偏差値45未満の高校からゴールドマン・サックスのMDへ:河村真木子が語る、遠回りのキャリアとルーティンの力

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概要

金融機関で長く営業職を務め、約5年前に立ち上げたオンラインサロンが「日本最大級」と言われるまでになった河村真木子が、幼少期から現在までを振り返ったインタビューである。治安の悪い公立高校で「ヤンキー」をしていた10代から、アメリカ留学、関西学院大学の中退、UCバークレーへの編入、リーマン・ブラザーズとゴールドマン・サックスでの営業、そして起業へと至る経緯が語られた。遠回りに見えるキャリアの各段階で本人が何を考えて動いたのかが、話の中心になっている。

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幼稚園の頃から「営業マン」だった子ども

河村は奈良で生まれ、4歳で千葉に引っ越した。自分ではよく分からないが、親からは「子どもの頃から営業マンだった」と言われるという。引っ越した直後の幼稚園時代、親に名札をつけてもらい、一人で近所の公園に行って「私は奈良から来た川村真木子です」と挨拶し、一人ずつ相手の名前を聞いて回ったというエピソードを紹介した。家に人が来ると嬉しく、家族だけでいるとつまらないと感じるほど、人と話したり遊んだりすることが好きだったと振り返る。

家庭は三姉妹で、河村は真ん中だった。両親はそれぞれの個性を生かす放任主義で、「勉強しろ」と言われたことは一度もなかったという。母は短大卒で保育士、父は貧しい家の出だったが頭が良く、奈良でトップの高校から商社に入った。ただ、二人とも教育熱心な家庭で育ったわけではないため、子どもをどう鍛えるかという発想はなかったのだろうと河村は推測している。

小学校、中学校、高校はすべて公立だった。小中学校では勉強は「全然できなかった」が、友達は多く人気者だったという。小学校高学年のとき、ガスなどエネルギー関連の商社に勤める父の転勤でシンガポールへ移り、中学卒業まで日本人学校に通った。留学のような教育目的ではなく、完全に成り行きだったと話す。環境の変化についても、「こんにちは、千葉から来たまき子です」と同じように溶け込んだという。日本人学校は生徒が全員日本人で、英語は話せなかった。

東大阪の高校で「ヤンキー」になる

父が大阪本社に転勤になり、河村は東大阪の公立高校に入学した。偏差値は45を切っていたと思う、入試を受けた記憶もなく「名前を書いたら受かる」ような学校だったと言う。両親が奈良出身で情報収集が得意ではなく、奈良の実家と大阪中心部の父の職場の中間として東大阪に住み、そのあたりで当時の偏差値で入れる高校を選んだ、という経緯だった。生徒のほとんどは大学に進学しない学校で、河村自身「GSの中で最低偏差値を記録したと思う」と笑う。

周囲には学校に行かない生徒が多く、河村も途中から通わなくなり、出席は合計で半分ほどだったという。1990年代前半のことで、原付で暴走行為をしたり、タバコを吸ったりしていたと本人が語っている。シンガポール時代は周りに不良はいなかったが、東大阪ではそれが普通だったので「めっちゃ適応しちゃった」という。

転機は高校3年生のときに訪れた。暴走族の彼氏や周りの友人は17〜18歳になると高校を辞め、土方などの建設現場で働き始めていた。一方、シンガポール時代の友人たちは「早慶を受ける」という話をしていた。自分の人生がまったく違う方向に進んでいると気づき、「やばい」と思ったことが、アメリカ行きを決めるきっかけになった。

英語だけでも身につけようとアメリカへ

日本の受験は、周りに誰も受験する人がいない環境で、今から取り組める気がしなかった。そこで「自分は何も持っていないから、英語だけでもできるようになろう」と考え、アメリカなら皆が英語を話しているのだから自分も話せるようになるはずだと留学を決めた。当時は円高で、アメリカ経済も悪く、90年代前半は日本の方が景気が良いくらいで、留学生が非常に多く「流行っていた」と河村は説明する。

