田端信太郎が語る経歴:地方の本好き少年がNTTデータ、リクルート、ライブドア、LINE、ZOZOを経て投資家になるまで

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概要

アクティビスト、個人投資家、YouTuberを名乗る田端信太郎が、石川県での少年時代から会社員時代、そして現在の投資活動までを振り返ったインタビューである。田端は、組織に属しながらも「落とされてもいい」「首にされてもいい」という姿勢で発言を続けてきた。その積み重ねが転職の誘いや昇進につながったと、本人は振り返っている。

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「アクティビスト」という現在の肩書き

冒頭で田端は、現在の肩書きをアクティビスト、個人投資家、YouTuberと説明した。通常の株式投資では、株を買った後は上がるのを祈るか、上がらなければ売るしかない。田端のやり方はそれと違い、買った会社をXやYouTubeで紹介し、ダメなところを指摘する。会社が良くなれば株価が上がり、自分も売却益を得られる。広告や案件の報酬ではなく、自分の影響力で会社を良くし、株価上昇という形で利益を得るという考え方である。メルカリの件に話が及ぶと、裁判中だとしてコメントを控え、被告人質問がようやく終わったところだとだけ述べた。

投資の利益は毎月決まって入るものではない。一方で、自身のチャンネル「田端大学 投資学部」には証券会社などからの案件があり、その収入は月に数百万円になると話した。

本屋に入り浸った小松市での少年時代

田端は石川県小松市の出身で、高校卒業までそこで暮らした。都会でも田舎でもない中間くらいの町だという。父親はサラリーマン、母親は主婦で、本人は普通の家庭だったと語る。地方から慶應の私立の学費を出せる程度の余裕はあったが、特に裕福だったわけではない。

子どもの頃からメディアが好きで、友達と遊ぶ約束がない日はずっと本屋で立ち読みをしていた。友達が自転車で家に誘いに来て田端がいないと、「絶対本屋にいる」と本屋まで探しに来たほどだという。読んでいたのは雑誌から真面目な本まで何でもあった。

東京に出たかった理由として、田端は当時の地方と都会の情報格差を挙げる。初めてインターネットに触れたのは大学1年の1994年で、それ以前は金沢に大きな本屋が一つあるくらいだった。少しマイナーな雑誌は手に入らず、民放のテレビは2チャンネルしかない。この格差への飢餓感が非常に強かったという。親は、東大・早稲田・慶應くらいなら東京に行く意味があるとして上京を認めた。

深夜ラジオと「ギネス記録」の東大後期

進学したのは県立小松高校で、公立の中では地域で一番の学校だった。塾には通わず、Z会をやっていた程度だという。中高生の頃は深夜ラジオばかり聞いて午前3時頃まで起きていたため、授業中はうつらうつらしていた。

小松高校は毎年必ず2人は東大合格者を出す学校だった。田端の年は前期だけで7人が合格し、これは学校の過去数十年で最高記録だったという。後期で東大を受けていた田端が受かれば8人目になり、記録更新になる。田端は勉強を減らすため、科目の多い国立対策は早々に切り、古文が出ず世界史も近代以降しか出ない慶應に合わせて対策していた。ほかの授業は意識の上で切り捨てていて、担任からは何を言っても無駄な反抗的な生徒と見られていたはずだと本人は言う。ところが2月になって自宅に学校から電話があり、何か悪いことをしたのかと思ったら「田端頑張れ」という激励だった。大人の手のひら返しに呆れつつも、そんなものだと思ったという。

センター試験は、本人の記憶では英語が満点、現代文が100点、古文が60点ほど、世界史が98点ほどだった。当時の東大後期にあった足切りにも引っかからなかった。英語ができた理由を聞かれると、高校1年頃に日本語で読んだ村上春樹『ノルウェイの森』を、高校2年頃から英訳版で読んでいたことを挙げた。英語の勉強に飽きたら小説を読む、という半ば遊びのような鍛え方だったという。

