パーマ屋の息子から中道改革連合代表へ――小川淳也が語る官僚時代の違和感と「逃げなかった」理由
トマホークTomahawk中道改革連合の代表を務める衆議院議員・小川淳也氏が、インタビュアーの高田ふーみん氏の質問に答え、自らの半生を振り返った。香川県高松市のパーマ屋に生まれ、塾に通わず東大に現役合格し、自治省(現・総務省)に入省した。約10年で官僚を辞め、政治家になって20年余りが経つ。対談の中心にあるのは、なぜ官僚の道を捨てて政治に向かったのか、そして政治家として何をしたいのかという問いである。小川氏は、官僚組織の論理が縮小の時代と合わなくなっていることへの違和感を出発点に挙げ、人口減少と高齢化に対応する「社会モデルの転換」を自らの課題として語った。
共働きのパーマ屋の家で育つ
小川氏の両親はともにパーマ屋を営み、80歳近い今も高松市で現役で店に立っているという。共働きで帰りが遅かったため、兄弟3人で食事をし、洗濯物を取り込み、風呂を済ませて両親の帰りを待つ幼少期だった。小川氏は自らを「庶民の子」と表現し、苦労して商売を続ける両親の背中を見て育ったと語る。
高松高校から東大、そして官僚という経歴はエリートコースに見えるが、小川氏によれば公立の小中学校には「悪いやつもいれば、おもろいやつもいる」。そこはまさに世の中の縮図だったという。
「世のため人のために働け」という父の言葉
官僚を志した背景には父親の存在がある。小川氏の説明では、父は母と結婚するために県外に出るのを諦め、祖母が営んでいたパーマ屋を母とともに継いだ。これは「俺の想像だよ」と断ったうえでの話だが、社会との関わりを自分では諦めた父の期待が、息子に大きくかかったのだろうと小川氏は見ている。
当時はリクルート事件などが起きた時代で、父は「この国の政治家は悪いやつばかりだが、官僚は立派だ。悪い政治家に影響されない立派な役人になって、世のため人のために働け」と言って小川氏を育てた。小川氏はそれを真に受け、中学・高校の頃には国のため、みんなのために働こうと本気で考えていたという。
野球部と受験勉強の両立
高校時代は野球部に所属していた。当時の高校には「野球部は勉強しなくていい、大学に行けなくても仕方ない」という空気があり、小川氏はそれが嫌で、勉強もやると決めた。朝起きて勉強し、自転車で10km離れた学校へ通い、大会前には朝練に出てから授業を受ける。授業中に眠くなるとシャープペンで自分をつついて目を覚まし、教師に「皆さん、小川君を見てみなさい」と言われたこともあったという。放課後は練習をして再び10kmを自転車で帰り、兄弟で皿洗いをし、風呂に入ってまた勉強した。トイレにも参考書を置いていた。
勉強はできた方だったと本人は言う。ただ、学校の勉強には当時から疑問もあった。国語であっても正解は一つとされるが、世の中に出ると正解は一つではないし、正解そのものがないことも多い。そうした教育でよいのかと今は思っているが、当時はそれに適応するしかなかったと振り返った。
野球はあまり上手ではなく、試合には出られたり出られなかったりした。中学3年間ベンチだったという高田氏に対し、小川氏は野球部を社会の象徴として語った。試合に出られるのは9人だけで、残りはベンチを温め、声を出し、ボールを拾い、道具を運び、スタンドから応援する。目立つ人も目立たない人もいて、目立たない人がいてこそ社会が成り立つ。出られないことも修行だというのが小川氏の考えである。
高松高校から東大に現役で合格する生徒は数人程度だと小川氏は言う。夏の大会で引退してからでは普通は間に合わない。それでも合格できたのは、現役時代にこつこつと基礎を積み上げていたことが秋以降の追い込みに生きたからだと小川氏は見ている。塾には通わず、参考書と問題演習で勉強した。武田塾の出身で京大に合格した高田氏が反応すると、小川氏は武田塾の塾長・林さんと対談したことがあり、発想が合ったと話した。効率よくやろうとすれば、授業より自習、講座より問題演習になるという考え方である。
東京での戸惑いと大学生活
上京して驚いたこととして、小川氏は、みんなが標準語を話すこと、うどん屋がないこと、香川のスーパー「マルナカ」がないこと、電車を乗り過ごしても3分で次が来ることを挙げた。当初は地下鉄やJRの乗り換え方がわからず、いちいち駅を出て切符を買い直していたという。
大学ではまじめな学生で、授業にも出ていたが「つまんなかったけどね」と言う。課外活動では野球の同好会に入り、アルバイトにも力を入れた。北海道の搾乳牧場、新橋の寿司屋、自動車工場で働き、塾講師も一時期週1回ほどしていた。時給は塾講師の方が良かったが、将来を見据えて一次・二次・三次産業の現場をあえて経験しようとしたという。
牧場体験では北海道庁に直接電話し、働かせてほしいと頼んだ。「君は牧場の子か」と聞かれて「パーマ屋の子だ」と答えたところ、道庁は数日かけて受け入れ先を見つけてくれたという。資金がなかったため青春18きっぷで上野から帯広近くまで向かい、1か月住み込みで働いた。
自治省を選んだ理由と沖縄での経験
公務員試験には一度で合格し、当時の自治省に入省した。自治省を選んだのは、東京に出て自分が「地方の人間」だと実感したからだという。東京の人が大勢を占めているように見えても、実際には誰もがそれぞれの故郷を持ち、その土地の言葉や文化、歴史がある。中央で働くなら各地を転々とし、地方の立場から日本の成り立ちを考え、地方の役に立ちたいと考えた。当時の自治省は、2〜3年ごとに中央省庁と都道府県や市役所への出向を繰り返す人事だった。
最初の赴任先には、自分にとって一番遠く、一番知らない地域として沖縄を選んだ。高校の同級生だった妻と結婚し、社会生活と家庭生活を沖縄で始めた。在任中、小学6年生の女子児童が米兵に暴行される事件が起き、そこから普天間や辺野古の問題が持ち上がっていく。小川氏は妻と2人で、10万人ほどが集まった県民の抗議集会に参加したという。
官僚の立場でそうした場に行くのは難しくなかったのかと問われると、小川氏は当時の県政の事情を説明した。沖縄では保守系と野党系の県政が交互に入れ替わっており、小川氏が仕えた大田県政は野党寄りだった。県職員もみな怒っていて、集会に行った職員はたくさんいたと思うという。
