吃音はどのように隠されるのか:言い換えの工夫と「乗っ取られる身体」

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概要

ゆる言語学ラジオの吃音シリーズ第2回である。前回、吃音のある人の割合は子どもの頃は多く、大人になると減るという話が出た。今回の出発点は、その減少の理由である。水野によれば、大人になって吃音が減ったように見える人の中には、治ったのではなく、吃音を隠すテクニックが上達しただけという人が少なくない。今回は、当事者がどんな場面で困難を感じ、どう工夫して「吃音がない人のように」振る舞っているのかを具体例で紹介する。そのうえで、美学者・伊藤亜紗の『どもる体』の身体論を手がかりに、その工夫が当事者にとって何を意味するのかを考える。後半では、この議論が堀元の「インターネット芸人論」や会社員の働き方にもつながる、という方向に話が広がる。

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進路も住む場所も「言いにくさ」で決まる

最初に紹介されるのは、吃音の当事者でもある医師の菊池先生の例である。菊池先生は九州大学医学部に進学した。九大を選んだのは、医学部の中で面接がないところを探した結果だったという。大学医学部の入試には面接があるのが普通なので、吃音のある受験生にとっては面接の有無が進路の決め手になりうる。

さらに水野が驚いたと話すのは、九大に合格したのに、実家のある山口県下関から片道2時間かけて通学していたことだ。引っ越さなかった理由は、引っ越し先の住所が言いにくい地名だったら嫌だと考えたからだった。菊池先生にとって「下関」は言いやすい地名で、だから下関を離れたくなかったという。

昼食の店選びにも同じ事情が関わる。どんな店を選ぶかという水野の問いに、堀元は「言いやすいメニューを頼める蕎麦屋」と答えたが、正解は食券の店だった。言いやすいかどうか以前に、声に出して注文しなくて済む店を選ぶのである。水野はここから、タブレット注文や食券はDXや人件費削減の文脈で語られがちだが、ろう者などから「ありがたい」という声が出ていると聞いたことにも触れ、アクセシビリティを高める面もあると指摘した。ただし、高齢者などには使いにくいというトレードオフもある、と留保を付けている。

ざわついた場所、切符売り場、電話

菊池先生はまた、ざわざわした場所で話すのが疲れるとも書いている。吃音で最初の言葉が出ずに「あ、あ」となっていると、相手は作業の手を止め、体を近づけて聞き耳を立ててくれる。ところが、ようやく出てきた言葉が「雨が降ってきたね」程度だと、「これだけ注目を集めてそれか」という空気になってしまう。人を笑わせようとしても、最初の言葉に詰まって皆が注目した後に出てきた言葉が面白くなければ、場はひどく白けてしまう。

現代ではあまり見かけなくなったが、当事者のエピソードによく出てくるのが電車の切符購入である。券売機がなかった時代は、駅員に行き先を伝えて切符を買っていた。ある当事者は「高田馬場」が言いにくいため、料金が同じで言いやすい一つ先や二つ先の駅名を告げて切符を買っていたという。

もう一人紹介されるのが、当事者や専門家に取材してノンフィクションをまとめた近藤さんだ。近藤さん自身も当事者で、高校生の頃に切符を買おうとして言葉が出ず、強い恥ずかしさを味わった。大学に入ってから吃音のある自分を変えたいと考え、自分を追い込むように旅に出たが、旅がうまくなっただけで吃音は治らず、絶望したという。東大工学部から修士課程に進み、修士2年のときに深く悩んだのが研究室の電話だった。上級生なので、先生がいないときは自分が取らなければならない。吃音のある人にとって電話は、突然日常に入り込んできて話すことを強いられるものであり、言葉が出ないと相手に怪訝な反応をされる。先生が「何分後に研究室にかけ直す」と伝言を残すと、その時間にトイレに行くようにしていたという。動悸や不安も出るほどで、電話にも出られないのだから会社員が務まるはずがないと考え、卒業後は就職せず旅に出た、というようなことが書かれていたと水野は紹介する。

堀元はここで、自分のGoogle Pixelが迷惑電話の可能性が高い着信にAIで自動応答する機能を使っており、最近は営業電話の側もAI音声らしく、AI同士が会話して通話が終わっている、という話をした。水野はそれを受けて、当時こうした仕組みがあれば近藤さんも楽だっただろうと述べた。また、「Z世代は電話が苦手」という言い方が広まった今なら、「電話が苦手なのでテキストでお願いします」と言っても理由を問われにくい。その意味で現代は当事者にとって生きやすくなった部分がある、と二人は話している。

携帯電話と名乗らなくてよい電話

固定電話の時代には、家に電話をかけたのに声が出ず、相手から「いたずら電話はやめてください」と切られてしまった当事者もいたという。言いたいことが出てこないだけなのに、そう受け取られてしまう。

