数字くじから推し活、陰謀論まで:認知科学者・久保(川合)南海子と語る「プロジェクション」

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概要

ゆる言語学ラジオの堀元見と水野太貴が、認知科学者の久保(川合)南海子をゲストに迎えて「プロジェクション」を語った回である。久保は『「推し」の科学』と『イマジナリー・ネガティブ』という一般向けの新書を書いている。どちらの本も、プロジェクションという心の働きを切り口にして、推し活や、陰謀論・オレオレ詐欺・霊感商法にはまってしまう仕組みを解説している。

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前回、水野はフィリピンの数字くじを扱った『日々賭けをする人々』と、大山顕のジャンクション写真集が自分の中でつながったと話した。その共通点がプロジェクション、つまり「ある対象Aを、まったく別のBに当てはめて捉える」認知能力なのではないか、という問題提起だった。今回はこの問いを専門家にぶつけ、プロジェクションがどこまで説明できるのか、どんな危うさがあるのか、科学としてどう扱えるのかまで話が広がった。

数字くじは「世界にプロジェクションを促す舞台装置」

水野がまず持ち出したのは、数字くじは現実世界へのプロジェクションを促す舞台装置だったのではないか、という仮説である。『日々賭けをする人々』によると、フィリピンでは何に賭けたか、何が当たったか、どこの誰がどの番号で当てたかが日常の雑談に上る。著者自身も誕生日を尋ねられ、あまり親しくない人にまで覚えられていた。近所の人の誕生日を覚えていて「昨日は君の誕生日だったよね」と声をかける会話も出てくるという。

水野の解釈では、数字くじという「それ自体は面白くないもの」があるから、人々は世界中の数字に意味を与え、その数字を覚え、結果として人との交流も活発になる。水野はこれを酵母にたとえた。酵母は本体が変化しないまま発酵を促し、周囲の何かを呼び起こす。堀元は「人の誕生日をすぐ覚える林家ペー(あるいはパー)」を持ち出して茶化し、水野は、ロト6で人の誕生日に賭けている人なら誕生日に敏感になる可能性はある、と応じた。誕生日に敏感な人には何かしらの「酵母」があるのだろう、という見立てである。

推しの誕生日はなぜ大事なのか

久保によれば、誕生日は特別な数字であり、オタクは誕生日が大好きだ。久保自身、中学生の頃からの漫画・アニメの「ガチオタ」で、今はそこまではしないが、中学生なら本人不在の誕生日祝いを絶対にやっていたという。

水野が「自分の中にある概念と現実の事象が対応する、記号接地のようなイメージか」と尋ねると、久保はその通りだと答えた。架空のキャラクターが、誰にでもあって現実にも存在する「誕生日」と結びつく。すると、そのキャラクターがものすごくリアルに感じられる。設定資料に書かれただけの数字であっても、オタクにとっては非常に大事な数字になる。設定だと分かっていても、誕生日があることで現実にいるかのような感覚が生まれる。だから誕生日を13月32日のような日付にはせず、実在する日付にするのだと久保は説明した。

架空の人物は生まれていない。それでも生まれたと思って祝い、本人がいないのに祝い、年も取らないのに祝う。久保はこれを「めちゃくちゃプロジェクション」だと言う。実際には何も起きていない日に、自分で意味を持たせているからだ。久保は、プロジェクションを「外界のリアルなものに自分で強く意味づける心の働き」と捉えている。

堀元は、キャバ嬢が架空の誕生日を4つほど設定し、年に5回ほど誕生日が来るようにしているという話を聞いたことがあると持ち出した。久保はこれを「プロジェクションを促している」例として受け止め、詐欺師がやっていることも同じで、プロジェクションを操作するから詐欺が成立するのだと付け加えた。

知らないものには何も投影しない:クリスマスはただの12月25日

一方で久保は、クリスマスは「ただの平日」だと思っている。学生時代はずっとアルバイトをしていたし、男女がクリスマスに会う習慣もよく分からない。自分の推しキャラの誕生日には大きな意味を感じるが、世間的なイベントには興味がない。ただし子どものためにはやる、と何度も補足していた。日本でキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うなら、4月の花祭りもちゃんと祝うべきだ、とも述べている。