妻は香川大学を出て教員をしていたが、仕事を辞めて同行した。小川氏は「気の毒だよね」「家族にとっては被害以外の何者でもない」と語った。その後は中央省庁に戻ったり、愛知県春日井市役所に出向したり、イギリスで1年過ごしたりと、1〜2年ごとに転勤した。
月300時間の残業と「組織防衛」への違和感
霞が関の勤務は過酷で、残業は月300時間ほどだったという。習志野の宿舎に住み、深夜3時にタクシーで帰宅して4時頃に着き、風呂に入って2時間眠り、駅まで30分歩いて始発に乗る。そうした生活を1年半続けた。
では、父の言っていた「立派な官僚」像は実際どうだったのか。小川氏は、父の言葉は昭和の右肩上がりの時代には当てはまっていたのだろうと語る。小川氏が社会に出たのは1994年で、バブル崩壊後のいわゆるロスジェネ世代にあたる。世の中が本格的な縮小均衡に入ろうとする入り口の時期だった。
小川氏の分析によれば、経済が成長し人口も増えていた昭和には、各省庁が予算を増やしたい、権限を広げたい、天下り先を確保したいと主張しても、それが全体の利益と矛盾しなかった。部分の利益の主張と全体最適が両立した時代である。しかし平成以降のダウンサイジングの時代には、部分が自らの利益を主張することはほぼ常に全体最適と矛盾する。だからこそ政治家が先に全体像を描き、各部分に「こういう理由で社会のモデルを変えざるを得ない」と説明して痛み分けを頼まなければならない。
ところが官僚組織では、予算と権限と天下り先、つまり組織防衛が最優先だった。日本が良くなっても、自分の省庁の権限や予算が削られれば自分の人生は安泰ではない。小川氏は、この国は今もその原理で動いているから行き詰まっているのだと主張し、それを正す政治が必要だと語った。小泉氏、安倍氏、高市氏の政治がこの点でどうだったのかが本来問われるべきなのに、そうなっていないとも述べた。
「おかしい」と感じたのは3日目、それでも10年待った
小川氏によれば、組織が何を最優先しているかは入省3日ほどで感じ取れたという。人間にはそれくらいの感性がある。ただ、3日で辞めるわけにはいかない。せっかく勉強して入ったのだから10年は我慢しようと決めた。自分が抱いた疑問が本当に正しいのか、正しいならどうすればよいのか。それに一定の確信が持てるまでは辛抱すべきだと考えたという。当時はそこまで言葉にできていなかったが、何かがおかしい、変えるべきは政治かもしれない、官僚に任せていれば国が良くなるほど状況は甘くないと感じていた。
直接のきっかけは、高校の同級生で新聞記者になっていた鮫島氏(現在は「鮫島タイムス」でYouTubeを発信)との再会だった。当時、菅直人氏の番記者をしていた鮫島氏は、小川氏の問題意識を聞いて「菅さんに一度紹介するから、自分でやったらどうか」と勧めた。自民党政権に疑問を感じていた小川氏は、それに代わる選択肢を作ろうと民主党の門を叩いた。
家族に賛成する人は誰もいなかった。小川氏は「俺が逆でも反対する」と言う。選挙に出ることは自分の名前と人生を祭壇に差し出すようなもので、私人としての人生を半ば放棄することに等しく、家族や親、兄弟、親戚まで巻き込む。周囲にとってこれほどの不幸はないという認識である。当時、子どもは3歳と5歳だった。
香川1区で平井家と戦う
出馬した香川1区の相手は、平井氏だった。祖父も父も大臣を務め、本人も大臣経験者で、一族は西日本放送などのテレビ局や新聞社を持っている。小川氏はそうした一族と「パーマ屋の息子」が戦うのは歯が立たない戦いだったと言い、相手がどれほど強いかは当時知らず、やってみるまでわからなかったと振り返った。
そうしたメディアで平井氏に批判的な報道が出たことはあるかと問われると、小川氏は「出たことないよ」と答えた。自分が言うのはどうかとしつつ、当事者の感想として、つらく悲しい記事が多かったと述べている。
落選中の浪人期間は2〜3年ほどで、当時は党からの活動交付金と月20万円の生活支援金を受けていたという。活動は街頭、集会、挨拶回りの三つに尽きる。小川氏が最も有意義だったと振り返るのは、この落選中に自分の感覚や価値観が更新されたことだ。それまでは自分の思いを伝えることが大事だと考えていたが、それ以上に人の声を聞くことが大事だと思うようになったという。
民主党政権の挫折への悔い
その後、比例復活で初当選し、民主党の政権交代、安倍政権の長期化、希望の党をめぐる混乱などを経験した。政党の動きに振り回された時期について問われると、小川氏は民主党政権が国民の期待に応えられずに挫折したことを語った。その後に安倍一強が続いた。あのとき民主党政権が期待に十分応えていれば、今頃どんな社会や政治になっていたかと考えると、「悔しく、情けなく、申し訳ない思い」は今も消えないという。郵便局で働く両親が当時民主党を強く応援していたという高田氏の話を受け、小川氏は「あの時の罪は大きい」「今でも申し訳ない」と重ねた。
人口減少、社会保障、食料とエネルギー――三つのモデルチェンジ
どんな社会を目指すのかと問われると、小川氏は事務所に置いてある人口動態のグラフを示して説明した。江戸時代から続く人口曲線は、2000年代初頭を境にジェットコースターのように急降下しており、これは歴史上初めてだという。やがて全ての国がそうなり、中国も現在の14億人から今世紀中に7億人まで減ると小川氏は語る。その意味で日本は「世界の先頭ランナー」だという。
もう一つのグラフは年齢構成の変化である。高齢化率が低かった昭和には、若い世代が少ない負担で限られた数の高齢者を支えられた。しかし今はそれが無理になっている。
こうした認識から、小川氏はやりたいことを三つ挙げた。第一に、人口が毎年100万人減る時代に経済と地域社会を維持する新しいモデルを作ること。第二に、人口構成が変わっても信頼できる持続可能な社会保障制度を作るため、給付と負担の構造を変えること。第三に、食料とエネルギーの国産化である。小川氏は、アベノミクス以前に一度1ドル70円台だった円が今は160円ほどになり、円の価値は半分以下になったと指摘する。そのうえで、中東情勢が緊迫するなかでもエネルギーの9割を輸入に頼り、食料も7割近くを海外から買わなければならない現状を問題にした。これらをやらなければ次の時代に進めないという。
