英語は「ズケズケ言う」言語なのか――井上逸兵氏と考える日本語と英語のポライトネス
ゆる言語学ラジオ日本語は遠回しで間接的、英語ははっきり言う直接的な言語だという見方は広く共有されている。日本語は言いさしや主語の省略が多く、敬語の形式も発達している。一方、英語は事実を断言し、主語も明示し、敬語もないと学校で習った覚えがある。ゆる言語学ラジオの堀元見氏と水野太貴氏がこの通念をぶつけると、社会言語学者の井上逸兵氏は「3割ぐらい合ってます」と答え、むしろ「全く逆」だと述べた。本記事では、日本語と英語のポライトネスを比べたこの回の議論を追う。
ポライトネスとは何か
最初にポライトネスの意味を確認した。「礼儀」のことだと思われがちだが、井上氏の定義では、言葉を使って人間関係をどう作っているかがポライトネスである。人との距離を近づけたり遠ざけたりする調整だけでなく、「私はこういう人間だ」という態度の表示も含む。井上氏は、ラーメン二郎の回でも出てきた「インデクシカリティ」、つまり話し手がどんな態度を示しているかという観点もポライトネスの一部だと説明した。会話、町の看板、アナウンス、論文まで、ポライトネスの視点から見ればあらゆる言語現象がポライトネス現象になるという。
日本語の特徴として井上氏が挙げたのは、敬意が形式によって保証されている点である。敬語を使えば、少なくとも態度としては丁寧に振る舞っていることになる。「分かりました」をどんな言い方で言っても、形式上は敬語だ。聞き手から出た「チッ、反省してまーす」という例も、形式上は敬語になっている。敬意を示すポーズは取りつつ、実際には大して反省していないことを示す。これもポライトネスの現象として分析できるという。
英語の丁寧さは「言い方」に宿る
英語には日本語のような敬語の体系があまりない。学校では「can より could の方が丁寧」といった形式上の違いを習う。井上氏もそれが原理的に重要な現象であることは認めたが、英語が丁寧に振る舞うときは大部分を音声、つまり言い方に頼っていると述べた。
井上氏によると、英語では比較的ゆっくり話し、アーティキュレーション(一音一音の発音)をはっきりさせた方が丁寧に聞こえる。ただしバランスが重要で、ゆっくり言いすぎると子どもに話しかけているような、相手を見下した感じになってしまう。外国語として身につけるときに難しいのはこの加減だという。言い方で丁寧さを表すため教科書の文字には書きにくく、授業でそこまで教える時間もない、と井上氏は指摘した。
井上氏は、自分はネイティブではないと断ったうえで「Could you do that for me」をカジュアルな言い方と丁寧な言い方で言い分けてみせた。ゆっくりはっきり言った後者の方が丁寧に聞こえ、聞き手は後者が文末で上がっていたことにも気づいた。井上氏は、相手の意向を尊重する上昇調も距離感の問題でありポライトネスの重要な部分だと応じた。
ここで水野氏が、英語話者の知人から聞いた話を紹介した。アメリカでも「モテテク」のようなものが出回っていて、Yes/No 疑問文でも上昇調にしない方がセクシーだとされているという。低い声で下降調に話す方が余裕があるように聞こえるらしい。井上氏も、下降調の方が断言しているように聞こえるので、自信がある方がモテるならそうなるのだろうと述べた。中学校で「疑問文は文末を上げなさい」と習って教科書通りに話す真面目な人がモテない、という冗談も交わされた。
相手の領域に踏み込まない英語
井上氏が挙げた二つ目の特徴は、英語が相手の領域に強く配慮する言語だという点である。井上氏の整理では、日本語は自分の言うことを緩く間接的に言う方向に特徴がある。英語は相手の領域に入りすぎないようにする方向に特徴がある。
例として感情形容詞の人称制限が取り上げられた。日本語では「私は悲しい」とは言えるが、主語を「彼」に変えると「彼は悲しい」とは言いにくく、「彼は悲しそうだ」「悲しいだろう」と言う。水野氏は、英語なら He is sad と言えるので、英語の方が他人の感情に踏み込んでいるのではないかと反論した。井上氏は、文法のレベルではそう言えるが、実際に使われているかというと、他人の内面に踏み込んで「あいつは悲しがっている」とはなかなか言わないと答えた。言語として可能かどうかと、実際の運用とは別の階層の話だというわけだ。
英語話者は「I think」「I guess」「sort of」といったヘッジ(ぼかし表現)をよく使う。井上氏によれば、相手に意見を押しつけたり相手の領域に入り込んだりすることには強い抑制がかかっている。
自分の希望は言ってよいが、言い方はくねくねする
堀元氏が「それは個人主義ということか」と尋ねると、井上氏は少し違うと答えた。例えば何かをしたいとき、「I want to do this」は非常に子どもっぽく聞こえる。「I'd like to do this」ならまだましで、「I was just wondering if I could...」のように「〜してもいいかな」と言う方がより英語らしいという。
井上氏は、独立した自我があるので、自分の希望や考えを言うこと自体はかまわないと説明した。「飲み物が飲みたい」と言うのは問題ない。ただ、それが相手の持っているものだと話は変わり、非常に気を遣う。実質的には「それをくれ」と言っていても、「あると嬉しいんだけどな」という言い方になる。
逆に、相手に「ああしろ、こうしろ」と言うことはかなり控える。命令形がよく使われるのは、それが相手の利益になる場合だという。「一緒に入りなよ(Join us)」のような誘いは相手のためになるので、命令形で問題ない。
井上氏は映画の字幕も観察している。日本語が原作の作品では「お前ああしろよ」「〜した方がいいよ」といった踏み込んだセリフが多いが、英語字幕ではその多くが「I」を主語にした言い方に変わるという。「お前、あの子に告白しちゃえよ」は「私だったらあの子に告白するけどな」になる。堀元氏は、英語話者はもっと遠慮のない人たちだと思っていたと驚いていた。
スラブ系言語から見た英語――ヴェジビツカの出発点
井上氏の研究の出発点の一つは、ポーランド出身でオーストラリアの言語学者アンナ・ヴェジビツカの議論だという。ヴェジビツカはスラブ系言語の話者で、オーストラリア人と結婚して英語に触れ、英語はなんと間接的な言語だろうと感じた。スラブ系言語の話者から見ると、英語は間接表現だらけに見えるという。
ヨーロッパの言語なら感覚は似ているだろうと堀元氏は考えたが、井上氏によれば全く違うらしい。英語らしい「Would you like...?」はまどろっこしくて言いたくない言い方とされ、少なくともデートの誘いでは下手な誘い方になる。ロシア語話者などには「行くだろう?」と言い切る方がよいとされ、先ほどの下降調の話と似ている。
井上氏によれば、イギリスでは家族の中でさえ「Would you like...?」がよく使われ、もはや決まり文句として丁寧だという意識もないほどだという。日本語でいえば、家の中で「すみませんが醤油を取っていただけませんでしょうか」と言うのが普通になっているような状態だ。付加疑問文のバリエーションの多さも他の言語にはないと言われており、英語は間接的にするための言語的装置(デバイス)を山ほど持っている、というのが井上氏の見方である。水野氏も、英語話者の知人からポッドキャストを聞くとみな「I mean」ばかり言っているように聞こえるという話を聞いたと付け加えた。
「one of the best」も断言回避か
一見関係なさそうな例として、井上氏は「one of the + 最上級」を挙げた。最上のものは一つのはずなのに、「最上のものの中の一つ」という言い方は変だと聞き手の二人も感じていた。井上氏はこれも婉曲表現の一種だと考えている。
