映画『メッセージ』を言語学から見直す:サピア=ウォーフの仮説、時制、そして解読チームの人選

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概要

SF映画『メッセージ』(原題 Arrival)は、言語学者が主人公で、作中の台詞にも「サピア=ウォーフの仮説」が登場する。言語学好きなら一度は通る作品である。ゆる言語学ラジオの水野太貴は、この映画を「言語学的に見ると間違いだらけ」だと切り出す。ただし、面白くないと言いたいわけではない。問題は「盛りすぎ」だという点にある。回では、監修の3人の研究者の感想を紹介しながら、言語学の知見に沿うと映画がどう見えるかを堀元見と語っている。後半ではウォーフの著作を踏まえて、冒頭とは逆向きの読み方も示された。以下は映画の結末に触れる。

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「強い仮説」をさらに誇張した設定

堀元はあらすじを次のようにまとめる。突然、宇宙人の宇宙船のようなものが地球に現れる。言葉がまったく通じない相手と何とか意思疎通し、地球に来た目的を探る。物語の核心は、主人公の言語学者ルイーズが宇宙人ヘプタポッドの言語を習得したことで世界の見え方が大きく変わる点にある。

水野によれば、これはサピア=ウォーフの仮説にあたる。この仮説には二つの立場がある。言語が物の見方を決定し誰もそこから逃れられないとする「強い仮説」と、言語が物の見方に影響を与えるとする「弱い仮説」だ。水野は『メッセージ』を、強い仮説に立つというより、強い仮説をさらに誇張した作品だと位置づける。言語を習得すれば考え方や見方がまるごと変わる、とまでは誰も唱えていないし、ウォーフ自身もそこまでは言っていない、というのが水野の説明である。堀元も見ていて同じ点が引っかかったという。英語を学んだからといって、見える景色がすべてアメリカ人のものになるわけではない。水野は、海外留学で物の見方が変わったという人がいても、それは言語より文化の影響ではないか、と補足した。

「危なっかしい」映画だという指摘

監修の黒島先生は、『メッセージ』を「危ない映画」だと評していた。言語学の界隈ではそう語られることが多いという。水野は、SFに学術的な誤りがあるのは当然で、そこを咎めているわけではないと断ったうえで、懸念の中身を説明する。強い仮説を押し進めると、「異なる言語を話す人とは根本的に分かり合えない」「理解は不可能だ」という主張として受け取られかねない。

堀元は、映画は未知の相手と意思疎通できる喜びを描いているのではないか、と反論する。これに対して水野は、この映画は異文化共生の話ではないと指摘した。ヘプタポッドが地球に馴染む話ではなく、彼らの言語を習得したことで問題が解決する話である。しかも実際にヘプタポッドと会話しているのはルイーズとイアンだけだ。違う言葉を話す人は全く違う世界を見ている、という面を強調しすぎると、異文化理解の考え方とは相性が悪くなる。堀元も、悪い見方をすれば「あの言語を話すやつとは話し合っても無駄だ」という偏見につながりかねない、と応じた。水野は、映画自体がそう主張しているわけではないと念を押している。仮説に初めて触れる人があの形で理解すると危ない、という話だという。

福田先生の評価と「アカデミアの二次創作」

言語が思考や認識に与える影響を研究している福田先生は、もっと率直だった。学術的には「どだいそも無理がある」設定なので、分野に詳しいほど乗れない。さらに、言語学の啓蒙作品というより言語学を使った形而上学的SFであり、誇張は意図的なのだろうが、額面どおりに受け取ると別の偏見を増幅するリスクがあるかもしれない、というコメントを寄せている。

堀元は原作者テッド・チャンの別の作品『息吹』のあとがきに触れた。チャンは物理学者の講演をよく聞きに行き、面白かった話から着想を得て小説を書くという。堀元はこれを、チャンなりの「アカデミアの二次創作」だと表現する。研究の話を面白く膨らませて翻訳する過程で、誤解が生まれる余地がある。水野も、チャンはそれを想定したうえで書いているはずだとし、けしからん映画だと言いたいわけではなく、危険性があるかもしれないという程度の話だと整理した。

