい大学行こうみたいなのがやっぱりあったんですか?
そうですね。やっぱ大学東京行きたいって思いもすごいあって。ただ私立大学は親に絶対行かされへんと。国立やったらいいよと言われて、国立で東京やったらやっぱね、できれば東大行きたいなと思ってて、で、東大目指してましたけどね。
当時はその中高時代は大学以外に夢とかってあったんですか?
いや、そんな。でもお医者さんとかいいなとか、世界で仕事するような国連職員になりたいなとか、なんかいろんなこと考えてましたよ。なんかこれって決まったものはなかったかも。
じゃあ政治家とかになりたい願望とかも全然なかったですか?
全くなかったです。
これ本当に聞きたかったんですけど、その創価学会はいつ頃入られた?
えっとね、両親がやってた、祖父もやってたんですけど、祖父と両親が別々にたまたま偶然一緒のタイミングで創価学会に入ったので、2世か3世かわかんないですけど。でも僕自身はだから生まれた時から両親がやってたので入ってた。でも信仰の世界って、親がやってるから素直にやる人って多分ほとんどいないと思うんですよ。
基本はやっぱり自分が信仰をやってて、創価学会って仏教の世界なんですけど、この仏法を持ってて、その信仰の中で自分が悩んだり、いろんな人生の課題にぶつかったりした時に、信仰を通じて自分が成長してるとか、自分が一回りまた大きくなったとかっていうのを感じてったから、あ、これやっぱやってこうと思ってやってるだけで。だから人に言われてやるようなもんじゃないし。例えば創価学会員は公明党全員応援してるやろって思われるけど、でもやっぱり例えば取り分け若い世代なんて全然そんなことないすよ。やっぱ自分で思って本当に応援しようと思わないとなかなか投票ってしてもらえないと思うんですよね。だって最後投票するとこって完全にプライバシーが確保されてるわけじゃないですか。どんだけ公明党応援してますって言っても、最後書く時別に違うとこ書いてもいいわけじゃないですか。
ただその創価学会員の人やったら、公明党の議員と接する機会も確かに多かったから、より身近で何やってるかっていうのは見やすかったっていうのもあって、それやったらこの人応援してもええかなっていうのは確かにあったけど。だからそこは創価学会員の息子、娘、子供だからその信仰をすぐやってるわけでもないし、創価学会員だからと言って公明党全員応援してるわけでもないし、そこは結構私は自由やと思いますけどね。
じゃあ当時とかはその学生部みたいな集まりとかある時?
そうそうそう。学生は学生で集まりありましたよ。
そういうのは行かれてたんですか?
もう行ってました。
そうやりつつ受験勉強もするみたいな。
でもね、高校の時とかはそんな別に創価学会の活動が忙しいとかないですから。どっちかつったら受験頑張ろうみたいなんで、その先輩のお兄さんお姉さんみたいなのが激励しに来てくれるみたいな、そんな世界ですよ。なんか困ってることないみたいな。例えば勉強でこんなつまずいてますと言ったら、学生の先輩とかが教えてくれて、こういうことやったらどうとか。要はなんか励ましの組織みたいなものがあって、そういう感じ。
大学の志望は東大ってことでしたよね。通られたんですか?
あ、通りました。そうじゃないと東大卒になってない。[笑い]
そう、そう。浪人とかもされてないってことです?