水野は、オタクは興味のあることには強くこだわり、そうでないことはどうでもいいものだと整理した。キリストを推していないからクリスマスには何も投影しない、というわけだ。クリスマスツリーやイルミネーションにも何か感じないのかと問われた久保は、みんな商業主義に踊らされていると思う、と答えた。これを聞いた堀元は「押し付けられるのが嫌なのだ」と見抜いた。ここにロマンチックを見出してくださいという、プロジェクションの押し付けが嫌なのだろう、という指摘である。この論点は後の「純度」の議論につながっていく。

身の回りの数字が意味を持つと、日常は楽しくなる

水野は、数字くじのある生活とない生活を比べると、ある方が楽しいはずだと話を戻した。推しの誕生日ならその日が楽しみになるだけだが、数字くじの対象は2桁の数字すべてだ。スタジオのタイマーにも2桁の数字はあるし、車のナンバー「74-13」も2桁の組が2つあるとみなせる。フィリピンで数字くじをする人にとっては、日常のあらゆる数字が意味のある数字に変わる。

堀元は、知り合いの数学者が走っている車のナンバーが素数かどうかを検算し、素数だとテンションが上がる、という話を紹介した。久保も、夫と子どもは銭湯で必ず素数番号のロッカーを探すが、自分はそこに何の意味も見出せないと話す。堀元はナンバー4桁を四則演算で10にする「メイク10」もよくやっていると言い、水野もやると応じた。水野は朝ベランダでコーヒーを飲みながら解いていたところ、ある時から急に速く解けるようになった。計算が速くなったのかと驚いたが、実際は家の前にいつも同じ車が止まっていて、解き方を覚えていただけだったという。

水野はさらに、ジャンクションと比べて数字は日常にあふれている点を強調した。世界から自分が意味を見出すものを探すとき、数字は圧倒的に多い。プロジェクションの観点から見ると、数字くじはよくできている、というのが水野の感想である。

具体的で抽象的なものほど投影しやすい:概念推しとメンバーカラー

久保はこの見方に同意したうえで、数字は非常に具体的でありながら非常に抽象的でもあり、その両面性が投影のしやすさにつながっていると説明した。推しのグッズでも、いわゆる公式グッズだけでなく、色だけが一致している、形が何かを彷彿とさせる、といった「概念推し」がある。プロジェクションは余白の中でなされる。具体的すぎると余白が狭く、ピンポイントで投影しなければならないので幅がない。久保は、同じアイドルを好きな堀元と水野のプロジェクションが微妙に重なりつつずれているところが面白いのだ、と言う。

久保が紹介した例では、ある会社の商品を推し活のために色で買うファンが多く、ファンの要望で新しい色が出たとき、その色をメンバーカラーとする人のファンが非常に喜んだ。ただし、それは1人のメンバーのファンではない。さまざまなグループの、同じ色をメンバーカラーとする人のファンが、1つの色に別々のプロジェクションをしていた。水野は、ある男性アイドルの赤担当のファンと『鬼滅の刃』の煉獄さんのファンが同じものを買う可能性がある、と言い換えた。

堀元はここで、自分のメンバーカラーが紫なので愛用している紫のリュックの話をした。動画に映るたびに「紫のリュックだ」と言われるが、学歴詐称で話題になった伊東市長もまったく同じリュックを背負っていた。街でこのリュックを見かけても、堀元推しなのか伊東市長推しなのか分からない。久保は、紫のバッグをただの紫のバッグと見るか、メンバーカラーを意識していると見るかは、見る側の知識やイメージが喚起されるかどうかの違いだと説明した。マーケティングの場では、久保はプロジェクションの視点についてよく聞かれるという。一方で、商品開発のデザイナーは多分そういう視点で見ていないだろう、という話も出た。

水色の靴と「プロジェクション過多」の楽しみ

久保は収録前、紫のバッグの近くに水色の靴が置いてあるのを見て、水野の靴かと考えたという。水野の「水」から水色が水野のメンバーカラーなのかと推し、次に紫のバッグのそばにあるから堀元のものかもしれないと考え直す。実際には堀元の靴だった。つまり堀元は「水野のメンバーカラーの靴を履いている」ことになる。久保によれば、プロジェクションを盛んにする人にとっては、1足の靴と1つのバッグだけでも情報が大量にあり、存分に楽しめる。そのかわり12月25日はただの日である。

