ウォーフはなぜ批判されたのか ホピ語の時間論への反論と、それでも読む意味
ゆる言語学ラジオ「サピア=ウォーフの仮説」に名を残す言語学者ベンジャミン・リー・ウォーフは、一般向けに書いた論考で大きな注目を集めたが、同時に激しい批判も受けた。ゆる言語学ラジオのウォーフ特集2回目となるこの回で、水野太貴は堀元見に向けて、ウォーフのホピ語論に寄せられた批判を順に紹介する。そのうえで、それでもウォーフの主張は無価値ではなく、今こそ読まれるべきだという自分の考えを述べている。
前回のおさらい:ホピ語話者は時間を別の仕方で捉えている、という主張
ウォーフは、自身が研究したホピ語の話者は、英語話者とはまったく異なる時間認識を持っていると主張した。根拠はホピ語の時間の表し方が英語と大きく違うことにある。ウォーフによれば、ホピ語は世界を「現れたもの」と「現れつつあるもの」、言い換えれば客観的な世界と主観的な世界に分けて捉えている。堀元はこれを「すごい世界観」と受け止めつつ、説得力もあると認めていた。今回はこの主張に向けられた批判から話が始まる。
文法化で考えれば不思議ではない:be going to と「た」
最初の批判は、水野自身の読後の意見である。水野は、ウォーフが挙げた現象は「文法化」と捉えれば大して不思議ではないと考える。文法化とは、名詞や動詞のように具体的な意味を持っていた語が、抽象的な文法的役割を担うように変わっていくことだ。
水野が挙げた例は英語の be going to である。未来や予定を表すとき、実際にはどこにも行っていないのに go を使う。go はもともと具体的な移動を表す動詞だったが、未来という時制、つまり抽象的な文法範疇を表すようになった。
ウォーフは、ホピ語で過去を表すには原因を示す接辞が使われ、「食べた」を直訳すれば「それは食べられることが止む」のような言い方になる、と述べていた。水野の理解では、これがホピ語でいう「現れたもの」を表す表現にあたる。堀元は、「今食べている」のほうが主観的で、「食べ終えた」のほうが客観的事実として残る、というニュアンスかと解釈した。
水野はここで日本語の「た」を持ち出す。以前の「た」シリーズで、研究者の高田先生が歴史的な観点から説明したとおり、「た」は古文の完了の助動詞「たり」から来ており、「たり」はさらに「てあり」にさかのぼる。つまり「〜して存在する」という意味だった。もし「てあり」が「たり」になり始めた時代の日本語話者に、ウォーフが「彼らは過去を『〜して存在する』と表す。時間の捉え方が我々とまったく違う」と言ったとしても、当の話者は「別にそんなふうに認識していない」と思うだろう、と水野は言う。現代の日本語話者も「た」を「てあり」だと意識して使ってはいない。
同じことは英語にも言える。水野が今アメリカに行って「英語話者は未来を表すのに『食べることへ行きつつある』と言う。時間の捉え方がまったく異なる」と主張することもできてしまう。堀元も「アメリカ人は未来をすべて移動と捉えている」と言えてしまうと応じた。
英語の完了形も直訳すれば奇妙になる
水野によれば、テンス(時制)やアスペクト(「食べつつある」「食べ始める」のように動作の局面を表すもの)は、いきなり新しい表現として生まれるのではなく、元は別の意味だった語を転用する文法化によって生まれることが多い。
英語の完了形「have+過去分詞」の have は本来「持つ」という意味だ。I have finished my homework は、もともと I have my homework finished という SVOC の文で、「私は終えられた状態の宿題を持っている」から「宿題を終えた」へ変わった。これを「私は終えられた宿題を持っている」と訳せば、翻訳ができない人だと思われるだろう。ある言語のテンスやアスペクトを直訳すると奇妙に聞こえるのは当然のことだ、というのが水野の批判である。
水野はこれを、以前の色彩シリーズの1回目で話した「異文化を自国の文化になぞらえて理解したから妙なことになる」という話につなげる。堀元の言葉では「自分たちと違うところがあるから、こんなおかしさがあるに違いない、という当てはめ」である。
テンス・アスペクト・モダリティの分担の違い
台本を確認した高田先生からも、補足のコメントがあったという。テンス(時制)、アスペクト、モダリティ(「〜に違いない」「〜のはずだ」のように、話者の判断や認識を表す形式)はまとめて TMA 範疇と呼ばれる。「た」シリーズで重要だった指摘は、これらがきれいに切り分けられず、テンスの形式がアスペクトやモダリティを兼ねることがある、という点だった。日本語の「た」も、「やべ、今日は彼女の誕生日だった」のような発見の「た」ではモダリティを、「宿題がやっと終わった」の「た」では完了のアスペクトを表す。
言語には、テンスで多くをまかなうもの、アスペクトでまかなうもの、モダリティでまかなうものの3つのパターンがある。水野の理解では、ホピ語はテンスがあまり発達しない代わりに、アスペクトでやりくりしている。「現れつつある」「現れた」を完了や動作の始動のようなものと考えれば、アスペクトに近いと水野は見ている。テンス中心の言語の話者から見れば「時間の捉え方が違う」となるが、実際は文法として何を採用しているかが違うだけで、見えている景色はそれほど変わらない。言語学ではそういう議論があり、今回もそれにあたるだろう、と水野は述べた。
日本語の「バスが来た」
ウォーフの主要な邦訳『言語・思考・現実』の前書きで、訳者の池上嘉彦は、日本語でもホピ語に似た現象が起きていると書いている。バスがやって来た場面で、英語では Here comes the bus と現在形を使う。一方、日本語では「バスが来た」と言う。日本語では、今まさに来ているバスにも、過去に来たバスにも「来た」が使える。英語とずれており、部分的にはホピ語と同じことが起きているのではないか、という指摘である。
堀元は、日本語でバスが入ってくる瞬間に「バスが来る」とは言わないと確認した。水野は「来ている」のようにアスペクトを足せば言える、と補った。そのうえで堀元は、ウォーフが日本に来ていたら「この人たちは今来ているバスを『来た』と言う。現在を過去として捉える感性の持ち主だ」と言いかねない、と冗談を飛ばした。
「従って」で飛躍する論法:ドイッチャーの批判
より厳しい批判として、水野は色彩シリーズでも引いたガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』を紹介する。ドイッチャーによれば、ウォーフが得意としたのは、まず風変わりな文法的特徴を1つ提示し、「だから」「従って」という一語を挟んで、極めて風変わりな思考の仕方を導き出すという論法だった。
堀元はこれを一発ギャグのようだと言い、水野は「Aだと思ったらBでした、ちくしょー」というコウメ太夫のネタの型と同じだと例えた。ウォーフの場合は「Aである、従ってBである」で、形式はほぼ同じだというわけだ。堀元がこのたとえに抵抗して二人は言い合いになったが、すぐに「くだらないからやめよう」と収めている。