あ、しなかったすね。
あ、すごい。
でもこれもね、色々あって。センター試験、今なんちゅうんやろ?共通一次試験っていうのかな?共通テストですか?あの直前にちょっと悩んだんですよ。私理系、数学とか物理化学好きやったので理系やったんですよ。で、東大の理科一類目指してたんですけど、1月にセンター試験の直前に雅子様がご成婚みたいなニュースが流れる。今の天皇陛下が結婚されたんですよね。で、雅子さんって外交官出身なんですよ。で、日本語と英語で通訳もやる。それをニュース見てめっちゃかっこいいと思って、外交官になりたいと思ったんですよ。
でも外交官って理系じゃないよなと思って、文系に行きたいって言ったの。理科受けるって言ってたけど、やっぱり文系にしますって言ったら先生も猛反対。親もお前何言ってんねんと。要は全然教科も足らないし。何言ってんのよ、とりあえず受かってから言えと。受かってからもう1回受験するの考えたらいいけどって言われて、で一応試験受かったんですよ。でも受かったら、大学生になってもう1回受験しようなんて、ならないじゃないですか、気持ち的に。[笑い]ようやく東京1人暮らしみたいなんで。
でもやっぱ外交官になりたいという思いがずっとあって、で東大の場合は1、2年生の成績で3年生から行きたい学科が選べるんですよね。進振り制度っていうのがあって、トップ1人か2人だけ法学部に行けるんですよ、理系から。
あ、そんな少ないんですね。
少ないですよ。1400人いるうち1人か2人。
え、あ、そうなんですか。
なので、でも一生懸命行きたくて頑張ったんですよ。で、まあまあ成績良かったんですけど、でもそれでも東大でトップ1位とか2位とか無理なんで。で、最終的に法学部には行かず、でもこんだけ成績せっかく取ったからもったいないから、理科一類で1番難しいとこ行こうと思って、航空宇宙工学科に行ったんですよ。
あ、そうなんですね。へえ。
そう。ほんでロケットとか人工衛星の研究をやると。ところがそんな邪な気持ちで行ったもんですから、周りめちゃくちゃ優秀なんですよ。[笑い]航空宇宙工学科、本当に宇宙大好きみたいな、もう自分の人生をロケットの開発に捧げたいとかっていう人ばっかりなわけですよ。で、自分はなんとなくかっこいいみたいなんで来ただけやったので、どんどん落ちこぼれるんですよね。ついていけなくなるんですよ。
ほんでみんな大学院行ったけど、僕はそん時思ったのは、こんな優秀な研究者を応援できるような仕事したいと、支援するような仕事したいと思って、科学技術庁に入ったんです。
あ、え、そう官僚になられるっていうこと。
そう。研究者の支援をしたいと。これ全部繋がってんですよ。大学受験から自分のなんか科学技術庁に入るまで。[笑い]
その宇宙のところって何人ぐらいが入れるんですか?
航空宇宙工学科、当時何人やったかな?40人か50人ぐらい。
あ、すごい。その40人の中に入れた。
はい。40人やったかな?
ちなみにサークルとかって入られてました?
あの、ナンパなテニスサークル入ってました。ナンパテニス。[笑い]緩い感じの、ガチでやるテニスじゃなくて、ちょっとまあたまに集まって飲みましょうみたいな。[笑い]
テニスはしてました?
テニスやってました。
テニスやってたんですね。
結構楽しく、楽しくやる。
官僚になられるってことは、その試験も受けないとダメってこと。
そうですね。国家公務員試験受けました。
それはいつぐらいから勉強されたんですか?
まあでも半年ぐらい前ですかね。国家公務員試験って、他の例えば弁護士試験とかと比べて、勉強すればするほど受かる確率が高くなる試験でもないんですよ。集中的にワッとやって、そん時で受かる人は受かるし、受からん人は受からんみたいな。そういう試験なんですよね。だからそんな長く勉強する人ってあんまいないと思います。大体みんな半年ぐらい。
あ、そうなんです。こう振り返ると東大も、その国家公務員試験も受かられてますけど、以降ってそんな大きく挫折とかって少なくなってきてますか?
中学受験で挫折をして、でも受かったけど中学でどんどん成績が落ちてったりとかで、高校受験ではうまくいったけど、でも外交官になりたい、法学部行きたいとかっていう夢は1回挫折するわけですよね。航空宇宙に入ったらどんどん成績も落ちこぼれてって、卒業できるかどうかギリみたいな話になったりとか。で、周りの友達に助けてもらってなんとか卒業できたので、だからそういう意味では、その友達をやっぱり支援したいって思いが余計あったっていうか。
だから卒業旅行とかって、卒業決まってないのに行きましたからね。
あ、そんな結構ギリギリだったんですか?
そう。で、卒業旅行行ってバックパッカーでヨーロッパ回ってたんですけど、ヨーロッパから電話して友達に、俺って受かってたって聞いて、あ、伊佐、合格してたでって。卒業できてたみたいでよかったみたいな。[笑い]だから大学卒業して本当5、6年ぐらいは、やっぱり卒業できてなかったっていう夢見てましたよね。
あ、そんなにトラウマっていうか。
見てました。
宇宙に対する意欲は失せてなかったんですか?
