灘から防衛大、MBA、そして同人誌の会社へ 大前秀人が語る遠回りの経歴

YouTubeで開く ↗
概要

漫画・同人誌の制作支援を手がける株式会社同人の代表、大前秀人がゲストとして登場した回である。聞き手は、けいおんが好きで同人サークル活動を発信している「もご」。大前は灘高校から防衛大学校に進み、自衛官にはならずに大学院、家業の現場、公認会計士の勉強を経て起業した。その経歴を幼少期から順にたどり、最後に現在の事業にたどり着くという構成で話が進む。本人は最後に、今の事業は子ども時代に夢中になった絵本やドラえもんに戻ってきたものだと振り返っている。

12分で読めます

絵本とドラえもんから始まった漫画好き

大前によると、最初のきっかけは1〜2歳のころに親が絵本をよく読んでくれたことだった。当時は幼児教育が流行っており、進学を目指すならまず絵本やパズルから、という流れの中で絵本にはまったという。家庭は学者や医者の家系ではなく、父親は会社員(現在は会社を経営)、母親は幼稚園の教師だった。

小学校は受験で入った。本人は「偏差値50ぐらい」の学校だと強調するが、試験で消防車が来る話の4コマを正しい順番に並べ替える問題が出たことを今でも覚えている。周りの保育園や幼稚園の子と比べれば準備ができていたのは、母親が幼稚園教師だったからだろうと本人は見ている。

漫画との本格的な出会いは8歳のときだ。弟が生まれるため祖父母の家に預けられ、退屈しないようにと原作の『ドラえもん』を買ってもらった。中古のセットで、4巻から始まる20巻ほどだったという。全45巻のうち抜けている巻が気になり、小遣いを握りしめて漫画を買うようになった。小学校時代だけで3000〜4000冊を集め、3階建ての実家の3階にあった部屋が傾いて親に怒られたという。成績が良ければ漫画を買ってもらえる仕組みがあり、それが勉強の動機になっていた。

大手前志望から灘へ

小学校時代は馬渕教室に通っていた。入塾の理由は、親が大手前高校に行けと言ったからだという。大手前は旧制中学の流れをくむトップ校で、その地域では天王寺や北野ではなく大手前が一番だというのが親の考えだった。塾ではすぐに上位クラスに声がかかり、全体で1〜3位を取ることが多かった。

中学時代には関西の模試で一度だけ1位を取ったという。受験者は6万〜10万人ほどと本人は記憶している。ただ、全国規模のオープン模試では思うように偏差値が伸びず、「お山の大将だった」と振り返る。勉強が好きだった自覚はあまりなく、遊ぶほうが好きだった。漫画という「ニンジン」をぶら下げられたこと、そして何より褒めて伸ばしてもらったことが大きかったという。聞き手のもごも、ゲームを目標にぶら下げられて勉強した経験を話している。

その後、大手前を目指すルートと灘を目指すルートの二択が与えられ、大前は灘を選んだ。理由は「戦いたい」だった。模試の成績表で名前だけ知っているライバルが大勢いて、灘に行けば全員に会える。少年漫画のような発想だったと本人は語る。関西では京阪神の入試日が統一されているため、ほかに受けたのは試験日の違う奈良の東大寺学園で、こちらも合格した。中学の成績は校内1位だった。

灘に入って勉強をやめる

灘高校には高校から入学した。高校からの募集は約40人と少ない。ところが大前によれば、灘に入ることが目標だったため、入学後は勉強しなくなった。入学時の順位は40人中の真ん中より上ぐらいだったという。

高校から入った生徒には特有の事情がある。中高一貫組に追いつくため、1年目は授業が猛烈な速さで進み、灘では高1で高3までの内容を扱う。大前の言い方では速度が3倍になる。そこで遊ぶと数学や化学・物理が分からなくなる。当時は普及し始めたばかりのスマホでゲームにのめり込み、『ガールフレンド(仮)』の全盛期にランキング300位以内に入っていた。化学の「モル」が分からなくなったことをきっかけに文系を選び、数学は取らずに社会の比重を上げた。

アニメ研究会でニコニコ動画のランキング1位

高校でいちばん夢中になったのはアニメや漫画を中心としたオタク文化で、大前はアニメ研究会を創設した。もごが自分の学校ではキリスト教の学校だからと軽音部の設立を即座に断られたと話すと、大前は灘の自由さを語った。

原点は「文化祭で名をはせたい」「一番有名なサークルにしたい」という動機で、クイズやオープニング映像などの企画はあとからついてきた。初年度は手探りで、顧問も何をしてもいいと言い、止める先輩もいなかった。そのためいわゆるエロゲーを持ち込み、抱き枕カバーも貼り出したところ、すべて剥がされて校長から本気で怒られた。これで越えてはいけない線が分かった。

