36年目で初めて落選した渡辺周が息子セイギと語る、政治家一家の子ども時代と「やり直しのきく社会」

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概要

元衆議院議員の渡辺周は64歳である。静岡県議会議員として政治家の道に入り、2026年2月の衆院選で人生初の落選を経験した。この回には、息子でお笑い芸人・YouTuberのボシマックスセイギと、高田ふーみんが聞き手として出演している。渡辺は自分を「ボシマックスセイギの父親です」と紹介し、仲間内からは最近YouTuberと呼ばれていると笑った。

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話題は多岐にわたる。政治家の子どもとして育つことの苦さ、浪人と留年、バブル期の就職活動、読売新聞の記者から政治家への転身、与党副大臣としての経験、そして落選の受け止め方である。渡辺は一貫して、失敗しても何度でもやり直せる社会をつくるべきだと語った。

大人になってから近づいた父と息子

セイギによれば、幼い頃は寮生活をしていたこともあり、父親との記憶はあまりない。社会人になって一緒に暮らし、食事をしながら話すようになってから親しくなった。父親の誕生日を知ったのは10年ほど前で、Wikipediaで調べて初めて分かったという。両親が同い年だということも、社会に出てから知った。

渡辺は28歳で選挙に出ると表明し、29歳で静岡県議会議員になった。そこから64歳まで、政治家として36年を過ごしている。国会議員としては29年である。セイギが生まれた時には父はすでに議員で、周囲から「先生」と呼ばれる環境が当たり前だった。大人たちが一定の敬意を持って自分に接してくれたとセイギは振り返る。

「政治家の息子」を隠していた少年時代

渡辺自身の子ども時代は、セイギとはまったく違っていた。渡辺の父親は、渡辺が5歳から15歳の間に3回落選している。当選するまでに10年かかった。渡辺は、人間形成で最も大事な時期に父親がずっと落選していたと語る。

通学路の電柱などに貼られた父親のポスターは、雨の日になると目がくり抜かれていた。それを見ながら登校するのはつらく、学校に行きたくなくなったという。母親は大阪の出身で、静岡県沼津市には親戚がいなかった。渡辺が小学校に入ると、母親はクラス名簿を持って一軒ずつ回り、「この子の父親が選挙に出ます。よろしくお願いします」と頭を下げた。渡辺の好きな同級生の家にも、嫌いな同級生の家にも行く。翌日、学校で「お前の親、うちに来ただろう」と言われるのは分かっていた。

そのため渡辺は、選挙に出る家の子どもであることから早く逃げたかったと話す。クラスの名簿の父親の職業欄も書けなかった。「政治家の息子」を売りにしているセイギが信じられない、こちらは隠していたのだと渡辺は言う。

落選中にどうやって家族が食べていたのかは、今でも分からないという。野党で落選中だったので、危ないお金などはなかった。おそらく志のある人から援助を受けたり、親族から助けてもらったりしていたのだろう、と渡辺は推測する。家は裕福ではなく、雨漏りのする家でしばらく育った。

セイギも、自分が大学生だった頃の実家は築80年ほどで、雨漏りがひどかったと話す。家の中で傘をさし、猫がネズミを捕って死骸が転がり、父親が焼いた魚を猫が勝手に食べていた。ネタで裕福だと言うことはあっても、実際の家はそういう状態だったという。渡辺の父親が当選した後、車は穴の開いた日産車からグロリアに変わった。ただ、生活はそれほど変わらなかった。家は支援者から数万円程度の安い家賃で借りていたのではないか、と渡辺は話している。

医学部志望からジャーナリスト志望へ

父親が議員になると、周囲から「お前も将来は後を継ぐんだろう」と言われるようになった。渡辺はそれが嫌で、医学部を目指した。きっかけは『少年チャンピオン』で読んだ『ブラック・ジャック』である。同じ誌面では、いじめられた子が復讐する『魔太郎がくる!!』も好きだった。自分の心情を代わりに晴らしてくれるようだったと、屈折した少年時代を振り返っている。

ところが数学の点数は8点や9点で、「日本でお前が行ける医学部はない」と言われた。そうしているうちにイランで革命が起き、ニュースを見聞きするなかで医者を諦め、ジャーナリストを志すようになった。国立理系から私立文系へ急に切り替えた。共通一次試験の世代だったため、準備が間に合わなかったという。