学術的に無理のない『メッセージ』を作ってみる

水野は福田先生に「学術的に無理のない『メッセージ』」がどうなるかを尋ね、筋書きを組み立ててきた。ルイーズがヘプタポッドの言語を解読し、その影響を受けるところまでは映画と同じである。ところがその結果として起きるのは、ある種の刺激への反応が0.03秒速くなることや、ある種の認知課題の成績がわずかに上がることだけだ。そのあと、たまたま中国の国家元首に電話がつながり、たまたま中国語を勉強していたので、持ち前のコミュニケーション力で交渉して武力衝突を回避する。

堀元はすぐに、これでは映画が成立しないと指摘した。映画の肝は、時間を一気に見通すヘプタポッドの言語を習得したことで、ルイーズが未来まで見通せるようになる点にある。未来で知った電話番号を過去の時点で知っていたから電話をかけられた、という筋だった。そもそも国家元首への直通番号などあるはずがなく、間に秘書が挟まるだろう、と堀元は突っ込む。二人は「数字が二つ並んで右と左のどちらが大きいかを判断する課題が速くなった」能力を物語にどう生かすかで冗談を重ねた。最後は、地道に中国とのパイプを作って電話がつながる筋の方が言語学的には正しい、というところに落ち着いた。

この脱線で水野が言いたかったのは、異なる言語を学んで思考が影響を受けるといっても、その影響は小さいということだ。サピア=ウォーフの仮説は面白いので多くの人が知っているが、どんな影響なのかと聞かれると皆口ごもる。実際には特定の課題がわずかに速くなる程度の話だという。

小さな影響でも科学的には面白い

堀元は「悲しい」と反応し、ほとんど何も起きていないのと同じではないかと感じた。水野はこれを否定する。テストの点が上がるとか勉強ができるようになるといった話ではない。それでも基礎から段階を踏んで学んでいくと、認知課題が0.03秒速くなるような知見は科学的にとても面白い、というのが水野の立場である。詳しくは、色のシリーズやウォーフの回を経て、サピア=ウォーフの仮説を正面から扱う回で話す予定だとしている。

線状性のない文と時間の認識

二人目の監修者は、日本語のテンス・アスペクト・モダリティを研究する高田先生である。ヘプタポッドの言語にはテンス(時制)、つまり動詞の形を変えるなどして過去や未来を表す形式がない。専門家から見れば「ご馳走」のような設定で、高田先生は大いに興奮していたという。

高田先生がまず注目したのは、ヘプタポッドの文に「線状性」がない点だ。線状性とはソシュールが言語の特徴として挙げた性質で、文が一列に並ぶことを指す。音声言語では口から同時に二つの音を出せないので、どうしても一列に並べることになる。水野によれば、手話では単語を出しながら眉を上げて疑問を示したり、サイズを表したりできるので、線状性がないように見えるものもある。視覚なら同時に処理できるからだ。ヘプタポッドの言語は、音声言語とも手話とも違う図形のような言語で、丸い波のような図を描いてメッセージを伝える。終盤では何百もの図形を一斉に出していた。

高田先生の考察は、線状性がないという文の特徴が、彼らの時間認識に影響しているのではないかというものだ。文が一列に並ぶなら、時間も順に進んでいくように捉えられそうに思える。水野は英語の follow を例に挙げる。「A is followed by B」という受動態の形でよく使われ、Aを認識した後にBを認識する順序と、実際にAの後にBが来る時間の流れが一致している。堀元も、左から右へ文字を読むのは時間を意識していそうだが、大量の図形を一斉に見るのは時間を意識していなさそうだ、と直感に合うと応じた。

「Abbott is death process」はアスペクトではないか

高田先生が特に気になったのは、宇宙船(シェル)内で爆発が起きた後の場面だ。ヘプタポッドの一体コステロが「Abbott is death process」(字幕では「アボットは死の過程」)と伝える。堀元も見ながら変な言葉遣いだと思ったという。アボットがいない理由を聞かれて「死の過程」とは、人間なら言わない。「体調が悪い」「病気でそろそろ亡くなりそうだ」と言いそうなところだ。

水野は、直訳のせいで回りくどい表現になった面もあるとしつつ、高田先生の関心は「過程」という語にあると説明する。これはアスペクト、つまり動作の局面を表す表現に当たるからだ。「〜している」「〜しつつある」「〜しかけた」「〜し終えた」などがアスペクトである。「死」は死にそうな段階から死にかけ、死んだに至る。そのどこかの過程にあると言うのは、アスペクトの表現だ。「死につつある」と訳してもよい。

