偏差値45未満の高校からゴールドマン・サックスのMDへ:河村真木子が語る、遠回りのキャリアとルーティンの力
トマホークTomahawk金融機関で長く営業職を務め、約5年前に立ち上げたオンラインサロンが「日本最大級」と言われるまでになった河村真木子が、幼少期から現在までを振り返ったインタビューである。治安の悪い公立高校で「ヤンキー」をしていた10代から、アメリカ留学、関西学院大学の中退、UCバークレーへの編入、リーマン・ブラザーズとゴールドマン・サックスでの営業、そして起業へと至る経緯が語られた。遠回りに見えるキャリアの各段階で本人が何を考えて動いたのかが、話の中心になっている。
幼稚園の頃から「営業マン」だった子ども
河村は奈良で生まれ、4歳で千葉に引っ越した。自分ではよく分からないが、親からは「子どもの頃から営業マンだった」と言われるという。引っ越した直後の幼稚園時代、親に名札をつけてもらい、一人で近所の公園に行って「私は奈良から来た川村真木子です」と挨拶し、一人ずつ相手の名前を聞いて回ったというエピソードを紹介した。家に人が来ると嬉しく、家族だけでいるとつまらないと感じるほど、人と話したり遊んだりすることが好きだったと振り返る。
家庭は三姉妹で、河村は真ん中だった。両親はそれぞれの個性を生かす放任主義で、「勉強しろ」と言われたことは一度もなかったという。母は短大卒で保育士、父は貧しい家の出だったが頭が良く、奈良でトップの高校から商社に入った。ただ、二人とも教育熱心な家庭で育ったわけではないため、子どもをどう鍛えるかという発想はなかったのだろうと河村は推測している。
小学校、中学校、高校はすべて公立だった。小中学校では勉強は「全然できなかった」が、友達は多く人気者だったという。小学校高学年のとき、ガスなどエネルギー関連の商社に勤める父の転勤でシンガポールへ移り、中学卒業まで日本人学校に通った。留学のような教育目的ではなく、完全に成り行きだったと話す。環境の変化についても、「こんにちは、千葉から来たまき子です」と同じように溶け込んだという。日本人学校は生徒が全員日本人で、英語は話せなかった。
東大阪の高校で「ヤンキー」になる
父が大阪本社に転勤になり、河村は東大阪の公立高校に入学した。偏差値は45を切っていたと思う、入試を受けた記憶もなく「名前を書いたら受かる」ような学校だったと言う。両親が奈良出身で情報収集が得意ではなく、奈良の実家と大阪中心部の父の職場の中間として東大阪に住み、そのあたりで当時の偏差値で入れる高校を選んだ、という経緯だった。生徒のほとんどは大学に進学しない学校で、河村自身「GSの中で最低偏差値を記録したと思う」と笑う。
周囲には学校に行かない生徒が多く、河村も途中から通わなくなり、出席は合計で半分ほどだったという。1990年代前半のことで、原付で暴走行為をしたり、タバコを吸ったりしていたと本人が語っている。シンガポール時代は周りに不良はいなかったが、東大阪ではそれが普通だったので「めっちゃ適応しちゃった」という。
転機は高校3年生のときに訪れた。暴走族の彼氏や周りの友人は17〜18歳になると高校を辞め、土方などの建設現場で働き始めていた。一方、シンガポール時代の友人たちは「早慶を受ける」という話をしていた。自分の人生がまったく違う方向に進んでいると気づき、「やばい」と思ったことが、アメリカ行きを決めるきっかけになった。
英語だけでも身につけようとアメリカへ
日本の受験は、周りに誰も受験する人がいない環境で、今から取り組める気がしなかった。そこで「自分は何も持っていないから、英語だけでもできるようになろう」と考え、アメリカなら皆が英語を話しているのだから自分も話せるようになるはずだと留学を決めた。当時は円高で、アメリカ経済も悪く、90年代前半は日本の方が景気が良いくらいで、留学生が非常に多く「流行っていた」と河村は説明する。
両親は驚き、「そんな都合のいい話はない」と強く反対した。それまでの素行が悪く「信頼ゼロ」だったため、行くならいい大学に入るか良い成績を収めなければ許さない、という条件付きだった。渡米前には参考書を取り寄せて勉強し、現地の高校には2年生から入って最後の2年間を過ごした。滞在先はホームステイだった。英語は若かったこともあり、割とすぐに話せるようになったという。
アメリカの高校は、暗記中心の日本とは評価の仕組みが違い、ディスカッションやコミュニケーション、発表やプレゼンテーションが重視されていた。河村はそれを自分の得意分野だと感じ、意外にも良い成績が取れた。最終的には「オールA」だったという。通っていたのはロサンゼルスのビバリーヒルズ、UCLAの近くの裕福なエリアの高校だった。
関学に合格、そして3ヶ月で中退
親から大学は日本に、できれば関関同立に入ってほしいと言われていた河村は、関西学院大学を受けて合格した。試験ではなく、アメリカでの成績やSATなどの共通テストで評価される帰国子女向けの入試だった。帰国子女の受け入れをしていたこと、関関同立の中で当時一番フィットしていたことが選んだ理由だという。
合格を知った親戚一同は、偏差値40台の高校から「ヤンキーのまき子」がどうやって関学に入ったのかと驚いた。本人も最初は、関学に入れてアメリカに行ってよかったと思っていた。しかし入学してみると、本当はハーバードやUCLAなど、国際的にもっとすごい大学に行けたのではないかという思いが消えなかった。ビバリーヒルズの高校にいた経験もあり、もう一度カリフォルニアに戻ればUCバークレーを目指せると考えるようになった。
河村は関学での時期を自分の中の「暗黒時代」と呼び、3ヶ月で辞めた。帰国子女向けの9月入学だったので、在籍期間はごく短い。当然、親からは大反対されたが、毎日泣いて頼み込んだという。留学費用については、当時は1ドル80円の時代で、サラリーマン家庭の子どももたくさん来ていた、と河村は語っている。
コミュニティカレッジで「オールA」を取り、UCバークレーへ編入
関学を辞めた河村は、誰でも入れるアメリカの2年制短大であるコミュニティカレッジに入学した。ここで良い成績を取れば4年制大学の3年生として編入できる可能性がある。ただしUCバークレーに入るには全科目でAを取る必要があり、一つも落とせない状況だったという。
