地頭は存在するのか 東大理三「4回合格」の阿修羅と京大医学部数学首席のもごが語る才能・努力・医学部進学

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概要

この動画では、東京大学理科三類に5浪で入った阿修羅と、京都大学医学部に数学満点で合格したもごが、「地頭」や「才能」とは何かを議論する。もごは「才能は存在しない。あるとすれば好きかどうかだ」と主張する。阿修羅は自分を「才能がない側」と位置づけつつ、生まれつきの差や運の要素を完全には捨てきれない。二人の見解は大部分で重なるが、細部ですれ違う。後半では、学力上位層が医学部に集中することへの疑問も語られた。

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二人の経歴と、撮影後に補足された受験結果

阿修羅は5年間の浪人を経て理三に入った。本人は「理三は普通は天才しか入れないと言われるが、自分は才能がすごくない」と語り、才能のない人間がどう頑張ればいいかをテーマに受験生向けの発信をしている。理三に在籍しながら現在も受験を続けている。面接で落ちるようにしているため合格にはならないが、合格最低点を超えたという意味では今年で4回目になるという。

撮影時点では結果が出ていなかったため、冒頭に補足映像が入っている。阿修羅は今年も最低点を超えた。ただし命をかけて対策した生物の点数が低かったので、細かい点数の公表は控えると述べた。1日目の結果として公表したのは東大英語の95点と、共通テストの1000点満点中889点である。9割を割ったことについては「高校2年生でも取れる点数を取れなかった」と悔やんでいる。また、2025年度から始めた「大学受験部」では、阿修羅以外に3人が理三を受験し、2人が合格したと報告した。

もごは京大医学部に数学満点で合格し、合格順位は上位10位ほどだったという。数学は再現性が高く、模試でも満点や195点をよく取っていたと本人は話す。一方で理三の判定はB判定が限界で、東進か何かの模試で高3の最初に一度だけA判定が出たのを覚えている程度だという。現在は6回生で、卒業試験には受かっているが、卒業を取り消されて「何もない空白の1年間」がある状態だと語る。国家試験にはあまりやる気がないとも話し、二人とも自分を「京大医学部の恥」「僕も恥」と自嘲し合っていた。

「一つのことを極めよ」と根性の話

受験への熱量が二人の共通点だと聞き手に振られ、もごは高1で本格的に勉強を始めたきっかけを語った。アダルトゲーム『グリザイアの果実』に登場するアサコというキャラクターが、主人公に「一つのことを極めなさい。一つのことを極めたらそのノリで全部できる」と言う場面がある。もごはこれを受けて、好きな科目を極めれば受験に限らず何でもできるようになるのではないかと考えたという。

聞き手が「話している感じだと、もごは元からできた天才寄りでは」と言うと、阿修羅もそう見えると同意した。これに対してもごは、阿修羅は「根性が違う」と返した。もごによれば、一つのことに向かって突き進む力はこの世で生きるうえで最も必要な能力であり、受験に限った話ではない。「パラノイアになることが一番大事」で、誰に何を言われても狂ったようにやれる人間に最終的にはなりたいという。

阿修羅はこれを「耐えるか耐えないかで、耐えるを選ぶことができる」と言い換えた。熱いものに触るような物理的に無理なこと以外、精神的なものなら耐えるほうを選べる。浪人も「石の上にも三年」のつもりで、最初は3浪までと思っていたら5浪になったという。もごが「5浪して理三に行けるなら喜んで5浪するが、失敗するのが怖い」と言うと、阿修羅は将棋の羽生さんの言葉を引いた。成功が分かっていて頑張ることは誰にでもできる。しかし受験は受かるか落ちるか分からず、当日失敗すれば終わりである。その中で続けられるかどうかは情熱なのかもしれない、と阿修羅は述べた。

