「メディアはメッセージである」と『利己的な遺伝子』を読み直す:古典の誤読から『クリックの0.2秒を科学する』構想まで

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概要

ゆる言語学ラジオの堀元見と水野太貴が、青森県の酸ヶ湯温泉で久しぶりの「インプット奴隷合宿」を開いた。前回の合宿では二人とも意味論の本を読んで学びを共有したが、今回のテーマは「お互いがエアプ(読んだふりを)している古典的名著をちゃんと読む」である。堀元はマーシャル・マクルーハン『メディア論』を、水野はリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』を持ち込んだ。どちらもキーフレーズだけが広く知られている本だ。二人とも読了はしておらず、途中まで読んだ段階での発見を持ち寄っている。後半は、ドーキンスの書き方をきっかけにポピュラーサイエンスの書き方へ話が移り、堀元が書くかもしれない『クリックの0.2秒を科学する』という本の構想が膨らんでいく。

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「メディアはメッセージである」は広告媒体の話ではない

堀元が『メディア論』を選んだのは、「メディアはメッセージである」という一節だけが独り歩きしていて、世間の使い方が本当に合っているのか確かめたかったからだという。堀元によれば、この言葉は広告業界でよく使われている。広告を電車に出すのかテレビに出すのかで効果は変わる、つまりどの媒体に出すか自体が大きな意味を持つ、というニュアンスである。IT系の広告スタートアップの人がこの言葉をそう使っているのを実際に見たこともあるという。

ところが、約40ページを「ちゃんと」読んだ堀元は、本にはまったく別のことが書いてあったと報告する。まず、マクルーハンのいう「メッセージ」の意味がとても広い。本文では、メッセージとは「それが人間の世界に導入するスケール、ペース、パターンの変化にほかならない」とされる。堀元はこれを「人の行動様式をガラッと変容させること」と言い換えた。よくできた広告もその一種で、二人は「そうだ 京都、行こう。」や「JR SKISKI」のように、見た人の行動を変えるコピーを例に挙げている。

では人の行動を劇的に変えるものは何か。それがメディアだ、というのがマクルーハンの主張だと堀元は説明する。本書にはメディアの定義として「人間の結合と行動の尺度と形態を形成し統制する」ものという趣旨の記述があり、堀元はこれを「人間社会を率いるリーダーのようなもの」と要約した。最初の例は電気と照明である。夜でも明かりをつけられるようになったことで夜型の人が増えた。照明は人々の行動を大きく変えたのだから、照明はメディアだということになる。スマホはもちろん、列車もメディアだ。

内容とメディアを切り分ける

堀元によると、マクルーハンの主張の核心は「メディアと内容を分けて考えよ」という点にある。新聞というものが持つ力は大きく、そこに書かれている内容はまた別の話だ、という考え方である。マクルーハンが描きたいのはメディアがどう世界を変えるかであって、内容にはあまり関心を払っていない、と堀元は読んでいる。

この点を示す一節として、堀元は9ページの記述を紹介した。電気の光は内容を持たないがゆえに、コミュニケーションのメディアとして注意されることがない、という指摘である。ここから二人は「マクルーハンは蛍光灯への広告出稿を推奨している」と冗談を広げた。水野が「照明で壁に文字を映す広告」を提案すると、堀元は、ネオンや投影で文字を出すとそれは「内容」になってしまうので、マクルーハンの意図とは違うと返す。光の本質は、それを使えるか使えないかで生活が変わることにある。だからマクルーハン的な「最強の広告」とは、「うちに100万円払わないと蛍光灯が使えなくなります」というものだ、と堀元は茶化した。本書には、エジソンこそ最大のメディアを作り上げたと言えるのではないか、という趣旨の記述もあったという。ただし「蛍光灯に出稿することを推奨している」という読み方自体は、実際には本には書いていないと堀元自身が明かしている。

