「人生は伏線回収」――伊佐進一が語る、難病・受験の挫折から官僚15年、ミラーボール姿の広報委員長まで

YouTubeで開く ↗
概要

衆議院議員の伊佐進一氏は、元公明党で、現在は中道改革連合に所属し、広報委員長を務める。本人の説明では議員として5期目にあたる。スパンコールの衣装から「ミラーボール」と呼ばれている。このインタビューでは、兵庫の県営住宅で育った幼少期から、中学受験の失敗、東京大学での進路の迷い、科学技術行政と北京での外交官勤務、政界入り、落選、そしてYouTubeでの発信までが語られた。伊佐氏は、挫折も含めた経験が後になって意味を持つことを繰り返し「伏線回収」と表現し、それが話全体を通す軸になっている。

17分で読めます

名刺より大きい「政治系YouTuber」の肩書き

伊佐氏の名刺では、「衆議院議員」よりも「政治系YouTuber」の文字のほうが大きい。落選していた期間に毎朝ニュース解説のライブ配信を続け、チャンネル登録者はもうすぐ20万人、毎日6〜7万人が視聴していると本人は話す。

ミラーボール姿になったのは「去年の4月」だという。きっかけは堀江貴文氏との対談だった。堀江氏から、公明党が真面目に一生懸命やっているのは分かるが地味すぎる、公明党といえばこの人という存在がいない、誰かが衣装を変えてポーズを決めるべきだと言われた。党の職員が「伊佐さんしかいません」と言い、本人も嫌ではなかったので引き受けた。すぐに上野の店へ服を買いに行き、この衣装に一目惚れしたという。

県営住宅での生い立ちと、4歳での難病

伊佐氏は兵庫県宝塚市の生まれで、小学2年から大阪府守口市で育った。守口は後に選挙区になる。宝塚では県営住宅に住み、所得の高い家庭ではなかったと振り返る。父親はトラック運転手などの職を転々とし、最も長く続いたのは製薬企業の営業だった。母親は看護師だった。

4歳のとき、右足の軟骨が溶けていくペルテス病を発症した。治っても歩行が困難になったり走れなくなったりする可能性がある病気だと説明されたという。足の付け根からつま先までギプスで固め、開いた両足の間を鉄パイプでつないで固定し、松葉杖で歩いていた。病院が熱心に診てくれたおかげで、1年ほどで奇跡的に治った。小学校に上がる前に回復し、今では趣味がフルマラソンだという。

骨折入院と一人の教師が開いた中学受験の道

小学4年になるまで、塾には一度も通っていなかった。家庭に経済的な余裕もなかった。転機は小学3年のときで、遊んでいて大きな骨折をし、1か月半ほど入院した。学校に戻ると算数の授業はだいぶ先に進んでいたが、担任が遅れを取り戻そうと力を入れてくれ、算数が好きだったこともあって1〜2日で追いついた。

この担任は「この子は中学受験をさせて進学校に入れたほうがいい」と家まで来て親に勧めた。親はお金がないと断ったが、担任は何度も足を運んだ。最後は親が根負けして塾に通わせることになった。伊佐氏は、この先生がいなければその後の大学受験も今の自分もなかったと話す。

志望校は灘中学で、次が甲陽学院などだった。合格が有望と言われていたが、灘に落ち、第2志望の東大寺学園にも落ちた。練習のつもりで受けた洛南に合格した。当時の洛南はまだこれから伸びていく途中の学校だった。これが伊佐氏にとって最初の挫折になる。

ただ、伊佐氏はこれを後で意味が分かった出来事として語る。洛南は塾に行かせず学校で教育を完結させる方針だったため、経済的に苦しかった家庭には合っていた。さらに、最終的には1学年で2〜3人しか選ばれない特待生になり、授業料が免除された。伊佐氏によれば、当時の入学者は45人×14クラスほどだった。結果的に最善の選択をしていたというのが本人の振り返りだ。