井上氏が紹介した場面では、東京で美しい光景を前に「best scenery だ」と言ったところ、「one of the best」と言い直させられたという。堀元氏は「風景にまで配慮している」と驚き、今最高だと思っているならその場で言い切ってもいいはずだと述べた。井上氏は、直接言い切ると不都合が生じるという感覚があるのではないか、あまり断言したがらない人たちだと述べた。
「日本人ははっきり言え」論は的外れか
堀元氏は、ビジネスパーソンがよく言う「日本人は言葉を濁すので、欧米を見習ってはっきり言うべきだ」という主張は見当違いなのかと尋ねた。井上氏は、状況によって使い分けていると答えた。Yes/No が求められる場面には慣習があり、そこでははっきり言う。井上氏は、Yes か No かをはっきり言う文化と、状況に応じた使い分けとを分けて考えており、後者は日本語話者もやっていることだという。
堀元氏は「どちらかに決めてもらった方が覚えやすい」と食い下がった。ここから番組では、何を聞いても「状況による」になってしまい雑学として面白くならない、というやりとりが終盤まで繰り返される。
個人主義のモチベーションが違う
堀元氏は、人から相談されても「お前の人生なんだから好きにしろ」と思ってしまう自分や水野氏には、英語的なマインドが合っているのかもしれないと述べた。これを受けて井上氏は、ここ数十年で日本も個人主義的になってきたと言われるが、同じ個人主義でも動機が違うと指摘した。英語は相手の領域に踏み込まないことに動機があり、日本語は自分の言いたいことを柔らかく言うことに動機がある。
井上氏は、日本を「集団主義」とする見方にも疑問を呈した。「集団主義」が何を指すのかははっきりしないという議論が昔からある。西洋は個人主義的で、日本はよく分からないが個人主義ではないので集団主義だ、と言われていた時代があったというのが井上氏の見立てだ。個人の欲求より集団のルールを優先する、みんなで一緒に動く、思いやりで相手の気持ちを推し量るから和を重んじる、といった理由が挙げられてきた。しかし日本の伝統的なスポーツは相撲のように1対1のものが多く、西洋のスポーツの多くは集団競技である。日本にも個人主義的な面はたくさんあり、ひとまとめに集団主義と呼ぶ危険性はだいぶ前から指摘されている、と井上氏は述べた。
代わりに井上氏が古典的な議論として紹介したのが「間人主義」、つまり日本人は集団ではなく人と人との関係で動いているという見方である。人からどう見えるかを強く気にし、言葉にされない相手の気持ちを推論する。井上氏はこれを共感(エンパシー)に近い感覚と呼び、日本では子育ての段階から「そんなことしたら〇〇ちゃんがかわいそうでしょ」と教えられると説明した。水野氏も「〇〇ちゃんの気持ちを考えなさい」とよく言われたと応じた。井上氏は、他人が何を考えているかに常にアンテナを張ることが日本のコミュニケーション文化の基盤にあると考えている。
「言わずに推論する」か「言語化する」か
井上氏は言語人類学の研究も紹介した。欧米の多くでは子どもに言語化させることが子育ての基本で、幼い頃から「思っていることを言葉にしなさい」と言われ続ける。日本では「言わなくても分かりなさい」と育てられるが、学校に入った途端に「言葉にしなさい」と求められる。欧米では子育てから学校まで一貫しているのに対し、日本にはこの断絶があり、言語化に関して差が出るという。
これに関連して堀元氏は最近の体験を語った。言語化は得意で好きだと思っていたが、AI製品のClaude Codeを1日12時間ほど使うようになってから、「この要件でよいか」「この要件について教えてほしい」と次々に尋ねられる。自分の中のふわっとしたものをすべて言語化し続けるのがこんなにストレスだとは思わなかったという。堀元氏はこれを、幼少期から小学校入学へのギャップが大人になってもう一度来たようなものだと表現した。AIによって強制的に言語化させられることで、コミュニケーションのパラダイムが変わるかもしれないとも述べている。
井上氏は、言葉にしないものを分かる訓練を積んできた結果、国際的な交渉などで「ルールに載っているから言わなくても大丈夫だろう」と考えて負けることがよくあると指摘した。一方で、言わなくても分かり合えることは日本のコミュニケーション文化の良さでもあり、どうすべきかは迷うところだと答えを保留した。
さらに井上氏によれば、2000年代に入ってからアメリカのビジネスパーソンが、これからの人材に重要なものとして「エンパシー」を挙げ始めたという。日本人がずっとやってきたことを今になって言い出したという構図だ。水野氏は、『論理的思考の文化的基盤』の著者である渡辺先生の新刊『共感の論理』もまさにそうした内容で、共感をベースにした日本の教育は実はかなり先を行っていたのではないか、というのが渡辺先生の主張だと紹介した。
堀元氏は、言語化にも流行の波があると指摘した。ここ数年「言語化」を冠した本が多く出たが、その反動で「何でも言語化できるのが偉いのか」という逆張りの論客として水野氏がTBS CROSS DIGなどに呼ばれている、とからかった。水野氏は、誤解のないよう文脈を共有するためのビジネス上の言語化は大事だとしつつ、本当に大事な感情まで言語化してよいのかという違和感を語った。
見えなくなるまで見送るのは「見張り」か
話はポライトネスに戻る。英語は他者の独立を重んじ、日本語は自分の考えをそのまま出さない方向に重点がある。井上氏はこの枠組みが言語以外の慣習にも応用できると述べた。
例に挙がったのは、ガソリンスタンドやディーラーの店員が、客の車が見えなくなるまで見送る習慣である。日本では丁寧に気を遣っていると受け取られるが、欧米の多くの人は、ちゃんと出ていくか見張られていると解釈するだろう、と井上氏は述べた。
井上氏自身の体験も語られた。アメリカで家に招かれて食事をした後、玄関で見送られたが、振り返るとホストはもう家の中に入っていた。招かれざる客だったのか、何か悪いことをしたのかと思ったほどだったが、調べて研究した結果、それも一つの礼儀だと分かったという。「もう見送らない、あなたはもう自由だ」という意味で、すぐ家に入る方がポライトな態度なのだ。ただし、アメリカの中でも地域によって違うと言われることもあるという。
聞き手の二人も身近な例を出した。服屋で紙袋を店の外まで持ってもらうことや、美容院でドアを開けてカードを渡されることが話題になり、堀元氏は冗談交じりに「パッと出たいのに」と嫌がってみせた。
駅のホームでの別れと儀礼的無関心
水野氏は、愛知から東京に出てきて驚いたことを話した。駅のホームで乗る電車の方向が違うとき、愛知では友人の電車が発車するまで手を振って見送り、そこで初めて個人に戻る。ところが東京では、誰かが電車に乗った瞬間にもう一方がスマホをいじり始めるので、何か悪いことをしたのかと思ったという。堀元氏も、地元にいた頃は友人の乗った電車をなんとなく見送っていたかもしれないと振り返った。
乗る側についても話が出た。見送る側が気にしなくて済むよう、ホームが見える席を避けてあえて背を向けて座る。堀元氏は、自分が目上の場合は見送らなければというプレッシャーを相手に与えてしまうので、「もうあなたを見ていないので自由にしてよい」というメッセージを明示的に出すべきだと述べ、死角に入ることもあると明かした。
水野氏は、社会学者ゴフマンの「儀礼的無関心」を持ち出した。都市では他者に無関心であることがマナーになり、電車内でスマホを見ていない方がかえって失礼になる、という話である。エレベーターで皆が階数表示を見ているのも、目の前の人を見るのが失礼だからだ。住んでいるマンションのエレベーターでニュースが流れるのが嬉しいという話や、歯医者のエレベーターのドアに広告が映るのが嫌だという話も出た。水野氏は、見る場所がないという人間行動の原理を利用したのが電車の中吊り広告だと述べた。ただ、皆がスマホを見るようになり、中吊り広告はかなり減った印象があるという。