具体例として水野は、『言語・思考・現実』154ページの表を挙げた。英語の he is running(彼は走っている)と he ran(彼は走った)が、ホピ語ではどちらも同じ形になっている。ホピ語では確定した事実を同じ形式で表すため、走っているのも走ったのも、確定した事実として同じように書く、ということだと水野は理解している。表には he will run や he runs も並んでいるが、単純なルールで訳せる形にはなっておらず、接辞がついたりしてホピ語の不思議さを示す作りになっている。
問題はその後である。ウォーフは、ホピ語話者が物理学の方程式を立てても、その中に t、つまり時間は含まれないことになるが、それで果たして機能するだろうか、という趣旨のことを書いている。ウォーフはホピ語には時間という名詞すらないとも書いていた。堀元の言うとおり、それは文法がそうなっているだけで、ホピ語話者も時間は分かっているのではないか。風変わりな文法的特徴から「従って」を挟んで大きく飛躍した想像を語る点が批判された、と水野はまとめた。
ひろゆき『1%の努力』との類似
この話を聞いて、堀元は既視感の正体に気づいたという。ひろゆきの著書『1%の努力』である。その本には「努力にはあまり意味がない」と書かれており、根拠として挙げられていたのがジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』だった。同書は、ヨーロッパ人がアメリカ大陸の人々を征服できたのは、ユーラシア大陸が東西に長く発展が早かったからだと論じている。ひろゆきの本では、そこから「大陸の形で誰が勝つかが決まってしまうので、我々が努力しても意味がない」という結論が引き出されていた、と堀元は紹介した。
堀元は、あれは人類の何万年もの歴史の話で、個人の人生に当てはめるものではないと突っ込む。努力の無意味さを言いたいなら、マイケル・サンデル『実力も運のうち』のように、もっと適した本があるはずだ。それなのに『銃・病原菌・鉄』から主張を導くのはエキセントリックで、感動したという。水野も、同じ論法でバズったという点でウォーフとそっくりだと応じた。
調査の中身への疑問
批判は論法だけでなく調査そのものにも向けられた。ウォーフはホピ語を長期にわたって慎重に観察したと述べていたが、実際には、ニューヨークに住んでいたホピ族のインフォーマント1人との対話が調査のベースだったという。堀元は「サンプルが偏りすぎている」と指摘した。
ドイッチャーの本には、ウォーフは一度もアリゾナに行ったことがないと書かれている。一方、『言語・思考・現実』の編者解説には、アリゾナ州のホピ保留地にしばらく滞在する機会を得たとある。記述が割れているが、水野は編者解説を信じたいとしたうえで、現地に行ったことはあっても、インフォーマントは基本的にニューヨーク在住の人物に頼っていたようだと述べた。
さらに、ウォーフはホピ語には時間に相当する単語も文法形式も表現もないと言ったが、ホピ語を野外調査した言語学者マロトキは著書『Hopi Time』で、多くの時間表現、テンス、アスペクトを記述している。両者の調査には40年の開きがあり、その間に劇的に変わったと仮定すればどちらも正しいことになる。ただ水野は、文法の変化には長い時間がかかるので、40年で急にテンスやアスペクトが発達するとは考えにくいと言う。堀元は、ウォーフが話を盛っているのではないかと述べた。
別の研究者も、ホピ語には「1日」のような時間単位を表す語にも複数形があり、空間の表現が時間の表現に転用されることもあると指摘している。こちらもウォーフの調査から20年ほど空いており、その間に変わったのか、ウォーフが意図的に省いたのかは分からない、と解説には書かれていたという。
イヌイットの雪の語彙が「400以上」になるまで
水野は、スティーブン・ピンカーが紹介した批判にも触れた。イヌイットの言語には雪を表す語が400以上あるという俗説がある。ピンカーによれば、発端はサピアの師匠であるボアズが「イヌイットは互いに関連のない4つの語根で雪を表す」と述べたことだった。ウォーフがそれを7つに増やし、もっとあるかもしれないとほのめかした。ウォーフの論文があちこちで引用されるうちに、一時は400以上という話になったという。
堀元は、これはウォーフより後で数字を膨らませた人たちが悪いと言いつつ、ボアズの元の主張は地味すぎて、数字が大きくなるほどバズるのがおもしろいと反応した。
それでもウォーフを読むべき理由:西洋中心主義への反発
ここまで批判を並べたうえで、水野は、サピア=ウォーフの仮説やウォーフの主張がでたらめで無価値だったわけではない、というのが自分の意見だと述べ、現代的にどう受け止めるべきかを語った。
水野によれば、ウォーフの主張が注目を集めた背景には、当時広がっていた西洋中心の言語観・世界観があり、ウォーフはそれに猛烈に反発していた。ウォーフは著作の中で、印欧語をわざわざ「平均的ヨーロッパ標準語」と呼び、西洋中心主義に警鐘を鳴らしている。その価値観を相対化しようとしたからこそ、自説を「言語相対論」と呼んだのだろう、と水野は考える。西洋語が一番で先住民の言語が劣っているのではなく、それぞれに良さがあるという立場である。
堀元は、これまでの批判だけを聞くと、英語中心の視点から他言語を少しばかにしているようにも思えたが、動機は逆だったのかと驚いた。水野自身も『言語・思考・現実』を読むまでは分かっていなかったという。ウォーフは、英語などヨーロッパ系の言語は頂点でもなければ適者生存の結果でもなく、ただの偶然の産物だと書いている。また「科学と言語学」という論文では、言語学的な視点が科学にもたらす重要な貢献は、物を見る我々の視点を広げることだと述べている。水野は、ウォーフ自身が先住民の言語に触れることで、英語が一番優れているわけではないことを発見していったのだろうと見ている。師のサピアも同じ思想だったと思う、とも付け加えた。
その姿勢がよく表れた例として、水野は犬をめぐる一節を紹介した。ホピ語で犬を表す語は、愛玩用や飼育用の動物なら何でも指せる。「鷲」を付ければ愛玩用・飼育用の鷲という意味になる。これを「原始的な言語の気まぐれ」と思う人もいるかもしれない。そこでウォーフは英語の hand を持ち出す。his hand は体の一部だが、hour hand は時計の短針、hands は船の乗組員、a good hand at gardening は園芸の上手な人を指す。トランプの手札も hand で、gain the upper hand(優勢になる)に至っては、hand がもはや何も指していない。犬という語で鷲を指すのは変だと思うかもしれないが、英語もまったく変わらない、という論法である。
複数の動機が混ざった書き手としてのウォーフ
『言語・思考・現実』の解説によれば、ウォーフの文章には、純粋な学問的関心だけでなく、いくつもの欲望が表れているという。言語に感じた言葉にしがたい魅力をなんとか伝えたいという思い、西洋中心的な思想への反発、アメリカ先住民の言語に接して経験した驚きを称揚したい気持ち、そして言語学が有効な学問だと理解させたいという欲望である。そのため、読む人によってウォーフから読み取るものが違ってしまう。水野は、当時の西洋中心的な空気を知らずに読むとでたらめに見えるが、ウォーフの仕事は思想的な運動でもあったと読むべきだと主張した。
