英語は「ズケズケ言う」言語なのか――井上逸兵氏と考える日本語と英語のポライトネス

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概要

日本語は遠回しで間接的、英語ははっきり言う直接的な言語だという見方は広く共有されている。日本語は言いさしや主語の省略が多く、敬語の形式も発達している。一方、英語は事実を断言し、主語も明示し、敬語もないと学校で習った覚えがある。ゆる言語学ラジオの堀元見氏と水野太貴氏がこの通念をぶつけると、社会言語学者の井上逸兵氏は「3割ぐらい合ってます」と答え、むしろ「全く逆」だと述べた。本記事では、日本語と英語のポライトネスを比べたこの回の議論を追う。

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ポライトネスとは何か

最初にポライトネスの意味を確認した。「礼儀」のことだと思われがちだが、井上氏の定義では、言葉を使って人間関係をどう作っているかがポライトネスである。人との距離を近づけたり遠ざけたりする調整だけでなく、「私はこういう人間だ」という態度の表示も含む。井上氏は、ラーメン二郎の回でも出てきた「インデクシカリティ」、つまり話し手がどんな態度を示しているかという観点もポライトネスの一部だと説明した。会話、町の看板、アナウンス、論文まで、ポライトネスの視点から見ればあらゆる言語現象がポライトネス現象になるという。

日本語の特徴として井上氏が挙げたのは、敬意が形式によって保証されている点である。敬語を使えば、少なくとも態度としては丁寧に振る舞っていることになる。「分かりました」をどんな言い方で言っても、形式上は敬語だ。聞き手から出た「チッ、反省してまーす」という例も、形式上は敬語になっている。敬意を示すポーズは取りつつ、実際には大して反省していないことを示す。これもポライトネスの現象として分析できるという。

英語の丁寧さは「言い方」に宿る

英語には日本語のような敬語の体系があまりない。学校では「can より could の方が丁寧」といった形式上の違いを習う。井上氏もそれが原理的に重要な現象であることは認めたが、英語が丁寧に振る舞うときは大部分を音声、つまり言い方に頼っていると述べた。

井上氏によると、英語では比較的ゆっくり話し、アーティキュレーション(一音一音の発音)をはっきりさせた方が丁寧に聞こえる。ただしバランスが重要で、ゆっくり言いすぎると子どもに話しかけているような、相手を見下した感じになってしまう。外国語として身につけるときに難しいのはこの加減だという。言い方で丁寧さを表すため教科書の文字には書きにくく、授業でそこまで教える時間もない、と井上氏は指摘した。

井上氏は、自分はネイティブではないと断ったうえで「Could you do that for me」をカジュアルな言い方と丁寧な言い方で言い分けてみせた。ゆっくりはっきり言った後者の方が丁寧に聞こえ、聞き手は後者が文末で上がっていたことにも気づいた。井上氏は、相手の意向を尊重する上昇調も距離感の問題でありポライトネスの重要な部分だと応じた。

ここで水野氏が、英語話者の知人から聞いた話を紹介した。アメリカでも「モテテク」のようなものが出回っていて、Yes/No 疑問文でも上昇調にしない方がセクシーだとされているという。低い声で下降調に話す方が余裕があるように聞こえるらしい。井上氏も、下降調の方が断言しているように聞こえるので、自信がある方がモテるならそうなるのだろうと述べた。中学校で「疑問文は文末を上げなさい」と習って教科書通りに話す真面目な人がモテない、という冗談も交わされた。

相手の領域に踏み込まない英語

井上氏が挙げた二つ目の特徴は、英語が相手の領域に強く配慮する言語だという点である。井上氏の整理では、日本語は自分の言うことを緩く間接的に言う方向に特徴がある。英語は相手の領域に入りすぎないようにする方向に特徴がある。

例として感情形容詞の人称制限が取り上げられた。日本語では「私は悲しい」とは言えるが、主語を「彼」に変えると「彼は悲しい」とは言いにくく、「彼は悲しそうだ」「悲しいだろう」と言う。水野氏は、英語なら He is sad と言えるので、英語の方が他人の感情に踏み込んでいるのではないかと反論した。井上氏は、文法のレベルではそう言えるが、実際に使われているかというと、他人の内面に踏み込んで「あいつは悲しがっている」とはなかなか言わないと答えた。言語として可能かどうかと、実際の運用とは別の階層の話だというわけだ。

英語話者は「I think」「I guess」「sort of」といったヘッジ(ぼかし表現)をよく使う。井上氏によれば、相手に意見を押しつけたり相手の領域に入り込んだりすることには強い抑制がかかっている。