前期はセンター試験だけで合否が決まる大学(本人の記憶では横浜市立大学)を受けて、浪人しない保険にした。浪人は面倒で、それならフリーターになってでも東京に出て専門学校に通うか、自分で何かしようと考えていた。学歴へのこだわりより、東京に行くことが先だったという。慶應は4学部ほど受け、受かったのは経済学部だけだった。東大後期は文科一類を受けたが、ビジネスへの関心から文系で考えると選択肢は東大か一橋くらいで、落ちたときに格好がつきそうだから文一にした、という程度の理由だったと本人は笑う。

テレホーダイとウェブ制作、そして留年

大学に入ると、田端はインターネットにのめり込んだ。当時は電話回線のダイヤルアップ接続で、夜11時から朝8時まで特定の番号にかけ放題になる「テレホーダイ」が始まった時期だった。3分10円を気にせずネットができるため、田端にとって1日は夜11時から始まるようになり、昼夜が逆転して学校には行けなくなった。

当時ネットで顔を出して発信している人は日本全体で数百人から千人程度だったと田端は見ている。そんな時期に、顔を出している女性のサイトを集めるという、今考えても趣味の悪いサイトを作り、ちょっとした炎上を起こしたこともあった。人間のやることはあまり変わらないと振り返る。

HTMLを覚えてウェブサイトを作れるようになり、大学2年頃からはデジタルハリウッドでティーチングアシスタントを務めた。広告代理店の子会社経由でウェブ制作の仕事を受け、ソニーのVAIOのサイトなども手がけた。Wordでもらった資料をHTMLにするだけで1ページ5万円という「当時は超ボロかった」仕事で、月収は50万から100万円、納品が重なれば70万、80万円に達したという。稼いだお金は好きな音楽のレコードに消えた。

一方で、統計学の単位を落として留年した。そのときは本気で大学をやめ、フリーランスでやっていこうかと悩んだが、親が次の学費を振り込んでしまったので消極的に続けたという。4年間で取れた単位は98で、卒業には140必要だった。最後の1年で48単位を取り、就活よりも卒業者名簿の発表前が一番ドキドキしたと語る。今にして思えば卒業しておいてよかったとも述べている。

「入れてもらうつもりがない」就活とNTTデータ

就職氷河期だったが、田端はウェブ制作で稼げていたので、大企業に入れてもらおうとは思っていなかった。正月に帰省すると親から就活をしろと言われ、とりあえずリクルートスーツを買い与えられた。それでも仕事が忙しく、2〜3月までほとんど動かなかった。一度くらいはとやってみたら、これが非常に面白かったという。

面接では、ウェブのことなら自分はたくさん作ってきたと話し、「御社のこのウェブサイトの音楽には何の意味があるのか」といった生意気なことも言った。落とされて親へのアリバイになればいいと思っていたが、「君面白いな」と次々に通過した。受けたのはNTTデータ、ヤフー出向を前提としたソフトバンク、マイクロソフト、そしておそらくSAPなどだったという。

NTTデータを選んだ理由は二つあった。一つは、ネット系の会社なら実力があれば中途でも入れそうだが、NTTデータは新卒でないと入れなさそうだと当時考えたこと。もう一つは、広告代理店への違和感である。制作の仕事で代理店のプレゼンに同行すると、アパレルブランドへの提案で、中吊り広告や駅貼りポスターと並べてウェブサイトのトップページを印刷して見せていた。1995〜96年頃はAmazonがまだ本しか売っておらず、服をネットで売るなどありえないと皆が思っていた。田端はネットでは服も売れると考えており、ウェブをポスターやチラシの延長としか見ない代理店の人たちはインターネットの本質を分かっていないと感じた。情報が動けば次はお金や物が動き、それらが結びつくはずだと考えていた田端は、物流やお金の流れなど実社会と結びついたシステムを作る会社から見れば違う景色が見えるのではないかと考えた。こうした話をすると、NTTデータ側もそういう人材が足りないと感じていたのか、思った以上に評価されたという。

データ放送への失望とリクルートへの転職

配属先は、BSデジタルなどの衛星放送で、リモコンのデータボタンを押すと選挙速報のデータが出るような、放送と通信を融合した新しいサービスを作る部署だった。メディアに興味があるという本人の希望と適性に合った配属で、人事には感謝しているという。