河村は実際に全科目でAを取った。「人生の中であれはもう2度とやりたくない」と振り返るほどで、周りが遊んでいるときも一切遊ばなかった。関学を捨てて来ている以上、後がなかったからだと話す。
編入の出願は、コミュニティカレッジの成績表を持ってUCバークレーやUCLAなど希望大学に3年次編入として申し込み、エッセイを書いて結果を待つ流れで、一般の海外受験とほぼ同じだという。河村はUCLAとUCバークレーの2校にしか出願しなかった。オールAだったのでバークレーに入れると考えていたが、万が一混んでいた場合のためにUCLAにも出した。先生からも見通しを聞いており、コミュニティカレッジの教授から推薦状ももらっていたので、「まず間違いない」と言われていたという。
結果はUCバークレーに合格した。高校卒業が20歳、コミュニティカレッジを経て22歳頃に入学し、24歳で卒業した。バークレーでは初めて肩の力を抜き、卒業できればいいと考えて「オールBぐらい」でリラックスして過ごしたという。
就活:アメリカでは全敗、ボストンのキャリアフォーラムへ
UCバークレーのような大学には企業がキャンパスリクルーティングに来るため、河村も応募した。しかし日本人でビザもグリーンカードもなく、行きたかった金融機関はどこも受からなかった。面接では毎回「あなたがアメリカ人より優れている理由を教えて」と聞かれ、「それはないわ」と思ったという。そこで、日本にあるゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーを受けてはどうかと勧められ、留学生向けにボストンで開かれている、日本で働く意思のある人のためのキャリアフォーラムに参加した。
志望はほぼ金融だけだった。友人や先輩に「どこが一番稼げるのか」と聞き、外資系金融のこの会社のこの部署だ、というところまで調べた。当時それは投資銀行のマーケット部門の債券部で、さらにフローとノンフローに分かれる中でノンフローの方が稼げる、という情報まで学生時代に把握していたという。情報源には当時の2ちゃんねるなどの就活掲示板もあった。
稼ぎたい理由について河村は、卒業も遅れ、ここまで来るのに苦労したのだから「キャリアをマネタイズしなきゃ」と考えたと話す。面接で「なぜお金を稼ぎたいのか」と聞かれたときには、アメリカに住んでいてお金がないと人間扱いされないと感じたからだと答えたという。日本では健康保険が一括で付いてくるが、アメリカではお金があるほど手厚いプランに入れる。車もお金があれば良い保険に入れ、自分の命を守る車に乗れる。住む場所もお金で決まり、UCLA周辺の治安の良いエリアは他より1000ドル高く、通り一本隔てるだけで500ドル安くなる。お金がアメリカで生きていくための前提なのだと思った、と河村は説明した。
リーマン・ブラザーズでトップセールスに
外資系投資銀行のフロントオフィスで最も稼げる部門には応募者が殺到するため、河村はほとんど落ち、受かったのはリーマン・ブラザーズの債券部だけだった。当時の業界順位は、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、メリルリンチの上位3社に続く4位だったという。初任給は650万円だった。
25歳で入社し、31歳で辞めるまでの6年間働いた。リーマン・ブラザーズはリーマン・ショックで消滅したが、河村はその約1ヶ月前にゴールドマン・サックスへ移っていた。聞き手が「予知能力」かと驚くと、本人は偶然だと否定した。当時リーマンの若手トップセールスだったため、ゴールドマンから声がかかったのだという。
トップセールスになれた理由を聞かれると、幼稚園の頃と同じで人が好きだったからだと答えた。同僚にはお客さんのところへ行くのを大変がる人が多かったが、河村は楽しいと思っていた。人の話を聞くのが好きで、相手の話に耳を傾けていると、顧客も「自分の話を聞いてくれる人」として心を開いてくれたという。
激務と結婚、4時間睡眠の始まり
リーマン時代は朝6時に出社し、夜12時までオフィスにいる生活だった。26歳、入社2年目で、2歳年上の外資金融の先輩トレーダーと結婚した。二人とも遅く帰ってきて寝るだけで、翌朝また早く出勤する日々だった。子どもが生まれてからは「無理ゲー」になり、喧嘩が増えて2年で離婚し、シングルマザーになった。2度目の結婚はゴールドマン時代の2015年頃、40歳前後のときで、この結婚もすでに終わっているという。
睡眠は昔も今も1日4時間ほどだという。6時に会社にいるには、女性の場合は髪や化粧の支度で4時頃に起きる必要があり、そのときから体が4時起きになったと話す。「ロングスリーパーになったら私終わる」、つまり人生を回せなくなると考えており、日中に眠くなることもないという。
ゴールドマン・サックスで入社2年目にMDに
31歳でゴールドマン・サックスに移った河村は、11年勤め、42歳で辞めた。現在は49歳である。社内では非常に早く昇進し、転職2年目に最上位の役職であるMD(マネージング・ディレクター)になった。もともとは顧客を担当する営業だったが、MDになってからは営業グループを統括していた。
年収は最高で3億円だった。基本給は5000万円で、残りはボーナスだという。使い道については、六本木ヒルズに住み、運転手とお手伝いさんを雇っていたと語った。
辞めた理由として河村は、投資銀行はそれほど長く働ける場所ではないことを挙げた。アメリカなどから届く最新の投資情報や複雑な金融商品を非常に速く理解し、売ったり取引したりしなければならず、若い体力と頭脳が必要になる。年齢を重ねると遅くなってついていけなくなるため、多くの人は40歳までに辞めるという。それ以上残るには経営陣など上のポジションに就く必要があり、「アップ・オア・アウト(上がるか、出ていくか)」と言われる世界だと説明した。河村自身も20代からこれを意識しており、40歳で辞めて、その後は起業するなど別の仕事をしなければならないと考えていた。これは自分だけでなく皆が思っていることだという。
