「モテたい」から始まった政治家人生:音喜多駿が語る、中学受験から2回連続落選までの42年

YouTubeで開く ↗
概要

参議院議員だった音喜多駿は、直近の選挙で2回続けて落選し、現在は本人いわく「花の無職」である。42歳の音喜多は、若手TVの高田ふーみんとの対談で、幼少期から現在の浪人生活までを振り返った。何度も「人生のピーク」を言い直しながら語られたのは、コンプレックスを動機に動き続けてきた経緯と、落選後もなお掲げる政策の話だった。

16分で読めます

浪人期間は2年目に入ったところだという。昨年10月の衆議院選挙で落選し、今年7月の参議院選挙でも再び敗れた。高田は、もともと参議院議員だったのだから衆院選に出る必要はなかったのではないかと指摘する。さらに自分もこの前の選挙で音喜多に投票したと明かし、「僕の1票が死票に」と笑わせた。

不登校から「全国15位」へ

音喜多は子どもの頃からよく喋る子だった。ただ、小学2年生のときに半年近く不登校になり、その間は図書館で本ばかり読んでいた。この読書のおかげで国語が非常によくできるようになり、勉強全体もできるようになったという。

体はとても小さく、小学6年生で136cm、現在も167cmほどである。整列ではいつも最前列で、足も速くない。本人は「いじめられっ子体質」だったが、勉強ができることで何とか居場所を得ていたと振り返る。

小学3年生で周囲に合わせて塾に通い始めた。塾はTAPで、音喜多によればサピックスはこのTAPから生まれたという。最初に受けた全国模試の順位は全国15番だった。音喜多は冗談交じりに、ここが人生のピークだったと語る。

ところが5年生頃から周囲が勉強して追いついてきた。5〜6年生で成績は転がり落ち、クラスは真ん中あたりになる。4年生までは開成を狙うコースにいたが、その後は武蔵、巣鴨・海城コースと下がっていった。それでも中学受験を続け、進学校の海城に合格した。

家は水道屋で、政治家の家系でも裕福な家庭でもない。出身の東京都北区は、音喜多の表現では治安があまり良くない地域で、中学になるとマイルドヤンキーのようになる同級生が多かった。そうなることを心配した両親が中学受験を決め、3人兄弟は全員が中学受験をしたという。

中高6年間の「暗黒時代」と文系Aコースでの立て直し

中学で音喜多の「暗黒の人生」が始まる。学年は278人いた。ある中間試験では274番で、その回は3人が休んでいたため実質的に最下位だった。これに衝撃を受け、自分は勉強ができない人間なのだと思い込んで「闇落ち」していった。

当時はスクールカーストという言葉が生まれるかどうかの時期だった。運動ができる生徒が頂点にいて、ギターが弾けるなど一芸を持つ生徒がそれに続く。眼鏡をかけてパソコンゲームをしていた音喜多は、自分は最下層にいたと語る。この日の収録で着ていたのも「陰キャ」と書かれたパーカーだった。全国15位からなぜ転落したのか。音喜多は、勉強をやらされるのが嫌になったからだと分析する。自分で図書館に通っていた頃とは違ったというのである。

転機は高校2年生のコース分けだった。当時の海城には、文系・理系の区分に加えて「文系A」「文系B」があった。文系Aは国立大学や東大を最初から目指さず、私大向けの3教科だけを学ぶコースである。拘束が少なく自由な時間が多かった。音喜多は好きだった世界史を勉強し続けて成績を伸ばし、高校3年生の時点で受験に「戦える体制」まで立て直した。

第一文学部への憧れと、政経への進学

受験したのは早稲田大学と慶應義塾大学である。どうしても早稲田に行きたかった音喜多は、早稲田を政治経済学部、法学部、第一文学部、社会科学部、教育学部の5学部受けた。本命は世界史が得意だった流れで第一文学部だった。過去問は20年分ほど解いた。

第一文学部がある戸山キャンパスは女子学生が多い。男子校出身の音喜多は、女子の多いキャンパスライフに強く憧れていたという。周囲から滑り止めを受けるよう言われ、慶應は文学部だけ受けることにした。それ以外なら浪人するつもりだった。

結果は、第一志望の第一文学部だけが不合格だった。記念受験のつもりだった政治経済学部を含め、ほかはすべて合格した。音喜多は、男子の比率が圧倒的に高い政経に進むことになった。

カンフーと早稲田祭:目立つより「支える側」

中高で青春が何もなかった音喜多は、大学こそ楽しもうとした。茶髪にしたが、本人いわく「大学デビューは失敗」した。当時ジャッキー・チェンにはまっており、ああいう動きができればモテるのではないかと考えて、早稲田のカンフーサークルに入った。