この枠組みで見ると、『世界を変えた12の時計』のような「〇〇が世界を動かした」という本は、どれも「時計はメディアだ」「薬はメディアだ」と言っている本として読める、と堀元は話す。『メディア論』の副題は「人間の拡張の諸相」であり、メディアが人間をどう拡張していくかを描く本なので、どの媒体に広告を出すかという狭い話はほぼ出てこないだろう、というのが堀元の見立てだ。水野はこれを、テクノロジーが人類をどう変えたかを描くビッグヒストリーや、火の発明で消化を体外に外注したという類の文明史の議論に近いと受け止めた。

本の中には、堀元がかつて公園で叫び続けてプログラミング学習サービス「PrograMOVIE」を宣伝した動画をめぐる内輪ネタも挟まる。登録者ゼロだったので行動変容はなく、マクルーハンの定義ではメディアではない、という自虐である。このやり取りの中で、堀元は「ホットなメディア」と「クールなメディア」の区別にも触れた。ざっくり言えば、ホットなメディアは情報の洪水を浴びせかけるもの、クールなメディアは余白が多く受け手が参加できるものだという。

椅子もメディアである:「尻の絶対奪格」という難所

堀元によると、マクルーハンは椅子もメディアだと論じている。チェアかカウチ(ソファ)かで、座る人のスタンスが変わる。典型的にはチェアを使わせるのは編集者で、カウチを使うのは精神分析医である。精神分析医は患者をゆったりしたソファに座らせることで、出来事に合理的な解釈を加える必要はないという意図を示している、という説明だ。椅子自体が人の行動を変容させるからメディアだ、という理屈で、水野はアフォーダンスの議論にも近いと感じたという。

ところがその直後に、堀元が読み上げた一節で二人とも止まってしまう。人間の拡張として見れば、チェアは「専門家風に臀部を奪い取ったもの」、言うならば「尻の絶対奪格」だというのである。本には訳注があり、絶対奪格とはラテン語文法の用語で、文中でほかの要素と文法的に関係せず孤立的に用いられ、時・原因・付帯状況などを表す奪格だと解説されている。水野は、奪格は日本語の「から」や英語の from に近いものだと補足した。これで絶対奪格の意味はおおよそ分かったが、なぜチェアが「尻の絶対奪格」なのかは二人とも分からなかった。

堀元によれば、マクルーハンは冗談も言う人で、ここがふざけているのか、本当に難しいことを言っていて自分が理解できていないのか、判別がつかないという。明らかに冗談だと分かる箇所もある。テレビを見ていたネズミが突然飼い猫に勝負を挑んだという小話がその例だ。一方で、「若者たちの大好きなジョーク」として紹介される「紫色をしてブーンと唸るものは何か。答えは電気ブドウ。なぜブーンと唸るかといえば、言葉を知らないから」というくだりも、二人にはまったく意味が分からなかった。堀元は、意味不明なことを言った直後に、もう一つ意味不明なことを重ねるのがマクルーハンの「手癖」ではないかと冗談めかして分析している。英語圏では有名なジョークなのかもしれない、として視聴者に解説を求めた。

とはいえ、堀元は本全体としてはレトリックがうまく面白いと評価しており、今回は難解な箇所を恣意的に拾っただけだと断っている。

1960年代の本がインターネットを予見しているように読める

堀元が特に印象に残ったと話すのは、インターネット時代を思わせる記述である。本の刊行年について、堀元は「1962年とかじゃないか」と述べ、60年近く前、テレビが普及してきた時代に書かれた本だと位置づけた。そこには、地球は電気のために縮小し、もはや村以外の何ものでもなくなった、電気のスピードがあらゆる社会的・政治的作用を結合してしまうために人間の責任の自覚を極度に高めた、という趣旨の一節がある。

堀元の解釈では、情報が早く大量にやってくるようになった結果、地球の裏側の出来事も目に入るようになり、人々の感覚が広がったという話である。水野は、自分とは関係のない遠くの出来事に心を痛めたり怒ったりすることだと受け止めた。水野はさらに、新聞だと翌日にならないとニュースが分からず、絵も浮かばないので遠い国の悲惨な出来事にピンと来ないが、テレビは速報があり朝夕にニュースがあるので速い、と補足した。堀元はそれをホット/クールの違いと結びつける。新聞はクールで想像の余地を自分で膨らませるしかないが、ホットなメディアは脳に直接情報を流し込むようなものだ、という。

