パーマ屋の息子から中道改革連合代表へ――小川淳也が語る官僚時代の違和感と「逃げなかった」理由

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概要

中道改革連合の代表を務める衆議院議員・小川淳也氏が、インタビュアーの高田ふーみん氏の質問に答え、自らの半生を振り返った。香川県高松市のパーマ屋に生まれ、塾に通わず東大に現役合格し、自治省(現・総務省)に入省した。約10年で官僚を辞め、政治家になって20年余りが経つ。対談の中心にあるのは、なぜ官僚の道を捨てて政治に向かったのか、そして政治家として何をしたいのかという問いである。小川氏は、官僚組織の論理が縮小の時代と合わなくなっていることへの違和感を出発点に挙げ、人口減少と高齢化に対応する「社会モデルの転換」を自らの課題として語った。

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共働きのパーマ屋の家で育つ

小川氏の両親はともにパーマ屋を営み、80歳近い今も高松市で現役で店に立っているという。共働きで帰りが遅かったため、兄弟3人で食事をし、洗濯物を取り込み、風呂を済ませて両親の帰りを待つ幼少期だった。小川氏は自らを「庶民の子」と表現し、苦労して商売を続ける両親の背中を見て育ったと語る。

高松高校から東大、そして官僚という経歴はエリートコースに見えるが、小川氏によれば公立の小中学校には「悪いやつもいれば、おもろいやつもいる」。そこはまさに世の中の縮図だったという。

「世のため人のために働け」という父の言葉

官僚を志した背景には父親の存在がある。小川氏の説明では、父は母と結婚するために県外に出るのを諦め、祖母が営んでいたパーマ屋を母とともに継いだ。これは「俺の想像だよ」と断ったうえでの話だが、社会との関わりを自分では諦めた父の期待が、息子に大きくかかったのだろうと小川氏は見ている。

当時はリクルート事件などが起きた時代で、父は「この国の政治家は悪いやつばかりだが、官僚は立派だ。悪い政治家に影響されない立派な役人になって、世のため人のために働け」と言って小川氏を育てた。小川氏はそれを真に受け、中学・高校の頃には国のため、みんなのために働こうと本気で考えていたという。

野球部と受験勉強の両立

高校時代は野球部に所属していた。当時の高校には「野球部は勉強しなくていい、大学に行けなくても仕方ない」という空気があり、小川氏はそれが嫌で、勉強もやると決めた。朝起きて勉強し、自転車で10km離れた学校へ通い、大会前には朝練に出てから授業を受ける。授業中に眠くなるとシャープペンで自分をつついて目を覚まし、教師に「皆さん、小川君を見てみなさい」と言われたこともあったという。放課後は練習をして再び10kmを自転車で帰り、兄弟で皿洗いをし、風呂に入ってまた勉強した。トイレにも参考書を置いていた。

勉強はできた方だったと本人は言う。ただ、学校の勉強には当時から疑問もあった。国語であっても正解は一つとされるが、世の中に出ると正解は一つではないし、正解そのものがないことも多い。そうした教育でよいのかと今は思っているが、当時はそれに適応するしかなかったと振り返った。

野球はあまり上手ではなく、試合には出られたり出られなかったりした。中学3年間ベンチだったという高田氏に対し、小川氏は野球部を社会の象徴として語った。試合に出られるのは9人だけで、残りはベンチを温め、声を出し、ボールを拾い、道具を運び、スタンドから応援する。目立つ人も目立たない人もいて、目立たない人がいてこそ社会が成り立つ。出られないことも修行だというのが小川氏の考えである。

高松高校から東大に現役で合格する生徒は数人程度だと小川氏は言う。夏の大会で引退してからでは普通は間に合わない。それでも合格できたのは、現役時代にこつこつと基礎を積み上げていたことが秋以降の追い込みに生きたからだと小川氏は見ている。塾には通わず、参考書と問題演習で勉強した。武田塾の出身で京大に合格した高田氏が反応すると、小川氏は武田塾の塾長・林さんと対談したことがあり、発想が合ったと話した。効率よくやろうとすれば、授業より自習、講座より問題演習になるという考え方である。

東京での戸惑いと大学生活

上京して驚いたこととして、小川氏は、みんなが標準語を話すこと、うどん屋がないこと、香川のスーパー「マルナカ」がないこと、電車を乗り過ごしても3分で次が来ることを挙げた。当初は地下鉄やJRの乗り換え方がわからず、いちいち駅を出て切符を買い直していたという。

