数学講師・荻野暢也が語る、「何もできない子」だった少年時代から代ゼミ講師になるまで

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概要

代々木ゼミナールの数学講師・荻野暢也が、京都大学医学部生のYouTuber・もごのインタビューで、幼少期から代ゼミに採用されるまでを振り返った。「接点T」や「メガネの女」でネットミームになった講師は、どういう経緯で予備校講師になったのか。荻野は、自分は勉強も運動もできず、強く叱られないと何もしない「怠け者」だったと繰り返し語る。そこから数学と学歴だけを頼りに進路を切り開いた経験が、「人生は自己責任」という生徒への言葉にもつながっている。

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冒頭でもごは5年前から会いたかったと伝え、自分のモノマネについてどう思うかを尋ねた。荻野は嬉しいと答えつつ、みんなあまり似ていないと笑った。

家業の倒産と親戚の家での生活

荻野によれば、幼い頃の家はある程度裕福だったが、家業が倒産した。小学1年生のある日、学校帰りにそのまま親戚のおじさんの車に乗せられ、親戚の家に連れて行かれた。「お前は今日からここの家の子になるんだ」と言われ、絶望的な気持ちになったという。ただ、そこでグレることはなかったと本人は強調する。周囲にはそう思っている人もいるが、まったくないそうだ。

その後、再び家族だけで暮らせるようになったものの、両親と兄弟3人、祖母の6人で狭い住まいに住み、寝る場所がないので1人は押し入れで寝ていた。やがて東京の団地に引っ越す。当時通っていた学校が大好きで「みんな一緒に転校しないなら俺は行かない」と駄々をこねたが、東京への憧れもあった。新幹線で品川のあたりに差しかかったとき、母親に「東京タワーだよ」と声をかけられ、その東京タワーがとても嬉しかったことを今も覚えている。小学校では3回ほど転校した。

怖い担任が「普通」にしてくれた

荻野は自分を「決して頭のいい方ではない」と言い、勉強への興味もなかったと話す。幼稚園のとき地球儀を回していて大陸移動説を「発見した」が、すでに発見済みで残念だった、という冗談も交えた。

転機は東京で3・4年生の担任になった教師だった。とても怖い人で、勉強ができないと手が出た。荻野は体罰を容認するつもりはないと断ったうえで、その先生に鍛えられたおかげでやっと「普通」になれたと振り返る。怖いから勉強したが、同時に強い男への憧れのような感情も抱いていたという。ところが5年生で穏やかな先生に替わると、急に勉強しなくなり、成績が一気に落ちた。荻野はこれを、自分がものすごい怠け者で、脅されたり傷つくほどきつく叱られたりしないと何もしない性格だったからだと説明する。

「人生は自己責任」という教え

もごは、今の講師としてのスタイルもそうした生徒向けなのかと尋ねた。荻野は、できない子ができるようになるには、自分のような怠け者には厳しくしなければならない、という考えが根底にあると答えた。ただ、今はそういう指導ができない時代で、当時の自分のような子にとっては残酷な時代だとも述べる。

そのため、予備校では最初に「人生は自己責任だ」と生徒に伝えているという。昔のように嫌なことを強制的にやらせて鍛えることは予備校にはできないので、自分で自分を鍛えるしかない。30歳、40歳になって貧乏でもそれは君のせいで、それ以外に責任の所在はない。大学に受かれば全部君のおかげ、落ちれば全部君の責任。高校を卒業したら人生は自己責任だ、という話をしているそうだ。

もごは強く共感し、最近のネットでは遺伝や環境のせいにする風潮があると話を振った。荻野は、親の知能が遺伝するのは事実だと思うと認めたうえで、大人になったとき「元々バカの家系だから給料を10万円上げてあげよう」などと言ってくれる人はいないのだから、遺伝の壁を越えて頑張るしかないと述べた。もごは、荻野の「能力が低いなら早く起きろ」という言葉を聞いて、高校時代に毎日6時半、5時半に起きていたと明かした。

