東大寺学園から2浪で東大理三、専門医を取らずに開業し17院へ 花房先生が語る経歴と「直美」の実態

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概要

京都大学医学部のYouTuber・もごさんが、はなふさ皮膚科を展開する花房先生に話を聞いた回である。花房先生は自己紹介で自分を「外科医になりたかった皮膚科の花房」と名乗る。大阪の公立中学から東大寺学園、2浪を経て東大理三に入り、皮膚科専門医を取らないまま開業し、粉瘤手術と独自の「花房式治療」で17院まで広げた。インタビューでは、この経歴をたどりながら、研修医が初期研修を終えてすぐ美容医療に進む「直美」について、皮膚科医の立場から否定的な見方を示している。

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顔を出さない理由と、カメラ外でも変わらない話し方

もごさんはショート動画で花房先生を知り、後から東大医学部出身だと知ったという。花房先生は動画であまり顔を出していない。理由を聞かれると「出てきてこれかよと言われるのが嫌で」と冗談めかして答えた。淡々とした話し方はYouTubeと同じで、キャラクターを作っているわけではなく、カメラの外でもこのままだという。

専門医を取らずに医局を離れた経緯

花房先生は初期研修2年のあと皮膚科で3年半働いた。当時あった後期研修の修了証は持っているが、専門医の取得にはあと1年ほど足りなかった。当時は後期研修を管轄する組織と専門医を認定する組織が別だったようで、後期研修の修了がそのまま専門医にはならなかったと本人は説明する。

医局を離れたきっかけは教授の交代だった。尊敬していた玉置先生から別の教授に代わり、花房先生は直感的に「さすがにこのおっさんの下では働けない」と思ったという。花房先生によれば、この東大皮膚科の教授は後に逮捕され、「東大ブランドを失墜させた」人物である。10〜15年ほど前に会った時点で嫌な感じがしていたと振り返る。一方で、その頃には専門医レベルの内容はおおむね身につけていて、「専門医を取ってもこんなものか」という感覚もあった。本人は「言い訳になるけど」と断ったうえで、医局をやめて開業したと話している。

野球の挫折と、荒れた公立中学

両親は医師ではなく、教育関係の仕事をしていた。家庭には勉強しなさいという雰囲気があり、中学受験もした。ただ小学生の頃は野球に力を入れていたため、清風中学に落ちて地元の公立中学に進んだ。当時は大阪市内に住んでいた。

野球はかなり本気でやっていたが、下の方のチームでもなかなかレギュラーになれず、今思えば頑張ってもプロにはなれなかったと本人は言う。当時は「デッドボールに当たってもいいから塁に出ろ」という自己犠牲を強く求められ、エラーをするとバットで尻を叩かれて腕立て伏せ20回、ということも普通にあった。この経験がトラウマになり、今でも集団スポーツはあまりやりたくないという。

進学した公立中学はかなり荒れていて、逮捕される同級生もいた。中学2年頃までは本人もその空気に染まり、喧嘩をすることもあったという。今の花房先生からは想像できないと、もごさんは驚いていた。

東大寺学園へ、そして「遊べ」という校風

このままではまずいと感じた花房先生は、中学2年頃から勉強を始めた。大手予備校の中学生向け塾に通って勉強に目覚め、東大寺学園高校に合格する。高校募集は1クラス分しかない狭き門だった。偏差値の高い学校に行けば人生が好転するのではないか、という期待があったという。東大寺の入試は他校より早い2月にあり、そこで合格したが、中学受験で落ちた清風高校も受けて合格し、「リベンジ」を果たした。高校進学後は家族で奈良県に引っ越した。治安は良いが「何もない、退屈な街」だった。

東大寺学園の校風は、一般的な進学校とは逆だったと花房先生は言う。高校3年間は遊びなさい、1浪くらいしてから大学に行けばいい、という空気で、必死に勉強していると冷やかされるほどだった。何をしてもいいと言われると、かえって何もしなかった。部活にも入らず、友達とカラオケやボウリングに行く程度の日々で、成績は中くらいだった。野球で挫折し、勉強で東大寺に入り、そこで目標を見失う。中高は「挫折の連続」だったと本人は振り返る。

医学部を目指した理由

医学部を志したのは、医師への憧れがあったからだ。今でも医療ドラマを見るのが大好きだという。最近MBTI診断をしたらINTJ(建築家)と出て、向いている職業に医者が挙がっていた。子どもの頃から医者になりたいと思っていたのは、半分は生まれ持ったものだったのだと感じたという。

親の影響も大きかった。親は自分が医者になりたかったらしく、「当時は今ほど偏差値が高くなかったからなれたのに、数学の道に進んでしまった」と後悔していた。花房先生は小さい頃から医者になるよう言われていた。