両親は驚き、「そんな都合のいい話はない」と強く反対した。それまでの素行が悪く「信頼ゼロ」だったため、行くならいい大学に入るか良い成績を収めなければ許さない、という条件付きだった。渡米前には参考書を取り寄せて勉強し、現地の高校には2年生から入って最後の2年間を過ごした。滞在先はホームステイだった。英語は若かったこともあり、割とすぐに話せるようになったという。

アメリカの高校は、暗記中心の日本とは評価の仕組みが違い、ディスカッションやコミュニケーション、発表やプレゼンテーションが重視されていた。河村はそれを自分の得意分野だと感じ、意外にも良い成績が取れた。最終的には「オールA」だったという。通っていたのはロサンゼルスのビバリーヒルズ、UCLAの近くの裕福なエリアの高校だった。

関学に合格、そして3ヶ月で中退

親から大学は日本に、できれば関関同立に入ってほしいと言われていた河村は、関西学院大学を受けて合格した。試験ではなく、アメリカでの成績やSATなどの共通テストで評価される帰国子女向けの入試だった。帰国子女の受け入れをしていたこと、関関同立の中で当時一番フィットしていたことが選んだ理由だという。

合格を知った親戚一同は、偏差値40台の高校から「ヤンキーのまき子」がどうやって関学に入ったのかと驚いた。本人も最初は、関学に入れてアメリカに行ってよかったと思っていた。しかし入学してみると、本当はハーバードやUCLAなど、国際的にもっとすごい大学に行けたのではないかという思いが消えなかった。ビバリーヒルズの高校にいた経験もあり、もう一度カリフォルニアに戻ればUCバークレーを目指せると考えるようになった。

河村は関学での時期を自分の中の「暗黒時代」と呼び、3ヶ月で辞めた。帰国子女向けの9月入学だったので、在籍期間はごく短い。当然、親からは大反対されたが、毎日泣いて頼み込んだという。留学費用については、当時は1ドル80円の時代で、サラリーマン家庭の子どももたくさん来ていた、と河村は語っている。

コミュニティカレッジで「オールA」を取り、UCバークレーへ編入

関学を辞めた河村は、誰でも入れるアメリカの2年制短大であるコミュニティカレッジに入学した。ここで良い成績を取れば4年制大学の3年生として編入できる可能性がある。ただしUCバークレーに入るには全科目でAを取る必要があり、一つも落とせない状況だったという。

河村は実際に全科目でAを取った。「人生の中であれはもう2度とやりたくない」と振り返るほどで、周りが遊んでいるときも一切遊ばなかった。関学を捨てて来ている以上、後がなかったからだと話す。

編入の出願は、コミュニティカレッジの成績表を持ってUCバークレーやUCLAなど希望大学に3年次編入として申し込み、エッセイを書いて結果を待つ流れで、一般の海外受験とほぼ同じだという。河村はUCLAとUCバークレーの2校にしか出願しなかった。オールAだったのでバークレーに入れると考えていたが、万が一混んでいた場合のためにUCLAにも出した。先生からも見通しを聞いており、コミュニティカレッジの教授から推薦状ももらっていたので、「まず間違いない」と言われていたという。

結果はUCバークレーに合格した。高校卒業が20歳、コミュニティカレッジを経て22歳頃に入学し、24歳で卒業した。バークレーでは初めて肩の力を抜き、卒業できればいいと考えて「オールBぐらい」でリラックスして過ごしたという。

就活:アメリカでは全敗、ボストンのキャリアフォーラムへ

UCバークレーのような大学には企業がキャンパスリクルーティングに来るため、河村も応募した。しかし日本人でビザもグリーンカードもなく、行きたかった金融機関はどこも受からなかった。面接では毎回「あなたがアメリカ人より優れている理由を教えて」と聞かれ、「それはないわ」と思ったという。そこで、日本にあるゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーを受けてはどうかと勧められ、留学生向けにボストンで開かれている、日本で働く意思のある人のためのキャリアフォーラムに参加した。