週3日勤務の会社を経て、副業でオンラインサロンを開始
ゴールドマンを辞めた後、河村はまずリーマン時代の先輩が立ち上げた金融関連の会社で2年間働いた。業務はゴールドマン時代と似ていたが、業界から引退したいので週3日勤務にしてほしい、その代わり結果は出すと申し出た。長年の顧客もいたからだ。ゴールドマン時代からメディア出演や雑誌のコラム連載をしていたが、ゴールドマンではそうした活動が禁止されていたため、それを認めてくれるなら行く、という条件だった。この期間にSNSを始めるなど起業の準備を進め、会社員をしながら副業としてオンラインサロンを始めた。
サロンの会員数は、メインのサロンが1万5000人、学生向けの金融系アカデミーが約8000人で、料金はいずれも1万円だという。ほかに炭酸パックやシャンプー、リンスなどの美容関連商品も作って販売しており、年商は「ざっくり20億は超えている」と話した。ゴールドマンを辞めた時点でFIRE(早期リタイア)を選ぶ人も多いが、河村は「基本的に忙しい方が好き」なので選ばなかったという。
オンラインサロンで学べること
河村のサロンの中心は金融経済の勉強である。河村が毎朝書く「どんなド素人の方が読んでも分かる」金融経済コラムを読むことから始まり、ゴールドマン時代の同僚たちが配信する金融ラジオや、東大の教員による国際政治のラジオなどでも学べる。
メインのサロンは会員の97%が女性で、学生向けは別だという。ほとんどがバリキャリだが金融以外の業種の人が多く、医師や弁護士であっても、勉強していなければ金融経済や株の情報は知らない。そこを知りたいという人が多く集まっていると河村は説明した。
分刻みの一日
現在の生活は、朝4時に起きて約4時間かけて会員向けの金融コラムを書くことから始まる。海外メディアや日経新聞などの金融経済メディアに目を通して良さそうなニュースを選ぶインプットに約2時間、執筆に約2時間かかるという。
8時頃からは、コミュニティ内でオンラインで一緒に行っている運動に1時間ほど参加する。その後は、ルーティンの半身浴を1時間ほどしながら汗をかき、金融経済や国際政治などの本を読む。11時頃に朝昼兼用の食事をとり、12時頃にはサロンでの対談などの配信がある。午後は約40人いる事務局やスタッフとのやり取りや会議、その後は髪のトリートメントやネイルなどの美容の時間に充てる。夕方にはヘアメイクの担当者が来て身支度を整え、会食や夜のイベントに出かける。遊ぶ時間は「ゼロ」だという。
若い世代へ:ルーティンで意思決定を減らす
最後に、20〜30代の若者や学生の視聴者に向けた一言を求められた河村は、まず「あんまり長く寝ない方がいい」と答えた。睡眠は自分でコントロールでき、少し頑張れば習慣である程度ショートスリーパーになれるらしい、という。
そのうえで強調したのがルーティンの効用である。これほど多くのことをこなしていると「忙しくないのか、疲れないのか」とよく聞かれるが、毎日のルーティンに組み込んでしまえばほとんど考えずに済むと河村は話す。人間は意思決定にとても疲れるが、4時になったら情報収集してコラムを書き、風呂に入り、運動し、食べ、配信する、という流れの中では何も決めていないので楽に過ごせる。だからルーティンを決めて生活すると生産性が大きく上がる、というのが河村のメッセージだった。
聞き手が、YouTuberの生活は曜日や時間の感覚もなく「ぐちゃぐちゃ」で、一気に働いては急に長く寝ることもあると打ち明けると、河村は「それが一番ダメ」と即答し、インタビューは締めくくられた。
トマホークと4浪4留の藤井です。ということで、自己紹介お願いいたします。
はい。河村真木子です。こんにちは。私はですね、結構長いこと金融機関で働いておりまして、5年ぐらい前にオンラインサロンを立ち上げました。で、今一応日本最大級という風に言われています。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。ということで、このチャンネルは人生をもう幼少期から深掘っていくチャンネルなんですけども、幼少期どんな子供だったとか記憶ありますか?
はい。自分ではそんなに分からないんですけど、親とかに言われるのは、私、その金融機関でずっと営業マンやってたんですけど、子供の頃から営業マンだったらしいんですよ。
はい。そんなことあります?
昔奈良で生まれて、4歳の時に千葉に引っ越したんですけど、なんかその幼稚園の時に引っ越したばっかりなのに、自分で1人で公園デビューして。でなんかここにこう名札みたいなのをつけてって親に頼んで、公園に自分で1人で行って、近くの公園に「皆さんこんにちは」みたいな感じで「私は奈良から来ました河村真木子です」って自分で挨拶して、「あなたはどなた?」って1人ずつ聞いて歩いてたらしいです。
なんか営業マンっていうか政治家っぽい。
そうですかね。スピーチ。なんかね、子供の頃から人が大好きだったんですよね。家に人が来るのも嬉しかったし、逆に家でこう家族だけでいるとつまんないみたいな感じで、外の人の話とか聞いたり一緒に遊んだり、そういうのが好きでした。
家庭の教育的にはどんな感じで育てられたんですか?
3人姉妹だったんですよ。で、お姉ちゃんがいて私が真ん中で妹がいるんですけど、両親は放任主義というか、それぞれの個性を生かすみたいな感じで、勉強しろとかあれしろ、これしろって言われたことが一切なかったっていう感じの家庭でした。
小学校の時も普通の公立の小学校ですか?
公立です。
中学も公立ですか?
中学も公立です。高校も私は公立でした。
あ、そうなんですか。小中は結構勉強はできた方ですか?
全然できなかったです。
あ、全然。主に何されてました?
何してたんですかね?もう本当に覚えてないぐらい。自分が何か得意って思ったこともなくて。でも友達とかたくさんいました。人気者でした。
はいはい。
で、小学校高学年の時にシンガポールに引っ越したんですよ。父が商社マンだったので。それでシンガポールの日本人学校っていう、一応文科省の公立みたいなとこに行ってました。
3年間はそこなんですか?
