「説明が上手い=頭が良い」は本当か――ゆる言語学ラジオ、城崎温泉での議論

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概要

ゆる言語学ラジオの水野太貴さんと堀元見さんが、城崎温泉の旅館で川を眺めながら収録した回である。テーマは、インターネットでよく論争になる「頭がいい人は説明もうまい」という言説だ。水野さんはこの言説に反対の立場から問題提起し、堀元さんは一度賛成側に立ってから議論に応じる。話は「頭がいい」という言葉の定義、例え話の危険性、レトリックと正しさ、読書スタイルや忍耐力、段取りとEQにまで広がり、最後は視聴者に向けて「自分たちのコンテンツを批判的に見てほしい」という話で終わる。

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「勉強するほど説明が下手になった」という水野さんの実感

口火を切ったのは水野さんである。昔の自分はどちらかといえば説明がうまかったが、勉強すればするほど下手になっている感覚がある。一方で、頭は昔より良くなっているはずだという。この実感から、水野さんは頭の良さと説明のうまさはむしろ反比例する、つまり知識を持てば持つほど説明は下手になると考えている。それが世間では逆に理解されていることが気に食わない、というのが出発点だった。

これに対して堀元さんは、あえて賛成側に立つ。知識が豊富にあったうえで相手の知識レベルに合わせて適切な例を出したり、「一旦こう理解してもらえれば大丈夫です」と割り切って伝えたりするのは頭がいいことであり、その意味で「頭がいい人は説明もうまい」と言えるのではないか、という主張だ。

水野さんはこれを受けて、自分は「知識が少ないから説明がうまい人」だけを取り出して話していたと整理する。実際には、知識が少ないせいで過剰に単純化しているケースと、知識が多いうえで方便として単純化しているケースがある。水野さんの見立てでは、世間で「頭がいいから説明もうまい」と言われている人は前者が多く、学者に対してその言葉が使われることはあまりない。一方、堀元さんは池上彰さんを例に挙げる。池上さんは知識をきちんと持ったうえで、番組で伝えたいことを絞り込んで話しているように見えるので、頭が良くて説明もうまい人と言えるだろうという。結局、頭が良くて説明がうまい人も、頭が良くない結果として説明がうまい人も、頭がいいのに説明がうまくない人もいる、という整理にいったん落ち着いた。

「人による」で終わらせないための論点――この言説は研究者を不当に貶める

ここで水野さんが「人による」という結論を口にし、堀元さんが「つまらない」と突っ込む。この「みんな違ってみんないい」という相対主義的な結論を水野さんが持ち出し、堀元さんがそれを退けるというやり取りは、この回を通して何度も繰り返される。

そこで水野さんは論点を立て直す。真偽はいったん置き、この言説が広まることで社会が悪くなるのではないか、という問いである。水野さん自身は、勉強を重ねた結果として物事は一概には言えないことを経験的に理解した。だから歯切れの悪い大学の先生を見ても何とも思わない。しかしその経験をしていない人から見ると、説明が下手な研究者は頭が悪い人にしか見えない。

堀元さんもこれには同意する。説明のうまさと賢さは別軸の話であり、たどたどしく説明したり言いよどんだりしている人を愚かだと思うのは良くない。ところがTwitterの文脈では、「この研究者は何を言っているかわからない、頭が悪いんだろう」という反応がよく見られる。堀元さんの整理では、問題は人々がこの言説を「例外のない法則」と捉えていることにある。頭がいい人のほうが事実をかいつまんだり例を考えたりする能力が高い傾向はあるとしても、それは傾向にすぎない。水野さんはこれを、傾向を絶対的な法則だと思いたがる人間の認知バイアスとして捉え、「男性は女性より背が高い傾向がある」から「背の高い女性はいない」と考えるようなものだ、と例える。男女の身長ならそんな誤解は起きないのに、研究者や政治家については例外なく頭が悪いと思ってしまうのが問題だという。

水野さんは、ゆる言語学ラジオ自身がこの言説に抗う面と、強化してしまう面の両方を持っているとも指摘する。歯切れの悪さを楽しむという堀元さんの思想はこの言説への一石になっている。しかし、番組を見て「説明がうまいから頭がいい」と思われてしまえば、言説を補強することになる。水野さんは、番組によく登場する島村先生を例に挙げる。島村先生は、水野さんが何度読んでも理解できないことを理解しているが、話し方は「一概にはそう言えないけど、まあそれでいいよ」といった具合に歯切れが悪い。

