ラーメン二郎の「ニンニク入れますか?」を言語学で読む:合図、台本、指標性

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概要

ラーメン二郎では、店員が「ニンニク入れますか?」と聞く。形のうえでは「はい」か「いいえ」で答える質問だが、客は「ニンニクマシ、ヤサイカラメ」のようにトッピングの好みを返す。ゆる言語学ラジオの水野太貴と堀元見は、この奇妙なやり取りを題材に、慶應義塾大学で社会言語学を教える井上逸兵をゲストに迎えて話を聞いた。キャンパスのある三田には二郎の本店がある。井上は10年以上食べていなかったが、収録の依頼を受けて3日ほど前に食べに行ったという。ただし、話すのは二郎そのものではなく二郎を材料にした言語学だと本人は断っている。

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「はい」と答えると素人扱いされる質問

井上によれば、Yes/No疑問文なのにYes/Noで答えない質問は珍しくない。「元気ですか?」と聞かれて「いや、最近仕事が大変で」と返しても不自然ではない。原理的には「元気かどうかを聞いているのであって、仕事が忙しいかは聞いていない」と言い返すこともできるが、実際にそう言う人はいない。「元気ですか」は問いというより、これから会話が始まるという合図として働いている。相互行為分析や談話分析には、こうした発話を会話の構造を作るきっかけと見る考え方があり、「ニンニク入れますか」もそれに近いと井上は見る。

実際、二郎系の店で「はい、お願いします」と答えた客に店員が嫌な顔をするのを見た、という話も出た。水野は、京都で「お出かけですか」と聞かれたら「ちょっとそこまで」と返すのが決まりで、「はい、お出かけです」と答えれば素人だと思われるだろう、という例を挙げている。

この種の合図を専門的にどう呼ぶかについて、井上は見方が複数あるとしたうえで、一つは「コンテクスト化の合図」だと説明した。いまラーメンを注文するプロセスに入り込み、適切に振る舞っていることを示すシグナルである。答え方を間違えると「部外者」として扱われるので、仲間意識を確認する言葉でもある。ただし井上は、会話の次の段階を予期させる要素と見るほうが「ニンニク入れますか」には正確かもしれない、とも述べていて、コンテクスト化の合図と言い切ることには少しためらいを見せた。

番組内の「フリ」と仲間の識別

水野は、ゆる言語学ラジオにも同じ構造があると指摘する。水野が「カメラの電源落ちてますよ」と言うと、堀元は「脱税なんてすればするほどいい」のような言ってはいけないことを言う。堀元は冗談めかして「誘導していない」と否定しつつ、お笑いのフリは全部そうだと認めた。ハリセンボンの箕輪はるかに「昨日のライブパフォーマンス良かったです」と言うのも、サンボマスターに間違えられたというツッコミを要求している。文脈が分からない人なら「ライブしてないです」と答えてしまう。

井上はここが要点だとする。その慣習を知っているかどうかで仲間かどうかが識別される。内輪のノリはまさにそのために使われている、と水野と堀元も同意した。

では、なぜ二郎はわざわざ初見の客が引っかかる形式を採っているのか。堀元は「あえて初見を殺したいのでは」と冗談を言い、そこから慶應と二郎の関係に話が移る。二郎の店主は慶應の卒業生組織の記念行事で講演者を務めたことがあり、卒業生でなくても大学に長く関わった人に与えられる「特選塾員」にも選ばれた。そのとき学内の意見は「よくやった」と「遅い」の二つに割れた、と井上は冗談を交えて紹介している。

言語学的な工夫として堀元が紹介したのは、「ニンニクなし」は禁句で、代わりに「抜き」と言うという話だ。「なし」は「マシ」と聞き間違えられやすいからである。堀元は、実験で「テスト」を「テイスト」と聞き違えたことから物質が甘いと分かった、という科学史の逸話を引き、誤解を防ぐために語彙を封じる仕組みはよくできていると評した。

飲酒の手順を記述した人類学と「インタラクショナル・スクリプト」

井上は、二郎が言語人類学から見ても面白いと言う。言語人類学は社会言語学の親戚のような分野で、フィールドワークを好む研究者が多い。古典的な論文に、フレイクという研究者がフィリピンのスバヌンの人々のところで「酒の飲み方」を記述したものがある(井上は1964年ごろと記憶している)。そこでは勝手に酒を飲むことはできず、非常に多くの形式的な手順を踏まないと酒にありつけない。手順を知らずに飲めば、二郎で「はい」と答えるのと同じく部外者扱いになる。こうした研究を出発点に、慣習を知らないと会話や活動に入れないという現象に注目する研究の流れが生まれた。