大山顕の写真集:鑑賞されるために作られていないものへの投影

水野は、自分が大山顕の写真集を好きな理由を言語化した。大山はジャンクション以外にも工場、団地、高架などの写真集を出している。団地の写真集には、ピンク色の団地について次のようなキャプションがある。身長175cmの女の子がロリータファッションをまとったかのようなギリギリの感じが一部の団地マニアの心をつかんできた。両サイドにこれ見よがしに飛び出した部分も、本来なら堅苦しく見えるはずだが、この子の場合はフリルか何かに見える。久保は「完全に少女を投影している」と評し、堀元も、この団地はちょっと少女っぽいから気持ちは分かると言った。

水野が挙げる大山のもう1つのポイントは、鑑賞されるために作られていないものを鑑賞していることだ。人が住む、道路の経路を変えるといった目的で作られたものを鑑賞している。しかも多くの人が思いつく「お仕着せのプロジェクション」ではなく、誰もまだ投影していない対象に投影している。水野は、そこが自分の好みに刺さるのだと言う。久保がクリスマスのイルミネーションに乗れないのと同じく、これは創造的なプロジェクションであり、余地が大きいから興奮できるのではないか、という見立てである。堀元はこれを「大山さんは世界とプロレスしている」と表現した。戦う相手のいない場所で、自分から受け取って楽しんでいる、という意味だ。

堀元自身も、有名なねじれたビルを見るたびに「細いメガネをかけ、仕事はできるが部下に厳しい、いけすかないインテリメガネ」を思い浮かべるという。水野と久保にはその見え方は共有されなかった。それでも久保は「ナイスプロジェクション」と応じ、自分にはそう見えなくても、そういう見方をするのだと分かることも面白いと述べた。久保は建築にはあまり投影しないという。堀元は青春18きっぷの旅で駅にも個性を感じており、北海道の岩見沢駅は「お金を持っている上品なマダム」のようだと語った。久保は、ゲームや漫画の擬人化、たとえば『ヘタリア』や『刀剣乱舞』も完全にプロジェクションだと付け加えた。

漢字の字形と意味のずれ、そしてプロジェクション・マッチング

水野は漢字を擬人化することがあるという。下の画数が多い字は重心が低くどっしりして見え、字を書くときに下を大きくしたり痩せ型にしたりしてシルエットを楽しむ。堀元はその気持ちはまったく分からないと言いつつ、書家はそういうことをしているのかもしれないと応じた。水野はさらに、字の意味と字形が一致していない字も好きだという。たとえば「細」は、「田」の部分がどっしりしていて全然細く見えない。

水野は今の会社の面接で好きな漢字を聞かれ、「鬱」を挙げたという。上半身がぎっしり詰まっているのに下の右側は小さく、壺として置いたら右に倒れそうな不安定さがある。字形だけを海外の人に見せてハッピーかアンハッピーかを聞いたら、ハッピーは選ばないだろうという自信がある。そう話したら受けたそうだ。久保はこれを「めちゃくちゃプロジェクション」であり、認知科学者がやりたがりそうな実験だと評した。共感覚的な面や、字の意味・形・プロジェクションの関係を見るのも面白い、という。

久保は、どこに投影するかにはその人固有の個性が出ると指摘した。建物、文字、あるいは久保ならキャラクターの持ち物。他人の話を聞くと自分とまったく違っていて驚く。ここから、マッチングアプリに「何にプロジェクションしているか」を書く欄があればいい、という話になった。「仕事は何か」「週末は何をしているか」よりも「何にプロジェクションしているか」を知りたい、と3人とも盛り上がった。

プロジェクションの「純度」と主導権:『100日後に死ぬワニ』の炎上

水野は「プロジェクションの純度」という考えを提示した。みんながしてしまうよう仕掛けられた商業的なものへの投影は純度が低い。大山のように、人間味がなく、しかも向こうも投影されようとして作られていないジャンクションや工場に投影するのは純度が高い。水野が最近よく言う「人生の主導権」の話ともつながる。消費を促されたものに投影するとき、主導権は相手に握られている。純度の高いプロジェクションをする人は主導権を自分が握っており、かっこいい。水野はこれを『鬼滅の刃』の冨岡義勇の台詞をもじって「プロジェクションの権を他人に握らせるな」とまとめた。

