ベンチプレス400kgの藤本竜希が語る、英語と筋力で進んだ受験、医師国家試験2度の不合格、医者にならない選択

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概要

京都大学医学部生のYouTuberもごが、ベンチプレス400kgを挙げたパワーリフターの藤本竜希に札幌で話を聞いた。藤本は国立医学部を卒業したが、医師免許は持っていない。本人は、医学との関わりは「医学部を卒業はしている」という最低限のものだと話す。英語と筋力を武器に高校・大学受験を突破し、医学部在学中もベンチプレスを続け、最終的に医者にならない道を選んだ経緯を、幼少期から順にたどっている。

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小柄な子どもだった少年期とアメリカ生活

藤本は2000年1月生まれで、もごと同学年の26歳である。現在は身長177cm、体重150kgだが、子どもの頃は小柄で、小学6年生のときはクラスで一番前だったという。小学校の途中で、血液内科医の父親の仕事の関係でサンフランシスコに移った。現地の学校に電子辞書だけ持たされて放り込まれた環境を、今振り返ると過酷だったと語る。

アメリカでは体操と空手を始めた。体操は懸垂などの自重トレーニングの基礎のようなもので、空手は極真系の大山空手という、実際に当てる流派だった。この頃から漠然と「強くなりたい」という気持ちが芽生えていたかもしれないと藤本は話す。勉強面では、向こうで小6〜7年生向けの数学のテキストに取り組み、神童扱いされていた。ところが小学5年で日本に帰ると、自分の学年の算数のテストがまったく解けなかった。藤本はこれを、当時の日米の教育システムで進み方に差があったためだと説明している。

内申「Eランク」から札幌南高校へ

地元・札幌の中学校に進んだ藤本は、日本の空手は厳しいという噂を聞いて怖くなり、代わりにキックボクシングを始めた。小学校時代は親に「遊びたい、その代わり中学に入ったら見ていてくれ」と宣言し、ほとんど勉強しなかったという。それでも中1最初のテストで学年10位前後になった。その中学は、北海道で最も偏差値が高いとされる公立の札幌南高校に毎年10人ほど進学する学校で、10位は南高を狙える位置だった。ただし藤本によれば、これは英語が突出していたおかげで、他の科目がものすごくできたわけではない。

問題は内申だった。札幌では学力・提出物・授業態度などから総合ランクが出る。南高にはAランク、悪くてもBランクが必要とされていたが、藤本はEランクだった。教師に対して「自分は50m走で5秒で走れるのに、あなたたちは週に何本ダッシュを練習したかで自分を測ろうとしている」と言っていたという。英語の宿題ワークは一度も提出せず、授業中は本を読んでいた。その結果、英語はテスト100点でも5段階評価で4、数学は95点で3だった。

転機は入試制度の変更だった。従来の選抜は一般枠70%、内申重視枠15%、当日点重視枠15%で、当日点重視枠でも内申との比率は8対2や7対3程度だったため、藤本は内申を少しでも見られると落ちてしまう。ところが藤本の受験年から、内申を一切見ない10対0の枠ができた。それで受験し、合格した。英語は満点を取れるのに勉強時間はゼロだったので、他の科目を少し勉強し、英語で浮いた時間を遊びとトレーニングに充てていたという。

ボブ・サップをきっかけにベンチプレスへ

ベンチプレスを始めたのは中学時代である。キックボクシングをしていた頃にボブ・サップの動画を見た。K-1では弱いと言われていたが、藤本には「フィジカルだけで立ち技格闘技のトップ団体で勝ったり負けたりできる」ことが衝撃だった。体を大きくしようと補強のつもりでウエイトを始めたところ、そちらのほうが楽しくなった。キックボクシングをやめ、パワーリフティングのジムに入会したのが中学2年で、競技はベンチプレス専門である。

入会時は身長159cm、体重60kgだった。それが1年後の中学卒業時には173cm、103kgになり、学生服を3回買い替えた。高校に入った頃は1日に米1升、10人前ほど食べていたという。父親は163cmで50kg台、母親は158cm程度で、本人は当時なぜか2mくらいになれると思っていた。藤本は、成長期にたくさん食べて運動したことが大きく、ラグビーなどをしていても同じ結果になったと思う、座って勉強ばかりしていたら160cm台だっただろうと推測している。

トレーニングや栄養の知識はネットで集めた。英語が読めるので英語の論文やYouTubeに当たった。当時の日本のフィットネス業界はアメリカに追いついておらず、英語ができると入ってくる情報がまったく違ったという。

記録は早くから伸びた。家で80kgのセットを買ってもらったり、キックボクシングのジムの器材を使ったりしていたため、パワーリフティングのジムに入った時点ですでに85kgを挙げていた。中3では190kgに達し、中学の終わりに全日本の18歳以下の部に初出場して優勝した。14歳で当時のU18日本記録を余裕で超えたという。