言語の中には、テンスが発達していない代わりにアスペクトでやりくりするものもあれば、逆にアスペクトがあまり発達しない代わりにテンスやモダリティでやりくりするものもある。テンスがないと聞くと「すごい」と思ってしまうが、単にアスペクトが発達している言語かもしれないし、モダリティでやりくりしているだけかもしれない、と水野は言う。さらに「process」がもしかすると文法化していて、彼らの言語ではアスペクトを示す補助動詞のようなものかもしれない、とも述べた。英語の be going to は実際にはどこにも行っていない。ヘプタポッドが英語を直訳すれば「ゲームをする移動」のような妙な表現になり、変な言語だと思うかもしれない、という例も挙げている。

ルイーズの専門は何だったのか

この話から、ルイーズの専門分野の話題に移った。言語学者は個別言語の中でもさらに細分化し、音声、形態、意味などのどれかを専門にしている。水野は、黒島先生が朝鮮語を専門としつつ、とりわけアスペクトやモダリティに関心があるという例を挙げる。作中のルイーズはサンスクリットの語源の話をしていたので、歴史言語学の人かもしれない。もしテンスやアスペクトの専門家でなければ、テンスがないのを見て、時間の認識が違うと早合点した可能性もある、と水野は推測する。

堀元は、軍人がルイーズの研究室に協力を求めに来る場面で書棚を映してくれればよかったのに、とこぼした。コムリーやダールの本が並んでいればテンス・アスペクトの人だと分かったはずだ、と水野も乗る。ただし、あれはルイーズの専門を考察するための映画ではなく、2時間できれいに完結している、と水野は付け加えた。

過去と未来を区別しない言語は珍しくない

ヘプタポッドは過去と未来をあまり区別しないとされる。高田先生は、見方によっては人類の言語にも同じような現象があると言う。過去と未来を区別しないというより、「現在」と「それ以外」を分けたり、過去と未来に共通点を持たせたりする形式がある、という話である。

例として挙がったのが、高田先生が以前の出演時に紹介した東北方言の過去表現だ。東北方言には二つの過去形式がある。一方は現在の状態と結びついた過去を指し、「たった」の形は現在と無関係な過去を指す。「お客さん来たった」と言うときには客はすでに帰っているが、もう一方の形なら客がまだ帰っていなくても使える。同じように、現在と無関係な未来を表す形式も東北方言にあり、韓国語にもあるという。「雨が降るだろう」に二つの形式があり、今空の雨雲を見て言う場合と、天気予報などのもっと客観的な根拠に基づいて言う場合を区別する。こうした2種類の過去と2種類の未来を持つことから、過去と未来をある程度同じように捉えているのではないか、と高田先生は見ているという。

堀元はそれは飛躍ではないかと感じたが、水野は面白いと考えた。日本語のテンスは過去と非過去の2種類で、未来形はない。「明日〜する」は現在と同じ形を使う。「するだろう」の「だろう」はどちらかといえばモダリティで、未来専用の形式ではない。日本語でも英語でも過去には専用の形式があるので、過去は確かに存在していると感じやすい。しかし、体験できる現在と体験できない過去・未来、という軸で「現在」と「非現在」に分けることもできる。その軸で見ると、東北方言や韓国語が現在から切り離された過去と未来の形式を持つことは示唆的だ、と水野は語る。堀元も、今この瞬間とそれ以外に分ける方が生き物の認知としては素朴に当てはまりそうだと応じた。

水野は、テンスやアスペクトを学んだ人から見れば、表現形式に線状性がないのは変わっているが、過去と未来を表す形式がない、あるいはそれらを区別しないこと自体はありふれている、とまとめた。堀元は、仕事で「あの人に連絡しなきゃ」と意識しすぎて、もう済ませたのかこれからなのか分からなくなるという自身の経験を持ち出した。水野は働きすぎを心配しつつ、気持ちは分かるがリスナーにはあまりピンとこないだろう、と返している。

解読チームに加えたい専門家

高田先生の感想を受けて、水野は、ヘプタポッド対策チームのバランスが悪いと感じたという。言語学者のルイーズと物理学者のイアンだけでなく、もっと多様な人材が必要だというのである。

一人目は動物言語学者の鈴木俊貴氏だ。よほど訓練を積まないと、ヘプタポッドを人間に当てはめて理解しようとしてしまう。鈴木氏は、動物を人間に当てはめて理解しようとしてはいけないと述べており、存在しないと言われていた鳥の言葉や文法を探り当てた人なので最適だ、と水野は言う。堀元が、鳥の言語を解明したプロセスはヘプタポッドにも横展開できそうだと言うと、水野もそうだと思うと同意した。