専門家にとって、専門について聞かれることは「銃口」でもある

水野さんがもう一つ挙げたのは、専門家が専門の内容について聞かれるとき、実は力量が問われているという構造である。その分野の人ならまず間違えないようなミスをすれば、キャリアに響いたり周囲から白い目で見られたりする。研究者に専門の内容を尋ねるのは、相手に銃口を突きつけているような面もあり、だからこそ留保をつけて話す。水野さんは、この事実に気づいたのはゆる言語学ラジオを始めてからだという。周囲に研究者がいなかった頃は、専門なのだから知識を使ってスパッと答えられるはずだと思っていた。24歳頃に気づいていなかったことに30歳になって気づいたのだから、周囲に研究者がいない人ならなおさら知らないのではないか、と水野さんは考える。

堀元さんも、自分で本を書いているときに同じことに気づいたという。例として挙げたのはアッシュの同調実験だ。誰でも正解できる「同じ長さの棒はどれか」という課題で、サクラが全員間違った答えを言うと、被験者もつい同じ間違いを選んでしまう、という有名な実験である。面白いことを言いたい人は、これを応用して「同調圧力はこれほど強い」と語る。堀元さんが挙げた例は、Mrs. GREEN APPLEの「コロンブス」が差別的だとして炎上した件だ。多くの大人が関わったのになぜ止められなかったのかという問いに、「一人が強く押したら皆が同調したのだろう」と同調実験を持ち出すと、それらしく聞こえる。堀元さんは、自分やひろゆきさんのような人はそれをためらわずにやると話す。しかし本職の心理学者は、棒の長さというきわめてシンプルなタスクについて言えることが、CMの差別性の判断についても言えるかどうかは別問題だとして、一概には言えないと考えるはずだ。元の実験をどこまで抽象化して勝手に使えるかについて、プロと素人では許される範囲がまったく違う、というのが堀元さんの整理である。

水野さんはこれを生物学に広げる。生物学者は、動物の生態や実験結果を人間社会に当てはめることについて、非常に厳しく抑制的であるよう指導されているのだろうと水野さんは推測する。いわゆる自然主義的誤謬の問題である。そう指導されるのは、逆に言えば「アリの研究をしているなら、アリの社会を見て人間はどう生きるべきだと思う?」と聞かれがちだからだろう、と水野さんは考える。居酒屋の話としては面白いが、学者が言えば「学者がこう言っていた」になってしまう。加えて生物学には、進化論を社会に当てはめた社会ダーウィニズムのような悪い応用の歴史があり、その反省も踏まえているのだろうという。ところがその事情を知らない外部の人からは、研究者がなぜか面白いことを言わずに放置している「使い放題の知の鉱脈」のように見えてしまう。そして学者は、面白い知を持ちながら人間社会への応用を怠ってきた人に見えてしまう。水野さんはそこに引っかかりを覚えると語った。

堀元さんの「下ネタ本」という自己批判的な実例

この話が「ぐさぐさ刺さった」と堀元さんは言い、自著『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』を例に出す。前書きで、神経科学者ロイナーの「マウスに性的刺激を与えるとニューロンの生成が促進された」という実験を引き、「下ネタは人を賢くする可能性がある」と書いたという。一応その後ろに「人間に言えるかはわからない」とは書いたものの、滅茶苦茶な主張をしたことには変わりない、と堀元さんは認める。

さらにこの本はコミカライズされた。漫画版では、漫画家の福岡太郎先生が、マウスにヘッドフォンを着けさせて「メスガキ」の音声を聞かせる絵を描いたという。元の実験からどんどん離れていくので、そこだけ読んだ人は、神経学者の実験がメスガキ音声をマウスに聞かせるものだったと誤解しかねない、と水野さんは指摘する。二人はこれを笑いながらも、何段階もの翻訳を経て適切に話す学者は愚かだと思われ、滅茶苦茶を言って面白いことを話す人は賢いと思われる、という構図は深い問題だと確認した。

堀元さんは、学者はまず不当に低く評価されており、しかも学者は大きな声で反論しにくい構造にあるので自分が言う、と述べる。例として挙げたのはコロナ禍の状況だ。「こうするとコロナウイルスは死ぬ」という投稿はバズる。それを訂正する学者の「わかっているのは実験室の特定の環境でこうしたときに効果があったということであり、あなたの言うことを示唆する結果ではあるが、まだ検証されていない」という投稿はバズらない。素人のいい加減な一般化がバズり、学者の正しさがバズらないという構図に抗っていきたい、と堀元さんは話した。