志望はほぼ金融だけだった。友人や先輩に「どこが一番稼げるのか」と聞き、外資系金融のこの会社のこの部署だ、というところまで調べた。当時それは投資銀行のマーケット部門の債券部で、さらにフローとノンフローに分かれる中でノンフローの方が稼げる、という情報まで学生時代に把握していたという。情報源には当時の2ちゃんねるなどの就活掲示板もあった。

稼ぎたい理由について河村は、卒業も遅れ、ここまで来るのに苦労したのだから「キャリアをマネタイズしなきゃ」と考えたと話す。面接で「なぜお金を稼ぎたいのか」と聞かれたときには、アメリカに住んでいてお金がないと人間扱いされないと感じたからだと答えたという。日本では健康保険が一括で付いてくるが、アメリカではお金があるほど手厚いプランに入れる。車もお金があれば良い保険に入れ、自分の命を守る車に乗れる。住む場所もお金で決まり、UCLA周辺の治安の良いエリアは他より1000ドル高く、通り一本隔てるだけで500ドル安くなる。お金がアメリカで生きていくための前提なのだと思った、と河村は説明した。

リーマン・ブラザーズでトップセールスに

外資系投資銀行のフロントオフィスで最も稼げる部門には応募者が殺到するため、河村はほとんど落ち、受かったのはリーマン・ブラザーズの債券部だけだった。当時の業界順位は、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、メリルリンチの上位3社に続く4位だったという。初任給は650万円だった。

25歳で入社し、31歳で辞めるまでの6年間働いた。リーマン・ブラザーズはリーマン・ショックで消滅したが、河村はその約1ヶ月前にゴールドマン・サックスへ移っていた。聞き手が「予知能力」かと驚くと、本人は偶然だと否定した。当時リーマンの若手トップセールスだったため、ゴールドマンから声がかかったのだという。

トップセールスになれた理由を聞かれると、幼稚園の頃と同じで人が好きだったからだと答えた。同僚にはお客さんのところへ行くのを大変がる人が多かったが、河村は楽しいと思っていた。人の話を聞くのが好きで、相手の話に耳を傾けていると、顧客も「自分の話を聞いてくれる人」として心を開いてくれたという。

激務と結婚、4時間睡眠の始まり

リーマン時代は朝6時に出社し、夜12時までオフィスにいる生活だった。26歳、入社2年目で、2歳年上の外資金融の先輩トレーダーと結婚した。二人とも遅く帰ってきて寝るだけで、翌朝また早く出勤する日々だった。子どもが生まれてからは「無理ゲー」になり、喧嘩が増えて2年で離婚し、シングルマザーになった。2度目の結婚はゴールドマン時代の2015年頃、40歳前後のときで、この結婚もすでに終わっているという。

睡眠は昔も今も1日4時間ほどだという。6時に会社にいるには、女性の場合は髪や化粧の支度で4時頃に起きる必要があり、そのときから体が4時起きになったと話す。「ロングスリーパーになったら私終わる」、つまり人生を回せなくなると考えており、日中に眠くなることもないという。

ゴールドマン・サックスで入社2年目にMDに

31歳でゴールドマン・サックスに移った河村は、11年勤め、42歳で辞めた。現在は49歳である。社内では非常に早く昇進し、転職2年目に最上位の役職であるMD(マネージング・ディレクター)になった。もともとは顧客を担当する営業だったが、MDになってからは営業グループを統括していた。

年収は最高で3億円だった。基本給は5000万円で、残りはボーナスだという。使い道については、六本木ヒルズに住み、運転手とお手伝いさんを雇っていたと語った。

辞めた理由として河村は、投資銀行はそれほど長く働ける場所ではないことを挙げた。アメリカなどから届く最新の投資情報や複雑な金融商品を非常に速く理解し、売ったり取引したりしなければならず、若い体力と頭脳が必要になる。年齢を重ねると遅くなってついていけなくなるため、多くの人は40歳までに辞めるという。それ以上残るには経営陣など上のポジションに就く必要があり、「アップ・オア・アウト(上がるか、出ていくか)」と言われる世界だと説明した。河村自身も20代からこれを意識しており、40歳で辞めて、その後は起業するなど別の仕事をしなければならないと考えていた。これは自分だけでなく皆が思っていることだという。