大きな政府・福祉国家を志向しているのかと問われると、小川氏は「小さな政府って無理だよ」と答えた。毎年100万人ずつ人口が減り、高齢化率は40%で、国民100人のうち40人が年金を受け取っている。現役世代の社会保険料は昔は収入の3%だったのが今は30%になっている。いずれも小川氏が挙げた数字である。金融緩和や、AIなど生産側への投資は大事だとしながらも、それでこの課題が解決するのかと問い、構造そのもののモデルチェンジに本格的に取り組む政治家も政党も存在しないと述べた。いずれ世界中が同じ問題に直面するので、先んじてモデルチェンジを成し遂げた日本が世界に誇れるモデルになることが自分の夢だという。
そのモデルはまだ試行錯誤の段階かと問われると、小川氏は「ほぼある」と答えた。ただし党の代表である以上、最低限の党内議論とコンセンサスが必要で、一人で先走ってよい立場ではないため、慎重に進めたいとしている。
800票差の小選挙区勝利と、代表選に出た理由
中道改革連合が選挙で苦戦するなか、小川氏は小選挙区で勝ち残った。その差は800票ほどだったという。比例復活から小選挙区で勝てるようになった経緯について、小川氏はある調査を紹介した。世襲候補と全くの新人は、知名度、資金力、後援会組織、支持団体の面で最初は傾いた土俵で勝負しており、それが互角になるまでに6期20年かかるという内容だ。自分のケースはその仮説にそのまま当てはまり、20年経ってようやく平井氏と互角の勝負ができるようになったと小川氏は語る。支えてきたのは無償のボランティアばかりで、自分を支援して得をしようとする人は一人もいないという。
代表選については、こんなに大変だとは思わなかったが、香川1区で挑戦を始めたときと同じで、やってみなければわからないと述べた。なぜ出たのかと問われると、答えは「逃げられなかった」の一言だという。どうなるかわからず、これで終わるかもしれない。それでも逃げるという選択肢はなかった。一方で、自分が党をなんとかしたいのではなく、なんとかしたいのはこの国の社会であり、政党は国民にとってそのための道具としてあるべきだとも語った。立憲民主党で幹事長や政調会長を務めて多くを学んだが、思い切ったことをやるにはトップに立つしかないと感じていたという。
代表としての今後の展望を問われると、「明確にはない」と答えた。できることは、国家や社会に対する忠誠心と初心を紛れのないものにすることだけで、どこで果てるかはわからないという。
「総理大臣になりたいと思ったことはない」
ドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』に触れ、総理大臣になりたいかと問われると、小川氏は「全くない」と答えた。あのタイトルは大島監督が付けたもので、大島監督の作品だから自分とは関係ないという。政治家になりたいと思ったことすら一度もないと言い、やれることをやり切ったか、これ以上は自分にはやれないと見切ったか、どちらかの時点で一刻も早く引退したいと語った。私的なことをどれだけ犠牲にし、家族や親兄弟にどれだけ迷惑をかけてきたかを考えれば、私人に戻って残りの人生を送れるに越したことはないという。ずっと政治に関わってほしいという高田氏の言葉にも、「老害になるべきでもない」と応じた。
20〜30代へのメッセージ
最後に、チャンネルの主な視聴者である20〜30代に向けて、小川氏は公的なことと私的なことに分けて語った。公的には、人口が減っても大丈夫な経済と地域社会を作ること、高齢化が進んでも安心できるように社会保障の負担と給付の構造を見直すこと、食料とエネルギーの国産化を最大の経済・社会政策として実現することを改めて挙げた。
私的には、20〜30代は2100年まで生きる可能性があると指摘した。そのときの地球環境や世界の平和、日本社会がどうなっているかはわからないが、できるだけ良くしたいという。そのうえで、20〜30代はどんな仕事をしてもしなくても社会に胸を借りる期間なので、思い切って伸び伸びやってほしいと述べた。やがて社会の主力になり、子どもを育てたり孫を持ったりする人もいる。自分の命が終わる2100年頃にどんな社会や世界になっているのか、次の世代にどうバトンを渡す当事者になるのかを、時々思い描いてほしいと語り、対談を締めくくった。
バンと置くと、自分も映画化されてみてえな。若手TVの高田ふーみんです。ということで、自己紹介お願いいたします。
はい、小川淳也です。中道改革連合代表を務めております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。野党第一党の党首がトマホークチャンネルに。うわ、[笑い]嬉しい。
いやいや、そうすね。まあ、中道の方もたくさん出てくださってますけど。各党の人、いろんな人が出てくださって。玉木さんも吉村さんも藤田さんも色々出てくださったりしてますけど。
いや、すごい。このチャンネルは人生を深掘りさせていただくチャンネルってことで。[笑い]フランクな方、めちゃめちゃフランクで驚いてるんですけど。
そう、なんか俺、硬いイメージらしいね。話が長いとか。[笑い]
ちょっと小川淳也とか、ちょっとネットで色々言われてたりとか。結論がわかんねえぞ、[笑い]とか。すごいめちゃめちゃ話しやすいと。[笑い]
いや、実はそうなのよ。本当はそう。
ご両親が美容師さん。パーマ屋ね。パーマ屋さん。お2人ともです。今でも80近いけど、現役でお店やってる。香川県の高松市で。高松で。
庶民の子。ああ、そこに持ってるよ。[笑い]苦労して商売してる両親の背中をずっと見て育ってるから。
共働きだったから帰りも遅いしね。兄弟3人でご飯炊いたり、洗濯物取り入れたり、お風呂して、夜遅いの帰り待ってたから。そういう幼少時で。
高松高校、東大、官僚っていうと結構エリートコースみたいなイメージがあるんですけど。そんなイメージだね。[笑い]小学校、中学校とか本当に苦労されて。
本当に、だから公立。だから悪いやつもいれば、おもろいやつもいれば、本当に世の中だよね。
もう勉強めちゃめちゃ頑張ってたみたいな感じですか?