関係をどこで閉じるか
井上氏は見送りの違いを、関係をどこで閉じるかの違いとして整理した。日本では見えなくなるまでが関係の範囲だが、アメリカでは商談やガソリンの給油が終わった時点で関係を閉じ、それ以上は見送らない。どこで会話を閉じるかによって振る舞いが変わる、ということだ。
もっとも、アメリカでも見送るケースはあるという。例えば教会など同じ信仰を持つ人々のコミュニティでは、礼拝が終わっても関係は続いているという感覚が強いのかもしれない、と井上氏は述べた。コミュニティにより、規模により、南部か北部かにもよる。ここでも「状況による」の連鎖に聞き手たちが悲鳴を上げた。
日本国内でも違いはある。愛知と東京の別れ方は異なるが、同じ地域でも人によるし、卒業式の後のような感傷的な場面ならいつまでも見送ることもある。井上氏は、学生時代に上京して驚いたことも話した。同じ授業を取っている間はキャンパスで挨拶するのに、授業が終わった途端に避けられたという。自分の子どもが幼稚園に通っていたときも、卒園すると挨拶しなくなる保護者がいたそうだ。ただ、それが東京特有なのかと問われると、井上氏は「人によると思います」と答えた。
水野氏は、東京の人は会話の終わりが唐突だとも感じている。大学1年生の頃、会話のキャッチボールが2秒ほど途切れた途端に相手がスマホを見始め、まだ話を返すつもりだったのに戸惑ったという。スマホを見ることが会話終了のマーカーになっているのではないか、という仮説である。三宅香帆氏は、ランチで自分の入る話ではないと思うと本を読み出すという話も紹介されたが、それは三宅氏個人の特性だろうということで落ち着いた。
英語に敬語はないのか
最後に堀元氏が、「英語に敬語はない」という通説にどう答えるべきかを尋ねた。井上氏は、敬語という形式はないかもしれないが敬意を表す術はあり、それは文字にはあまり現れず音に現れる、と答えた。顔の表情なども含めたマルチモーダルな手段で敬意を表す面は英語の方が大きいとも述べた。
堀元氏は、顔や言い方まで気にしなければならない英語の方が難しく、形式さえ整えればよい日本語の方が気楽かもしれないと感想を述べた。井上氏は、英語話者から見れば、表情があまり変わらず形式を操作しなければならない日本語の方が難しいだろうと返し、それぞれに難しさがあるとした。
堀元氏はさらに、形式だけ敬意を保って言い方はひどい「反省してまーす」のような芸当は、言い方で丁寧さを表す英語ではできないのではないかと指摘した。井上氏は、その舌打ちの部分はそもそも丁寧ではないと応じた。日本語の敬語の形式性と英語の音声依存という対比は、この冒頭の例に戻ったところで話がまとまった。
ゆる言語学ラジオ。
一般的に日本語ってすごい婉曲的な言語って言われますよね。はっきり言わないって感じしますよね。どういう時に思います?
「私としてはこのようにしていただけると」みたいな言いさしですね。「してくれ」とは言わない感じしますよね。
そうですね。あとは主語を言わないとか、敬語形式が発達しているとか、こういうのも婉曲的だと言えますよね。一方で英語ってどうです?
もうはっきり言うでしょ。「いや、それはノーだ」とか「君はそうすべきでない」とか言うよね。
うん。事実は断言して主語も明示するし。敬語についてはどうですか?
敬語もだからあんまないんじゃない?なんかないって習ったことある気がする。
そうすると、丁寧さみたいなのを比べた時、日本語と英語ってどっちが丁寧……日本語の方が丁寧ですよね。そういう言葉を持った素晴らしい国家に我々は生まれてね。メリケンの奴らは粗野な文化です。
これシャレにならないんだよな。ボケで言ってんのに。それがあんま伝わらない気がしてきたんでやめます。
やめてください。ともあれ、日本語は間接的、英語は直接的な言語だって皆さん思ってると思うんです。社会言語学ご専門の井上先生、どう思いますか?
はい。3割ぐらい合ってます。
あ、3割ぐらい。全然合ってないぞ。3割しか合ってないの?
3割ぐらいです。むしろ全く逆ですね。
お、そうなんだ。だったら3割とも言わないでください。もう「間違えてます」って言って欲しかったですね。3割の点の内訳も気になるし。
え、研究者に対してそれじゃ……。だめです。先生、YouTuberとして売れたいんだったらもっとはっきり言ってください。「全然大間違いねえ」とか言ってくれないと。大間違いで。よし。
ということで今回のテーマは、日本語と英語のポライトネスを比較してみようという。
えっと、ポライトネスって敬意みたいな話でしたっけ?
はい。ポライトネスはですね、過去に「させていただく」の話をした回とか、言語学的に正しい雑談の方法について語った回でも触れたんですけれども、おさらいしましょう。何でしたっけ?
敬意みたいな意味じゃなかったっけ?ああ、礼儀みたいなことでしょ?
違います。
ああ、違う。さっき習ったことやらなくていいんですよ、別に。すぐ実践するやん。
間違ってます。言葉を使って我々は人間関係をどうやって作ってるかっていうのがポライトネス。
あ、はいはい。なんか思い出してきたぞ。ネガティブポライトネスとポジティブポライトネスがあって、距離感みたいなことか。
だから、もうありとあらゆるこのやり取りもそうですし、町の看板もそうですし、アナウンスもそうですし、論文も全部ポライトネスに関わってくるんで、あらゆる言語現象は全部ポライトネス現象なんですよ。ポライトネス的な視点で見ると。
え、僕は主に言葉を使って距離感を表示して調節することをポライトネスだと思ってましたけど。
うん。そっちの方が合ってますね。
ああ。でもこれは本質ではなくて、もっとさらに広い概念ってことです。
距離感だけじゃなくて、インデクシカリティっていう、どういうふうな態度を示してるかっていうようなこともポライトネスの事象の一部なので。
あ、ラーメン二郎の時に出てきたインデクシカリティもポライトネスの一部。
はい。一部だという。例えば日本語の場合には形式的に敬語のシステムがありますよね。ということは、あれを使えば一応態度として敬語を使ってますっていう態度になりますよね。どんな言い方でも、「わかりましたよ」とかって言っても、「分かりました」って言っても、どっちも形式的には同じですよ。
だから「反省してます」って言っても一応敬語なんですよね。
そう、そう。国防や。あ、だからそういうことだわ。
形式的に保証されているのが日本語の敬意を表す特徴で、英語は形式的にはあんまないんですけど、例えば学校の英語の時間ので言うと、canよりもcouldの方が丁寧になるみたいな。そういう勉強はするんです。
それももちろん一部ですし、原理的にはそれ非常に重要な現象なんですけど、だけどそれだけではなくて、どうやって敬意を表すかっていうのが日本語とだいぶ違ってるんですね。
なるほど。えっと、だから結局ポライトネスは何なんですか?
言葉を使って人との関係構築を調整したり、それは近くなったり遠くなったりっていう距離もありますし、「私はこんな人間ですよ」っていうような表示もある、っていうような、もうちょっと広い……
じゃあ「反省してます」はポライトネスってことですよね。
その現象もポライトネス的にどうかっていうふうに。
だから一応反省しているというポーズは取るけれども、そんなに反省してないぞということを示しているというポライトネスなんですかね。
うん。じゃあ今回はポライトネスっていうのに関して日本語と英語を比べていくっていうのが趣旨なんですけど、ちょっと結論を先に伺います。日本語のポライトネスと英語のポライトネスを比較すると、端的にどこがどう違うんですか?