塾の数学教師と「12の約数」の問題

当時は中学受験をする子が学年に1〜2人しかいなかった。荻野の見立てでは、周囲の家庭は今の感覚でいえば年収300〜400万円くらいで、私立に行くのは普通は無理だったという。公立中学に進み、駅前の塾に通った。

この塾の数学教師もまた怖い人だった。今でも覚えているのが、中1のときに出された数列の問題だ。数が並んでいて規則性を当てるもので、荻野は「1、2、3、4、6、12」という並びを出され、答えられずに叩かれたという。対談でもごにも同じ問題を出すと、差でも比でもなく、もごは分からなかった。「12で終わり」というヒントで、答えは12の約数だと分かる。もごは「これは数列じゃない」と抗議し、二人は誘導として最悪だ、今ならコンプライアンス違反だと笑い合った。

それでもその教師はブルース・リーに似ていて若く、かっこよかった。荻野は憧れを抱き、英語はまったく伸びなかったが、数学だけは学校の成績で4や5をもらえるようになった。荻野は、小学校の怖い先生が自分を普通にしてくれ、塾の先生が数学という生きる術のすべてを与えてくれた、とまとめる。もごはこれを「元祖数学ヤクザ」と表現した。

初めて人に勝てたのは将棋だった

子どもの頃の荻野は、鼻水を垂らしてウルトラマンごっこをしているような子で、足は遅く、跳び箱も跳べず、逆上がりもできなかった。親はとても心配していたはずだという。生まれて初めて「これなら人に勝てる」と思えたのが将棋で、本気で棋士を目指していた。中学時代は将棋ばかり指していて、あまりいい高校に行けなかった理由の一つもそこにあると本人は言う。

高校に入ってからも練馬の駅前の道場に通い、声をかけられて弟子にしてもらい、奨励会に入る流れを夢見ていた。ただ、高1ではもう年齢的に話にならなかった。ある日、よく来ていると目に留めた大友八段に二枚落ちで指してもらった。途中から金銀に囲まれ、明らかに詰まされる局面になったが、相手は詰ませずに歩を伸ばすなど手を緩めた。一手違いになったところで荻野が相手の玉を詰ませると、「荻野君、強いね」と言われた。荻野はこれを、「もう話にならないから他の道を考えろ」という意味だったのではないかと受け取っている。

荻野によれば、アマチュアの段級は道場ごとに基準が違うので一概には言えないが、当時の実力はアマ初段くらいだった。後に大学で将棋部に入ったものの、生意気だとすぐに辞めさせられたそうだ。

大学進学者が少ない高校で

通った高校は今はもうない。ドラマ『3年B組金八先生』の第2シリーズでロケ地になった学校だという。偏差値は50前後で、大学に行く人は少なく、半分ほどは就職した。暴走族の生徒もいた。大学に進む人も今でいうFランクがほとんどで、MARCHに受かれば大騒ぎになるような環境だった。だから荻野が後に理科大に進み、千葉大にも補欠で受かったときには、銅像が立つのではないかと思ったという。

高1で将棋をやめてからは、何もしなかった。友人とトランプをするのが唯一の楽しみで、周りにはタバコを吸いながら麻雀をする同級生もいた。荻野は漫画『ビー・バップ・ハイスクール』の世界そのものだったと話す。クラスで一番怖い生徒が、月曜に落ち込んでいるので理由を聞くと、前日に歌舞伎町でヤクザと喧嘩して負けたと答えた、というエピソードも披露した。無免許でバイクに乗せてもらったときは、正面からトラックが来てエンジンが止まってしまい、バイクを置いて逃げたこともある。トラックは止まってくれ、バイクの持ち主にも「しょうがねえな」と許してもらえたという。