ところが実際には、データ放送はHTMLではなくBMLという独自言語で作られていた。田端は、インターネットとテレビを直接つなぐと既存のビジネスモデルが壊れるというアレルギーがあったのだろうと見ている。ブラウザで見られるネットに比べてデータ放送は100分の1も見られておらず、こんなものは誰も見ないと感じた。横を見るとドコモがiモードを始めようとしていて、同じNTTグループの中でも、テレビ局と組むNTTデータのやり方よりドコモのほうがはるかに有望に見えた。NTTデータにいても本当の意味でインターネットビジネスの中心にはいられないと思っていた頃、日曜日の日経新聞でリクルートの次世代事業開発室の募集を見つけた。軽い気持ちで応募すると話がとんとん拍子に進み、入社1年10か月ほどで転職した。

リクルートでの挫折とR25の立ち上げ

リクルートで最初に担当したのはベンチャー投資だった。部署としては、ビッダーズというオンラインオークションを始めようとしていた現在のDeNAや、マネックス証券に出資していた。ただ、面接を受けていた頃がネットバブルのピークで、入社した頃にはバブルがはじけ始めていた。入社から1年ほどで次世代事業開発室という組織自体がなくなった。サラリーマンの転職などそんなものだと田端は笑う。

次に移った中期事業構想ユニットは、中長期計画を考える本社スタッフ的な部署だった。優秀な人も多かったが、官僚的で事業の手触りがないと感じた。そこで新規事業提案コンテストに毎年応募し、3年連続で入賞したうえで、3回目に実際の事業化までこぎつけたのがフリーマガジン「R25」だったという。在籍は4年半ほどだった。

転職と年収の推移

R25の立ち上げから1年ほど経った頃、隣の島にいた先輩が半年先にライブドア(当時はオン・ザ・エッジだった可能性があると本人は言う)に移っていた。堀江貴文がポータルサイトに本気で取り組もうとしていた時期で、その先輩から月1回ほど意見を求められていた。やがて「堀江さんが会うと言っているから会ってくれ」と言われ、要するに面接だったが、そのまま話が決まった。R25が立ち上げを終えてルーチンワークになっていたこともあり、飽きっぽい自分には面白く見えたという。

転職を重ねて収入が不安定にならなかったかと聞かれると、誘われて移る場合は今の給料を伝えれば自然と3割増しくらいは出る、それが誘う側のマナーだと答えた。本人の記憶では、NTTデータ1年目が残業込みで400万円ほど、リクルート入社時が600万〜700万円、28〜29歳で辞めたときが900万円ほど、ライブドアでは「月100万でいいか」と言われて年収1200万円ほどだった。

ライブドア事件後の再建と、堀江貴文の怖さ

ライブドアではライブドアニュースの責任者として入社した。いわゆるライブドア事件の1年ほど前に入り、堀江の選挙出馬など毎月何かが起こる日々を経て、堀江が逮捕された。株主との訴訟などを抱えた部分と、事業として立て直す部分とに会社を分割し、2007年春頃に再スタートを切った。上の役員が全員いなくなったため、そのタイミングで田端が役員になり、当時の社長は現在のLINEヤフーのCEOである出澤剛だったという。

この時期には、ライブドアニュースの記者30人前後に辞めてもらった。胃がキリキリする経験で、一番しんどかったが、それ以降は何も怖くなくなったと語る。2007年から2010年まで役員を務め、最初はライブドアニュースだけだった担当が、ブログを含むメディア事業全体に広がった。

当時の堀江については、今の番組「REAL VALUE」などで見せる激しさそのままで、社内の会議も「あの感じ」だったという。六本木ヒルズのオフィスでエレベーターの前に堀江が待っていると、同じエレベーターに乗れば案件の進捗を聞かれそうなので、トイレに行くふりをして通り過ぎたほどだった。最近はWAGYUMAFIAで堀江が肉を焼いて取り分けてくれることもあり、昔なら考えられないと田端は笑う。