まず先ほど申し上げたように、形式的に保証されてますよね。敬語使えば丁寧であるっていう態度としては一応理解できますよね。でも英語で丁寧に振る舞おうと思う場合に、大体音に依存するんですよ。音声に依存して、簡単に言うと言い方なんですよ。
あ、面白い。日本語は言葉遣いでもう敬意を示せるんだけど、英語は言い方が伴ってないと。
言い方でもう丁寧さを表すので、だから教科書の文字にしづらいんですよ。
なるほど。
だから学校で教える時に、これ丁寧な言い方って文字しかないんで、正直先生もそこまで教える時間もないし、なかなかそういう余裕ないんで、多分そういうことをおっしゃる方は……
すごいな。これめっちゃ有益じゃないか。言い方で敬語なんだ、英語って。へえ。
簡単に言ってしまうと、比較的ゆっくり、そしてアーティキュレーションって発音の仕方をはっきりした方が丁寧なんですよ。
なるほど。
だけどそこもバランスが非常に重要で、あんまりゆっくり言いすぎると子供に喋ってるみたいな感じで馬鹿にした感じなんですよ。
はあ。
それがやっぱり外国語として身につけようとすると難しいんですよ。バランスがね、それ。
え、ちょっと例をもらいたいんですけど。皆さん今等速に切り替えてくださいね。倍速で聞いたら意味ないですからね。
そう。全部失礼になっちゃいますからね。
じゃあちょっと丁寧な依頼の発音の仕方とカジュアルな依頼の発音の仕方、もし可能だったら言ってみていただいてもいいですか?
Could you do that for me? っていうのと、Could you do that for me?
あ、全然違う。あ、確かに。
そう。やっぱり後者の方が丁寧に……私はネイティブじゃないのでそれちょっと差し引いて言っても、ゆっくりはっきり言った方が丁寧に聞こえる。
確かに。確かに。あと前者はなんか下降調でしたよね。後者は「for me」って上がってましたよね。
あ、それもありますね。相手の意向を尊重するのは距離感の問題でもありますし、これはポライトネスに重要な部分で。
そう、この前英語話者の知り合いとお茶してた時に聞いたんですけど、アメリカでもモテテクみたいなのが普及していて、そのうちの1つが、Yes/Noの疑問文でも上昇調にするなっていう教えがあるらしくて。中学校の英語で習った時は、Yes/Noで答えられる疑問文は文末上げてくださいって言われるけど、そうしない方がセクシー、そちらの方がなんか余裕があって。で、やっぱ低い声で話す方が高い声で話すよりもモテやすいらしくて、さっきので言うと「Could you do that」っていうふうに低く喋った方がなんとなくいいってされてたらしいですね。
うん。なんか自信ありそうに聞こえますよね。
あ、そうかもしれないですね。
下降調の方が断言してるように聞こえるので、自信がある方がモテるとするならば、その方がモテるわけです。
うん。もうこれですよ、良くないとこ。中学校の教科書でさんざん習うわけですよ。「Is this a pen?」って上げてくださいと。で、それを学んでバカ正直にやるわけじゃないですか、我々は。で、教科書通りにやってると「プッ、あいつダサ」って思われるっていう、学校教育を守ってる真面目な人がモテなくなる世の中でいいんかと。僕はそういう問題を投げかけたいですね、世の中に。
僕はだからモテたくてアメリカ行って「ペン?」って聞きますよ。
ペン、待って。え、上げて。Is this?
俺はモテたいんで。Is this……ちゃんと。
なんでそれペンかどうかわかんねぇの。とか言いますよ、ちゃんと。
中学英語から離れた方がいいかもしれない。英語で言っちゃったから。例の英文なのがダメだ、多分ね。
じゃあ話戻して、英語のポライトネスとか丁寧さみたいなのは音で表現するんだという。
はい。まずそれが1つだと思います。
あと英語で特徴的なのは、相手の領域に対して非常に配慮するっていうのが英語の特徴としてあって。
そうなんだ。日本語の方がね、配慮してそう。英語の方がズケズケしてそうですけどね。
簡単に言ってしまうと、日本語は自分の言うことを緩く間接的に言うっていう特徴があるんですけど、英語の場合は相手の領域にあんまり入りすぎないようにするっていう許さがあるんですよ。
そうなんですよ。
感情形容詞の人称制限っていう現象がありますよね。例えば日本語って「悲しい」とか「嬉しい」っていう時って、自分が主語の時はね、「俺悲しい」とか「嬉しい」とか言えますけど、主語を「彼」に変えてみたらどうですか?
「彼は悲しい」とは言わないでしょう。
言えなさそうですよね。何て言います?
悲しそうだ。
あ、そうですね。「彼は悲しそうだ」とか「彼は悲しいだろう」みたいに言いますよね。こういうふうに日本語の感情を指す形容詞って、主語が1人称の時にしかそのまま出せなくて、他の2人称、3人称の時は「そうだ」とかっていうふうに言わなきゃいけないと。英語でどうです?
うん。He is sadとか言えるんじゃない?
言えます。言えますよね。だから、その意味でも彼の感情にズケズケ入って言ってるように感じますけど、どうでしょうか。
統語的なレベルで言うとそれはかなり言えることなんですけど、じゃあ実際に「He is sad」って言ってるかって言うと、言ってないです。
え、そうなんだ。
やっぱり言ってなくて、やっぱあの人のことにズカズカ入ってって「あいつは悲しがってる」ってやっぱりなかなか言わないんですよ。
あ、そうなんですか。
つまり今何が起きたかというと、水野さんが聞きかじった知識で「え、でも英語はHe is sadって言うじゃないですか」と。
言語的なレベルとちょっと違う階層の話で、水野さんがおっしゃったことも。
そう、そう。あ、そうです。今だから見当違いで恥ずかしいこと……
いや、そんなことないです。それおっしゃる通りで。
違うと思う。でっかい声で「はい」って言って見当違いなこと喋るやつになった。
例えば1つの特徴は、I think何々とか、なんとかなんとかI guessみたいなとか、sort ofとか、そういうヘッジっていう言い方しますけど、自分が言うことに関してもそうなんですけど、相手に何か意見を押し付けるとか、相手の領域にズカズカ入っていくっていうことに関しては非常に抑制がかかっていき……
なるほど。個人主義的みたいなことなんですかね。
個人主義ともちょっと違って……。違うんですか?例が欲しいんですけど、具体的には。
例えば「これしたい」っていう時に「I want to do this」ですと、めちゃくちゃ子供っぽいんです、やっぱり。
例えば「I'd like to do this」みたいなのはまだマシで、例えば「I was just wondering if I could 何々」みたいな、やってもいいかなっていうような感じで言う方がより英語っぽい感じ。
すげえクネクネしてますね。全然はっきり言ってないな。めちゃめちゃクネクネして。俺は飲み物が飲みたいとか言わないんですね。
あ、でも言ってもいいんですよ。言ってもいいんですけど、その言い方が例えば相手に影響を与える場合にはすごい配慮するんです。飲み物飲みたいならいいけれども、それが相手の持ってるものだったらすごい配慮が入る。
なるほど。
あれ、でもさ、水野さんとかってさ、俺が飲んでる飲み物をさ、「それ俺のだっけ」って言いながら飲むじゃん、勝手に。お前すごい曖昧だよな、人との境界が。
やっぱその英語っていう言語がやっぱ劣っていて……
違う違う。そのボケやめようって言ったじゃん、冒頭で。俺それやめようって。もう今、最近冗談じゃないんだから、それ。
言語学を修めた結果思いました。
でもその言い方をすることによって、2人の関係は強化されますよね。
まあ、まあ、仲いいなとは思います。
ポジティブポライトネス的っていう、ポライトネスでは。
なるほどね。言語学的ボケ。違ったけどね。
意外でした。僕のイメージ、英語の人って「その飲み物を俺にくれ」とか言いそうな気してましたけど。