高校2年では、その線を守ったうえで一番有名になることを1年がかりの計画にした。コミックマーケットのレポートを上げるほか、当時のYouTube、ニコニコ動画、Twitterでバズってこそ一番だと考え、「踊ってみた」やアニメのオープニングの実写化に取り組んだ。題材は水泳部の男子高校生を描いたアニメ『Free!』で、もごも当時ニコニコ動画で見ていたという。ランキングでは踊ってみたが3位、オープニング実写化が3日間ほど1位を取り続けた。

大前は、動画の質が良かったからではないと言う。バズらせるための戦略があった。投稿のタイミングを考え、拡散の段取りを組み、当時力のあったニコニコ動画のまとめブログの管理人に事前に連絡して内容を見せ、キャッチフレーズまで用意してまとめてもらったという。

東大に2点差で落ち、防衛大を選ぶ

動画で食べていこうと思ったことはなかった。灘には全員が東大か医学部に行くという共通の意識があり、大前も東大に行くつもりでいた。ところが現役では不合格だった。自己採点が高かったため合格したと思い込み、卒業旅行に出かけていたところ、結果は2点差の不合格だった。

併願として、秋ごろに防衛大学校を受けて文系で合格しており、センター試験利用で早稲田と同志社も押さえていた。センター試験の得点率は92〜93%だったという。

浪人するのが自然な流れだったが、大前は別のことを考えた。高校までは勉強が得意で、高校で遊んだ。もう1年勉強して東大に行っても、勉強の力が元に戻るだけで同じことの繰り返しになる。自分にとっては勉強よりアニメのほうが大事だった。それなら、アニメや漫画といったサブカルチャーへの好みに、もっとすごい経験を掛け合わせれば新しい化学反応が起きるのではないか。そう考えて防衛大学校への進学を決めた。本人が聞いた話では、灘から現役で防衛大に行った人はおらず、担任も知らないというレベルだった。10年、20年はいなかっただろうと大前は推測している。

防衛大で求められたもの

防衛大では頭の良さや体力も大事だが、本人によれば最終的に求められるのは、幹部として組織を動かし、タスクを回す要領の良さだ。きちんと歩調を合わせられるか、集団生活ができるか、ルールを守れるかが問われる。大前はこれを灘とは真逆だと言い、自分は「ぬるま湯」に3年間いたようなものだったので、1年生の間はかなり苦労したと振り返る。

授業は出席率100%で、行進して教室に向かう。朝はラッパで起こされる。一般教養もあり、専門も自衛隊に関することだけではない。2年生で専攻を選び、大前は国際関係論に進んだ。ほかには経済や法律を学ぶ公共政策、小説や言語を学ぶ人間文化などがあるという。

2年生での挫折と仮面浪人

大学2年の4〜5月には、カッター(短艇)の競技会に向けた「カッター期間」がある。大前によれば、4年間でいちばん厳しい時期だ。厳しさそのものには耐えられたが、理不尽だと感じることが重なり、プライベートの問題も絡んだ。本人は詳しく語るのは難しいとしながら、暴力もあったことに触れ、かなり追い詰められたと話す。それまでは自分の中で納得をつけてPDCAを回していたが、このとき初めて自衛隊と正面から向き合い、アンチテーゼのような思いを抱いた。そして外の選択肢を探し始めた。

選んだのは東大の再受験だった。その年はたまたま東大の二次試験が土日に重なり、防衛大の学生でも受験できた。大前によれば7年に1回ぐらいの巡り合わせだという。5月に受験を思い立ち、模試を受け、親を説得し、実際の勉強期間は8〜9カ月ほどだった。結果は20点ほど足りず不合格だった。現役のときは受かったと思って落ち、今回は落ちたと思って落ちたと大前は笑う。予備校には通えず、足りなかったものは足りなかった、もっと気合があればよかったかもしれない、と振り返っている。

一方で、防衛大での受験勉強には利点もあったという。仮面浪人や浪人は生活が不規則になりがちで、自分を律するのが難しい。防衛大は朝6時起床など生活を勝手に管理してくれる。

聞き手が、なぜその後の2年間を乗り切れたのかと尋ねると、大前は目標があったからだと答えた。いちばん追い詰められたときは東大が救いであり逃げ道だった。それが終わった3、4年生では、卒業することが目標になった。