久保はオタクの側から、感動させられている、何かに乗せられているという感覚は本当に嫌われる、と補足した。その例が『100日後に死ぬワニ』である。Twitter上で自然発生的に盛り上がっていたところに、最後に商業的な展開や映画化が一気に来て、「私たちの感動は作られていたのか」という感覚が生まれた。熱量は同じまま反転し、アンチが大量に生まれた。久保はこれを見て、人は感動を自発的なものだと思いたいのだと感じたという。オリンピックやチャリティ番組の感動の演出に微妙な塩梅が必要で、ネットで「感動ポルノ」と叩かれるのも、自発的かどうかが効いているからだと久保は考えている。

水野は、もしジャンクションの側が大山に受けるように作られ始めたら、大山は怒るだろうと言う。その点、大山の対象は大山に寄せてくる余地がない「安全な場所」だ。鉄道は用途がはっきりしていても、オタク市場が大きくファンを喜ばせる施策もあるが、ジャンクションや工場は絶対に安全である。

ダンゴムシの恋愛シミュレーションと「落ちている設定」

堀元はここで、生き物をすぐ擬人化したくなるという話をした。以前、ダンゴムシの恋愛シミュレーションゲームを作りかけたことがあるという。ダンゴムシのメスは体内に精子を貯め、交尾済みのメスは貯めた精子をずっと使う。後から来たオスが交尾しても、その精子が使われるのはかなり後になる。だからオスは交尾経験のないメスを好むと聞き、人間にたとえると切なく、物語になりそうだと思った。さらに調べると、オスがボルバキアという細菌に感染してメスになることもあると知った。一緒に学生生活を送る男友達が途中から攻略対象に変わる、という展開を考えたのだという。ところがイラストレーターに「ダンゴムシを彷彿とさせる、黒髪で日に当たっていない青白い肌」のヒロインを発注したところ、ひどく不健康そうな顔が上がってきた。それを見ながらシナリオを書いていたら気が滅入り、途中でやめてしまった。

堀元の言いたいことは、生き物は一切こちらに媚びていない、という点にある。ダンゴムシがプロジェクションされるのを待って進化するわけがない。だからあれは自然にできたプロジェクションで、自分は良いプロジェクションをしていたのかもしれない、という話である。久保は、無機質なものが擬人化の対象になりやすいのは、意図がほとんど感じられず、こちらが100%働きかけて投影しなければならないからではないか、と応じた。そういう対象は、投影をかき立てる力を強く持つという。堀元はこれを「設定が落ちている状態」と言い換えた。我々はストーリーを作る脚本家であり、「オスがメスになることがある」といった設定が落ちていると、つなぎ合わせて物語にしたくなる。

アブダクションと類推:プロジェクションの中身

久保は、以前ゆる言語学ラジオで扱った「腐女子の二次創作と小林・益川理論」の回に触れた。あの回で2人が面白がったのは、プロジェクションというよりアブダクションの部分が大きかったのではないか、と久保は言う。物語を見出していく根には、アブダクションの働きがある。アブダクションは仮説推論とも呼ばれる。不思議な事象Aがあり、Bという理由があれば合理的に説明できるので、Bであろうと考える推論形式である。久保の考えでは、プロジェクションの中にアブダクションがあり、その仮説の部分がプロジェクションのコアになっている。団地を見て「これは少女なのでは」という仮説を立て、それに合うように団地を見ていく。ダンゴムシの奇妙な習性から「人間がやったら面白いのでは」と仮説を立て、ゲームという物語に落とし込む。そのゲームにしていく部分がプロジェクションだという。

水野は新入社員時代に「世界の面白がり方を提示するのが俺たちの仕事だ」と言われたことを思い出し、プチ鹿島の例を挙げた。プチ鹿島は政治とプロレスが好きで、その理由を「自分は人事が好きだから」と説明する。権力闘争、パワーバランス、社内調整。世界は人事でできていて、それが極端に現れるのが政治とプロレスだ、という見方である。実際の政治はもっと複雑だが、人事というフレームで見る。水野はこれをプロジェクション的な解決の仕方だと考えた。