うん。言うんですよ。言うんですけど、簡単に言うと自分の独立した自我があるんで、自分の希望とか自分の考えはむしろ言ってもいいんですよ。ただ言い方はすごくいろんな……
わかりました。だから実質「俺にくれ」って言ってるんだけど、その言い方を「俺にくれ」じゃなくて、「あると嬉しいんだけどな」みたいな感じになるってことです。
それに対して、相手に対して「ああしろ、こうしろ」っていうのはすごく控えるんですよ。あまり言わない言い方。
あ、そうなんですか。命令形とかね、よく見ますよね。
命令形をよく使うのは相手の利益になる場合でよく使うんですよ。「Join us」みたいな、一緒に入んなよみたいなのは相手の利益あるんで、そういうのも完全に命令形で全く……
なるほど。あ、面白い。相手の利益がある時は命令形でいいんだ。
簡単に言ってしまうとそういう側面が多いと。
不思議。
で、自分の思ってることは言ってもいいんですけど、相手に何か例えば「ああしろ、こうしろ」言わないっていうのは、私、映画の字幕を結構観察していて。
映画を見るんじゃなくて映画の字幕を観察した。忙しいですね。
それの日本語が元々で、結構日本語はズケズケが多いんですよ、セリフ。「お前ああしろよ」とか「何々した方がいいよ」とかっていう結構そのセリフ多いんですけど、ほとんどの訳は「I」に変えるんですよ。「私だったらこうするんだけど」みたいな。
ええ、面白い。
なかなかね、「ああしろ、こうしろ」って言わないです。
だから「お前あの子に告白しちゃえよ」みたいなのって、「私だったらあの子に告白するけどな」になるんだ。クネクネしてます。
面白い。意外。そんな繊細だったの?アメリカ人って。がさつだと思ってたけど。粗野な民族だと思ってたけど、違うんだ。
お前炎上しちゃうよ。
いや、やめようって、このボケ。いや、でもマジでそこまで言わないにしても、そう思ってました。僕は英語の言い方ってそうだと思いました。ズケズケ言うんじゃないんだ。
で、これはですね、言語学的な話をすると、私にとっての出発点はアンナ・ヴィエルジビツカっていうポーランド系のオーストラリアの言語学者がいて、その人が元々ポーランド人でスラブ系の言語、結婚した相手がオーストラリア人で英語と触れるわけです。で、そん時に、なんて英語ってのは間接的な言語だろうって思ったらしいんです。
スラブ系の言語の話者から見ると、英語はなんか間接表現だらけだっていう。
はあ。
そういう話を私もふつう出発点としてるんですけどね。
言うてもスラブ系の人も、ヨーロッパのあたりで大体みんな一緒の感覚だろうと思ったら、全然違うみたいなんですよ。例えば英語の特徴的な「Would you」みたいな言い方、まどろっこしくて、いやいや言いたくないらしいんですよ。少なくともデートの誘い方として「何々しないかな」なんて聞き方するのはすごい下手なデートの誘い方。
へえ。
それは先ほどのモテるのと似たような、下降調のと同じ感じで「行くだろう」みたいな。
行くだろう。行くだろうみたいな。
あ、スラブ系の人。
ロシアの人とかは多分「行くだろう」の方が……
そういう言い方の方がモテるんだ。
はい。で、特にイギリスの人たち、結構多いと思うんですけども、本当に家族の中でのやり取りですら「Would you like 何々」って言い方結構するんで、だからあれはもうね、決まった言い方になっちゃって、そんなに丁寧という意識もないぐらいになってるみたいなぐらいに。例えばI guessとかI thinkとか、そういうヘッジって先ほどお話ししましたけど、そういうのも非常に多いですし。
面白いとこ。日本語で言ったら「すみませんが醤油を取っていただけませんでしょうか」って家の中で言うのがもう普通になってる。
そんな感じ。で、そういう言語レベルで言うと間接表現がやたら多くて、付加疑問文もありますよね。
はいはい。
あのバリエーションは他の言語にはないと言われていて、とにかく間接的にするデバイスって言い方しますけど、言語的な装置が山ほどあるのが英語だった。
はい。英語ってそんなに間接好きなんですね。
最近もその英語話者の方が、ポッドキャストとか聞いてると、みんな「I mean」ってばっかり聞こえてくるみたいなね。
なるほどね。これが「思うに」みたいなことを言いたい。
そうね。っていうのをとにかくつけるみたいなこと言っていたので。
うん。あと一見関係なさそうなんですけど、one of the 最上級ってあるじゃないですか。one of the bestみたいな。one of the most何々とかみたいな。
はい。あれ変じゃないすか?
思った。最上なのに1個なのに、なんでそれ複数。最上の中の1つって変だろって思いましたね。
あんまり断言したがらないですよ。我々だったら「これ最高じゃん」って言いたくなるんですけど、「最高の1つだ」っていう、なんかまどろっこしい言い方を。
あ、あれもだから婉曲表現的な……
と私は思ってます。
だから、あるところですごい美しい光景があって、「もうbest sceneryだ」みたいに言ったら、「いや、it's one of the best」みたいな、言い返させられるみたいな。
やっぱベストとは言いたくないです。
風景にまで配慮しちゃってるやんね。すごいね。
最高だって今思ってんだからいいじゃんと思うんですけど、そういう感覚がやっぱりちょっと違う。
人だったら分かるんですけど、sceneryとかなんかmountainとかにまで配慮して、しかも一時的にね、「あ、最高だね」って言ってもいいじゃないですか。
うん。だからそこ厳密な運用なんでしょうね、多分。
うん。なんかやっぱり直接言いたくないんじゃないですか。最高って言っちゃうとまずいなと。語弊が生じるって。へえ。
あんまり断言したがらない人たちだなって。
うわ、面白い。これビジネスパーソンとかがよく言うじゃないですか。日本人っていうのは言葉を濁す傾向があって、それがビジネスでは良くないんだと。もっと欧米を見習ってはっきり言った方がいいみたいなこと言ってますけど、あれ見当違いってことですよね。
いや、状況によって使い分けてるので。イエス・ノーが欲しい場合っていうのはやっぱりその慣習があるんで。
イエス・ノーが欲しい時にはやっぱりあった方がいいと。
ビジネス現場では濁したりはしないかもしれないと。
はい。それやっぱり慣習の問題で、イエスかノーかをはっきり言うか言わないかっていう文化と、それから状況に応じて使い分ける。我々もやってるわけですけど。
うん。ちょっとこれどっちかにしていただくわけにはいかないですかね。「実は欧米人は間接的にものを喋っていたんだ」にするのか、「欧米人は常にズバッとものを言うんだ」か。どっちかの方が覚えやすくて。
ズバッと言うと、状況による。
面白くないんだって。
総じて見た時には、かなりモニャモニャ言ったりとか、あと相手に何か要求したい時にはモニャモニャ言ったりもするけど、ビジネス現場とかではズバッと結論を求めたりもするってことですよね。
そう、そう。
で、それなんか面白くないな。雑学、状況による。つまんないんで。それ「状況による」ってフォーマットにしたら雑学って全部死ぬんすよ。
それ致死量だから。致死毒なんすよ、「状況による」って。
英語が直接的か間接的か、状況による。雑学。
この番組つまんなすぎない?ゆる言語学ラジオ終わるの?
マインドとしてあれですよね。相手にあんまり深入りしないというか、なんかその感じは僕とか水野さんって割とそうなんですよ。人になんか相談された時、「お前絶対こうした方がいいよ」とか言わない。お前の人生なんだから好きに生きろよって思っちゃうんで、なんか僕らと相性いいような気もしました。
で、そういう意味で言うと、ここ数十年の日本である意味個人主義的な感じになってきたと言われてますけど、その個人主義のモチベーションが違うと思うんですよね。自分のことをなるべく柔らかく言いたいっていうモチベーションと、相手の領域にズカズカ入っていかないっていうモチベーションで、その個人主義のモチベーションが違ってると思うんですよね。
えっと、英語の人はどっちなんでしたっけ?
