石破茂が語る、鳥取の知事の息子が銀行員を経て29歳で国会議員になるまで
トマホークTomahawk前内閣総理大臣で衆議院議員の石破茂氏が、経済作家の田内学氏とともに対談番組に出演し、生い立ちから政界入りまでを振り返った。国鉄志望だった少年がなぜ銀行に入ったのか、法律討論会でなぜ直前に結論を変えたのか、そして24歳で父を亡くした後に政治の道へ進んだ経緯が語られている。
衆院解散直前の議員会館での収録
収録は衆議院議員会館で行われた。石破氏によれば、この日は21日で、解散は「明後日」だという。議員の多くはすでに地元で選挙準備に入っており、受付にもほとんど人がいなかった。国会議員の姿を見ないのはそのためだと石破氏は説明した。
地元での強さを問われると、石破氏は「強すぎるなんてことはない」としたうえで、業界用語の「ゼロ当確」を紹介した。午後8時に投票が締め切られた直後、開票率0%の段階で当選確実が出ることを指し、自身も何度かそうなったという。司会者の親の出身地も鳥取で、中国地方からは広島や山口、島根などから多くの総理大臣が出ているのに鳥取だけはゼロだった、という話題になった。石破氏は「とにかく鳥取から1人欲しかった」と応じた。
冒頭では田内氏との関係にも触れた。石破氏は田内氏の最初の著書を自身のブログで取り上げており、番組でも「目から鱗だった」と評した。田内氏が、GDPだけを増やしても仕方がないという本の論点が、石破氏が総理就任後に「楽しい日本」を掲げたことに影響したのかと尋ねると、石破氏は「あった」と答えた。一方、田内氏の新刊『お金の不安という幻想』については「難しかった」と率直に述べている。
東京都知事を断った父
石破氏は鳥取県の出身で、本籍地は鳥取市から兵庫県方面へ車で30分ほど入った八頭町である。育ったのは鳥取県庁から歩いて10分ほどの住宅地だった。父は石破氏が1歳のときから15年ほど鳥取県知事を務めた。
ただし石破氏は、自身の家を名門の政治家一家とは考えていない。父は戦前の内務省に入り、戦争から戻った後は建設省(現在の国土交通省)の官僚となり、事務次官まで務めた。石破氏の記憶では、自身が生まれた翌年の昭和33年に東京都知事選挙があり、自民党内で「次の都知事は建設事務次官の石破君がいい」という話になった。使者として田中氏が訪れたが、父はこれを断った。
石破氏が聞いた話では、田中氏は「日本で一番人口が多くて豊かな東京の知事にならないで、一番人口が少なくて財政が厳しい鳥取の知事になぜなりたいのか」と問うたという。父は、鳥取で生まれ育ち、鳥取で死にたい、小さくても貧しくても自分が生まれ育った県の知事になるのだと答え、実際に鳥取県知事になった。石破氏は、東京都知事には東京以外の出身者が多いと述べ、小池百合子氏、舛添要一氏、猪瀬直樹氏の例を挙げた。
祖父は戦前に村長を務めていた。当時の村長は選挙ではなく任命制で、財政の厳しい村をあちこち回っていたという。石破氏は祖父に会ったことがないが、地元の人々からは「一番偉かったのはじいさん。小学校しか出ていないが偉い人だった」と言われたそうだ。
母による偉人伝の朗読
母も内務省官僚の娘だった。母方の祖父は徳島県知事や山形県知事を務めた人物である。山形県知事だったとき、30歳前後の若い課長として内務省から石破氏の父が派遣されてきた。祖父は「こいつはきっと偉くなる」と見込み、半ば強引に娘と結婚させたという。
母は国語の教員で、上の姉は英語、下の姉は歴史の教員だった。石破氏が小学校に上がると、母は豊臣秀吉や徳川家康、二宮金次郎などの伝記を毎日1時間ほど音読させた。石破氏はこれを「怖かった」と振り返る。それで偉人を目指そうと思ったのかと問われると、「偉い人がいるらしいとは思った」と笑いながら答えている。
国鉄、全日空、新聞社をすべて父に却下される
子どもの頃の夢は電車の運転士だった。昭和54年に大学を卒業する際にも、朝から晩まで列車を見ていられたらこれほど幸せなことはないと考え、日本国有鉄道(国鉄)の願書を取り寄せた。当時、父は知事を退いて参議院議員となっており、鉄道・バス・船・飛行機などを扱う運輸委員会の理事を務めていた。
父に志望先を聞かれて国鉄と答えると、「国鉄はそのうち潰れることになっている。潰れる会社に行くやつがどこにいる」と返された。鉄道がだめなら飛行機だと考え、スタジオに置かれたYS-11の模型を手に取りながら、日本航空ではなく全日空を志望したと話した。日本航空はコネで入る人が多いと考えたためだという。しかし父からは、ロッキード事件を引き合いに「田中角栄先生に迷惑をかけた会社に入るのか」と言われた。石破氏自身は、田中氏は無実だと思うと述べている。
現代国語や漢文、古文が好きだったため、次に朝日新聞かNHKを挙げたが、父の返答は「お前は人を批判する仕事がしたいのか」だった。どこならいいのかと尋ねると、父は銀行を挙げ、名刺1枚で大会社の社長から年金暮らしのお年寄りまで、あらゆる人の人生に関わることができる、こんな素晴らしい仕事はないと説いた。石破氏は、銀行員をやったこともないのにと思いつつも、素直に従った。