いや、宇宙自体は嫌いじゃなかったんですよ。元々宇宙っていうもの自体もね。ちっちゃい頃から宇宙の本読んだりとかしてましたんで、好きは好きだったんですけど、勉強する、学問する、そこでエンジニアとしてロケット作るとかっていうほどじゃなかったんですよ。
でも面白いことに、そういう友達を守りたいと思って科学技術庁入りました。で、宇宙開発とかに携わるわけですよ。で、そん時にやったのが人工衛星はやぶさ。
分かります。
そう、イトカワっていう、本当に人類史上ここまでなかなか行けないようなとこまで行って、ちっちゃい小惑星に着陸して石取って帰ってくるっていう。でもこの帰ってくる途中で、エンジンは止まるわ、姿勢制御装置4つのうち3つ壊れるわ。もうボロボロなんですよ。だ、そん時に当時宇宙開発課っていうところにいて、これ担当してたんですよね。
ほんで財務省との交渉してたわけですよ。財務省に言われるんですよ。こんな帰ってくるかどうかわからんような人工衛星にお金つけられへんと。国民の貴重な税金をこんなとこにお金つけられませんと、もうプロジェクト打ち切りって言われてたんですよ。で、しかも帰ってきた時に石をもし掴んでたら、石を分析するような真空の研究室が必要なんですよね。で、この予算もいるんですよ。で、そんな帰ってくるかどうかも多分無理やでと言われてて、そんなんつけられへんと。
でもあの時研究者の皆さんめちゃくちゃ頑張ってたんですよ。寝ずに、制御これ無理でも、こことここ組み合わせたらいけんのちゃうかとか、エンジンもこれやったらいけんちゃうかとかっていうので軌道計算しながら。で、そう寝ずに頑張ってる研究者の皆さんに、すいません、ちょっと予算取れなかったんで解散でお願いしますって絶対言われへんなと思ったんですよ。
だから財務省に通うんですよ。通ってなんとか予算つけてくれってお願いしに行く。何回も行くけど、いやもう無理ですって言われるんです。でも繰り返していくうちに最後12月、1番財務省忙しい時また行くんですよ。ほんでなんとかやっぱり予算はやぶさにつけてくださいって言ったら、最後その主計局が、財務省が言ったのは、分かったと、もう伊佐さん予算つけるから頼むからもう来んといてくれって言われて、ほんで予算ついたんですよ。
え、すごくないですか?
そう。ほんでプロジェクト続行が決まって、最後オーストラリア上空、地球に帰ってきて、あの感動的な、みたいになって帰ってくる。もう本当涙出そうになりました。
伊佐さんいなかったら…
そうなんすよ。今頃はやぶさってなかったんですよ。
ええ、すご。
そうで映画も3本できたんですよ。で、その話を聞きつけたプロデューサーが、伊佐さんもはやぶさ関わったんですよね。あ、そうですと。1回話聞かしてくださいって。この話言ったら、それは映画出したいって言われて、で、映画出たんですよ。私じゃないですよ、その俳優がね。で、映画僕見に行ったんですよ。ほんなら言ってんですよ。こんなね、帰ってくるかどうか分からんような人工衛星には予算をつけられませんって、文部科学省の職員が言ってんですよ。あ、これが俺かみたいな。[笑い]
なんか悪者になってた。
そう、そう、そう。そういうことありましたよ。
今で言う文部科学省がその科学技術。
そう、そう、そう。だから当時は科学技術庁、文部科学省の職員が必死に財務省と交渉して予算を取ってきたってのが。ただ映画的にはそれややこしいじゃないですか。[笑い]
なるほどね。分かりやすくするためにそうなったっていうね。ちょっと悪者にな。
そうそうそう。
あの、ちょっと前に戻っちゃうんですけど、さっきおっしゃってたバックパッカー。ごめんなさい、これネット情報なんですけど、結構いろんなとこに行かれて。
ああ、めっちゃ行きましたね。
へえ。どんなとこ行かれたんですか?
結構ほぼほぼ南極大陸以外は行きましたね。あ、違う。いろんな大陸にはね。もちろん全部の国じゃないですよ。でも50、60カ国は行ってると思います。
え、それは大学時代にずっと?
文部科学省で働いてる時も1週間休みがあったらバックパッカーで出てました。バックパッカーなので途中何起こるかわかんないじゃないですか。で、なんとか最初と最後だけたどり着けるように。もうかなりヒリヒリするような旅ですよね。[笑い]
なんでそう行きたいという風に思って…
やっぱね、霞が関で仕事をしてると、もっと本当に広い青空を見たくなるっていうか。[笑い]いろんなとこ行きました。東南アジアは結構ほぼほぼ行ったし、もちろんインドとかパキスタン、中央アジアも、ヨーロッパ全部行ったし、北米も行った、南米、中南米もだいぶ行きました。アフリカ大陸も行きましたし。まあまあ行きましたよ。
結構なんかいろんなハプニングとかありそうですよね。アフリカとかインドとかだと。
ありましたよ。発砲されたこともあったし[笑い]、銃で撃たれたこともあったし。
ええ、ほんまですか?
当たってなかったですけど。撃ったって言っても本当にこうやってバンっていうよりも、群衆に威嚇する意味でバババババババみたいな中に僕がいたっていう。あと襲われたことも、南米ではペルーやったかな。5、6人に襲われて身ぐるみ剥がされたこともありましたし。
ええ、それっておいくつぐらいの時ですか?
