石破茂が語る、鳥取の知事の息子が銀行員を経て29歳で国会議員になるまで

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概要

前内閣総理大臣で衆議院議員の石破茂氏が、経済作家の田内学氏とともに対談番組に出演し、生い立ちから政界入りまでを振り返った。国鉄志望だった少年がなぜ銀行に入ったのか、法律討論会でなぜ直前に結論を変えたのか、そして24歳で父を亡くした後に政治の道へ進んだ経緯が語られている。

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衆院解散直前の議員会館での収録

収録は衆議院議員会館で行われた。石破氏によれば、この日は21日で、解散は「明後日」だという。議員の多くはすでに地元で選挙準備に入っており、受付にもほとんど人がいなかった。国会議員の姿を見ないのはそのためだと石破氏は説明した。

地元での強さを問われると、石破氏は「強すぎるなんてことはない」としたうえで、業界用語の「ゼロ当確」を紹介した。午後8時に投票が締め切られた直後、開票率0%の段階で当選確実が出ることを指し、自身も何度かそうなったという。司会者の親の出身地も鳥取で、中国地方からは広島や山口、島根などから多くの総理大臣が出ているのに鳥取だけはゼロだった、という話題になった。石破氏は「とにかく鳥取から1人欲しかった」と応じた。

冒頭では田内氏との関係にも触れた。石破氏は田内氏の最初の著書を自身のブログで取り上げており、番組でも「目から鱗だった」と評した。田内氏が、GDPだけを増やしても仕方がないという本の論点が、石破氏が総理就任後に「楽しい日本」を掲げたことに影響したのかと尋ねると、石破氏は「あった」と答えた。一方、田内氏の新刊『お金の不安という幻想』については「難しかった」と率直に述べている。

東京都知事を断った父

石破氏は鳥取県の出身で、本籍地は鳥取市から兵庫県方面へ車で30分ほど入った八頭町である。育ったのは鳥取県庁から歩いて10分ほどの住宅地だった。父は石破氏が1歳のときから15年ほど鳥取県知事を務めた。

ただし石破氏は、自身の家を名門の政治家一家とは考えていない。父は戦前の内務省に入り、戦争から戻った後は建設省(現在の国土交通省)の官僚となり、事務次官まで務めた。石破氏の記憶では、自身が生まれた翌年の昭和33年に東京都知事選挙があり、自民党内で「次の都知事は建設事務次官の石破君がいい」という話になった。使者として田中氏が訪れたが、父はこれを断った。

石破氏が聞いた話では、田中氏は「日本で一番人口が多くて豊かな東京の知事にならないで、一番人口が少なくて財政が厳しい鳥取の知事になぜなりたいのか」と問うたという。父は、鳥取で生まれ育ち、鳥取で死にたい、小さくても貧しくても自分が生まれ育った県の知事になるのだと答え、実際に鳥取県知事になった。石破氏は、東京都知事には東京以外の出身者が多いと述べ、小池百合子氏、舛添要一氏、猪瀬直樹氏の例を挙げた。

祖父は戦前に村長を務めていた。当時の村長は選挙ではなく任命制で、財政の厳しい村をあちこち回っていたという。石破氏は祖父に会ったことがないが、地元の人々からは「一番偉かったのはじいさん。小学校しか出ていないが偉い人だった」と言われたそうだ。

母による偉人伝の朗読

母も内務省官僚の娘だった。母方の祖父は徳島県知事や山形県知事を務めた人物である。山形県知事だったとき、30歳前後の若い課長として内務省から石破氏の父が派遣されてきた。祖父は「こいつはきっと偉くなる」と見込み、半ば強引に娘と結婚させたという。

母は国語の教員で、上の姉は英語、下の姉は歴史の教員だった。石破氏が小学校に上がると、母は豊臣秀吉や徳川家康、二宮金次郎などの伝記を毎日1時間ほど音読させた。石破氏はこれを「怖かった」と振り返る。それで偉人を目指そうと思ったのかと問われると、「偉い人がいるらしいとは思った」と笑いながら答えている。

国鉄、全日空、新聞社をすべて父に却下される

子どもの頃の夢は電車の運転士だった。昭和54年に大学を卒業する際にも、朝から晩まで列車を見ていられたらこれほど幸せなことはないと考え、日本国有鉄道(国鉄)の願書を取り寄せた。当時、父は知事を退いて参議院議員となっており、鉄道・バス・船・飛行機などを扱う運輸委員会の理事を務めていた。