うんとね、高校時代は野球部だったから。あ、そうなんですね。それで当時ね、俺あんまり「さん」って言われるの嫌なんですけど。
野球部は勉強しないっていうか、しなくていい。大学に行けなくてもしょうがない。っていう、なんとなくそういうカルチャーあったんだよ。俺それ嫌だよ。野球一生懸命やるんだけど勉強もやろうと。すっげえ苦労してた。
朝起きて勉強して、10km自転車で学校行って。遠。朝、大会前とか特に朝練やって、授業に出て、授業中寝ては寝ちゃった。[笑い]
居眠り議員の方やった。あ、違うか。議員になる前やった。
授業中さ、眠いとよくシャーペンで目突いてた。いや、スパルタ、スパルタっていうか、なんかすごい。そしたら先生がさ、「皆さん、小川君見てみなさい。眠いたびに目突いてる」。[笑い]そういう感じだった。[笑い]
で、終わったら野球の練習して、で、また10km家に帰って、練習して、で、勉強して、ご飯食べて、皿洗い兄弟でやって、風呂に入って勉強して、寝て起きて勉強して、トイレにも参考書あったからね。そういうだった。
小中学生時代も野球部みたいな。小中、野球部。で、その時も勉強頑張られてて、みたいな。小中はあんまりしてない。あ、そうなんです。
でも高校入るの大変じゃないですか?えっとね、それは本当になんちゅうか、ちょ、これ以上言うと。あ、ちょっとなるほど。[笑い]
本当に幼少期からお勉強得意ではあったと言いますか?割とできた方だろうね。
でもさ、当時はさ、今でもそうだろうけど正解が1つなんよ。勉強はそうですね。数学にせよ、社会にせよ、国語にせよさ、国語の正解1つ、俺今でも疑問だけど。見方によれば正解じゃないかと思うのいっぱいあったじゃん。でも正解は1つだろ。
でも世の中に出ると正解1つじゃないよね。そうですね。ていうか正解そのものがないよね。だからそんな教育でいいのかと今思ってるよ。思ってるけど当時はそうだったし、それに適応しなきゃいけないと。いう程度の意味だけど、割とできた。[笑い]
勉強そのものにちょっと疑問は抱きつつも。そう。世の中への興味とかも昔からあったんですか?子供の頃から。
えっとね、それだから、うちのパーマ屋の親父がお袋と結婚するために県外に出るの諦めて、お袋と一緒に、パーマ屋をばあちゃんがやってたから継いだのよ。
そうすると多分、俺の想像だよ。親父からすると、社会との関わりを、自分でお袋と一緒になるために諦めて、やりたかったかどうかわかんないパーマの仕事をやったと。親父はね、多分ね。
そうすると息子にはさ、これまた過大な期待がかかるわけよ。世のため人のために働けみたいなね。
で、この国の政治家は悪いやつばっかりだと。当時、リクルート事件からさ、聞いたことあるだろ、お前。で、官僚、お役人が立派だと。だからお前もああいう悪い政治家に影響されない立派なお役人になって、世のため人のために働けと言われて育ったわけ。
そうするとさ、真に受けるじゃん。それでそうしようと幼少期に思うんだよね。
ええ、もう幼少期から官僚志望だったんですか?幼少期?そうね、中学高校から、国のために働くぞと。みんなのために働こう。世の中のために働こう。[笑い]本気でそう思ってた。
ちなみに野球とかも得意だったりしたんですか?あんまり上手な方じゃなかったね。だから試合は正直、高校の時とか特に出れたり出れなかったり。まあ、でも出れないのもまた修行じゃん。
僕も淡路島で野球をしてたんですけど、もうずっとベンチで。そう。高校3年間。えっと、中学3年間。中学3年間。えらい。おお、やった。なぜか認められた。[笑い]
これさ、所詮9人しか出られないわけよ。そうですね。で、チームメート何人いたの?えっと、20〜30人ですね。だろ?