いくつやろ?でも20代です。アメリカに留学した時の話やったと思います。アメリカ留学中に夏休み期間中かなんかで南米旅したと思うんです。バックパッカーで中南米。
海外の大学院に留学された。
行ってました。
それは入ってすぐですか?その官僚になってすぐですか?
えっとね、入って4年目か5年目かな?それも国費留学っつって、国のお金で行かしてもらうのが。これもね、今の生活抜け出したくて。毎日当時残業250時間ぐらいしてたんですよ。
残業がですよ。残業250時間って今やったらやばいと思いますけど、1週間のうち家で寝ることは1回もないです。大体鉄パイプの椅子の上で寝てたんですけど、で、夜中の3時ぐらいまで仕事して、シャワールームとかあったので。で、土日も家にいなくて、土日は大体洗濯に帰る、クリーニング出しに帰るために戻って、服だけ取ってまた戻ってきて仕事するみたいな生活が続いてて、絶対こんな生活抜け出したいと思って留学したいと思ったんですよ。で、国費留学も結構なかなか狭き門だったんですけど、でもなんとか受かって、留学生で行かしてもらいました、2年間。
それはなんかそういう専門の試験があってってことですか?
そうです。TOEFLまず受けて、TOEFLで一定の英語があった上で、あとは面接試験とか、自分の役所の推薦とか。で、英語は実はずっと苦手やったんですよ。ずっと大学受験の時も英語すごい足引っ張りました。
あ、そうなんですね。
そう。その当時3人行けるってなったんですよ、最終的に。3人行けるってなったけど4人候補が選ばれて、推薦を受けた。で、最後勝負するわけですけど、僕4番やったんですよ。で、これどうやろうと思って。3番の人もいたけど、最後のスピーキングの面接試験で、僕喋んの結構好きなんですよ。リスニングあんま得意じゃないですよ。[笑い]喋んのはガンガン喋って、ほんでなんか4位と3位がひっくり返ったんですよ。ほんで3番でギリギリ行けたんですよね。
喋りで。
喋りで。[笑い]
すごい。スピーキングがめっちゃ得意ってことですか?
スピーキング好きです。
あ、そうなんですね。[笑い]英語苦手だけど英語のスピーキングだけはできる。
そうそうそう。
すごいね。国費留学っていうのは普通に大学生みたいな生活をまたするみたいな。
そうです。本当に100%勉強だけできる。国から留学させてもらって、授業料も出してもらって、一応生活費も出るので。
え、それは何の勉強されてたんですか?
私はね、チャイナスタディーズって言って中国の研究をやってました。中国の経済ですね。中国経済が今後どうなるかとかっていう勉強をしてました。で、私が思ったのは、やっぱ日本って日米同盟がもちろん重要じゃないですか。でも同時に中国もすごい大事で、やっぱり中国が大国で、日米中のトライアングルの中で日本がどういう風に外交上立ち回れるかとか、日本の経済に連携していくかとかっていうのは非常に大事だと思ってて。だからアメリカのことも分からなあかんけど、中国のことも分からなあかんてずっと思ってたんですよ。
ほんで、いずれ自分は中国に絶対行って中国で仕事もしたいと思ってた。なんなら大使館のポジションもあったので、中国の大使館でも働きたいと思ってた。日本の北京の大使館で働きたいと思ってたけど、その前にアメリカが中国をどう見てるかを知りたかったんですよ。
だからアメリカの大学院。しかも選んだ大学院がジョンズ・ホプキンス大学の国際研究大学院、高等国際問題研究大学院って言って、それワシントンDCにあるんですよ、この大学院。で、SAISって言うんですけど、これ外交の世界ではまあまあ名前が知られてて、何がいいかっちゅうと、ワシントンDCにある、政権に直結してたんですよ。このSAISの学長がウォルフォウィッツって言って。当時アメリカはどういう時代背景やったかっていうと、2001年ナインイレブンがあってアメリカがテロの攻撃をされた。これが授業の初日です。
え、あ、そうだったんですね。
ちなみに私が住んでた家の近くがペンタゴンの近くで、ワシントンDCにもペンタゴンにも飛行機墜落したんですよ。だから朝から電話来て、あんた大丈夫みたいな、飛行機落ちたらしいって言われて。でもなんかよくわかんなかったです、朝起きたてで。いや、もうちょっと忙しいから行くでって言ったら、自分の家の近くに飛行機落ちてたんすよね。煙見えてましたもん、家から。
あ、そんなに。
それが授業の初日で、そっからアメリカの外交政策が一気にアフガニスタン戦争に入ってくわけですよ。で、当時のブッシュ政権を引っ張ってた超保守派ネオコンサバティブの1番の思想を引っ張ってたのが、ウォルフォウィッツっていうその学長やったんですよ。だから政権と結構一体的な超保守派な大学院だったんですよね。ところが面白くて、教員が超保守派やと学生みんなリベラルになるんですよ。めちゃめちゃ討論会でバチバチに学生と先生が戦うみたいな。そういうのをやっぱ目の当たりにして、アメリカの外交政策が変わる。で、中国をアメリカがどう見てるかっていうのを知るっていう思いで2年間行ってきた。