銀行ならどこでもよかったが、当時は算盤ができないと銀行に入れないと言われていた。三井銀行だけは算盤ができなくても入れてくれるという話があり、石破氏は算盤ができなかったので三井銀行を選んだ。この話は都市伝説かもしれないと本人も認めている。もし三菱がそうだと言われていたら三菱に入っていた、とも述べた。
「知事の息子」を避けて慶應へ
小中学校は、家から近かった鳥取大学教育学部附属に通った。高校から東京の慶應に進んだ理由として、石破氏は当時の空気を挙げる。中学時代は東大紛争や早稲田大学紛争などの学生運動の時代で、権力に反対することが格好いいとされていた。附属校には早熟な生徒も多く、知事の息子である石破氏は「権力者のせがれ」として怨嗟の的になり、浮いた存在になっていた。石破氏は「私の性格が悪かったんだろう」とも付け加えている。
地方では知事が特別な存在に見えるため、その息子も特別な目で見られた。母自身も山形県知事の娘として「知事さんの娘さん」と呼ばれるのが嫌だったらしく、息子に同じ思いをさせたくなかったという。県立高校に進んで成績が悪くても、教師が知事を呼び出して叱るわけにはいかない、という事情もあった。
東京の高校を検討すると、麻布、灘、開成は難しそうだった。筑波大学附属駒場などの国立附属校は、親が東京に住んでいないと入れなかった。そこで、格好よさそうだという理由で慶應を選んだ。中学3年の夏休みに、慶應のビッグバンド「ライト・ミュージック・ソサエティ」が鳥取市民会館で演奏したのを見て、格好いいと思ったことも理由の一つだったという。ただし、自分でバンドを組むことはなかった。
高校時代は勉強は「全然だめ」で、ゴルフ部に所属していた。母から、野球やテニスのように小さい頃から誰もがやっているスポーツではなく、競技人口の少ないゴルフをやれと言われたためだ。しかし昭和47年頃の部活動は資金に乏しく、月の半分はゴルフの練習ではなくひたすら走っていた。ゴルフは上達しなかったが、体力をつけておいてよかったと石破氏は振り返る。大学ではさすがに勉強しなければまずいと考え、それなりに勉強したという。
法律討論会で直前に結論を変えて全国1位に
大学2年のとき、石破氏は全日本学生法律討論会で1位になった。この大会は毎年テーマが憲法、民法、商法、刑法と変わり、その年は刑法だった。石破氏によれば、慶應は早稲田と違って弁論が盛んではなく、出場希望者がいなかった。さすがに出ないわけにはいかないということで、教授が刑法の成績がよい学生を集めて学内予選を行い、石破氏が1位になった。
その年の問題は、書類を改ざんしてコピーを取り、それを証明書として提示した場合に文書偽造にあたるか、というものだった。当時はまだコピーが一般的ではなく、最高裁が文書偽造にあたるという判決を出したばかりだった。判決どおりに論じればよいところを、石破氏は「ひねくれ者だから」、文書偽造にあたらないという立場で学内予選を勝ち抜いた。
ところが本選を前に教授に呼ばれ、審査員には最高裁判事もいるので、最高裁判決と違うことを言うと良い点はつかないだろうと言われた。慶應の名を背負って出る以上、2番や3番より1番の方がいいのではないか、という趣旨だった。石破氏はそこで結論を変えた。論理構成をひっくり返せばよいので対応できたという。
決勝の相手は早稲田大学だった。弁論15分と質疑15分で構成され、弁論は早稲田の方が点が高かったが、質疑では石破氏の方が評価されたらしく、最終的に1位になった。司会者が、国会で見せる弁論の力にもつながっているのではと尋ねると、石破氏は、聞いている人が寝てしまってはしょうがない、と応じた。
三井銀行での4年間:歯車式の計算機と倉庫の片付け
三井銀行には4年間勤めた。最初は多くの新人と同じく出納係に配属された。行内のお金を集計・管理する部署である。算盤はできなくていいと言われたが、計算機ができなくていいとは言われていなかったと石破氏は冗談めかして話す。
当時使っていたのは電卓ではなく、歯車式の重い計算機だった。電卓を持てるのは偉い人だけだったという。左手で伝票をめくりながら右手でキーを押すと、中で歯車がガシャガシャと回り、足し算と引き算はできるが掛け算と割り算はできなかった。石破氏はこれも、紙幣を扇状に広げて数える作業もうまくできなかった。大学時代に商法や手形法、小切手法を学んでいたが、先輩からはそんなものは役に立たないからやめて、札勘と計算機を練習しろと言われた。
配属先は日本橋にあった三井銀行の店舗で、三井グループの上場企業や日本橋の製薬会社などを顧客とする、行内でも7〜8番目に大きな店だった。入行の翌年に店舗の建て替えが予定されていたため、最初の3か月はお金の数え方と計算機の練習以外、ひたすら倉庫の片付けをしていたという。