相手の領域に入っていくことに関しては抑制がかかる。
あ、そうか。で、日本人は自分の言いたいことをズバッと言うことに抵抗があるんですかね?
はい。それも状況によりますけど。
あ、状況によるんだ。それもじゃあもう何にもあれじゃないですか。
でもあれかも。状況によるかどうか、状況によるかも。
よくわかんないよ。どういうこと?状況によるかは状況による?
そう。状況によっては状況による。
まあ確かにそうか。状況によっては状況によらないこともあるわけだから、状況によるかどうかは状況によるや。
何にもならないす。情報量0でしょ。つまんないな。
あとよく言われるのが、集団主義みたいな言い方、日本の場合されるじゃないですか。
はい。
でもあれも方法論的集団主義って概念もありますけど、本当に集団主義なのかって言うと、伝統的にも……
ここで集団主義って何を指していますか?
集団主義って指してるものがよく分からないという議論がずっとあって。西洋はどうも個人主義的だと。で、日本ってわけわかんない人たちがいて、あの人たちはどうも個人主義じゃないから、じゃあ集団主義だって言ってる感じの時代があって。
だから多分、個人の欲求よりも集団のルールとかを優先してるんだろうと。
あとなんかみんな一緒に動いてんじゃないかみたいな。思いやりって基本的には相手が思ってることをこっちが推察する、推論するっていうことですよね。で、そういうことばっかりやってるんで和をなんか大事にしてるんじゃないかみたいに言われたりするんですけど、でもそれも、なんか集団主義って言うならば、例えば日本の伝統的なスポーツとかってみんな1対1だし、西洋のスポーツの多くは集団のスポーツですよね。
うん。確かに日本はね、相撲とか。
相撲とか。だから日本も結構個人主義なところいっぱいあるのに、なんかひとまとめにして集団主義みたいに言われちゃう、そういう危険性って、もうこれだいぶ前から言われてることなんですけど。
なるほど。つまり日本が集団主義かどうかは状況によるってことね。
ああ、勉強になるな。すごいな。どんどん状況によるね。
どんどん状況によるって何?そんな日本語あんの?
うん。1個1個見ていくとどんどん状況による。それだよね。
で、間人主義って、木村敏っていう人が、もうだいぶ前で古典的なところなんですけど。
どういう字ですか?
人間をひっくり返した。
あ、はいはい。間人。集団じゃなくて人と人との関係で動いてるんだっていう。だからやっぱり人からどう見えるかとかすごい気にしますよね。
あと思いやりってのは、結局は相手がどう思ってるかっていうのを、言葉にしない部分を推論するっていうことですよね。それを重要視するって意味では、集団というよりは他者からどう見えるかとか、他者が何を考えてるかっていう、エンパシーっていう言葉で。
共感ってことですか?
そうですね。共感に近いですけど、相手がどう考えてるかを推論するっていう、そういう感覚が日本の場合もすごくちっちゃい時から、子育てのレベルからあって。だからなんかちっちゃい子に対して「あんたそんなことしたら何々ちゃんかわいそうでしょ」とか。
ああ、確かに「なんとかちゃんの気持ちを考えなさい」とかめっちゃ言われます。
学校の校則にも「思いやりを大切に」で、結局それが日本のコミュニケーション文化のベースにあるんで、人がどう思ってるかを常になんかアンテナを張って考えなきゃならないっていう、そういう側面が日本の特徴としてあると思うんです。
なるほど。
で、子育てでいうと、これも言語人類学である研究なんですけど……どんどん研究が出て……どうやって子育てしてるかっていうので、例えば欧米の多くは言語化させるってのは結構基本なんですよ。
「あなたが思ってること言葉にしなさい、言葉にしなさい、言葉にしなさい」っていうことをもうずっとちっちゃい頃から言われてて、日本の方は「言わなくても分かりなさい、言わなくても分かりなさい」。ところが日本の場合は学校に行った途端、やっぱり「言葉にしなさい」って言われるじゃないですか。
ギャップがあるじゃないですか。
だから欧米の方は連続してて、子育てから学校まで。そこはやっぱりちょっと差が出ちゃいますよね、言語化することに関しては。
うん。なんか僕つい最近それでびっくりしたんですけど、僕言語化かなり得意だし好きだと思ってたんですよ。でも今Claude Codeっていうすごくいけてる AIのプロダクトを使う時に、もう最近1日12時間ぐらいそのClaude Codeを操作してるんですけど、やっぱもう次々に「この要件はこれでいいですか」とか「この要件について教えてください」とか、あいつに頼まれすぎるから、毎日常に自分のやりたいことは何なのかを言語化し続けて、もう嫌になってきて。僕、自分の中のふわっとしていたものを全部言語化するってこんなストレスなんだって最近めちゃめちゃなってて。なんかそのギャップ、おそらくは幼少期の子育てから小学校に入学するみたいなギャップが今大人になってからもう1回来てて、結構ストレスなんだなこれって思ってますね。
はい。なるほど。
だから伝統的に日本のコミュニティでは言葉にしないものを分かることを訓練されていくので、そういうことをずっとやってると、やっぱり国際的な場面とかで、例えば政治的な交渉とかで、これはルールに則ってるから言わなくても大丈夫だろうと思って、よく負けますよね。
そういう交渉なんかは、やっぱ言語化するっていうような慣習が日本の伝統のコミュニケーション文化の中になかったので。でもなんか言わないでも分かるっていうのも日本のコミュニケーション文化の良さなので、どうしたらいいのかなっていうのは迷うとこもあります。
これだから本当にAI時代でそのコミュニケーション様式変わる可能性ありません?めちゃくちゃ言語化をさせられてるから、みんな今強制的にそのパラダイム変わりそうだなって思いました。
そう。うん。
あとね、やっぱもう2000年入ってからですけど、アメリカのビジネスパーソンたちが、これからのビジネスパーソンに重要なもの何かっていうと、エンパシーとか言い出したんだ。
そう、そう。だから日本人が何千年もやってきたことを、ようやくアメリカ人が言い出してきて。
今更かっていう。はい。それこそ『論理的思考の文化的基盤』を書いた渡邉雅子先生の新刊『共感の論理』ってのはまさにそんなような話をしていて、日本の教育って実はめちゃくちゃ先行ってたんじゃないかっていうのが渡邉先生の主張です。それ、そうかもしれね。
エンパシーをベースとした教育システムを組んでいたからっていうような主張だったと思いますね。
はい。
僕やっぱその言語化みたいなもの見てるとめっちゃ波あるなと思って。言語化みたいなのが多分ここ数年あったじゃないですか。で、言語化って付いた本いっぱい出てきて、で、いっぱいそういう人たちが出ていった結果、今水野は逆張りで「何でも言語化できるのが偉いのか」みたいなことを言う論客として今いろんなとこ呼ばれて。TBS CROSS DIGとかでね、偉そうに喋ったりしてましたけど、サムネで一端の文化人みたいな顔して出てましたけど。
小生が出ました。
そう。あれさ、揺り戻しじゃん、完全に。ここ数年でできすぎちゃったから、逆の論客を呼びたいなっていうムーブメントになっていて。だからつまり、言語化した方がいいかどうかって状況によるってね、これは。
そうですよ。ビジネスとかね、こういったもので相手と誤解のないようにね、コンテクストを共有するために言語化するの大事だと思うんです。でも本当に大事な感情まで言語化していいのかっていう意味で……なんか滑ってるな、こいつ。なんか上滑りしてるぞ。……っていうところではなんかふにゃふにゃ気持ち悪いなと思いますね。
オタクの喋り方になったら何なんだよ。
ちょっと今回のテーマであるポライトネスに話を戻しましょう。先ほどの話は、英語は他者の独立を重んじるっていうような行動様式でコミュニケーションを取るし、日本語は比較的自分の考えてることみたいなのをそのまま出さないっていう方向に重点があるんじゃないかってのがここまでのお話でしたけれども、このモデル、他にも色々なことに応用できるんですよね。