結論言うと、アメリカもちゃんと中国のこと分かってなかったと思います。例えば当時沿岸部に世界中が投資した工場とか建ってたんですよね。安い労働力を目指して。で、その時私が素直に疑問やったのは、こんだけ世界が投資し始めると労働力が不足するんちゃうかと。そうすると賃金上がっていくじゃないですか。だからいずれ世界が中国に投資できなくなるんじゃないかと思ったんですよ。ところが当時大学の先生が言ったら、そんなことないと。中国のバックヤードには巨大な農村部があって、そっから労働力はもうある意味半永久的に供出できるぐらい人口多いから、沿岸部で賃金が上がることはありえないっつってたんですよ。そうかなと思ってたら、それからほどなくして、日本に帰国した後、賃金上がり始めるんですよね。で、世界の工場じゃなくなるんですよ。というように、だから当時のアメリカも正しく中国を別に理解してたわけじゃないなと思いました。
へえ。後々その中国に関連する仕事とかはされたりするんですか?
そう。それで大学院から戻って、またさらに宇宙開発とかやるんですけど、その後自分がいよいよ希望してた在北京の日本大使館に赴任命令が出るわけですよ。で、外交官やるわけですよ。2007年から2010年。
なりたかった…
そうなんすよ。伏線回収するでしょ?
すごい。[笑い]
だから人生って伏線回収なんですよ。頑張ってれば。結局外交官になりたかった夢もそこで叶う。若手の研究者、そういう人たちを応援したいっていうのも、さっき言ったように人工衛星はやぶさで叶う。というようにね。で、2007年から2010年北京に行って、外交官となって日中外交の最前線で仕事するわけですよ。
これがおもろかったんすよ。当時中国ってどんどん伸びてる時で、私がいた赴任期間中に中国は日本を抜いて第2位の世界経済大国になるんです。
オリンピックとかの時ですよね。2008年。
2008年8月。
当時びっくりした記憶あります。こんな中国が進んでるんだと思って。
そうそうそう。で、当時、今で言う経済安全保障って言うじゃないですか。ああいう仕事をやってたんですよ。日本の技術をどうやって守り、あるいはどうやって連携するのが1番日本が得するか、国益に叶うかというのを中国との間でやってたんですよね。だから中国にもかなり僕も入り込んだっていうか。例えばロケットの打ち上げとか見してもらったんですよ。ロケットの打ち上げは人民解放軍がやるんですよ。そんな軍がやるとこ外国人に見せないじゃないですか。今やったら絶対ありえないです。
でもそういうとこまで仲良くなって、見て入れてもらってとかで、そういう現地のいろんな状況を調べて、客観的に現場の本当の状況を見てレポートまとめたんですよ。中国の本当の姿。でそれを大使に最後見したら、これ本書いた方がええんちゃうかって言われて、帰国後本出したんですよ。めちゃくちゃ売れました。[笑い]だってそんなに客観的に現場のことも分かって、データに基づいて言ってる本ってなかったんですよ、当時。ああいう本にしてはすごく売れました。1万5000部売れて。
すご。
ほんで印税もまあまあ入ったんですよ。でもその後選挙出ることになって印税全部なくなったんですけど。
結構突然ですよね、選挙。
そうそうそう。突然なんですけど、中国と科学技術っていうところを専門分野にしていきたいなと思ってたんですよ。と思ってたら声がかかるわけですよ。政治家になれへんかっていうね。はい。それはまた次回。
次回。え、ごめん。[笑い]で、そもそも中国語ペラペラってことですよね。
あの、やっぱアメリカで実は大学院の卒業要件が論文じゃないですか、大学院って。で、私も中国の経済で論文書いたんですよ。この論文を中国語でディスカッションできないと卒業させてもらえなかったんですよ。
あ、英語じゃなくて中国語。英語も中国語も喋れないとってことですよね。
そうです。
中国語検定もその1番上のを取られてるみたいな。
あ、そうですね。最上級まで行きました。
すごいすね。
で、大使館が終わって日本に戻ってきました。で、何になったかいうと、当時ね、民主党政権になってたんですよ。自民党、公明党が大負けして民主党政権になった時に戻ってきました。で、やった仕事が副大臣の秘書官っていうのやったんですよ。そん時起こったのが東日本大震災、3.11。