二人目は人類学者、とくにマルチスピーシーズ人類学の研究者だ。水野の理解では、人間だけを理解対象にするのをやめて、その土地の動物や植物、自然環境まで含めてフィールドとみなす立場である。人々は動物や自然とやりとりしながら暮らしているので、人間だけを切り離しても全体を理解したことにならない。ある地域の人が特定の虫を神と捉え、ある動物を災いの印と見なしている、といったことまで含めて理解する。堀元は、蜂蜜だけで生きている人々がいれば蜂が神になるのは当然だろうと例を挙げ、水野は日本でも蚕が神聖視されてきたと応じた。

水野がこの点を重視するのは、映画に西洋的だと感じる場面があったからだ。地球に来た目的を尋ねる場面で、本能に従っているだけなら目的を聞いても無意味だ、という趣旨の発言がある。かなり知的な生命体に見える相手を、まず本能で動く存在として理解しようとする態度である。水野によれば、人間には意思があり動物は本能に従うだけという二分法はアリストテレス以来続いており、鈴木氏が批判したのもこの点だ。人間か動物かという二分法でヘプタポッドに接すると、むしろ本質を見失うのではないか、と水野は言う。

その対比として、水野は日本の霊長類学の伝統を紹介した。日本の研究者は猿の一頭一頭に名前をつけて呼び分けてきた。西洋では、動物研究に人間のような捉え方を持ち込むのはタブーで、番号で呼ぶのが普通だという。日本の研究者は100頭もの猿を個体識別できるという話が西洋に伝わったが、嘘だろうと思われた。実際に日本に来た研究者が本当に識別しているのを見て驚いた、という話を水野は紹介している。それくらい動物観が違うので、チームにアジア人がいればヘプタポッドの見方もだいぶ変わるかもしれない、と二人は話した。

三人目として、水野はもっと多くの言語を研究してきた言語学者を挙げる。ルイーズは図形を細かく分けて、この部分はこの意味ではないかと分析していた。言語学をやっているかどうかで、この切り分けの細かさが全く違うという。冠詞があるかないか、名詞に男性・女性・中性の区別があるかといった可能性は、多くの言語を知る人でなければ思いつかない。堀元も、黒島先生と言語学オリンピックの問題を解いたとき、未知の言語を前に黒島先生が自分の知らない概念を次々候補に挙げていたと振り返る。武器を持っている人は選択肢にたどり着くのが早い、と実感したという。堀元は『メッセージ』はほぼ言語学オリンピックだと言ったが、水野は、映画では相手とやりとりできるので文献だけで解くよりずっと有利だ、と指摘した。

最初に教える単語は何がよいか

ただ、そのやりとりの出だしが下手だ、と堀元は言う。ルイーズは前に出て「Human」と言いながらホワイトボードに書き、そのあと自分を指して「Louise」と名乗った。相手からすれば、あいつの名前はHumanなのかLouiseなのか分からなくなる。イアンも自己紹介していたので、ある程度推測はできるかもしれない。それでも、LouiseとIanの違いが女性と男性の違いを表すと取られる可能性もある。二人は、固有名詞は後回しでいいとし、言語教育の研究者もチームに呼ぶべきかと話した。

では最初に何を教えるべきか。水を渡して「water」と言う案は、相手の星に水がなければ通じない。固有名詞は論外で、抽象的な概念も伝えにくい。水野は、ルイーズが目的や数学の話をいきなり聞くより会話から入るべきだと主張した点は、その通りだと評価する。フィールドワークで最初から質問攻めにして現地の人に不信感を与えた例も聞くからだ。とはいえ「いい天気ですね」と言おうにも、そのための語彙がない。

指差しも通じるとは限らない。指した対象ではなく指そのものを見られるかもしれない。赤ちゃんや多くの動物は最初そうする。共同注意や指差しには、相手が何に注意を向けてほしがっているかを理解する、いわゆる心の理論が必要だと言われる。「voice(声)」も、音声言語を使わない相手には雑音として処理されるだろう。水野は「alphabet」を提案したが、堀元にすぐ却下された。