現役・1浪・2浪で変わった受験への姿勢

現役では東大理三だけを受けた。周りも1浪は当然という雰囲気で、本人は「記念受験」だったと言う。それでも足切りは突破していた。センター試験は常に9割以上取れていて、マーク式が得意だった。医師国家試験も「余裕だった」そうだ。

1浪目は大阪の河合塾に通い、そのために大阪へ引っ越した。当時は携帯電話もなく、勉強か読書しかすることがなかった。模試ではD判定からA判定まで上がり、受験も理三1本に絞った。絶対受かると思って東京に受けに行ったが、試験の手応えがしっくりこず、結果は不合格だった。

この失敗で花房先生は「人が変わったように」慎重になり、石橋を叩いて渡る性格になったという。同じく2浪のもごさんも、現役で調子に乗って落ちてから入念に準備するようになったと共感していた。花房先生は、この慎重さは医者になってから活きると話す。調子に乗っていると、手術中に体内に物を置き忘れたり、少し出血していても大丈夫だろうと閉じてしまったりする、という。

2浪目の頃は「闇落ち」していた。親も東京に出したほうがいいと考え、花房先生は一人で駿台予備学校の寮に入った。東京ライフを期待していたら寮は埼玉だった、と笑う。この年は教科書を脚注の小さな字まで読み込み、漏れのないように準備した。夏以降は模試でトップ10ほどに入った。珍しい本名のため、今でも「受験の時に名前を見ていた」と言われることがあるそうだ。センターは96%ほど取り、「東大1本ではだめ」と言われて防衛医大や慶應も受け、特待生だったと思うと話す。本番は不安な気持ちで臨んだが、結果的には余裕で理三に合格した。

大学生活と国家試験

入学後はスノボのサークルとダイビング部に入り、浪人時代の反動でかなり楽しんだという。ダイビングは遠征1回で数十万円かかるため、部費を稼ぐ「パーティー」を開いていた。クラブを貸し切り、東大生や近隣の女子大生にチケットを売るもので、一晩で100万〜200万円ほど(売上か利益かは覚えていない)になった。OBからは、バブル期には一晩で500万円稼いでいたと聞いたそうだ。

CBTについては、自分たちの学年が試験的に導入された頃ではないかと言う。当時は卒業試験と国家試験を突破すればよかったが、東大の卒業試験は記述式が中心だった。「東大ともあろうものがマーク式で医者になるとはけしからん」という雰囲気があり、マーク式が得意な花房先生は苦戦した。一方、国家試験は今より簡単だったと本人は言う。例として、うつ病の患者への対応で「頑張れと励ます」を選ばせるような問題があり、医者でなくても解けるレベルだったと話す。

ポリクリ(病院実習)2年と初期研修2年については、まとめて1年ほどに圧縮できる、4年間は無駄が多い、という点で二人の意見が一致した。

外科を諦めて皮膚科を選んだ理由

外科医になりたかったというのは本当の話だ。卒業後、外科志望として初期研修を受けたが、しっくりこなかった。当時の外科では朝7時頃に集まって患者情報を確認し、カンファレンスの準備をし、朝食を皆で食べ、夜は皆で焼肉に行く。部活のようなチーム文化に、集団競技が苦手な花房先生は気を遣いすぎてしまった。

そこで一人で完結する仕事の多い皮膚科を選んだ。皮膚科は外来で患者と1対1で向き合い、手術も基本は医師1人と看護師でこなす「個人プレイヤー」だという。リンパ節郭清を伴うメラノーマの手術や、重いやけどの植皮など手間のかかる手術は数人で行うが、それも「1+1+1」のような個人プレーの積み重ねで、空気を読めないと怒られる雰囲気ではない。外科では左利きの花房先生が「左利きはやりにくい」「左利きでうまくなったやつは見たことがない」とずっと言われながら手術をしていたそうで、その違いは大きかったようだ。

美容皮膚科と美容外科の違い

花房先生の説明では、美容皮膚科はレーザーの登場から始まった分野だ。シミ取りや脱毛、ヒアルロン酸などの注入、簡単な小手術を扱う。美容外科はフェイスリフトや骨切りのような、より難しい手術を行う。重なる部分も多いが、美容外科という国家資格はないため、実際は美容皮膚科医なのに美容外科を名乗る医師も多いという。美容外科医を目指して直美に進み、美容外科医になれずに美容皮膚科医になるパターンがほとんどだと花房先生は見ている。

直美への否定的な見方

直美については「だいぶ否定派」で、親しい人には「やめたほうがいいんじゃないの」と言うと明言した。りり先生のように優秀で目的意識がはっきりしている人なら可能性はある、と例外は認めている。

