三井住友銀行で表彰2回、30歳でAカップ女子を名乗った発信者に 「ぼくひぐま」樋熊晃規が語る蕎麦屋の実家から独立まで

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概要

YouTubeチャンネル「ぼくひぐま」で元銀行員としての話を発信する樋熊晃規氏が、生い立ちから大学受験、三井住友銀行(SMBC)への就職、独立、SNSでの発信までを語ったインタビューである。樋熊氏は自分のチャンネルを「元銀行の話をひたすら擦り続けてプチバズりしただけで、来年か再来年には消える」と冗談めかして紹介する。話の中心は、樋熊氏がその時々にどんな計算や動機で進路を選んできたかにある。就職活動の軸として語った「綺麗な夢と邪悪な夢のハイブリッド」という考え方は、その後の仕事にも通じている。

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文京区の蕎麦屋と、母親の蕎麦アレルギー

樋熊氏の実家は東京都文京区の蕎麦屋で、角地にあったことから「角」という屋号だった。祖父母の代から長く続いた店で、父親が2代目にあたる。樋熊氏によると、父親はコミュニケーション力が極端に低く、母親は逆に「コミュ力お化け」だった。母親が接客を担っていたため、母親がいなければ「無口なおじさんが黙々と蕎麦を打つ店」になってしまう、と店の構造を説明する。

店を閉じたのは樋熊氏が大学2年生の頃で、理由は母親が蕎麦アレルギーになったことだった。蕎麦屋では粉が常に舞っているため、続けるのは難しかったという。両親の収入はゼロになり、樋熊氏は給付型の奨学金を申請した記憶があると話す。

一方で、祖母は叩き上げで土地と建物を所有しており、その土地の評価額を見せてもらったら1億8000万円だったという。父親の月収は30万円ほど、母親は15万〜20万円ほどで、「すごく金持ちではないが、やりたいと言ったことはだいたいやらせてもらえた」幼少期だった。この経験は、後で触れる就職活動の志望動機につながっていく。

一番役に立った習い事は「作文教室」

習い事はスイミング、小学4年からの野球、学研の教室などに通ったが、樋熊氏が「一番良かった」と振り返るのは、小学1〜2年から小学6年まで通った作文教室だ。3〜4ページの文章を読み、感想や「作者はこのとき何を感じたか」といった問いに1時間から1時間半かけて答える、国語のミニ試験のような内容だった。

樋熊氏は自分の文章力を「おそらく結構高い」と評価し、それを銀行業務やTwitterでの発信で実感したという。子どもの頃に考えていることを言語化し、文字にする訓練をしたことが、今振り返ると最も役に立った習い事の一つだったと語る。

小学校のリーダーから、中学の「2軍の帝王」へ

小学校の頃はリーダー格だったが、中学1年で「陰キャ」側に移ったと樋熊氏は言う。小学6年までは勢いやノリでクラスの上位に立てるが、中学に上がるとヤンキー、スポーツ系、イケメンが上位を占める構造に変わり、自分が何も持っていないことに気づいた。クラスでの立ち位置を、野球のファームになぞらえて「2軍の帝王」と表現している。

野球は中学のチームに加えてクラブチームにも所属していた。チームにはDeNAの山崎選手や森本選手といったOBがおり、大会でベスト8か4まで進んだ。樋熊氏自身は「すごくうまかったわけではない」と言い、ポジションは外野だった。足は短距離より中距離が得意で、高校の校内マラソン大会では2位か3位に入ったが、野球で長距離を走るのは罰走くらいだったと笑う。

倍率1.01倍の都立新宿高校と、正座させられた試合

高校は都立新宿高校に進んだ。樋熊氏によると、戦前には東大合格者数でトップになったこともある学校だが、その後順位を下げ、樋熊氏の代が「一番ボトム」で、最近また上がり始めているという。新宿の治安の悪化で親が心配するようになったことも一因だと聞いたという。校舎は駅から徒歩5分、高島屋の向かいにあり、当時は仮校舎でとても汚かったため、トイレは高島屋まで行っていたそうだ。

志望した理由は、中学3年間を陰キャで過ごしたので高校デビューを狙いたかったこと、数年前に都立ながら東京都大会でベスト8に入っていたこと、偏差値が65ほどあったことだった。推薦で入学したが、内申点はオール4を少し超える程度だったという。その年の一般入試の倍率は1.01倍で、「一番人気がなかった代」だったと樋熊氏は振り返る。その結果、同期の友人はだいたい大学受験に失敗した、とも話す。