久保は、プロジェクションのもう1つの大きな柱として類推(アナロジー)を挙げた。まったく違うAとBを「こういう見方をしたら同じではないか」と捉えるとき、Aを見てBだと思う部分がプロジェクションである。そのとき、何が共通しているかを抽出し、抽象的なレベルで構造・意味・関係性が同じだと説明するのが類推の働きだという。水野は「明けない夜はない」から人生の暗い時期もいつか明るくなると考えることを例に挙げた。久保は、ケクレが尻尾を噛む蛇の夢からベンゼン環の構造を着想したという話を紹介した。蛇とベンゼン環に論理的な必然性はないが、当てはめる部分がプロジェクションで、似ていると思うのが類推である。

久保は、堀元はあちこちで類推をしているからプロジェクションが好きなはずだと言う。比喩も、イメージが共有されていないと機能しない。機能したときには意味や構造がとても分かりやすく伝わるので、比喩もプロジェクションだという。堀元はふだん「例え芸人」を名乗っているので、それなら「プロジェクション芸人」だと受け入れた。今井むつみら認知科学者が自分たちに付き合ってくれるのも、認知科学的に面白いことをしているからかもしれない、と堀元は振り返った。

プロジェクション不全の例えと、プロジェクションを「見る」楽しみ

堀元は、うまくいっていない例え、つまり「プロジェクション不全」に面白さを感じるという。量子コンピュータの本に、電子がエネルギー準位の低いところから埋まるのは、マンションが外に出やすい下の階から埋まるのと同じだ、という例えがあった。しかし堀元に言わせればタワーマンションは上から埋まるし、下の階は洗濯物を見られるから人気が低い。久保は、書き手がタワマンに対する一般的なイメージを把握できていない例だと解説した。もう1つは幸福論系の本で、スターバックスのカフェラテを週に1度のご褒美に取っておくことを、コメディアンがおならジョークを1日1公演までに抑えることにたとえていた。堀元は、例えない方が分かりやすいと感じたという。水野は、失敗した例えに気づきもしないし、気づいても気に留めない、収集するという発想がなかった、と言う。

久保は堀元のnoteを定期購読しており、読むたびに「またプロジェクションしている」と思っているという。類推が多いだけでなく、有名人そのものではなく「その人がどう思われているか、どういう立ち位置か」を分析するのが好きなところに注目している。それは周囲がその人にどうプロジェクションしているかを見ることだ。久保自身も、オタクが二次創作でどんなプロジェクションをしているかを見るのが好きな「プロジェクション・ウォッチャー」だという。

水野が打ち合わせで聞いた話では、久保はインターネット芸人もプロジェクション的だと言っていた。「こう言えば受ける」「周りは自分をこう見ているからその通りに振る舞う」。それは他人から自分に向けられたプロジェクションを自分で演じることだ。堀元は投影し、投影を観察し、投影を「請け負って」もいる。紫のリュックを「メンバーカラーです」と出すのも、ここに投影してくださいという指定である。久保によれば、イメージと現実が重なったところに強いリアリティが生まれ、ファンはそれを喜ぶ。

ただ水野は、堀元がそのプロジェクションに逆張りすることもあると指摘し、自身も紫のリュックを見ると「プロジェクション待ちだ」と感じて外してほしくなるという。久保は紫のバッグを「誘いプロジェクション」「商業主義的プロジェクション」と呼んだ。堀元は、以前の回で自分が「儲かったらいいから」と言ったとき、水野に「お前の外側と喋ってねえんだよ、コアで喋れよ」と言われたことを思い出した。これは「プロジェクションで喋るな」、つまりプロジェクション剥がしだった、という解釈である。久保は、インターネット芸人やアイドルに限らず、理想の彼氏でありたい、親にとって良い子でありたい、あえて反抗してみる、といった形で、普通の人もコアだけでなく外側を含めてプロジェクションの中で生きていると述べた。