ここで水野は「ガヴァガイ問題」を持ち出す。未知の土地でウサギが横切ったとき、現地の人が「ガヴァガイ」と言っても、それがウサギという種なのか、その個体の名前なのか、「跳ねている」なのか「白い」「小さい」なのかは分からない、という問題だ。人間同士なら、さまざまなバイアスや認知能力によって、特に子どもがこの問題を乗り越える。しかし別の星の存在が同じ感覚を持っているとは限らない。結局、手数を重ねるしかないというのが二人の結論である。「Human」と言って自分を指し、隣の人も後ろの人も指して繰り返せば、「二足歩行」のような解釈の可能性は残るにせよ、候補は徐々に減っていく。そう考えると、Humanから始めたルイーズの判断は悪くなかった。ただ直後の「Louise」はやめてほしい、と堀元は念を押し、極限状態だったのだから仕方ない、とルイーズをかばいもした。

「How many?」の訳に表れる捉え方

水野は翻訳の面白さにも触れた。序盤、軍の大佐がルイーズに協力を依頼しに来る場面で、ルイーズは「How many?」と尋ね、大佐は「Two」と答える。日本語字幕では、ルイーズの問いは「話しているのは何人」、大佐の答えは「2体」と訳されている。水野は、この訳し分けが、大佐と言語学者が異星人をどう捉えているかをよく表していると言う。堀元は、侵略しに来た敵の可能性を排除できない軍人としては、相手を「人」として扱えないという気持ちが出ていると読んだ。

ウォーフならこの映画をどう見るか

最後に水野は、ウォーフの著作『言語・思考・現実』を読んだうえで、ウォーフならこの映画をどう見るかという観点を示した。前回までの内容を振り返ると、ウォーフは後世の研究者に批判されたが、でたらめを言っていたわけではない。西洋中心の言語観・世界観を打ち破りたいという狙いがあり、そのためにかなりレトリックに頼った部分があった。真珠湾攻撃の直前で日米関係が緊張していた時期にも日本語を「lovely」と評した。あらゆる言語にはそれぞれの美徳があり、それを理解することはその言語を使う人々への兄弟愛を呼び起こす、と述べていた。堀元は、極端な決めつけはあったが、偏見を助長するものではなく、多様な世界を尊重しようというメッセージだったと整理する。水野は、ウォーフ以前にも似た説を唱えた人がいて、その説がナチス・ドイツに利用され、ドイツ語話者の優越を主張するプロパガンダに使われた、という前回の話にも触れた。

この補助線を引くと、映画の見え方が変わると水野は言う。作中では、ヘプタポッドを軍事利用して戦争を仕掛けようとするのが中国で、パキスタンなども含めアジアの地域がやや戯画的に描かれている。堀元はそこを感じが悪いと思っていた。しかし結局、武力衝突はルイーズとの対話で回避され、ルイーズはヘプタポッドの言語を手がかりに中国との交渉をまとめる。これは、言語の理解が兄弟愛を呼び起こすというウォーフの主張と重なる。チャンが台湾系アメリカ人であることを考えると、中国が登場することにも彼なりの必然性があったのかもしれない、と水野は推測する。さらに、ヘプタポッドを「1体、2体」と数えることや、本能に従うだけなら話す価値がないと考えることといった西洋中心的なバイアスを、言語を手がかりに打ち砕こうとする姿勢もウォーフ的だという。

つまり、西洋中心主義的な見方をしているのが映画の問題点かと思いきや、それが良くないと示す映画だったのではないか、というのが水野の読みである。冒頭では、サピア=ウォーフの仮説として正しくない危なっかしい映画だと言ったが、ぐるっと回ると、むしろウォーフをきちんと理解したうえで作ったのではないかという気もする。ウォーフが警鐘を鳴らした人々を描き、そこから抜け出す手がかりが言語の理解だと示している。それを直感的に伝えるために、科学的な誇張を行ったのではないか。堀元はこれを、分断を超えるのは言語だという映画だと受け止めた。

水野は、監修者たちも映画自体を否定しているわけではないと付け加える。福田先生は面白かったと言い、黒島先生は感動したと言い、高田先生は大興奮していた。言語学者が叩く映画ではない。せっかくならこの映画をきっかけにウォーフの著作を読んだり言語相対論を学んだりしてほしいが、付き合い方には注意が必要だ。黒島先生が「危なっかしい」と言う一方で、チャンはそのぎりぎりのバランスを攻めたのではないか。水野はそう述べて議論を締めくくり、自身の感想にも論理の飛躍があるので、納得できない点は指摘してほしいと呼びかけた。