高校では外野に加えて投手も務め、高校1年で球速は125km/hほど出ていたが、ストライクが全く入らなかった。ある試合では初回に四球を3つ出し、相手の甘い攻撃に助けられて無失点で切り抜けたものの、監督から「お前は今日は終わりだ、ずっと正座してろ」と言われた。最初は自軍ベンチの近くで正座していたが、監督の同級生から「こっちじゃない」と言われて相手ベンチの端に移された。5回のグラウンド整備の時間も正座を続け、相手校の選手から「本当にこっちで正座なんですか」と聞かれたという。

夏の大会、東京実業に延長で勝ち、国士舘に大敗

最後の夏の大会では3回戦まで進んだ。1回戦は開幕ゲームで都立戸山高校に勝利。2回戦の東京実業は当時3年連続でベスト8か4に入っていた強豪で、負けると思っていたが延長11回で勝った。樋熊氏はこの試合で4打数3安打3打点、足が遅いのに三塁打も打ったという。

ただ、開幕ゲームの枠はトーナメント表の左下で、3回戦で第1シードと当たることが決まっていた。相手は国士舘高校で、樋熊氏によるとその年に甲子園でベスト8前後まで進んだチームである。初回に6点ほど取られ、11対1くらいで5回コールド負けとなった。セーフティバントを多用されて三塁手が前進守備を取ったところに、プロ注目の打者の強烈な打球が抜けていき、「死んだんじゃないかと思った」記憶だけがあるという。

320人中280番から、3カ月で中央大学へ

勉強はほとんどしておらず、成績は学年320人中280番前後だった。部活引退後に勉強を始めたが、「勉強してこなかった人あるある」として、勉強法を決めるまでに1〜2カ月かかり、本格的に取り組んだのは10月頃から。実質3カ月ほどの受験勉強だった。

樋熊氏はこの期間の勉強を徹底的に絞ったと説明する。国語は漢文と古文を捨て、作文教室で培った力を信じて現代文に賭けた。日本史は山川出版社の『一問一答』だけを使い、赤シートで消える重要語句を3日で1周してすべて書き出す方法を繰り返した。英語は『ターゲット』と『Next Stage』だけ。他の教材は一切使わなかったという。

センター試験は3科目で92.3%を取り、センター利用で成城と成蹊を滑り止めとして確保した。一般入試ではMARCHから中央大学と明治大学、記念受験で早稲田大学を受けたが、明治と早稲田は英語の長文が読めず「何も分からなかった」。これに対して中央大学は、当時の樋熊氏の見立てでは、難易度は低いが得点率が求められる試験で、日本史も簡単な問題を記述で正確に書かせる形式だった。基礎の単語だけを詰め込んだ自分にとって、中大だけが「戦えるグラウンド」だったことに試験中に気づいたという。狙っていたわけではなく、偏った勉強法がたまたま中大に合っていたという認識だ。

学部選びも「一番人気がなさそう」という基準で、中央大学の経済学部の中から人気の低い学科を選び、産業経済学科に入った。聞き手が理由を尋ねようとすると、「マジで理由はない」と答えている。

大学デビューの挫折とアルバイト

中学で陰キャ、高校でも空回りだった樋熊氏は大学デビューを狙い、大手の華やかなサークルは眩しすぎるので、アットホームなオールラウンドサークルとして「ジャイアンツ研究会」を選んだ。巨人ファンで野球経験もあり、完璧だと思ったという。しかし新歓の場で、お酒が飲めずカシスオレンジだけを飲んでいたところ、自分の「間違った未来像」のような先輩から「ビールも飲めないなんてダサいよ」と言われ、「こっち側には行きたくない」と思って入会しなかった。結局、2年生のときに仲の良い友人に誘われて野球サークルに入った。

母親から「お前は家を出た方がいい」と言われて一人暮らしを始め、アルバイトを週4〜5日入れた。時給は830円ほどだった。1年生のときは高幡不動のモスバーガーで働いたが、これには「戦略」があったという。表通りにマクドナルドがあり、モスバーガーはその裏の人通りの少ない道にあった。客として食事に行った際、2時間ほど自分しか客がいない時間があったのを見て、ここなら楽に稼げると考えた。ところが2年生になると人手不足で夜勤ができなくなり、スポーツインストラクターのアルバイトに移った。これが肌に合い、卒業まで3年ほど続けた。