一方、携帯電話の登場で一気に楽になったと語る当事者もいる。取り次いでもらう必要がないこともあるが、水野が強調するのは、相手の電話帳に登録してもらえば発信時に自分の名前が表示される点だ。菊池先生の場合、自分から「菊池です」と名乗る必要がなくなり、電話がずいぶん楽になったという。

差別と理解の難しさは今も残る

食券の店が増え、切符は券売機で買え、携帯電話には名前が表示される。こうした変化を紹介しつつも、水野は吃音への差別はなくなっておらず、困る場面は今もいくらでもあると念を押す。最も深刻なケースとして、当事者が思い悩んで自ら命を絶つこともあり、2013年には北海道の病院で男性看護師が亡くなった事例があったと述べた。

近藤さんの本の終盤で水野が納得したと話すのが、吃音は常に症状が出るわけではないので周囲の理解を得にくい、という指摘である。状況によって出たり出なかったりし、程度も人によって違う。日常会話に大きな苦労がある人から、たまに症状が出る程度の人までが同じ「吃音」という言葉でくくられる。堀元は、出たり出なかったりすると、悪くすれば「ふざけているのか」と受け取られかねないと応じている。

隠すテクニック1:挿入と「ドアが開く瞬間」

ここから本題の、吃音があっても吃音がない人のように話すための工夫が紹介される。

一つ目は「挿入」である。話し始める前に「あの」「えっと」を入れる。前回も説明したように、多くの吃音は話し始めの最初の音から次の音に移るところで引っかかり、音が出なかったり連発したりする。苦手な音が文頭に来るのを避け、「あの」「えっと」を前に置いて文中に回すことで、言いづらさを打ち消すのである。最初さえ出てしまえば、後はよどみなく出てくることも多いという。

堀元は、これとは違うが似たことをラジオでしていると話した。関連する話を思い出せそうで正確に出てこないとき、「それで言うと、あれありますよね」と言って時間を稼ぐ。クイズプレイヤーが早押しボタンを押してから考える時間で答えを絞り出すようなもので、自分にとっての早押しボタンがこのフレーズだという。

水野によれば、「あの」「えっと」を言えば必ず言葉が出るわけではなく、「このタイミングなら出る」という瞬間があるらしい。近藤さんは、どうしても出したい音が出ないときの感覚を、鍵のかかったドアをガチャガチャやっているようなものだとたとえている。出したい音は本人にも分かっているのに、なぜか体がこわばって出ない。だから「今だ」というタイミングで音を放り出し、なんとか発話をやり遂げているようだ、と水野は説明した。

隠すテクニック2:助走と言い換え

二つ目は、言いにくい語の前に言いやすい語を置くやり方である。菊池先生の場合、「菊池」から言い始めるのは難しいが、「私の名前は菊池です」とすれば吃音が起きにくい。聞き手にはほとんど違和感がないが、話し手は毎回小さな努力をしている。

三つ目は「言い換え」だ。「昨日」が苦手な人は「2日前」と言い換えた例がある。「聞き手」が言いにくい人は別の表現にする。プレゼンで言いにくいものがあれば実物を持っていき、「こちらです」と見せて済ませる人もいる。本には、「気象予報士」が言いにくい人が「さっきテレビに出ていたお天気の人」と言ってしのぐ例も出てくる。

本の中では、これが外国語を話すときに似ていると指摘されている。英語で「餃子」が分からなければ、身振りを交えて「チャイニーズ・ラビオリ」や「ラップド・ミートボール」と言えば通じそうだ。吃音の当事者は、それを母語でやっているということだ。

二人はここで、自分たちもラジオで似たことをしていると話す。同音異義語が多い言葉は音声だけでは聞き手が変換しにくいので、なるべく同音語のない言葉を探して話している。話者の一人は、シリーズ初回で「発声が難しい」と言ったものの、「発生」とも聞こえてしまうので「発音」と言えばよかったと今も後悔していると明かした。「科学」と「化学」についても、化学のほうは「ばけがく」「ケミストリーのほうのかがく」などと言い分けて衝突を避けているという。ただし堀元は、自分たちはラジオに出ているときだけ気にすればいいが、当事者は24時間それを考えなければならず、脳の負荷がとても大きいと付け加えた。

水野によれば、当事者には「3単語先にあいつ(苦手な語)が来る」という感覚があるらしい。最初は意識して「2日前」と言い換えていたものが、次第に無意識の言い換えになっていく人もいるという。