現役の時は沼津東高校から、政治経済で受験できる明治、法政、中央、そして立命館大学の産業社会学部を受けた。京都に行ってみたかったのだという。

生卵定食から熊の手へ

浪人して東京の予備校に入った。そこの食堂で、東京に来て最初に食べたのが80円か90円ほどの生卵定食だった。卵とご飯と漬物だけで、浪人生とはこういうものかと衝撃を受けた。

浪人中に早稲田の政治経済、法、文、そして当時は夕方から始まる社会科学部を受けた。最初に合格発表があった政経に受かったので、残りは結果を見に行かなかったという。

大学を卒業する頃には、バブルが始まっていた。ある外食企業の就職説明会では、中華料理のフルコースが食べ放題だった。最後にワゴンで運ばれてきたメインディッシュは、銀の蓋の下に熊の手があった。生卵定食から始まった東京生活が、5〜6年で熊の手にまで行き着いた。渡辺はそこにバブルを感じたと語る。

F欄キャラの息子へ「漢字は読めるように」

番組ではセイギの「Fラン」キャラがたびたび話題になる。渡辺は、時間があるのだからまず漢字をきちんと読めるようにし、正しい日本語を使えるようにしてほしいと話した。入学した時はFランクでも、卒業する時にSランクになっていればいいという。

渡辺は、一流とされる大学を出た政治家でも、難しい言葉を使おうとして失敗する例があると指摘する。「内心忸怩(じくじ)たる思い」を読み間違える人がいるのを実際に聞いたという。基本的なことを身につけておかないと、大人になってから取り返しがつかない、というのが渡辺の意見である。

計画留年とバブル期の囲い込み

渡辺は大学に長く在籍した。理由は自分探しだったという。ジャーナリストになりたいという思いは漠然としていた。父親の選挙のために実家に戻るのは嫌だったが、東京の議員会館に出入りし、大人たちと話すのは嫌いではなかった。国会はテレビも新聞も集まるニュースの現場である。テレビにするか、新聞にするか、雑誌にするかと考えているうちに、4年では卒業できないことになった。

5年生の時に広告代理店から内定を得た。しかし卒業してしまうと困るので、教授に「私を卒業させないでください」と手紙を書き、単位を残して計画的に留年した。その後、日本テレビを受けて最終面接で落ちたが、読売新聞には合格した。

渡辺は、甘えられるうちは急いで社会に出て勝負しなくてもいいと話す。今は転職もできるからだ。当時は一度会社に入ると途中でやめることは大きな傷のように扱われた。そのため、苦労して入った会社をすぐにやめる若者の感覚は信じられないとも語った。

この話を受けて、セイギは自身の経験を明かした。会社をやめて芸人になると父親と2人で食事をしながら伝えた時、父親は怒らず「男は稼がないといけないからな」と言っただけだったという。渡辺は、社会に出た以上、これからの人生の責任は自分で取るしかないと話した。その一方で、息子のチャンネルの再生回数を気にしている。動画を知人に転送して見てほしいと頼み、家では朝昼晩と再生回数をチェックしているという。

読売新聞は当時、渡辺によれば100人ほどの採用枠に1万人ほどが受ける難関だった。建前では大学4年生の9月頃が解禁だったが、各社は「セミナー」の名目で早くから学生を囲い込んでいた。熊の手の説明会も、表向きは「中華料理を楽しむ夕べ」という名目だったという。周りが背広で来るなか、渡辺は友人に誘われてTシャツで行ったが、それでも許される時代だった。

内定者を他社に取られないよう、企業は海外旅行や東京湾のクルーズに連れ出していた。読売新聞では、朝8時に大手町の本社前へ私服で来るよう指示され、バスで箱根・芦ノ湖のプリンスホテルへ連れて行かれた。バスに乗るとすぐに弁当と缶ビールが回ってきた。朝から酔わせて、途中で抜け出して朝日新聞などを受けに行かせないためだったと渡辺は語る。

事件記者として見たバブルの歪み

一浪二留で25歳で入社した渡辺は、地方部の八王子支局に配属され、社会面の事件記者になった。当時、渡辺の父親はすでに市長になっていたが、渡辺自身は政治とは違う世界を面白いと思っていた。

考えが変わったのはバブルの取材を通じてである。八王子から西八王子、高尾、さらに中央本線の猿橋駅や山梨県、神奈川県の奥の方にまでマンションが次々に建った。当時(約40年前)で6000万円、7000万円という価格だった。そこに住む人たちが、満員電車で都心まで通った。強引なセールスや不正も横行していた。バブルを最も懸命に支えている人たちがすり減っていくのを見て、社会がおかしい、政治を変えなければだめではないかと思うようになった。ペンで書くことには限界があり、たまたま政治家になれる環境にあった。そこで政治家を目指したと渡辺は説明する。本人は「ちょっとかっこよく」言っていると笑い、昔からこう話しているのだと付け加えた。

