フィリピンの数字くじとジャンクション写真集の共通点――「プロジェクション」という見方

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概要

ゆる言語学ラジオの水野太貴は、この回で2冊の本が自分の中で繋がった話をしたいと切り出す。1冊はフィリピンの賭博を調べた文化人類学の研究書、もう1冊は高速道路のジャンクションの写真集である。聞き手の堀元見は「繋がる要素が1個もない」と驚く。水野は、この2冊は表向きまったく違う題材を扱いながら、どちらも認知科学でいう「プロジェクション」という人間の能力を描いていると読めた、と話す。言語学とは関係のない、久々の「どうしても喋らせろ」回である。

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1冊目:『日々賭けをする人々』

最初に紹介されるのは『日々賭けをする人々:フィリピン闘鶏と数字くじの意味世界』である。水野によれば、2022年に京都大学で博士号を取得した文化人類学者の博士論文をもとにした本で、著者はフィリピンでフィールドワークを行い、賭博を調査した。副題のとおり、中心となるのは闘鶏と数字くじだ。数字くじは日本のロト6のようなものだと水野は説明する。

水野はこの本の面白さを、「なぜフィリピンの人たちは、くそつまらない数字くじに熱狂しているのか」という問いにまとめる。

数字くじは「つまらない」

著者が扱う数字くじは「ラスト」と呼ばれる。2桁の数字に賭け、当局が発表した当選番号と一致すればお金が戻ってくる。83や65に賭けて、結果は92だった、というような単純な賭けである。払い戻しは70倍から80倍で、当選確率を考えれば必ず損をする仕組みになっている。

著者は本の中で、暇つぶしとしての魅力がないと書いているという。水野はさらに、自分の力量が発揮されている実感が乏しい点を著者が重要なポイントとして挙げていると紹介する。堀元も、予想の腕が上がるわけでもないので競馬のほうが面白いと同意する。そもそも当たらない。

それでもフィリピンの人々はこのくじに熱中している。著者が冒頭に書いている場面では、子どもを病院に連れて行くお金がなく、薬も買えずに取り乱している親が、数字くじに熱中していた。著者はこれを「異様」だと書いているという。本の第2章はフィリピンの賭博史を扱っており、数字くじの収益が政治家の活動資金になるなど、国家を動かすほどの人気があったことも紹介されている。

意見を求められた堀元は、冗談めかしながら「フィリピンには娯楽が少ないのでは」と答えてしまい、水野に「聞かなきゃよかった」と言われる。水野によれば、著者自身もフィールドに入る前は「フィリピンの人たちは確率の理解が苦手なのでは」という仮説を持っていた。しかし学校では普通に数学も確率も習っている。それなのに数字くじに熱中している。この状況を不思議に思ったことが調査の出発点だったという。

「数字を持っている」ときだけ賭ける

調査から見えてきたのは、彼らが毎回くじを買うわけではないということだった。熱狂しているのに、賭けるタイミングが決まっている。それは「数字を持っている」ときだ。

ラッキーナンバー、自分の年齢、誕生日、夢で見た数字などがあるとき、人々は「私は今、数字を持っている」と表現するという。堀元が「年齢ならいつでもあるのでは」と指摘すると、水野は恒常的に持っている数字もあると認めたうえで、より典型的なのは夢で見た数字のように一時的に現れるものだと説明する。堀元は「自分の中でホットな数字があるタイミング」と言い換え、33歳になったばかりのときに33に賭けたくなるような感覚ではないかと推測する。

数字の見つけ方には独自の方法も発達している。過去の当選番号の法則性を探り、偶数が続いたから次も偶数だと予想する。前回の当選番号が15なら、カレンダー上でその上下左右にある数字を使う。数字予想新聞まであるといい、堀元は競馬新聞のようだと感想を述べる。

死と数字、日常の中の数字探し

著者が驚いたこととして水野が挙げるのは、訃報のときの行動である。誰かが亡くなると、人々は故人の享年に賭ける。75歳で亡くなった人がいれば、まず75に賭ける。さらにお通夜では、棺の周りで数字を探し始める。アルコール消毒液のボトルのバーコードから数字を拾ったり、故人の生まれ年や誕生日に賭けたりするという。

ほかにも、どこかへ向かう途中にある数字が目に飛び込んできて、それに賭けることもある。堀元はこれを、山崎まさよしの「One more time, One more chance」をもじって「数字くじタイム、数字くじチャンス」と表現する。彼らはいつもどこかにくじの数字を探しながら生きている、というわけだ。

裏を返せば、賭ける数字が思い浮かばないときは賭けない。ギャンブル依存症のように毎回賭けるのではなく、数字を持っているときに賭ける。もちろん賭け続ける人もいるが、庶民の日常的な賭け方はこうしたものだと水野は説明する。