堀元は、こうした感覚はインターネット以後に生まれたと考えがちだが、マクルーハンによればテレビの時点ですでに来ていたということらしい、と述べた。TikTokやTwitterの動画がある現在こそ、マクルーハンの指摘が効いてくる時代かもしれない、というのが堀元の感想である。

『利己的な遺伝子 40周年記念版』と、著者自身の不満

水野が読んでいるのは『利己的な遺伝子 40周年記念版』である。水野は交流のある研究者から「さすがに読んでおいた方がいい」と勧められたのがきっかけだと話した。全体は581ページあり、本文だけで約460ページ、13章ある。構成を順に見ると、「30周年記念版に寄せて」「第2版のまえがき」「初版に寄せられた序文」「初版のまえがき」と続き、第1章が始まるのは38ページ目だという。巻末にも補注、訳者あとがきが版ごとに並んでいる。堀元は『7つの習慣』でも冒頭の前置きが長かった記憶を語りつつ、訳者あとがきを読むのが好きなので全部収録されているのは嬉しい、と話した。

水野によると、「30周年記念版に寄せて」でドーキンスは、「利己的な遺伝子」という概念が独り歩きしていることにうんざりした様子を見せている。堀元は、マクルーハンも独り歩きを嫌がって書いていたので「名著あるある」かもしれないと応じた。ドーキンスは、編集者からは『不滅の遺伝子』というタイトルを提案されたが断った、こんな誤解をされるぐらいならそちらのほうが良かったのかもしれない、と書いているという。「利己的」と言うと遺伝子に性格があるかのように受け取られてしまう。そのためドーキンスは、自分には擬人化の癖があることや、自分の本はこう読んでほしいというポピュラーサイエンスの読み方を説明している、と水野は紹介した。

「サイエンスフィクションではない、サイエンスだ」:たとえを使う覚悟

水野が「うまい」と評するのが初版のまえがきである。この本はほとんどサイエンスフィクションのように読んでもらいたい、想像力に訴えるように書いたからだ、しかしこの本はサイエンスフィクションではない、サイエンスだ、と続く。さらに、私たちは遺伝子という利己的な分子を盲目的に保存するようプログラムされたロボットの乗り物、生存機械なのだ、この真実に今なお驚き続けており、私の願いの一つは他の人たちを驚かせてみせることだ、という趣旨の文章がある。堀元は、本業は学者でライターの訓練はあまり受けていないはずなのに、なぜこれほど筆がうまいのかと驚いていた。

水野がもう一つ挙げたのは、執筆中に想像上の読者が3人、肩越しに覗き込んでいたという記述だ。一般の読者、専門家、門外漢から専門家へ移行中の学生である。異なる3種類の読者すべてにアピールしようとするのは明らかに危険だが、自分はその危険を十分承知しており、それでもこの試みによる利益は危険を上回るだろう、とドーキンスは書いている。

水野はここから、ドーキンスはポピュラーサイエンスを書くことに罪の意識をきちんと持ったうえで、便益が上回ると判断して書いているのだと読む。「分かりやすい説明」と「正確な説明」はよく二項対立で語られるが、分かりやすく書く人は正確さを欠くリスクを分かっていることが多い、というのが水野の見方だ。つまり、分かりやすい本は理解が浅いからそう書かれているとは限らず、不正確さを承知のうえで、分かってもらうメリットを優先している場合がある。ドーキンスは原稿を周囲の専門家に見せており、本文でも「この話は専門家仲間の誰も完全には同意してくれなかった」という箇所をきちんと明示しているという。たとえについても、このたとえはこの点の理解にぴったりだと説明したうえで、ただしこのたとえでは捉えきれない部分がある、と述べて次のたとえに移る、というスタイルで進んでいくそうだ。