「頭がいい」が指すものは人によって違いすぎる

後半に入ると、「学者は頭がいい」という前提そのものが問われる。学者なら必ず頭がいいのか、学歴が高ければ頭がいいのか、ビジネスで成功した人のほうが頭がいいのではないか、という反論はありうると水野さんは言う。

二人は以前、ポッドキャスト『ウェンズデイ・ホリデイ』にゲスト出演し、「頭がいい・頭が悪いとは何か」をテーマに、ホストでアナウンサーの堀井美香さんと話したことがある。そのときも定義がかなりすれ違ったという。さらに堀井さんはその回を受けて、別のポッドキャスト『OVER THE SUN』で相方のジェーン・スーさんと議論を続けた。水野さんはその一連の議論を聞いて、「頭がいい」という言葉が指す対象は個人によって違いすぎ、そもそも議論に使える有効な用語ではないと感じたという。

実際に挙がった定義はばらばらだ。知識が多いこと、いわゆる地頭としての論理的な演算能力、言語能力の高さ、特定分野の専門性の深さ、逆に多くの分野を広く見ていること。ジェーン・スーさんは、プロジェクトを始めるときにうまく回る形に外側を整えられる人、つまり「外堀を作れる人」「仕組み化できる人」を頭がいいとしており、水野さんの印象では、ペーパーテストができることや言語化が早いことは頭の良さに数えていないようだったという。堀井さんは「お茶目ができる人」を挙げたそうで、水野さんはこれに「違いますよ」と突っ込みつつ、そういう定義もあっていいのだろうと引き取った。

「速い」ことは過大評価されている

堀井さんは二人との共演について、会話のペースが速く、自分が考える論点の2つ先、3つ先をどんどん進めていたので追いつけなかった、という文脈で「頭が良かった」と評価していたという。水野さんは、多くの人が「頭の回転が速いこと」を頭の良さに含めているのは実態としてありそうだが、自分はその風潮に抗いたいと述べる。

堀元さんも、会議ですぐ論点を見抜ける人は仕事ができるから、速さが頭の良さに結びつきやすいのはわかると認める。そのうえで、人類でもトップクラスに速い水野さんと長い時間を過ごしてきた経験から、水野さんを「すごく速いアホ」だと評する。城崎での観光中、クラフトビールを飲みながら景色に感動した水野さんは「That's so bad」と言ってすぐ「good か」と訂正し、揚げパンの店では「キッチン広い」と言ってすぐ「あ、鏡か」と訂正していたという。普通の人が一度言い終えるくらいの時間で、言い間違いと訂正を済ませている、というわけだ。水野さんは、店が広いと思って一回多く感動したのだから、その分人生が豊かだと切り返した。

堀元さんの言いたいことは、速い人はその分間違いも圧倒的に多いということだ。会議で速く論点を見抜いているように見える人も、実は見当違いのことがよくあるのではないかという。堀元さん自身、自社の会議で「根本的な問題はこうだから、こうしたらいい」と話し終えた直後に「違うわ、根本的な問題はこっちだ」と自分で覆すことがあると明かし、水野さんは、社員は社長相手なので言わないだけで「時間を返せ」と思っているだろうと返した。水野さんはさらに、速いだけの人は会話のターンを取っているので他人の時間を奪っていると指摘する。10人が出席する会議で30秒話せば、合計で5分を奪っている計算になる。

それでも「早く70点を出す能力」は偉い、と堀元さんは逆張りする

ただし堀元さんは、水野さんが自分を卑下するあまり速さを必要以上に下げていると感じ、あえて逆張りする。二人とも、普通の人が1分かかる70点の答えを6秒程度で出すのは得意であり、それはそれで素晴らしい能力なので「頭がいい」と形容しても問題ないという。一方で、二人は例えば「民主主義はどうあるべきか」という問いに2日かけて100点の答えを出すような作業は苦手だろう、と堀元さんは見る。それが得意な人もいる。

水野さんは、研究者ハワード・ガードナーが知能には何種類かあると論じている、と聞いたことがあると紹介する。ヒューリスティクスで早くそれなりの答えを出す人が頭がいいとするなら、じっくり考えてもっと良い答えを出す人も頭がいいはずだ。それでも、速くて70点に留まる人が評価されがちだという問題は変わらずある、と水野さんは述べた。