G1レースだけ買う競馬ファンとの比較

堀元は、大きなG1レースのときだけ馬券を買い、それ以外は買わないライトな競馬ファンに似ているのではないかと言う。水野はこれに同意しつつ、違いも指摘する。日本ではそういうライトな競馬ファンはそれほど多くない。一方、フィリピンの数字くじは庶民に深く浸透していて、ほとんどの人がG1レースのときだけ参加するような状態にある。量的にも質的にも違う、という整理である。

脱線:ペプシの番号キャンペーンと、アジアの数字くじ

ここで堀元が、フィリピンのくじにまつわる事件を思い出す。ペプシコーラが瓶の蓋に番号を印刷し、後で当たり番号を発表して当選者に賞金を出すというキャンペーンを行った。ところがミスプリントで当たりを大量に出してしまい、支払えないとして払わなかったため暴動が起きた。堀元はそのドキュメンタリーを見て、人々が瓶を割っている悲惨な映像を覚えているという。

水野は、これは笑い事ではなく死者も出ていると補う。水野の説明では、死者が2人出て、38台のトラックが破壊された。ミスプリント分も支払っていれば、その額はマニラの証券取引所に上場する全企業の時価総額を上回ったという。堀元は、日本でいえば東証の全上場企業の時価総額を超えるような額だと驚く。この事件はイグノーベル平和賞を受賞しており、水野は「何も平和じゃない」皮肉だと述べる。水野が読んだ文献には、ペプシはフィリピンでギャンブルが人気なことを知っていて、ギャンブル性の高い販促を考えたと書かれていたという。

堀元はさらに、台湾でレシートを店の前に捨てる人が多いことが問題になり、レシートにくじを付けたら人々が取っておくようになったという話を聞いたと紹介する。そこから、アジア圏の人は数字を当てるのが好きなのではないかと推測する。日本の年賀状にもくじが付いているし、江戸時代の富くじも数字くじだったのではないかと話が広がる。一方で、西洋の数字くじはあまりイメージが湧かない、映画でも見かけないと2人は話す。ただし、これはあくまで2人の印象として語られている。

数字くじは「幸運」を確かめる装置

水野は本題に戻り、この本を読んで「数字くじはよくできている」と感じたと話す。その理由として紹介されるのが、著者のもう一つの洞察である。

自分が今ついているのか、ついていないのかを直接確かめる方法はふつうない。しかし著者は、フィリピンの数字くじは人々に幸運について認識する機会を提供している、と主張しているという。当たればついているし、外れればついていない。さらに、64に賭けて65が出るようなことが続けば、それも「今来ている」と受け取られる。水野によれば、幸運の兆しはかなり広く捉えられている。

堀元は、1つ隣の数字だったからといってついているわけではない、オカルトだと突っ込む。水野は、自分の祖母もビンゴで64が読まれて65を持っていると「惜しい」とすぐ言い、父に「惜しくない」と言われ続けていると応じる。そこから、水野家が家族でビンゴ大会をしているという話で盛り上がる。姉がカードを用意し、景品を一人一つずつ買ってくる。祖母はビンゴにならないと悪態をついてカードを投げ捨てるという。

堀元は、前後賞もないくじで隣の数字にこだわる意味はなく、期待値計算だけをして生きるのが合理的だと言う。水野に「文化人類学を語るな」と返され、堀元がフィールドワーク先でDXコンサルを始めるという冗談に発展する。

日本の星座占いとの類比

数字くじが幸運を確かめるツールとして機能しているという指摘を聞いて、水野が思ったことがある。もしフィリピンの文化人類学者が日本を調査したら、毎朝のニュースで星座占いが流れているのを見て、日本人は面白みのない星座占いを通じて自分の運勢を間接的に把握しているのかもしれない、という博士論文を書くのではないか。

つまり、堀元が非科学的だとか娯楽がないのではと言ったフィリピンの数字くじと同じようなことを、日本でも日常的にやっているというのが水野の見方である。堀元は再び皮肉を言いかけて水野にたしなめられ、ああいうものがあるから日常にメリハリがつく、と言い直す。

水野は前半をこうまとめる。フィリピンの人々は数字くじに熱狂しているが、それは依存症的な熱狂ではない。賭けるべき数字を持っているときに賭け、持っていないときは賭けないというスタイルで向き合っている。そして日本に置き換えれば、朝のニュースの星座占いとあまり変わらないのではないか。堀元もこれには説得力があると認める。

2冊目:写真集『ジャンクション』

続いて写真集の話に移る。堀元は「日本でジャンクションが売られていて、賭けるべきジャンクションを持っているときだけ日本人が賭けている、と気づいたのでは」とボケるが、もちろんそうではない。

『ジャンクション』は2007年に出た写真集で、最近『マンションポエム東京論』を出した写真家・ライターの大山顕が独立したばかりの頃の初期作だと水野は紹介する。ジャンクションは高速道路どうしを連結する分岐部分で、大山はそれを美しくてしょうがないと感じていたようだ、と水野は話す。