プロジェクションの負の面:陰謀論、あだ名、悪口

水野は、ここまで純度の高いプロジェクションを無批判に称揚してきたが、それは人の支配や束縛にもつながりうると論点を転じた。久保が『イマジナリー・ネガティブ』で扱う陰謀論は、少ないヒントから「こういうモデルになっているはずだ」と考え、それが現実と違っていても政治の混乱や暴力につながる例である。久保は、陰謀論や霊感商法は、はまっていない人から見れば荒唐無稽でも、はまっている人にとっては整合性のある世界になっている、と説明する。問題は、プロジェクションが他者に操られてその状態に陥っている点だという。堀元は、やはり「プロジェクションの権を他人に握らせるな」が正しいという話になる、と受けた。

堀元はあだ名もプロジェクションだと指摘した。岸田文雄元首相につけられた「増税メガネ」はいじめっぽかった。堀元の見解では、岸田氏はそれほど増税しておらず、どちらかといえば減税していた。それでも「あいつは増税するメガネなんだろう」というプロジェクションが広まった、ということである。久保も、あだ名はその人へのイメージを別の言葉で表して当てはめ、みんなが納得するという意味でまさにプロジェクションだと認めた。

水野はここで、和泉悠『悪口ってなんだろう』を引いた。水野の要約では、この本は悪口を「世界にある序列を言葉で作り替えること」と捉えている。どの国にもジョークがあるのは、偉い人の序列を言葉の上で操作できることの証明だという。気に食わない人や政治家にあだ名をつけるのはプロジェクションの悪い面でもある。しかし同時に「お前の序列の並べ方には従わない」という意思表示でもあり、本質的な部分が宿っている、と水野は考えている。

モノマネ、似顔絵、科学:誇張と切り出し

久保は、学校の先生のモノマネも序列を変えるプロジェクションだと言う。普段は先生をバカにできないが、モノマネにすると笑いの対象になる。久保は論文の中で、誇張モノマネをするハリウッドザコシショウが、モノマネ芸人のモノマネを見て練習していると小学生新聞のインタビューで語ったことを、脚注付きで引用し、それなら特徴を誇張しやすいと考えられる、と書いたという。水野はこれを、チャップリンがヒトラーを真似たのと同じ構造だと述べた。口答えできない権力者を真似て誇張し、笑いにすることで序列を変えている。

水野はさらに、似顔絵を描いてきた山藤章二が岩波新書で「似顔絵とは決めつけによる批評である」と書いていたことを紹介した。モノマネと同じく、一部の特徴を強く誇張して自分なりのプロジェクションを示すことだ。そして寺田寅彦のエッセイ「漫画と科学」は、漫画と科学が同じ営みだと論じている。物が落ちる現象を考えるとき、空気抵抗や布と鉄球の違いはいったん無視し、式にできる部分だけを切り出す。漫画も同じで、「この人は鼻が大きい」という情報だけを切り出し、ほかはどうでもよく描く。堀元は、言語学ではチョムスキーの生成文法が実際の発話であるパフォーマンスを無視すると言っている点を大胆だとし、それでも言語学者を熱狂させている理論だと付け加えた。そして、以前の回で「チョムスキーの生成文法も腐女子の二次創作と変わらない」と話していたことに戻ってくる、と振り返った。

久保は、自分がどこに意味を見出しているかを主体的に取り出し、自分なりに調理して、もう一度現実と重ね合わせるのがプロジェクションだと述べた。どこを選ぶかに批評的な姿勢や本人の価値観が出るのが面白い、というのが久保の見方である。

何でもプロジェクションと言えるなら、科学的価値はどこにあるのか

ここで水野は、何でもプロジェクションと言えてしまうならモデルとしての科学的価値はどこにあるのか、と核心を突く質問をした。堀元も同じ疑問を持っていたという。

久保は、それは認知科学の中でも批判される点だと認めた。そのうえで、提唱者の鈴木宏昭は「プロジェクションは1つの概念、考え方だ」と言っていたと紹介した。細かく検証したり脳内の処理とすり合わせたりするより、考え方の方向性としてこういう視点を持とう、と打ち出しているのだという。水野は、誠実な地政学の入門書に「地政学は純粋な学問的手続きに則っていない決めつけではないかという批判はもっともだが、物の見方として持っておくと武器になる」と書かれているのと近いのか、と尋ねた。