父の死と田中角栄の一言
銀行を辞めた理由は父の死だった。入行2年目に父は自治大臣になったが、そのときにはすでに病気が進行していた。昭和55年12月に東大病院で手術を受けた時点で病状はかなり進んでおり、父は大臣を辞め、翌年9月に亡くなった。
葬儀委員長は田中角栄氏だった。石破氏が礼を言いに行くと、田中氏は、自分への礼はどうでもいいから、まず葬式に来てくれた人への礼の名刺を作って1軒ずつ回れ、選挙の準備にもなる、と言った。石破氏は最初、何のことか分からなかったという。父は参議院議員で、参院選は30歳にならないと立候補できない。当時24歳だった石破氏が、まだ跡を継げないと答えると、田中氏は「誰が参議院だと言った、衆議院だ」と返した。再来年には衆院選があり、その頃には25歳を超えている、日本のすべてのことはこの家で決めるのだ、と。石破氏はこれを受けて銀行を辞めた。
退職は昭和58年。直後の選挙は見送り、田中事務所で「政治家見習いという雑用係」として働いた。27歳で鳥取に戻り、約2年間地元を回った。初当選は昭和61年、29歳のときで、今年で40年になる。今回が14回目の選挙だという。
5万4000軒を歩いて5万6534票
初当選は楽ではなく、石破氏は「危うく落ちるところだった」と話す。田中氏からは、歩いた家の数しか票は出ないと言われていた。石破氏は5万4000軒を回り、得票は5万6534票だった。1日に200軒、300軒を歩いたという。
当時は中選挙区制で、鳥取県全体の定数は4。自民党の候補、社会党の候補、自民党の有力者、社会党の有力者が上位を占め、石破氏はぎりぎりの4番目で当選した。歩かなかったら絶対に落選していた、と本人は振り返っている。
小泉純一郎に反対したのに防衛庁長官に
その後、防衛大臣、農林水産大臣、地方創生担当大臣などを歴任した。石破氏は「どれも面白かった」としながらも、最も印象に残っているのは45歳で就任した最初の防衛庁長官だと話す。
小泉純一郎氏が自民党総裁選に出たとき、石破氏は橋本龍太郎氏を支持し、小泉氏が総理になったらこの国は終わりだとまで言って反対した。鳥取県では小泉旋風の中でも小泉氏に勝ったという。そのため、小泉氏が総理の間は自分は大臣になれないと思っていた。ところが突然小泉氏から「防衛庁長官をやってくれ」と言われ、本当に自分でいいのかと驚いた。
石破氏は小泉氏について、好き嫌いではなく、使えるか使えないか、役に立つか立たないかで判断する人だったと評し、どんなに嫌いでも役に立つなら使い、どんなに好きでも役に立たないなら使わない、と説明した。そのうえで「天才だね」と述べている。
防衛分野については、長官就任前から副長官を務め、安全保障委員会にも長く所属していた。ただし、軍事に関心があることと戦争が好きなことは別だと強調した。自身の選挙区である鳥取県東部には自衛隊の施設がなく、航空自衛隊は境港、陸上自衛隊は米子にあるので、票とは関係がないとも言う。北朝鮮のミサイル発射や能登半島沖の不審船など多くの出来事があった時代で、防衛の仕事をしなければと考えて勉強していたところへ、長官就任の話が来たという。
「総理にはなれない」
最後に、どうすれば総理大臣になれるのかと問われると、石破氏はまず「なれないよ」と笑って答えた。29歳で初当選したときは、総理になるとは思いもしなかったし、なれるとも思わなかったという。話が総理就任の経緯に入ろうとしたところで、この回の収録は終わっている。
トマホークと、はい、田内です。よろしくお願いします。はい、では自己紹介お願いいたします。
はい。皆様こんにちは。衆議院議員、前の内閣総理大臣、石破茂であります。どうぞよろしくお願いいたします。よろしくお願いします。よろしくお願いします。
豪華ゲストということで。で、田内さんが元々お知り合いということで。そう、僕がこの本、1番初めに書いた本を、石破さんがブログで。いい、面白かったね、この本はね。ありがとうございます。目から鱗だったね。面白かったですね。
なんかあの、例えばですけど、GDPだけ増やしてもしょうがないよねみたいな話があって、で、石破さんが多分その後でね、GDPだけじゃなくて、総理になってから楽しい日本を作んなきゃっておっしゃったの、多少影響ありました?あった、あった、あった、あった。あ、本当ですか?すぐ影響される方。ていうことで。そう、なかなかこれほど面白い方は珍しい。
ちなみにこっち読みました?難しかったな。あ、こっち難しかった。難しかったなあ。世の中にね、お金の不安がこう蔓延しちゃってるので。また落ち着いたらじっくり読んで、またお話させてください。はい。
これはスッと読めたんだけど。あ、本当ですか?あら。こっちはあちこち行ったね。理解能力が足りんのかな?いやいやいや。多分僕の至らなさです。人間、反省してこそ進歩はある。