で、あの時に強く感じたのは、やっぱね、福島の原発の話もあったし、国家の危機の時には本当にその政治がちゃんとしないと国がダメになるなと思って、国民が不幸になるなと思ったんですよね。例えば文科省やと当時放射線の担当とかしてたんですよ。ところが避難する場所も、なんかうまくコミュニケーションがいってなくって、放射線が拡散してく福島の地域に人を避難させてたりとかね。これ本当に国家の一大事の時は政治家がちゃんとしてないとどうしょうもないな、官僚の力じゃ、役人の力じゃどうしようもないなって打ちひしがれてたんですよ。
という時に公明党の山口代表から電話がかかってきたんですよ、副大臣室に。公明党の山口ですけどって言われて、どの山口さんですか?みたいな話です。[笑い]いや、代表の山口那津男ですみたいな。あ、すいませんみたいな。ちょっと今副大臣外してますって、席を。いや、君さ、君とかって。あ、そうですと。ちょっと君に話があるみたいな。なんやねんみたいな話になってですよね。[笑い]
そうで、会えますかって言われた。分かりましたって言って行ったら、あなた守口の出身でしょと。守口と、大阪6区で今まで公明党の議員で頑張ってた人が引退すると。次どうかって言われて。で、ちょうど自分は政治がなんとかせなやっぱり国民が不幸になると思ってた時に声がかかったんで、あ、これってやっぱ時ってあんねんやなと思って、決意して分かりましたって言って、文部科学省やめて地元に戻ったんですよ。
へえ。おいくつの時ですか?
36。
ああ、官僚時代がもう15年ぐらい。
そうですね。やってました。
もうスパッとやめられたんです。
いや、それがね、もうちょっとでボーナスがもらえてたんですよ。だからそれまで待ってほしいって言ったんですけど[笑い]、当時野田さんが総理で、いつ選挙になるかわからんっていうタイミングやったんですよ。だから1刻も早くやめてくれって言われて、で、文部科学省の先輩に相談したんです、幹部に。なんか僕、もうちょっとでボーナスもらえるんですけどって言うたら、いやいや、もう党が言ってるから早くやめてくれ、やめた方がいいみたいな話になって、上も忖度してて。あ、分かりましたみたいな。[笑い]ほんでやめました。で、すぐ選挙あるかもしらんからと思って、すぐにやめて地元戻って選挙活動始めたら、そっから1年半選挙なかったんですよ。
え、ボーナスもらえてたやん。[笑い]
そう。当時まだしかも私の妻が第1子を身ごもってたんですよ。妻東京の人間なんで、大阪なんか知らないわけですよ。でも妻も決意してくれて、じゃ、一緒に大阪で頑張ろうってなって、お腹抱えながら選挙活動が始まるわけですよ。そういうのがスタートでしたね。で、1年半もうひたすら早朝から、365日ずっと回ってました。ドブ板で一軒一軒ピンポンして、やってやりました。
そん時はもう収入とかはないわけですか?
でもありがたいことに、そん時に山口さんに言ったんですよ。すぐ選挙あるって言ったから帰ったのに、ボーナスももらってないの、どうしてくれんねんみたいな話を言って[笑い]、多少はなんかないとやっぱやってけないって言って、一応党からは生活費多少もらってやってましたけどね。
で、その出る時も多少出してくれたりとかは。
いや、でも選挙費用は出してくんなかったですね。出してくんないちゅうか、貯めてきた印税を吐き出して使いましたね。
あ、そうなんですね。
はい。ようやく1年半経って選挙になって初当選しました。妻も相当よかったと、これでホッとしたってなって、子供もそん時もう生まれてましたから。ようやくパパが戻ってきたと思ったら、そっから東京行くわけじゃないですか、国会で。ほんで週末地元戻ってきたと思ったら、それこそ地域回りしてるわけですよ。地域の行事だったり。余計いなくなるんですよ。だから妻としてはもう本当に、それから子供2人目も生まれますけど、ずっとワンオペで、親もいない見ず知らずの地で子育てをずっとやる。相当しんどかったですよね、妻はね。
本当にその政治家の息子さんにインタビューしたこともあるんですけど、もう会った記憶ほぼないみたいな。
そうなんですよね。そうなると思います。
落選された時のその期間はちょっとやっぱり時間があったり。
そうなんすよ。[笑い]それが実は家族にとって、もちろん大変ですよ、落選生活なんで大変でしたけど、家族にとったら、パパいるやんみたいな。だから今までその子供が生まれてから家族旅行って言ったら、まあ1泊2日有馬温泉行くぐらい。近いから、有馬やと大阪からなんかあったらすぐ戻ってこれる。でも落選して初めて。僕、伊佐ってね、沖縄の名前なんですよね。
あ、そうなん。
そう。元々ルーツ沖縄なんですよ。名護なんですけど、自分のルーツの沖縄もね、やっぱ子供たちに見したかったし、沖縄戦のいろんな、ひめゆりの塔とか連れていきたかったし。ようやく落選して家族を沖縄に連れていく。妻も沖縄は行ったことなかったんすもん。家族でようやく旅行ができました。
うわあ。議員じゃない期間ってどれぐらいあったんですか?