久保の答えはこうだ。すべてをプロジェクションで説明したいわけではない。これまで提唱されてきたさまざまな理論や考え方をプロジェクションという枠組みに入れると、こう扱える、と示したい。たとえば、私たちの現実と心の世界を組み合わせるとき、アブダクションがどこに組み込まれているのかがより明確になる。久保は、アナロジーやアブダクションが大きな部屋の中でどう配置されているか、それぞれどんな役割を果たしているかを俯瞰的に見られる枠組みを提示しているのではないか、と「今考えている」と述べた。

なぜこの概念を広めたいのかと問われると、久保は、自分で世界を意味づけていける働きが私たちにはあると知ってもらいたいことがいちばん大きいと答えた。届けたいのは認知科学者より一般の人であり、だから新書しか書いていない。堀元のように、プロジェクションをしているのに気づいていない人が「これはプロジェクションなのだ」と知れば、あれもこれもつながり、アブダクションとアナロジーのつながりも見えて、もっと面白くなるはずだという。堀元は、ここで聞いた話は何に似ている、とコメント欄でプロジェクションしている視聴者が多いので、この番組の視聴者はこの概念と相性が良いのではないかと述べた。

ファンは「自分のプロジェクション」を守りたがる

話は2人自身に向けられるプロジェクションに移った。トークイベントのレポートを4コマ漫画で描いてくれるファンがいて、そこでは2人がとても美化されたイケメンになっている。よくまとまっていて拡散されるが、中には「堀元と水野をイケメンにされるのは嫌だ」と言う人もいる。水野が単著を出して1人でメディアに出ると、知的に話しているのに、コメント欄に「この人は足が臭いです」と書かれる。水野はこれを、兄弟のおしゃれなエッセイが読めないのと同じだと分析した。そうでない部分を知りすぎていてギャップがきつい。だから外部媒体で知的に固定されるのを嫌い、コメント欄でバランスを取っているのだろう、という。堀元は、初見の人に自分のプロジェクションに近づけ、と修正したいのだと言い換えた。

久保は、これは漫画や小説が実写化されたときのファンの行動と同じだと言う。久保は『ゴールデンカムイ』が本当に好きなので実写版は見ていない。すごく良いのだろうとは思っていて感想は見るが、自分のイメージのままでいたいという。水野は、自分の友人にもこの番組を見られない人がいると明かした。普段の水野と違って嫌だというのだ。久保は、プロジェクションは非常に能動的なものなので、他者に揺るがされるのが嫌なのだろうと述べた。

堀元は、人間は実際には多面的で相手によってペルソナを変えているのに、1つにとどめたいのはエゴイスティックではないか、これは人間に普遍的なのか一部の人の話なのか、と疑問を出した。久保は、人間関係を安定させるには固定されたイメージで付き合う方が楽だから、と答えた。堀元は、カラオケによく行く友達とは安定しているのに、職場の集まりでカラオケに行くと何を歌えばいいか急に難しくなる、という例を挙げた。水野は友人に「瞑想に行ってこい」と言われ、1か月スマートフォンと本を断って気難しくなって帰ってきたらどうするかと聞いたところ、「それは嫌かも、付き合いをやめるかも」と言われたという。久保は、それは認知負荷を下げたいという話で、知らないものは怖いのだと述べた。なぜそうなったのかを物語として伝えられれば受け入れられるのでは、とも付け加えた。

一方で堀元は、ネットで活動し続けると周囲のプロジェクションでがんじがらめになるので、あえて壊しに行くことがあるという。1か月ちょっと前、口が悪くてインテリな翻訳家・評論家の山形浩生のブログのように、丁寧に説明せず人をばっさり切る独断的な記事を書いてみた。記事はいつもより売れたが、コメント欄は荒れた。堀元は、期待と違うことをやるとこうなるのだと痛感しつつ、やってよかったと考えている。プロジェクションが固まりきる前にたまに壊しておかないと、固まってしまってファンも増えない。だからファンを裏切っていこうと思った、という。

身体と結びつくプロジェクションは実験できる:VRクッキー、ラバーハンド、踏み絵

水野は、枠組みであることは分かったが、その枠組みで仮説は立つのか、もっと俗っぽく言えば論文になるのか、とさらに尋ねた。久保は、個人の中のイメージは捉えにくく検証しづらいが、身体と結びついたプロジェクションは検証しやすく、プロジェクション・サイエンスの中でも身体性を研究する人たちは実験的に検討していると答えた。