荻野自身はグレていたわけではないが、周囲には人生を諦め、何の希望も持っていない生徒が多かった。高1の時点で通分ができない生徒もいて、分数の計算を避けて点を取るような状態だったという。一方で中学の同級生たちは付属校や国立高校など良い高校に進んだ。荻野は、自分の高校を「どうしようもないところ」と言いかけつつ、今の自分の方向を作ってくれたのだから、自分にとってはとても良い学校だったと言い直した。痩せていたことへの劣等感も強く、将棋をやめた後に筋トレのようなことを続けたが、効果はなかったという。

アイスクリーム屋のアルバイトで挫折

高校の冬休みに、友人と西武の地下のアイスクリーム売り場でアルバイトをした。ところが釣り銭の計算ができない。120円のアイスを2つ、160円を3つ、ソフトクリームを1つ、と注文されて1000円を出されると、すぐには計算できなかった。荻野は「Xが出てこないと駄目」だと笑う。仕方なく勘で釣り銭を渡すと、多くもらった客は喜んで帰るが、10円でも足りない客は戻ってくる。そうして売り場の前に行列ができた。

クリスマス前には「24日は忙しいから休んでくれ」と言われ、年内で辞めさせられた。もう何もできないと感じた荻野は、少しは得意だった数学をやろう、自分が生きる道は学歴しかないと考えるようになった。

荻野は、こうした話を東大クラスでしても「早く問題を解け」と思われるが、君たちにはこのレベルの話は分からないだろう、と語る。もごが大阪の大手前高校出身だと話すと、荻野は、自分が言いたかったのは学歴ではなく、何もできない人間の気持ちという意味だと補足した。

「日本に行ける大学はない」と言われて

高校最後の三者面談で、荻野は担任から「この成績だと荻野君が行けるところは日本にはないと思います」と言われた。母親は泣き出し、「お前を刺して私も死ぬ」とまで口にした。浪人すれば明治くらいには入れる、といった話になると思っていたのに、それすら到底無理だという言い方だったという。

そこで荻野は最後の3学期の定期試験に向けて懸命に勉強した。それでも英語は30点ほどで、平均点は70点以上あった。授業中に遊んでいた友人に後ろから答案を覗かれ、「お前、クラスで一番バカじゃねえの」と笑われた。その友人は80点ほどで、英語は文系に必要なものだと言い、理系のお前には関係ないな、と嘲った。入学時は自分が上だと思っていた荻野は、この一言でぶち切れた。

その日から気が狂ったように勉強したという。定期試験が終わっても勉強し、休み時間も机に向かう。荻野の学校ではそれは異常な光景だった。その後の試験ではクラスで1番、さらに学校で1番になったと荻野は話す。ただ、現役で受けた理科大などには不合格で、浪人することになった。

浪人時代の代ゼミ

現役でも浪人でも、受けたのは理科大と千葉大だけだった。高校ではトランプばかりしていて物理や化学の授業を聞いたことがなかったので、理科が入る入試は受けられない。理科大の数学科は英語・数学・数学という構成で、当時の千葉大の数学科は2次試験が数学のみだった。ICUも受けたという。模試はリスニングがなかったのでA判定だったが、本番のリスニングで何を言っているのかまったく分からなかった。英検3級も落ちたことがあると明かしている。

浪人では代々木ゼミナールに入った。当時、駿台は知らず、河合塾は東京になかったのではないかという。国立理系コースに申し込むつもりだったが、窓口で東大理系のトップクラス「TS」に変更した。一応試験はあるが、荻野によれば誰でも入れるものだったそうだ。年間23万円は荻野家には大きな額だったが、両親と一緒に代ゼミ本部で納めた。

結局すぐに授業に出なくなり、最後まで受けたのは数学と英語の一部だけだった。それでも山本矩一郎、安藤、正尾佐といったトップ講師の授業を受け、「ああなりたい」とずっと思っていたという。志望校は東大ではなく、あくまで理科大と千葉大だった。最初は生物や地学の授業も取ったが3回ほどでやめた。模試では千葉大と理科大にAやBの判定が出ていた。

予備校講師になりたい気持ちは当時からあったが、絶対無理だとも思っていた。荻野によれば、当時の予備校講師は半分以上が大学教授のアルバイトで、自分が教授になれるはずもなかったからだ。