ボート(ヨット)レースのたとえと、ペットを可愛がる理由

水野が「すごくうまい」と感じたのが、遺伝子と個体の関係をボートレースにたとえる箇所である(競艇を想像してしまうとずれるので、何人も乗る船のヨットのほうが分かりやすいと二人は整理した)。コーチは速いチームを作ろうとしているが、実は乗組員一人ひとりが優秀かどうかは見ておらず、船が速くゴールしたかどうかだけで判断する。大量にいる選手をランダムに乗せて競争させることを何度も繰り返すと、強い選手が選抜されていく。その結果、最強の選手をただ集めるのではなく、右利き3人と左利き3人のようにバランスの取れた配分が残ったりする。一人だけ突出して引っ張る選手は選ばれない。ヨットが生物の体、大量の選手が遺伝子プールにあたる。

水野によれば、ドーキンスは進化を「種が優れたものになること」とは捉えていない。海のコンディションやルールが変わったとき、それまで成績を出せていなかった選手がたまたま輝き出すことがある。自然淘汰とは、環境が変わったときにたまたまよいパフォーマンスを出せる遺伝子がその後選ばれ続けることであり、進化とはその小さな変化だ、という趣旨である。選手はただ速く漕ごうとしているだけで、コーチも個々の選手までは見ていない。遺伝子に意思はない、ということもこのたとえで理解できる。水野は、相当考え抜かないとここまでうまくはたとえられないだろうと述べた。

堀元はこのたとえに重ねて、以前別の本で読んだという話を紹介した。ペットをベタベタ可愛がると感染症のリスクが上がるのだから、そういう遺伝子は淘汰されていてもよさそうだ。それでも残っているのは、ペットを可愛がる性質が赤ちゃんを可愛がって育てる性質と密接にリンクしているからで、感染症を避けるためにその部分を失うと子どもも可愛がらなくなってしまう、という説明である。水野はこれを、常にセットで船に乗る双子にたとえ直した。片方はいないほうがいいように見えても、一人だけ取り除くと遅くなる、という関係だ。

水野はこの読書から、事実に基づかない説明(ダーウィンの生年を間違える、言っていないことを言ったとする、など)は論外だとしたうえで、「これはたとえで、こういうリスクもある」と明示しながらたとえるのであれば、分かりやすいが誤解を招きうる説明もそれほど悪いものだとは思わない、と考えたという。著者は責任を自覚し、あとは読者のリテラシーが試される、という形である。

『クリックの0.2秒を科学する』という構想

水野は自著『会話の0.2秒を言語学する』を書く際、こうした翻訳物のポピュラーサイエンスを手本にしたという。そこで水野が、堀元はポピュラーサイエンスを書いてみたいと思わないのかと尋ねると、堀元は「ある」と答え、水野の本を読んで同じ趣旨の本がコンピューターサイエンスでも書けると思った、と明かした。

題材は、Amazonで購入ボタンをクリックしてから購入が確定するまでの約0.2秒に何が起きているか、である。堀元の説明はこうだ。マウスのクリックが電気信号として送られ、パソコンの中で解釈され、パケットになってネットワーク回線を通り、購入の信号としてAmazonのサーバーへ届く。サーバーで解釈され、外部の決済プラットフォームを使っているならそちらへのAPIの呼び出しも走り、決済がOKで戻ってきて、エラーチェックが終わると購入処理が行われ、再びパケットが手元のパソコンに戻って「購入完了」と表示される。このドラマが0.2秒ほどで起きているはずだ、と堀元は話す。コンピューターサイエンスは大きく分けてハードウェア、ソフトウェア、通信の3つで、メモリやアルゴリズムはその下にぶら下がる。クリック一つにその全部が詰まっているので、ゆるコンピュータ科学ラジオで断片的に聞いてきた人にとっては知識が統合される本になる、というのが二人の見立てだ。