レトリックが力を持ちすぎている――『モヤモヤする正義』から

ここで堀元さんは、合宿中に読んでいる『モヤモヤする正義』の議論を紹介する。この本では、現代はレトリックが力を持ちすぎていると繰り返し論じられているという。社会運動がレトリックを一番の武器として使うため、「明日にも飢えで死のうとしているアフリカの子どもがいるのに、あなたは食べ物を無駄にするのか」といった言い方が多用される。人の心を動かすストーリーではあるが、理屈としては変だ、と堀元さんは言う。自分が食べきれずにご飯を残すことが、アフリカの子どもを殺すことにはならない。それはもっと大きな流通の問題であって、自分が食べきるかどうかとはあまり関係がない。それでも、論理的に整合していなくても最終的に社会が良くなればいい、という考えで活動する人が多いのだという。水野さんはこれを、過程ではなく結果にフォーカスし、方便として捉えている態度だと整理する。

堀元さんによれば、著者はそれを良くないと論じている。レトリックの力で戦っているだけなら、仮に差別が少し減っても、逆方向の強いレトリックが出てくれば差別はまた増える。レトリックは世の中をちゃんと良い方向に進めていかない。それに対して、データを見て理屈でじっくり考え、今出ている材料ではこちらが正しそうだと皆で結論を出していく営みは後退しない。反証データが出てくれば話は変わるが、逆の強いレトリックが出てきても、論理的に出た結論は変わらない。社会を正しく進めていくのはレトリックではなく正しさだ、という主張である。堀元さんは、レトリックだけで押し切ろうとする反差別の人々に3年ほど気持ち悪さを感じてきたが、その理由がわかって腑に落ちたと語った。

水野さんの応答①――データに現れにくいものをめぐる争い

水野さんはこの話に二つの論点で応じる。一つ目は、社会活動の一部はデータに出にくいことをめぐって争っている、という点である。例として挙げたのは、家事労働がGDPに現れないという話だ。同じ仕事をハウスキーピングに頼めば売上になり経済活動として計上されるが、家庭内の家事は計上されない。家事を可視化しない指標を元データとして社会を設計すれば、差別を温存した体制がそのまま残ると考えるからこそ、活動家はデータに頼らない論証をしている面がある、と水野さんは言う。堀元さんは、フェミニズムなどに典型的に見られる構造だと応じた。

ただ水野さんは、これが『モヤモヤする正義』の主張と矛盾するとは考えていない。レトリックだけで押し切るのではなく、「家事労働がデータに出てこないこと自体が問題であり、それを捉えるデータを取るべきだ」と言っていけばいい、というのが著者の言いたいことだろう、と整理する。堀元さんもこれに賛成した。

水野さんはさらに、仮説として、世界にはデータで論証してほしい人とエモーションで論証してほしい人がいるのではないかと話す。水野さんがこれまで読んだフェミニズムの本には、エモーションやレトリックで訴えるものもそれなりにあり(堀元さんは、データで論じた本も多いと補足した)、データ好きの水野さんにはなかなか入っていけなかったという。主張とそれに反対する人の話が噛み合わない背景には、そうした論証スタイルの違いがあり、そこに科学・非科学、文系・理系のラベルが乗って「文系は頭が悪い」「非科学的だ」といったディスコミュニケーションが生まれている、と水野さんは見る。水野さんは、編集者として本気で作っている書き下ろしの本の中に、両者の架け橋となるような論点をある先生に盛り込んでもらおうとしており、このテーマは今後も追いかけることになるだろうと述べた。

水野さんの応答②――例え話の危険性と、飲茶さんの本

二つ目の論点は、世の中は例え話の危険性を理解していなさすぎる、ということだ。水野さんは、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだとき、ドーキンスが例えを使ったせいでひどく誤解され、苛立っていた、という話を以前の回でしたと振り返る。

そのうえで語ったのが、自分自身の理解の変化である。高校生の頃、水野さんは『史上最強の哲学入門』から飲茶さんの哲学の本に入り、とても好きだった。飲茶さんは例えの名手で、しかも単に「AとBは構造が同じ」と言うのではなく、ある哲学者の主張を読者に追体験させる例えを持ってくるのがうまい、と水野さんは評する。飲茶さんの本で哲学を面白いと感じ、研究者が書いた他の哲学入門書を読んだが、飲茶さんほどわかりやすくなく、結局哲学にははまらなかった。当時は「飲茶さんはすごい、哲学者は説明が下手だ」と思っていたという。堀元さんは、まさに「頭がいい人は説明がうまい」論にどっぷりだと突っ込む。

いまの水野さんは、飲茶さんの説明はわかりやすいが正確性を捨てていると考えている。それが悪いと言いたいのではなく、入門者にわかった気にさせて面白がらせる、別の役割なのだという。堀元さんもそれには意味があると同意する。ただ高校生の水野さんには、例えていない本や、わかりにくい本の意味がわからなかった。ゆる言語学ラジオで言語学を例えてみた結果、例えることで失われるディテールや、研究者が本来議論している部分を捨てていることに気づき、思ったより危ないと感じたという。