父に志望先を聞かれて国鉄と答えると、「国鉄はそのうち潰れることになっている。潰れる会社に行くやつがどこにいる」と返された。鉄道がだめなら飛行機だと考え、スタジオに置かれたYS-11の模型を手に取りながら、日本航空ではなく全日空を志望したと話した。日本航空はコネで入る人が多いと考えたためだという。しかし父からは、ロッキード事件を引き合いに「田中角栄先生に迷惑をかけた会社に入るのか」と言われた。石破氏自身は、田中氏は無実だと思うと述べている。

現代国語や漢文、古文が好きだったため、次に朝日新聞かNHKを挙げたが、父の返答は「お前は人を批判する仕事がしたいのか」だった。どこならいいのかと尋ねると、父は銀行を挙げ、名刺1枚で大会社の社長から年金暮らしのお年寄りまで、あらゆる人の人生に関わることができる、こんな素晴らしい仕事はないと説いた。石破氏は、銀行員をやったこともないのにと思いつつも、素直に従った。

銀行ならどこでもよかったが、当時は算盤ができないと銀行に入れないと言われていた。三井銀行だけは算盤ができなくても入れてくれるという話があり、石破氏は算盤ができなかったので三井銀行を選んだ。この話は都市伝説かもしれないと本人も認めている。もし三菱がそうだと言われていたら三菱に入っていた、とも述べた。

「知事の息子」を避けて慶應へ

小中学校は、家から近かった鳥取大学教育学部附属に通った。高校から東京の慶應に進んだ理由として、石破氏は当時の空気を挙げる。中学時代は東大紛争や早稲田大学紛争などの学生運動の時代で、権力に反対することが格好いいとされていた。附属校には早熟な生徒も多く、知事の息子である石破氏は「権力者のせがれ」として怨嗟の的になり、浮いた存在になっていた。石破氏は「私の性格が悪かったんだろう」とも付け加えている。

地方では知事が特別な存在に見えるため、その息子も特別な目で見られた。母自身も山形県知事の娘として「知事さんの娘さん」と呼ばれるのが嫌だったらしく、息子に同じ思いをさせたくなかったという。県立高校に進んで成績が悪くても、教師が知事を呼び出して叱るわけにはいかない、という事情もあった。

東京の高校を検討すると、麻布、灘、開成は難しそうだった。筑波大学附属駒場などの国立附属校は、親が東京に住んでいないと入れなかった。そこで、格好よさそうだという理由で慶應を選んだ。中学3年の夏休みに、慶應のビッグバンド「ライト・ミュージック・ソサエティ」が鳥取市民会館で演奏したのを見て、格好いいと思ったことも理由の一つだったという。ただし、自分でバンドを組むことはなかった。

高校時代は勉強は「全然だめ」で、ゴルフ部に所属していた。母から、野球やテニスのように小さい頃から誰もがやっているスポーツではなく、競技人口の少ないゴルフをやれと言われたためだ。しかし昭和47年頃の部活動は資金に乏しく、月の半分はゴルフの練習ではなくひたすら走っていた。ゴルフは上達しなかったが、体力をつけておいてよかったと石破氏は振り返る。大学ではさすがに勉強しなければまずいと考え、それなりに勉強したという。

法律討論会で直前に結論を変えて全国1位に

大学2年のとき、石破氏は全日本学生法律討論会で1位になった。この大会は毎年テーマが憲法、民法、商法、刑法と変わり、その年は刑法だった。石破氏によれば、慶應は早稲田と違って弁論が盛んではなく、出場希望者がいなかった。さすがに出ないわけにはいかないということで、教授が刑法の成績がよい学生を集めて学内予選を行い、石破氏が1位になった。

その年の問題は、書類を改ざんしてコピーを取り、それを証明書として提示した場合に文書偽造にあたるか、というものだった。当時はまだコピーが一般的ではなく、最高裁が文書偽造にあたるという判決を出したばかりだった。判決どおりに論じればよいところを、石破氏は「ひねくれ者だから」、文書偽造にあたらないという立場で学内予選を勝ち抜いた。

ところが本選を前に教授に呼ばれ、審査員には最高裁判事もいるので、最高裁判決と違うことを言うと良い点はつかないだろうと言われた。慶應の名を背負って出る以上、2番や3番より1番の方がいいのではないか、という趣旨だった。石破氏はそこで結論を変えた。論理構成をひっくり返せばよいので対応できたという。

決勝の相手は早稲田大学だった。弁論15分と質疑15分で構成され、弁論は早稲田の方が点が高かったが、質疑では石破氏の方が評価されたらしく、最終的に1位になった。司会者が、国会で見せる弁論の力にもつながっているのではと尋ねると、石破氏は、聞いている人が寝てしまってはしょうがない、と応じた。