タイトルは当初「Amazon購入確定の0.2秒をコンピューター科学する」と長くなりすぎ、水野の提案で「クリックの0.2秒を科学する」に落ち着いた。

構成を時系列で考えると、まずマウスの仕組みから始まる。堀元は、左クリックで回路が一瞬オンになる電気信号ではないかと、自信なさげに推測した。信号がケーブルを伝ってパソコンに届くまではハードウェアの話で、そこからドライバーがそれを解釈する。水野はドライバーの存在を知らなかった。堀元は、昔は新しいマウスを挿すと「ドライバーをインストールしています」と表示されていたが、今は自動で入るのでメッセージすら出ない、と説明している。ドライバーは翻訳者のようなもので、Windowsに「これはクリックだ」と伝え、Windowsにもクリックを処理するプログラムがたくさんある。ただしOSだけで本が1冊書けるので、分厚くしようと思えばいくらでも分厚くなる、と堀元は言う。

水野は自分の本では体系的な理解をさせる意図を捨て、面白い話だけを書いたと振り返った。堀元は水野の本に寄せた書評で「7つの海の浅瀬だけを連れて行ってくれる弾丸ツアーコンダクター」と評したことを紹介し、体系的に理解させようとしない点を褒めたと話す。水野はまた、堀元はアルゴリズムやソフトウェアが好きでハードウェアにはあまり関心がなさそうだが、自分はハードウェアが好きなので、担当編集になれば「ハードウェアのここが面白いから書いてほしい」と言えそうだ、とも述べた。

堀元が好きなクイックソートを入れてはどうかという水野の提案に対し、堀元は「それは自分のエゴなので、本の構成として美しくないからやらない」と答えた。この立て付けなら、ネットワーク上で最短経路を探すダイクストラ法のほうがぴったりはまるという。ルートを考えるのはパケットではなくルーターだと聞いた水野が、ドーキンスに影響されて「パケットはルーターの乗り物だ」と言い出すと、堀元は、パケットには時間内にたどり着かなければ消える「TTL(Time To Live)」がプログラムされていると紹介した。

人間の失敗と、冒頭に置く「引き」

水野が気にしていたのは、自分の本では各章の冒頭に言語的な事実をうまく扱えずにすれ違った事例を置いて「引き」を作ったが、コンピューターの本では人が出てこないのではないか、という点だ。堀元は、コンピューターの本にも人は出てくると応じる。機械はそれほど失敗しないが、人間がケーブルの繋ぎ方を間違える。昔は、ルーターやハブから出ているLANケーブルが繋がっていない状態が正しいのに、掃除の人が「抜けちゃってるわね」と挿したせいでループが起きてルーターが壊れ、会社のネットワークが1日止まる、といった話があったという。最近の機器はかなり対策されているとも付け加えている。

冒頭に何を持ってくるべきかという問いに、水野は「通信が速すぎる」ことだと答えた。海底ケーブルがあることは知っていても、それで往復0.2秒になるとは思えない。会話の0.2秒は片道だったが、クリックは行って戻ってくるので2倍の距離を走っている。5Gの次の6Gが開発中と聞いても、もう十分速いのに何を直すのかと思う。通信がなぜ速いのかが分かれば、そうしたニュースも楽しくなりそうだ、と水野は話した。

Wi-Fiの話では、水野が2.4GHzと5GHzの違いについて「Gのほうが広域だが遅い」と答え、堀元は正しいと認めた。水野が中継器の仕組みも分からないと言うと、堀元はLANとWANの違いを中古車店にたとえた。LANは、その店に来た客が売った車をその店の客にしか売れない状態で、WANは中古車オークションに出して日本中で落札できるようにするイメージだ。中継器は店の中で情報を伝えるのが速い営業マンが一人増えた程度の話で、WANとは関係ない、という説明である。水野はこの説明を魅力的だと評し、堀元は「書きたくなってきた」と乗せられていった。

結論は「ゲリラ戦」かもしれない

水野は、最後に少しでも意外な結論を用意したいと言う。自分の本は、調べ終えたあとに「自分というものは、ある面では異様だ」という感覚にたどり着いた。クリックの0.2秒を調べ上げたら堀元は何を発見するのか、という問いである。