堀元はここにインフルエンサーの姿を重ねた。社会はこう変わるべきだ、ここに寄付すべきだと言いたいあまり、エキセントリックで強い主張をしてしまう人がいる。それに近いのではないかという見立てである。
悪い方向にバズった例:ヴァイスゲルバー
水野は、「言語が違えば見ている世界も違う」という主張はそもそもバズりやすい、と話を広げる。実際、ウォーフ以前にもバズった人物がいた。シリーズ1回目で触れたドイツの言語学者ヴァイスゲルバーである。ヴァイスゲルバーは、ある言語を使うことでその話者が認識する世界が形作られるという「言語的中間世界」の概念を唱えた。ところがこれが「母国語」という概念の強調につながり、本人の意図に反して国家主義的な思想と結びつけられた。その結果、ヴァイスゲルバーとその学説を継承する人々は、第二次世界大戦後に大学を追われたという。
水野は、この種の思想は悪い方向にバズることもあると強調する。たとえば「日本語話者にしか知覚できない世界がある」と言われれば、隣に住んでいるかもしれない非日本語話者とは分かり合えない、という言説に利用されかねない。サピア=ウォーフの仮説は、付き合い方に気をつけなければならない説だというのが水野の見方である。
1941年に日本語を「美しい」と書いたウォーフ
では、なぜウォーフはそうならなかったのか。水野によれば、ウォーフは当時非常に高い地位にあった印欧語を相対化する方向でこの考えを使った。すべての言語には他の言語では代えられない特徴があり、それを意識すれば人は謙虚になり、全人類への兄弟愛が導かれる、という趣旨のことをウォーフは書いている。
水野が特に驚いたのは、『言語・思考・現実』に収められた論文「言語と精神と現実」に、日本語論が含まれていることだという。ウォーフはそこで日本語の構造を「lovely」と形容し、日本語の美しいパターンの1つとして、1つの文に格の異なる2つの主語があってよいことを挙げている。いわゆる二重主語文、「象は鼻が長い」の構文である。
この論文が書かれたのは1941年、真珠湾攻撃の直前で、日米関係が最も冷え込んでいた時期だった。当時のアメリカの雰囲気に反して日本語の構造を美しいと書いたことに、水野は気骨を見ている。日本も戦時中、日本語が優れているという言説を生み出して植民地での日本語教育を正当化していた。そうした時代のただ中でこう書くには相当な勇気が必要だったはずだ、と水野は言う。人類の兄弟愛という地点を徹底していたからこそ、ウォーフはヴァイスゲルバーほど悪いバズり方をしなかった、というのが水野の解釈だ。堀元も、他の言語にも等しく素晴らしいところがあるという主張は帝国主義や植民地化の流れとは合わない、と同意した。水野はその意味で、ウォーフの思想は今またバズるべきであり、この本を今読む意味はあると述べた。
堀元は、主張の中身は分かるが論証が行き過ぎているという点で、やはりひろゆきの例と共通していると感想を述べた。努力しすぎなくていいという結論には共感するのに、その理由を大陸の形で説明されると違うと思ってしまう。ウォーフも同じで、結論はいいが論証がちょっと、という印象だという。水野は、当時知られていなかったアメリカ先住民の言語を紹介した点ではウォーフの方がプラスだとし、全部が対応するとまでは言えないものの、言わんとすることは分かると応じた。
方便だったのか、という問いと「水からの伝言」
終盤で水野は議論をまとめた。「食べた」を「食べられることが止む」と訳すようなことは英語でも日本語でもできてしまう。ホピ語に時間表現がないという調査内容が正しいかどうかにも疑義が呈されている。それでも、ウォーフはサピア=ウォーフの仮説を通じて、西洋語が一番だという西洋中心的な思想を相対化したかった。西洋中心の考えが強固だった時代には、風変わりな文法的特徴を示して一度驚かせ、その間に説得するという技術が必要だったのではないか。つまり、方便として大げさなことを言っていた可能性もある、と水野は読んだという。
これに対して堀元は、構造としては「水からの伝言」と同じではないかと指摘した。人に嫌なことを言うより褒めたほうがいいと普通に言っても伝わらないので、「悪口を聞かせた水を凍らせると汚い結晶に、よい言葉を聞かせると綺麗な結晶になる」と驚かせて話を聞いてもらう、という仕組みだ。これは科学への冒涜として批判されてきたものである。水野は、その理屈が通るなら水からの伝言も認めることになってしまう、とウォーフ擁護の論理が揺らいだことを認めた。いったん「水からの伝言はいい」と言いかけてすぐに撤回する一幕もあり、「方便としての誇張」をどこまで許容できるかという問いは、結論を出さないまま残された。
次回は、サピア=ウォーフの仮説を題材にしたSF映画『メッセージ』の感想回になると予告された。水野は、『言語・思考・現実』を読んだうえでなら、この映画をかなり批評できるのではないかと考えており、映画が本当は何を描きたかったのかという目で見てみたいと話している。
ゆる言語学ラジオ。サピア=ウォーフの仮説に名前を残すウォーフ。うん。彼の書いた一般向けの論は大いにバズったんですけど、炎上しました。ええ。
前回に続いてウォーフについて語る2回目なんですけれども、ちょっとだけおさらいしましょうか。ウォーフがどんなこと言ってたかって言うと、彼が研究してたホピ語話者のホピは我々とは時間の認識が全く異なるんだと言っていたんですね。なんでそんな主張したかと言うと、ホピ語の時間の表し方が英語と全く異なるんだ。うん。うん。具体的にはホピのカテゴリーってのは世界を現れたものと現れつつあるもの、つまり主観的な世界と客観的な世界で認識しているのだと主張してました。すごい世界観だよな。
ね。だからすごく説得力あるわけです。ただいろんな批判が来ました。まずですね、水野太貴さんからの意見なんですけれども。はい。僕が読んで思ったこと、これ文法化だと捉えたら大して不思議じゃなくないかっていうのが僕の意見です。文法化ってなんすか?はい。これはすごく具体的な意味を指してた、例えば名詞とか動詞が抽象的な文法的な役割を持つように変わることを文法化と。うん。例欲しいな。
はい。be going toってどこ行くんすか?ああ、予定だみたいなね、時に言うよね。はい。あれどこ行くんすか?確かにどこにも行ってないな。行ってないですよね。goって言ってるけどね。はい。goは具体的な移動を表す動詞だったわけですけど、それが未来を表す時制、つまり抽象的な文法範疇に変わったわけですよね。
で、ウォーフはホピ語に関して過去を表す時どうやって表すかと言うと、原因を表す接尾辞によって表されるんだと言っていて、直訳するとしたら「食べた」っていうために「それは食べられることが止む」、つまりやめるってことですね、ていうような言い方をしなきゃいけないのだみたいなことを言っているんですね。なるほど。だからそれがさっきの現れつつあるものから現れたものへの論拠になってるってこと?はい。だと思います。ん、食べることを止むは何なの?現れたの?これがそうです。多分ホピ語の世界でいうところの現れたものを表現する際に使う表現だということだと思います。ああ、まあまあ、だから今食べてるよの方がどっちかっていうと主観的っぽくて、食べることを終えたみたいなのが客観的事実として残ったみたいなニュアンスなんですかね。そうだと思います。