今大変らしいじゃないですか。解散。ああ、解散ね。だから今日がね、21日じゃないですか。はい。明後日だよ。明後日。そうか。確かに。俺今議員会館でね、収録してんだけどさ、いないでしょ、国会議員。確かに。いないでしょ。あ、来る人も少なかったですね。今日下で。あのね、受付のとこにあんまり人いなかったでしょ。確かに。ほとんど選挙やってる。ああ。で、議員がいないから来る人もいない。だらーん。
石破さん、あれですよね。もう地元では強い、強すぎるぐらい強い。強すぎるなんてことはないですけど、おかげさんで。あの、ゼロ当確って言うんだけどね。うちらの業界用語で。要するに8時に投票締め切るじゃないですか。開票率0%で当選確実って出るのが何人かいるんだ。ここに何回か入れてもらって。
うちの両親の地元が鳥取なんすよ。あ、はいはいはい。でするとやっぱりもう絶大、石破さんの人気は。その、出身が一緒なんでしたっけ?あの、僕は違うんですけど、両親の地元が鳥取なんで。鳥取県なんで。で、鳥取県って、なんか歴代の総理大臣って山口とか島根とか、結構中国地方多いんすよね。
岡山3人。はい。広島が4人。そんなにいるんですよね。山口が1ダースまで行かないけど結構いる。島根が2人。鳥取0。そう。鳥取ってゼロだったんですよ。で、中国5県の中でもう、待望の総理が石破さんだから、鳥取県民はみんなもう大好きみたいな。とにかく鳥取から1人欲しかったってことだね。
で、まあこのチャンネルでその、人生を受けさせていただくんですけど、出身が鳥取県の鳥取のどちらですか?はい。あのね、本籍地、つまりこう免許証なんかに本籍地ってあるよね。元々のルーツは鳥取市から東、南っていうのかな。兵庫県の方に入って車でそうね、30分ぐらい。八頭町っていうね。漢数字の8の頭って書いて。そこが本籍地なんですけど、育ったのは鳥取県庁から歩いて10分ぐらいなんで、まあまあ住宅地のようなところ。
砂丘だらけじゃないんですよね。お父さんが県知事でいらっしゃったんですよね。うちのはね、私が1歳の時から知事になっていて、15年ぐらいやってたかな。その関係もあって鳥取にみたいな。まあそれはね、まだ1歳だからね。親と離れるわけにはいかんわね。じゃあ本当にもう家系が結構政治家の家系みたいな感じですか?
いや、そんなさ、名門の家でもないから。うちの親父が内務省、戦前は内務省と言って、それが役所に分かれて、戦争から帰ってきて建設省ってとこに入ってね。へえ。今で国土交通省ね。官僚として。で、官僚で、まあ一応事務次官っていう1番上までいったんだよ。
で、昭和30…私が32年生まれで、うちの親父が事務次官になったのも31年かな。で、昭和33年、私が生まれた次の年ね。東京都知事選挙があるということになって。まあ東京都知事選挙、4年に1回やるよね。で、今のさ、小池さんが兵庫の人、その前の舛添さんが福岡の人、その前の猪瀬さんが長野の人みたいなことで、東京の人はあんまり東京都知事にならないんだよね。
で、昭和33年、東京都知事選挙をやることになって、自民党が、いや、次の東京都知事は建設事務次官の石破君がいいなって話になって。田中さんが使いに来られた。石破君、東京都の知事にならないか。断る。おお。俺は鳥取県の知事にはなるが、東京の知事にはならないんだと。
いや、田中さんがね、お前なあと。日本で1番人口が多くって1番豊かな東京の知事にならないで、言っちゃなんだが日本で1番人口が少なくて1番財政が厳しい鳥取の知事なんかになんでお前はなりたいんだって言ったんだって。うちの親父が当時50ぐらいだったかな。それは俺はね、鳥取で生まれて鳥取で育った、鳥取で死にたいんだと。知事になるなら鳥取の知事なんだ。小さくても貧しくても俺が生まれ育った県なんだって。俺はそこで死ぬんだっつって、本当に鳥取の知事になったらしいよ。へえ。すごい。
なんか親御さんの影響で政治家目指したりとかやっぱあった?全然。あ、ないですか?全然。だからね、うちの親父の父親、私のさ、見たこともないが、私が生まれる前に死んじゃってたからね。この人は村長やっとった。戦前の話だから、選挙で選ばれるわけじゃない。知事かなんかが任命する村長で、財政が厳しいとこの村長をあちこちやっておった。
でもうちの村の人たちに言わせると、1番偉かったのはじいさんだよな。この人小学校しか出てないけど偉い人だったな。まあお父さんもまあまあだったな。茂さんになったらどうもなみたいな感じで。
え、お母さんってどんな人だったんですか?お母さん、私の母親。この人はね、内務省のやっぱり役人の娘。で、昔のことだからね、戦前の話だからね。県知事っていうのはみんな内務省ってのがどこどこの知事になれっつって任命するわけね。で、うちの母親の父親は内務省というとこの役人で、徳島県知事とか山形県知事とかやっておった。