結局でも1年ちょっとですかね。
あ、でもそう。
はい。まあ、でもね、落選した時は本当に、まあ大阪でね、結構維新って強いんですよね。はい。はい。はい。はい。で、維新との対決だったので大変な厳しい戦いって分かってたので、1年半また本当ひたすらドブ板するわけですよ。
ドブ板っていうのはもう朝6時半から駅に1人で立ってたし、はいはいはい。で、ちょっとでも時間が空いたら1人でスーパーマーケットの前行って街頭演説1人でやってたし、地域行事ももちろん全部出る。呼ばれてなくても顔出してましたから。へえ。とにかく伊佐進一に会ったことある、あの人地域回ってる、あの人の話聞いたことある、どんだけ作るかと思ってドブ板でやって負けたんですよ。うん。うん。
ショックやったんは、当日、投票所の外で掲示板をぼーっと見てたんですよ。うん。ほんなら若い夫婦が子供連れてきて、お、これ伊佐進一やんて言ってるわけです。めっちゃポタてや、この人。あ、そうやな。夫婦で話して、あんたどうすんの?誰入れんの?そうやな。まあ、伊佐進一と公明党やろ。公明党と維新やったらやっぱ維新やろなって。そうやなと2人で入ってくわけですよ。あ、2票行ってもうたみたいな。なんかショックやったんですよ。
伊佐進一、別にポスター見るけど会ったことないって言ってるわけですよ。うん。あんだけ地域回ってひたすら24時間、まあ24時間じゃないけど、ドブ板で回りまくっても会えない人の方が多いわけですよ。うん。ほんで負けた。だったらもう次戦う時に、もっと頑張りますじゃもう受からんなと思ったんですよ。はいはいはい。
だからやっぱりもうYouTubeとかSNSとか、こっちに力入れるしかないと思って始めたのが公明党のサブチャンネルとか、ああ、朝のニュースライブだったりとか、っちゅうのに振り切ったんですよ。だから本来やったら朝の駅に毎日立とうと思ったんですけど、それやめて、毎朝駅に立つつもりでニュース解説やり始めたんですよ。
あ、そうなんですね。そっちに振り切ったんですね。振り切った。あ、そうなんです。はいはいはい。で、それがまあ、はまったりして当選につながるという。そうですね。まあまあもちろん色々あって、本来であれば小選挙区で勝つためにやってたんですけど、ところが、まあ中道っていうのができて、で、小選挙区で戦えなくなったので比例に回ることになったので、まあでも比例で名簿載せていただいて、比例で結局当選したと。はい。はい。はい。はい。
途中から、まあ広報委員長として活動されてるというか、それはきっかけあったんですか?まあ、でもこんだけ広報やりまくってたからね。[笑い]さすがにという。まあまあまあまあ、この服目立つじゃないですか。うん。ほんでやっぱり広報委員長ってやっぱどうやって広報するかっていうのがもう大事だし、自分自身もやっぱ発信していかなきゃいけないっていう大きな役割もあると思うんですよね。
でやっぱこのミラーボールに覚醒してからは結構色々呼ばれる、みんな呼んでくれるわけですよ。で、例えば去年の夏の参議院選挙とかでも、みんなちょっと伊佐さん来てっていうので全国走り回りました。はいはいはいはい。で、参議院選挙って夏じゃないですか。めちゃくちゃ暑いじゃないですか。でも大体来るリクエストはミラーボールで来てって言われるんですよ。
それ通気性いいとかあるんすか?機能的に。あのね、4万円するんすよ、これ。おお。まあまあ作りがしっかりしてん。[笑い]めっちゃ暑いんすよ。でもこれ1着しかないからクリーニング出せないんですよ。え?あ、クリーニング。あ、クリーニング出したらスパンコール落ちるんですよね、これ。あ、そっか。だ、もうファブリーズ。ファブリーズ。[笑い]
これがだから夏場の選挙で行くからもうめちゃくちゃ暑いので、皆さんがこれを見かねて、なんかファンの人がベスト作ってくれたんです。それだといいっす。[笑い]そうで、さらにはTシャツまで作ってくれたんすよ。ええ、スパンコールの。そう。ええ。とかさらにはカラまで作ってくれた人とかいて。[笑い]え、カラは意味ないやろみたいな。そういろんなグッズができ始めてです。[笑い]すごい支えられてますね。本当に。
そう、だからそういうようなやっぱ観点で、あの支援者の中では、まあ注目もしていただいてたので、まあそういう意味では広報委員長っていうのも、まあ形に、まあ自分でやりたいことでもあったし、まあ良かったなと思ってますね。はい。