堀元は、まだリサーチしていない段階の見込みとして「ゲリラ戦」という結論になりそうだと答えた。クリック一つ取っても相手はWindowsだったりMacだったりする。統一されていれば戦いやすいのに、企業が独占せず自由に競争しているという人間側の都合で分かれている。だからドライバーという翻訳者を挟み、同じマウスがMacでもWindowsでも動くようにしている。地球上のインターネット接続先は全然足並みが揃っていないのに、互いに翻訳し合った結果、一つのインターネットとしてなんとか効率よく動いている、というのである。水野はそれを、人間側の無茶な都合をコンピューターが「ブルシット・ジョブ」として引き受けている構図だと言い換えた。そして、融通の利かないルールのもとで役所の職員がどんな工夫をしているかを調べれば、コンピューターのたとえに使えるのではないかと提案した。堀元は、千葉県松戸市が設けた「すぐやる課」はまさにOSだと応じ、各地の地名にコンピューターの挙動を割り当てる、という案まで出た。

「シリーズ0.2秒」というフォーマット

話はさらに広がり、「0.2秒を〇〇する」はどんな分野にも使えるフォーマットではないか、という話になる。握手されてから握り返すまでの0.2秒を神経科学する、流れ星が輝き出すまでの0.2秒、ビッグバン直後の0.2秒を宇宙物理学する、花火が開くまでを化学する、一目惚れの0.2秒を心理学する、ひらめきの0.2秒、といった案が次々に出た。水野は医療や薬の話は分かりやすいと言い、堀元は、普段オートでやっていて内部構造を気にしていないが、よく考えると「それが0.2秒なのか」と驚くものが向いているとして、クリックはちょうどいいと述べた。宇宙物理学のように時間スケールの長い分野は、0.2秒にそんな中身は詰まっていないだろうと思わせる点が面白い、という指摘もあった。

堀元は、このシリーズに近いものとして『「次の一手」はどう決まるか——棋士の直感と脳科学』を紹介した。Amazonの説明によれば、盤面を瞬時に把握して先の先まで読んだかのような手を指す棋士の直感を、認知科学と人工知能の研究者、そしてプロ棋士自身の分析から明らかにしようとする本である。二人は、50年後には「シリーズ0.2秒」がブルーバックスのようなシリーズ名になっている可能性もある、と冗談半分に語った。

書くのは面倒、それでも2年かけてほしい

もっとも、堀元は書く作業そのものが面倒で、構想を広げる打ち合わせだけをやりたいと本音を漏らす。水野は、人は「これだけの時間をかけた」というものを評価してくれると話した。自分の本は2年かけたと言ったことで予約が入ったと感じているという(収録は8月上旬で、発売前だった)。そして、堀元にも2年ほどじっくりリサーチして統合したものを出してほしい、35歳までに、と迫った。水野は、自分に本を書くよう勧めた小倉さんから「勉強すればするほど自由に書けなくなる。残された期間はそれほど長くない」と言われて急いだという。堀元も、「コンピューターサイエンスが分かってきたかも」くらいの時期に書かないと、完全に分かってからでは遅い気がすると同意した。

水野は、本の全体像が固まったあとに、たとえのためのリサーチが始まると話す。まったく関係ない分野から事例を集めてパッチワークにしないと、専門家が書いた面白い本には勝てない。リサーチは内容が固まったあとに第2弾が始まる、というのが水野の実感である。これに対して堀元は、数理モデル研究者の江崎先生と飲んだ際、事例のリサーチはClaude Codeで自動化し、寝ている間に1000個出させればいい、という話が出たと紹介した。そのうえで「水野の半年は意味がない」と言っていた、と冗談を足したが、すぐに自分の脚色だと認めている。

刊行時期については、「来年の誕生日」までという話が一度出たものの、1年では原稿が間に合わないということで、2年ほどかけてほしいという水野の希望が残った。堀元は前向きに検討すると答えつつ、読みたい人が一定数集まれば書く、と結んだ。そして最後まで解けなかったのが、マクルーハンのいう「尻の絶対奪格」と「電気ブドウ」のジョークの意味である。二人は、分かる人がいたらぜひ教えてほしいと視聴者に呼びかけて回を締めくくった。