フルギアベンチプレスは「ポーカーに近い」

高校1年の5月には初めて世界大会に出場した。種目は、中学時代の190kgとは別の「フルギア」だ。硬いシャツを着て、それを無理やり伸ばしながら挙げる競技で、現在の400kgもこちらの記録である。ここで295kgを挙げ、当時のU18世界記録とU23世界記録を同時に更新した。15歳だった。

藤本はフルギアの魅力をゲーム性の高さだと説明する。シャツがきつすぎるとバーが胸につかず、緩すぎると重量が挙がらない。その境目を攻める必要がある。さらに大会の試技は3回までで、一度申請した重量は失敗しても下げられない。400kgで失敗したから今日は380kgにする、ということができず、藤本はこれを「チキンレース」のようだと言う。ポーカーをしたことがあるかともごに尋ね、ポーカーに近いと続けた。自分が強くなくてもブラフでライバルを揺さぶれる。たとえば「420kgを挙げる」と吹いて回り、ライバルが420kgで始めて3回とも失敗すれば、自分は370kgで優勝することもありうるという。

英語偏差値99、数学45の高校生

札幌南高校での最初の3科目テストは学年10位だったが、中身は極端だった。学内偏差値は数学45、国語42、英語99。英語のテストは平均が20点台、2位が60点台で、藤本は93点を取った。英語だけで総合点を水増ししていることは周囲も分かっていた、と本人は笑う。全国模試の英語で1位になり、偏差値101を記録したこともある。英語の論文を結論ぐらいまで読み取れる以上、筆記なら平均的なアメリカ人より英語ができるかもしれない、と自己評価する。TOEICは受けたことがなく、小5で帰国したときに英検2級を取っただけだという。

将来の志望はなかなか定まらなかった。高1の頃は弁護士を考えた。人と話して相手の意見が変わるのが好きで、猫好きの人に犬の良さを力説して犬好きにさせるような瞬間が気持ちいいという。ところが有罪と分かっている人の弁護もしなければならないと聞いてやめた。検察官はキャラクターが合わないうえ、特段儲かる職業でもないと聞き、候補から外した。

一方で、お金は好きだった。筋力のおかげで普通の高校生より大人の集まりに連れて行ってもらう機会が多く、筋力があってもお金がないために社会的に強くない大人を見てきた。社会的な強さはベンチプレスではない、お金を持っているほうが思い通りに生きられる、と気づいたという。

16歳で日本歴代最高重量、それでも稼げない競技

高校時代、藤本は370kgを挙げた。年齢を問わない日本歴代最高重量で、それまでの保持者は40代、その前は30代だった。この競技は35歳前後が最も強いとされるなかで、16歳で日本記録を出したことになる。「年齢を加味すれば偏差値150くらい」と本人は言う。世界大会でも高1で295kgを挙げたあと、高2・高3と優勝した(いずれもU18の部)。

ただ、スポンサーはほぼつかず、もらえたのはプロテインなどの物品程度だった。賞金のない、むしろお金を使うスポーツで、世界大会の遠征費も親に頭を下げて出してもらっていたという。

受験は「最も確度の高い生涯収入の上げ方」

受験勉強を本格的に始めたのは高3の秋だった。医学部を選んだ理由を、藤本は「自分が今できる努力で生涯収入を上げる方法として、医者になることが最も確度が高かった」と語る。医者のレールに乗れば少なくとも貧乏は脱せられ、好きなことも続けられる。父親を見て医者はとても忙しいものだと思っていたが、ワークライフバランスの取れた医者もいると知った。目指したのは「バイト医」で、週3日働いて年収1500万円ほどを得て、その資金で何かを始め、いずれはバイトもやめるつもりだった。医療そのものには興味がなかったという。解剖学は嫌いではなく、人体の「正常」は好きだが「異常」は好きではない。トレーナーとしてゼロをプラスにする作業は好きでも、マイナスをゼロに戻す作業にロマンは感じない、と説明している。

当初は北海道大学医学部を志望した。北海道に残るなら最高の学歴だからだ。高3の秋にジム通いをやめて勉強に集中し、センター模試で60%前後だった得点が、直前の過去問では9割を超えた。1日12時間ほど勉強していたと言うが、「本当に缶詰になった人に怒られるくらい」の程度で、実際に12時間勉強していたわけではないかもしれない、12時間勉強する環境に身を置いていた、と言い直している。

