ゴールドマン・サックスから国会議員へ 岡本三成が語る「運は人間関係」と、野党になって見えた政策実現の手応え

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概要

公明党政調会長で衆議院議員の岡本三成が、生い立ちから創価大学、シティバンクとゴールドマン・サックスでの22年、そして政治家としての13年を振り返った。聞き手はチャンネル主宰のトマホークで、ゴールドマン時代に岡本と9年ほど同じ職場にいた元同僚で、『お金の不安という幻想』の著者である田内学も同席した。話の軸は、岡本が繰り返し口にした「運は人間関係であり、運こそが実力だ」という考え方と、与党を離れて野党になったことで政策がむしろ通りやすくなったという実感である。なお収録日は12月16日だと本人が語っている。

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新聞好きの少年が書いた「世界をまたにかける男」

岡本は佐賀県生まれで、公立の小中高に通った。子ども時代に変わったところがあるとすれば、新聞をとにかく読む子どもだったことだという。国際面を読むうちに、佐賀や福岡とはまったく違う広い世界に憧れるようになり、小学校の卒業文集には将来の夢として「世界をまたにかける男になりたい」と書いた。

ゴールドマン時代はニューヨークを拠点に、1か月のうち2週間はニューヨーク、1週間は西海岸、1週間はロンドンといった出張生活を送った。睡眠は移動中の機内でとるような働き方で、本人も当時はきつかったと認めている。それでも振り返ると、子どもの頃に望んでいたのはこういう経験だったと感じたという。

田内によれば、岡本の丁寧な話し方は政治家になってからのものではなく、当時からだった。ゴールドマン社内では一人称が「俺」の人が多いなか、岡本はほぼ「私」で、ごくまれに素が出たときだけ「俺」になったという。

創価大学を選んだ理由と、分布の「テール」にいる天才たち

岡本は両親が創価学会員で、物心ついたときには学会員だった。創価学会系の学校には通わず、地元の県立高校から創価大学に進んだ。選んだ理由は創立の精神に共感したことに加え、大学時代に「この人たちと友人であることが人生の一番の誇りであり宝物だ」と思える人たちと出会いたかったからだと話す。

ただし岡本は理系クラスにいたが、当時の創価大学には文系学部しかなかった。悩んだ末に文系に進んだものの、せっかくだからと共通一次試験だけは受けたという。学会員だから入りやすいということは「まったくない」と否定している。

岡本は創価大学の学生層を統計の分布にたとえた。偏差値はそれほど高くなく、分布の真ん中は普通だが、端のほうに10人から20人ほど「天才」がいる。彼らは偏差値とは違う軸で大学を選んでいて、東大に合格できたのに創価大学を選んだ人も同期に何人かいた。卒業後は官僚になったり、ゴールドマンに採用されたりしているという。そうした学生と交わることが大きな知的刺激になったと岡本は語る。

また、創価大学の学生には学会員でない人もおり、宗教の必修授業もないと説明した。創立者は池田大作名誉会長だが、僧侶を育てる学校ではないという。学園祭もクラブの模擬店やコンサートがある普通のものだ。イタリア語の楠田先生に誘われ、第二外国語がフランス語なのにイタリア研究会の設立メンバーになったというエピソードも紹介した。

「運も実力のうち」ではなく「運が実力」

大学時代の話の途中で、岡本は自身の人生観を語った。世間では「運も実力のうち」と言うが、自分は「運が実力」だと考えている。そしてその運の正体は人間関係だという。神様がある日突然チャンスをくれるのではなく、友人が「こういう人がいるから紹介する」「こういう話があるから挑戦してみたら」と声をかけてくれる。それが運だという理屈である。

この考え方は採用の場面にも表れていた。ゴールドマンの最終面接に来るのは頭のいい人ばかりなので、岡本が見ていたのは「この人と1日15時間、2人きりで議論しなければならないときに楽しめるか」という一点だけだったという。ゴールドマンの企業文化が強いのは、その文化に近い人しか採用しないからだと岡本は説明した。