本の冒頭ではジャンクションが分類されている。タービン型、クローバー型、対向型、T型、トランペット型などがあり、クローバー型は佐賀県の鳥栖ジャンクション1例のみで、「とても貴重なトポロジー」と書かれているという。堀元は「トポロジーって言っちゃってる」と笑う。水野は、全く違う方向へ向かう道路を支障なくすれ違わせるには、高さやカーブを工夫して繋げる必要があるので、トポロジーを考えざるを得ないと補う。

分類の前のページでは、ジャンクションの「部位」も解説されている。「足」や「腕」といった呼び方があり、どこが面白いのかが説明されている。堀元が特に鋭いと感じたのは、下から見上げたときに見える「裏テクスチャ」についての大山の論評である。道路は表を美しくすればするほど裏テクスチャが荒れる。だから裏側が汚く整然としていないほど、表は美しいのだという趣旨だという。堀元は、白鳥が優雅に見えても水面下では必死に足を動かしているという決まり文句を、今後は高速道路の裏テクスチャで言い換えたいと話す。水野は「伝わらない慣用句を1個見出してしまった」と笑う。

名ジャンクションのキャプションに見える「言いすぎ」

写真集の本編では、大山が選んだ名ジャンクションの写真に、キャプションが添えられている。水野はそこに注目する。

東京都の両国ジャンクションでは、「ジャンクションを見るために用意されたかのような」親水公園があるので落ち着いて鑑賞できる、と書かれている。小菅ジャンクションでは、下を走る一般道もジャンクションと同じT字路になっていて、上下に同じ形が2つ重なっているのが興味深いという。さらに、すぐ南で綾瀬川と荒川が合流し、電車も常磐線と東武伊勢崎線が交差している。いわば色々なものがこの町でジャンクションしており、ジャンクションは「交差する町・小菅」の象徴に見える、と書かれている。堀元は、川も道も電車も交差しているというのはいい気づきだと感心する。水野は、こうした視点がキャプションにふんだんに書かれているため、ジャンクションに興味がなくても読ませる力があると評価する。

東京の江戸橋ジャンクションについては、周囲がビルだらけで鑑賞ポイントは限られるが、最もおすすめは兜神社の裏だと書かれている。聞けば証券界の守り神と言われているらしいが、どう見てもジャンクションの守り神だと思う、というのである。堀元は、兜町は証券会社の本拠地なのだから証券界の守り神に決まっている、言いすぎだと突っ込む。

水野も、両国の親水公園を「ジャンクションを見るために用意されたかのよう」と言い、小菅ジャンクションを町の象徴とし、兜神社をジャンクションの守り神だと決めつけるのは、確かに言いすぎだと認める。そして、この「決めつけ」こそがフィリピンの数字くじとの共通点だと言う。

共通点は「プロジェクション」

水野は答えを明かす前に、堀元にいくつか問いかける。カレンダーは数字くじの当たりのヒントを提供するために存在しているか。堀元は、曜日を確認したり予定を書き込んだりするためだと答える。兜神社はジャンクションの守り神になるために存在しているか。もちろん違う。小菅ジャンクションは、色々なものが交差する町を象徴するために存在しているか。必要だったからそこにあるだけだ。

水野によれば、大山もフィリピンの数字くじの参加者も、ある目的のために存在しているものに、別の意味付けを行っている。これが、近年の認知科学で注目されている「プロジェクション(投射)」という概念だという。ある対象物Aに対して、まったく別のBを心理的に当てはめることをプロジェクションと呼ぶ。証券界の守り神を見て「これはジャンクションの守り神だ」と思うのは、まさにその例である。

この概念は、以前の回で小林・益川理論と腐女子の二次創作を扱ったときにも登場していた。水野は、『日々賭けをする人々』も『ジャンクション』も、表のテーマはまったく違うが、裏のテーマとしてプロジェクションという認知能力を描いていると読める、と説明する。だから2冊が繋がったのである。

次回は専門家を招いて

水野は最近このプロジェクションという概念にはまっており、これらの本に限らず、世界をプロジェクションという概念で見るとめっちゃ面白くなると考えている。そこで次回は、この認知能力の面白さを堀元に布教したいという。

ただし水野自身はプロジェクションを専門的に勉強してきたわけではない。そこで、以前の「語らせろ」回で論理的思考の文化的基盤について話したときと同じように、後編では専門家をゲストに招いて3人で話す形式をとる。ゲストは、小林・益川理論と腐女子の二次創作についての論文を書いた久保先生である。水野によれば、久保先生は「プロジェクションの布教し放題だ」と張り切っており、推し活のつもりで来ると話していたという。

予習したい人には、今回の2冊に加えて、久保先生の一般書『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』と『イマジナリー・ネガティブ 認知科学で読み解く「こころ」の闇』が紹介された。プロジェクションが具体的にどう面白いのかは、次回に持ち越しとなっている。