問題は、こうした活動をしていない人は「飲茶本大好きモデル」のまま大人になっている可能性があり、そういう人に「例えると本質を見失う」というありふれた説を聞かせてもあまり伝わらないだろう、という点だ。例えのデメリットを追体験させる何かがあればいいが、それを例えで伝えればまたデメリットが生じ、そのデメリットを伝えるための例えが必要になり……と、二人は無限後退を笑い合った。水野さん自身、例えの危険性は例えではなく勉強によって知ったと話す。

間違いを見つけて喜ぶ人になればいい――ゆるコンピュータ科学ラジオの告白

堀元さんは、別の解決策として「人の間違いを見つけて喜ぶ人間になればいい」と提案する。インターネットで理屈っぽい発信を始めてから気づいたことだが、一般向けのサイエンス本で誤った記述を見つけると嬉しい。誤植を見つけて勝った気になるのと同じで、「簡略化なのかミスなのかわからないが、ここは本当はこうだ」と思えるのが楽しい。その趣味を持てば、一般向けの説明がどれだけのものを捨てているかがわかるようになる、という。

水野さんが、それは堀元さんのゆるコンピュータ科学ラジオへの皮肉を含んでいるのかと尋ねると、堀元さんは自身の手法を明かす。「なぜ〇〇は〇〇なのか」を扱うとき、一番大きな理由がつまらない場合には、それを飛ばして2番目くらいの面白い理由を「実はこうなんです」とたっぷり話し、水野さんを大いに喜ばせたあとで、怒られないよう駆け込みで「こういう理由もあるんですけどね」と一番大きな理由を言う、というのだ。

具体例は「なぜデジタルはアナログより優れているのか」の回である。この回では、レコードの溝は少しずつすり減って二度と復元できないが、0と1のデータはどこかで誤っても誤り訂正が可能なので永遠に劣化しない、人は永遠を求めてデジタルに行き着いた、と説明した。そのあとで慌てて、あらゆるものを統一的な規格で扱えるというメリットもある、と付け足した。堀元さんは、実際にはそちらのほうが重要なのだと明かす。嘘にならないギリギリのラインを攻めているという堀元さんに、水野さんは「炎上してないだけの詐欺師」と返した。

それでも堀元さんは、この番組をきっかけにコンピュータサイエンスの道に進んだ人や、基本情報技術者試験に合格した人の声を多くもらっていると話す。その中には、試験勉強をしていたらゆるコンピュータ科学ラジオで出てきた話が出てきてテンションが上がり、同時に「本当はこういう話だったのか」とわかった、と投稿している人もいた。まさに堀元さんの言う楽しみ方であり、番組は真実を言わなくていいと思っているのではなく、入り口を用意しているのだと堀元さんは説明する。

水野さんは、自分のコンテンツ作りの思想は堀元さんと少し違うかもしれないと話す。例えば生成文法なら、「この核は伝えなければならない」というものを軸に、それをどうわかりやすく説明するかに力を注ぎ、枝葉の面白い部分を強調する作り方はしなかった。その結果、言語はフラクタル構造だから「ブロッコリーだ」という、あまりピンとこなかった例えが生まれたのだと二人は笑った。

厳密さのゲームと、わかりやすさのゲーム

水野さんは、生成文法をやさしい本から順に難しい本へと勉強していったので、やさしい本の不正確な説明を徐々に理解し直すステップを踏んだという。そこで、例えることや一般向けにわかりやすくすること、さらに専門用語を使わないことのリスクが大きいことに気づいた。厳密な定義を積み重ねなければ厳密な議論はできず、冒頭の「頭がいい」のように定義があいまいな語で議論すると、話がふわふわしてしまう。

堀元さんは高校時代の数学の授業を思い出す。黒板で問題を解いて解法を説明する際、皆に伝わりやすい説明がベストだと考え、「このXはこっちより小さくなることはないので、こっちだけ考えればいい」と説明した。先生は正解と認めたうえで、Xがなぜ小さくならないのかの説明がないのでそこをやってほしいと求めた。堀元さんは、直感的に明らかで、証明すればかえって説明がわかりにくくなるから省いたのであり、当時はうるさいと思った。しかし今振り返ると、数学の先生が目指していたのはわかりやすさではなく完璧さであり、省略を許さないのは職業として正しかった、自分は違うゲームで戦っていた、と堀元さんは言う。水野さんは、数学は誰が読んでもわかる形に落とし込む形式化のゲームだと応じる。生成文法も数学のようにしようとしている分野なので、用語を使わずに話した瞬間にかなり嘘になってしまう。生成文法の研究者がそもそもわかりやすく説明しようとしないことが多いのは、頭が悪いからではなく、厳密な議論をしなければ意味がなくなるという抑制が効いているからだろう、と水野さんは考える。