同じ理由で、何をやるかより誰とやるかを重視している。公明党には定年があり、現行ルールでは65歳を超えると公認しない。衆院議員の任期は最大4年なので、70代の議員は原則おらず、例外が1人いるかどうかだという。引退後のことを考えると、仕事の中身は何でもよく、好きな仲間10人ほどと仕事をしたいと語った。ゴルフや飲み会だけでは飽きるので、社会と接点のある何かをやりたいという。

グラスゴー留学とシティバンクへの就職

恩師である経済学の北正美先生がグラスゴー大学で学んでいたこともあり、岡本は大学4年のときにグラスゴー大学へ留学した。3年までは入学要件を満たせておらず、北先生が手配してくれて4年で行けることになった。就職活動はしておらず、大学には5年在籍した。

金融を選んだ理由は二つあった。ひとつは留学中にロンドンでバークレイズやシティを訪ね、スキルさえ身につければロンドンでもニューヨークでも香港でも東京でも働けると感じたこと。もうひとつは、20代前半の人が「10本ロング」と言って1000万ドルを普通に売買していたことだ(1本は100万ドル)。自分の人生で1万円は払ったことがあっても100億円は払ったことがない、それは楽しいだろうと思ったという。

グラスゴー在学中にシティとバークレイズの面接を受けて内定を得たが、帰国後に東京でも面接を受けるよう言われ、最終的に東京で内定をもらって帰国した。シティの新卒は多いほうでも7人、ゴールドマンは2〜3人、バークレイズは2人だったという。最初は為替トレーダーを務めた。

1995年、日本人初のフェニックス・アワードは「ラッキーパンチ」

1990年代前半、シティバンクは不動産不況で業績が悪化していた。当時、全世界で7万人ほどの社員がいたなかで、ブランドを回復させ新たな成長につながる取引をした人を上半期・下半期に1人ずつ選ぶ賞があり、会長のジョン・リードが選んでいた。1995年、岡本は日本人として初めてこのフェニックス・アワードを受けた。

対象の案件はカナダのショッピングモール開発だった。シティの融資が焦げ付いて不良債権になっていたが、全額を損切りすればモールがなくなり、数千人の雇用が失われる。そこで証券化の手法を使い、債権を額面より少し安い価格で売却した。実損は出るが全額損失にはならず、モールもコストを下げて再出発できる。業界的に画期的な取引だったという。

ただ岡本はこれを「ラッキーパンチ」と呼ぶ。モールのエクイティ・オーナーが日本の大手商社で、たまたま自分がその担当者だっただけで、自分がやったのではなくプロジェクトが評価されたのだと説明した。まさに運が実力だという話につながる。

受賞後、ジョン・リードから手紙が届き、食事の席で「君がいればシティの未来は明るい」といった言葉をかけられた。トマホークは「このままシティに骨を埋めたくなりませんか」と尋ねたが、岡本はその瞬間「だったら俺はどこでもやっていける」と思ったという。周囲がビジネススクールに行っていたこともあり、ノースウェスタン大学のケロッグ経営大学院に進んだ。シティ側は社費留学のプログラムを作ると申し出たが、その後の選択肢を広げておきたくて断った。

出産費用のために選んだゴールドマンのサマージョブ

ビジネススクールの夏、シティで7年働いたこともあり、ワシントンDCの世界銀行やIFCで途上国投資に関わる非営利のサマージョブをしようと考えていた。ところが1年目に妻が妊娠した。アメリカで出産すると1万ドルほどかかるのに、世界銀行のサマージョブは無給だった。就職課で「ゴールドマン・サックス、月6000ドル」という求人を見つけ、2か月働けば払えると考えてゴールドマンで働いた。長女は無事に生まれたという。