そうするとさ、やっぱりベンチ温める、声をかける、ボール拾いに行く、グローブとかバットを引き上げたり持ってったりする。ましてやベンチにも入れないこともあるからね。スタンドから応援する。そう、全部あっての社会じゃん。
ああ、なるほど。野球部そのものが、それは象徴なんだよ。全部役割があっての社会なんだ。目立つ人もいれば目立たない人もいるけど、目立たない人あっての社会だっていう。
だからそういう意味で、ちょっとなんて言うのかな、あんまり格好つけるつもりもないんだけど、損はないよ。
で、その野球も頑張りながら高松高校で勉強も頑張って。でも東大受かるって高松高校でもかなりトップじゃないと難しいすよね。現役合格する人って3人とか5人。
夏の大会終わると引退するでしょ。それからは猛勉強するじゃん。でも普通間に合わないですよ。
うん。だからそれは現役野球部時代にコツコツと基礎を怠らないようにしたことが、秋以降の、なんて言うのかな、スタートダッシュ、追い込みに役立った気がするね。
あそこでもし空白でサボってたら1からじゃん。そこで培ったある種の基礎体力が、その後の伸びに繋がった気はする。
参考書で勉強みたいな。参考書、問題集。塾には行ってない。塾とかそういうとこには行かれてない。塾には行ってない。隙間時間で。すごいすね。[笑い]高松高校、塾なし、東大現役合格ですか?そう。うわ、すごい。
この間、何年か、1年。去年、当時かな。武田塾ってわかる?あ、はい。いや、僕も武田塾の勉強法で京都大学に合格して。そうか。
武田塾の塾長とさ、あの、林さんと対談してんだ、俺。[笑い]その時にさ、勉強法とか色々話しちゃってるけど、まあ発想が合うよね。
管理のですもんね。管理ね。効率よくやろうと思うと、やっぱ授業より自習。講座より問題。効率よくやろうとすればどうしてもそうなるよね。奇遇でしょ。[咳払い]
東大は法学部に行きたかったってことですか?そう、そう。官僚なりたいから。
東大行って全国から優秀な人たちも集まるわけじゃないですか。なんかその東大時代の仲間との思い出とか、結構香川と東京の違いでびっくりしたこととか。
東京に出てびっくりしたのは、みんな標準語。喋り方がね。うどん屋がない。スーパー丸中がない。そうですね、香川にありますけど。[笑い]
それと電車が乗り過ごしても3分で来る。ああ、確かに。琴電とかだと本数少ないですもんね。
そう。だから俺、地下鉄とかJRとか当時乗り換えるのにやり方わかんなくて、1回1回駅出て切符買って乗り換えてたからね。あ、なるほどね。[笑い]
学生時代どういうキャラだったんですか?真面目。野球部の真面目な感じのっていう。東大内では勉強頑張ってました?まあまあね。試験落とすわけにはいかねえな。授業も出てた。つまんなかったけどね。[笑い]
じゃ、他のなんか課外活動とかされたりとか。野球さ。あ、東大野球。同好会な。同好会。で、結構もうずっと野球。
あとはアルバイト。北海道の牧場とか、新橋の寿司屋とか、自動車工場とか。家庭教師とかもやられてたんですか。塾の講師は一時期、週に1回ぐらい行ってたからね。
だからそっちの方が時給はいいけど、あえてそういう仕事してみようみたいな。そう。1次産業、2次産業、3次産業ね。将来を見据えて、現場を。
俺、北海道の牧場で何としても牧場体験したいと思って1ヶ月住み込んだんだけど、北海道庁に電話したからね。ええ、行動力。俺は牧場で働きたいから紹介してくれと。
そしたら「君、牧場の子か」って言われて、「俺はパーマ屋の子だ」と。[笑い]全然関係なかった。だから行きたいんだと。牧場の子だったらわざわざ牧場に行きたいと言わねえと。
そしたら北海道庁、当時さ、誠実だったよ。探して「見つけました。受け入れてくれる」と。1大学生のために。
で、そこへ金ねえからさ。今でもあんのかな、青春18きっぷ分かる?あれで上野から北海道まで。え、遠い。北海道のどの辺りですか?[笑い]えっと、帯広の近く。あ、じゃ、めっちゃ遠い。北海道の中でも。
そしてそれで、もう4年生とかになってきたら公務員試験勉強とかもされてっていう。それも一発で合格ですか?一応ね。[笑い]すごいす。すっと通ったんですか?すっとちゅうかまあね。[笑い]すごいなあ。
それで、入られたのが総務省。そう、当時は自治省ね。自治省っていう。自治省に入りたかったとかはあったんですか?あった。その理由とかありますか?
やっぱりね、俺、東京に出て、自分が地方の人間だって実感したのよ。出身どこ?僕、兵庫県淡路島。淡路島な。僕は滋賀県です。滋賀か。
みんながみんな東京の人じゃないじゃん。東京の人、大勢出してるけど違うんだ。で、本当は地の言葉があり、文化や香りや歴史があるじゃん。それぞれの故郷に。俺は東京の人間じゃないと思ったのよ。
だから、どうせ中央で働くなら、各地方、地域を転々としながら、地方の立場から日本の成り立ちを考えたい。地方の役に立ちたいと思ったね。
総務省っていうのはその地方に行く。当時の自治省は特にそうね。2、3年ごとに繰り返すか。中央官庁と各都道府県や市役所に出向してさ。
最初はどこの地方に行かれたんですか?沖縄。沖縄が良かったんですか?当時。いや、なんか1番自分の1番遠いとこに行きたいと。1番自分の知らない地域に行きたいと。
北海道はそういう風に住み込みでやられてたし、香川とかそういうとこはもう生まれ育ちだから分かるじゃん、大体。沖縄。
で、その時に小学校6年生の女の子が米兵に暴行されたんだよね。で、そこから今の普天間とか辺野古とかが持ち上がってくんだけど。
俺、奥さんは高校の同級生なんだけど、当時、社会生活と家庭生活を沖縄でスタートしたから。へえ、うわ、そっか。奥さんもついて来られたわけですもんね。
で、奥さんと2人、県民の抗議集会、10万人ぐらい集まった。そこに行ってるからね。いい加減にしろと。
その時の立場って言うと、官僚だからこそ結構立場難しいですよね。市民の皆さんと一緒になって反対反対とばっかり言えない立場というか。
当時、沖縄県政っていわゆる保守自民党寄りの政権と野党系の政権が、綺麗に政権交代するんだよ。時々ね。今、デニーさんは野党寄りでしょ。当時俺が仕えてた頃は大田県政って言って、割と野党寄りの政権だったんだよ。
だから県の職員の人もみんな怒ってたし、県の職員の人で集会に行った人たくさんいると思う。
奥さんも高松高校で、大学もどこか行かれて。大学は香川大学。あ、なるほど。でもうついて行くって決めて。すごい奥さんも決断すね。
かわいそうだったよね。学校の先生してたんだけど、それやめてたから。気の毒だよね、俺が入るわけ。[笑い]家族にとっては本当に被害以外の何者でもない。
最初沖縄じゃないですか。とか行くんですか?やっぱり。中央官庁に戻ったり、それから愛知県の春日井市っていう市役所に出向したり、イギリスにも1年いたし。だから1、2年ごとに転勤してたね。
やっぱり官僚って結構激務なのかなみたいなイメージがあったりするんですけど、残業時間とかもやっぱ多かったりします?めちゃくちゃだったな。むちゃくちゃでした。300時間かな。ええ。[笑い]
毎日家に帰るの3時。しかも習志野の宿舎にいたから。深夜3時にタクシーに乗って、[咳払い]ほぼ寝れない。4時ぐらいに帰って、風呂入って2時間寝て、で、習志野駅まで30分歩いて、習志野駅からまた始発で。という生活を1年半してたからね。
最初のお父様の言葉もあるじゃないですか。官僚になって国を変えるんだぞみたいな。それの答え合わせというか、実際働いてみてどうだったんすか?