もごの主張:才能はゼロ、あるとすれば「好き」

地頭をテーマにしようと提案したのは阿修羅で、定義を試みたいという意図があった。もごの立場ははっきりしている。地頭や才能と呼ばれるものは「ない、ゼロ」だと考えており、あえて才能と呼ぶなら「やるべき物事を好きかどうか」だという。数学に才能がある人とは、どんな状況でも数学を好きで続けられる人のことだ。

もごは「感覚的に分かった」「感覚的に解法が出た」というものを実力とは認めない。感覚が鋭敏なだけであり、論理的な科目ではむしろ足かせになる可能性すらあると考えている。感覚で解く人は最後には努力で積み上げた人に勝てない、というのがもごの見方である。その例として、京大でも「数学満点だった」と言う人はたくさんいたが、実際に満点だったのは自分ともう一人しかいなかったと話した。

では小学生のうちに高校数学をやっているような層はどうか。もごは、自分の代にいたある兄弟(以下「A兄弟」)を挙げた。A兄弟は小学校の段階で高校数学をやっており、論理の範疇で算数すら解いてしまう。こうした人たちは感覚とは関係がない、とする。

阿修羅の反論:「しない」と「できない」は違う

阿修羅はここで区別を持ち出した。「すること・しないこと」と「できること・できないこと」は違い、混同するのはよくないという。たとえば「そんなに浪人できない」とよく言われるが、それは本当は「選択しない」だけである。一方で、人間が100mを8秒で走ることは、ボルトでも9秒台なのだから、やろうとしても「できない」。才能は「能」という字がつく以上、できる・できないの話だと阿修羅は考える。そのうえで、小学生で高校数学をやろうとしても自分やその辺を歩いている子にはおそらくできないが、できる子はいる。全員が意思だけでできるわけではないのではないか、と問いかけた。

もごの答えは、A兄弟は公文式でやっていたというものだった。公文も最初は算数から始まり、意欲のある子が中学・高校の範囲へ進んでいく。解けなくても、今できる範囲でやりたいという気持ちで続けられるのは、できる・できないではなく「やりたいかどうか」の問題だ。小学生にいきなり高校数学をやらせれば「できない」に入る。だが算数から徐々に上っていった子は好みの問題であって才能ではない、とする。聞き手が「A兄弟と同じことを完全に再現すればA兄弟のようになるのか」と確認すると、もごは「なる」と答えた。

もごはさらに、「好き」という気持ちは阿修羅の忍耐強さに近いものだと述べた。阿修羅もおそらく受験が好きなのであり、スコアアタックのようなものが好きなはずで、音ゲーをやらせたら絶対はまるタイプだろうという。好きになること自体も単純接触で可能だとする。仲の悪い友達とも話し合えば好きになることがあるように、数学が嫌いでも向き合い続けていれば案外好きになる。自分がそうだった、とも語った。

遺伝については、もごは「遺伝より環境」だと答えた。算数を解いている横で父親が「分からないのか」とすぐ怒るような環境では、算数を好きになろうとはしない。遺伝による差が多少あっても埋められる範囲だ、とする。

阿修羅はここで一定の理解を示した。灘のトップの子が公文でずっと積み上げて小学生のうちにそこまで到達したと聞き、なるほどと思ったという。段階をうまくつけてくれる人や教材に巡り合えれば、説明次第では10歳でも微分が分かるのかもしれないと一瞬思ったと話す。もごは「いきなりは無理で、グラデーションでうまく進めた人が伸びる」と付け加えた。

もご自身については、地頭があるのかもしれないと認めつつ、父親の存在が大きかったと振り返る。父親は勉強を直接教えたわけではないが、勉強すると褒めたり抱きしめたりしてくれた。自分より父親が喜んでくれることが、実力を大きく伸ばすのに貢献したという。聞き手は「地頭が良いというより、学力が伸びる時期が早かっただけでは」と応じた。