コンデナスト、そしてLINEへの復帰

ライブドアがNAVER(現在のLINEの前身)に買収され、再建に目処がついたところで、田端はコンデナストからヘッドハントを受けた。『VOGUE』や『GQ』を出す外資系出版社で、映画『プラダを着た悪魔』の編集長のモデルがいる会社だと説明している。紙の雑誌中心の会社がデジタル事業を伸ばしたいというので、デジタル事業の責任者として2年ほど在籍した。iPadが出たばかりの頃で、紙をめくるようなデジタルマガジンを作ったり、TwitterやInstagramでファッション情報を発信して読者との接点を増やしたりした。外資系で給料がよく、収入はかなり上がったという。

2012年、出澤から「LINEが面白いことになってきたので戻ってこないか」と誘われて復帰した。ライブドアはNAVERの日本法人の子会社になっていたが、LINEが伸びたことで、NHN(NAVERのゲーム部門)、NAVER、ライブドアの3社が合併し、社名もLINEになった。田端はLINEの執行役員を務めた。

LINEで田端が手がけたのは広告とマネタイズである。NAVERまとめ自体は別の担当者が運営していたが、その収益化を担当した。LINEでは、楽天パンダのスタンプや、映画会社のソニー・ピクチャーズによるスパイダーマンのスタンプのように、企業がお金を出して無料で配る「スポンサードスタンプ」の仕組みを立ち上げから作った。通常の広告は無視されるが、友達からスパイダーマンのスタンプが届けば無視できない。さらにスタンプをダウンロードするには企業の公式アカウントを友だち追加する必要があり、公開1か月前にスタンプを配っておけば、後から予告編がプッシュメッセージで届く。

後半は「ビジネスコネクト」として、ヤマト運輸の配達予定通知や、クレジットカードの住所変更といった企業からの連絡を、電子メールではなくLINEに切り替えることを多くの企業に提案して回った。広告というより、ちょっとしたカスタマーサポートに近いものだったという。LINEでの給料はコンデナストとあまり変わらず、上場の前後で少し変わり、辞める頃は2500万〜3000万円ほどだったと話している。

前澤友作に誘われZOZOへ

LINE上場から1年ほど経ち、部下も増えていた時期について、田端は一般論として自分の市場価値が最も高かったのは2016〜2018年頃だろうと見ている。そこへ前澤友作から「ZOZOSUITをやるから手伝ってほしい」と誘われた。ZOZOはLINEから見て広告主の上位10〜20社に入る大口顧客で、前澤は同い年でもある。田端は10年ほど前から注目してZOZO株を買い、利益も出していたので、一対一で食事をと言われて断る理由はなかった。

食事の場で、世に出る前のZOZOSUITを見せられた。前澤は、これを世界中に無料で配れば、服の分野ではAmazonにも勝てるかもしれないと語った。ZOZO自体が服のブランドになっていく中で、自分がどんな人間かを世界中に直接届けたい。そのためにはTwitterやYouTubeが重要で、誰の力を借りればいいか人に聞いたら田端の名前が挙がった。そう言われての誘いだったという。

レスバは「リスペクトの表明」

Twitter(現X)は2008年頃から使っている。インタビュアーは、LINEの執行役員が激しいレスバ(ネット上の口論)をしているのを見て驚いた記憶があると話した。田端は、厳重注意を受けたことはあるが、それは別件だと笑う。

田端は、レスバは相手が嫌いだからするのではないと強調した。プロ野球で阪神のピッチャーが巨人のバッターに嫌なコースを投げるのは、相手が嫌いだからではなく、それが仕事だからだ。むしろ良いバッターだと思うからこそ、なるべく嫌なところに投げる。それがリスペクトの表明だという。本当にどうしようもなく嫌いな人とは最初からレスバをしないし、少しでも興味があるからこそやり合う。「もうやめてくれ」と言ってきた人たちは過去にたくさんいたが、それは歪んだ愛情なのだと冗談めかして語った。