燃え尽きた中学時代と東大志望

特待生になったのは入学後の話で、中学時代の成績は下がる一方だった。小学4年から6年まで受験勉強を続けた反動で、中1の時点で燃え尽きていたという。上位で入学したが、最後は下から数えたほうが早い順位まで落ちた。中学時代は麻雀ばかりで、週末は友人と徹夜麻雀をしていた。中学の間は遊ばせてほしいと親と約束しており、高校に入ってから切り替えて本気で勉強を始めた。

東京に行きたい気持ちは強かったが、親からは私立は無理で国立ならいいと言われた。東京の国立なら東大に行きたいと考えた。将来の夢は医者や、世界で働く国連職員などいろいろ考えていたが、決まったものはなかった。政治家になりたいとは「全くなかった」という。

創価学会3世としての信仰観

伊佐氏の両親と祖父は、それぞれ別々に、たまたま同じ時期に創価学会に入会した。伊佐氏自身は2世とも3世とも言えるが、生まれた時から入会していた。

それでも伊佐氏は、親がやっているから素直に信仰する人はほとんどいないと考えている。悩みや人生の課題にぶつかったとき、信仰を通じて自分が成長した、一回り大きくなったと感じたから続けている、というのが本人の説明だ。政治的な支持も同じで、学会員が全員公明党を応援していると思われがちだが、特に若い世代はそうではないという。投票所ではプライバシーが守られており、公明党を応援していると言っても最後は別の名前を書くこともできる。学会員は公明党の議員と接する機会が多く、仕事ぶりを身近に見て「この人なら応援してもいい」と思うことはあった。ただ、それは自分で判断したうえでのことで、信仰も支持も自由だと伊佐氏は述べた。

学生時代は学生部の集まりにも参加していた。高校生の頃は活動が忙しいわけではなく、先輩が激励に来て、勉強でつまずいていれば教えてくれた。伊佐氏はそれを「励ましの組織」のようなものと表現している。

雅子さまに憧れた外交官志望と、航空宇宙工学科での落ちこぼれ

伊佐氏は数学や物理、化学が好きで、理科一類を目指していた。ところがセンター試験の直前、皇太子(現在の天皇陛下)と雅子さまのご成婚のニュースが流れた。外交官出身で通訳もこなす雅子さまの姿を見て、外交官になりたいと強く思ったという。文系に変えたいと言うと、教師も親も猛反対した。教科も足りていないし、受かってから考えろと言われ、そのまま理科一類に現役で合格した。

入学すると、もう一度受験し直す気持ちにはならなかった。しかし外交官への思いは消えなかった。東大には2年生までの成績で3年生からの学科を選ぶ進学振り分け制度がある。伊佐氏によれば、理系から法学部に進めるのは約1400人のうち上位1〜2人だけだった。必死に勉強してかなり良い成績は取れたが、トップ1〜2位には届かなかった。

せっかく取った成績がもったいないと考え、理系で一番難しい学科として航空宇宙工学科を選んだ。伊佐氏の記憶では定員は40〜50人ほどだった。しかし周りは宇宙が大好きで、ロケット開発に人生を捧げたいという学生ばかりだった。「なんとなくかっこいい」という動機で入った伊佐氏はついていけなくなり、卒業も危うくなった。友人に助けられてなんとか卒業できたが、卒業が決まる前にバックパッカーとしてヨーロッパへ卒業旅行に出て、現地から友人に電話して合格を確かめたという。卒業後5〜6年は、卒業できなかった夢を見続けた。

同級生の多くは大学院へ進んだ。伊佐氏は、こうした優秀な研究者を支援する仕事がしたいと考え、科学技術庁に入った。国家公務員試験の勉強は半年ほどだった。伊佐氏は、この試験は勉強時間に比例して合格率が上がるものではなく、集中してやって受かる人は受かる試験だと説明している。