センター本番は87%。北大を狙うには93%ほど取るつもりで、センター後に二次試験対策を詰め込む計画だったため、二次の勉強はほぼ手つかずだった。浪人だけは避けたかったので北大を諦め、札幌から近い旭川医科大学に切り替えた。二次試験は英語・数学・面接の3つである。英語はどんな試験でも8割5分は取れる自信があり、面接は6人ほどの集団討論だった。人の話をまとめて議論の中心になるのは苦手ではない。英語と面接で十分に点が取れれば、数学が0点でも合格する計算だったという。もごは「面接を戦力として計算に入れて臨む人を初めて見た」と驚いていた。

センター試験の2週間後には全日本のベンチプレス大会に出場し、優勝している。面接のテーマはスマートフォンについてどう思うかといった、医療知識のいらないもので、手応えはあったが得点は開示していない。入学後、英語の教員から「なぜそんなに英語ができるのか」と声をかけられたという。

留年と隣り合わせの医学部生活

医学部生活は忙しく、留年の不安が強くストレスが大きかった。特に1〜2年生のうちは物理や化学などの一般教養科目で留年者が出て、すべてが必修で1科目でも落とせば留年だった。藤本自身は一度も留年していないが、常にぎりぎりで、進級発表の日は眠れなかった。CBTは学年で下から4番目、不合格者が2人出たため、合格者の中では下から2番目だった。

在学中もベンチプレスは続けた。ただ、国際大会に出るには1週間ほど休む必要があり、単位が足りなくなって留年してしまう。そのため出られたのは、大学2年のときに成田で開かれた世界大会(U23の部で優勝)と、大学5年のときに洞爺湖で開かれたアジア大会(一般の部で優勝)の2つだけだった。医学部をきちんと出た人の努力を10とすれば、自分は3くらいしかやっていない、と藤本は言う。

大学3年頃からは、ベンチプレスのコーチングやトレーニングプログラムの販売など、競技をお金に変える仕事に目覚めた。本人の中では、大学はもはや「お金稼ぎの邪魔」になっていたという。

実習で感じたことと、医者にならないという決断

大学4年から始まった臨床実習では、興味が湧くかどうかを確かめる機会が続いた。結論として、興味は湧かなかった。心を動かされる場面はあった。出産に立ち会ったときは生命の神秘に感動し、もごもこれに同意している。罪のない子どもが重い病気で痛みに泣いているのを見て、なぜこの子がこんな目に遭わなければならないのかと涙するほどの衝撃も受けた。

普通ならそこで小児科医を志すのかもしれないが、藤本は「自分には無理だ」と思ったという。困っている人がこれほどいるなら、なおさら医学に身を捧げられる人間が診るべきで、自分のような人間が診るのは無責任だと考えた。

この判断には、自分の身体についての考えも重なっている。藤本は、150kgの体型のままならいずれ心疾患で死ぬだろうと話す。脂肪でも筋肉でも、血液を送り出す心臓の負担は変わらず、筋肉のほうが血液量はむしろ多いかもしれないという。それでも自分は、避けられるものをあえて避けず、ベンチプレスという生き方を優先した結果なので、納得して死ねる。しかし生まれつき病気を持ち、3歳まで苦しい治療を受けた末に亡くなる子どももいる。そんなことがあっていいはずがない、残酷な話から目を背けたかった弱い自分がいた、私生活を捨てて身を捧げられる人間でなければ診てはいけないと思った、と藤本は語った。

こうして医者にならないと決めた。ただし、研修を受けてバイト医をやる考えはあまり変わらなかった。AGA治療のように、目の前で救えたはずの命に向き合う場面を避けられるバイトもあるからだ。

実習をこなしながら400kgに挑戦

実習期間は「とりあえず乗り切る作業」で、毎日は死んでいるようだったという。給料の出ないサラリーマンをしながら副業をしている感覚で、見学しているだけの時間が多い実習より、家で座学をさせてほしいと思っていた。実習後はトレーニングと仕事をしていた。大学4年の全日本で380.5kgを挙げ、同じ年に初めて400kgに挑戦している。「病院実習がしんどかった」と言うと医学部の同期に笑われたほど、要領よくこなしていたという。

医師国家試験に2度不合格

国家試験は、9割が興味のない内容なのに、人生で最もボリュームのある試験だった。合格には4000時間の勉強が必要とも言われる。卒業試験は合格者の中で最下位で、徹夜で臨んだ。それで通ったので国試も同じ感覚でいけると考えてしまい、本格的に勉強を始めたのは年明け、試験は2月6〜7日だった。

その頃はうつに近い状態で、この人生でいいのか悩んでいた。興味もなく、使うかどうかも分からないもののために、人生で最も労力のいる試験に力を注ぐべきか。24〜26歳という何でもできる2年間を、研修のために差し出すべきか。医療者にとっては尊いことでも、自分にとっては意味が限られている。「考える人」のように、行動しないまま悩み続けていたという。