ZOZOでの役割と「首にしてもいい」という立ち位置

ZOZOではZOZOSUITの広報・マーケティングを担い、記者発表会をどこでどう開き、どんな資料を作り、前澤にどう語ってもらうかを考えた。前澤のXについても、企画をどんな文章で発表するかを相談され、下書きを書くこともあった。リツイート数で世界一になったお年玉のお金配り企画にも関わったという。最後は必ず本人が手を入れていた。一方で、本人が勝手に書いたツイートが問題になり、周囲から「田端さんは事前に見たのか」と連絡が来ることもあった。そのたびに「見るわけないじゃないですか」と答えていたという。最終的な役職は執行役員コミュニケーションデザイン室長で、いわゆる広報の責任者だった。

どの会社でも出世が早い理由を聞かれると、田端は、後半の会社はほとんど社長と話をつけて入っているのだから、社長のヘリコプターに乗っていきなり山頂に降り立つようなものだと答えた。そのうえで、相手が前澤であっても言うべきことは言う姿勢が大事だと語る。ちゃんとした経営者ほど、イエスマンばかりでは危ないと考えている。自分は前澤を10年来知る同い年の起業家として心から尊敬しつつ、「こうあるべきではないか」と率直に伝え、気に入らなければいつでも首にしてくれと思っていた。そういう存在が必要だと思われていたのではないか、というのが田端の見立てである。首になっても構わなかった背景には、オンラインサロンなどで会社員の給料と同程度の収入があったこともある。ZOZOでの給料はLINEの頃と大きく変わらなかった。

ハワイでの告白と独立

ZOZOには2年ほど在籍した。ZOZOSUITがうまくいかず撤退モードになるなかで、前澤は保有するZOZO株を現在のLINEヤフー(当時のZホールディングス)に売ることを決めた。2019年の夏休み、田端がたまたまハワイのオアフ島にいると、ハワイ好きの前澤からLINEが来た。ほかのメンバーはわざわざ日本から呼んでいるから来てくれと言われ、恐る恐る行くと、株を売ると告げられた。前澤は、自分のようなバンドマンがたまたま会社をやったらうまくいったが、ZOZOはもう自分のような人間が経営を続けるべきステージではない、という趣旨のことを語った。ゴルフを1ラウンド終えた後のように、ハワイの風に吹かれながら晴れやかな顔で話していたのを覚えているという。

田端は、前澤に誘われて入ったのに、前澤がいなくなった後も自分のような「炎上野郎」が残っていては周りもやりにくいだろうと考えた。残る人たちは皆いい人で、すぐ出て行ってくれという雰囲気ではなかったが、自分から空気を読み、45歳だったこともあって次の社長に挨拶して退社した。2019年末から2020年春頃のことだという。

その後はどこにも属さず、自分の会社を作ってYouTubeを中心に活動している。自由がいいと言いながら長く会社員だったことを指摘されると、会社員でもここまで自由にやれることを結果的に示せたならそれはいい、と答えた。

現在の1日、最高年収、そしてアクティビストとしての次の一手

現在は月曜から金曜まで、毎朝8時45分から1時間ほど株のライブ配信を行う。その後、週2〜3回はライブ以外の動画を撮影し、それで昼頃になる。週3回ほど筋トレに行き、その後は自由に過ごしているという。

最高年収を問われると、LINE上場後にストックオプションを行使した年は給与所得扱いになり、2億〜3億円になったのではないかと答えた。ただしそれは瞬間最大風速のようなもので、住民税を含めて55%ほどの税金がかかったとも話している。

今後については、アクティビストYouTuberとして最初に手がけたのがメルカリで、それはそれほど儲からなかった。2社目は古い中型ビルを再生するリアルゲイトで、こちらは株価が購入時の3倍ほどになり、うまくいったという。3社目は現在仕込み中で、社名はまだ言えないが水面下で進んでいると明かした。

最後に、20〜30代の視聴者に向けて田端は、投資やビジネスは全世界が熱中している最高に面白いソーシャルゲームだと語った。仕事自体が最高のソシャゲなので、大人になってからゲームをやる必要はない。ビジネスはチームでなければできず、メッシでさえチームに入らなければサッカーはできないが、投資は個人のままでも大きなことができる。人間は生きていれば仕事やお金と関わらざるを得ない。どうせやるなら、白けているより真剣にやったほうが楽しいのではないか。それが田端の締めくくりの言葉だった。