中学校。そうですね、シンガポールです。
で、高校はどちらなんですか?
高校は、父が大阪に転勤になったんですよ。シンガポールから大阪支社に。で、その時に大阪になったんで、私は大阪の公立の高校に入りました。
高校って公開されてます?
してないんですけど、偏差値がめちゃめちゃ低くて、すごく治安が悪い東大阪っていう地区の公立高校に行ってました。
海外に行くってなるとすごい育ちがいいというか豊かな感じなのかなと思ったら、高校はそんな荒れてるとこ行くんだみたいな。
そうなんですよね。うち、両親が2人とも奈良の田舎者だったので、情報収集とか苦手だったんでしょうね、きっと。なんで東大阪に住んだかって言うと、両親の実家が奈良で、父の会社が大阪の中心部だったんで、その間が東大阪っていうことで住んだらしいんですよ。で、この辺に住むから、じゃあこの辺の高校行ってみたいな感じで、当時の偏差値で入れる学校に行った感じなんですよね。
じゃ、全然学習塾とか行かれたわけではないっていう感じですか?
行ってないですね。っていうか、とにかく勉強してなかったです。親に勉強しろって言われなかったんでしなかったです。
じゃ、勉強せずに入れる高校って感じじゃないですか?
そうですね。
大学受験とか見据えてないんですか?親御さん。
はい。別に大学行っても行かなくても何でもいいって言われました。
高学歴な家庭とかでもないんですか?
母はもう普通の短大とかで、保育園の先生とかで。父は自分の家は貧乏だったんだけど、たまたま頭が良かったんですよ、父は。なんで奈良で1番いい高校とか行って、商社マンにもなってるんで高学歴なんですけど、ただ家が貧乏だったし、多分自分自身もいい家庭で生まれてないから、家庭でどのように子供をビシバシやるかみたいなのは、多分2人ともなかったかもしれないです。
その高校では大体どういう大学に行く子が多いんですかね?
みんな大学行かないです。
あ、行かない高校なんですか?
行かない高校です。
偏差値とかわかんないですか?
45切ってたと思います。
驚きすぎ。
珍しいですよね、これ。
いや、元GSじゃないですか。で、考えると考えにくいというか。
多分GSの中で最低偏差値を記録したと思います。
入学試験っていうのも本当に簡単なんですか?
試験受けた記憶がない感じで。名前書いたら受かるって感じだと思います。
確かシンガポールに行ったっていうのも、教育上留学みたいな感じじゃなくて、完全に成り行きみたいな感じ。
成り行きです。父が商社マンだったんで、ガスとかそういうエネルギー関連の商社に勤めてたので、東南アジアに行ってシンガポールに行ったっていうだけで。
めっちゃ苦労しませんでした?いきなり変わるわけじゃないですか。友達とかも陽キャでいっぱいいたのに急にシンガポールみたいな。
でもほら、そこは陽キャだから逆に。もう「こんにちは。私が千葉から来た真木子です」ってやってました。
すご。英語を喋れたんですか?
日本人学校です。
じゃあ別に英語を喋るような感じではなかった。
全然英語喋れない。全員日本人でした、学校が。
そうなんですね。高校3年間ってどんな感じの生活ですか?
高校3年間はもう本当にヤンキーみたいな子たちがいっぱいいるエリアで、東大阪の布施の近くに住んでたんですけど、学校行ってない子たちが多くて、周りも、私の高校も行かないことがすごく多くて、私も途中から行かなくなっちゃって。半分ぐらいしか行かなかったかな、多分トータルで。ヤンキーやってました。
当時のヤンキーってなるとバイクとかですかね。
そうですね。原チャリとかですけど、みんなでこう暴走行為したりとか。そんな時代だったんで。90年代前半です。
高校以前にその予兆はなかったんですか?ヤンキーしてたみたいな感じのエピソードとかは。
私はそれまでは中学はシンガポールにいたんで誰もヤンキーじゃなかったんですけど、高校で東大阪に来たらみんながヤンキーで、あ、これが普通なんだみたいな。
適応能力がすごい。
めっちゃ適応しちゃって。高校にも行かなくなり、タバコ吸ってみたいな。
へえ。
で、高校3年生になった時に、当時のヤンキーの暴走族の彼氏とかがだんだん進路というかね、17歳、18歳とかになってくると、みんなもう高校もやめてる子たちが多くって、だんだん土方とかそういう建設現場とかで働き始めるわけですよ。ってなった時に、あ、私どうするんだろうっていきなり思ったんですよ。高校3年生になった時に。で、シンガポール時代のお友達とかはみんなもう早慶受けますとか、まだいるんで、シンガポール時代の友達もね。自分の人生って全然違うなと思って、やばいってなった時に、アメリカに行こうかなと思ってアメリカに留学しました。
急に、急にアメリカ。学費結構すごいんじゃないですか?
でも当時円高だったんですよ。で、アメリカ経済も悪くて、90年代前半って日本の方がいいぐらいの時代だったんで、留学生めちゃめちゃいっぱいいたんですよね。
ちょっと流行ってたみたいな感じなんです。
流行ってました。
なるほど。日本の受験ルートは考えずに、いきなりアメリカみたいな感じだった。
なんか日本の受験なんてこれから全然できる気しなくって。その環境で周りも誰も受験しないし。とりあえず何も自分は持ってないから、英語だけでもできるようになろうと思ったんですよ。で、アメリカに行けば単に英語できるはずだと。みんな喋ってんだからって。それでアメリカに行った感じです。
アメリカの高校って4年生とかでしたっけ?
4年生なんですけど。そうですね、高校2年生に入ったのかな。それで2年間行きました。最後の2年。
そこでやっぱり英語には適応できるんですか?
