医者芸人・井たくまが語る、勉強・恋愛・留年危機から「バイト医師」と芸人になるまで

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概要

受験や進路をテーマに人生を聞くチャンネルに、医者芸人の井たくまが出演した。医師免許を持ちながら常勤医ではなく、アルバイトの医師として働き、芸人とYouTubeの活動を続けている。本人は、最初からバイトだけの医師は「医者の1番下」にいる存在で、周りにもほとんどいないと話す。熊本の公立小学校から医学部に入り、医師になった後に芸人を目指すまでの経緯が、本人の語りで振り返られた。

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漢字を拒否した小学生時代と中学受験

小学校低学年で塾に通っていたが、計算と漢字の書き取りに意味を感じなかったという。「読めればいい」と考えて漢字を書く練習をせず、学校の漢字テストでは2年ほどカンニングを続けていた。高学年になってそれが悪いことだと気づき、自分から担任に申し出て、ひどく叱られ、雑巾がけをさせられた記憶があると語る。一方で読書は好きで、友達にキックベースに誘われても図書館にこもっていた。漢字は書けなくても読めたので、本は読めたという。

成績が上がらない様子を見た親から、別の塾に行くなら今の塾はやめてもいいと言われ、体験に行って気に入ったのが中学受験の塾だった。中学受験の国語では漢字は最初の5問程度しか出ず、他の問題は意外と解けた。そこから受験勉強に力を入れるようになった。

受験したのは熊本大学教育学部附属中学校と、九州学院など私立2校ほどで、いずれも合格した。本人の説明によると、附属中には教育実習生が多く来るため、生徒全員の学力が高すぎると実習に向かない。そのため当時は、定員100人に対して200人を試験で合格させ、その後に体育館でくじ引きをしていた。くじに当たれば必ず入学しなければならず、地元の中学には行けなくなる。井は地元の中学に行きたくなかったが、くじに当たったと話す。なお、この方式は現在はなくなっていると聞いているという。

「家を代表して」猛勉強し、中2で燃え尽きる

附属は幼稚園から中学まである学校で、半分以上は幼稚園や小学校から上がってきた医者や資産家の子どもだった。両親はともに学校の先生の公務員で、兄弟もいる普通の家庭だったため、井は「負けたら家の恥だ」「家を代表して送り込まれている」という気持ちで勉強した。授業を聞き、部活をして帰宅した後、その日の教科書やプリントをすべてノートに書き写すまで寝なかった。夜中3時ごろまで勉強し、朝6時半に家を出て電車で1時間かけて通う生活を、低学年のうちは続けたという。

1位を取るために、家庭科の千切りや乱切り、体育の筆記まで勉強し、実技教科でも1位を取っていた。ところが中2のとき、急に「何のために勉強しているのか」と思い、燃え尽きたような状態になった。勉強以外のこともやった方がいいと気づいたという。

野球部ではずっとベンチでスコアをつけていた。データを熱心に取ったが、中学では同じチームと当たるのは年1回程度なので、そのデータはほとんど使えなかったと笑う。何もできなくなった中2のころに芸人のラジオを好きになり、しゃべって笑いを取ることのすごさを感じたのが、お笑いへの関心の始まりだと本人は振り返る。

「これからは彼女の時代」と吹奏楽部での作戦

高校受験は合格ラインを少し超える程度の勉強で、熊本高校に入った。中3ごろから関心は「モテ」に移り、勉強で周りに勝ちたいという気持ちはなくなったという。高い目標を持ち続けるのではなく「その場で生きている」と自分を説明する。中学の離任式で告白して付き合ったが、2〜3か月で別れた。自分の言ったことで笑ってくれる人を好きになったと話す。本人いわく、「彼女の時代」は29歳ごろまで続いた。

高校で部活を選ぶとき、彼女ができるかどうかは結局母数の問題だと考えた。相手が自分を好きかどうかは自分にはわからないのだから、なるべく多くの女性と接点を持てば確率が上がる、という考えである。そこで女性の多い吹奏楽部に入った。サックスがモテると思っていたが、未経験者はベースかドラムしか選べないと言われ、ベースを選ぶと男子しかいないパートだった。

他のパートに話しかけに行くしかなくなったとき、下心を見せるとマイナスになるとも考えた。しかし井は逆に「女性として見ています」という態度を出すことにした。女性として見られたくない人は近づいてこなくなるので、それで「スクリーニングできる」と考えたという。本人はこの作戦がうまくいったと話し、最終的には部長になり、彼女もできた。部は九州大会に進めない「ダメ金」までは取れるレベルで、平日も週5日ほど練習し、土日のどちらかは朝から夕方まで活動する厳しい部だった。

現役不合格と、医学部を目指し直したきっかけ

現役では鹿児島大学医学部を受けた。周りが医学部を目指していたので自分も、という動機だったという。私立はお金がないので受けられず、後期は佐賀大学を受けたと思うが、いずれも不合格だった。センター試験は900点満点中700点ほどだったと話す。