大学ではまじめな学生で、授業にも出ていたが「つまんなかったけどね」と言う。課外活動では野球の同好会に入り、アルバイトにも力を入れた。北海道の搾乳牧場、新橋の寿司屋、自動車工場で働き、塾講師も一時期週1回ほどしていた。時給は塾講師の方が良かったが、将来を見据えて一次・二次・三次産業の現場をあえて経験しようとしたという。

牧場体験では北海道庁に直接電話し、働かせてほしいと頼んだ。「君は牧場の子か」と聞かれて「パーマ屋の子だ」と答えたところ、道庁は数日かけて受け入れ先を見つけてくれたという。資金がなかったため青春18きっぷで上野から帯広近くまで向かい、1か月住み込みで働いた。

自治省を選んだ理由と沖縄での経験

公務員試験には一度で合格し、当時の自治省に入省した。自治省を選んだのは、東京に出て自分が「地方の人間」だと実感したからだという。東京の人が大勢を占めているように見えても、実際には誰もがそれぞれの故郷を持ち、その土地の言葉や文化、歴史がある。中央で働くなら各地を転々とし、地方の立場から日本の成り立ちを考え、地方の役に立ちたいと考えた。当時の自治省は、2〜3年ごとに中央省庁と都道府県や市役所への出向を繰り返す人事だった。

最初の赴任先には、自分にとって一番遠く、一番知らない地域として沖縄を選んだ。高校の同級生だった妻と結婚し、社会生活と家庭生活を沖縄で始めた。在任中、小学6年生の女子児童が米兵に暴行される事件が起き、そこから普天間や辺野古の問題が持ち上がっていく。小川氏は妻と2人で、10万人ほどが集まった県民の抗議集会に参加したという。

官僚の立場でそうした場に行くのは難しくなかったのかと問われると、小川氏は当時の県政の事情を説明した。沖縄では保守系と野党系の県政が交互に入れ替わっており、小川氏が仕えた大田県政は野党寄りだった。県職員もみな怒っていて、集会に行った職員はたくさんいたと思うという。

妻は香川大学を出て教員をしていたが、仕事を辞めて同行した。小川氏は「気の毒だよね」「家族にとっては被害以外の何者でもない」と語った。その後は中央省庁に戻ったり、愛知県春日井市役所に出向したり、イギリスで1年過ごしたりと、1〜2年ごとに転勤した。

月300時間の残業と「組織防衛」への違和感

霞が関の勤務は過酷で、残業は月300時間ほどだったという。習志野の宿舎に住み、深夜3時にタクシーで帰宅して4時頃に着き、風呂に入って2時間眠り、駅まで30分歩いて始発に乗る。そうした生活を1年半続けた。

では、父の言っていた「立派な官僚」像は実際どうだったのか。小川氏は、父の言葉は昭和の右肩上がりの時代には当てはまっていたのだろうと語る。小川氏が社会に出たのは1994年で、バブル崩壊後のいわゆるロスジェネ世代にあたる。世の中が本格的な縮小均衡に入ろうとする入り口の時期だった。

小川氏の分析によれば、経済が成長し人口も増えていた昭和には、各省庁が予算を増やしたい、権限を広げたい、天下り先を確保したいと主張しても、それが全体の利益と矛盾しなかった。部分の利益の主張と全体最適が両立した時代である。しかし平成以降のダウンサイジングの時代には、部分が自らの利益を主張することはほぼ常に全体最適と矛盾する。だからこそ政治家が先に全体像を描き、各部分に「こういう理由で社会のモデルを変えざるを得ない」と説明して痛み分けを頼まなければならない。

ところが官僚組織では、予算と権限と天下り先、つまり組織防衛が最優先だった。日本が良くなっても、自分の省庁の権限や予算が削られれば自分の人生は安泰ではない。小川氏は、この国は今もその原理で動いているから行き詰まっているのだと主張し、それを正す政治が必要だと語った。小泉氏、安倍氏、高市氏の政治がこの点でどうだったのかが本来問われるべきなのに、そうなっていないとも述べた。