少林寺拳法で全国5位

防衛大では部活動で少林寺拳法を始めた。全国大会には1、3、4年生で出場し(2年生は怪我などで出られなかった)、いずれも入賞している。最高順位は5位だ。

大前が取り組んだのは、型の美しさを競う演武のほうだった。少林寺拳法は空手に似ているが、打撃だけでなく投げ技、関節技、寝技もある。相手を倒すことよりも、自分の身を守る護身術に近いものだと本人は説明している。

自衛官にならず大学院へ

防衛大を卒業すると学位が得られるため、大学院に進むことができる。大前は3年生のころから、卒業後は大学院に行きたいと考えていた。当初は東大の大学院も頭にあったが、当時は親の会社を継ぎたいという思いがあった。家業は大阪の倉庫業や鉄工業といった肉体労働中心の会社で、自分は経済も経営も学んでこなかったため、経営を学べるMBAを選んだ。

防衛大の卒業生は通常そのまま自衛隊の幹部になるが、ならない選択肢もある。大前によれば、初代学校長が全員に自衛官になることを義務づけるルールにせず、ならない場合でも学位は授与されるという。ただし在学中に大学院の試験は受けられないため、卒業後に「大学院浪人」の1年を置くことになった。在学中にはFP、簿記を取り、TOEICも受けている。点数は800点ちょっとで、東大受験直後ならもっと高かったと思うが、今の生活では英語の重要性がそれほど高くないため、たいしたことはないと本人は話す。

進学先は関西学院大学の大学院だった。家から通えること、東京で下宿するのは避けたかったこと、特定の教授に教わりたいという理由もなかったことが決め手だった。

家業の現場、公認会計士、そして転機

2年間の大学院を終えると、すぐ会社を継いだわけではなく、見習いや新人として家業に入り、さまざまな現場に出た。同時に、MBA修了者は科目免除が受けられることもあって公認会計士の勉強も並行し、税理士法人でも働いた。短答式試験には合格し、論文式では免除も含めて3科目ほどを取ったが、4科目を残して受験をやめている。合格の有効期限はまだ残っているという。

大前は当時の状況を「宙ぶらりん」だったと言う。会計士を目指すのか、親の会社を継ぐのか、起業するのか、会社員になるのか。28〜29歳ごろの冬にその決断の時期が来て、会計士をやめて家業を継ぐことにした。

ところが家業に入ると、親から「まだ継がせる気はない」と言われた。親はまだ55歳ほどで元気なので、今すぐ継がなくていい。仕事は教えるし準備もするが、それまでの間に自分の好きなことや得意なことを全力でやってこい、と背中を押されたという。その準備期間に大前が取り組んだのが、会社の設立だった。

株式会社同人と「GreenHorn」

大前が立ち上げた株式会社同人は、イラストや漫画、同人誌を描ける人と、制作を依頼したい人をつなぐプラットフォーム「GreenHorn」を運営している。『令和の虎』に出演して出資を募った時点ではまだ完成しておらず、その資金を求めての出演だった。サービスは今年4月に運営を始めたばかりである。

番組では同人誌の説明もあった。同人誌は、コミケのような企業があまり関わらない同人誌即売会で個人が売るものだ。漫画家ももともと同人作家だったケースがあり、即売会に来ていた出版社の人に声をかけられて契約し、商業の漫画家になることもある。

大前によれば、漫画の制作依頼はややこしい。連絡などのコミュニケーションコストがかかり、期待の擦り合わせが難しい。頼んだものと違うものが上がってくると、修正を頼むべきか、お金はどうなるのかと不安になる。修正依頼が長文になって恐縮することも多く、もごも「あるある」だと応じている。こうした部分を補助する漫画専用のプラットフォームとして作ったのがGreenHornで、大前はこれまでそうしたサービスはなかったと話す。

当面の目標は、走り出したばかりのサービスを多くの人に使ってもらうことだ。長期的には、漫画や同人誌という日本固有の文化を世界に発信したいという。描き手は日本人を想定しているが、依頼者には海外の人が非常に多いと大前は言う。たとえば『NARUTO』が流行っていれば、自分だけのナルトのストーリーを描いてくれる人を探したい、という需要がある。言語やプラットフォームの壁をフォローできれば世界に発信できると考えている。価格については、間に漫画制作会社を挟まないので、依頼者の支払いは安く、クリエイターの取り分は多くなるという。依頼料は安く、受け取る金額は高い、というのが大前の説明である。

絵本とドラえもんへの回帰

最後に大前は、経歴は特殊で色々あった人生だが、最終的には自分が一番やりたかったこと、つまりドラえもんや絵本の時代に戻ってきたのだと語った。この事業で世界を変えたいと思っているのは本当だとして、漫画や同人誌の制作を依頼したい人、あるいはクリエイターとして登録してみたい人に利用を呼びかけて話を締めくくった。