はい。そうですね。言語現象以外にもいろんなところで我々の慣習の中にあると思うんですけど、西洋の方の多くが多分ある意味日本的だなと思われると思うのは、ガソリンスタンドとかディーラーさんが、お客さんが車で出てく時にずっと見送ってる。
やりますよね。
はい。あれはなんかすごく日本的にはちゃんと気を使ってお客様をお見送りしてる感じですけど。
うん。見えなくなるまでは頭下げとこみたいなのありますもんね。
あれ、例えば欧米の文化の多くの人たちは、多分見張ってると思う。
え、怖。俺がちゃんと出てくかどうか確認されてる、睨まれてるってなるんだ。
そういうふうに解釈する人が多分多いと思います。
え、そうなんだ。
例えばアメリカの中でも南部とかは違うとかっていうふうに言われたりもするんですけど、基本的に例えばお家に招いてご飯食べて、お客さん出てく時に玄関で見送ったりしますよね。で、そん時にももうすぐうちの中入っちゃうのが一般的なんですよ。ずっと見送らないで。
それは私も経験したことあるんですけど、パッて振り返ったらもう家の中入ってるんで、招かれざる客だったのかな、悪いことしちゃったのかなと思うぐらいだったんですけど、色々調べてみて研究した上で分かったことは、それが1つの礼儀なんですよ。もう見送りませんよと。もうあなたたちの自由なんで、そこはもう見送らないっていう。
へえ。
そういうことみたいなんで、ですからあれは1つのポライトな態度なんですよね。
なるほど。すぐに家に入っちゃったり、もうお客さんを見送らないっていう方がポライトだと。
で、僕もね、ゆる言語学ラジオの監修の先生とかがこのスタジオから出ていく時とかありますけど、そういう時も「ありがとうございました」って言って軽く会釈してそのまますぐ戻りますけどね。あれはやっぱり欧米的な行動。
そういうことです。
違う違う。失礼、失礼。日本なんだから。姿が見えなくなるまでお見送りしようみたいなの。
でもそう思ってる人も多いんじゃないですか。
あれ意味ないです。
でもあれ嬉しいですよね。服屋さんで服買った時に「紙袋をお持ちしますんで」って言って外まで持ってっていただくと、あれカロリー消費抑えて嬉しい。違う、嬉しくない。嬉しくない。そう、パッと出たいんだからこっちは。
え、あと美容師さんも、切ってもらった後ドアこうやって開けてくれて「またお願いします」って言って、なんかカードみたいなの渡されて。
あれ邪魔。すぐ捨てますよね、帰りは。いや、捨てますよね。
いらないから、あれ。
なんで?
いやいや、もう指名とかしたくないから。俺その人間関係を持ちたくないから、なるべく。
まあそれは冗談だけど、東京に来て思うのは、東京の人ってプラットフォームで乗る電車の方向が違う時に、バイバイって言ってから他人にならん?
なるなる。
あれ、愛知だったらブーンって行く電車をバイバイってやってようやく個人に戻るのに、江戸はさ、そのなんかみんな……
江戸って呼んでんだ、東京のこと。
誰か1人が乗った瞬間に急にスマホとかいじり始めて、え、なんか俺悪いことしたとか思ったら全然そういうことじゃない。
なんか江戸っぽいですね、その話。
江戸ですよ。
あれ、これ江戸なのかな?でも確かに言われたら俺も地元にいた頃なんか割とやってたかも。
そうでしょ?
自分の電車まだ来てなかったら、友達が乗った電車とかなんとなくこう見送ってたかもしれない。
しかもなんか乗る側も乗る側で、向こうがこっちを気にかけないように、あえてプラットフォーム側が見える席じゃなくて、なんか背を向けるじゃん。
やるやる。
何あれ?裏切りだよ、俺。
いや、だから逆だよね。まだ俺が目下だったらいいけど、相手が目上の場合って、見送らなきゃってプレッシャーを相手に与えちゃうから、加害だから、それ。
そう。加害をしないために、私はもうあなたのことを見ていないので、あなたは自由になって良いですよというメッセージを明示的に出さなきゃいけないから、そっち側に座る。これ大事ですよね。
ちなみに僕もあの死角に入ってきます。
いや、わかるわかる。あ、死角に入ることもあるわ。死角に入ることもある。忍びの気分。めっちゃわかる。
ゴフマンっていう社会学者の儀礼的無関心でしたっけ?なんかその割と都市の方になればなるほど他者に無関心になっていくみたいな。
電車乗ってる時にスマホいじってないの逆に失礼みたいな話ですよね。
あ、そうかもね。
他者を見ちゃってると、関心を払うっていうマナー違反を犯してて、儀礼的無関心に反しているみたいな話ありますよね。
うん。だからエレベーターの今何階っていうのをみんなあそこ見てるわけですね。目の前の人を見たらやっぱり失礼なんで。
そうですね。俺最近あれ嬉しくてさ、住んでるマンションのエレベーターがさ、常にニュースを流してくれて。
あ、ありますね。モニターでね。はい。
あれ嬉しくて。今までなんとなく階数表示見てたのが、情報が得られるから、文字が読めるから、もう嬉しくてしょうがなくて。
うん。いや、俺それさ、ニュースならいいけどさ、通ってる歯医者さんのエレベーター、広告映し出されんの、ドアに。なんか、あ、もう俺自由に物まで見れないんかっていう気持ちになる。
ポイントくれよって思うよな。広告見たんだから。
広告見たのにね、プラスにならないのおかしいじゃんね。
ね。広告見た後はウェブサイト閲覧したりとかね。そういう権利を渡してほしいですよ。
本当に。そう。
でもそういう人間行動の原理を利用したのが電車の中吊り広告だと思うんですけど。
あ、そうか。見るとこないから。
はい。で、電車の中吊り広告は、雑誌媒体が厳しくなったっていうのもあるかもしんないですけど、やっぱりみんなスマホ見るようになったんで、あんまり上にある意味なくなってきたっていうのはあると思うんですよね。
確かに中吊り、かなりなくなっちゃいましたね。
電車乗らなくなって、戻った時に中吊りをもう載せなくなったみたいな感じになった印象はありますね。
うん。日本の場合にはガソリンスタンドとか、あるいはディーラーさんが車をずっと見送ると。で、関係がどこで終わるかっていうと、本当に見えなくなるまでみたいなところですけど、それがアメリカなんかだとちょっと早めなのかもしれないっていうところはあると思うんですね。
ですから例えば商談が終わったり、あるいはガソリンを入れ終わったりというところで閉じれば、もうそこでさよならっていうことで見送ったりしないっていう。どこで会話を閉じるかっていうことで変わってくる。
終了点が日本とアメリカで違うんですね。
うん。結構例えばコミュニティによっては、ずっと一緒に話してたり、なんか途切れないでその関係をなかなか終わりにしないっていうような。
つまりまとめるとどういうことになりますか?
「状況による」って、だからやめようよ。それ何にもなくなっちゃうから。
アメリカでもね、お見送りするケースもあるんですよ。
あります。あります。それはコミュニティによると思うんですけど。
つまらんな。だから、個別具体がないのが悪い。
例えばよく言われてるのは、教会とか同じ信仰を持った人たちのコミュニティって、例えば礼拝が終わったらなんか出来事が終わるっていうわけではないので、ずっと続いてるんで、そういう意味ではやっぱり関係をずっと持ってるって感覚をより持ってるかもしれない。
へえ。
え、でも神父さんとかはもしかしたらお見送りするかもしれない。
かもしれないですね。どういう規模かによるかもしれない。
あ、規模による。状況にもよるし規模にもよるんだ。
あ、なるほどね。
さっきはコミュニティにもよるって話もありました。
つまんなすぎる。
アメリカってでけえからやっぱ。
そうね。南部か北部かにもよるって言ってました。それにもよる。ファクターがね。
で、そういう意味で言うと先ほどの、都市の関係が密かどうかっていう話は、日本でもやっぱりあるんじゃないですか。どうですか?