二郎の場合、入店した時点から「インタラクショナル・スクリプト」、つまりやり取りの台本が始まっていると井上は説明する。台本を知っている人はうまく振る舞え、知らない人は戸惑う。人はあまり意識しないスクリプトをたくさん身につけて暮らしており、意識されないのに何となくルールやしきたりがある世界を掘り下げるのが社会言語学や言語人類学だという。堀元は、昔のインターネットの「キリ番踏み逃げ禁止」を例に挙げた。アクセスカウンターの1000人目のような区切りのいい番号を踏んだら掲示板に報告しなければならず、しないと「踏み逃げ」と非難されるという文化である。

ジャルジャルのコントはスクリプトの破壊である

水野は、ジャルジャルの笑いは基本的にインタラクショナル・スクリプトの破壊だと考えたという。ジャルジャルのネタで最も多い場面は面接だ。水野自身の就職活動の経験でも、ノックの回数、「どうぞ」と言われてからドアを開けること、ドアの閉め方、「おかけください」と言われるまで座らないことなど、面接には明確なシークエンスがあった。ジャルジャルは、入室直後にふざけたことを言う、名前を聞かれてふざけた名前を答える、面接中に足を大きく開く、友人との旅行中にリモート面接を受ける、といった形でそこをずらす。リモート面接は自宅から受ける、足を開いてはいけない、といった普段は意識しない部分をずらすから面白い、というのが水野の見立てで、言語人類学とお笑いがつながっていることが自分にとっての発見だったと述べた。

井上はさらに、スクリプトで重要なのは順序だと補足した。茶道でまず茶碗を回してから飲むように、何を先にして次に何をするかという知識がある。ファストフード店で座って待っていても店員は来ない。足を開かないといったマナー水準の知識もあるが、順番についての知識がスクリプトという概念の最も重要な部分だという。

堀元はコンビニの会計を例に、スクリプトが揃っていないことの困難を語った。支払い方法を客が自分で画面で選ぶ店と、口頭で店員に伝える店があり、同じチェーンでも店舗によって違う場合がある。そのため堀元は毎回「〇〇でお願いします」と言っては「押してください」と返され、恥ずかしい思いをしているという。

券売機のタイミングと空けた列:二郎は試験である

井上は、二郎はある種の試験のような場所で、素人かコミュニティの一員かが試されている点で社会言語学・言語人類学の格好の題材だと言う。行列の人々に漂う謎の連帯感も、同じルールを守り同じものを食べている感覚から来るのではないかと水野は述べた。

井上が聞いたところでは、券売機に行くタイミングも店によって違う。三田では自分の番の数人前まで来たところで食券を買いに行く。その間に列に空いた場所を後ろの人は詰めてはいけない。本人が戻ってくる前提だからだ。この知識がないと行けないので、井上は久々に緊張したという。トッピングが要らない場合は「そのままで」と言うと聞いていたが、「なし」とも「ある」とも言ってはいけないと思い込み、とっさに言葉が詰まってしまったと振り返った。

出演者の一人も、好きな服ブランドの新作発表会にプロのバイヤーばかりの中で一人参加し、素人と思われたくないので周りの人が親指と人差し指で生地をつまんで確かめる動作を真似し続け、何も分からないまま1時間過ごしたという経験を話した。海外でチップの扱いが分からず困る話も、同じ種類の問題として出てきた。

さらに水野は、ある温泉地のラーメン店を紹介した。店内で親族の派閥がはっきり分かれていて、どちらが接客するかで出てくる味も違い、入店時に空いている側に当たるので運任せだという。スマホを見ながら食べると注意されるといった細かなルールがあるが、明文化されておらず、すべてGoogleマップの口コミに蓄積されている。堀元は「実質、口コミがドキュメント」だと言った。

明文化へ向かう世の中

井上によると、自分の学生時代の二郎のほうが言わないルールが多く、禁止事項も多かった。店主と口を利いてよいのは体育会と応援指導部だけ、私語は禁止。券売機はなく、カウンターに小銭が置いてあって客が自分でお釣りを取っていた。当時のほうがずっと緊張した、と井上は言う。

井上は、世の中全般で以心伝心や言わないルールが減り、明文化が進んでいると感じている。「そんなルールはどこに書いてあるのか」と言われることが増え、張り紙の多い店もある。慶應義塾中等部の校長を務めていた時期には、体育の教員がだらだらしている生徒に「やる気がないなら帰れ」と言ったら、生徒が本当に帰ってしまったことがあったという。井上の世代なら「ちゃんとしなければ」という意味に受け取る言葉であり、コンテクスト化の合図が共有されなくなってきた例だと話した。堀元も、大学1年のときのアルバイト先で、厳しい責任者に「もう来なくていい」と言われた同僚が本当に翌日から来なくなり、一番立場が下だった自分の仕事が2倍になったという話をしている。