読書スタイルと「知的筋力」

堀元さんは、この違いは読書スタイルにも起因しているのではないかと話す。生成文法の研究者のように厳密な論証を好む人は、本を一言一句理解していく。一方、堀元さんと水野さんは本を雑に読み、「この話はどこかに書いてあったな」と必要なときに確認しに戻る。モザイク程度の解像度のものを頭にたくさん置いておき、必要なときに解像度を上げるやり方で、積み上げてはいない。最初から1ピクセルずつ描画したい人もいて、その認知の違いが好むコンテンツの違いになっているのではないか。全体像のモザイクを先に見たい人は飲茶さんのような本を好み、1ピクセルずつ描いていきたい人は専門書を好む、という見立てだ。水野さんは、島村先生が「本も第1定理から始めて、そこから何が導けるかの順に書いてくれたらわかりやすいのに」と言っていたと紹介し、堀元さんは、自分はまずぼんやりした全体像を見せてほしいと応じた。

では、ステップバイステップで理解する人は頭がいいと見なされるのか。堀元さんは、世間的には逆だろうと言う。そういう人に何かを尋ねて「まず第1定理があり、そこから第2定理が導かれ……」と説明されると、話が難しくてわからないと感じる。それより「それってこういうことだよ」とズバッと教えてくれる人のほうが頭がいいと思われる。世間で「頭良さそう」と距離を置かれるのは、「ガリ勉」と言うのと同じで褒めていないのだ、という。

それでも水野さんは、定理を一つずつ積み上げて理解するのに慣れた人には知的な筋力があると考える。ベンチプレスを重く上げられる人のように、多少の負荷でも持ち上げられる。「頭がいい」という言説をクリアにするには、こうした要素に細かく分けていく必要がある、と水野さんは述べる。

忍耐力と、自分たちが向いている役割

堀元さんは、頭の良さのかなりの部分は忍耐力だと考えている。難しい話を頑張って理解しようとするのは忍耐力であり、自分にはそれがあまりない。専門書にうんうん唸りながら20時間かけて少しわかった、と言う人を見るとすごいと感じるという。二人は量でカバーしようとするので、簡単な入門書を読んで何となくわかったら少し難しい本を読む、という繰り返しで20時間かける。専門書の記述に立ち向かえる人は、人類がまだ答えを出していない問題に立ち向かえる人であり、敬意を払わなければならない、と堀元さんは言う。何時間も取り組んで結局わからなかったという体験は、二人にとっては耐えがたい。

堀元さんは、自分が大学でコンピュータサイエンスを選んだのもそのためかもしれないと振り返る。コンピュータは間違ったことをすると間違った挙動をして面白いので、何も得られなかったという感覚がない。線に沿って走るロボットを作ろうとして、1ミリも進まずその場で回り続けるロボットができたことがあるという。一方、水野さんが挙げた高校数学の「式変形したら元の式に戻った」「連立方程式を解いたら0=0になった」といった体験は、何も生まれない感覚そのものである。

堀元さんは、自分たちに忍耐力がないことを必ずしも悪いとは思っていない。むしろサイエンスコミュニケーションに向いている、と考える。忍耐力のあまりない人向けに、害にならない程度のざっくりした理解を与えるのが得意なのは、「この説明なら自分は耐えられる」というラインが自分の中にあるからだ。島村先生にはそれがない。つまり二人と島村先生は別の賢さを持っている、というのが堀元さんの結論で、ここで再び「みんな違ってみんないい」が出て水野さんに突っ込まれた。水野さんは、知的な筋力のある人たちが自分たちに敬意を払ってくれ、自分たちも敬意を払っているからこそ活動が成り立っており、互いに「あいつらはバカだ」と言い合う関係になっていないのはありがたい、アカデミシャンといがみ合わないようにしていきたい、と話した。

段取りの良さとEQ――学者とビジネスパーソンの対立

水野さんは、ここまで頭の良さをアカデミズムに結びつけてきたが、要領がいい、段取りができる、誰とでも分け隔てなくコミュニケーションが取れる、といったことを「頭がいい」と見なすのもわかると付け加える。