自分の希望は言ってよいが、言い方はくねくねする

堀元氏が「それは個人主義ということか」と尋ねると、井上氏は少し違うと答えた。例えば何かをしたいとき、「I want to do this」は非常に子どもっぽく聞こえる。「I'd like to do this」ならまだましで、「I was just wondering if I could...」のように「〜してもいいかな」と言う方がより英語らしいという。

井上氏は、独立した自我があるので、自分の希望や考えを言うこと自体はかまわないと説明した。「飲み物が飲みたい」と言うのは問題ない。ただ、それが相手の持っているものだと話は変わり、非常に気を遣う。実質的には「それをくれ」と言っていても、「あると嬉しいんだけどな」という言い方になる。

逆に、相手に「ああしろ、こうしろ」と言うことはかなり控える。命令形がよく使われるのは、それが相手の利益になる場合だという。「一緒に入りなよ(Join us)」のような誘いは相手のためになるので、命令形で問題ない。

井上氏は映画の字幕も観察している。日本語が原作の作品では「お前ああしろよ」「〜した方がいいよ」といった踏み込んだセリフが多いが、英語字幕ではその多くが「I」を主語にした言い方に変わるという。「お前、あの子に告白しちゃえよ」は「私だったらあの子に告白するけどな」になる。堀元氏は、英語話者はもっと遠慮のない人たちだと思っていたと驚いていた。

スラブ系言語から見た英語――ヴェジビツカの出発点

井上氏の研究の出発点の一つは、ポーランド出身でオーストラリアの言語学者アンナ・ヴェジビツカの議論だという。ヴェジビツカはスラブ系言語の話者で、オーストラリア人と結婚して英語に触れ、英語はなんと間接的な言語だろうと感じた。スラブ系言語の話者から見ると、英語は間接表現だらけに見えるという。

ヨーロッパの言語なら感覚は似ているだろうと堀元氏は考えたが、井上氏によれば全く違うらしい。英語らしい「Would you like...?」はまどろっこしくて言いたくない言い方とされ、少なくともデートの誘いでは下手な誘い方になる。ロシア語話者などには「行くだろう?」と言い切る方がよいとされ、先ほどの下降調の話と似ている。

井上氏によれば、イギリスでは家族の中でさえ「Would you like...?」がよく使われ、もはや決まり文句として丁寧だという意識もないほどだという。日本語でいえば、家の中で「すみませんが醤油を取っていただけませんでしょうか」と言うのが普通になっているような状態だ。付加疑問文のバリエーションの多さも他の言語にはないと言われており、英語は間接的にするための言語的装置(デバイス)を山ほど持っている、というのが井上氏の見方である。水野氏も、英語話者の知人からポッドキャストを聞くとみな「I mean」ばかり言っているように聞こえるという話を聞いたと付け加えた。

「one of the best」も断言回避か

一見関係なさそうな例として、井上氏は「one of the + 最上級」を挙げた。最上のものは一つのはずなのに、「最上のものの中の一つ」という言い方は変だと聞き手の二人も感じていた。井上氏はこれも婉曲表現の一種だと考えている。

井上氏が紹介した場面では、東京で美しい光景を前に「best scenery だ」と言ったところ、「one of the best」と言い直させられたという。堀元氏は「風景にまで配慮している」と驚き、今最高だと思っているならその場で言い切ってもいいはずだと述べた。井上氏は、直接言い切ると不都合が生じるという感覚があるのではないか、あまり断言したがらない人たちだと述べた。

「日本人ははっきり言え」論は的外れか

堀元氏は、ビジネスパーソンがよく言う「日本人は言葉を濁すので、欧米を見習ってはっきり言うべきだ」という主張は見当違いなのかと尋ねた。井上氏は、状況によって使い分けていると答えた。Yes/No が求められる場面には慣習があり、そこでははっきり言う。井上氏は、Yes か No かをはっきり言う文化と、状況に応じた使い分けとを分けて考えており、後者は日本語話者もやっていることだという。

堀元氏は「どちらかに決めてもらった方が覚えやすい」と食い下がった。ここから番組では、何を聞いても「状況による」になってしまい雑学として面白くならない、というやりとりが終盤まで繰り返される。

個人主義のモチベーションが違う

堀元氏は、人から相談されても「お前の人生なんだから好きにしろ」と思ってしまう自分や水野氏には、英語的なマインドが合っているのかもしれないと述べた。これを受けて井上氏は、ここ数十年で日本も個人主義的になってきたと言われるが、同じ個人主義でも動機が違うと指摘した。英語は相手の領域に踏み込まないことに動機があり、日本語は自分の言いたいことを柔らかく言うことに動機がある。