カンフーは結局18歳から26歳頃まで、約8年続けた。普及指導員の資格が取れる水準まで達したが、認定料が2万5000円ほどかかるため取らなかった。全日本大会にも出場したが、本人によれば出れば出られる程度の競技レベルだという。サークルでは第23代キャプテンを務めた。

高校時代にも同じような失敗をしていた。高校2年生から軽音楽部に入ったが、当時流行していたバンドではなく、デーモン小暮の聖飢魔IIのコピーバンドを選んだ。全くモテなかったという。

大学2年生からは早稲田祭の運営スタッフになった。自分が目立とうとすると失敗してきたが、みんなが発表する場を裏方として作ることは意外と得意だと気づいた。そこに打ち込んでからキャンパスライフが充実し、大学2年生の終わりか3年生頃に初めて彼女ができたと語る。

「自分を変えるより社会を変えた方が早い」

政治家を志したのは大学時代である。モテないことに悩み、いろいろ努力するなかで、自分を変えるより社会を変えた方が早いのではないかと考えるようになった。自分がモテない社会の枠組みそのものを変えるべきだ。その社会を形作っているのは、いま学部で学んでいる政治ではないか。これが最初のきっかけだったという。

政治家になった理由は「1万回ぐらい」聞かれてきた。これまではボランティアや家庭の事情など、格好のいい話を取り繕ってきたという。だが最近は、志す動機は何でもいいというメッセージも込めて、この話を正直にしている。高田はこれを「都民ファーストじゃなくて童貞ファースト」と茶化した。

大学3年生からのゼミでは、女性と政治を研究した。音喜多が調べた限り、近代社会で女性が閣僚の多数を占め、意思決定を担ってきた社会は見つからなかった。サッチャーやメルケルも、男性社会の中で女性がたまたまトップに立っただけだと音喜多は見る。人口の半分を占める女性が意思決定から外れた社会はおかしい。音喜多はそう考えた。もし自分が首相になり、後継者を女性にし、閣僚の半分を女性にできればモテるのではないか、とも考えたという。高田は「繋がらんな」と返し、女性が権力を握ればモテない男性はかえって迫害されそうだと指摘した。音喜多は、その可能性はあるが前例がないから分からない、と答えている。

ルイ・ヴィトン(LVMH)への就職

政治家の家系ではないこともあり、音喜多はまず民間経験を積もうと就職活動をした。そして化粧品ブランドを扱うLVMHに入社する。

就活の説明会には「最もあなたらしい服装でお越しください」と書かれていたが、音喜多はスーツで臨んだ。大学時代はおしゃれに全く関心がなかった。早稲田祭の運営スタッフには早稲田らしさを重んじる文化があり、音喜多も下駄を履き、角帽をかぶり、学ランを着て通学していたという。

面接では「モテたい」とは直接言わなかった。その代わりに次のように語った。人間には「寝たい・食べたい・モテたい」という3大欲求がある。日本社会は安定していて、食べることはたいていの人ができる。しかしモテには大きな格差があり、その差がブランド価値を生む。だから差を生み出すビジネスは廃れず、今後も大きくなる。そこに人生を費やしたい。化粧をするのは男性ではないと言われたときは、化粧をするのは女性でも、それを見るのは男性だと返した。

最終面接は英語だと告げられた。英語を話せない音喜多はいったん辞退を申し出たが、上層部から「せっかくだから受けに来ないか」と連絡があり、日本語で面接を受けて内定を得た。第一志望は資生堂だった。しかし会社から、欲しいのはあなただけで、辞退されても補欠は取らず、来年の新卒はそのブランドでゼロ人になるだけだと言われ、感動して入社を決めた。人事からは後に「本当に好きな気持ちが伝わった」と言われたという。

ほかにはアクセンチュアなどのコンサル、商社(いくつか最終面接まで進んだ)、日本テレビや新聞社などのマスコミも受け、応募は50社ほどに及んだ。就職氷河期が終わるか終わらないかの時期だったという。

LVMHには29歳まで7年間在籍した。最初は百貨店カウンターで働くビューティーアドバイザーの新人と一緒に2週間の化粧研修を受け、互いにメイクをし合った。音喜多は、自分は「珍しくメイクができる国会議員」だったと笑う。その後、店頭研修が合計2カ月ほどあり、営業を5年、マーケティングを2年担当した。営業ではエリアマネージャーの次が部長で、部長になるのは40歳前後になる。20代ではエリアマネージャーが上限だったため、異動を希望し、最後の2年はセールスプロモーションの部署で企画に携わった。

3.11と被災地の一言

もともと被選挙権を得る25歳で選挙に出るつもりだった。しかし仕事が楽しく、ずるずると会社に残った。27、28歳になり、仕事もうまくいっていた。40歳くらいまで勤めてお金を稼いでから政治の世界に入るのもいいと考え始めた頃、2011年の東日本大震災が起きた。