恐らくで、僕これについて思うのは、確かに「それは食べられることが止む」っていう言い方はかなり奇妙に感じますけど、え、じゃあ日本語なんてって考えてみて欲しいんですね。さあ、ここでおさらいですよ。来ました。「た」です。日本語の。ああ、だいぶ前にやったな、「た」のシリーズ。はい。で、特に「た」シリーズの中でですね、「た」の研究者である高田祥司先生が来て「た」の歴史的な観点で説明をしてくれた回があったんですね。ちょっとおさらいすると、「た」って元々どっから来たんでしたっけ?なんだっけな?古文のそれなんだって思ったんだよね。そうそう。なんかあの、完了表すやつですね。「たり」。はい。から来たんだっけ?「たり」の「た」の部分ですね。ああ、そうだった気する。あの回あんまり数字回ってないから外部メディアとかの取材で言われることなくて見返さないからうろ覚えだったけど、危なかったです。あの回面白いんだけど。面白いけどあんまり回ってないよね。そうね。もったいない。そうだからメディアの取材とかでもあの回について聞かれたことが1回もないから復習しないに至りました。
復習してください、ぜひ。あの回面白いから。で、「たり」ってどっから来たんだっけ?ああ、なんだっけ?それもやったな。あれって分割できるんだっけ?うん。うん。なんとかね、「たり」の「り」の部分はそのまま残ってますかね?「てあり」みたいな感じです。あ、「てあり」。はい。はいはいはい。あったわ。「てあり」から「たり」になり、それが現代語の「た」になったって高田先生説明されてましたね。で、「てあり」ってどういう意味だったっけ?なるほど。だから何々してありみたいなことでしょ?そう。つまり何々して存在するって言ってますよね。うん。うん。もしさ、日本語の「てあり」が「たり」になり始めたタイミングとかにウォーフが「過去を表す時の表現は何々して存在するという、我々とは時間が全く異なるのだ」って言ったら、多分当時の話者っていや別に「たり」俺そんな風に認識してないですけどってなりません?あ、そうだね。だって俺らが今何々したって使ってる時もそう、「てあり」だと思って使ってないから、それを過去を表すのにこいつら存在の言葉使ってるって言われても全くピンとこないの。
せやなってだけですよね。だからあと意識してないしなっていう。僕がだから今からアメリカに行って、英語話者というのは未来表す時に「食べることを行きつつある」という、これは我々の時間とは全く異なるのだって主張したらどうでしょう?確かにアメリカ人は未来を全て移動と捉えているのだっていうめちゃくちゃ言えるもんね。っていうみたいなこと言えちゃうわけじゃないですか。
で、ポイントは時間の表現とか、言っていいですか、こうやってアスペクト。ああ、動作の局面を指す。食べるに対して食べつつあるとか。進行形みたいなのがアスペクト。そう、食べ始めるとかもそうですね。進行形もアスペクトですけど、そういうテンス、時制とかアスペクトとかっていうものって、いきなりそういう表現が生まれるんじゃなくて、文法化して生まれていることが多い。だから元々別の意味だった言葉を転用して動作の様相を表すのに使う。はい。例えば英語だってアスペクトを指す完了ってどうやって言うんでしたっけ?うん。have+過去分詞ですか?haveはね。ああ、持つとかね。持つでしたよね。確かに。例えばだからI have finished my homeworkみたいなのって、元々はI have my homework finishedだったわけですね。うん。SVOC。はい。はい。つまり私は終えられた状態の宿題を持っているから、宿題を終えたっていう風に変わったわけですね。ですからテンスとかアスペクトを直訳したら奇妙になるのって当たり前のことなんですよ。そうだね。英語でそれやってたらこいつ翻訳できないなって思われるもんね。うん。私は終えられた宿題を持っている。持っているとか言わないもんね。言わないですよね。だからある言語のテンスとかアスペクトみたいなのを直訳しちゃうとすごい変に聞こえるのって仕方がないことなんです。なるほど。
っていう批判が水野太貴さんから寄せられた。あの水野さんですね。お前。いや違う違う。学術界で寄せられた批判を教えてくれよ。あ、そうですか。お前の視点の説ってなんか。そっち知りたいですか?でもそれも説得力あるよね。水野さんからだって言われなければバレなかったかも。言語学者からの指摘ですって言われたら確かにってなってたわ。あ、僕だからどうだったんですか?聞く価値がないなって。そいつの意見どうでもいいからなって。隠し合ってるやつの話なんて1個も聞く価値ないな。ウォーフもねえよ、じゃあ。本当だ。俺もねえわっていうか。お前もねえよ。そうだよ。
要は今の話ってちょっと前のね、色シリーズの1回目で話した、異文化を自国文化になぞらえて理解したから妙なことになったっていう話と繋がってるわけです。そうだね。俺たちとここ違うなってことは、こんなおかしさがあるに違いないっていう当てはめだよね。
はい。あとこれはですね、あの高田先生から台本をチェックしてもらった時にもらったコメントなんですけど、テンス・アスペクト・モダリティとかって覚えてる?TMA範疇みたいなやつだよね。はい。はい。なんだっけ?頑張れ。うわ、なんだっけな?うわ、なんだっけな。頑張れ、堀元さん。ちょっと待って。モダリティ絶対習った。そう、ムードだよね。あ、そう。ムードとモダリティ一緒だと思ってもらっていいみたいね。はい。仮定法みたいなやつだ。うん。うん。うん。もしこうだとしたらみたいなの言うのがモダリティじゃなかったっけ?え、そうですね。話者が出来事に対しての判断とか認識を指す形式が、え、モダリティなので。推量的なものがモダリティか。「に違いない」とか「のはずだ」とかね。こういうのもモダリティに含めて。で、アスペクトはさっきやった。で、テンスってのは時制のことですね。で、これがなんか一緒くたにまとめてTMA範疇って言うんだみたいな話しましたね。
で、「た」の回で話したことの1個の大事な指摘ってのは、これがあんまり切り分けられないとか、あるいはそのテンスの形式がアスペクトやモダリティも兼ねるんだみたいな話をしたんですね。なるほど。まあこれちょっと覚えてる人あんまいないと思うんでおさらいすると、「た」って時制だけ表すわけじゃないんだっていうのが重要なあの時の話でした。あ、あれだ。やべ、今日は彼女の誕生日だったっていう時の「た」って過去じゃないじゃんっていう話ですよね。うん。そうですね。発見の「た」とか言われたりしますけれども。それは発見っていう感覚を表してる。そう。で、それからアスペクトの「た」ってのは、まあ宿題がやっと終わったの「た」。だからそれは完了ってことだね。そうですね。完了ですね。だから日本語の「た」ってアスペクトもモダリティも表しているんだと。