ここで堀元さんは、水野さんは段取りが異常にいいと指摘する。とくに勘所を押さえるのがうまく、ここまでなら無許可で進めていい、これは許可を取っておいたほうがいい、という仕分けが上手だという。苦手な人は、勝手に進めて怒られたり、逆に確認を取りすぎて「なぜそんなどうでもいいことを聞くのか」となったりする。ゆる言語学ラジオ周りで外部へのギャラの支払いが発生するような場面でも、水野さんはある程度まで進めてから、本当に堀元さんの確認が必要なラインで聞きに来る。収録に1,500円程度の小物が必要になっても、わざわざ買っていいかと聞かず、「買っておいたのでよろしくお願いします」とレシートを回すだろう、と堀元さんは言う。

堀元さんは、ここで初めて気づいたことがあると話す。頭の良さをめぐる議論ではよくIQとEQの対比が出てくる。水野さんの説明によれば、IQは図形の変化の法則から次を推論するような純粋な論理パズルの能力で、EQは相手が今何を思っているかに共感する力である。堀元さんは、EQが高いことを頭がいいとする議論がピンとこず、それは共感性の話であって頭の良さとは関係ないと思っていた。しかし、1,500円なら堀元さんは怒らないだろうと推測できる水野さんの能力はEQの高さであり、それはたしかに頭の良さだ。仕事の段取りの良さはEQと密接に結びついている、と今初めて気づいたという。

水野さんはこの話を、ビジネス系の人が「学問なんて役に立たない」と言い、学問の人がビジネスの人をうっすら馬鹿にする、という対立につなげる。環境によって頭がいいとされることがまったく違うのに、言葉だけは同じ「頭がいい」なので、互いに相手を頭が悪いと言っているように見えるのではないか。堀元さんは外野からの意見と断ったうえで、学問の世界では、反対すれば相手が気を悪くするかを考えずに「それは違っています」と言えるのが本来の理想であり、EQはそれほど必要ないのではないかと見る。会社員はその逆で、部長の言うことが完全に間違っていても、機嫌を損ねないよう上手な言い方で少しずつこちらに誘導する器用さが求められる。水野さんも、会社員は上司にも部下にも「この言い方をするとこの人は潰れてしまう」と常に考えていると応じた。堀元さんは、ごく乱暴に言えば学者とビジネスパーソンの対立はIQとEQの対立なのかもしれない、とまとめた。

水野さんは、男女や国籍などのラベルについても同じで、「〇〇は頭がいい」「〇〇は頭が悪い」という言説から生まれるものは何もないように思う、だからやり取りをするならその言葉は使わないほうがいいのではないか、と述べる。堀元さんは、それも結局「みんな違ってみんないい」ではないかと指摘する。水野さんは、自分が言いたいのはもう少し先だとして、とりわけ「頭が悪い」という表現は生産的ではないので、批判するなら別の言い方で批判してほしい、もっと要素に分けて話さないと有益な結論にならないことを自覚したほうがいい、と説明した。

批判するなら1万字で――「ファスト教養」という批判の自己言及

堀元さんは、それは自分がやっている有料マガジン(人を馬鹿にするマガジン)を皆が始めればいいということかと冗談を言い、水野さんに否定される。堀元さんによれば、ネットで「〇〇は本当にバカだ」とだけ投稿する人が嫌いなので、自分は1万字ほど書くことにしている。誰々のこの投稿の論拠はこれで、これは典型的な相関と因果の取り違えだ、この投稿ではこの論理の運用を間違っている、といった具合に具体的にあげつらう、というやり方である。

水野さんも、ゆる言語学ラジオに対する批判について思い出したことを話す。初期にもらった批判noteは1万字ほどあり、言語学を学び始めた人がする初歩的な間違いをこれでもかと指摘する内容で、水野さんの心を射抜いた。それ以来、あれを超えるクオリティの批判は出てきていないという。一方でXなどで「あれはファスト教養だから」「間違いだらけだ」と言われているのを見ると、もっと来いよ、あの人ぐらい来い、と思うそうだ。