千葉大の繰り上げ合格を断って理科大へ

理科大の学費などをすべて納めた後の4月2日頃、千葉大から「補欠1番で繰り上げ合格になるがどうするか」と電話がかかってきた。西千葉は家から2時間半ほどかかる。千葉大の方が上だという気持ちはあったが、気が小さい荻野はその場で断ってしまった。やはり迷って母親の帰りを待ち、電話をかけ直すと、担当者は明日まで待つと言ってくれた。それでも最終的には改めて断った。

荻野は、理科大に行ってよかった、理科大が大好きだと言う。神楽坂という都会にあり、勉強はほとんどしなかったのに卒業できた。理科大は進級が厳しいが、数学科には実験やレポートがないので「毎日が日曜日」だったと冗談めかして語る。もちろん試験前には勉強した。卒業できたのは、優秀で勤勉な友人に恵まれ、試験に出るところを教えてもらえたからだという。理系では一人で進級するのは無理だと思う、と荻野が話すと、もごも自分の周りでも友達がいない人は厳しいと同意した。

大学時代の荻野は、長渕剛に憧れて髪を肩まで伸ばし、周りにいじられていたという。荒れた小中高を経て、理科大で初めて「お坊ちゃん」たちに出会った。大企業の部長の子で、別荘を持ち、海外旅行をしている。荻野は海外に行ったことがなく、親戚のお土産のチョコレートを冷蔵庫にしまって少しずつ食べていた。私立の中高一貫校出身で、本当は早稲田に行きたかったという友人たちは、とても頭が良かった。

その友人の中から大企業の部長になった人、校長になった人が2人、国立大学の数学教授になった人が出た。荻野は、理科大は東大や早稲田に行きたかった人が行くところというイメージがあるが、十分偉くなれる、その後は努力でどうにでもなると言う。理科大なら、高校時代にひどい学校にいても1年頑張れば指で引っかけるように受かる。だから受験生には諦めずに頑張ってほしいと語った。

学費は当時年間80万円ほどで、私立の中では一番安かったという。もごがその場で調べると、現在の理科大は年間約140万円で、ほぼ倍になっていた。

ゲームセンターと代ゼミだけが受け入れてくれた

大学時代は池袋のゲームセンターでずっとアルバイトをしていた。荻野は、自分を受け入れてくれたのは池袋のゲームセンターと代ゼミだけだと言う。当時は法改正前でオールナイト営業だったので、夜中に客がいないときは遊ばせてもらえた。それがとても嬉しかったそうだ。

『ストリートファイター』にはいくら使ったか分からず、カプコンに表彰してほしいと冗談を言う。もごがザンギエフ使いだと話すと、荻野は地上でスクリューパイルドライバーを出せるかと尋ね、自分はジャンプ中からコマンドを入れ始めないと出せないと明かした。荻野の持ちキャラはベガだ。溜め技が苦手なので、ダウンさせられて相手が調子に乗って上から攻めてきたところに、レベル3のナイトメアを出すという「卑怯な戦い方」をしていたという。負けた相手に「次は勝つからな」と言われた話も披露した。喫茶店などにあった麻雀ゲームの機械が静電気に弱く、靴でカーペットをこすってクレジットを増やす裏技があった、という話も冗談交じりに出た。

三菱電機を断り、駿台甲府高校の教師に

大学はストレートで卒業した。就職活動の時期はバブルで、荻野によれば誰でも好きな大企業に入れた。荻野も、ゼミに来た三菱電機の人についていくと内定が出た。しかし仕事はコンピューター関係で、荻野はコンピューターにまったく興味がなく、今でも電源スイッチがどこにあるか分からないほどだという。無理だと思い、入社前に迷惑をかけないよう断った。