リーマンショック直後の就職活動

実家が自営業の飲食店で、蕎麦屋が潰れた経験もあったため、樋熊氏にとってお金は大切だった。そのため就職先は年収ランキングを基準に選んだという。

動き出しは非常に遅く、大学3年の1月から準備を始め、2月に初めて説明会に行った。当時は4年生の4月1日が面接解禁で、すでにエントリー期限が過ぎた金融機関も多く、エントリーシートを出したのは三井住友銀行、みずほ、三菱、野村など8社ほどだった。

樋熊氏は2010年卒で、就職活動をしたのは2009年、リーマンショックの直後である。金融機関の採用枠は前年のほぼ半分で、採用人数が「未定」とされていたことをよく覚えているという。それでも面接で落ちることはほとんどなく、「運が良かった」と話す。

SMBCを志望した理由として、樋熊氏は二つを挙げる。一つは当時、銀行の中で年収ランキングが1位だったこと。もう一つは、SMBCがリクルーター制で、人事以外の営業系社員が学生と面談しており、その社員たちのスーツがとてもおしゃれだったことだ。ライトグレーのスーツにカフスをつけた社員たちが「お疲れ」というノリで接してくる様子を見て、「こっちがいい」と思ったという。中学からずっと何かでデビューしようとしていた自分にとって、SMBCこそが自分を変えてくれる場所に見えた、と振り返る。

一度落ちてからの「敗者復活」、計10回の面接

当時の銀行の選考は長かった。SMBCでは何度もリクルーター面談を重ねてから面接に進む仕組みで、みずほ銀行でも7次面接まで受けたという。樋熊氏によると、リーマンショック後で選考のハードルが上がり、面接の回数も2倍ほどに増えていた。

SMBCでは4〜5回目のリクルーター面談で一度落ちた。他社の選考が進むなか、4月4日にSMBCから「敗者復活だ」という電話がかかってきた。事情はこうだという。リクルーターの中に「死神」と呼ばれる有名な人物がいて、樋熊氏のゼミの学生は全員その人に落とされていた。ハードルを上げすぎた結果、候補者が全滅してしまった。その人物に落とされるまで評価の良かった学生が複数いるので、敗者復活戦をする、という話だった。

「明日来られるか」と聞かれて行くと答え、4月5日にリクルーター面談を2回、4月6日に人事面接、7日に2次面接、8日に最終面接を受けて内定を得た。面談を含めると計10回ほどになる。SMBCが最初の内定で、そこで就職活動を終えた。

銀行員の年収と、豊橋での3年9カ月

年収について、樋熊氏は5年目で退職した時点で670万〜680万円ほどだったと話す。残っていれば28歳の代で昇格し、29歳で900万〜950万円、早い人は30〜31歳で1000万円に届く水準だったという。手取りでざっくり月38万円ほどを自由に使え、それが全部合コンに消えたと笑う。

初任地は愛知県の豊橋法人営業部で、ここには3年9カ月いた。樋熊氏は愛知を「遊び心の牢獄」のような場所だったと表現する。トヨタ経済に守られ、地元志向が非常に強いため、全国転勤のある銀行員は警戒されやすく、三井住友銀行よりも岡崎信用金庫の方が人気がある、というのが樋熊氏の実感だ。

当初は2年半ほどで異動すると思っていた。新入行員として豊橋に来た人の最長は2年3カ月だと聞いていたからで、自分はおそらく最長記録だろうと話す。長くなった理由として、3年目にたまたま良い案件が出て表彰を受けたこと、さらに3年目の終わりから4年目にかけて支店の収益の3〜4割を占めるような案件が出て、それをクロージングするまでは異動できないと判断されたらしいことを挙げる。本人は「これも運で、お客さんのおかげ」と繰り返している。受けた表彰は、年次的に若手表彰と地域表彰だった。

「水が飲めなくなった」と肩パン

樋熊氏は動画で「仕事中に水が飲めなくなった」という話をしているが、「水を飲むな」と言われたわけではなく、そういう空気の中で飲めなくなったという話だと説明する。本人は「何にでも馴染めるタイプ」だという。聞き手は動画を見て、死にかけるほどのパワハラがあったのかという印象を持ったと話す。