親父が言ってたのは昭和の右肩上がりの時代はそうだったんだろうなと思った。俺はもう94年に社会に出てるから、バブル崩壊後で、いわゆるロスジェネ世代なんだよね。そうすると世の中が本格的に縮小均衡の時代に入ろうとする、その入り口の時代だったんだ。
で、そうするとさ、各省庁が自分の予算を増やしたいとか、権限を拡大したいとか、天下り先を確保したいって各省庁が言い始めると。右肩上がりの時代はそれでいいんだよ。
毎年人口が増えてたんだから、昭和経済は成長だったんだから。つまり部分社会が自分の利益を主張すると、全体最適が矛盾しない時代が昭和の右肩上がりの時代なんだよね。
それ以降、平成に入ってからは逆なんだよ。縮小均衡、ダウンサイジングの時代に入ったんだから、部分社会が自分の利益を主張することは常にほぼ全体最適と矛盾すんだ。
ということは、全体を先に描いて、部分社会にそれぞれ痛み分けをお願いして、かくかくしかじか、こういう理由でこういう形で社会のモデルを変えざるを得ないから協力してくれと政治家が言わなきゃいけない。
だけど当時の官僚は、まあ今もそうだろうけど、やっぱり自分の予算と権限と天下り先が最優先じゃん。官僚として働いてても、先輩たちがそうだなみたいなのは。もうすぐ感じるよ。つまり組織防衛が最大のテーマだ。
日本が良くなったって、中央官庁の権限と予算と組織が削られたら自分の人生は安泰じゃないんだよ。そういう原理でこの国は今でも動いてんだから。だから行き詰まってるわけだろう。それをきちんと正す政治が本当は必要だよね。
それは、じゃあ小泉さんはどうだったのか、安倍さんはどうだったのか、高市さんはどうなのか、そのことが本当は問われなきゃいけない。だけどそうなってないよな。
すごい熱い。すごいスイッチが入ったみたいに。[笑い]だから行き詰まってるじゃん、社会。俺はそれをなんとかしたいな。そのために踏ん張ってきた。
じゃ、そういう思いがあって出馬しようと、政治家になろうと。あの、そこまで言語化は当時はできてないけど、何かがおかしいと。変えるべきはもしかしたら政治なんだろうと。官僚に任せていてこの国が良くなるというほど状況は甘くないと。
9年間ぐらい勤務されてるじゃないですか、官僚。10年近く。その中でじわじわってきたって感じ。
そうね。まずおかしいなと思ったのは3日ぐらいかな。3日。早。[笑い]
そういうもんだよ、人間って。その組織が、グループが、人たちが何を最優先してるのかということを敏感に感じる程度の感性はさ、3日もあれば十分だ。だけどそれで3日で辞めますっていかんだ。[笑い]
まあ、せっかく勉強して入ったし、10年は我慢してみようと。自分が今感じた疑問や問題が本当なのかどうか。仮に本当だとするとどうすればいいのか。そこに一定の確信が持てるまでは辛抱すべきだって思ったよね。
で、最後出馬に踏み切るきっかけとかあったんですか?