そうだと思います。だから愛知の時の電車でのお別れと東京での電車でのお別れは違うんで、これがつまりその地域によるってことかな。
でもそうですね。確かに愛知と東京だとね、地域が違うわけですから動きが違うということ。
はい。あ、でも愛知に住んでてもそういう見送りをする人もいて、東京に住んでてもそういう見送りをしない人もいるので。
なるほど。人によるのか。
人にもよります。
さらに言うと、卒業式の後とかセンチメンタルなタイミングだったら遅くまで見送るとかあるから、やっぱ状況にもよりますよね。
やっぱすごいな。
そうだね。よるもの多いですね。
で、私、自分が学生の、もう何十年も前なんですけど、出てきて東京でちょっとびっくりしたのは、同じクラスにいて一緒の授業取ってる時はキャンパス内で会ったら「こんにちは」とか言うのに、授業終わった途端なんか無視されて、ちょっとびっくりして。
ああ、友達じゃなかったんだみたいな。悲しい。
え、で、例えば1年生の春学期は同じ授業取ってるから友達なんだけど、秋学期に会ったら無視されるってこと?
無視された。
やば、そんな文化、東京。無視ってのは挨拶をしないって意味ですか?
あえてしないというよりは、なんかもうちょっと避けてるみたいな。
あ、うん。
でもちょっとだけ分かるかもしれんな。大学1年生の時に1日だけ隣にいたやつみたいなの。
でもね、俺もそうなの。今ね、分かる。
だよね。
だから名前はギリギリ知ってるんだけど、それ以来何の絡みもないから、その後キャンパスでたまに遠くで捕捉するんだけど、挨拶するほどの関係じゃないなと思って目をそらすみたいなのあったかも。
あるね。ある。俺もそれは記憶あります。
あとね、自分の子供が幼稚園とか行ってる時に、幼稚園なんで近所なんですけど、幼稚園終わったら親御さんも挨拶しない。
え。
うん。そういう親御さんもいらっしゃるんで、あ、でもそれが東京なのか、
時間になったらもう私一切しませんみたいな、会社の飲み会とか一切行きませんのレベルアップバンという人たちもいるのかもしれないです。
すげえ。
ちょっと我々3人ともね、東京にずっといるわけじゃなくて、地方から来てるんで、東京カルチャーを本当の根っこから知らないですけど、そういうもんなのかな、東京って。
うんうん。人によると思います。[笑い]
あの、なんとかによるって禁止にします。井上先生が面白いと思ってやり始めちゃってるじゃん。先生なのにボケ始めちゃったよ。
すごいですね。あの、言えば言うほど研究者らしい振る舞いになるから、このボケ無敵ですよ。
いや、あともう1個思うのはさ、東京の人さ、会話の終わり急に来ない?例えば俺大学1年生の時、それこそびっくりしたんだけどさ、なんかある程度キャッチボールしてて、ちょっと2秒ぐらい途切れたらスマホ見始めてそいつが。
ああ。
え、今の話終わったの?これでっていう。なんか俺まだやるつもりだったけどみたいな、ボール投げ返そうと思ってたのにあれ、あいつもうミット構えてないなみたいな感じになっちゃって。スマホ見るが会話の終わりのマーカーになってる説ありますね。
あ、でも三宅香帆さんはみんなでランチに行った時に今自分の入る話じゃないなと思って本読み出すって言ってました。
それは三宅さんがおかしいですね。三宅さんがちょっとパンクなだけです。それは。[笑い]
あ、そうですか。
暇さえあればすぐ本読み出す三宅さんが変な話です。
そうです。[笑い]
それはね、三宅さんによります。三宅香帆という人格に寄っている現象であって人による話じゃないです。あんまりね。
ということで今回は日本語と英語のポライトネスを比較してみようという話。そして我々が思ってる英語のステレオタイプと日本語のステレオタイプが3割しか合ってないっていうことを見てきました。どう違ったんでしたっけ?
英語はね、ズバズバ言うみたいなイメージだったけど、むしろ全然そんなことなくて、相手の領域に入らないようにして、私があなただったらこうするのにみたいな言い方をするみたいなことでしたね。[咳払い]
はい。で、逆に日本語はそれしなよみたいに相手の領域でもずけずけと直接的に言うのだと。で、このモデルを持ち込むと例えばお見送り文化みたいなことまで説明ができるのだというのが先生のお話でした。
そう考えるとお見送り芸人しんいちってあれすごいすね。日本文化を知っている。
お見送りって芸名にわざわざつけてますからね。
でもあれしんいちによります。[笑い]
そうなの?あれしんいちによるの。
しんいちというものによっているのであって日本文化を知ってるわけではないんですよ。そうです。
彼がものすごい愛国者で日本文化を世界に届けたいと思っていた可能性もゼロではないですよね。
そうですね。その場合は芸やる時に、あの、状況によりますって言いながらやってほしいですよね。せめて。[笑い]
意味がわかんなすぎるだろ。それR-1グランプリで、状況によるんですけどって必ず最初に言ってもらえばいいですけど。
全然面白くないですね、それ。
はい。ということで意外と間接的な英語、意外と直接的な日本語の面を見てきましたけど、結局じゃあ英語に敬語はないっていう言説に対して答えを与えるならどういう風に言えばいいですか?
敬語という形式はないかもしれないけど敬意を表す術はあって、それはあまり文字には現れてこないっていう、音に現れるっていうことじゃないですかね。[咳払い]
ひょっとすると顔の表情とかそういうのも含めてマルチモーダル的なことによって敬意を表すっていうことは英語の方があると思います。
そう考えると英語めっちゃ難しいですね。ちゃんと顔とか言い方とかまで気にしないと敬意って表しきれないから、なんか日本語の方が気楽なのかもなって思いましたね。
逆に英語話者の方は、日本語の方は表情があまり変わらないからそっちの方が逆に難しいと思いますね。彼らの母語から行くと。
なるほどね。形式をいじらなきゃいけないんだっていうね。
だからお互いそれぞれの難しさがある。
だからその「よります」禁止にしましょうって。[笑い] いや、でもさ、そう考えるとさ、その「反省してます」もさ、かなり高度ですよね。それ英語だとできないわけですよね。形式だけは敬意を保っているけど、言い方はめっちゃひどいみたいなことって英語じゃできないわけじゃないですか?
舌打ちは丁寧じゃないっすよね。
まあ、まあまあ。あ、めっちゃ当たり前。[笑い]
すごいっすね。
丁寧じゃないってサムネ。[笑い]
無理無理無理無理。
舌打ちは丁寧ではなかった、面白くなさすぎる。それからですね、コメント欄で皆さんの東京あるいは都会に出てきてびっくりしたこと、お見送り的な行動何かあれば是非コメントいただければ幸いです。
知りたいですね。
あと、状況によると思ったこととかあればね、教えて。[笑い]
いや全部だから。この世に状況によらないものほとんどないからさ、ありとあらゆるものが状況によるんで、あんま意味ない。人間のもの書き込むコメント欄になっちゃうから。焼きおにぎりを食べたいかどうかとか、そういうことを書く欄になっちゃうから。[笑い]
意味がないっす。面白くないんでそれはやめてください。
そんなわけで終わりにしましょう。ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。[音楽]
堀元さん、うまく話せなくて悩むことってありません?
よくあります。
そんな悩みを抱える方にぴったりな本を書きました。
ほう。
タイトルは『会話の0.2秒を言語学する』。会話のわずかな間にフォーカスした1冊です。是非皆さん買ってください。
うん。
記事公開