また、樋熊氏の指導員は元早稲田大学柔道部で身長185cm、体重130kgの人物で、「コミュニケーションとして」肩パンをしてくれたという。聞き手は「痣になりそうだ」と驚いていた。

東京・日比谷での1年と「セルフ二度寝」

豊橋の後、部長が「豊橋も長かったから希望はある程度聞く」と言ってくれたので、「東京で銀行員をしてみたい、東京で合コンもしてみたい」と正直に伝えたところ、日比谷法人営業第一部に異動になった。ここには1年しかいなかったが、「さすがに東京デビューはさせていただいた」と言う。合コンは月のうち3分の1ほどの頻度だったと話し、翌日の仕事はきつかったと認める。

朝は6時40分起きだったが、実際にはまず5時に目覚ましをかけていた。5時に一度起きて「まだ1時間半ある」と二度寝できる一瞬の幸福のためで、樋熊氏はこれを「セルフ二度寝」と呼ぶ。体には「ゲロ悪い」とも付け加えている。

なぜ5年目で銀行を辞めたのか

退職の理由について、樋熊氏は銀行業務を分解すると、担当者レベルでやっていることは3年目も10年目も15年目も大きく変わらないと考えたと説明する。金融商品が複雑になったり求められる知識が増えたりはするが、それは延長線上で伸びるだけだ、という見方である。

27歳頃になると30歳が見えてきて、周囲にも転職する友人が増えた。サラリーマンとしてのスキルは伸びたが、それが外に出たときに通用するのかは疑問だった。当時は独立がかっこいいという風潮もあり、周りも独立し始めていた。

樋熊氏にとって大きかったのは、銀行で表彰を2回取っていたことだ。仮に独立して1年でうまくいかなくても、地方銀行なら拾ってもらえるだろうと考えられた。若手時代に積んだキャリア上の資産があったから、辞めることにあまりリスクを感じなかったという。逆に、翌年以降に昇格して給料が上がると、絶対に辞められなくなると思った、とも語る。

独立1年目は年収130万円、リボ600万円

独立後は金融の仕事を軽く並行しつつ、銀行の同期が手がけていた転職エージェント・人材の仕事に関わり、8〜9年ほどそれで生計を立てた。

1年目の年収は130万円ほどだった。転職エージェントは、面談した人が転職活動をして内定が出て初めて報酬が入るため、入金まで半年から9カ月ほどのラグがある。銀行時代は700万円あった年収が130万円になり、その差の約600万円はリボ払いで埋めた。聞き手が「初期投資のようなものか」と尋ねると、樋熊氏は「違う、日常的なクズみたいな生活の垂れ流し」だと否定している。

2年目には1200万円ほどになった。樋熊氏は、最初に転職を支援した人たちが感謝してくれて、多くの人を紹介してくれたことが大きかったと話す。スカウトメールを一度も打ったことがなく、紹介だけで転職エージェントの仕事をしてきたという。

就活の軸は「葬式に来てくれる人を増やしたい」

人間関係を大事にしてきたのかと聞かれ、樋熊氏は就職活動のときから「自分の葬式に来てくれる人の数を増やしたい」と言っていたと明かす。葬式に来てくれる人を増やすような生き方をしていれば食べていける、という考えで、今もそう思っているという。これを聞いた聞き手は、自分は就職活動で「お金が欲しい」としか言っていなかったと笑う。

樋熊氏は、就職活動で綺麗事しか言わない学生は嫌われると考えている。特に銀行員は綺麗事を言う相手には厳しくなる。一方で、本音だけを言うのも生々しすぎる。だから「綺麗な夢と邪悪な夢のハイブリッド」にすることが大事だ、と言う。

当時の樋熊氏は就活の軸を二つ示していた。一つ目は「自分の葬式をパンパンにしたい、それができる仕事がしたい」。金融は無形商材で自分自身が商品になるため、「三井住友銀行ではなく樋熊さんが担当で良かった」と言ってもらえる仕事ができる、という理屈である。二つ目は「給料が高い仕事がしたい」。実家は自営業で、蕎麦屋は潰れてしまったが、子どもの頃やりたいと言ったことは全部やらせてもらえたことに感謝している。自分が親になったとき、子どもがやりたいことを全部やらせてあげられるようになるには、綺麗事抜きに給料の高い会社に行くべきだと考える。そして有形商材より無形商材の方が利益率が高く、その中でもお金に最も触れられる金融が面白そうだ、という流れで志望動機を組み立てていた。22歳でこれを話していたことに、聞き手は感心していた。