サマージョブからそのまま採用されるのは珍しくないと岡本は説明する。ビジネススクールのインターンは2〜3か月あり、実質的にお互いのお見合いの期間だという。

「その方が儲かるからだ」——ゴールドマンの人間関係論

入社時、新入社員は80人ほどいた。当時の経営陣のヘンリー・ポールソン(後に財務長官)から「What's up, 岡本さん」と名前で呼ばれ、岡本は感動した。おそらく前夜か当日の朝に80人分の資料を見て覚えたのだろうと推測し、日本のメガバンクの頭取が新入社員に名前で声をかけることはまずないと比べている。名前を呼ばれた瞬間に「一生ついていきます」と思ったという。

経営陣が繰り返したのは、リレーションシップとチームワークだった。金融商品には特許がなく、あるのは信頼関係だけだという考え方である。ゴールドマンの理念の最初には「Customer comes first」が掲げられている。

新入社員研修で、ジョン・コーザイン(後に州知事)が「ゴールドマンの理念を知っているか」と尋ねると、優秀な新人たちが暗唱してみせた。では何のための理念かと問われ、ある新人が顧客のためだと答えると、コーザインは笑って「君はstupidか」と返したという。この会社は資本主義のど真ん中にあり、目的はただひとつ、その方が儲かるからだ、と。ゴールドマンの顧客に素人はおらず全員がプロなので、1回は騙せても5回、10回は騙せない。だから顧客に「あなたと仕事をしたい」と思わせるのが一番儲かる、という理屈である。

チームワークについても同じ論法だった。10人のうち1人だけが優秀で100稼ぎ、残り9人が10ずつなら合計190になる。優秀な人が自分の稼ぎを少し削ってでも周りに教え、9人がそれぞれ20稼げるようになれば、全体はその方が大きくなる。だからチームワークの方が儲かる。岡本はこれを聞いて「天才だ」と思ったと振り返る。

同期最速のMD、40年債、公共インフラ投資部

岡本は1998年入社組で、2005年に入社7年目でマネージング・ディレクター(MD)に昇進した。ビジネススクール卒でアソシエイト、ヴァイス・プレジデントを経てMDになるのは7年が最短で、同期で一番早かったという。これも本人は「ラッキーパンチ」と表現した。

2003年入社の田内は、ちょうどその頃から岡本と一緒に仕事をするようになった。岡本は社債を発行して資金を調達したい企業の側を担当し、田内はそれを買う投資家のために価格をつけるトレーダーだった。二人は、日本で初めてとなる民間企業の40年債を手がけた。日本政府でさえ30年までしか借りたことがないのに、民間企業が40年借りるときの適正な金利をどう考えるか。買い手も納得できる理論が必要で、世界にない商品を作る知的刺激があったと岡本は話す。

後年は公共インフラ投資部の日本統括を務めた。顧客は財務省や地方自治体、政府系機関などの公的機関で、グローバルでは空港や港湾、高速道路の運営権に年金資金で投資する事業が中心だったという。

ネット上には次期社長候補だったという情報もある。岡本はこれについてこう説明した。前社長は本社から「君が病気や事故に遭ったときの次の社長を育てるのも君の仕事だ」と言われ続けていたため、投資銀行部門から7〜8人を集め、定期的に「訓練」という名の飲み会を開いていた。キャピタル・マーケッツ部門からも誰か入れる必要があり、自分が呼ばれた。つまり後継者の候補群を作ってあるという「言い訳」のためのチームの1人だったのだという。

政治を志した二つの理由

会社の論理に深く共感していた岡本がなぜ政治に転じたのか。理由は二つあったという。

ひとつは9.11である。当時ニューヨークで働いていた岡本の目の前で、2機目の飛行機がビルに突っ込んだ。世界貿易センタービルが倒壊し、歩いて帰宅した。あれほど勢いのあったニューヨークが「ダークシティ」になり、町から活気も笑顔も消えた。こういう社会は嫌だと思い、それに対して政治の役割は大きいと考えた。