で、山形県知事になった時に、若いまだ30になるかならないかの課長として内務省からうちの親父がやってきた。内務省から派遣されて山形県の南高課長とかいうのになった。で、うちの母方のじいさんが当時山形県知事をやっていて、娘やると。こいつはきっと偉くなると。一緒になれっつって。まあ無理やり結婚したのがした。あ、そうだったんですね。
で、なんかちょっとネット情報なんですけど、お母さんがその偉人伝を読み聞かせて。怖かったな。怖かった。え、国語の教員の方なんでしたっけ?母親は国語の教員だった。上の姉は英語の教員、下の姉は歴史の教員。教員一家だね。うちの母親は国語の教員で、私が小学校に上がったら即偉人の伝記ね。で、まあとにかく読まされるわけだよな。豊臣秀吉とか徳川家康とか二宮金次郎とか、色々偉い人の話を、とにかく1時間音読させられる。毎日毎日。すごい。
心に刺さった人いました?いや、まあそれなりにどれも。まあそういう、自分もこう偉人とか人のためにならなきゃいけないっていうのはちょっと?いや、全然。偉い人がいるらしいとは思ったけどね。
じゃあ、ちっちゃい頃って何になりたいとかありました?それは電車の運転士さんになりたかったな。あ、そうか。国鉄に入りたかったんでしたよね、確か。いや、当時はJRなんてかっこいいもんじゃなくて。で、昭和54年に学校出てるんだけど、どこに入ろっかなということでね、当時日本国有鉄道と言っていた。今のJRね。国鉄と言っていた。もうとにかく朝から晩まで列車見られたらこんなに幸せなことはないと思ったわけですよね。
まあ何かな。あります。お、確かにそういうのあります。こだま号とかさ。すごい。ひかりとかさ。朝から晩までこの近くで仕事できたらいいなと思って、国鉄に入ろうと思って願書まで取り寄せたんだよね。
でね、うちの親父がもうその頃知事はやめて参議院やってた。運輸委員会っていうね。鉄道とかバスとか船とか飛行機とか、そういう問題を扱う委員会、そういう委員会の理事をやっておったんだよね。うちの父親にお前どこに行きたいんだって聞かれて、国鉄ですと言ったら、お前な、国鉄はそのうち潰れることになっとんだ。潰れる会社に行くやつがどこにいるか。
ダメすか?ダメ。じゃあ国鉄がダメならお前どこ行きてんだと。鉄道がダメなら飛行機だっつって。全日空っつって言ったんだよね。飛行機もそこにあります。ある、ある。ちょっと、よいしょ。どれがいいかな?おお。すいません。はい、全日空YS-11。よいしょ。飛行機ね。鉄道がダメなら飛行機だと。
で、JALってね、まあ今でもあるよね、日本航空。あれってね、なんだかコネで入る人がいっぱいでさ。私はコネで入ろうと思わなかったからね。で、国鉄じゃなくて全日空っつって言ったんだよね。ロッキード事件って知ってる?あ、名前ぐらいは聞いたことあるよね。全日空がトライスターって飛行機を買うのに、ロッキードという会社が作った。で、それに田中さんが口を利いたんじゃないかみたいなのがロッキード事件。いや、無実だと思うがね。お前は角栄先生に迷惑をかけた会社に入るのか、この馬鹿者。
もうすごい。もうしがらみがとんでもないことになってる。ダメか。じゃあどこだろうねっつってね。で、私、国語は好きだった。現代国語とか漢文とか古文とかね。で、よしと。じゃあ朝日新聞。当時新聞と言ったら朝日新聞だったからね。朝日新聞かNHKっつって言ったんだよね。うちの父が、お前は人を批判する仕事がしたいのか。
何言ってもダメですね。どれもダメ。でね、じゃあ何ならいいのよって聞いたんだよね。お前それはな、銀行だ。銀行。へえ。なんで銀行すか?って聞いたらね、お前よく聞けと。銀行というのはだなと。名刺1枚で大企業の社長から年金暮らしのお年寄りまで、あらゆる人の人生と関わることができる。こんな素晴らしい仕事はない。この人銀行員やったことないのになんでそんなこと言うのかなとは思ったんだけどさ。
電車も関わりそうですけどね。まあまあ、すいません。で、素直なもんだから分かりましたと。で、どこでも良かったんだけどね。三菱だろうが三井だろうが住友だろうが、何でも良かったんだけど。昭和54年の話だからね。入社試験は53年だったか。でね、当時ね、そろばんができないと銀行に入れてくれないって話だった。
へえ。それって都市伝説とかじゃなくて本当にできないとダメなんですか?いや、本当だったらしい。だけどね、三井銀行だけはそろばんができなくても入れてくれる。これ都市伝説かもしんない。でね、私そろばんできないんだわ。でね、それなら三井しかないと思って。ええ、そういう理由なんすね。それがね、もし三菱がそろばんできなくても入れてくれるって言われてたら三菱に行ってた。
あ、ちょっと話戻っちゃうんですけど、小学校中学校がどちらでしたっけ?鳥取。お名前聞いてもいいです?鳥取大学教育学部付属学校。そこはどうして入られたとかってあったり?家が近かった。そうなんですね。で、そっから高校で慶應。そうね。慶應に行かれた理由とかってあったりしますか?