高校の同級生が新聞記者してて。あ、鮫島さん。鮫島タイムズでYouTubeやられてますけど。で、そいつとばったり再会して、その鮫島が菅さんの当時番記者してて、で、俺の問題意識を聞いて、菅さんに1回紹介するから自分でやったらどうかと言われたのが直接のきっかけだったね。
で、民主党から。そう、当時、自民党政権に疑問感じてたから、当時はね。これに代わる選択肢を作ろうと言って民主党の門を叩いた。
ドキュメンタリー映画を見させていただいたんですけど、家族の反対を押し切ってみたい。賛成する人誰もいない。[笑い]それはそうだよ。俺が逆でも反対するよね。やめてくれと。
やっぱ選挙ってそれだけ大変だから、ドロドロしたものがあるからこそ。いわば自分の名前と人生を祭壇に差し出すようなもんでしょ。公人として世の中の公に立って、私的な人生を半ば放棄するということと同義だよね。
それには家族、親、兄弟、親戚、一同巻き込まれるよね。そんな不幸はないよ。周囲にとっては。
その頃お子さんとかもいらっしゃって。3歳、5歳。うわあ、すごい時期というか。一大決心で。安定の道を捨てて。
それで、もう香川1区で出馬を決めて選挙活動をやられて。最初は選挙がちょっとうまくいかない時も。やっぱりそうすよね。地盤がないところから。
俺の相手候補知ってる?平井さん。すごい方だよ。いや、西日本放送で。[笑い]テレビ局も持ってて、新聞社も持ってて、一族で。[笑い]マスコミを持ってる政治家と戦うっていう。
おじいちゃん大臣だからね。お父さん大臣だから。で、ご自身も大臣でしょ。そういうご一族とパーマ屋の息子が戦うんだから。それは無茶な戦いよ。
よく決心されましたね。その時は知らなかった。いかに敵が強いか。[笑い]いかに大変なことかっていうのは、やってみないとわからなかった。
ちょっと言えないかもしれないんですけど、西日本放送っていう香川・岡山のテレビ局、新聞社を持ってるってことは、平井さんに批判的な記事とかニュースとかっていうのは。出たことないよ。ああ、ってことすよね、当然。
正直あるんすね、その不平等というか。いや、それは、まあ、あまり俺が言うとどうかとは思うが、それでもやっぱ辛い、悔しい、悲しい記事が多かったよ。当事者として、感想として言わせてもらえば。
実際その浪人期間というかは何年間ぐらい?2、3年かな。2、3年間、収入がない無職の期間がそれだけあったと。そうね。でも当時として活動交付金と生活支援金20万は受けられるようになってたけどね、当時。
主にどういう活動をしてたんですか?街頭、集会、挨拶回り。政治活動ってこの3つだから。
選挙活動中に徹底的に市民の方の声を聞くみたいなのが話題になってたりすると思うんですけど、やっぱりその辺りはめちゃくちゃ力入れられる。もちろん。だからとにかく街頭活動、集会活動、挨拶回り活動を続けるしかないんだけど。
これやっぱ落選中に、それまでは自分の思いを伝えるのが大事だと思ってたんだよね。でも落選中に、いや、それ以上に人の声を聞くことが大事だと思うように自分の感性、感覚、価値観が更新されたことが1番有益だったと思うね。
でもその後、2、3年経って当選されるっていう感じで。比例区だけどもね。
民主党でずっとやられてて、で、政権交代もあって、で、安倍自民党が強すぎるってなって、小池さんと民進党で希望の党を作って。その時も小川さんの葛藤みたいなのが映画でも描かれてましたけど、政党によって振り回されるみたいなところが結構、政治家としての前半、中盤はあった感じですね。
そうね。だから元々政権交代目指してたし、民主党政権が残念ながら国民の期待に応えられなくて、挫折して、失敗して、その後の安倍一強が続くんだよね。
だから本当のこと言うと、あの民主党政権が国民の期待に十分応えられていれば、今頃どんな社会、どんな政治になってただろうという、悔しく情けなく申し訳ない思いは今も消えない。
自分の両親が郵便局で働いてて、当時民主党政権をめちゃくちゃ応援してて。そうでしょうね。ただちょっとああいう形になってしまって。がっかりしたろ。[笑い]そうだと思う。正直そうですね。あの時の罪は大きいよね。今でも申し訳ない。
本当にその思いが聞けて。小川さんが政治家として歴を重ねるにあたって、こういう社会にしたいっていう1番に思われてることってどういうことなんですか?
そこ、後ろ振り返ってみ。人口動態はいつもそこに置いてあるんだけど、1つは左側、人口がむちゃくちゃ減ってるだろう。2000年代初頭から。これそこにあるように、江戸時代とかからの人口カーブなんだよね。
そうすると、その急激な下り坂ってジェットコースターみたいにさ、歴史上初めてだよな。ああ、確かにそうですね。
で、この時代にどうやって経済と地域社会を維持していくのかと。前人未到と前代未聞の課題だよ、これは。古今東西、どの国の歴史にもない。
で、やがて全ての国がそうなるんだけどね。中国も今14億人だけど、今世紀中に7億まで減るからね。世界の先頭ランナーなんだよ、日本は。
それと右側見てみ。昭和の時代の高齢化率が低かった時が右。で、やがて左に向かう。そうするとさ、簡単に言うと右側の時代は若い世代が数少ない負担で、ごく限られた少数のお年寄りを支えられたよね。今無理だろ、これ。左。じゃ、どうすんだと。
だから俺がやりたいことは、この人口が毎年100万人減る時代にどうやって経済と地域社会を維持するか、新たなモデルが必要だと。
第2に、人口構成が右から左に変わった時に、それでも信頼に足る持続可能な社会保障制度とは、どのような給付とどのような負担構造なんだというモデルチェンジをしたい。
第3に、アベノミクスが始まる前、一度70円だったよね。今160円だろ。円の価値は半分以下になったんだよ。
で、その安くなった円で、今でもエネルギーは、中東情勢緊迫してるけどさ、90%輸入しないとやってけないの、この国。食料は7割近く海外から買わないと食ってけねえんだ。で、どうやってこの食料とエネルギーを国産化するかと。
この3つが俺のやりたいこと。これやらないと次の時代に行けないからね。
これまでの発言聞いてると、大きな政府というか福祉国家を作ろうみたいな思想の方なのかなっていう風に僕なりに感じてたんですけど。[咳払い]ではいない。小さな政府って無理だよ。毎年100万人口が減って。
高市さんはどっちかっていうとそっちのタイプですもんね。安倍さん、小泉さんの流れを汲んでるから、金融緩和、市場経済の香りはするよね。無理だよ。毎年100万人減るんだから。高齢化率40%なんだから。国民が100人いたら40人年金もらってんだからね。
現役世代の社会保険料、昔は収入の3%だからね。今30%だから。どうすんだと。これとこの先と、この辺のモデルチェンジを綺麗にやらない限り、金融緩和でなんとかなるか、これ。ならねえだろ。
生産サイドの投資だ、AIだ、なんだ、それ大事だよ。だけど、それでなんとかなるか、この課題は。ならないだろう。ここに本格的に手を突っ込まないと。そういう政治家も政党も不在なんだよ。
他の政党さんも結構ミクロな課題にフォーカス当てがちだけど、小川さんとしてはもっと国全体のモデルを、大きな構造改革を進めたいということですね。
これをやらないとこの国は次の時代に行けないからね。で、やがて世界の全ての国が同じ問題に直面するから、その時に先んじてモデルチェンジを遂げた日本が世界に誇れるモデルになることが俺の夢。
小川さんの中でも、そのモデルをまだ自分の中でも試行錯誤している段階というか。いや、ほぼある。あ、そうなんですね。発表するみたいな。いや、ほぼね。
ただやっぱ党である以上、最低限の党内論議とか。そうですよね。党内のコンセンサスとか。1人走りしていいほど立場は軽くないので、そこは慎重にやりたいと思ってるけど、ただこの国の指し示すべき進路を示したい。
じゃ、ちょっと人生の話に戻るんですけど、中道改革連合が選挙としてはちょっとうまくいかなくて、でも小川さんは小選挙区で勝ち残ったじゃないですか。800票差だけどね。うわあ、すね。
昔は比例で復活するってところから小選挙区で勝てるようになってきたところと、あと最後に中道の代表に立候補したところを聞きたいんですけど、その2点お伺いしてもいいですか?