似顔絵の名刺で始めた初選挙

最初の選挙には、無所属で静岡県議会議員として沼津から立候補した。お金がなく、ネットもない時代で、ポスターも名刺も間に合わなかった。そこで自分で描いた似顔絵をコピーし、経歴と公約を添えて友人や知人に配った。まず名前を知ってもらうしかなかったからだ。写真入りのポスターなどは、その後で少しずつ整えていった。29歳での当選は当時の最年少だったと番組内で紹介されている。セイギは「前回の選挙も似顔絵でやればよかった」と冗談を言った。

セイギ自身も、将来は首長にも国会議員にもなりたいと話す。どこから出るかはまだ決めていない。渡辺は、若いうちから志を立て、世の中の仕組みの基礎さえ知っておけば、あとは勉強すればいいと励ました。テレビで将来は秋田県や青森県の知事になりたいと話す少女を見たことにも触れた。渡辺によれば、政治の話は戦国武将が好きだという話に少し似ていて、今は口にしてもマイナスにならない。

セイギは、トマホークチャンネルで議員へのインタビューに同行して知識を深めている。渡辺は、政治家を目指すならFランキャラの角を少し削った方がいいと助言した。ただ、今さら軌道修正しても過去の発言は消えないので、それをキャラとして押し出すのも手だとも話している。「悪名は無名に勝る」という言葉を挙げ、一番いけないのは「あいつ誰」と言われることだと語った。

1996年、最初の小選挙区選挙へ

県議を6年半ほど務めた後、渡辺は1996年(平成8年)に初めて衆院選に挑んだ。小選挙区制で行われた最初の選挙で、鳩山由紀夫と菅直人が民主党を立ち上げた時期だった。

当時は薬害エイズ問題が大きな争点だった。血友病の治療薬が原因でエイズに感染した問題である。製薬会社にも、それを認めた国にも責任があるとされた。厚生大臣だった菅直人は謝罪し、国の過失を認めた。渡辺はこれを、政府側の人間が国の過失を初めて認めた出来事として受け止めた。民主党ができた時、自分がモデルにするならここだと考えたという。

きっかけは、新党さきがけにいた知人である。渡辺は県議として時々東京に来て、政治部記者とも親しくしていた。そこから議員を紹介されるなどして、人間関係ができていった。チャンスは一度きりかもしれず、早すぎても遅すぎてもいけない。自分はたまたまその一回の船に乗れたのかもしれない、と渡辺は振り返る。

ここから渡辺は運のつかみ方について話した。運とは、他人がどれだけ自分のことを気にかけてくれているかだという。自分に直接関係のない話でも、あの人に役立つかもしれないと思えばつないでおく。そういうつながりを多く持っていれば、運が回ってくる。だから人の中に出ていかなければいけない。今の若者にはネットという武器があり、昔と違っていきなり挑戦できるとも語った。

初挑戦で当選した渡辺は、2026年2月の選挙が11回目だった。それまでの負けは1回で、比例で復活した選挙もあった。今回の落選で2敗になったという。選挙の際には、セイギが対立候補の息子をいじめていたという噂が流れたこともあった。実際には相手は高校生で、セイギは小学生だった。田舎の選挙の怖さを示す話として笑いを誘った。

与党になって見えたもの:桜の開花予想

民主党政権の3年3ヶ月のうち、約2年間、渡辺は総務副大臣と防衛副大臣を務めた。野党暮らしが長かった渡辺には、与党の感覚が驚きだった。

3月の終わり頃、公用車で総務省へ向かう途中、「桜はいつ咲くんだろう」と独り言を言った。すると秘書官が慌てて動き出し、役所に戻ると気象庁から取り寄せた開花予想が用意されていた。渡辺は、与党の人はこういう扱いに慣れているのだと知った。こういう環境で何十年も過ごしていたら、感覚がおかしくなってしまうと話している。

防衛副大臣として迎えた北朝鮮のミサイル発射

防衛副大臣の時期は、金正恩が最高指導者になったばかりの頃だった。北朝鮮は、それまで日本海方向に撃っていたミサイルを、初めて沖縄と台湾の間を通ってフィリピン方面の南へ向けて発射すると公表した。