もうひとつは、ゴールドマンがリーダーを輩出する会社だという文化である。退職後に公的部門へ進む人が多い。同い年でゴールドマンにいたマーク・カーニーは、辞めるときに「カナダ中央銀行の総裁になる」と言い、その後イングランド銀行総裁を経て、現在はカナダの首相を務めている。社長経験者は米財務長官になり、岡本がMDになったときのメンターだったゲーリー・コーンは第1次政権で国家経済会議の議長に就いた。国会議員の財政政策や金融政策への判断は国全体を左右するので、全員でなくても一部に金融の経験を持つ人がいることは大事だ。22年やっていれば人より少しは知見があるだろう、と考えたという。

「負けたらゴールドマンに返してほしい」

辞意を伝えると、引き止めもあった。当時の社長が「話があるので会わせてほしい」と言い、六本木ヒルズで当時の公明党代表・山口那津男と面会した。社長は、目をかけてきたが本人が決めたのなら応援する、ゴールドマンはリーダーを輩出する会社で、世界の政府や中央銀行、財務省に人材を送り出してきた、日本からもしっかり働いた人が政治で活躍するのは喜ばしい、と語った。そのうえで「負けることもあるでしょう。負けたらゴールドマンに返してもらえませんか」と言ったという。

外資系企業はドライで、辞めると言えば後ろ足で砂をかけるのかと言われてもおかしくない。それなのにこう言われて、岡本は涙ぐみそうになったと振り返る。

公明党の選挙と厳しいガバナンス

選挙にはお金がかかるのではという質問に対し、岡本は公明党の場合、個人が負担するお金はほとんどないと答えた。車のリース代やガソリン代など自己負担もあるが、初めての選挙のときは資金がないので党がある程度支援する。現職になれば歳費の中から貯金するので、党の支援は最小限になる。

その代わり党のガバナンスは厳しい。法律で認められていても党の内規で認められていないことが多くあり、定年制もそのひとつだ。被選挙権は本来誰にでもあるにもかかわらず、党として年齢制限を設けている。お金や異性関係の問題があれば、他党なら議員を続けるような場合でも、公明党では翌日には議員辞職になるだろうと話した。

ゴールドマン退職から半年で国会議員になった。初当選した2012年の選挙は比例代表で、比例区は候補者名ではなく政党名で投票される。そのため自分の名前を売る必要はなかったが、「岡本という人間を当選させたい」と思ってもらうことが、結果として公明党への投票につながると考えた。そこで選挙期間だけでなくその前の半年間、北関東の埼玉や茨城などを朝から晩まで回った。朝は駅前に立ち、商店街を回り、午後は町内会の会合に出て、小さな集会を重ねた。議員になって今年で13年目になる。

連立離脱の理由——「自民党から離れたのではなく、政権から離れた」

国会議員として最も印象に残っていることとして、岡本は最近の自民党との連立離脱を挙げた。議員になったときからずっと与党だったからだ。

岡本の見立てでは、自民党も公明党も選挙で3連敗した。岡本自身は昨年の衆院選で勝ったが、党全体は厳しい結果だった。理由は二つあると岡本は考えている。ひとつは有権者の中でのブランドイメージが両党とも非常にネガティブだったこと。「悪いことばかりする自民党と、それに文句も言わずについていく公明党」というイメージで、投票の選択肢に入っていなかったのではないかという。

もうひとつは、良い政策を訴えても「ならなぜ今までやらなかったのか」「失われた30年のほとんどは自公政権ではないか」「政治家は結果責任ではないか」と受け止める人が多かったことだ。そこで岡本は、3連敗の責任の取り方として一度与党から野党に下がり、ゼロから政策を積み上げて次の選挙でもう一度信任を得る道を考えた。自民党にもそう持ちかけ、自民党の主要な人の中にも、遠回りに見えて政権に戻る近道ではないかと賛同する人がいたが、結局実現しなかった。だから自分としては、自民党から離れたというより政権から離れたという感覚だという。