阿修羅が「自分には地頭がない」と思った経緯

阿修羅は高3まで勉強が全然できず、高3の春に「受験を極めたい」という理由で日本一難しい大学を目指した。最初は関係代名詞も分からなかったが、やっていなかった人間がやれば伸びる、というだけで伸びたという。もごが「その一本のモチベーションで行けるのはすごい」と言うと、阿修羅は「やらなきゃ人間として終わりだから。他にないからね、俺は」と答えた。もごは、阿修羅が自分と同じ環境にいたら、もっと早い段階でとてつもない意欲で伸びていた可能性が高いと見る。阿修羅の出身は広島学院高校で、進学校ではあるが最上位の学校よりはワンランク下だと本人は説明した。

阿修羅が「地頭がない」と思い始めたのは浪人中のことだという。猛勉強しても理三には全然届かず、目標を下げて頑張ってもダメだった。努力を目一杯やってダメなら、残りは才能なのではないか、と考えるようになったと語る。

中学受験で見た「天才」と適用力の速さ

中学受験の話では、上位層は勉強に気づくのが早いという点が話題になった。もごによれば、関西の最難関層には、日能研・浜学園・希学園につなげるための小1〜小3向けの塾がある。さらに小学校受験もあり、その準備は幼稚園から始まる。小3から始めたもごは、中学受験組としてはかなり遅いという。

もごは小4のとき、同じクラスにいたある同級生を見て「これが天才か」と思い、絶望したという。塾には席順があり、もごは2位までは行けたが、その同級生にだけは絶対に勝てなかった。違いは何だったかと阿修羅に問われ、もごは「数学的感覚」と「適用力の速さ」を挙げた。小問(1)(2)を見て、それを(3)に適用する結論づけが速い。しかもそれを無意識にやっているため、レスポンスが明らかに速い。自分たちは一度頭で構築して言語化してから解くが、灘に入るような人たちはそこを感覚でやっている、とする。

早く始めればその域に達するのかという問いに、もごは「分からない」と答えた。聞き手が「早く始めること自体が才能では」と言うと、阿修羅は、早く始めるのは意思の問題か、あるいはお金が必要ということではないかと応じた。もごは反例を挙げた。後から灘に合格したある子は、小4まで貧困家庭でも入れるような安い塾に通い、好きだからと自分で勉強して、もごより賢かったという。阿修羅が「たまたまルートに乗っていたのでは」と言うと、もごは「それを言い出したら証明しようがない」と返した。

もごの結論は、違いは早く始められるか、どれだけ好きになれるか程度でしかないというものだ。適用力の速さに差はあったが、大学受験では灘の人たちと勝負して差を埋められた。相手のレスポンスが速いなら、こちらは技術で補えば十分戦える。ただし自分は頭でコツをつかんで速くなったのに対し、相手はそんなことを経ずに感覚でできている、とも認めている。

阿修羅の「努力の4要素」と山登りのたとえ

阿修羅の考えでは、天才は生まれつきできる部分が大きく、自分はそこが小さいので後天的に埋めるしかない。阿修羅は努力を4つの要素に分解する。知識を身につけること、技術を体に染み込ませること、(演習などを)積むこと、そして戦略を練ることである(3つ目は字幕上はっきりしない)。

戦略の例として阿修羅が挙げたのが科目の選び方だ。数学や物理のように才能で大きく差がつく科目でじたばたしても仕方がないので、ある程度は諦める。その分、英語・国語・化学・共通テストのように努力すれば点が取れる科目で差を埋める。どれだけ才能があっても、「important」の意味は辞書を引かなければ知りようがない、というのが阿修羅の理屈である。

技術については、答えが「2」になる問題なら、天才と同じ考え方はできなくても別の道を通って2を出すことはできると説明した。山に例えると、天才たちはヘリコプターで山頂に行くので速い。自分たちは装備を揃えて自力で登らなければならない、という。

応用力は地頭か:ヘリコプターを「持ち込む」

応用力は地頭ではないのかという問いに、もごは最初は応用力がかなり低かったと答えた。大学受験の時期になると本人も成熟し、応用力とは何かが分かってくる。小問(1)(2)で問題を理解し、そこで得た結論を言語化して(3)に適用する、という流れが見えてくるという。それでも対応できない部分は、灘の人たちが生み出した「ウルトラC」な解答を見て覚え、類似問題ではそれを変形して使う。「彼らはその場でヘリコプターを作って飛ぶ。俺らはヘリコプターを持ち込む」と、もごは阿修羅のたとえを引き継いだ。