それはね、親が県知事やっていた。私が高校3年生までやってたのかな?で、中学校の時に、まあ当時の話だからね、結構学生運動とかの東大紛争とかね、早稲田大学紛争とかいろいろあってね。で、権力に反対するのはかっこいいなみたいな、そんな時代だった。で、鳥取大学付属なんてのも結構ませた方が多くてね。で、私なんか知事の長男なんだからね。権力者の長男なんだよね。それは怨嗟の的だわね。あいつは権力者の世界だみたいなさ。私の性格が悪かったんだろうよ。でね、まあなんとなく浮いた存在になっていたのと。
うーん。やっぱりね、田舎でさ、県知事って結構特別な存在でさ。めちゃくちゃ権力あるように見えるよね。で、そのせがれっちゅうのはさ、なんとなくこう特別な目で見られるんだよね。学校でもね、嫌だったね。ああ、それで東京にみたいな。でね、勉強しなきゃいけないのもしんどかったよね。県知事の息子なのにみたいなのがついちゃうわけですね。
そうね。でね、うちの母親がさ、やっぱり母親の父が山形県知事をやってたわけだから、知事の娘って嫌だったらしいよ。知事さんの娘さんとか言われて。で、やっぱり自分の息子にそんな思いをさせたくないのと、県立高校なんか行ってね、成績良くないと、県立高校の先生がさ、知事呼んで怒るわけにいかんじゃん。確かに。お前のせがれできないと。確かに。で、それやこれやで、鳥取にいるのはやめようと。
で、麻布高校とかね、灘高校とかね、開成高校とかは難しそうだったんだよね。で、あとは東京教育大学付属高校、今の筑駒とかさね、筑波大付属とかさ。それはね、親が東京に住んでないと入れてくれなかった。国立の筑波大付属もダメ。で、開成とか麻布とか灘とかは難しそうだなと。で、なんとなく慶應っていいかもしんない。かっこよさそう。
まあ当時からそういうイメージなんですね、慶應は。まあ昔からかっこいいって言えば慶應だよね。そうですね。やっぱね、夏休みね、中3の夏休みにね、慶應のビッグバンドが来たんだよね。鳥取市民会館に。ライトミュージックソサエティっつってね。かっこいいと思ってよね。はあ。自分もバンドしたいっていう気持ちもあり?あったな。あ、実際された?なかった。
そう。なんか大学時代にその法律討論会で全国1位になられたみたいなって。あれってどういうことするんですか?今でもやってんだけど、全日本学生法律討論会ってね。毎年テーマが変わるんですよ。ある年は憲法、次の年は民法、その次の年は商法、その次の年は刑法とか言ってね。年によってテーマは違うんだけど、私が大学2年生の時に刑法ってのがテーマだった。
で、慶應は早稲田と違ってあんまり弁論なんてやらない。誰もそれに出る者がいない。さすがに出ないっちゅうわけにはいかんだろうっていうので、刑法ができる、ある程度成績がいい学生を何人か教授が集めてさ。で、学内予選をやったんだよ。慶應大学で。そしたらなんだか知らんけど1番になっちゃった。でね、出ることになった。
で、その年の問題は、昔はゼロックスするって言葉があってね。今でいうコピーだな。で、そのコピーをする時に改ざんをしてコピー取って、はい、これが私のなんたら証明書ですとか言って持っていったとすれば、これは文書偽造に当たるのでしょうかというのが問題だった。本当の書類を改ざんしたわけじゃなくて、改ざんしてコピー取った、それを見せるっていうのは文書偽造になりますかって、そんな問題だった。当時まだコピーが一般的にはなかった。なかった。まだね。
でね、最高裁判所の判決が出たばっかりで、最高裁判所の判決はこれは文書偽造に当たるという判決だったから、その通り言えば良かったわけや。私ひねくれ者だから、文書偽造に当たらないっつって、そういう弁論をして慶應で一応1番になって。本選は専修大学でやったかな。出ることになったんですよ。昭和のひろゆきみたいな感じ。
でね、教授に呼ばれたんだわ。石破君と。君ね、最高裁判所の判決と違うこと言おうとしてるねと。言っとくけど、今度の弁論大会の審査員には最高裁判所の判事もいるんだからね。最高裁判所の判決と違うこと言うと多分いい点つかないよって言われて、突然全く結論を変えて。あ、変えた。なるほど。
悲しい話だと思うけど。いや、権力に屈しないでくださいよ。いやいやいや。権力に屈したって、教授がね、やっぱ一応慶應大学の名を背負ったんだから。あ、確かに大学のね。お前個人じゃない。慶應大学を背負って出るんだから、できればね、3番とか2番よりも1番の方がいいんじゃないのということで、もう突然結論変えるわけですよ。だって論理構成ひっくり返せばいいんだからさ。それでいきなり変えて結果が1番なんですね。すごい。周り雑魚でした?そんなことはない。
最後は早稲田大学とね。あ、早慶戦。やっぱ強いんですね、そこは。早稲田強かったね。だから最後はね、弁論を15分やって、質疑が15分あるんだよね。で、弁論はどうも早稲田の方が点が良かったらしい。で、質疑は本当はこっちの方が良かったらしい。