井上氏は、日本を「集団主義」とする見方にも疑問を呈した。「集団主義」が何を指すのかははっきりしないという議論が昔からある。西洋は個人主義的で、日本はよく分からないが個人主義ではないので集団主義だ、と言われていた時代があったというのが井上氏の見立てだ。個人の欲求より集団のルールを優先する、みんなで一緒に動く、思いやりで相手の気持ちを推し量るから和を重んじる、といった理由が挙げられてきた。しかし日本の伝統的なスポーツは相撲のように1対1のものが多く、西洋のスポーツの多くは集団競技である。日本にも個人主義的な面はたくさんあり、ひとまとめに集団主義と呼ぶ危険性はだいぶ前から指摘されている、と井上氏は述べた。

代わりに井上氏が古典的な議論として紹介したのが「間人主義」、つまり日本人は集団ではなく人と人との関係で動いているという見方である。人からどう見えるかを強く気にし、言葉にされない相手の気持ちを推論する。井上氏はこれを共感(エンパシー)に近い感覚と呼び、日本では子育ての段階から「そんなことしたら〇〇ちゃんがかわいそうでしょ」と教えられると説明した。水野氏も「〇〇ちゃんの気持ちを考えなさい」とよく言われたと応じた。井上氏は、他人が何を考えているかに常にアンテナを張ることが日本のコミュニケーション文化の基盤にあると考えている。

「言わずに推論する」か「言語化する」か

井上氏は言語人類学の研究も紹介した。欧米の多くでは子どもに言語化させることが子育ての基本で、幼い頃から「思っていることを言葉にしなさい」と言われ続ける。日本では「言わなくても分かりなさい」と育てられるが、学校に入った途端に「言葉にしなさい」と求められる。欧米では子育てから学校まで一貫しているのに対し、日本にはこの断絶があり、言語化に関して差が出るという。

これに関連して堀元氏は最近の体験を語った。言語化は得意で好きだと思っていたが、AI製品のClaude Codeを1日12時間ほど使うようになってから、「この要件でよいか」「この要件について教えてほしい」と次々に尋ねられる。自分の中のふわっとしたものをすべて言語化し続けるのがこんなにストレスだとは思わなかったという。堀元氏はこれを、幼少期から小学校入学へのギャップが大人になってもう一度来たようなものだと表現した。AIによって強制的に言語化させられることで、コミュニケーションのパラダイムが変わるかもしれないとも述べている。

井上氏は、言葉にしないものを分かる訓練を積んできた結果、国際的な交渉などで「ルールに載っているから言わなくても大丈夫だろう」と考えて負けることがよくあると指摘した。一方で、言わなくても分かり合えることは日本のコミュニケーション文化の良さでもあり、どうすべきかは迷うところだと答えを保留した。

さらに井上氏によれば、2000年代に入ってからアメリカのビジネスパーソンが、これからの人材に重要なものとして「エンパシー」を挙げ始めたという。日本人がずっとやってきたことを今になって言い出したという構図だ。水野氏は、『論理的思考の文化的基盤』の著者である渡辺先生の新刊『共感の論理』もまさにそうした内容で、共感をベースにした日本の教育は実はかなり先を行っていたのではないか、というのが渡辺先生の主張だと紹介した。

堀元氏は、言語化にも流行の波があると指摘した。ここ数年「言語化」を冠した本が多く出たが、その反動で「何でも言語化できるのが偉いのか」という逆張りの論客として水野氏がTBS CROSS DIGなどに呼ばれている、とからかった。水野氏は、誤解のないよう文脈を共有するためのビジネス上の言語化は大事だとしつつ、本当に大事な感情まで言語化してよいのかという違和感を語った。

見えなくなるまで見送るのは「見張り」か

話はポライトネスに戻る。英語は他者の独立を重んじ、日本語は自分の考えをそのまま出さない方向に重点がある。井上氏はこの枠組みが言語以外の慣習にも応用できると述べた。

例に挙がったのは、ガソリンスタンドやディーラーの店員が、客の車が見えなくなるまで見送る習慣である。日本では丁寧に気を遣っていると受け取られるが、欧米の多くの人は、ちゃんと出ていくか見張られていると解釈するだろう、と井上氏は述べた。

井上氏自身の体験も語られた。アメリカで家に招かれて食事をした後、玄関で見送られたが、振り返るとホストはもう家の中に入っていた。招かれざる客だったのか、何か悪いことをしたのかと思ったほどだったが、調べて研究した結果、それも一つの礼儀だと分かったという。「もう見送らない、あなたはもう自由だ」という意味で、すぐ家に入る方がポライトな態度なのだ。ただし、アメリカの中でも地域によって違うと言われることもあるという。