週3日勤務の会社を経て、副業でオンラインサロンを開始

ゴールドマンを辞めた後、河村はまずリーマン時代の先輩が立ち上げた金融関連の会社で2年間働いた。業務はゴールドマン時代と似ていたが、業界から引退したいので週3日勤務にしてほしい、その代わり結果は出すと申し出た。長年の顧客もいたからだ。ゴールドマン時代からメディア出演や雑誌のコラム連載をしていたが、ゴールドマンではそうした活動が禁止されていたため、それを認めてくれるなら行く、という条件だった。この期間にSNSを始めるなど起業の準備を進め、会社員をしながら副業としてオンラインサロンを始めた。

サロンの会員数は、メインのサロンが1万5000人、学生向けの金融系アカデミーが約8000人で、料金はいずれも1万円だという。ほかに炭酸パックやシャンプー、リンスなどの美容関連商品も作って販売しており、年商は「ざっくり20億は超えている」と話した。ゴールドマンを辞めた時点でFIRE(早期リタイア)を選ぶ人も多いが、河村は「基本的に忙しい方が好き」なので選ばなかったという。

オンラインサロンで学べること

河村のサロンの中心は金融経済の勉強である。河村が毎朝書く「どんなド素人の方が読んでも分かる」金融経済コラムを読むことから始まり、ゴールドマン時代の同僚たちが配信する金融ラジオや、東大の教員による国際政治のラジオなどでも学べる。

メインのサロンは会員の97%が女性で、学生向けは別だという。ほとんどがバリキャリだが金融以外の業種の人が多く、医師や弁護士であっても、勉強していなければ金融経済や株の情報は知らない。そこを知りたいという人が多く集まっていると河村は説明した。

分刻みの一日

現在の生活は、朝4時に起きて約4時間かけて会員向けの金融コラムを書くことから始まる。海外メディアや日経新聞などの金融経済メディアに目を通して良さそうなニュースを選ぶインプットに約2時間、執筆に約2時間かかるという。

8時頃からは、コミュニティ内でオンラインで一緒に行っている運動に1時間ほど参加する。その後は、ルーティンの半身浴を1時間ほどしながら汗をかき、金融経済や国際政治などの本を読む。11時頃に朝昼兼用の食事をとり、12時頃にはサロンでの対談などの配信がある。午後は約40人いる事務局やスタッフとのやり取りや会議、その後は髪のトリートメントやネイルなどの美容の時間に充てる。夕方にはヘアメイクの担当者が来て身支度を整え、会食や夜のイベントに出かける。遊ぶ時間は「ゼロ」だという。

若い世代へ:ルーティンで意思決定を減らす

最後に、20〜30代の若者や学生の視聴者に向けた一言を求められた河村は、まず「あんまり長く寝ない方がいい」と答えた。睡眠は自分でコントロールでき、少し頑張れば習慣である程度ショートスリーパーになれるらしい、という。

そのうえで強調したのがルーティンの効用である。これほど多くのことをこなしていると「忙しくないのか、疲れないのか」とよく聞かれるが、毎日のルーティンに組み込んでしまえばほとんど考えずに済むと河村は話す。人間は意思決定にとても疲れるが、4時になったら情報収集してコラムを書き、風呂に入り、運動し、食べ、配信する、という流れの中では何も決めていないので楽に過ごせる。だからルーティンを決めて生活すると生産性が大きく上がる、というのが河村のメッセージだった。

聞き手が、YouTuberの生活は曜日や時間の感覚もなく「ぐちゃぐちゃ」で、一気に働いては急に長く寝ることもあると打ち明けると、河村は「それが一番ダメ」と即答し、インタビューは締めくくられた。