「おかしい」と感じたのは3日目、それでも10年待った

小川氏によれば、組織が何を最優先しているかは入省3日ほどで感じ取れたという。人間にはそれくらいの感性がある。ただ、3日で辞めるわけにはいかない。せっかく勉強して入ったのだから10年は我慢しようと決めた。自分が抱いた疑問が本当に正しいのか、正しいならどうすればよいのか。それに一定の確信が持てるまでは辛抱すべきだと考えたという。当時はそこまで言葉にできていなかったが、何かがおかしい、変えるべきは政治かもしれない、官僚に任せていれば国が良くなるほど状況は甘くないと感じていた。

直接のきっかけは、高校の同級生で新聞記者になっていた鮫島氏(現在は「鮫島タイムス」でYouTubeを発信)との再会だった。当時、菅直人氏の番記者をしていた鮫島氏は、小川氏の問題意識を聞いて「菅さんに一度紹介するから、自分でやったらどうか」と勧めた。自民党政権に疑問を感じていた小川氏は、それに代わる選択肢を作ろうと民主党の門を叩いた。

家族に賛成する人は誰もいなかった。小川氏は「俺が逆でも反対する」と言う。選挙に出ることは自分の名前と人生を祭壇に差し出すようなもので、私人としての人生を半ば放棄することに等しく、家族や親、兄弟、親戚まで巻き込む。周囲にとってこれほどの不幸はないという認識である。当時、子どもは3歳と5歳だった。

香川1区で平井家と戦う

出馬した香川1区の相手は、平井氏だった。祖父も父も大臣を務め、本人も大臣経験者で、一族は西日本放送などのテレビ局や新聞社を持っている。小川氏はそうした一族と「パーマ屋の息子」が戦うのは歯が立たない戦いだったと言い、相手がどれほど強いかは当時知らず、やってみるまでわからなかったと振り返った。

そうしたメディアで平井氏に批判的な報道が出たことはあるかと問われると、小川氏は「出たことないよ」と答えた。自分が言うのはどうかとしつつ、当事者の感想として、つらく悲しい記事が多かったと述べている。

落選中の浪人期間は2〜3年ほどで、当時は党からの活動交付金と月20万円の生活支援金を受けていたという。活動は街頭、集会、挨拶回りの三つに尽きる。小川氏が最も有意義だったと振り返るのは、この落選中に自分の感覚や価値観が更新されたことだ。それまでは自分の思いを伝えることが大事だと考えていたが、それ以上に人の声を聞くことが大事だと思うようになったという。

民主党政権の挫折への悔い

その後、比例復活で初当選し、民主党の政権交代、安倍政権の長期化、希望の党をめぐる混乱などを経験した。政党の動きに振り回された時期について問われると、小川氏は民主党政権が国民の期待に応えられずに挫折したことを語った。その後に安倍一強が続いた。あのとき民主党政権が期待に十分応えていれば、今頃どんな社会や政治になっていたかと考えると、「悔しく、情けなく、申し訳ない思い」は今も消えないという。郵便局で働く両親が当時民主党を強く応援していたという高田氏の話を受け、小川氏は「あの時の罪は大きい」「今でも申し訳ない」と重ねた。

人口減少、社会保障、食料とエネルギー――三つのモデルチェンジ

どんな社会を目指すのかと問われると、小川氏は事務所に置いてある人口動態のグラフを示して説明した。江戸時代から続く人口曲線は、2000年代初頭を境にジェットコースターのように急降下しており、これは歴史上初めてだという。やがて全ての国がそうなり、中国も現在の14億人から今世紀中に7億人まで減ると小川氏は語る。その意味で日本は「世界の先頭ランナー」だという。

もう一つのグラフは年齢構成の変化である。高齢化率が低かった昭和には、若い世代が少ない負担で限られた数の高齢者を支えられた。しかし今はそれが無理になっている。

こうした認識から、小川氏はやりたいことを三つ挙げた。第一に、人口が毎年100万人減る時代に経済と地域社会を維持する新しいモデルを作ること。第二に、人口構成が変わっても信頼できる持続可能な社会保障制度を作るため、給付と負担の構造を変えること。第三に、食料とエネルギーの国産化である。小川氏は、アベノミクス以前に一度1ドル70円台だった円が今は160円ほどになり、円の価値は半分以下になったと指摘する。そのうえで、中東情勢が緊迫するなかでもエネルギーの9割を輸入に頼り、食料も7割近くを海外から買わなければならない現状を問題にした。これらをやらなければ次の時代に進めないという。