はやぶさの予算を財務省に通い続けて勝ち取る

宇宙そのものは子どもの頃から好きだった。研究者を支えたいという思いで役所に入り、宇宙開発に関わることになった。担当したのが小惑星探査機「はやぶさ」だった。

はやぶさは小惑星イトカワに着陸して試料を採取し、帰還する計画だった。しかし帰路でエンジンが止まり、伊佐氏の説明では姿勢制御装置も4つのうち3つが壊れるなど、機体はボロボロだった。宇宙開発を担当する課にいた伊佐氏が財務省と交渉したが、財務省からは、帰ってくるかどうか分からない衛星に国民の税金はつけられない、プロジェクトは打ち切りだと言われた。しかも帰還して試料が採れていれば、分析のための真空の研究施設が必要で、その予算もいる。

一方で研究者たちは寝ずに軌道計算をし、ここを組み合わせればいけるのではないかと知恵を絞っていた。伊佐氏は、その人たちに「予算が取れなかったので解散してください」とは絶対に言えないと思った。財務省に何度も通い、断られても通い続けた。財務省が最も忙しい12月にも頼みに行くと、主計局の担当者から、予算をつけるからもう来ないでくれと言われ、予算がついた。はやぶさはプロジェクトが続行され、最後はオーストラリア上空から地球に帰還した。伊佐氏は涙が出そうになったと振り返る。

はやぶさについては映画が3本作られた。話を聞きつけたプロデューサーに伊佐氏が経緯を話すと、それを映画に入れたいと言われた。ところが実際に映画を見に行くと、文部科学省の職員が「帰ってくるか分からない衛星に予算はつけられない」と言う場面になっていた。実際には文科省の職員が財務省と交渉して予算を取ってきたのだが、映画では分かりやすくするために、自分にあたる人物が悪役になっていたと伊佐氏は笑う。

月250時間の残業とバックパッカー旅

伊佐氏はバックパッカーとして、南極以外の大陸を旅し、50〜60か国を訪れたという。役所で働いている間も、1週間休みがあれば出かけていた。霞が関で働いていると、広い青空を見たくなったと話す。旅程は最初と最後だけを決め、その間は何が起きるか分からない旅だった。東南アジアのほとんど、インド、パキスタン、中央アジア、ヨーロッパ全域、北米、中南米、アフリカを回った。群衆を威嚇する銃撃の中に居合わせたこともあり、20代のアメリカ留学中に中南米を旅した際には、ペルーだったと思われる場所で5〜6人に襲われて身ぐるみを剥がされたこともある。

留学のきっかけは過酷な働き方だった。伊佐氏によると、当時の残業は月250時間ほどで、1週間のうち家で寝る日はなかった。夜中の3時頃まで働き、パイプ椅子で寝て、庁舎のシャワーを使った。土日も洗濯物を取りに帰るだけで、また職場に戻って仕事をしていた。この生活から抜け出したいと考え、入省4〜5年目に国費留学を目指した。

選考はTOEFLで一定の点数を取ったうえで、面接と役所の推薦で決まる。伊佐氏は大学受験の頃から英語が苦手で、特にリスニングが得意ではなかった。枠は3人で候補は4人、伊佐氏は4番手だった。しかし最後のスピーキングの面接で、話すのが好きだったこともあって積極的に話し、3番手と入れ替わってぎりぎりで留学が決まった。

ワシントンで見た9.11と、アメリカの中国理解の限界

2年間の国費留学では、学費と生活費が支給され、勉強だけに打ち込めた。専攻は中国経済を中心とするチャイナスタディーズだった。伊佐氏は、日米同盟は重要だが中国も大事で、日米中の三角関係の中で日本が外交や経済でどう立ち回るかが重要だと考えていた。いずれ北京の日本大使館で働きたいと思っていたが、その前にアメリカが中国をどう見ているかを知りたかった。

選んだのは、ワシントンDCにあるジョンズ・ホプキンス大学の高等国際問題研究大学院(SAIS)だった。伊佐氏の説明では、政権に直結した大学院で、学長のウォルフォウィッツ氏は当時のブッシュ政権で超保守派・ネオコンの思想を主導していた人物だった。授業の初日が2001年9月11日の同時多発テロの日で、伊佐氏の家はペンタゴンの近くにあり、家から煙が見えたという。そこからアメリカの外交政策は一気にアフガニスタン戦争へ向かった。伊佐氏によれば、教員が超保守派だと学生は皆リベラルになり、討論会では学生と教員が激しくぶつかっていた。