やっぱそういうのも国会に生かされてたりとか。なんとなくそんな。ああいえばこういうだ。僕のイメージはもう石破さんっていうのは弁論がすごいたけてる人っていうイメージが昔からある。なんか面白く話すじゃないですか。聞いてる方が寝ちゃっちゃしょうがないもんね。でね、その結論変えたら1番になっちゃった。すごい。その記録ってやば。すごい。
え、ちなみに高校大学とかってやっぱり勉強もめっちゃ得意だったりしました?いや、高校の時は全然ダメ。あ、そうなんです?ただひたすら体力作り。あ、運動部で。ひたすら走る。え、何されてたんですか?いや、ゴルフやってたんだけど。あ、ゴルフ。高校生で。いや、それはね、不器用だからそろばんできないしね。高校生それは関係ないんだけど、親がさ、もう今から野球とかテニスとか、他の子たちが中学の時もやってたそんなスポーツはダメだと。ゴルフってそんなにやる人いないから、ゴルフやれっつって母親が言った、私に。
だけど当時のことだから。昭和47年なんてそんな時代の話だから、お金ないんだよね、みんなね。だからその月のうち半分はゴルフの練習じゃなくてひたすら走っていた。へえ。ゴルフ結構得意になった?全然ダメ。弁論の方が得意になってる。いや、それよりね、とにかくひたすら走っていた。体力作っといてよかったなと思うんだけども、高校3年間そんなことやってたから、大学はさすがに勉強しねえとまずいと思ったね。だから大学の時はそれなりに勉強した。学校の中でもやっぱできる方というか。まあそうだよね。そうですよ。
で、まあ銀行にこう入られたわけじゃないですか。で、銀行は何年間ぐらい働いてました?4年。4年間。え、中ではどうでした?あの、働き方というか。それは入ってね、最初、まあどの銀行員もそうだと思うんだけど、出納係っつってね、出るに納めるって書くね。要するに銀行の中のいろんなお金を集計したり集めたりする、金融センターみたいな。出納係っていうんだけど、そういうところへ放り込まれる。
でね、そろばんはお前できなくてもいいとは言ったけどね、計算機できなくてもいいとは言わなかったからね。ひどい。左手でこう伝票めくりながら右手でこう計算機のキーを押すわけだな。できなかったな。計算機、電卓なんですね。パソコンじゃなくて。電卓?そんなもんじゃない。電卓なんつって持てるのは偉い人。電卓じゃなくて計算機。計算機、歯車。あ、すいません。ついていけてなかったです。電卓よりさらにもっと昔のやつがあるんですね。
歯車式。歯車で計算する。ええ、そろばんに近いってことですか?全然違う。あ、全然違うの。まあとにかくそういう計算機ってのがさ、むちゃくちゃ重いんだよ。で、こう押すとガシャガシャガシャって中で歯車が回ってて、足し算と引き算はできるけど、掛け算割り算はできないっていう。そういう機械があってね。で、それやらせても全然ダメ。で、あとこう、くじの羽みたいにお札をこうやって数える。全くダメ。もう、俺やっぱ入るとこ間違えた。
いや、絶対弁論使える仕事した方がいいですよ。いや、それでね、それとね、商法とか手形法、小切手法とか読んどったんだよ。お前そんなもん何の役にも立たないからやめろ。こっちに合わせろって言われたね。ひたすらこれとこれに明け暮れるのと。
日本橋にあった三井銀行本店ってとこに配属になった。結構三井銀行では古かったね。あの、なんか白い、神殿じゃないけれども、パルテノン神殿みたいな感じの。あれは東京店。で、そこはあの辺の三井グループの上場企業は本店で、そっから落ちたっていうか、上場企業じゃないけどそれなりの日本橋の製薬会社とか、そういうのがお客様だったけど、銀行ではもう7番目か8番目に大きな店だった。
で、私が入った次の年に建て替えるということで、君ねと。お札の数え方の練習と計算機の練習以外は、うちの店来年建て替えだから、倉庫の整理をしなさい。やって、3ヶ月間お金の数え方、計算機の練習、ひたすら倉庫の片付けをやっていた。へえ。
これちなみに30分ぐらい経っちゃってるけど大丈夫?巻きで行かないと。あ、巻いた方がいいですよね。いや、わかんないけど。あ、そうか。え、じゃあちなみにその銀行を辞められた理由をお聞きしてもいいですか?それは親が死んじゃったからですよ。
で、私が銀行に入って2年目で親はね、自治大臣になったんだけど、その時にもう膵臓がんが進んでてね。まあ当時のことだからすぐわかんなかったんだけどね。で、昭和55年の12月に東大病院で手術したら、もう膵臓がんがかなり進んでると。でもう大臣もやめて、次の年の9月に死ぬんだな。
で、葬儀委員長が田中角栄さんだったな。で、葬儀委員長やっていただいてありがとうございましたっつってお礼に行った。君ね、俺なんかどうでもいいから、まず葬式に来てくれてありがとうって名刺を作って1軒ずつ回って、選挙の準備、まず挨拶もあるからって。何のこと言ってんのかな?全然わかんなかったね。
父は参議院議員だったからね。30歳にならないと立候補できない。親が亡くなった時私24だったからね。いやあ、田中先生、私はまだ24で親の後継なんかできませんのでって言ったら、誰がお前、参議院だと言った。衆議院だ。衆議院に。すごいな。再来年は衆議院選挙やる。お前もそん時は25超えてる。よく聞け。日本のこの全てのことはこの家で決めるんだっつって。ほんで銀行辞めちゃった。へえ。