高3の受験期に、2年ほど付き合った彼女に振られた。当時の自分は「恐るべきメンヘラ」で、RADWIMPSの歌詞のように何度別れ話をしても元に戻るのが恋愛だと思っていたと振り返る。本気になる性格で、部長としても熱血だったという。

浪人中は、その元彼女を安全のために毎日塾まで送り届けていた。元彼女は医学部に合格したが、後になって、その塾でアルバイトをしていた医学部生と付き合っていたとわかった。井は「次の彼氏に安全に送り届けていた」と気づき、怖くなると同時に腹が立ち、医学部に入るとそういうことがあるのかと思った。友人がみんな医学部を目指していたことと、この怒りが、医学部を目指す二本柱になったという。

大手ではなく小さな塾を選んだ理由と佐賀大合格

井は、個人で経営している医学部専門の塾に高校時代から通い、浪人中は熊本にしかない大手の塾と、熊大医学部の関係者が立ち上げたという個別塾にも通った。両親は勉強しろとは一度も言わなかったが、行きたい塾には行かせてくれたという。

小さな塾を選ぶ理由を聞かれると、大手の塾はきちんと勉強してきた人向けに作られていると答えた。高校3年間をある程度勉強してきた前提の授業を受けても意味がない。基礎がわからないまま高校範囲を進めることになるので、マイナーな塾でも、恥ずかしいことを聞いても一から教えてくれるところで学ばないと意味がないと考えたという。

浪人の年には佐賀大学医学部を前期で受けて合格した。佐賀大ではその前年まで、数学・英語・物理・化学を一つにまとめた「総合問題」が出ていた。井によると、サガン鳥栖の選手が蹴ったボールがどうなるか、といった問題である。井の年から通常の問題に戻ることになっていた。井は、出題形式が変わった年は試験が簡単になるというジンクスを信じ、実際に「めっちゃ簡単」だったと話す。センターは750点ほど取れた。面接の比重も大きく、親が佐賀大出身であることも生かして「佐賀が好き」と伝えたという。

2年生の再試験11科目

医学部には入ったが、本人によると留年しかけたことが2回あった。1回目は、基礎医学や組織学、生理学、生化学などが重なり、医学部で一番進級が難しいとされる2年生のときだった。井は軽音学部のジャズ研に入り、「ジャズマスターになる」と授業そっちのけで朝から晩まで部室にこもっていた。その結果、テストを多く落とし、15科目ほどのうち11科目程度が再試験になった。1科目でも落とせば留年である。

このときは、当時付き合っていた頭のいい彼女に「この表だけ覚えればいい」と言われた表を覚えたところ、それがそのまま試験に出て、進級できたという。この彼女とはその後もくっついたり離れたりしながら長く付き合ったと話している。

出席率64.8%からの逆転

2回目の危機は4年生のときだった。4月最初の試験は、運動器や感覚器系の診療科が集まった科目だった。井は2週間前からファミレスで勉強し、前日も夜中まで勉強して過去問も解き、今回は受かると思っていた。ところが当日会場に行くと、自分の席がなかった。学生課に呼ばれ、授業の出席回数が足りないので本試験を受けられず、再試験も受けられないため留年だと告げられた。基準は65%で、井の出席率は64.8%だった。

一度は留年が確定したが、井は念のため学生課で出席記録を見せてもらった。そこで出席率の計算方法に気づいた。この大学では、授業の最初に配られる紙にサインして出席を記録する。同じ先生が3時間続けて教える授業では紙は1枚だが、3時間とも別の先生なら紙は3枚になる。出席率は、この紙の枚数で計算されていた。井は、紙が1枚でも3時間の授業に出たなら3と数えるべきだと考え、時間数で計算し直した。すると出席は足りていたという。

井は、留年を判断する立場の先生にこの件を伝えた。同じ時期には、他の学生が出席カードを不正にコピーしていた事件が発覚しており、その学生たちは留年になった。井は不正はしておらず、単に授業に出ていなかっただけだったと話す。

最後の話し合いで先生から、自分の計算方法なら出席は足りるが、その方法で全員を計算し直すと、逆に足りなくなる学生も出るかもしれないと言われた。井は、その人たちが留年するくらいなら、自分はすでに留年が確定しているので無理に変えなくていいと答えた。すると先生は、友達を売るような男だったら試験は許さなかった、と言い、受験が認められたという。井は、この時点で受けさせる方向にはほぼ決まっていたようだと見ている。ただし、その試験で落ちれば留年という条件だった。