「地頭が悪い人の特徴」リストを検証する

阿修羅は、Xなどで言われている「地頭が悪い人の特徴」を集めたリストを用意していた。まず「補助線が引けない」「立体図形を頭で思い描けない」という項目について、もごは、数学では一度2次元に落とし込む手法がとられるので、立体を頭で思い描く必要はあまりないと述べた。

阿修羅は「98%ぐらい賛成」としつつ異論も述べた。積分で断面を切るようなやり方なら、答えは出せる。自分も計算力はあるので、灘の子が10分で解く問題を20〜25分で解けるくらいまでは計算技術を練習した。しかし10分というクオリティまでは行けない。頭の中でできることが多いほうが結局は有利で、そこに地頭の差を感じるという。もごは、感覚でやっている人は自分たちがしないミスをするので釣り合いがとれていると反論した。特に必要十分条件を抜かしがちで、そこは問題の中核を担うことが多いため、京大でも東大でも大きな減点になりうるという。

次の項目は「長い日本語の文章を読んで状況を飲み込むのに時間がかかる」だった。もごは自分も当てはまると認めたうえで、大事なところに線を引く工夫で短縮できると話した。一方、阿修羅はこれが速いほうで、リストの中でこの項目だけは地頭ではないと考えている。阿修羅によれば、地頭とは生まれたときからできる寄りのものである。空間把握能力は4〜5歳くらいまでが成長の限界と言われており、タイムマシンで戻れない以上「みなし才能」と呼べる。しかし長い文章を生まれつき読み取れる人は見たことがない。生まれてすぐ「おはようございます」と言える人はいないのだから、日本語はみんな後天的に身につけるものだ。阿修羅は「国語と英語に才能なんてない」と言い、何万も読めば速く読めるようになると述べた。

読み方について、最初は線を引くべきだが、やり込むと線を引かなくても頭の中で線が引けるようになる、という点で二人は一致した。もごは「『しかし』の後に結論がある」といったよくあるテクニックは間違っていると考えている。読み込んでいくと、筆者がこういうことを言いたいのだろう、それは自分の日常生活のこれに当てはまるのだろう、というところまで見えてくるという。

阿修羅はさらに「メタ読み」の例を挙げた。受験の英語や国語で環境を扱う文章なら、「環境を破壊していこう」という結論は炎上するので100%出ない。変わった主張が出ることもあり、たとえば2000年の東大では「環境を守るとは人間のための環境を守ることであり、人間は利己的な生き物だ」という結論の文章があったという。それでも変わっているのはその程度なので、1〜2段落目で結論が見えることが多く、あとは確認作業になる。これは才能ではなく、読んできた量の問題だと阿修羅は言う。もごも、ロゴスとパトス、主観と客観のように対比にもお決まりが多いと補足した。阿修羅は、これが世間で「地頭」と言われるのは、特に理系を中心にみんなが国語を真面目にやっていないからにすぎない、と結論づけた。センター国語もやればできるという。

阿修羅の勉強法は「5浪するやり方」なのか

もごは、阿修羅に向けられる「お前のやり方だと5浪する」という批判を「勉強していない人のざれ言」だと退けた。阿修羅は高3から勉強を始め、塾にもほとんど行かず(行ったのは1浪目だけ)、いわば車輪の再発明をしていた部分が多い。だから真似すべきは5年間の過程ではなく、最終的に5浪目にやっていた勉強法だというのがもごの理屈である。阿修羅は、真似するなら勉強法と戦術だと応じた。そのうえで、戦術もないまま合格している現役の理三生を見ると才能なのではと思ってしまうとこぼした。もごはそれを「その時の判断の運」と呼んでいる。