若かったんで。勉強もしましたけどね。その高校入るまでの間、参考書とか取り寄せて、困らないように現地行った時には勉強しましたけど、割とすぐ喋れるようになりました。
親御さんとかめっちゃびっくりされませんでしたか?急に高校からアメリカ行くって、不眠とかも関係なくですよね。
そうです。びっくりしましたし、そんな都合のいい話はないみたいな感じでめちゃめちゃ言われて。なんでもう行くんだったら、いい大学行くとかいい成績を収めないともう許さないみたいな感じでしたね。信頼ゼロだったんで、それまで悪かったから。
そこまで悪かったんですね。
悪かったです。
じゃ、そのアメリカの高校では成績どうでした?
それでアメリカの高校にいたら、勉強の仕方が全然日本と違ったんですよ。記憶系じゃなくって、ディスカッションとかコミュニケーションとか発表とかプレゼンテーションみたいなところが結構評価されるような仕組みだったんですよね。なんで私得意分野だなと思って、意外といい成績取れたんですよ。
結構過酷そうなイメージありますけどね。高校からアメリカで1人暮らしするんだって。
ホームステイファミリーのところです。
なるほど。志望大学とかあったんですか?
アメリカですか?
そうです。
でも大学は日本に行って欲しいっていう風に親に言われてて、なんで関西の大学受けようって思ってました。で、受けたんですよ。関学。
それは受かりました?
はい。受かりました。
すごくないですか?なんか本当に高校まで脳弁で、確かに。しかもアメリカの高校で日本の勉強じゃないじゃないですか。
でもそれはAO入試みたいな感じで、向こうの成績とかSATとかそういうテストがあるんですけど、共通テストを評価されて受かるやつで、試験って感じではなかったです。
高校の成績って結構良かったってことですか?
めっちゃ良かったです。もうオールAみたいな感じでした。
そうなんですね。関学を選んだ理由ってあったりするんですか?
帰国子女の、海外から帰ってくる人たちのAO入試をやってたっていうところと、関関同立ぐらい入って欲しいって親に言われてたんで、関学が1番フィットしてたというか。1番当時良かったのかな、関関同立の中で。
なるほど。確かに関学がトップ。そうですね、西の早稲田みたいに言われてる時があった気がしますね。関学の中ではどういう生活でした?
関学はもう暗黒時代で、私の中では。3ヶ月でやめたんですけど。
早い。
早いですよね。それこそ関学受かった時はもう親戚一同がみんなびっくりしちゃって、あのヤンキーの真木子が、偏差値40いくつの高校からどうやって関学入ったのみたいな話になったんですけど、私もそう思ってたんですよ。関学入れて本当に良かった、アメリカ行ってよかったって思ってたんだけど、実際入ってみたら、実はハーバードとかもっとUCLAとか国際的にすごい大学に行けたんじゃないかなってずっと思ってしまって。あとはやっぱりロサンゼルスの、しかもビバリーヒルズのものすごいいい高校に行ってたんですよ。エリアで言うと金持ちエリアみたいな。
めっちゃ直近で行きましたもんね。UCLAの近くですよ。
そうです。そうです。
直近行ってましたね。本当あの環境ですよ。いいな。マジでいいな。
最高じゃないですか。もう1回カリフォルニアに戻って、UCバークレーとか絶対目指せるって思っちゃったんですよ。
海外目指すってなったら結構お金必要じゃないですか?
そうですね。ただ当時は円高だったんで、それこそ1ドル80円の時代だったんですよ。なのでサラリーマンの家庭の子たちもたくさん来てました。
へえ。もう受ける前提でやめたんです?アメリカの大学、受ける前提で。
受ける前提でやめました。
1年ぐらい頑張ろうよみたいな、親から言われたりし。
もう親からは大反対くらいますよ、それは。
そうですよね。でも、どうしてもみたいな感じで振り切れるんですか?
もう泣いて毎日頼んで。
そんな行きたかった?
行きたかったです。
ってことは、3ヶ月でやめて秋の入試を受けるって感じなんですかね。
3ヶ月でやめて、その後コミュニティカレッジっていう、向こう短大があるんですよ。誰でも入れる。そこに入りました。
そこって何月入学とかなんですか?
12月か。9月から関学入ったんですよ。関学がそもそも帰国子女用の9月入学っていうのに入ったんですよ。
コミカレって2年制でしたっけ?
2年制です。
2年間でいい成績を取れば、もしかしたら大学に行けるかもみたいな感じ。
めっちゃ難しいらしいですよね。コミカレから編入というか。
絶対に間違えられないんで、科目も落とせないみたいな感じで、全ての科目をA取らないとUCバークレーは入れないんで。
じゃあ本当に全部オールAで。
全部オールAで行きましたね。
すごくないですか?結構キリキリというか、ストレスなかったですか?
ね。で、もう人生の中であれはもう2度とやりたくないですね。みんなが遊んでる時も全然遊ばなかったです。やっぱり関学捨てて行ってるんで。それこそ後がないじゃないですか。
大学に編入するにはどういう手続きを踏むんですか?
アプライするんですけど、自分の行ってたコミュニティカレッジから成績表を持って、UCバークレーとかUCLAとか行きたい大学に3年生から編入っていうことでアプライするっていう感じなんですけど、あとエッセイ書いて。で、あとはもう返事待つしかない。
じゃ、普通に海外受験する人と同じプロセスって感じなんですか?
そうですね。
そうなんですね。実際出した大学はどこなんですかね?
UCLAとバークレーしか出さなかったです。
すごい。
もうオールAだったんでバークレー行けると思ってたけど、万が一そこがめちゃめちゃ混んでた時にUCLAかなっていう感じで。
僕らだったら滑り止めとか、日本だったら。
確かに。
でももう分かるんで、大体。先生からも言われるし、あとは私の場合はコミカレの教授からのレコメンデーションみたいなのもらってたんで、もうまず間違いなくって言われてたから。
結果は見事にバークレーに合格されたって。
そうですね。はい。もう夢のキャンパスライフというか、ようやく自分の理想に合った。もうワクワクでした。
いや、そうですよ。もう結構遊ぶ感じじゃないですか?