東北の知人から、政治家になりたいなら現場を見て、できることを全部やるべきだと言われた。音喜多は被災地を巡業するボランティア活動を約3年間続けた。現場の混乱ぶりを見て、「この国はちょっと終わっている」と感じたという。

決定的だったのは、被災者の女性にかけられた言葉だった。女性は、来てくれてありがとう、自分の孫も同じくらいの年で、いろんな夢があったけれど死んでしまった、と話した。やりたいことが決まっているのに「いつか」「機会があれば」と言っている自分が恥ずかしくなった。音喜多はすぐにやろうと決め、最も近い選挙を調べた。それが2年後の東京都議会議員選挙だった。そこから退職の準備を始め、29歳で会社を辞めて出馬した。

支援活動ではバスを出すなどして貯金をほとんど使い果たしていた。1回目の選挙にかかった費用は約800万円である。退職時の年収は700万円ほどで、そんな蓄えはなかった。そこで親しい友人に片っ端から電話をかけた。君のことを親友だと思っている、結婚したら式に呼びたい、だからその時のご祝儀3万円を今前払いしてほしい、と頼んだのである。多くの友人が出してくれた。しかも実際の結婚式でも、みんな改めてご祝儀を包んでくれたという。

政治家の知り合いが全くいなかったため、各党が開く政治塾のうち、みんなの党の政治塾に1年間通って人脈を作った。都議選にはみんなの党から出馬し、最下位で当選した。

小池百合子との決別と、北区長選挙での敗北

都議を務めたのは6年間で、2期目の途中で辞職した。その間に小池百合子知事が登場した。音喜多は都民ファーストの会の立ち上げに加わり、「ファーストペンギン」と呼ばれた。小池の側近というイメージが定着した時期である。初代幹事長として、党の綱領から政策まですべて作ったという。メディア露出も多く、情報番組のほか『Qさま!!』や『ネプリーグ』などのクイズ番組にも出演した。音喜多は、都議がクイズ番組に出るのは今後ないだろうと振り返る。

音喜多によれば、小池とは当初、次のような構想を話していた。都議選に勝って都民ファーストが第一党になったら、次は区長や市長、区議会・市議会の議員を増やし、東京から国のモデルを作る。ところが大人気となった小池は、国政政党「希望の党」を立ち上げた。わざわざ国会議員を辞めて都知事になったのに、また国政に向かうのは筋が違う。音喜多はそう考え、これが小池と袂を分かつ決定的な理由になったと語る。

地方から国を変えることを自ら実践したい。そう考えた音喜多は都議を辞め、2019年の北区長選挙に出馬した。当時35歳で、対する現職は83歳の全国最高齢区長だった。年齢差は48歳。テレビで知名度もあり、勝つつもりだったが、結果は約6万票対5万票、1万票差ほどでの完敗だった。首長選挙は勢いと知名度だけでは勝てない。当選者は1人しかいない。音喜多は今も、国会議員より市長や区長になる方が難しいと考えている。

日本維新の会からの参院選出馬

落選から4年間浪人するつもりで準備していた4月、日本維新の会の議員が訪ねてきた。働き盛りの30代を浪人で過ごすのはもったいない、7月の参院選に維新から出ないか、と熱心に誘われたのである。

音喜多は何度も断った。小池に対して「国ではない」と言って袂を分かった自分が国会へ行くのは「ブーメラン」だと思ったからだ。所属政党の数も気にしていた。みんなの党、松田公太らの「日本を元気にする会」、都民ファーストの会、区長選の際に自ら作った地域政党「あたらしい党」と続き、維新は政治家になって6年半で5つ目の政党になる。

それでも最後は出馬を決めた。悔しさがあったし、浪人生活が苦しかったからだ。4年間の浪人をやりきる人は少なく、多くは途中で民間に戻るか別の道に進む。自分に続けられるのかという不安もあった。当選の見込みを聞くと5%と言われた。そのとき、自民党ではないのだから30〜40%はない、落選した人間に国政政党が手を差し伸べて5%もあるなら大チャンスだ、と言われた。音喜多はこれを「詐欺」だったと笑うが、弱っていた時期でもあり、妻も後押ししたため挑戦を決めた。

公認が出たのは6月で、選挙は7月という短期決戦だった。始発から終電まで駅に立ち続け、自転車で回るキャンペーンも行った。スポーツ新聞が面白がって記事にしてくれるので、思いつく限りのことをやったという。最後に逆転し、ぎりぎりで当選した。