あ、銀行辞めて2年後に出馬って感じ?銀行辞めたのは昭和58年。議員になったのは昭和61年。だから1回見送ってんだよね。選挙事情があって。その期間ってひたすら選挙活動みたいな感じ?角栄先生の事務所で。ああ、すごい。政治家見習いという雑用係をやっていた。へえ。今何気に角栄先生の声色真似してましたね、さっきね。石破君とか、結構難しいんだ。やっぱ真似したくなる感じ。うーん。やっぱもう非常に特徴的だったね、あの声はね。
そこである。そうです。26歳で国会議員になられる?29歳。あ、29。だから24の時親が死んだ。26で角栄先生の事務所で政治修行するということで銀行を辞めた。で、27で鳥取へ帰った。2年、選挙活動というかな。地元を回って、29で国会議員になったのが昭和61年。へえ。今年で40年。何回選挙戦ったんすか?40年でしょ?今度で14回目。14回目。すごい。
初めは、今はすごいね、常に勝ってるようなイメージなんですけど、初め大変でした?大変だったんだ。大変でした?そうすよね。危うく落ちるとこだったんだ。でも1発目で当選されたってことですね。奇跡のように。へえ。やっぱこの選挙活動が実を結んでというか。角栄先生がね、お前なと。歩いた家の数しか票は出ねえんだよと。そうおっしゃってた。5万4000軒歩いて出た票は5万6534票だった。ええ。
最下位だからね。当時中選挙区っつってさ、鳥取県全体で定数4、4人出られる。で、1番は自民党の偉い人。2番は社会党の偉い人。3番は自民党の偉い人。4番はまた社会党の偉い人。3番が自民党の偉い人。私ギリギリ4番で当選した。へえ。すごい。それも足で稼いだっていう。歩かなかったら絶対落選してたね。歩いてますね、もう一軒一軒。とにかく1日200軒、300軒。あ、その2年ぐらい前からずっと歩いてたわけですね。そう。
まあ国会議員になられて、防衛大臣とか農林水産大臣とか地方創生担当大臣とか、結構いろんなのを歴任されて。で、なんか印象に残ってることとかあったりします?それはどれも面白かったね。最初ね、防衛庁長官ってのになったんだよね。あ、当時長官。そのイメージ強い。防衛庁長官っつってね。今から、もう私45歳だったから、今からそうね、何年前なんだろうな。45歳だったからな。25年ぐらい前か。小泉さんが総理大臣になった。
でね、私はね、小泉さんが総理大臣になる時に、自民党総裁になる時にね、もう目いっぱい反対したんだよね。小泉さんなんか総理になったらこの国は終わりだとか言ってさ。で、鳥取県では小泉さんに勝ったんだよね。小泉旋風ってすごかったけどね。いっぱい出たね。だから小泉さん総理にしちゃいかんとか言って鳥取で歩いてさ。自民党ですよ、そん時は。もちろん自民党で。で、小泉さんに勝ったんだよね。橋本龍太郎さんを推してたからね。
なので小泉さんにはまあずっと恨まれるから、小泉さんが総理大臣やってる間は俺は大臣になれねえなと。いいや、それでもと思ってたら、突然小泉さんから電話がきて、君、防衛庁長官やってくれ。ほう。私でいいんですか本当に?てな話だったね。へえ。だからやっぱり1番最初、若くしてなった防衛庁長官っていうのが1番印象あったね。
それは防衛庁長官になったから軍事的なことに興味を持つようになったんです?いや、その前は副長官やってたし、安全保障委員会ってとこにずっといたし。元々、戦争好きなのと軍事に興味あるのは別だからね。だからその、私の選挙区はさ、航空自衛隊も境港だし、陸上自衛隊は米子だし、私の選挙区に自衛隊は何もないからね。別に票と関係ない話なんだけど。今言ったのは鳥取の西部に自衛隊関係の施設があって、石破さんの選挙区は東部なので、何もない。
ただね、北朝鮮がミサイル撃ったとかね、あるいは不審船が能登半島の沖に現れたとかね、結構いろんなことがあってさ。やっぱ防衛って大事だよね。そんな時代だったのでね、やっぱり防衛の仕事しなきゃと思って一生懸命勉強してた。突然小泉さんから、君、防衛庁長官やってくれ。びっくりしたね。どんな、いきなりかかってきて。しかも敵対してたわけじゃないですか。もう小泉さんすげえなみたいな感じなんです?すげえと思ったな。
だからあの人は好き嫌いで判断しないからね、小泉さんは。こいつ使えるか使えないか。役に立つか立たないか。だから、どんなに嫌いでも役に立つなら使う。どんなに好きでも役に立たなければ使わない。あの人ははっきりしてたね。はあ。天才だね。
でもせっかくなので、総理大臣になられた経緯とかも。どうやったら総理大臣になれるのかみたいな。なれないよ。いや、いるかもしれないですよ。将来の総理大臣が。いや、だからね、最初さ、29で当選した時は、まさか総理になるなんて思いもしないし、なれるとも思わなかった。
なんてわからない。君のそばに、それだけなのに。この町の空に。こんな時代の…
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