結果は不合格だった。ネットのコメントでは医学生、医者、医者になれなかった人の3パターンで語られるが、実際には今も医師免許を持っていない。藤本は「炎上するかもしれない」と前置きしたうえで、国家試験の受験資格を売れるなら1億円くらいでM&Aしたい、と冗談まじりに語った。そして、実習にそれほど真剣に出ていなくても、国家試験を頑張れるくらい医療が好きなら医者になっていい、逆に自分のような人間には診てほしくない、と述べた。もし1〜2年次で留年していたら、考えすぎて間違いなく辞めていただろうとも言う。

在学中には、欲しかったお金を医者はそれほどもらっていないことにも気づいた。難易度と収入が比例せず、医師はもっともらうべきだという。一方で、バイト医として生きたいと言っている自分のような人間がお金をもらえる仕組みもおかしいと感じた。わざわざ医療職で変則的な働き方をしなくても、年収1000万〜2000万円は稼げる、たとえばマグロ漁船に乗ればいい、と冗談めかしている。

2度目の国家試験は翌年に受けた。学費を出してもらった親に顔向けできないという周囲からのプレッシャーもあった。ただ、その1年間は実質的に事業準備に充てた。浪人生として周りに見られていた時期にYouTubeを始め、何をすれば稼げるかを周囲に聞いて回り、手を出しやすかった物販に取り組んだ。現在はトレーニング用品やアパレルを販売する会社を経営しているほか、ベンチプレス関連の仕事や、札幌を訪れる英語圏の客向けのツアーガイドもしていた。ツアーガイドは収入も良かったという。医者にならない選択をした以上、医者より稼がなければ意味がないと考えていた。2度目は「ほぼ記念受験」で、結果は前年より悪かった。

仕事を辞めたら400kgが挙がった

400kgを挙げたのは2024年である。国試に落ちてYouTubeを始め、まずは3か月勉強せずにベンチプレスに全振りすると宣言して、実際に挙げた。筋トレ界隈では、大きく強くなる秘訣は「仕事を辞めること」だと言われるが、忙しい学生生活からほぼ自由業になったことでそれを実証してしまった、と藤本は笑う。

世界記録は426kgで、同じ選手がずっと保持している。藤本はまだ一般の部で世界大会に優勝していないため、世界一は名乗れないという。ベンチプレスは14年目になり、そろそろけりをつけたい。最低限、世界大会で優勝して世界記録を取りたいと話す。そのうえで、30歳までには減量を始めたいという。150kgの75歳は見たことがないので、30歳頃から徐々に110kg程度まで落とせば少しは延命になるのではないかと考えている。覚悟の上で太ったので早死にが怖くてたまらないわけではないが、50歳で死ぬのは嫌で、70歳くらいまでは生きたい。妻からも「早死にしないでね」と言われている。

妻には大学6年の12月、国試の前にプロポーズした。結婚するには定職が必要だと考えて勉強したが、結局間に合わなかった。1人なら国試に落ちてフィリピンにでも行けばいいと思っていたが、2人分の人生に責任を取るべきだと考えたという。婚約期間が1年半ほど続き、昨年4月に結婚した。収録中には、体重53kgのもごを軽々とお姫様抱っこしてみせる場面もあった。

幽霊会員に頼らないジム

撮影場所は、数週間前にオープンしたばかりの藤本のジムだった。10kg以下のダンベルがないのは意図したものではなく、なくてもいいかと思っていたが、あったほうがいいので買うという。

藤本は、このジムで儲かるとは考えていない。儲かっているジムは幽霊会員の多いジムで、全員が一度に来たらパンクする会員数を抱えているところが多い。そうした運営はしたくないので、アクティブなメンバーだけで枠を埋めたい。そうなると人数は限られるため、「強くなりたい、でかくなりたい、そのためにちょっとバカになれる」同じマインドの人に来てほしいと話す。食事の席で「ベンチプレスで何百kg挙げても何の役にも立たない」と言う人がいると興ざめする、みんなでこの夢に酔っていたい、というのが藤本の考えだ。その夢を持っていれば、初心者でも構わないという。

「好きなことを見つけて打ち込む」

最後に20〜30代の視聴者へのメッセージを求められると、藤本はまず、自分を成功者だとは思っていないと断った。会社はまだ2年目に入ったばかりの走り出しの法人で、自分はまだ修行の身であり、今は「ただベンチプレスが強いだけ」。多く稼いで初めて成功と言えるという。

そのうえで「無責任なことになるが」と前置きし、好きなことを見つけて打ち込むことが何より重要だと語った。親に言われたから、今の仕事を辞めると一時的に収入に困るから、ということはあまり考えないほうがいい。人生は一度きりで、好きなことをやって死ねたら人は幸せなのではないか。みんながそうやって頑張れば豊かな日本になるのではないか、というのが藤本の締めくくりの言葉だった。