例として挙がったのが、東京大学の鳴海拓志の研究である。VRゴーグルを使い、無地のクッキーにチョコレートクッキーを視覚的に重ねる。それで味の感じ方が変わるなら、視覚的なプロジェクションが味覚に影響していると言える。もう1つはラバーハンドだ。ゴム製の手の模型を机に置き、自分の手は隠しておく。ゴムの手を筆でなでるのと同時に、隠れた本物の手も筆でなでる。すると、ゴムの手だと分かっていても自分の手のように感じ、ゴムの手が叩かれると体がビクッと反応する。身体や物理的なものを介すれば、実験的な検証も行われている。

水野は、この話で「文系の学問はふわっとしている」と言う人が来るかもしれないと懸念した。しかし久保の出発点はむしろ逆である。もともとは統計処理をかけるゴリゴリの実験心理学者で、老齢のサルを対象に多くの実験論文を書いてきた。だから検証はしっかりやらなければいけないと思っている。そのうえで、実験では検証しきれない部分もプロジェクションには含めていきたい、と久保は述べた。

久保がプロジェクションの「実験」だと考えているのは、江戸時代の踏み絵である。キリシタンでなければただの木の板なので踏める。キリシタンにとっては信仰やキリストのすべてが投影されているので、とても踏めない。しかし、やがて心の中にキリストがあれば踏んでもよいという考えが生まれ、隠れキリシタンも踏むようになった。行動は非キリシタンと同じでも、その後に祈りを捧げ、自分の行動をもう一度プロジェクションし直していた、と久保は説明した。

堀元はこれを「直感を裏切るプロジェクション」とみなし、自分の体験としてアダルトVRの話をした。多くの作品は男優の視点で撮られているので、直感的には自分を男優と同一視しやすいはずだ。ところが男優の体型が自分と違う、たとえばお腹が出ていると、急に没入できなくなる。むしろ三人称視点の方が没入できた。久保は、不気味の谷と同じで、とても似ているのに違うと気持ち悪さが際立つのだと解説した。三人称ならそもそも没入していないので違和感がないが、半端に没入しているせいで少しの違いが気になる。そこで久保は、いっそ触手のような、なったことのないものの視点の方が没入しやすいのではないかと提案し、この回でいちばんの笑いを取った。

結び:「世界を自分で意味づける力」をどう使うか

回の終わりに堀元は流れを振り返った。つまらない数字くじをフィリピンの人が楽しめるのは、世界にプロジェクションするきっかけになるから。それは大山顕の写真集のキャプションと近く、目的があって作られたものに投影している点がよく似ている。その話は以前の腐女子の二次創作と小林・益川理論の回にもつながっており、その論を書いた久保を招いて、プロジェクションの純度や主導権について話してきた。

堀元は「プロジェクションにはまってきた」と言い、久保は打ち合わせの段階から「堀元さんは絶対プロジェクションが好き。好きと言わせるまでは帰らない」と話していたと明かした。堀元は、完全にそっち側に行ったと認めている。

久保は最後に、ポジティブな面を書いた『「推し」の科学』と、ネガティブな面だけを書いた『イマジナリー・ネガティブ』を表裏一体として読んでほしいと述べた。前者を書いたときに「ネガティブなこともあるだろう」と言われ、後に書く機会を得たのだという。さらに、提唱者の鈴木宏昭が亡くなった後、久保の夫である川合伸幸が遺稿をまとめた『心と現実』も紹介した。鈴木はもともと類推の専門家で、類推があったからプロジェクションという考えにたどり着いたのだと改めて思った、と久保は語る。実験系の研究者の検証的な論文を収めた『プロジェクション・サイエンス』と合わせた4冊が、現時点でプロジェクションについて出ている本のすべてだという。

今回の対話が示したのは、プロジェクションが推し活や鑑賞を豊かにする一方で、陰謀論やあだ名のように他人に操られもする両刃の働きだということだ。そして久保自身が認めるように、それが検証可能な理論というより「知性を俯瞰する枠組み」としてどこまで有効なのかは、なお議論の途上にある。久保の願いは、人が世界を自分で意味づける力を持っていると知り、その主導権を自分で握ることにあった。