聞き手の二人も身近な例を出した。服屋で紙袋を店の外まで持ってもらうことや、美容院でドアを開けてカードを渡されることが話題になり、堀元氏は冗談交じりに「パッと出たいのに」と嫌がってみせた。

駅のホームでの別れと儀礼的無関心

水野氏は、愛知から東京に出てきて驚いたことを話した。駅のホームで乗る電車の方向が違うとき、愛知では友人の電車が発車するまで手を振って見送り、そこで初めて個人に戻る。ところが東京では、誰かが電車に乗った瞬間にもう一方がスマホをいじり始めるので、何か悪いことをしたのかと思ったという。堀元氏も、地元にいた頃は友人の乗った電車をなんとなく見送っていたかもしれないと振り返った。

乗る側についても話が出た。見送る側が気にしなくて済むよう、ホームが見える席を避けてあえて背を向けて座る。堀元氏は、自分が目上の場合は見送らなければというプレッシャーを相手に与えてしまうので、「もうあなたを見ていないので自由にしてよい」というメッセージを明示的に出すべきだと述べ、死角に入ることもあると明かした。

水野氏は、社会学者ゴフマンの「儀礼的無関心」を持ち出した。都市では他者に無関心であることがマナーになり、電車内でスマホを見ていない方がかえって失礼になる、という話である。エレベーターで皆が階数表示を見ているのも、目の前の人を見るのが失礼だからだ。住んでいるマンションのエレベーターでニュースが流れるのが嬉しいという話や、歯医者のエレベーターのドアに広告が映るのが嫌だという話も出た。水野氏は、見る場所がないという人間行動の原理を利用したのが電車の中吊り広告だと述べた。ただ、皆がスマホを見るようになり、中吊り広告はかなり減った印象があるという。

関係をどこで閉じるか

井上氏は見送りの違いを、関係をどこで閉じるかの違いとして整理した。日本では見えなくなるまでが関係の範囲だが、アメリカでは商談やガソリンの給油が終わった時点で関係を閉じ、それ以上は見送らない。どこで会話を閉じるかによって振る舞いが変わる、ということだ。

もっとも、アメリカでも見送るケースはあるという。例えば教会など同じ信仰を持つ人々のコミュニティでは、礼拝が終わっても関係は続いているという感覚が強いのかもしれない、と井上氏は述べた。コミュニティにより、規模により、南部か北部かにもよる。ここでも「状況による」の連鎖に聞き手たちが悲鳴を上げた。

日本国内でも違いはある。愛知と東京の別れ方は異なるが、同じ地域でも人によるし、卒業式の後のような感傷的な場面ならいつまでも見送ることもある。井上氏は、学生時代に上京して驚いたことも話した。同じ授業を取っている間はキャンパスで挨拶するのに、授業が終わった途端に避けられたという。自分の子どもが幼稚園に通っていたときも、卒園すると挨拶しなくなる保護者がいたそうだ。ただ、それが東京特有なのかと問われると、井上氏は「人によると思います」と答えた。

水野氏は、東京の人は会話の終わりが唐突だとも感じている。大学1年生の頃、会話のキャッチボールが2秒ほど途切れた途端に相手がスマホを見始め、まだ話を返すつもりだったのに戸惑ったという。スマホを見ることが会話終了のマーカーになっているのではないか、という仮説である。三宅香帆氏は、ランチで自分の入る話ではないと思うと本を読み出すという話も紹介されたが、それは三宅氏個人の特性だろうということで落ち着いた。

英語に敬語はないのか

最後に堀元氏が、「英語に敬語はない」という通説にどう答えるべきかを尋ねた。井上氏は、敬語という形式はないかもしれないが敬意を表す術はあり、それは文字にはあまり現れず音に現れる、と答えた。顔の表情なども含めたマルチモーダルな手段で敬意を表す面は英語の方が大きいとも述べた。

堀元氏は、顔や言い方まで気にしなければならない英語の方が難しく、形式さえ整えればよい日本語の方が気楽かもしれないと感想を述べた。井上氏は、英語話者から見れば、表情があまり変わらず形式を操作しなければならない日本語の方が難しいだろうと返し、それぞれに難しさがあるとした。

堀元氏はさらに、形式だけ敬意を保って言い方はひどい「反省してまーす」のような芸当は、言い方で丁寧さを表す英語ではできないのではないかと指摘した。井上氏は、その舌打ちの部分はそもそも丁寧ではないと応じた。日本語の敬語の形式性と英語の音声依存という対比は、この冒頭の例に戻ったところで話がまとまった。