不思議だねっていう話をしたんですけど、言語によってテンスでめっちゃカバーする言語、アスペクトでめっちゃカバーする言語、モダリティによってめっちゃカバーする言語っていう3パターンがあって、ホピ語ってのはあんまりテンスでカバーしない。代わりにアスペクトですかね。これは現れつつあるとか現れたっていうのは完了とか動作の始動みたいなものと考えるならアスペクトっぽいと思うんですけど、要はホピ語は時制が発達しない代わりにアスペクトでめっちゃやりくりしている。なるほど。でそれを時制でめっちゃやりくりしてる言語の話者から見ると、なんて変わった言語なんだ、時間の捉え方が我々と違うってなったんですね。なるんだけど、別にそういうことじゃないよ。うん。っていう話が言語学の議論の中であるらしく、おそらく今回のケースもそうであろうと。なるほど。だから文法として何を採用してるかが違うだけであって、見えてる景色は別にそんなに変わらない。そう、というようなことが言えるっていうことですね。
で、あとウォーフの日本語訳された著作っていうと、この『言語・思考・現実』っていう、この本がメインになるんですけど、前書きでこの訳した池上嘉彦先生が書いてるのは、日本語でもホピに似た現象起きてるよと書いていて、「バスが来た」って英語では現在で表しますよね。Here comes the busみたいな言い方をしますよね。Here comes the busっていうの?あ、そうですね。これ、あの、ちょっとね、ややこしく倒置してるんですけど、僕はちょっとこういう例を見たことが実際にあるので、多分英語話者の方もHere comes the busって言うと思いますね。なるほど。まあだから現在形ってことですね。そうですね。おさらいするとバスが来た、なんか過去っぽい。でも英語はHere comes the busだから現在形。確かに面白いな。日本語でも言えるんじゃねと思ったけど変だね。バス入る時に「バスが来る」とは言わないもんな。うん。「来ている」なら行けますね。いけるね。うん。うん。アスペクト足せばいけるけど。で、The bus cameは日本語で「バスが来た」ですよね。うん。だから日本語だと現在でも過去でも「来た」と言えるわけですね。今バスが来てるのも過去にバスが来たってのも、どっちも「バスが来た」って言えるという意味では英語とちょっとずれていて。うん。これは部分的にホピと同じようなことが起きているんじゃないかと書いているんですね。ああ、なるほどね。うん。
まあそうだね。だから極端な話、ウォーフは日本に来てたら、おいおい、こいつら今バスが来るのに「バスが来た」って言ってるぞと。現在を過去として捉える感性の持ち主だみたいなこと言うかもしれない。極端の見方するとそういう風に言いかねない。彼らは過去を生きているのだとか言えそうだ。そう、老害を非難する時みたいな。あの、ウォーフは実は日本語についての記述も部分的にあるので、ちょっと最後に少し話しますね。
もうちょっとウォーフに対しての手厳しい批判。はい。はい。見ていきますと、色シリーズで何回か引いたこのガイ・ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』の中で紹介されている批判を取り上げますと、ウォーフが得意としたのは、え、まず風変わりな文法的な特徴を1個提示し、「だから」とか「従って」という一語を挟んで、極めて風変わりな思考の仕方を導くという論法なのだと言ってます。すごい一発ギャグみたいな。なんとこの言語にはこんな変わった言い方があるんです。変わるんです。だから何々なのですって、ほぼコウメ太夫みたいなことですよね。そのネタのフォーマットが決まっていて、何々だと思ったら何々でした、チクショー!みたいなことですよね。
違いますよ、水野さん。文法で違いがあってそっから繋げるんだから、絶対。いやいや抽象化するとそうじゃん。どこを抽象化しちゃったんだよお前。その抽象化の位置が変だよ、それ。そう。Aだと思ったらBでした、チクショーでしょ。で、ウォーフの場合はAである、従ってBであるですよ。だからほぼ一緒じゃん。そう。AとBのとこに好きなものを当て。こういう争うのやめよう。それくだらないから。確かにくだらなすぎるな、この議論。この舞台で争うのやめてください。そう、そう、そう。でも、まあそういう芸人であると。ウォーフはそういうこといっぱい言っちゃう芸人。芸人でしょ、それ。まあまあ、むちゃくちゃなこと言う芸人ですね。
はい。具体的にはですね、ウォーフの先ほどのこの『言語・思考・現実』の154ページにこんな表があるんですね。これあのホピ語の言い方と英語の言い方を並べているような表なんですけど、例えば英語で彼は走ってる、He is runningっていうのと、過去形のHe ranっていう彼は走ったっていうのが、ホピ語だとどっちもなんかワリーみたいな。ワリーみたいな書いてあるわ。言い方になってますよね。なんでかっていうと、ホピ語は確定してる事実については同じ形式なので、走っているのも走ったのも同じ確定した事実であるから同じように書くってことだと思うんですけど。説得力あるけどね。はい。まあその他にもHe will runだったらどうなのかとか、He runsっていう現在形だったらどうなるのかみたいなのを並べていってるんですけど、簡単なルールで翻訳できるような形になってなくて、あれこれなんか接辞がついたり頭に語がついたりして、ホピ語って不思議だよねっていうことを示しているんですけど、ということはこれでかなり違うことは分かったと。
その後に「彼らの物理学の方程式の中にT、つまり時間を含まないわけであるが、果たして機能するだろうか」みたいなこと書いてんですよね。うん。どういうことですか?つまりホピは英語話者と時間の認識観が全然違うと。てかなんならその「時間」という名詞もないんだみたいなこと書いてたわけで。うん。時間のこと考えてないよと。はい。だから彼らは物理学の理論を立てていっても方程式の中にTが存在しない。あ、そういう体系で生きてることになるぞと。みたいなことを書いてるわけですね。うん。すごい飛躍。そうだね。てかまあだからさっきの話だよね。それそういう文法なだけであって、見てる世界的には別に時間分かってんじゃないのってことよね。うん。はい。そうですね。っていうところとかがまず批判された。なるほど。風変わりな文法的な特徴から「従って」を挟んですごい飛躍したイマジネーションを語るっていうのが批判されたわけです。
うん。なんか今ずっと既視感あるなと思いながらその話聞いてたんだけど、分かったわ。ひろゆきさんだ。ほう。ひろゆきさんの本『1%の努力』で俺そっくりなもの見たことあって。ほうほう。努力ってあんま意味ないんですよって書いてあったんですよ。うん。で、その論拠にあげられてた本が『銃・病原菌・鉄』で。うん。うん。そんな本だっけ?あれと思って、どういう理屈と思ったら、結局そのヨーロッパ人がアメリカの人たちを征服したと。で、ヨーロッパの方が発展が早かったと。その理由は大陸が東西に長かったからだとあの本には書いてありましたと。はい。つまり大陸の長さによって誰が勝つかっていうのは決まっちゃうから、我々が努力しても意味ないんですよって。それすごいな。