「30歳独身Aカップバリキャリ女子」として始めた発信

こうした就活生向けの発信を2019年頃から始めたところ、話題になった。最初のアカウントは女性の設定だったと樋熊氏は明かす。

当時の就活系の発信は「就活は人生のゴールじゃないよ」といったエモーショナルなものが多く、採用の仕組みや設計を語る人はいなかったという。樋熊氏がやりたかったのは、この会社はこういう仕事をするから、こういう能力に秀でた人を取りたい、そのためにこういう質問を設計する、という逆算を就活に落とし込めば内定率が上がる、という話だった。ただ、尖った話を中年男性がいきなりすると叩かれかねない。そこで一緒に活動していた人物が用意したのが「30歳独身Aカップバリキャリ女子」のアカウントだった。どれだけ尖った発信をしても、その設定の人物を叩く人はいない、と樋熊氏は説明する。このアカウントは3カ月でフォロワー1万人ほどになった。

中身は30歳過ぎの男性なのでどうしようかと考え、顔を出すことにした。業界ではざわつき、顔出しのためだけにYouTubeチャンネルを作ったところ、出てきたのは「30過ぎのおじさん」だった。炎上を覚悟したが、ほとんど炎上しなかったという。樋熊氏の見立てでは、内容が役に立つものだったことに加え、女性アカウントだった頃に人事系の中年男性から大量にナンパのようなリプライを受けていたことが大きかった。正体が明かされると、「あいつ男だったのか」ではなく「あいつに言い寄っていた人がたくさんいた」という方向に批判が向かい、言い寄っていた側が「魔女裁判」にかけられたという。

「GAFAO」とスクリーニングとしての発信

樋熊氏はオープンハウスを「GAFAO」と呼んだことでも知られる。就活系の有名アカウントがオープンハウスをいじって開示請求を受けたという話があり、その後、樋熊氏のコメント欄に「オープンハウスに受かるにはどうしたらいいか」という質問が来た。そこで「就活生たちで申し上げるなら、GAFAがあって、その並びにO」と話したところ、大きく伸びた。

樋熊氏は、こうした冗談を笑えない人はそもそも仕事に向いていないと言う。自分は年収3000万円がもらえるならどんな仕事でもいいと思うほどお金を重視しており、自分が求めるものに絶対にたどり着けない仕事なら違うと考える。逆に、稼ぎたい人にオープンハウスが「20代で2000万円稼げる」と言うなら、それはそれで正解だという立場だ。自分の発信で怒るような人はすぐ辞めてしまうので、会社にとっては人件費や研修費の無駄であり、発信がスクリーニングになっていると話す。聞き手が現在の年収を尋ねると、「今の年収はやめておきます」と答えなかった。

今も銀行が好き、コンプラには目をつけられた

樋熊氏は「根の部分で銀行が好き」だと言い、コンプライアンス審査で書類落ちするだろうが、今戻れと言われたら結構活躍できると思う、と話す。YouTubeを始めたばかりの頃、SMBC本部と仕事上の関わりがある人からDMで、コンプライアンスチームに樋熊氏についての訴状の下書きがあると聞いたこともあるという。聞き手は、樋熊氏の発信を見てSMBCを選んだという就活生からのDMもあると聞き、採用にも貢献しているのではないかと返していた。

「ぼくひぐま」を始めた経緯について、樋熊氏は、株式会社Uに声をかけられて昨年の頭から在籍していること、その際に以前のSNSアカウントの所有権をめぐって色々とばたついたことを挙げる。そこで現在の編集担当の林氏に連絡し、YouTubeを手伝ってほしいと頼んで、2024年夏からYouTubeを始めた。運よく伸びた、と本人は言う。

20〜30代へのメッセージ

最後に20〜30代の視聴者へ一言を求められ、樋熊氏は、仕事は頑張っておいた方が潰しが効き、キャリア的にもやって良かったと思えるし、その後に飲む酒が一番うまい、と語った。今は冷めた人が多いが、仕事は楽しくなく辛く苦しいものだとしても、たまには何か一つに熱狂してほしいという。自分も過労死しないように頑張る、と付け加え、2026年を駆け抜けていこうと締めくくった。