大きな政府・福祉国家を志向しているのかと問われると、小川氏は「小さな政府って無理だよ」と答えた。毎年100万人ずつ人口が減り、高齢化率は40%で、国民100人のうち40人が年金を受け取っている。現役世代の社会保険料は昔は収入の3%だったのが今は30%になっている。いずれも小川氏が挙げた数字である。金融緩和や、AIなど生産側への投資は大事だとしながらも、それでこの課題が解決するのかと問い、構造そのもののモデルチェンジに本格的に取り組む政治家も政党も存在しないと述べた。いずれ世界中が同じ問題に直面するので、先んじてモデルチェンジを成し遂げた日本が世界に誇れるモデルになることが自分の夢だという。

そのモデルはまだ試行錯誤の段階かと問われると、小川氏は「ほぼある」と答えた。ただし党の代表である以上、最低限の党内議論とコンセンサスが必要で、一人で先走ってよい立場ではないため、慎重に進めたいとしている。

800票差の小選挙区勝利と、代表選に出た理由

中道改革連合が選挙で苦戦するなか、小川氏は小選挙区で勝ち残った。その差は800票ほどだったという。比例復活から小選挙区で勝てるようになった経緯について、小川氏はある調査を紹介した。世襲候補と全くの新人は、知名度、資金力、後援会組織、支持団体の面で最初は傾いた土俵で勝負しており、それが互角になるまでに6期20年かかるという内容だ。自分のケースはその仮説にそのまま当てはまり、20年経ってようやく平井氏と互角の勝負ができるようになったと小川氏は語る。支えてきたのは無償のボランティアばかりで、自分を支援して得をしようとする人は一人もいないという。

代表選については、こんなに大変だとは思わなかったが、香川1区で挑戦を始めたときと同じで、やってみなければわからないと述べた。なぜ出たのかと問われると、答えは「逃げられなかった」の一言だという。どうなるかわからず、これで終わるかもしれない。それでも逃げるという選択肢はなかった。一方で、自分が党をなんとかしたいのではなく、なんとかしたいのはこの国の社会であり、政党は国民にとってそのための道具としてあるべきだとも語った。立憲民主党で幹事長や政調会長を務めて多くを学んだが、思い切ったことをやるにはトップに立つしかないと感じていたという。

代表としての今後の展望を問われると、「明確にはない」と答えた。できることは、国家や社会に対する忠誠心と初心を紛れのないものにすることだけで、どこで果てるかはわからないという。

「総理大臣になりたいと思ったことはない」

ドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』に触れ、総理大臣になりたいかと問われると、小川氏は「全くない」と答えた。あのタイトルは大島監督が付けたもので、大島監督の作品だから自分とは関係ないという。政治家になりたいと思ったことすら一度もないと言い、やれることをやり切ったか、これ以上は自分にはやれないと見切ったか、どちらかの時点で一刻も早く引退したいと語った。私的なことをどれだけ犠牲にし、家族や親兄弟にどれだけ迷惑をかけてきたかを考えれば、私人に戻って残りの人生を送れるに越したことはないという。ずっと政治に関わってほしいという高田氏の言葉にも、「老害になるべきでもない」と応じた。

20〜30代へのメッセージ

最後に、チャンネルの主な視聴者である20〜30代に向けて、小川氏は公的なことと私的なことに分けて語った。公的には、人口が減っても大丈夫な経済と地域社会を作ること、高齢化が進んでも安心できるように社会保障の負担と給付の構造を見直すこと、食料とエネルギーの国産化を最大の経済・社会政策として実現することを改めて挙げた。

私的には、20〜30代は2100年まで生きる可能性があると指摘した。そのときの地球環境や世界の平和、日本社会がどうなっているかはわからないが、できるだけ良くしたいという。そのうえで、20〜30代はどんな仕事をしてもしなくても社会に胸を借りる期間なので、思い切って伸び伸びやってほしいと述べた。やがて社会の主力になり、子どもを育てたり孫を持ったりする人もいる。自分の命が終わる2100年頃にどんな社会や世界になっているのか、次の世代にどうバトンを渡す当事者になるのかを、時々思い描いてほしいと語り、対談を締めくくった。