そういう話じゃないっすよ、あれ。そう、個人の人生に当てはめちゃだめですよ。その人類の何万年の……。僕の能力って地形で決まったんですよ、実は。そんなわけないだろ。そう、親関係なくて、僕その東西と南北に細長い列島のおかげで今僕こうなってんですよ。違うよ。日本列島のおかげで形成されてないよ。だからそのひろゆきさんと僕って育った地形ほぼ一緒だから、ほぼ同じような人じゃないですか?そういうことなんすよ。あ、違いますよ。その理屈だと日本人ほぼ同じような人になっちゃいますよ。えって話じゃないの?違います。違います。そっくりじゃん。そのみんなリスナー間違えてるな。違う違う。違いや。だから僕それびっくりしちゃってさ、もっとそういう本あるじゃん。その努力って無駄なんだよとか。それこそマイケル・サンデルとかさ、その『実力も運のうち』とか、なんか多分どっちかというとそういう話なはずなのに、『銃・病原菌・鉄』から主張するのエキセントリックだなと思って感動したんですよね。興奮ですよね。だからひろゆきとほぼ同じですよね。ウォーフは同じような地形でそうだったんでしょうね。そしてバズってますから。お、一緒だ。そっくりですね。誰かから怒られそうだな。誰かわかんないけど。そうすね。ご覧になってるジャレド・ダイアモンドさん、是非訴訟の方お願いします。ダイヤモンドから訴訟来たら熱いぜ。燃えるぜ、それは。うん。思えばね、『1%の努力』を出したのもダイヤモンド社ですからね。やっぱダイヤモンド同士で戦っていただいて。そう。ダイヤモンド社とジャレド・ダイアモンドが訴訟で戦ったら面白いですね。ダイヤモンド戦争みたいな名前でね、後世で呼ばれるでしょうね、きっと。
それからですね、まだ批判ありまして、え、ウォーフはホピ語を長期にわたって慎重に観察したって言うけれども、実際そのニューヨークに住んでたホピのインフォーマントただ1人のみとの対話が調査のベースになっていた。サンプルが偏りすぎてるな。うん。ですね。ちょっとこのドイッチャーの本にはアリゾナに行ったことは1度もないって書かれてたんですけど、一方でこのウォーフの『言語・思考・現実』の編者解説には、ウォーフはアリゾナ州のホピ保護地域でしばらく滞在する機会を持ったって書いてあるんで。割れてるね。ちょっと割れてて、まあ僕はちょっと一応このウォーフの編者解説信じたいと思うんですけど、まあだからホピが住んでる現地に行ったことはあるっぽいけれども、やっぱそのインフォーマントは基本的にそのニューヨークに住んでた人に頼っていたみたいですね。結局あんまり聞き取りはちゃんとできてないってことですね。
そうですね。え、それから、まあウォーフはその長期にわたって慎重に調査した結果、時間と呼ぶものに相当する単語とか文法形式とか表現がないって言ってるんですけど、ホピ語の野外調査をしたマロトキっていう言語学者が書いた『Hopi Time』では、え、数多くの時間表現及び時制とアスペクトを記述しているんですね。え、あるの。でここがちょっとだから争点なんですけど、マロトキの調査とウォーフの間に40年空いてるんで、40年で劇的に変わったっていう仮定を立てれば、どちらも合ってたっていうことになりますけど。なるほど。あ、で40年でそんな生まれるかね。何その顔。いやちょっとわかんない、そんな。うん。わかんないって言ってくれよ、じゃあ。文法ってすごい時間かかってじっくり進むことなので、すぐに一気にテンスとかアスペクトってのが急激に発達するとは、まあ考え……。そうだよね。40年でそうそう発展しないと思うからな。ウォーフがパチこいてる気がするけどな。パチ。パチこいてる。嘘つきが。なんて方言みたいな、パチこく。パチこいてるよ。
あともう1人の研究者によると、ホピ語には例えば1日のような時間単位を表す語にも複数形があるし、え、空間についての表現が時間についての表現に転用されることもあるって指摘。だから結構普通に時間表現がいっぱいあるよと。はい。で、一応これもウォーフと20年ぐらい空いてるんですけど、まあこの20年の間に変わったのか、それともウォーフが意図的にこの点を省いたのかはよくわからないってのは解説に書かれていましたね。なるほど。結構みんなからボロカス言われてますね、ウォーフ。そうですね。1番必要だったのは建物の火を消すことじゃなく、自身の炎上を消すことだったのかもしれません。お後がよろしいようで。
ということで、こっから1人で僕やっていきたいと思うんですけど。今の一瞬でクビになったの俺。そう、もうちょい時間かけてクビにしてほしいな。水野さん引退されるということで。惜しんでるならやめさせないでくれ。表されてました。ま、使ってください。あ、そっか。ウォーフがね、火災保険の技師だからってこと。そう、そういう。あ、ちょっと前回の、話してない内容を照応されると、ちょっとやっぱり引退宣言に感じてしまう。火災防ぐ役割じゃなかったっけ?あ、そうですよ。火災保険の仕事をしていて、保険の仕事ですけど、調査に出かけてって、その火災を防ぐための点検とかもしてます。うわあ、中途半端だな。そうすね。もっとなんか消防の技師とかだったらね、分かりやすかったんですけどね。そうすね。もう是非ファンの方は復帰待ってると思うんで、復帰したくなったらいつでも。下ろすのやめてほしいな。
あとはね、ちょっと前にゆる言語学ラジオのビ説ナイト回であげましたけれども、まあピンカー、スティーブン・ピンカーが紹介してる批判とかでは、そのイヌイットがね、雪を表す語が400以上あるっていうけれども、まずこれはボアズ、そのサピアの師匠が、え、イヌイットは互いに関連のない語根を使って雪を表すと言ったと。そしたらウォーフが語根を7つの数に増やしたと。うん。で、しかももっとあるかもしれないとほのめかしたと。で、ウォーフの論文があちこちで引用された結果、一時期は400以上あるっていう風になったっていうことを紹介してますね。インフレさせてったやつが悪いな、これはね。だからウォーフというよりはその後のやつがやばいね。引用が雑だったってのも良くないと思いますけど、まあこんな批判もありますね。
うん。でもボアズの主張地味すぎない?え、もう1回言いますね。はい。イヌイットは互いに関連のない語根を使って雪を表すと言いました。地味すぎるね。すごいね。バズらん。これバズらんす。はあ。語根ってなりますね。ウォーフは語根の数を7と言って、もっとあることもほのめかしました。うん。うん。で、もっとあるかもね。まだバズんないね。400以上。バズる。やっぱでかい数字って面白いな。すごいね。400あるって言われたらね。言われたら嘘だってなってね、広げるんで、嘘だって言って広めた結果、嘘だった。はい。嘘らしいですよ。何の意味もない時間も使わされたな。
ということで、サピア=ウォーフの仮説及びウォーフの主張ってでたらめでね、無価値だったかと言うとそうではないというのが僕の意見です。おお、散々批判見てきましたけど意味はあったんですか?はい。最後にこのウォーフの思想の現代的な理解。うん。今ウォーフが言ったことをどのように受け止めた方がいいのかっていうのを、僕なりの考えを喋って終わりたいと思います。