OSCEでの失敗と、臨床実習でのつらい経験

実技試験のOSCEには落ちた。AEDのブースは簡単で「当たり」とされていた。手順は、人が倒れているのを見つけたら周囲の安全を確認して近づき、呼びかけ、人を呼んで救急通報とAEDの手配を頼んでから心臓マッサージを始める、というものだ。しかし本番の井は、声をかけた後に誰も呼ばず、すぐ心臓マッサージを始めてしまい、落ちたという。

5年生からの臨床実習は「全然大丈夫じゃなかった」。特に忘れられないのは、指導についた女性の上級医である。質問を2つほどされて答えられないと、何を勉強してきたのか、もうついて来なくていいと言われ、患者向けのパンフレットを渡されたという。患者の前でも厳しく言われ続け、患者から「先生頑張ってね」と心配されるほどだった。井は医師をやめようかと思うほど追い込まれた。家に帰ると、気づいたら包丁でベッドの縁をトントンと叩いていたこともあったと話している。

マッチングは1病院だけ

研修先を決めるマッチングでは、多くの学生が複数の病院に出願し、自分の大学病院も保険として入れておく。しかし井は自大学を絶対に避けたいと考え、佐賀市内の病院1つだけを書いた。比較的自由な雰囲気で、ブラックではなく「ホワイト」な病院だったという。病院見学や面接で気さくな院長と飲みに行き、音楽をやっていると話すと「院内コンサートで弾いてよ」と言われたこともあった。そこで2年間の初期研修を終えた。

医師をやめ、芸人を選んだ理由

初期研修後は、通常ならどの大学の医局に入るかで診療科が決まる。井はその段階で東京に出て、お笑いを始めた。理由として、まず医師の仕事の厳しさを挙げる。眠れない日や当直、24時間勤務があった。さらに、医師はオリジナリティを出せないとも感じた。治療はガイドラインで大枠が決まっていて、自分でなくてもいいと思ったという。キャリアも、何年目に専門医を取り、何年目に部長になるか開業するかというパターンが決まっているため、死ぬまで決まってしまったように感じた。

まだぎりぎり20代で、後期研修に進めば専門医を取り、結婚し、子どもができて固まってしまうので、行くなら今だと考えた。一方で本人は、これは自分の進路ミスで、医学部にもノリで入ってしまったと認め、医学部を目指す人は一度考え直した方がいいとも述べている。芸人を選んだのは、好きなことができてオリジナリティを出せるからだ。高校時代にラジオを多く聞いて話術を研究し、それを元に話すと面白いと言われていたことも、「お笑いにも行けるのでは」と考えるきっかけになった。

芸人4年目の現状とYouTube

研修終了の段階で太田プロの養成所に応募して合格し、1年間通った。養成所の期間は芸歴に数えないので、その後から数えて現在4年目だという。ピン芸人としてR-1に4回出場し、3回は2回戦まで進んだが、3回戦には進めていない。最終的な目標はオールナイトニッポンのようなラジオで、面白いエピソードを話すことだ。ただ、やってみて自分はネタ作りが得意ではないとわかったとも話す。

YouTubeは養成所時代から4年間続けたが、ずっと伸びなかった。最初はショート動画で、シャワー中にPHSが鳴っている気がする、といった医師にしかわからない「医者あるある」を投稿していた。現在は医師同士の掛け合い動画の1本が1000万回再生を超えている。最近は、体に悪いと言われているものが実際どうなのかといった、一般の人が気になる健康知識も扱うようにしている。

動画を作るときは厚生労働省などのサイトを調べ、どこまでなら言ってよいかを慎重に判断しているという。SNSでは「医者が絶対に食べない食べ物」のような過激な発信をする医師が目立つ。井は、そうした医師は医師全体から見ればかなり少数派だが、SNSでは拡散されやすいと見ている。その結果、厚労省の見解に沿った発信をする自分のような存在が逆に珍しくなり、希少性が生まれていると本人は分析する。

バイト医師の収入と先行き

医師のアルバイトの時給は平均1万円ほどだという。井の計算では、1日8時間で8万円、週5日で月160万円ほどになり、すべてうまく埋めれば年間2000万円弱を稼げる可能性がある。現在は週3〜4回ほど勤務しながら動画を出している。お笑いや動画に力を入れる時期は勤務を減らすなど、収入は時期によって変わると話した。また、厚労省が専門医資格のない医師は働けないようにする方向で動いているという噂も聞いているという。数年後には「マジで無職になっている可能性もある」とし、あくまで今のところの話だと付け加えた。

進路に迷う人へ

最後に進路に迷う人へのメッセージを求められ、井は「目標はなくてもいい」と答えた。自分にはまったく目標がないが、その場その場で全力を出すことが意外と道を開く、という考えである。もう一つは「嫌なことから逃げてください」ということだ。医師の仕事から逃げた先で芸人になり、結果的にYouTubeが少しずつ伸びるようになった自分の経験を踏まえ、逃げた先で全力を出せばいいと個人的には思う、と締めくくった。