防衛省では天候などから発射の時期や軌道を推測した。途中で失敗して燃料や部品が落ちてきた場合に備え、迎撃ミサイルPAC-3を沖縄本島ではなく石垣島へ、さらに宮古島にも運んだ。自衛隊の基地がない端の島には輸送機を置いた。宮古島と石垣島の間にある島に落ちたらどうするのかといった検討も重ねた。配備先には反対する人たちもいた。「なぜそんなものを置くのか」「横で子どもが遊んでいるではないか」と言われながら、「悪いのは北朝鮮です」と頭を下げ、理解を求めて回ったという。

ところが、ミサイルは発射から1分もたたないうちに失敗した。渡辺は詳細は言えないとしながら、防衛省のオペレーションルームの様子を語った。映画に出てくるような巨大な電子スクリーンがあり、携帯電話の持ち込みも写真も録音も禁止の極秘の部屋である。当日、スクリーン上で一瞬光が見え、すぐに消えた。確認している間に、韓国の方が早く「発射に失敗したようだ」と伝えてきた。ロケットは浮き上がった瞬間に破裂したという。あの大騒ぎは何だったのかと、渡辺は今も思っている。

ただし、防衛副大臣時代に最も大きかった出来事は東日本大震災で、言葉に尽くせなかったという。渡辺は震災ボランティアを担当し、被災地の自治体から上がってくる要望の調整にあたった。

「時代と世代に負けた」:2026年の初落選

2026年の選挙は、あっけない負けだった。投票が締め切られた瞬間、相手候補に当選確実が出た。

渡辺は敗因を「時代と世代に負けた」と表現する。55歳以上を対象にした調査では、自分は互角か少し勝っていた。しかし就職氷河期世代と呼ばれる人たちは、「日本を強く豊かに」といったキャッチコピーを言ってほしかった。一度くらい夢を見たいという思いがあったのだろう、と渡辺は分析する。SNSの時代と若い世代に自分が追いついていなかったという思いがある。だから、どこかさばさばした気持ちもあった。これだけあっけなく負けるのか、とも感じたという。

落選の瞬間は、セイギがYouTube用に撮影していた。渡辺は「あれ撮っといてよかったね」と話す。その後、YouTubeでの露出が増え、テレビでもその動画が取り上げられた。渡辺によれば、テレビ局の人たちは悔しがっていたという。当選した議員には密着できても、落選の瞬間には密着できないからだ。

今は心身とも元気で、落選は充電期間だと捉えている。積んでいた本を読み、ゆっくり人と会い、次のチャンスを狙うつもりだという。最近は「セイギ君のお父さんだったんですね」と声をかけられるそうで、息子にも頑張ってほしいと話した。

目指すのは「やり直しのきく世の中」

どんな国にしたいかと問われた渡辺は、やり直しのきく世の中だと答えた。渡辺の案はこうである。入学時の大学名で人を振り分けるのではなく、卒業時に共通テストのような試験を課す。東大でもどの大学でも、最低限の点数(渡辺は例として800点を挙げた)を取っていなければ採用しない。いわば「逆学歴フィルター」である。

人口が減り人材が不足しているのに、いまだに学歴でふるいにかけるカースト制度のようなものが残っている、と渡辺は指摘する。TOEFLや資格のように、学歴に関係なく客観的に評価して機会を与える社会になれば、入学時に失敗しても卒業時にやり直せる。受験に失敗した者は何をやってもだめだ、という考え方への反論として、渡辺はこの構想を語った。

無職の64歳、カプセルホテルと古本市

番組の動画で「同居している」と紹介されていたことについて、渡辺は今はしていないと話した。東京にいる時に、浜松町の3000円のカプセルホテルに泊まったこともあるが、なかなか寝られず大変だった。そのため、時々息子の部屋に世話になっていたという。セイギは、落選して無職になった父がカプセルホテルで寝られずにいるのは悲しいと突っ込んだ。

今後について渡辺は、28歳から36年間は選挙のことばかり考えてきたが、今はそこから離れていると話す。ただ、政治や公的なことからは離れておらず、いずれ国政に戻るつもりだという。そのために勉強を続けている。現役時代と違って収入がないので、古本市で1冊100円、3冊200円の本を買っている。現役時代は忙しすぎて知識が中途半端になったので、これからは一つのことを極めたいという。

渡辺がテーマに据えているのは二つある。一つはAIによって世界がどうなるか。もう一つは人口減少社会で日本をどう切り盛りするかである。地方では公共交通の運転手がいなくなり、学校もなくなっている。渡辺は、2040年までに大学の数も大きく減らす話があると触れた。番組では大学の統合をめぐる冗談で締めくくられたが、渡辺は、一緒にならないと立ち行かなくなるのだと話していた。