言い換えが招いた失言

言い換えは失敗することもある。菊池先生は学生の頃、友人に「先生と何話してたの?」と聞こうとした。ところが「話して」が言いにくそうだと感じ、「会話して」「コミュニケーションして」などの候補が浮かぶ中で、そのとき一番言いやすかったのが「告げ口して」だった。結果として「先生に何を告げ口してたの?」と聞くことになり、友人から距離を置かれてしまったという。

水野がここで強調するのは、失言した人の中には、吃音のある人が特定の語を避けた結果そうなっている場合もありうる、という点だ。普通は「心の奥でそう思っていたのだろう」と受け取ってしまう。しかも吃音について多少の知識がなければ、後から「実は吃音があって、その言葉を避けた結果だった」と説明されても理解しにくい。

語順の入れ替えと、リズムの力

四つ目は語順の入れ替えである。「昼休みに縄跳びの練習をしよう」の「昼休み」が言いにくければ、「縄跳びを昼休みに練習しよう」にすればよい。堀元は、日本語は語順を入れ替えられる点で吃音のある人にとってうまくできた言語なのではないかと感じたという。水野によれば、英語のように語順で意味が決まる言語では語順を動かしにくいが、日本語は名詞と格助詞のまとまりを比較的自由に並べ替えられる「かき混ぜ」ができるため、この回避法が使える。堀元が「かき混ぜ」という用語を覚えていたことには、生成文法の話で何度も出てきたから、という説明が添えられた。

最後は前回も触れた「歌う」ことだ。日常ですぐ使える方法ではないが、リズムがあると吃音の出る人でもつかえずに話せることが多いという。NHKの番組で当事者がインタビューを受けた際、スタジオにいた当事者の桂文福さんが規則的に舌を打つと、金縛りが解けたように話し出したというエピソードが紹介された。歌ほどでなくても、リズムに乗っていれば話しやすくなる。山手線ゲームでも吃音は起きにくいらしい。

堀元は、山手線ゲームで長い単語をリズムに押し込むのが自分だと言い、スリランカの首都「スリジャヤワルダナプラコッテ」を口にした。その場では少し噛んだが、音が連発するような詰まり方にはならなかった。堀元はさらに、早口言葉の「バスガス爆発」を「バスが酢爆発」と区切りを変えて読むと噛みにくい、という以前の話題とも似ているのではないかと話す。水野は、切れ目を変えて発音しやすくするという広い意味では似ているかもしれないと応じた。吃音の治療をうたう施設の中には、メトロノームに合わせて一音ずつ話す練習をさせているところもあるという。

『どもる体』の視点:吃音は「乗っ取られる」こと

ここで水野は議論を大きく転じる。前回の最後にも紹介した『どもる体』の著者、伊藤亜紗は医師ではなく美学者で、専門は身体論だ。メルロ=ポンティの名前も挙がり、堀元は「フランスの思想の人ですよね、難しくてよく分からないけど」と応じている。

水野によれば、伊藤は吃音が起きることを「乗っ取られる」ことだと捉えている。私たちは普段、自分の体を制御して思うように動かしている。その制御が外れ、コントロールできない部分が出てくるのが吃音である。酔っ払っているときも、ある意味で体が乗っ取られた状態だ。吃音の場合は、それが話すときに現れやすい。この観点から見ると、言い換えなどの工夫は、乗っ取られないための工夫だと言える。そのうえで伊藤は、乗っ取られないための工夫は本当にいいことなのか、と問いを立てる。堀元の最初の反応は「別にいい気がするけどな」だった。

「適当キャラ」に乗っ取られる

水野が挙げたのは、ある当事者の例である。その人は、細かいことにこだわらない「適当なキャラ」を演じていると吃音が出にくいことに気づいた。ところが、自分が代表を務めるチェスサークルに優秀な先輩が入ってきて、その先輩の前では適当キャラを演じられなくなり、吃音が頻繁に出るようになった。その人は、これではまるで先輩を話しにくい人だと思っているかのようで申し訳なかった、と語っているという。

水野がポイントとして挙げたのは、この当事者がもともと適当な性格ではないことだ。吃音が出にくいからという理由で、自分とは違うキャラクターを演じている。引いて見れば、吃音に乗っ取られそうになったところを自分で対処しているように見える。しかしもう一段引いて見ると、今度は適当キャラに乗っ取られかけている。堀元は、人格を明け渡しているようなもので、吃音に乗っ取られるほうがまだましな気がするとまで言った。

吃音を「取り戻す」までの3年

もう一人の当事者は、幼い頃に連発型の吃音があったが、言い換えの工夫を身につけ、家族は吃音が治ったと喜んだ。ところがその後、精神的なバランスを崩し、その原因は吃音を隠していることにあるのではないかと考えた。吃音の教室のような場で連発する大人を見たとき、その人は「不謹慎かもしれないが羨ましい」と感じたと証言している。