では50年後の二郎は親切になっているのか。水野と堀元は、すでに二郎インスパイア系の店ではトッピング表があり、「ニンニク入れますか」と聞かれたら何と言えばよいかがはっきり書かれていると指摘した。それなら「トッピング何にしますか」にすればいいのに、なぜ「ニンニク入れますか」は維持するのか。井上は、「我々はジロリアンだ」というコミュニティ意識があり、そこは失いたくないのだろうと見ている。

一方で井上によれば、学生時代にも事情が分からず入ってきて「ラーメンとかないの」と聞く中年男性がいたが、店側は「うちはこういうラーメンしかないよ」と優しく対応していた。三田の店は実際には怖くないのに、みんな緊張してしまう。怒られたというエピソードだけが一人歩きしているのではないか、というのが井上の見方である。

振る舞いが人物を示す「インデクシカリティ」

自分はジロリアンだと示したいという願望がある一方で、周囲もその振る舞いから「こいつはジロリアンだ」と分かる。井上は、振る舞いからその人がどんな人物か分かる標識をインデクシカリティ(指標性)と呼ぶと説明した。分かりやすい例は、関西方言で話す人を見れば関西の人だと分かることだ。喋り方に限らずあらゆる記号にこの働きがあり、人は自分が何者かを示しながら言語活動をしている。二郎で注文を滑らかにこなすことも、自分は素人ではないと指し示すことになる。

堀元は、かつてネットで流行した「吉野家コピペ」を挙げた。家族連れを「素人は帰れ」とこき下ろし、通は「ねぎだく」を頼み「ギョク」と言うものだと語る文章で、書き手はインデクシカリティを出したかったのだろうという。ただし、吉野家でアルバイトをしていた知人に聞いたところ、「ギョク」とは言わず「生卵」と言うし、そう注文されたら聞き返すと言っていたそうで、素人が通ぶるのが一番見ていられない、という話になった。

「グッ」のリアクションとLINEスタンプの違い

水野は以前、雑誌編集者としての仕事で井上に取材したことがある。テーマは、上司が部下に指示を出したとき、サムズアップのリアクションだけが返ってきたら腹が立つか、というものだった。堀元は、腹が立つとまでは言わないが「分かりました」と言ってほしい気はすると話した。

その取材で出てきたのは、SlackやメールのリアクションボタンでのThumbs-upは嫌がられやすいのに、たとえば食事の後に部下からLINEスタンプだけが送られてくると上司はむしろ喜ぶ、という話だった。井上の説明では、これもインデクシカリティの問題である。LINEスタンプはどんなキャラクターを選ぶかで個性が出るので、好意的に受け取る人は、部下が自己開示してくれたと感じる。『ポプテピピック』のスタンプなら、オタク同士で仲良くなれそうだと思う、というのが水野の例だ。堀元と水野は、友人の飯田さんがかつて流行したYouTuberのスタンプを押し続けてくることを挙げ、ああいうのは嬉しいと話した。

日本語はインデクシカリティ研究の材料が豊富

井上によれば、インデクシカリティの研究は世界的に見て日本語を材料にしたものが非常に多い。英語圏の研究者にも日本語を論じる人が多く、1970年代ごろには、文末の「〜だわ」などが女性を指標するという男性語・女性語の研究で注目された(いまは論じにくくなっているとも井上は付け加えた)。スタンプの研究でも日本語は進んでいる。西洋にはタイプライター文化に由来する、コロンと括弧を横にした笑顔マークなどがもともとあったが、携帯電話やスマートフォンの普及以降、日本のスタンプは爆発的にバリエーションが増え、注目されてきたという。井上は、一般化してよいかは分からないと留保したうえで、日本語は他の言語に比べてインデクシカリティやコンテクスト化の要素が多様で重層的な言語なのかもしれないと述べた。一人称や二人称の多さもその一例である。

一人称の選択:いつ「小生」を使えるか

ここで出演者の一人が、いずれ一人称を「小生」にしたいと言い出す。30歳そこそこでは早すぎる、50歳を過ぎてからだ、とすぐに止められた。北方謙三を好む父親が、すでに「わし」を使い始め、「小生」へ移りたそうにしている、という話も出た。

井上は、書き言葉で「小生」と書いたことも、口で言ったこともある。ただ「僕」は年齢的に少し恥ずかしく、「私」は少し硬い。「我が輩」も使いたかったという。いま最もよく使うのはカタカナの「ワタシ」で、周囲も井上らしいと納得していた。年齢とともに周囲の扱い方が変わり、自分では変わっていないつもりでも一人称に悩むのだという。