もごは、人に教えて理三に受からせることが一番価値があると考えている。人に教えて通用するということは、メソッドが主観的なものではなく客観化され、言葉で相手に伝わり、実践できるということだからだ。もご自身もメソッドは作っているが、ある程度の努力を前提にしたものなので、そこまでたどり着いてくれる人がほとんどいないという。京大に行きたいと相談に来る人の多くは努力量が少なく、その人たちを受からせることはできない、と率直に語った。

最上位層が医学部に集まることへの疑問

聞き手が、そこまで頑張った学力の高い人たちがみな医学部に行くことをどう思うかと尋ねた。もごの説明はこうだ。一般に医学部が他学部より難しいのは、生命を扱う以上ある程度の責任が求められるからで、当然である。しかし京大医学部や理三があれほど難しいのには別の理由がある。そこは研究機関であり、生命の研究は社会に最も役立ちやすく、非常に賢い人が必要だからだ。もごは、京医や理三の学生は研究者になることを求められているのではないかと考えており、自身も研究者になりたかったという。ところが実際には多くの人が普通に医者になる。もごはこれを「才能の無駄遣い」と呼び、受験で培った知恵や論理を活かさずに毎日同じパターンを繰り返すのはなぜかと疑問を呈した。阿修羅も「そういう面もある」と同意した。

もごは最近、京大医学部から医者になった知人に理由を聞いたという。答えは、ここまで勉強してきて疲れたので、敷かれたレールを歩くのは疲れを休めるのにぴったりだ、これ以上しんどくなりたくない、というものだった。もごは、頭のいい人は安定を考えてしまうので仕方がないとも言う。働き方がしんどいことを除けばリストラされず、給料も高く、順当なルートの先に1500万〜2000万円がある。もごは冒頭の羽生さんの言葉を引き、医者はゴールが見えているから努力が楽なのだと述べた。一般の会社員には年収1000万円の保証はないが、医者にはある、という対比である。

一方でもごは、理三には他と比べて医者にならない人が多く、それはとても良いことだと評価する。やりたいことをやればいいという考えだ。「税金の無駄」という批判に対しては、工学部を出て工学系の仕事をしない人や文学部なども含めれば、そうした人はたくさんいると反論した。それと比べれば医学部の分はトントン程度だろうとする。阿修羅は「全然少ないと思う」と加えた。

二人は医者になるのか

医者になるつもりかと聞かれた阿修羅は、免許を取り、働かせてもらえるなら働きたいと答えた。無理なら塾の方面で生きていけるよう、今は実力と知名度を高めているという。どちらにも行けるようにしておかないと怖い、なまじ知名度だけあるのでマッチングで採ってもらえないかもしれない、と話した。

もごは、4年生までの勉強はとても楽しく、真面目に授業に出ていたという。しかし5・6年生の実習でパワハラを受けた。その病院は以前ニュースになったところだと明かし、医者にはなりたくない、国家試験も受けたくないと語った。勉強自体は楽しいが、やるたびに嫌な記憶がフラッシュバックするという。

結論:才能とは「情熱」か「情熱プラス運」か

聞き手は事前に、二人が天才かどうかを中立の立場で判定してほしいと頼まれていた。しかし話を聞いた結果、天才か否かというより、演習を始めた時期や演習量の問題に見えたと述べた。阿修羅はこれを「勉強に巡り合うまでの運や家庭環境」と言い換え、聞き手は「地頭がよく見える人はそれが早い」とまとめた。阿修羅は、A兄弟のすごさを知っているだけに、公文で積み上げたと聞くと「そうなのか」となる、とも話した。

最終的に、もごは才能を「物事に向ける情熱、好きかどうか」に近いものとした。阿修羅は二人の意見は85%ぐらい同じだとしたうえで、自分の定義を「才能イコール情熱プラス運」とした。完全に同じ結論ではないが納得はしたという。もごは、受験生が才能に悩まず「好きになればいい」という一つの解決策が示せたと締めくくった。