まずサピア=ウォーフの仮説が注目を集めた理由は、当時西洋中心の言語観とか世界観ってのがすごい広がっていたんですね。で、それに対してウォーフはアメリカの人ですけど猛烈に反発している。ああ、そうなんだ。ですよね。ウォーフはね、本の中でも平均的ヨーロッパ標準語っていう言い方を、まあいわゆるだから印欧語ってことですよね、のことをわざわざその平均的ヨーロッパ標準語みたいな言い方をして、西洋中心主義にめっちゃ警鐘を鳴らしているんです。うん。アメリカとかヨーロッパ中心で見るの良くないよと。そう。で、その価値観を相対化しようとしてる。だからウォーフは自分の説を言語相対論と呼んだんだと思うんですよね。はあはあはあ。言語って西洋語が1番で先住民の言葉が劣ってるんじゃなくて、それぞれにそれぞれの良さがあるっていう相対主義的な立場を取ってるわけですね。うん。
なんか今までのウォーフへの批判を見ると、ちょっと英語中心でもの見てて、あ、違うものの見方してらって言ってちょっと馬鹿にしてんのかなと思ったけど、モチベーション逆なんだ。あ、そうですね。それはね、僕もあんまり分かってなくて、『言語・思考・現実』を読んで思ったんですけど、例えばウォーフってのは、印欧語族、英語とかまあヨーロッパ系の言語とかは頂点でもなければ適者生存の結果というわけでもなく、これはただの偶然の産物なのだとか言ってるんですよね。あ、なんかそれはいい感じの姿勢な気がする。はい。それからウォーフはすごいね、収録されてる論文のタイトルが科学っていうワードすごい使っていて、この「科学と言語学」っていうような論文なんですけど、言語学的な視点が科学に対してなす1つ重要な貢献は、物を見る我々の視点がより広く拡大されることなのだとか言ってるんですね。それつまり先住民の言語を知って、あ、なんだ英語が1番優れた言語というわけではなくて、それぞれにそれぞれの魅力的な点があるんだってことをウォーフ自身も多分発見していってると思うんですね。
で、それはその師匠のサピアとかも同様の思想だったと思うので、だから例えばこの本の中に出てくる1節、もう1個紹介すると、ホピ語で犬を表す単語があるんだけど、これは愛玩用の動物とか飼育用の動物なら何でも指せると。ええ、犬って言えるんだ、猫でも。そう。だから愛玩用の鷲って言いたければ「鷲犬」って言い方をすれば、愛玩用のっていう意味になるよっていうことを書いてあるってことですね。はあ。でこれに対して、もしかしたらこれは原始的言語の気まぐれではと思うかもしれないと。じゃあ英語見てみましょうかと。handありますよね。うん。例えばhis hand、彼の手、handといえば人体のある部分を指してますけど、hour handって言うとこれ時計のね。へえ。ああ、そう。hourってあの時間、1時とか2時とかの時間の単位、hand、なのねを指すし、hands on deckは甲板上の乗組員。うん。つまりこのhandsで人を指すと。でそれからa good hand at gardeningといえば仕事の上手な人になるわけだし。そうか。だから時計の針も乗組員も上手さもhandで表してるんだ。はい。それから例えばトランプの手札とかもhandっていうし、それからHe got the upper handって言うと彼は優勢になった。優勢ってのはあの情勢がより有利になったってことですけど、これなんかもうhandで何も指していないと。なるほど。だからお前犬使って鷲指すなんてとか思うけれども、英語なんかもっとひどいというか。なるほど。全然ホピ語と変わんないじゃんと。
なるほどね。じゃあウォーフのやりたかったこと分かってきたぞ。みんな違う見方をしてるんだけど、それはそれで素晴らしいんだっていうことを言いたすぎて、違う見方を盛っていっぱい喋っちゃう。うん。そういうことですかね。そうですね。僕がその盛って喋っちゃうってまで言っていいかわからないけれども、そういう理解をしていいと思います。うん。うん。この本の中にも、ウォーフは純粋に学問的な関心ばかりじゃなくて、自分が感じ取った言語のなんかある種の言葉にできないような魅力っていうのをなんとか伝えたいっていうのと、西洋中心的な思想に対する反発で、それから非西洋的なもの、つまりアメリカに住んでる先住民の方の言語と接して経験した驚き、それを称揚したいという気持ち、それから言語学は有効な学問であるってことを理解させたいっていう欲望が様々な形で絡んでいるんですね。で、そのためウォーフを読む人はウォーフから読み取ることが様々になってしまうっていう。つまりウォーフの主張って当時の西洋中心的な空気っていうのを理解せずに読むとでたらめになるんだけれども、彼がやりたかったことってのはもっとなんか思想的な運動でもあったんだっていう風に読まなければならないと思うんですね。
なんかそれ聞くとやっぱりね、インフルエンサーの姿が重なるなと思って、ウォーフに。うん。なんか伝えたいことがあるわけじゃない。うん。社会はもっと変わるべきだとか、ここに寄付すべきだとか言いたすぎて、エキセントリックな強い主張しちゃう人とか結構いると思うのよ。なんかだからそれだなって思いました。
だからよりインターネットに紐付けて言うと、ウォーフ以前にバズった人なんでいないんだろうっていう問いも生まれません?その同じ主張で。結構その、言葉が違えば見てる世界も違うんだっていう主張って、そもそも結構バズりやすいポテンシャルあるじゃないですか。うん。面白いもんね。あの、バズった人います。あ、他にもいるんだ。はい。それがね、1回目で話したヴァイスゲルバーっていうドイツの言語学者なんですけど、彼も集団によって規定された言語的中間世界みたいな概念を挙げてるんですけど、ある言語を使うとその言語話者が認識する世界みたいなのがあるんだっていう概念。日本には日本語話者の世界が見えてると。そう。で、これそのまま母国語っていう概念を強調してしまって。へえ。ナショナリズムになったっていう。へえ。で、そのせいでですね、ヴァイスゲルバーが意図してなかったのに国家主義的な思想と結びつけられて、その結果ヴァイスゲルバー及びその学説を継承する人たちはですね、第2次世界大戦後、大学からめっちゃ追われました。うわあ。だ、お前のせいでナチスが台頭したじゃないかみたいな感じになったってこと。はい。つまりこの思想って悪い方向でバズることもあるんですよ。うわあ。うわ。でもなんかありそう。あり。ナショナリストにめっちゃ利用されそう。例えば日本語話者にしか知覚できない世界があるのだと言われたら、あなたの横に住んでるかもしれない日本語話者でない者とは分かり合えないみたいな言説に利用されるリスクがあるんです、これは。ほんとだ。だからサピア=ウォーフの仮説って付き合い方を気をつけなきゃいけないんです。危険度SSかもしれん。そう。だからこの説って下手な使い方をすると悪いバズり方をするんだね。
で、なんでじゃあウォーフはそうならなかったかというと、まずウォーフは当時印欧語が非常に高い地位にあったっていうことに対してそれを相対化した。うん。うん。全ての言語にはそれなりの、他の言語でもって代えることのできない特徴があり、そしてこの点を意識すると人は謙虚な態度を持ち、そして全ての人間に対する兄弟愛が導かれるのだみたいなこと書いてるんですよね。うん。なるほど。多様性の文脈でそれを強調したってことですね。はい。はあ。でびっくりするのは、ウォーフの「言語と精神と現実」っていう論文、『言語・思考・現実』に収められているところの中に、日本語論を挙げているところがあるんですね。ほう。今堀元さんの手元に出したんですけれども、日本語のことを美しいって表してくれているんですよね。ラブリーとか言ってくれてるんですよ、日本語の構造のことを。はいはい。「日本語の美しいパターンの1つとして、文には資格を異にする2つの主語があっても良いということがある」。資格ってのはあれですよね。主格の格、格助詞の格ですよね。そうそう。はいはい。そうそう。これあのあれですね。いわゆる二重主語文っていう、象は鼻が長い。あ、はい。はい。あれですね。あれのことを美しいパターンって書いてますよね。