選挙に勝てるのは、選挙で勝たせていただけたのは、やっぱり中央政界で本格的に打って出ようとした時に必須だよね。
でね、なんかある統計調査かなんかで、代々の世襲候補の方と全くの新人が、最初傾いた土俵で勝負してんだよね。知名度とか資金力とか後援会組織とか支持団体とか。それがさ、だんだんだんだんフラットになって互角の勝負ができるようになるのに6期、20年かかる。そういう調査があるんだって。
で、俺のケースはその仮説に見事に当てはまってる。6期20年経ったところでようやく、平井先生にずっと胸を借り続けていて、今もそうなんだけど、互角の勝負をさせていただけるように、20年経ってようやくなった。
本当に無欲で無償で支えてくださるボランティアの方ばっかりね。1円でも儲けよう、小川さんを支援して得しようと思ってる人は1人もいないから。
中道の代表選挙は、まあ、こんなに大変だと思わなかったけど、それはでも香川1区でチャレンジ始めた時と同じだよね。やってみねえとわかんねえっちゅう。
だけど、なぜやったのかと言われると、もうたった一言、逃げられなかった。どうなるかわかんねえし、これで終わるかもしれない。でも逃げるはないだろうと思った。
まあ、だいぶ逆風ですけど、自分が責任を背負ってこの党をなんとかするぞって思いでというか。俺がなんとかしたいのは党じゃないんだよ。そのために政党は道具としてあるべきだし、国民にとっての。
で、そこで立憲の幹事長や政調会長をやってきたけど、色々勉強になったよ。幹事長も政調会長もね、経験も積ませていただいた。だけど思い切ったことをやりたいと本当に思うならトップに立つしかないということも感じてたからね。
で、それは地元でも公言してきた部分もあったし、とにかくあそこで、いかに苦境と言えども、一度も逃げるという選択肢だけはなかったな。ただそれだけ。
中道の代表としての今後の展望とかってあったりしますか?明確にはない。あ、ないですか?なんとかしていきたいと思ってるけど、不透明なところもあるし。
ただ、俺がなんとかしたいのはこの国家だから、社会だから。そこに対する忠誠心と初心を紛い物にしないことだろうね。唯一俺にできること。どこで果てるかわかんねえよ。どこでのたれ死ぬかわかんねえ。だけど俺にやれることはそれだよね。
総理大臣になりたいとかはあったりしないんですか?全くない。あ、映画のタイトルも『なぜ君は総理大臣になれないのか』っていう映画だったからこそ、[笑い]小川さんがなるってなるとめっちゃ面白いというか。知らね。[笑い]
それは俺とは関係ないから。それは大島監督のつけた名称だし、大島監督の作品だ。政治家にすらなりたいと思ったこと1度もないからね。
自分の立場どうでもいいから。俺はやれることをやったか、これ以上は俺にはやれないと見切ったか、どっちかで1刻も早く引退したいと思ってるから。
だって、どれだけ私的なこと犠牲にしてここまで来てるか。家族や親兄弟にどれだけ迷惑と負担かけてるか。一刻も早く私人に戻って、私の人生を残り送れれば、それに越したことはない。
まあ、これだけ真っすぐな方だからこそ、政治にずっと携わってほしいなとは思います。いや、だけどやっぱり老害になるべきでもないしね。[笑い]どっかで腹切らないと。ああ、これもすごい。
じゃ、最後に、このチャンネル毎回メッセージをもらうっていうのがあるんですけど、20〜30代ぐらいの層が見てまして。若者が見てました。ああ、なんとかしたいな。そう。若者、学生ぐらいの20〜30代がメイン層なんですよ。そうか。すごいな。
ありがとうございます。そこに向けて。俺たち全然発信できてねえからね、その世代に。そう。そこにドンピシャなので。だからそこに向けて何でもいいんで一言もらうっていうのがありまして、最後にお願いしてもいいですか?
えっと、まず公的に。人口が減っても大丈夫な経済、地域社会を何としても作りたいと思ってます。そして高齢化が進んでも安泰の社会保障制度、負担と給付の構造を見直したいと思ってます。そして食料とエネルギーを国産化して、最大の経済政策、社会政策として実現したいと思ってます。公的なこと。
私的なこと。20代、30代の皆さんは2100年まで生きる可能性があるので、その時の地球環境、世界の平和と安定、そして日本社会の状況がどうなってるか分からないし、できるだけ良くしたいと思ってますが。
本当に20代30代は、どんな仕事をしてもしなくても社会に胸を借りる期間なんで、思い切って伸び伸びやってもらって。で、やがて社会の主力になるので。
2100年に自分の命が終わる時、どんな社会になってるか、どんな世界になってるか。で、やがて子供を育てたり、お孫さんを手にしたりする人もいると思う。どうやって次世代にこの社会をバトンタッチしていく当事者になるのか。そういうことを時々イメージしてもらえると嬉しいなと思います。
皆さんの人生が幸多からんことを心から祈って、今日のお礼に代えたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございました。熱いお話ありがとうございます。ありがとうございました。お忙しい中ありがとうございました。
[音楽]の空にせ こんな時代のそばに 変わりもいなくておめ M.
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