その人は周囲に「吃音を出します」と宣言した。しかし、出したいのに出ない日々が続き、もとの吃音に戻るまでに3年かかったという。堀元は、長年の社会生活で身につけたものはそう簡単に外せないのだと受け止めた。

言い換えを始めた後の自分は本当の自分ではないとして、自分に言い換えを禁じる当事者もいるという。一回一回の言い換えがパターンとして習慣化すると、人生そのものが工夫に乗っ取られると考えるからだ。水野の紹介によれば、伊藤は言い換えを二重の意味で危険だと述べている。一つは、思ったのと違うことを口にしてしまう点で、「告げ口」の例がこれにあたる。もう一つは、乗っ取られた状態にどんどん近づいていく点だ。もちろん、言い換えが自動化した自分もまた自分だという「共存派」の立場の人もいる。それでも、一部には自由に吃音を出したい、言い換えに乗っ取られたくないという人がいる、というのが本で示された話だと水野はまとめている。

インターネット芸人論へ

水野は、これこそ「インターネット芸人論」ではないかと言う。堀元も、聞きながら自分のことだと思っていたと応じた。堀元はインタビューなどで、盛り上がると思えば「儲かると思ったからそうしたんですよ」と、実際には思っていないことをよく口にする。水野はこれを、資本主義に迎合している自分に乗っ取られており、さらにその奥では「これを言ったらウケるだろう」という自分にも乗っ取られている状態だと整理した。堀元は「僕それしかないですよ」と認め、パスワードなしで誰でもログインできるような状態かもしれない、と笑った。

それでも、我に返る瞬間はあると堀元は言う。ラジオで水野から実家を相続したらどうするかと聞かれると、ノータイムで「売り払ってデベロッパーにタワマンを建てさせる、それが一番儲かる」と答えている。だが、親から「最近元気にしてる?」とLINEが来ると、自分はこれでいいのかという気持ちになるという。水野は、奥にまだ乗っ取られる前の自分が残っているということだろうと応じた。

水野がこの本で面白いと感じたのは、工夫そのものは悪くないとしている点だ。ただ工夫を繰り返すと、それはオートマチックな制御になる。オートマ制御になると今度は工夫に人生が乗っ取られるので、その矢印を逆向きに押し戻す力も必要なのではないか、という議論である。

会社員にも、あらゆる役割にも

水野は、インターネット芸人ではない視聴者にも無関係な話ではないと続ける。会社員として「こう言っておけば上司に気に入られるだろう」と話したり、家に帰っても会社の論理で話してしまったりすることはないか。家庭の感情的な問題に「結果を出すならこうしたほうがいいでしょう」と言ってしまうのはその例だ。自分がもともと持っている人格と、所属する組織の人格が互いに乗っ取り合うような力学が働いていて、働きすぎてしまう人は会社員の人格がかなり大きく出ている状態なのではないか、と水野は述べた。

堀元は自分の失敗談も明かした。リスナーを少しいじるような悪口を言うとウケる、という成功体験を積みすぎて、他人の仕事をすぐ「ブルシット・ジョブ」と言ってしまう。コンサルの人に「すごいブルシット・ジョブをやられていて大変ですね」と言うとウケるので、いろいろな場所で言っていた。その結果、担当の美容師から「毎日この仕事で大変ですわ」と言われたとき、危うく同じことを言いかけ、ギリギリで踏みとどまったという。

水野が今回伝えたかったのは、吃音の話は当事者でない人にとっても普遍的なテーマだということだ。インターネット芸人や会社員に限らず、母親という役割の中で求められる言葉を選ぶ場合も、姉や弟や兄という立場でも同じである。どんなアイデンティティや属性であれ、そのラベルに体が乗っ取られそうになったときにどう生きるべきかを論じているのが『どもる体』であり、そうしたことに悩む人にはヒントが見つかるはずだとして、水野はこの本を特に薦めている。

次回の問い:「えーっと」「あのー」は悪いことか

今回は吃音そのものというより、当事者がどう対処しているかという点から普遍的なテーマを取り出す回だった。水野は、当事者が現代でもさまざまな場面で苦しんでいることを踏まえ、シリーズ最終回では具体的なテーマで堀元と議論したいと予告した。テーマは「『えっと』『あの』をたくさん言う人が面接で落とされるのは仕方ないのか」である。今回紹介された「挿入」のように、「えっと」「あの」は吃音を隠すための工夫でもある。堀元は、すらすら話せないと無能の烙印を押される世界だという感じがあるので、面白い議論になりそうだと応じた。答えは次回に持ち越され、視聴者にも自分なりの論点を考えておいてほしいと呼びかけて回は終わっている。