浪人中の政治家は、実態として無職が多いと音喜多は言う。衆議院は解散がいつあるか分からず、解散となれば選挙は翌月である。会社員に戻ることは難しい。事業を本格的に始めようとしても、いつ辞めるか分からない人の事業にはお金が集まらず、人も雇いにくい。そのため、YouTuberやロビイングの手伝いといった単発の仕事で食いつなぐのが実情だろうと語った。

政調会長就任と、衆院選への転出

参議院議員として3年目、38歳で音喜多は維新の政務調査会長に就いた。音喜多は党のナンバー3にあたる役職で、史上最年少クラスだと説明する。政調会長は党の政策の最高責任者であり、選挙の公約作りや、国会に出てくる法案に賛成するか反対するかの判断を担う。今のところこれが間違いなく人生のピークだろう、と本人は語る。

参議院議員を務めたのは約5年半である。任期は6年で、そのまま参院選に出る道もあったが、任期満了の半年ほど前にあった衆院選に打って出た。理由の一つは党の勢いだった。維新は野党第一党を目指して地方議員を増やし、大阪府知事・市長選にも勝っていた。次は衆院選で、東京でも象徴的な候補が挑戦区を勝ち抜く必要がある。音喜多は「じゃあ俺が行きます」と手を挙げた。

手を挙げた時点では維新は絶好調で、勝つつもりだった。しかしその後、万博をめぐる問題、兵庫県知事の問題、政治資金の問題が次々に起き、半年ほどで支持が半分ほどに落ちた。「やっぱりやめます」という言葉が喉元まで出かかったが、それを抑えて出馬し、落選した。

社会保険料引き下げを掲げた参院選

今年7月の参院選に再び出るかどうかは迷った。それでももう一度挑戦したいと考えた。衆院選以来、維新が掲げてきた社会保険料を下げる改革を訴えたかったからだ。社会保険料が高すぎて若い世代や現役世代が苦しんでおり、世代間格差の是正が必要だというのが音喜多の主張である。選挙では高齢者の人数が多く投票率も高いため、このテーマを掲げると落選すると言われ続けてきた。それでも重要なテーマで、誰かが言わなければならないと考えた。

選挙中に公開した林社長とのショートドラマは、医療業界から強い反発を受けて大炎上した。一方で、1000万回ほど再生され、音喜多の言葉では「日本人の10人に1人が見る動画」になった。改選数7の選挙区で、下馬評では10番手ほどだったが、結果は8番手まで食い込んだ。落選はしたものの、若い世代ももっと頑張らなければという共感が広がったとして、音喜多はこの選挙を「負けて悔いなし」と表現する。

なお維新には、選挙で落選すると党籍がいったん外れる「自動リリース」の仕組みがある。そのため音喜多は現在、無所属になっている。

年功序列の打破という「人生をかけたい」課題

長期的な目標として、音喜多はまず世代間格差の是正を挙げた。学生時代は女性の活躍を考えていた。しかし政治の世界に入ってみると、女性も虐げられているが、若い男性もまた権力を持っていないと感じたという。権力は高齢男性に集中しすぎており、政治家の平均年齢は60歳を超えている。こういう社会には未来がない。だから権限を移し、社会保障制度のように年齢のバランスが悪い仕組みを変えたいと語る。

もう一つは、首相になって一つだけ好きなことができるなら何をするか、という想定への答えである。音喜多が選ぶのは雇用の流動化、つまり終身雇用社会の打破だ。音喜多は年功序列こそがこの国の最大の問題であり、若者と女性が活躍できない最大の理由だと考える。

年功序列のもとでは初任給が抑えられ、働いていない50代が高額の年俸を受け取り続ける。解雇できないため高給の人が残り、若者を採用できず、入社しても給料が低いまま順番待ちになる。さらに年次を積まないと昇進できないため、妊娠・出産・育児で年次を積めない時期がある女性は、仕組みとして初めから不利になる。

そこで音喜多は、一定の金額を払えば解雇できる金銭解雇の導入を主張する。本人も「めちゃくちゃ怒られる」と認めるテーマだ。それでも、雇用を流動化させてより自分にふさわしい場所を見つけられるようにすれば、若者や女性が活躍しやすくなり、日本社会はだいぶ変わる。音喜多はこれを人生をかけてやりたいことの一つだと語った。

20代へのメッセージ

最後に、視聴者に多い20代へのメッセージを求められた音喜多は、人生はマラソンだと語った。5km地点や20km地点でトップだった人が、最後までトップでいるわけではない。20代、30代はまだ5km地点くらいで、どうとでも変わりうる。今つらいと感じていても先は長く、いくらでも逆転できると信じて努力や挑戦を続けてほしい、と呼びかけた。

そして最後に「男子諸君」に向けて、女性にモテたいというモチベーションは唯一無二なので、それを信じて励んでほしいと付け加えた。モテたいという動機で政治を志した音喜多らしい締めくくりである。