UCの時初めてちょっとリラックスして、クラスとかも別にオールAじゃなくていいし、卒業するために。なんでオールBぐらいで卒業しようかなみたいな感じでリラックスして過ごしてましたね。
ちなみにUCバークレーに入られた年齢はどれぐらいですか?
24歳で卒業してるから、22かな。
なんか結構紆余曲折あったように見えたんですけど、24ってことは本当に2年遅れぐらいじゃないですか、日本の大卒の。
そうです。高校卒業したのが二十歳だったんで、そこから4年間ですね、コミカレ行って。
実際じゃあその4年時に就活もされたってことですかね。
しました。アメリカの大学ってバークレーみたいなところにいると、いい大学だから企業の方が来てくれるんですよね。キャンパスリクルーティングで、学生をこう青田買いしようとするというか。そういうのでも受けましたけど、私日本人だったし、ビザもない、グリーンカードもないので全然受からなくって。もう本当いろんな金融機関の、私が行きたかったようなとこを受けたんですけど、「あなたがアメリカ人よりも優れてる理由を教えて」って毎回言われて。それはないわと思って。
いやいや。
そしたら、日本のゴールドマン・サックスとか日本のモルガン・スタンレーとかあるから、そっちトライしてみたらって言われて、日本にある外資系の金融機関を受けようっていう風になりました。
じゃあ日本で就活したんですか?
向こうにボストンキャリアフォーラムっていうのがあって、留学生向けのですね。日本で働く気がある人たち用のキャリアフォーラムをボストンでやってたんで、ボストンに行きました、就活は。
一応志望自体は金融がメインだったっていう感じなんですか?
金融でした。ほぼ金融しか受けてないですね、会社は。
稼いでやろうみたいな感じなんですかね。
はい。どこが1番稼げるのって聞いて、もう外資金融のこの会社のこの部署だよみたいなところまで、優秀な友達とか先輩とかに教えてもらって。そうなんだ、じゃあ絶対そこ狙おうみたいな。
ハングリー精神がものすごいですね。上昇志向というか。
そうですね。やっぱり紆余曲折がすごすぎて、もう卒業も遅れてたし、今までの自分の人生ここまで来るのすごい大変だったんだから、マネタイズしなきゃっていう。
マネタイズ。
キャリアをマネタイズする。
キャリアをマネタイズ。さっき言った、この部署は稼げるみたいなのって実際どこだったんですか?
当時は債券部です。
債券部。投資銀行とかの。
投資銀行の中のマーケット部門の債券部の中でも2つに分かれていて、フロー、ノンフローってあるんですけど、ノンフローの方が稼げるんだみたいな。
そんなところまで。
そんなとこまで学生の時から知ってました。
いや、すごいっすね。どうやったら出てくるっていう。
でも2ちゃんねるとかにも出てて。当時ですよ。今はそんないい情報なのかわかんないですけど、当時は結構そういう掲示板とかも見まくってたし。就活掲示板みたいな。
実際、債券部っていうのは、いろんな投資銀行を受けるって感じじゃないですか。
もういろんな投資銀行の債券部受けまくりました。
そうなんですね。なんでお金稼ぎたいのとかって聞かれないですか?
聞かれます。
これ結構、多分お金稼ぎたいでふわっと行く人結構いるイメージで。そう聞かれたらどういう風に答えるんですかね?
アメリカに住んでた時に、お金がないと人間扱いされないなって思ったんですよ。思いませんでした?この間LAに行ってみて。
そうだ。全部こちらから出していただいてたんで。
彼を人間扱いさせようと頑張ってたんですけど。でもそんな感じなんすかね。お金ないと、あの国。
例えば日本だったら健康保険とかって勝手にもらえるじゃないですか、パッケージで。でもアメリカでは、これだけお金があればこのベースプランプラスこれも入れる、これも入れる、これも入れるみたいになってくると、あ、お金があるとこんなにカバーされるんだ、自分の人生って思ったり。車もそうなんですよね。お金があればもっと手厚い保険に入れる、もっといい車に乗れる。で、そのいい車っていうのは自分の命を守るような車に乗れる。あとは住む家とかもお金で全部決まってて、エリアが。UCLAの周りのすごく治安のいいとこに住もうと思ったら、他のとこよりプラス1000ドルですとか、ストリート1個分けるだけでマイナス500ドルですみたいな感じになってるので、お金っていうものがアメリカの中では生きていくためのデフォルトなんだと思って。
実際内定出たところはどういうところなんですかね?
全部落ちて。はい、全部落ちました。やっぱり外資金融の投資銀行のフロントオフィスの1番お金稼げる部門って花形なので、みんな押し寄せるんですよね。だからそんなに受かるものではそもそもないので、全部落ちてリーマン・ブラザーズだけ受かったんですよ。
投資銀行ですよ。
投資銀行の債券部。
花形じゃないですか、でも。
当時は業界4位でした。ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、メリルリンチっていうのがトップ3で、その次っていう感じですね。初任給も高かったし。
実際どれぐらいとか聞いても大丈夫ですか?
大丈夫です。初任給650万でした。
すご。で、そっからもうぐんぐん上がっていく感じというか。そこで何年ぐらい働かれるんですか?
リーマン・ブラザーズをやめたのが31歳で、入社したのが25歳だから6年ですかね。
リーマン・ブラザーズってリーマン・ショックでなくなるんでしたっけ?
なくなりました。
それがその6年目みたいな感じですか?
そうです。でも亡くなる1ヶ月前にゴールドマン・サックスに私は転職しました。
すごくないですか?予知能力。
予知能力があったわけじゃないです。本当たまたまですね、それは。たまたまゴールドマンから声かけていただいて。当時リーマン・ブラザーズでトップセールスだったんで、若手の。
すご。トップセールスは、営業マンだったんですか?
営業マンでした。リーマン・ブラザーズの時も。
どういう風にトップセールスになったとかってあったりするんですか?