2年間での伊佐氏の結論は、アメリカも中国のことを正しく理解していなかった、というものだ。当時は世界中が安い労働力を求めて中国の沿岸部に工場を建てていた。伊佐氏は、これほど投資が集まれば労働力が不足し、賃金が上がって投資先としての魅力が薄れるのではないかと疑問を持った。しかし教員は、中国には内陸に巨大な農村部があり、そこから半永久的に労働力を供給できるから、沿岸部の賃金が上がることはありえないと答えた。ところが伊佐氏が帰国してほどなく賃金は上がり始め、中国は「世界の工場」ではなくなっていった、と伊佐氏は語る。

大学院の卒業要件として、中国経済に関する論文について中国語で議論できなければならなかった。中国語の検定は最上級まで取ったという。

北京大使館で見た中国と、1万5000部売れた本

帰国後も宇宙開発などを担当した後、希望していた北京の日本大使館への赴任が決まった。2007年から2010年まで外交官として日中外交の現場で働いた。伊佐氏はこれを、かつて諦めた外交官の夢がここで叶ったと捉え、「伏線回収」の一例として挙げる。

在任中の2008年8月には北京オリンピックがあり、中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国になった。伊佐氏が担当したのは、今でいう経済安全保障に近い仕事で、日本の技術をどう守り、どう連携すれば国益にかなうかを中国との間で扱っていた。人民解放軍が行うロケット打ち上げを見学させてもらったこともあり、今なら外国人に見せることは絶対にありえないと伊佐氏は言う。そうした現場の状況を調べ、客観的なレポートにまとめて大使に見せたところ、本にしたほうがいいと勧められた。帰国後に出版すると、現場の実態をデータに基づいて書いた本が当時なかったこともあり、1万5000部売れた。ただ、その印税は後の選挙で全部なくなったという。帰国後は中国と科学技術を専門にしていこうと考えていた。

東日本大震災と、山口代表からの電話

帰国すると民主党政権になっており、伊佐氏は副大臣秘書官になった。そこで東日本大震災が起きた。文部科学省は放射線を担当していたが、伊佐氏によれば、情報のやり取りがうまくいかず、放射線が拡散していく福島の地域に人を避難させてしまうようなこともあった。国家の危機では政治がしっかりしなければ国民が不幸になる、官僚の力ではどうにもならないと打ちひしがれていたという。

そのとき、副大臣室に公明党の山口那津男代表から電話がかかってきた。「公明党の山口ですけど」と言われ、伊佐氏は「どの山口さんですか」と聞き返してしまった。会ってみると、守口出身だろう、大阪6区で頑張ってきた公明党の議員が引退するから次をどうかと打診された。政治がなんとかしなければと思っていた時期だったので、伊佐氏は「時というものがある」と感じて決意し、36歳で文部科学省を辞めた。官僚生活は約15年だった。

ボーナスが出るまで待ってほしいと頼んだが、当時は野田政権で、いつ選挙になるか分からなかった。文科省の幹部に相談しても、党が言っているのだから早く辞めたほうがいいと言われ、すぐに辞めて地元で活動を始めた。ところがそこから1年半、選挙はなかった。東京出身の妻は第1子を妊娠中だったが、一緒に大阪で頑張ろうと決意してくれた。伊佐氏は1年半、早朝から365日、一軒ずつ回るドブ板の活動を続けた。党からは生活費をいくらか受け取ったが、選挙費用は自分で出し、貯金を使い切った。そして初当選した。

家族の負担と、落選で初めて行けた沖縄

当選すると平日は国会で東京、週末は地元で地域行事を回るため、家にいる時間はさらに減った。2人目の子どもも生まれたが、妻は親もいない知らない土地でずっと一人で子育てをしてきた。伊佐氏は相当しんどかったと思うと話す。