野党になって驚いた「こんなにやりたいことができる」

野党の政調会長になって驚いているのは、政策実現の面でやりたいことが思った以上にできることだと岡本は語る。

背景には少数与党という状況がある。10月10日に与党を離脱するまで、岡本は少数与党の政調会長として、自民・公明だけでは予算も法律も通らないため、国民民主党や日本維新の会に賛成を頼みに回っていた。彼らの要求を受け入れると財源がかかり、予算が膨らむ。自分たちもやりたい政策があって財務省に求めると、「お気持ちは分かりますが、今回は国民民主のこれと維新のこれを飲むので、さすがに厳しい。今回は我慢してください」と言われたことが何度もあった。我慢の連続だったという。

ところが野党になると状況が逆になった。現在も自民党と維新だけでは法律や予算が通らないため、政府・与党はどこかの賛成を取りに来る。収録当日(12月16日)は補正予算が成立する日だった。公明党が補正予算の方向性を政府に提案したところ、政府から出てきた原案は公明党の提案を「コピペしたのではないか」と思うほどだったという。さらに予算委員会で首相に修正を求めると、できる限り応じてくれた。自分が自民党の立場でも、26年一緒にやって共通言語がある公明党をまず押さえに行くだろうと岡本は分析する。これは大きなサプライズだったという。

田内との関係については、岡本が財務副大臣だった頃、田内がゴールドマンを辞めて最初に出した本が公益性に沿いながら金融出身でなければ書けない提言を含んでいると感じ、連絡を取って大臣室に来てもらったと話した。

「弱者を助ける」ではなく「弱者を生み出さない」社会

今後の目標として、岡本は長期のビジョンと中期的な課題を分けて語った。長期的には、弱者を助ける政治ではなく、弱者を生み出さない社会をつくりたい。頑張った人が成功して豊かになり、格差が広がること自体はかまわないと岡本は言う。問題は格差ではなく貧困であり、セーフティネットも含めて貧困を生まない仕組みをつくることが大事だという。

中期的な経済政策について、岡本は自民党や国民民主党の公約にある「GDP1000兆円」という目標に疑問を示した。経済規模の数値目標のために国民の働き方を考えるなら、人を手段にしていることになるという。日本のGDPは世界4位だが、それでも豊かさを実感していない若い人は多い。

岡本によれば、経済学的に豊かさを示すのはGDPではなく1人当たりGDPである。1人当たりGDPは生産性であり、ざっくり言えば賃金、さらに言えば豊かさにあたる。トマホークに順位を尋ね、田内が「20何位か30何位」と答えると、為替で変動するが今はおそらく38位くらいだと示した。そのため公明党の経済政策の目標は1人当たりGDPの倍増だという。目的は人間で、経済政策は手段だというのが岡本の立場である。

政調会長の役割についても説明があった。党内には省庁に対応する部会(財務部会、外交部会、法務部会、経済部会など)があり、それぞれが政策や法案への賛否、修正を議論する。省庁を横断する課題には社会保障や安全保障などのプロジェクトチームがある。これらの最終的な決裁者が政調会長だという。田内は「会社の先輩だと思って軽く来たら、めっちゃ偉くなっていた」と笑った。

若い世代へ——「自分を過小評価しないで」

最後に、20〜30代の視聴者へのメッセージを求められた岡本は、「自分自身を過小評価しないでください」と語った。日本人は謙虚すぎて、それでチャンスを逃している。「挑戦してみませんか」と言われて「私にはまだ早いです」と遠慮すると、国際的な基準では「この人はできないのだ」と受け取られてしまう。やろうと思えばたいていのことはできるのだから、少し過大評価するくらいでいいという。

岡本は、若い世代の最大の特権は「根拠のない自信」だと考えている。「私ができなかったら、他に誰ができるんですか」くらいの姿勢で臨んで、グローバルではようやく対等になるのではないか、と。謙遜しすぎると実力がないと誤解されるので、チャンスを逃さないために自分を過小評価しないでほしい、というのが岡本の締めくくりだった。