その、まあ新しくできた党でも広報委員長として、そうですね、されてるとこですね。主にどういうことされるんですか?はい。まあ選挙終わって2月に広報委員長になりました。ところがなってみると、まあ当たり前なんですけど、できたばかりの党なので、まずお金がないんですよ。はい。はい。はい。金庫でも0なんですよ。え、だって党って政党交付金っていうのが1つのお金の入り口なんですよね。はい。はい。交付金って4月…。ああ。だからやろうにも何もできなくって。
しかももっと言えば党の党職員も0なんすよ。え、ああ。立憲民主党の職員と公明党の職員はまだいるけど。だってまだ立憲と公明ってあるじゃないですか。はいはいはいはい。だから職員はそれぞれ党本部に職員いますよね。でも中道って職員だっていないんすよ。ああ。ふーん。だからやりようがなくって。はい。
だから新しいなんか企画みたいなものは、4月にお金が入って、で4月から職員も何人か派遣してくれることになったので、うん。立憲と公明から。だからそこでなんとか今から動かします。それまでできたことは中道の切り抜き動画作ったりとか、はいはいはいはい。あるいは中道のゲリラライブやったりとか、っていうのはやってました。うん。はあ。そう。もう出来たてだからこれからという。そうそう。で、こっからどういう企画をやっていくかとか、何をやるかっていうのはまさしくこれから。はい。ああ。はい。
最後になんか毎回そのメッセージをいただくみたいなコーナーがあって、まあ視聴者層が20〜30代の学生とか若者、なるほど。なんかその層に向けて何でもいいんで。
メッセージ。私、あのまあ自公政権の中で財務大臣政務官をやり、厚生労働副大臣もやったんですよね。はい。はい。で、厚生労働副大臣やった時のタイミングってどういうタイミングやったかっていうと、コロナのピーク。ああ、第8波、1番感染者数が多い時やったんですよ。はいはいはい。で、もうずっとステイホームやってて、もうなんとかならんのみたいな。
で、こん時に厚生労働副大臣になって、で、そん時に加藤勝信さんが大臣だったんですけど、この大臣と一緒に言ったのは、なんとか我々の大臣、副大臣時代に日常生活取り戻したいと。うん。で、そのためには例えば医療の提供体制、あれ病院に入れないとかあったじゃないですか。保健所連絡しても繋がらんとか。その病院体制どうするかと、ワクチンをいかに国民の皆さんに打ってもらうか、あるいは海外からね、日本国民のために持ってこれるか。はい。で、あとは薬の開発。はい。
この3つをやらなあかんていう、この3つ一生懸命やって、で、私も海外との交渉とかね、そういう辺もちょっと携わりながら、で最終的にこの3つが揃うわけですよ。うん。ほんで春に5類指定に戻し、つまりインフルエンザと一緒になったんですよ、最終的に。はい。はい。はい。ほんで今までのコロナのずっとステイホームでやったから日常生活に戻ったわけですよね。っていうのができた。
で、つまりそれって実は就任した時思ったのは、政治家になる時のきっかけとして、国家の危機の時こそ政治家がちゃんとせなあかんなと。うん。せんとと政治家になったじゃないですか。で、まさしく国家の危機っていう時に大臣の秘書官の巡り合わせで、当時は大臣の秘書官の時にそう思ったわけですよ。はい。で、政治家になった。で、今は自分が副大臣の時にそういう危機に巡り合った。で、まさしく伏線回収なんですよ。はい。はい。
さっき言ったように、結局人生って一生懸命やってたら、あん時はこう思ってたけどできなかったっていうことも全部伏線回収されるんですよね。うん。うん。だから私の人生も結局やっぱ山あり谷ありで、いい時もあれば挫折もあるし、結構な挫折も経験してきてるんですよね。でもそん時も全部一生懸命常に頑張ってきたつもりなので、全部伏線回収してるみたいな。だから人生は伏線回収なんやっちゅうことをちょっとお伝えしたいなと。
ああ。はい。ちょっともうちょっと頑張ろうと思います。本当に。いや、頑張ってます。[笑い]エネルギーすごいいただきました。本日は本当お忙しい中ありがとうございます。はい。ありがとうございます。はい。ラブ&ピース、ありがとうございました。[笑い]
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