堀元さんは、「ファスト教養」と言う人の多くは『ファスト教養』という本を読んでいないのではないかと指摘する。堀元さんの説明では、この本で提案された「ファスト教養」とは、金儲けのような現世利益を目的に教養を身につけることを指す。水野さんも、上司が特定の音楽を好きだからその音楽を聞いておく、という行動が本で例に挙がっていたと補足する。ゆる言語学ラジオは「これをやると儲かる」とは言っていないので、本の定義ではファスト教養ではない。批判する人たちは、学問の根幹に踏み込まず雰囲気で話している、という意味で使っているのだろう。だとすれば、本を読まずに雰囲気で「ファスト教養」という言葉を使っている彼ら自身が、その意味でのファスト教養になっている、と堀元さんは言う。二人はこの自己言及的な構造を「美しい」と笑い、そういう人を見かけたら「アートですね」と返せばいい、と冗談を言い合った。

議論の整理――「頭がいい」はマジックワードである

締めくくりに水野さんは、今回の議論を整理する。まとめれば「人それぞれ」という話になるが、自分が得た気づきは、「頭がいい・悪い」はマジックワードであり、相手をののしるために使ってもまったく良い結果にならないということだ。だから「頭がいい」「頭が悪い」とはあまり言わないほうがいいと思った、と水野さんは述べる。堀元さんから「めっちゃ言ってる」と指摘されると、水野さんは今後は「いいアイデアだ」のように言い換えると応じた。

さらに、「頭がいい」が指す対象はばらばらで、人々の使い方の共通点をくくると「グッド」くらいの意味しか残らないこと、その中で答えを見つける速度については速さに偏って評価されているのではないかということを挙げた。個人的に最も面白かったのは、堀元さんが紹介した『モヤモヤする正義』の論点、つまりレトリックで論証すると、より強くうまいレトリックが出てきたときにひっくり返されるので、安定して良い社会であり続けるのが難しい、という点で、これまで考えたことのない視点だったという。

自分たちの番組を批判的に見てほしい

そこから二人は視聴者への呼びかけに移る。ゆる言語学ラジオやゆるコンピュータ科学ラジオがレトリックで何とかしている場面には、手厳しい批判をもらえると嬉しい、と水野さんは話す。Xで「ゆる言語学ラジオは本当にすごい、頭が良くなる気がする、教養も得られる」と褒められているのを見ると、そんなにいいものではない、と思うという。堀元さんも、面白がって見てもらい、本を買ってもらえれば十分だと応じる。嬉しい感想は「頭が良くなった(気になった)」よりも「あの後本を買った」「大学でちゃんと勉強するようになった」というもので、「この人たちは本当に頭がいい」と言われると素直に喜べないので、眉に唾をつけながら聞くくらいがいい、と二人は話した。

難しいことを学ぶ副産物と、あえて苦手な分野に入ること

最後に水野さんは、例えの危うさや頭の良さの多様性に気づいた最大のきっかけは、難しいことを勉強しようとしたことだと語る。水野さんにとってそれは生成文法だった。大学時代から難しそうで逃げ続けていた分野だが、幸い二人の活動に好感を持ってくれた先生がそれを研究しており、その先生と仲良くなりたい、何を考えているのか知りたいと思って勉強した。生成文法の知識そのものは社会や生活の役に立たなくても、それを学ぶことで得た世界の見方や学問のフレームワークがとても大きく、副産物として実際の利益があったという。

堀元さんは、それこそ大学の本質だと応じる。専門分野を一つやるのは、その分野を今後生かすためではなく、そのために必要な作法や考え方、忍耐力に意味があるからだ、という考えだ。水野さんは、それは究極的には学問でなくてもいいと考える。料理の学校で突き詰めても、「この焼き方のとき本当はもっと複雑なことが起きているが、ざっくり言うとこうだ」といったことはあらゆる分野にあり、一つを突き詰めれば同じような学びを得るのではないか。堀元さんは、競馬にはまりすぎた友人が、勝つ方法を考えるうちに確率密度関数やAIによる予測モデルを作ろうとし、数学科の大学4年生がやるような数学を勉強していた例を挙げた。

水野さんは最後に、本当は自分があまり入っていけない分野のほうがいいのだろうと付け加える。普通に生活していたら生成文法を学ぼうとは思わなかったが、仕方なく取り組んだ結果として得るものがあった。逆に、自分が理解しやすい分野ばかり学んでいくと、今までの世界モデルが補強されるだけになる気がする。負荷は大きくても、「本当はこのタイプの論証は好きじゃない」と思うものを突き詰めたほうがいいのかもしれない、と水野さんは話す。堀元さんは、二人ともまったく興味のない趣味を始めてみようかと提案し、水野さんは小学生の頃にブックカバーを大量生産していたほど裁縫が好きだったと話した。二人は視聴者に、自分たちがやったら発見がありそうな趣味や、学んだほうがいいものがあれば教えてほしいと呼びかけて、この回を終えた。