時代による変化もある。井上は『男はつらいよ』で、学生運動が盛んだった頃の少し後の作品に、「僕は」と主張する若者に寅さんが「僕か、インテリだね」と言う場面があると紹介した。かつて「僕」は知識人を指標していたわけだ。

また井上は、言語学的には日本語に人称代名詞はないと見るのが普通だと説明した。「私」「僕」は動詞の形を変えたり呼応したりしないので、文法的な機能を持つ語というより名詞に近い。中学1年で習う "he" を「彼」と訳すのも本来は妙で、「彼女」は明治以降にできた言葉だという。そのうえで、自分を何と呼ぶかという自称の選択は、特に日本語で顕著なインデクシカリティだと位置づけた。

「小生」への道のりについては、堀元が「僕」から「私」に移りたいと話し、「私」からなら「小生」への正統な進化だが、「僕」からいきなり「小生」は飛びすぎだ、と冗談が続いた。二人称では、漫画で日本語を学ぶ留学生が「貴様」を字義どおり丁寧な言い方だと思い込み、「貴様はどなたですか」と言ってしまう例を井上が紹介している。

自称を増やせばよいのか:共有される範囲の問題

インデクシカリティで自分を示したいなら、一人称のような語はもっと増えてもよいのではないか、と堀元は問う。水野は、セクシャルマイノリティの人が、異性愛者がよく使う一人称では自分をうまく表現できないと悩むことに触れた。そして、以前『中央公論』に書いた原稿で、アーティストのあのちゃんの一人称「僕」に子どもが真似するとして保護者からクレームが来ていることを取り上げ、明治時代の女学生も「僕」を使って不適切だと咎められていたので、やっていることは変わらないと論じたと話した。

堀元は、一人称的な語がせいぜい数十種類しかないから問題が起きるのであって、ジロリアンが自分を「次郎」と呼ぶように増やせばいい、と冗談を言った。井上の答えは、インデクシカリティの基本は、それを言うと多くの人が同じものを連想するという慣習の共有にある、というものだった。ごく小さなコミュニティで使う語はあってよいが、安易に作ると、より広いコミュニティでは通じなくなる。そのうえで井上は、形式を増やすのでなく、アクセントを変えて差を出すという方法はあり得ると示した。「私」でも言い方次第でしっかりした印象にもギャル風にもなる、と水野は応じた。

イントネーションが次の展開を予告する

この流れで井上は、コンテクスト化の合図の研究では、音のレベルを扱う例のほうがむしろ多いと補足した。井上がよく挙げる例では、「お出かけですか」を挨拶の調子で言えば「こんにちは」と同様に理解され、「ちょっとそこまで」という応答が想定される。ところが非難めいた調子で言うと、夜遅いのに出かけるのかという意味になり、相手は弁解しなければならない。プロソディーによって次に何が来るかが予期されるのが典型的なコンテクスト化の合図であり、「ニンニク入れますか」はやや特殊な例だという。

水野は、二郎でも普段の会話と区別するために独特のイントネーションで言っているのではないかと考え、実際フラットには聞かない、と実演してみせた。堀元も同意し、その意味でもよくできていると話した。水野は、家で恋人に料理を作るときは「ニンニク入れますか」と敬語で聞かない、と言いかけて、自分は親しき仲にも礼儀ありで恋人にも敬語だとボケ、堀元が困惑する一幕もあった。

三つの概念の整理

終盤、水野は内容を三つにまとめた。一つ目は、「ニンニク入れますか」はニンニクを入れるかどうかを尋ねる質問ではなく、次の手続きを呼び出すコンテクスト化の合図だということ。二つ目は、形式化された流れであるインタラクショナル・スクリプトで、茶道や就職活動の面接にも見られること。三つ目は、自分がジロリアンだと示すインデクシカリティである。井上は、インデックスによって他者がどういう人かも分かる、つまり自分を示すだけでなく相手のことも読み取れる、と付け加えた。

その例として堀元が持ち出したのが、書名を聞くと出版社を即答する水野の癖だ。出版社を気にしながら本を読む読書家だというアピールで、完全にインデクシカリティだと指摘された。水野は、みんな出版社が気になるだろうから言っているだけだと否定したが、「誰も気になっていない」と返された。水野は実際に『ネット炎上事例100』などの書名に日経BPなどの出版社を即答し、飲み会でも常にやっていると堀元が証言した。

井上は、この収録を通じて、どこに行ってもフィールドワークだと感じたと話した。最後に、同僚の堀田隆一と二人で運営する「いのほた言語学チャンネル」を紹介し、ゆる言語学ラジオは内容は緩いが編集はきっちりしているのに対し、自分たちはほぼ無編集で台本もなく話している、と両者の違いを述べた。番組は、何歳から「小生」を使ってよいか視聴者に教えてほしいという呼びかけで締めくくられた。