選んだのは山梨県の駿台甲府高校だった。駿台が作った学校で、そこに行けば駿台の講師になれると思ったからだという。数学を教えること以外に興味もできることもなく、最初から予備校講師を前提にしたキャリアだった。大学時代も塾講師のアルバイトをしていたが、ほとんどクビになった。評判が悪く、「お前がいると生徒がゼロになって塾が潰れる」と言われたそうだ。それでも今年で教員生活40年目になる。高校教員が3年、代ゼミが37年目だ。

荻野は、甲府時代も大した授業はしていなかったが、いつも一生懸命だったとは言えると語る。当時の教え子は今57歳くらいで、Facebookなどで今も連絡を取っており、名前もほとんど覚えている。ネットで「接点T」や「メガネの女」が話題になると、荻野は「あれはAIなんだよ、うまく作るね」と言った。その流れで教え子たちから「荻野だ」と連絡が来て、飲みに行ったりしているという。

秋山仁との出会い

教員1年目の冬、秋山仁が講演に来て、荻野は生徒と一緒に授業を見せてもらい、すごいと感じた。その後、数学科の教員が秋山を、英語科の教員が伊藤和夫を接待した。荻野は当時、伊藤和夫がそれほどの人物だと知らず、職員室の近くで遠目に見ただけだった。一緒に写真を撮ればよかったと後悔しているという。今出回っている伊藤の昔の授業動画を見ると、英語が分からない自分でも内容が分かり、聞き手が何に知的興奮を覚えるかを理解していることが伝わると荻野は話す。すごい講師は、まったくできない人間にもすごさが伝わるのだという。

秋山の接待は2次会、3次会と続き、最後は秋山と荻野ともう1人だけになった。荻野は寝始め、起こされて水を飲まされると、初対面にもかかわらず泣き言を言い始めた。当時の秋山は大学教授で、駿台で一番人気の講師だった。荻野は「東京で予備校の先生をやっていていいな、俺も先生みたいになりたい、もうここは嫌だ、東京に帰りたい」と訴えた。実際、毎週末東京に戻り、無職の友人と歌舞伎町で遊んでいた。深夜3時にコマ劇場前で女性を飲みに誘い、「うちは厳しいので」と断られた話も笑いながら語った。

秋山は「お前の人生はかわいそうだな。好きなことをやれ。力がついたら駿台の事務に口を利いてやるから来い」と言い、荻野は「はい、行きます」と答えた。ただ、それまで1年生しか教えておらず数IIBや数IIIは未経験だったので、3年間そこで修業した。

担任になれなかった悔しさと代ゼミ採用

3年目、受け持った学年が3年生になるとき、担任が1人外れた。荻野は自分がなると思っていたが、担任になったのは新しく赴任した新卒の教員だった。腹が立った荻野は校長室に行き、「なんですかあれは、僕の方がずっと生徒を愛していますよ」と詰め寄った。校長は「荻野さん、あなたの気持ちは分かるけど、君をPTAの前に出せると思うか」と答えたという。その夜、荻野は悔しくて甲府の街のバーで一人泥酔した。ただ、今振り返ると、あの校長は立派だったと思っている。自分が担任を持っていたら大変なことになっていただろうというのだ。

もごは、生徒と一定の距離があり、事務をチューターが担う予備校講師の方が向いていたのではないかと指摘した。荻野もこれに応じ、学校の先生にとって授業は仕事のほんの一部で、それ以外の能力の方が大事な場合もあると述べた。今の優秀な学校の教師は何でもできる必要があり、オールマイティに優秀でなければ務まらないという。

結局、荻野は駿台はもういいと、代ゼミに願書を出した。バブル真っ盛りで、予備校講師になろうという人は少なかったのだろうと荻野は見ている。採用試験は2問中1.5問ほどしか解けず、後から見ると最後も間違っていたが、それでも採用された。最初は代々木校の担当はなく、横浜や仙台などの校舎を受け持った。対談は、ネットミームになった「接点T」の授業場面で締めくくられる。「ここから出るのは……ABを通る接点T。だからこの点とこの点とこの点が出るわけだ。この点は出ねえよ」。代ゼミに入ってからの話は後編に続く。