皮肉なことに、落選中は家族にとっては「パパがいる」時間になった。それまで家族旅行といえば、すぐ戻れる有馬温泉に1泊2日行く程度だった。伊佐という姓は沖縄の名前で、ルーツは名護にあるという。落選して初めて、子どもたちに自分のルーツである沖縄を見せ、ひめゆりの塔など沖縄戦ゆかりの場所に連れて行けた。妻も沖縄は初めてだった。議員でなかった期間は1年ちょっとだったという。

ドブ板の限界を感じてYouTubeへ振り切る

大阪は維新が強く、厳しい戦いになることは分かっていた。伊佐氏は朝6時半から一人で駅に立ち、時間が空けばスーパーの前で一人で街頭演説をし、呼ばれていない地域行事にも顔を出した。どれだけ多くの人に直接会えるかを考えて活動したが、それでも負けた。

ショックだった場面がある。投票日に投票所の外の掲示板の前にいると、子ども連れの若い夫婦が来て、「伊佐進一や、ポスターでよく見る」と話していた。二人とも会ったことはなく、「公明党と維新やったら、やっぱり維新やろな」と言って投票所に入っていった。伊佐氏はここで、どれだけ地域を回っても会えない人のほうが多いと痛感した。「次はもっと頑張ります」では受からないと考え、YouTubeやSNSに力を入れることにした。毎朝駅に立つ代わりに、毎朝ニュース解説のライブ配信を始めた。公明党のサブチャンネルも手がけた。

本来は小選挙区で勝つための取り組みだった。しかし中道改革連合ができたことで小選挙区では戦えなくなり、比例に回った。名簿で上位に載せてもらい、比例で当選したと伊佐氏は説明する。

ミラーボールの広報委員長と、資金も職員もない新党

これだけ発信してきたことに加え、ミラーボール姿は目立つため、各地から呼ばれるようになった。去年夏の参院選では全国を回ったが、依頼の多くは「ミラーボールで来てほしい」というものだった。衣装は4万円で作りはしっかりしているが、非常に暑い。1着しかないうえ、クリーニングに出すとスパンコールが落ちるため、手入れは消臭スプレーで済ませている。見かねた支援者がスパンコールのベストやTシャツを作ってくれるなど、グッズも生まれた。伊佐氏は、広報委員長は自分でもやりたかった役割であり、党の広報だけでなく自分自身が発信する役割も大きいと話す。

中道改革連合では、選挙後の2月に広報委員長になった。しかし結党したばかりで、金庫の中身はゼロだった。党の主な収入源である政党交付金は4月にならないと入らない。立憲民主党と公明党はまだそれぞれ存在していて職員もいるが、中道には党職員が一人もいなかった。そのため新しい企画は、4月に資金が入り、立憲と公明から職員が何人か派遣されてから動かすことになる。それまでにできたのは、中道の切り抜き動画づくりやゲリラ的なライブ配信くらいだった。どんな企画をやるかはまさにこれから考える段階だという。

コロナ禍の厚労副大臣として果たした「伏線回収」

最後に若い視聴者へのメッセージを求められた伊佐氏は、自公政権で財務大臣政務官と厚生労働副大臣を務めた経験を語った。厚労副大臣に就いたのは、新型コロナの第8波で感染者数が最も多い時期だった。加藤勝信大臣と、自分たちの在任中に日常生活を取り戻そうと話し合ったという。

そのために取り組んだのは3つだった。病院に入れない、保健所に電話がつながらないといった状況を改善する医療提供体制の整備。国民にワクチンを接種してもらうことと、海外から日本国民のためにワクチンを確保すること。そして治療薬の開発である。伊佐氏は海外との交渉にも関わった。最終的にこの3つがそろい、春にコロナはインフルエンザと同じ5類に移行し、ステイホームから日常生活に戻った。

伊佐氏は、副大臣秘書官として東日本大震災に直面し、危機のときこそ政治がしっかりしなければと考えて政治家になった。その自分が今度は副大臣として国家の危機に巡り合った。これもまさに伏線回収だったと振り返る。山あり谷ありで、大きな挫折も経験してきたが、その時々で一生懸命やってきたから、当時できなかったことも後で全部つながってきた。だから「人生は伏線回収」だということを伝えたい、と伊佐氏は締めくくった。