否定的な理由は、花房先生自身が直美で行き詰まった医師を受け入れてきた経験にある。知り合いから「直美に行ったがうまくいかなかったので面倒を見てほしい」と頼まれ、皮膚科を教えていたという。ところがカルテの書き方も診察の仕方も分からず、メスや鑷子、ハサミの持ち方からおかしかった。2年間美容をやっていたのに、手術をさせてもらっていなかったのだろう、と花房先生は見ている。

もごさんは、大手美容外科なら教育体制が整っていると思っていたと話した。花房先生は、例外的に良いところはあるかもしれないが、98%は人を集めるために「教育体制が整っている」と言っているだけだと答える。花房先生によれば、大手にとって直美は「使い捨て」だ。ヒアルロン酸だけ教えて稼げるうちは使い、稼げなければAGAの薬を出すだけの部署や、ダイエット・脱毛のカウンセリングなど、医師免許があれば誰でもできる仕事に回す。見た目やセンスがよく勉強熱心な医師は出世させるが、そうでなければ数年で辞めていくのを待つ構造だという。AGAの診察を10年続けるのは「発狂しそうになるくらい辛い」と表現した。

給料についても、年収2500万円は「いい時代の話」で、今はAGAの診察などでは2000万円に届かない水準だと花房先生は言う。1000万円は超えるが、求人に出ている3000万〜5000万円はインセンティブ込みの数字だという。美容業界はマーケティングが得意なので、教育も給料も良く見せているが、実態は「生き残れる人が自力で生き残る」世界だ。もごさんは、広告で見えるのは成功した人だけで、落ちぶれた人は見えないと応じた。

ただし花房先生は、直美が行き止まりだとは考えていない。保険診療には戻れるからだ。Twitterでは戻ってきた医師を「卑怯者」などと叩く声もあるが、それなら産休で休んでいた医師もだめなのか、と反論する。一度美容に賭けてみるのは「ありっちゃあり」だという。

300万円のクリニックが0円に 開業の経緯

開業当初は保険診療が中心で、それが3年ほど続いた。専門医取得まであと1年必要だったが、若かった花房先生にはその1年が惜しかった。ちょうどその頃、アルバイト先のクリニックの院長から、糖尿病がつらいので引き継がないかと声をかけられた。

当時勉強していたバリュー投資の考え方で見ると、高額なレーザー機器などの資産だけで1000万円ほどの価値があるのに、300万円で売りに出ていた。明らかに割安だと判断して、借金をしてでも買うつもりで引き継ぎを申し出たところ、院長に気に入られ、最終的には0円で譲ってもらえたという。後期研修の修了から数か月から半年ほどでの開業で、かなり早いほうだった。三鷹の医師仲間からは「東大卒がもったいない」「開業医なんかに」と言われ、気まずかったそうだ。

粉瘤のくり抜き法で患者が全国から集まる

開業後1年半ほどは、生活には困らないがそれほど儲かりもしない状態だった。転機は粉瘤の手術だった。SNSがなかった時代で、花房先生は暇だったこともあり、ブログで1日1つほど病気について発信していた。その中で、傷が小さく済む「くり抜き法」を紹介した記事がバズった。当時くり抜き法をやっている施設は少なく、三鷹の外れのクリニックに北海道や沖縄からも患者が来るようになり、1日20〜30件の手術をこなした。売上が伸び、2院目は自己資金で出したという。

花房式治療と17院の展開

開業から15年目の現在、クリニックは17院ある。ほぼ年1院のペースで少しずつ増やしてきたが、ニキビ跡のクレーターや毛穴の治療として「花房式治療」を開発し、これが再びバズって全国展開につながった。年商は「中くらいの企業を買えるくらい」で、利益率はベテランの銀行支店長が「こんな利益率は見たことがない」と言うほどだと本人は話す。今後は全国50院を目指すといい、もごさんは「都道府県に1院ずつある計算だ」と応じた。

医師を目指す人へ

最後に医学部や医師を目指す人へのメッセージを求められ、花房先生は医師と患者の関係について語った。医師にとっては大勢の中の一人の患者でも、患者にとっては親や配偶者との出会いと同じくらい重要な「巡り合わせ」だという。医師は毎日100人、200人と診るうちに感動が薄れていくが、患者にとって「あの先生でよかった」という経験は一生心に残る。その本質に触れ、心を震わせる経験をしてから開業し、医療を語ってほしい。薄っぺらく医療や医者を語るのはやめてほしい、と花房先生は話し、「偉そうに言ってすみません」と締めくくった。