でも本当に幼稚園の頃からと同じで、人が好きだったんですよね。なのでお客さんに会うのがすごい楽しくて。同じ営業マンでも、同じ同僚でも、お客さんとこ行くの大変だな、やだなみたいな人が多かったんですけど、私楽しいけどって思ってました。あと人の話を聞くのが好きだったんで、うんうんってお客さんの話を聞いてると、お客様も自分の話を聞いてくれる人みたいな感じになって心開いてくれた。
で、ゴールドマン・サックスは、じゃあ31歳ぐらい。
31歳の時に転職しました。
で、何年間ぐらい働かれます?
11年いました。
じゃ42歳ぐらい。
42でやめました。
今おいくつですか?
49です。
じゃ8年前ぐらいにやめられたっていう。ゴールドマン・サックス内ではどんな感じですか?
ゴールドマン・サックス内ではめちゃめちゃ早く出世して。転職して2年目にMDっていう1番最高峰の役職になりました。
想像の100倍ぐらいバリキャリですよ、マジで。
確かに。ものすごいバリキャリ。中での業務ってどんな感じなんですか?
基本的に私はお客さん持って営業だったんですけど、MDになったあたりからその営業グループの統括やってました。
別の動画で、ゴールドマン時代の収入が2億とか、最高あったみたいな。
最高3億です。
最高3億。ほぼボーナスってことですよね。
そうですね。基本給が5000万で、それ以外はボーナスです。
サラリーマンでそんだけあって何に使ってたんですか?
そうですね。何に使ってたかな。
消えなくないですか?
でももう六本木ヒルズとかに住んで、運転手もいたし。
すごい。絵に描いたような。
確かに。すごい憧れの。
お手伝いさんも雇って。
やめた理由とかってお聞きしても大丈夫ですか?
全然聞いていいですよ。結局最終的には、そういう投資銀行ってそこまで長く働けないんですよね。40超えてくると。結構若い人のもので。なんでかっていうと、アメリカとかから来る最新の投資情報とか、複雑な金融商品とかを、ものすごい速さで理解してどんどん売ったりとか取引したりしなきゃいけないので、若い体力と若い脳みそが必要なんですよ。だんだんおじさんおばさんになってくるとスローになってくるんで、ついていけなくなってくるんですよね。なので大体の人は40歳までにやめます。
そうなんですね。
で、それ以上居ようと思うと、もう本当にマネージメントの社長になるとか、そういうポジションに行かないといけないから、アップ・オア・アウトって言われていて。上に常に上がる、もしくは出ていく。だからそれを私も20代の頃から意識してたんで、40でやめなきゃいけないし、やめようって思ってて。じゃあ40からは起業して何か違う仕事をやんなきゃいけないなって。これ私だけじゃなくてみんなが思ってることです。
やめた後、まずファーストアクションは何だったんですか?
私はリーマン・ブラザーズ時代の先輩が金融関連の会社を立ち上げてたので、そっちにまず行きました。ゴールドマンをやめて、リーマン・ブラザーズ時代の先輩のところで2年間働いて、でその時はSNSとかを始めたり、起業に向けて準備してた感じ。
その会社自体はゴールドマンと似たような業務みたいな感じ。
業務なんですけど、もう先輩に言って、私も基本的にこの業界引退したいんで、週3でいいですか?働くのって言って。その代わりそれだけの結果は出すからって言って。お客さんもいるし、長年のお客さんいるので。あと色々、当時からもうメディアに出たり、雑誌で連載持ってたりしたので、こういうのやらせて欲しいって。ゴールドマンは禁止だったんで。それやらせてくれるんだったら行きますみたいな。
なるほど。すごい。めっちゃ高待遇じゃないですか。週3で、何の活動してもいい。
そう。
ご結婚ってゴールドマン時代ですか?
リーマン・ブラザーズ時代にしました、最初の結婚は。
めっちゃ大変じゃないですか?めちゃめちゃ激務の中の。
でも若かったんですよね。結婚したの、26歳で結婚しました。
じゃ、2年目とか。本当めっちゃ忙しい時期じゃないですか。
これから頑張んなきゃいけない時期ですよね。結婚なんかしてる場合じゃない時期ですよね。
実際勤務時間って大体どれぐらいだったんですか?
もう朝から晩まででしたよ、当時。朝6時に会社に行って、夜中の12時までオフィスにいました。
家やん。
もう本当に住んでました。
結婚生活できなくないですか?
当時、業界の同じような外資金融の先輩と結婚したんですけど、2歳年上の、まだ彼も20代でトレーダーだったんですけど、2人とも遅く帰ってきて一緒に寝るだけ寝て、また朝2人でめちゃめちゃ早く出勤するみたいな。で、そこで子供生まれて。
子育てもしながらってことですか?
まあ、そうですね。
時間の使い方がちょっと。
そうですね。結構無理ゲーだったんで喧嘩も多くなっちゃって、2年間で別れて、でシングルマザーになるんですけど。
1度目ってことは2度目もあるんですか?
2度目はゴールドマンの時に結婚しました。
何年目とかですか?
それはもう結構最近ですよ。おばさんになってから。いつだっけな?2015年とかかな、結婚したの。だから40歳ぐらいだったのかな。2回目の結婚ももう別れましたけど。
睡眠時間取れてますか?
でもショートスリーパーなんで。1日4時間ぐらいしか寝ないです。昔も今も。金融時代にそもそも6時に出社しなきゃいけなかった時期に、多分そうなっちゃったんですよ。女子で6時に会社で座ってようと思うと、4時ぐらいに起きて、髪とか化粧とかあるじゃないですか。その頃から4時起きっていう風になっちゃって、体が。今も4時起きなんですけど、でもロングスリーパーになったら私終わるなと思うから、まあいいやって感じ。
わかんない。終わっちゃう?何が終わっちゃう?
人生回せない。ロングスリーパーになったら。
確かに、やること大量すぎてみたいな。
そうそう。時間が足りない。24時間ないと。ロングスリーパーだけはなりたくないです。
ゴールドマンの後に元リーマン・ブラザーズの方の会社にいて、そっから起業されるって感じなんですかね。
そうです。
それは何の起業なんですか?
その時にオンラインサロン始めました。サラリーマンやりながら。副業で始めました。
それが今はもう日本最大級。
そうなんです。
会員数どれぐらいなんですか?