この論文書かれたのって1941年、つまり真珠湾攻撃のすぐ前の、日米関係が冷え込んでた時期に。最悪の時じゃん。で、当時のアメリカの雰囲気に反して日本語の構造。なるほど。だって言っているんですよね。それは気骨があります。これ気骨ありますよ。すごい、やるじゃん。でしょ。こういう風にウォーフは兄弟、人類みたいな視点を徹底してたからこそ悪いバズり方はしなかった。ヴァイスゲルバーほど悪いバズり方はしなかったと言えるんですね。なるほど。まあ他の言語にも等しく素晴らしいところがありますよっていうのって、帝国主義の流れには合わないもんね。そうですね。侵略して植民地にしてやろうって話にはならないもんな、そしたら。まあ実際日本だって戦争中、日本語は非常に素晴らしいっていう言説を生み出すことで植民地での日本語教育を正当化するっていうことがありましたから、これはとりわけ1941年みたいなど真ん中、戦争のタイミングで言うのには相当な勇気が必要だと思いますよ。なるほどね。確かにそう聞くとかなり先進的というか、素晴らしい論な感じしますね。そう。まあその意味では当時バズったし、今またバズるべき思想でもあると僕はちょっと思いますね。この本が今読まれる意味はあると思う。そうだね。
あとやっぱりひろゆきさんでさ、主張の内容は分かるんだけど、ちょっと論旨行きすぎてないっていう感じがやっぱウォーフに共通してるなというか、さっきのその努力ってあんまりやっても無駄だから頑張りすぎなくていいっすよって教え、俺も割とそうなのよ。うん。そんななんか不遇な状態にある時に、俺が努力が足りなかったせいだとか思わなくていいんじゃないっていうのは分かるのに、それを大陸が東西に長かったからなんて説明したら、それじゃないけどなっていう。でウォーフも一緒ですよね。結論はいいんだけどな、ちょっと論旨がなっていうイメージかな。そうですね。まあそこまで、ちょっとひろゆきさんの『銃・病原菌・鉄』ほどエグいかというと、まだあのウォーフの方が、例えばその当時知られてなかったアメリカ先住民の言語の紹介っていう面でもそれはプラスだと思うし、全部が全部対応してるとまでは言えないけど、まあ言わんとすることは分かります。うん。歯切れ悪、俺。もちゃもちゃ喋ってたね。
ということで、ここまでの話をまとめると、ウォーフはまず批判されましたと。それは「食べられることがやむ」で「食べた」を表すんだみたいなのって、やろうと思えば英語でも日本語でもできちゃうし、ウォーフのその調査の内容、例えばホピには時間を表す表現がないのだみたいなものが合ってるかどうかについては疑義が呈されてるよと。でもウォーフが言ってたことはでたらめで今読む必要がないのかと言うとそうではなくて、彼はサピア=ウォーフの仮説を通して西洋中心的な、西洋語が1番だみたいな思想を相対化したかったのだと。そうした思想を、まあ実現する1つの手段として、例えば風変わりな文法的な特徴みたいなのを提示して、まあ当時はもっとガチガチに西洋がすごいと言われてた時代に一旦驚かせてその間に説得するみたいな、まあスキルも必要だったんじゃないかと思うんですよね。うん。だ、方便としてすごいこと言ってた可能性もあると思って読みました、僕は。
なるほど。だからあれですよね。人に対して嫌なことグチグチ言うよりも褒めたりとか明るい言葉投げかけた方がいいって普通に言っても伝わらないから、水って悪口をいっぱい聞くと汚い結晶になって、いい言葉を聞いて凍らせるとすごい綺麗な結晶になりますよとか言ってびっくりさせるっていうあれですよね。うん。ダメなんだよそれ。科学への冒涜なんだよそれ。それがダメだって話をしてるのか。そうそうそうそうそうそう。でも確かにな、構造的には。構造としてはそういうことでしょ。ちょっとびっくりさせることを言ってみんなにその話聞いてもらうっていうシステムね。むずいね。だからウォーフの思想が現代ではね、先進的だったって評価されてるから、まあ咎めがないって僕は言ったけれども、その主張がね、今の堀元さんの差し込みによって相対化され、今立つ瀬がなくなってきました。確かにそうかも。確かに。ちょっと結論に対してノイズを差し込んでしまった。クリティカルな反論してきましたね。確かにその理屈なら水からの伝言もいいことになっちゃいますけどいいんですか?っていうね。そうだね。確かにいいんですよ、水からの伝言は。あれ、ちゃうちゃうちゃう。そっち行っちゃだめよ。水からの伝言を否定してくれないな。ああ、疑似科学信者行った。すごいなお前、自分の結論貫き通したすぎて疑似科学信じ始めたじゃん。そうですね。まずいけど、今ギリギリまで2人とも同時にこの動画で引退するとこでしたね。危なかった。危ない。
はい。ということで次回は映画『メッセージ』の感想を語る会をやりたいと思っています。サピア=ウォーフの仮説っていう単語とか存在を『メッセージ』というSF映画で知った人も結構いると。へえ。ラジオの第5話とかからすでに『メッセージ』面白いんで見てください、見て語ってくださいっていう声来てたから、5年越しの実現ですね。はい。はい。僕も堀元さんも見てきて、お互いの感想を交換しつつ、まあ勉強したり、サピア=ウォーフの仮説についてもある程度勉強したので、その人間からどう見えるのかみたいなこともお話ししたいと思いますし。僕は実はその『言語・思考・現実』を読んで『メッセージ』を結構批評できるんじゃないかみたいな気もしているので。うん。実はこういうようなことを描きたかったんじゃないかみたいな目で見てみようと思ってる。それいい会になりますよ。はい。ゆるコンピュータ科学ラジオで昔さ、『イミテーション・ゲーム』っていうあのアラン・チューリングの映画、チューリングの勉強むちゃくちゃした後に見ると全く違う映画になったっていう話したんだけど、やっぱ色々ポイントがいっぱい上がるから。それチューリングそんなこと言ってないけどなとかがおもろいですよね。うん。なのでこの1週間、来週公開されるまでに皆さんも是非ちょっと『メッセージ』見といてもらえると次回楽しめると思うので、是非ご覧いただければと思います。収録日段階ではAmazonプライム・ビデオで見れるようでした。あ、よかったよかった。じゃあ大体見れますね。それでは引き続き皆さん、チャンネル登録、高評価、感想のコメントなどお待ちしております。以上にしましょう。ありがとうございました。ありがとうございました。
堀元さん。はい。うまく話せなくて悩むことってありません?よくあります。そんな悩みを抱える方にぴったりな本を書きました。ほう。タイトルは『会話の0.2秒を言語学する』。会話のわずかな間にフォーカスした1冊です。是非皆さん買ってください。
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