三井銀行での4年間:歯車式の計算機と倉庫の片付け

三井銀行には4年間勤めた。最初は多くの新人と同じく出納係に配属された。行内のお金を集計・管理する部署である。算盤はできなくていいと言われたが、計算機ができなくていいとは言われていなかったと石破氏は冗談めかして話す。

当時使っていたのは電卓ではなく、歯車式の重い計算機だった。電卓を持てるのは偉い人だけだったという。左手で伝票をめくりながら右手でキーを押すと、中で歯車がガシャガシャと回り、足し算と引き算はできるが掛け算と割り算はできなかった。石破氏はこれも、紙幣を扇状に広げて数える作業もうまくできなかった。大学時代に商法や手形法、小切手法を学んでいたが、先輩からはそんなものは役に立たないからやめて、札勘と計算機を練習しろと言われた。

配属先は日本橋にあった三井銀行の店舗で、三井グループの上場企業や日本橋の製薬会社などを顧客とする、行内でも7〜8番目に大きな店だった。入行の翌年に店舗の建て替えが予定されていたため、最初の3か月はお金の数え方と計算機の練習以外、ひたすら倉庫の片付けをしていたという。

父の死と田中角栄の一言

銀行を辞めた理由は父の死だった。入行2年目に父は自治大臣になったが、そのときにはすでに病気が進行していた。昭和55年12月に東大病院で手術を受けた時点で病状はかなり進んでおり、父は大臣を辞め、翌年9月に亡くなった。

葬儀委員長は田中角栄氏だった。石破氏が礼を言いに行くと、田中氏は、自分への礼はどうでもいいから、まず葬式に来てくれた人への礼の名刺を作って1軒ずつ回れ、選挙の準備にもなる、と言った。石破氏は最初、何のことか分からなかったという。父は参議院議員で、参院選は30歳にならないと立候補できない。当時24歳だった石破氏が、まだ跡を継げないと答えると、田中氏は「誰が参議院だと言った、衆議院だ」と返した。再来年には衆院選があり、その頃には25歳を超えている、日本のすべてのことはこの家で決めるのだ、と。石破氏はこれを受けて銀行を辞めた。

退職は昭和58年。直後の選挙は見送り、田中事務所で「政治家見習いという雑用係」として働いた。27歳で鳥取に戻り、約2年間地元を回った。初当選は昭和61年、29歳のときで、今年で40年になる。今回が14回目の選挙だという。

5万4000軒を歩いて5万6534票

初当選は楽ではなく、石破氏は「危うく落ちるところだった」と話す。田中氏からは、歩いた家の数しか票は出ないと言われていた。石破氏は5万4000軒を回り、得票は5万6534票だった。1日に200軒、300軒を歩いたという。

当時は中選挙区制で、鳥取県全体の定数は4。自民党の候補、社会党の候補、自民党の有力者、社会党の有力者が上位を占め、石破氏はぎりぎりの4番目で当選した。歩かなかったら絶対に落選していた、と本人は振り返っている。

小泉純一郎に反対したのに防衛庁長官に

その後、防衛大臣、農林水産大臣、地方創生担当大臣などを歴任した。石破氏は「どれも面白かった」としながらも、最も印象に残っているのは45歳で就任した最初の防衛庁長官だと話す。

小泉純一郎氏が自民党総裁選に出たとき、石破氏は橋本龍太郎氏を支持し、小泉氏が総理になったらこの国は終わりだとまで言って反対した。鳥取県では小泉旋風の中でも小泉氏に勝ったという。そのため、小泉氏が総理の間は自分は大臣になれないと思っていた。ところが突然小泉氏から「防衛庁長官をやってくれ」と言われ、本当に自分でいいのかと驚いた。

石破氏は小泉氏について、好き嫌いではなく、使えるか使えないか、役に立つか立たないかで判断する人だったと評し、どんなに嫌いでも役に立つなら使い、どんなに好きでも役に立たないなら使わない、と説明した。そのうえで「天才だね」と述べている。

防衛分野については、長官就任前から副長官を務め、安全保障委員会にも長く所属していた。ただし、軍事に関心があることと戦争が好きなことは別だと強調した。自身の選挙区である鳥取県東部には自衛隊の施設がなく、航空自衛隊は境港、陸上自衛隊は米子にあるので、票とは関係がないとも言う。北朝鮮のミサイル発射や能登半島沖の不審船など多くの出来事があった時代で、防衛の仕事をしなければと考えて勉強していたところへ、長官就任の話が来たという。

「総理にはなれない」

最後に、どうすれば総理大臣になれるのかと問われると、石破氏はまず「なれないよ」と笑って答えた。29歳で初当選したときは、総理になるとは思いもしなかったし、なれるとも思わなかったという。話が総理就任の経緯に入ろうとしたところで、この回の収録は終わっている。