今メインでやってるのは1万5000人ですけど、その金融経済アカデミーっていう学生のためのやつは8000人ぐらいかな。
その会費ってどれぐらいなんですか?
1万円です、両方とも。
オンラインサロンだけでも、なんかもう年商が結構とんでもないことになるというか。
そうですね。
他にも今は会社やられてるんですか?
そうですね。あとは美容材の、炭酸パックとかシャンプー・リンス作ったりして売ったりしてるのがあって、それもやってます。
今の年商とかってお聞きしてもいいんですか?
今年商いくらなんだろう。ざっくり20億は超えてる感じ。
ゴールドマンとかやめる時に、FIREとかの選択肢なかったんですか?引退してもう悠々自適みたいな。
そういう方もすごく多いんですけど、でも私基本的に忙しい方が好きなんで。
かっこいいな。真逆すね、ちょっと。
いや、本当にもう。いや、そうそう。そんなニコニコ言われるとは思わなかったんですけど、めっちゃそうですね。もう忙しいの嫌。もう寝たいんで。
寝たいんですか?
ロングスリーパー。超ロングスリーパーです。
1番爆笑します。それは大変。
寝るのいいと思うんですけどね。おすすめですけどね。1日8時間ぐらい寝た時、すっごいすっきりします。
本当?間違って8時間寝ることない?
間違ってもないです。寝れない。起きちゃうんで。
日中眠くなったりとかもないんです?
ないです。
すごいな。今の生活ってどんな感じなんですか?
今は朝4時に起きて、大体4時間かけて毎朝コラム書いてるんですよ。金融コラム書いてるんですけど。毎朝その会員さん向けに配信してるものがあって。で、その金融コラムの情報収集をするのに、まずインプットの時間が多分2時間ぐらい必要なんですよ。いろんな海外のメディア見たりとか、もちろん日経新聞もそうですけど、そういう金融経済のメディアを全部見て、その中から良さそうなニュースをピックアップしてコラムを書くみたいなことやってるので、大体情報収集に2時間で、アウトプットに2時間ぐらいかかってるかなっていう感じです。
その時点で多分朝8時ぐらいで、そっからはどんな感じですか?
そっからはコミュニティの中でみんなで運動してるんですけど、オンラインでね。それに私も参加します。1時間とか。で、その後は半身浴。今日もしてきたんですけど、基本的にルーティンとしては半身浴やっていて、1時間ぐらいで汗出して、その間に本読むんですよ。最近読みたかった本と、金融経済系の本とか国際政治の本とか、そういうのを読んで、終わったら食事ですね。
それが朝ご飯ですか?昼ご飯ですか?
朝昼兼用みたいな。11時ぐらいに食べる感じですかね。で、大体12時ぐらいに配信があるんですよ、オンラインサロンの。私がどなたかと対談したりとか、そういうのをやって。で、午後に、オンラインサロンの事務局とかスタッフがなんだかんだ40人ぐらいいるので、みんなといろんなやり取りしたり、会議したりミーティングしたりみたいなのが午後から。その後は美容とかやってます。髪の毛のトリートメントしたり、爪とか、なんかそういう美容の面をハックしたりとか。そういうことをやって、夕方になるとヘアメイクの彼女が来て、整えてもらって、食事とか夜のイベントに行くって感じですね。
忙しいですよ。
確かに。隙間がない。
確かに隙間ないです。
余裕持たす時間とかあった?遊び時間みたいな。
遊び時間はゼロです。
失礼しました。ちなみに聞ける範囲ですけど、オンラインサロンって入るとどういうことが知れたりするとかって。
私のサロンの場合は基本的に金融経済の勉強なんですよ。なので、朝から私が書いた、誰でも読める、どんなド素人の方が読んでも分かる金融経済のコラムっていうのを書いていて、それを読むっていうところから始まるんですけど、それ以外にも私のゴールドマン・サックス時代の友達というか同僚たちが金融ラジオっていうのを配信してくれてたりとか、あとは東大の先生の国際政治のラジオとか、そういうものとか、オンラインサロンの中で勉強ができるんですね。ほとんど女子なんですよ、入ってるのが。学生は違いますけど、メインの方のサロンは97%女性で、ほとんどの方がバリキャリなんですけど、特に金融じゃない人たちも多いから、金融経済とか株の情報とかって勉強してなければ知らないじゃないですか。バリキャリでも、お医者さんだったり弁護士だったりしても、そこは知らないから、そこを知りたいって方たちが多いです。
最後に、このチャンネル、20〜30代ぐらいの若者、学生とかが多いんですけど、その層に何でもいいんで一言もらえたりしますか?
あんまり長く寝ない方がいいと思います。寝るのって自分でコントロールできるんですよ。ショートスリーパーになろうと思えば、ちょっと頑張ればある程度はできるらしいんですよ、習慣で。で、私結構1日こんなにたくさんのことをこなしてますけど、よく忙しくないのとか疲れないのって言われるんですけど、それってルーティンの中に毎日組み込んでしまえばほぼほぼ考えないんで。意思決定に人間ってめちゃめちゃ疲れるので、意思決定してないんですよね。してないんですよ。4時になったら情報収集してコラム書く。その後お風呂入る、運動する、食べる、配信するみたいな感じで何も決定してないんです。だからめちゃめちゃ楽に過ごせるんですよ。だから皆さんに是非お伝えしたいのは、ルーティンを決めて日々生活すると、めちゃめちゃ生産性上がります。
やってないですか?
いや、全然。もうYouTuberなんてもうぐっちゃぐちゃです。ぐっちゃぐちゃですもん。曜日も時間感覚もないですよ、何も。
本当に?そんなんでよく人生回せますね。
だからやたら寝たりするんですか?なんか一気に働いて急にめっちゃ寝たりするんですよ。
ダメダメダメ。1番ダメです、それ。
そうですよね。確かに。ちょっと反省してください。
そうすね。めちゃめちゃ勉強になりました。今日ありがとうございます、本当に。
楽しかったです。ありがとうございました。
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