ウォーフはなぜ批判されたのか ホピ語の時間論への反論と、それでも読む意味

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概要

「サピア=ウォーフの仮説」に名を残す言語学者ベンジャミン・リー・ウォーフは、一般向けに書いた論考で大きな注目を集めたが、同時に激しい批判も受けた。ゆる言語学ラジオのウォーフ特集2回目となるこの回で、水野太貴は堀元見に向けて、ウォーフのホピ語論に寄せられた批判を順に紹介する。そのうえで、それでもウォーフの主張は無価値ではなく、今こそ読まれるべきだという自分の考えを述べている。

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前回のおさらい:ホピ語話者は時間を別の仕方で捉えている、という主張

ウォーフは、自身が研究したホピ語の話者は、英語話者とはまったく異なる時間認識を持っていると主張した。根拠はホピ語の時間の表し方が英語と大きく違うことにある。ウォーフによれば、ホピ語は世界を「現れたもの」と「現れつつあるもの」、言い換えれば客観的な世界と主観的な世界に分けて捉えている。堀元はこれを「すごい世界観」と受け止めつつ、説得力もあると認めていた。今回はこの主張に向けられた批判から話が始まる。

文法化で考えれば不思議ではない:be going to と「た」

最初の批判は、水野自身の読後の意見である。水野は、ウォーフが挙げた現象は「文法化」と捉えれば大して不思議ではないと考える。文法化とは、名詞や動詞のように具体的な意味を持っていた語が、抽象的な文法的役割を担うように変わっていくことだ。

水野が挙げた例は英語の be going to である。未来や予定を表すとき、実際にはどこにも行っていないのに go を使う。go はもともと具体的な移動を表す動詞だったが、未来という時制、つまり抽象的な文法範疇を表すようになった。

ウォーフは、ホピ語で過去を表すには原因を示す接辞が使われ、「食べた」を直訳すれば「それは食べられることが止む」のような言い方になる、と述べていた。水野の理解では、これがホピ語でいう「現れたもの」を表す表現にあたる。堀元は、「今食べている」のほうが主観的で、「食べ終えた」のほうが客観的事実として残る、というニュアンスかと解釈した。

水野はここで日本語の「た」を持ち出す。以前の「た」シリーズで、研究者の高田先生が歴史的な観点から説明したとおり、「た」は古文の完了の助動詞「たり」から来ており、「たり」はさらに「てあり」にさかのぼる。つまり「〜して存在する」という意味だった。もし「てあり」が「たり」になり始めた時代の日本語話者に、ウォーフが「彼らは過去を『〜して存在する』と表す。時間の捉え方が我々とまったく違う」と言ったとしても、当の話者は「別にそんなふうに認識していない」と思うだろう、と水野は言う。現代の日本語話者も「た」を「てあり」だと意識して使ってはいない。

同じことは英語にも言える。水野が今アメリカに行って「英語話者は未来を表すのに『食べることへ行きつつある』と言う。時間の捉え方がまったく異なる」と主張することもできてしまう。堀元も「アメリカ人は未来をすべて移動と捉えている」と言えてしまうと応じた。

英語の完了形も直訳すれば奇妙になる

水野によれば、テンス(時制)やアスペクト(「食べつつある」「食べ始める」のように動作の局面を表すもの)は、いきなり新しい表現として生まれるのではなく、元は別の意味だった語を転用する文法化によって生まれることが多い。

英語の完了形「have+過去分詞」の have は本来「持つ」という意味だ。I have finished my homework は、もともと I have my homework finished という SVOC の文で、「私は終えられた状態の宿題を持っている」から「宿題を終えた」へ変わった。これを「私は終えられた宿題を持っている」と訳せば、翻訳ができない人だと思われるだろう。ある言語のテンスやアスペクトを直訳すると奇妙に聞こえるのは当然のことだ、というのが水野の批判である。

水野はこれを、以前の色彩シリーズの1回目で話した「異文化を自国の文化になぞらえて理解したから妙なことになる」という話につなげる。堀元の言葉では「自分たちと違うところがあるから、こんなおかしさがあるに違いない、という当てはめ」である。

テンス・アスペクト・モダリティの分担の違い

台本を確認した高田先生からも、補足のコメントがあったという。テンス(時制)、アスペクト、モダリティ(「〜に違いない」「〜のはずだ」のように、話者の判断や認識を表す形式)はまとめて TMA 範疇と呼ばれる。「た」シリーズで重要だった指摘は、これらがきれいに切り分けられず、テンスの形式がアスペクトやモダリティを兼ねることがある、という点だった。日本語の「た」も、「やべ、今日は彼女の誕生日だった」のような発見の「た」ではモダリティを、「宿題がやっと終わった」の「た」では完了のアスペクトを表す。

言語には、テンスで多くをまかなうもの、アスペクトでまかなうもの、モダリティでまかなうものの3つのパターンがある。水野の理解では、ホピ語はテンスがあまり発達しない代わりに、アスペクトでやりくりしている。「現れつつある」「現れた」を完了や動作の始動のようなものと考えれば、アスペクトに近いと水野は見ている。テンス中心の言語の話者から見れば「時間の捉え方が違う」となるが、実際は文法として何を採用しているかが違うだけで、見えている景色はそれほど変わらない。言語学ではそういう議論があり、今回もそれにあたるだろう、と水野は述べた。

日本語の「バスが来た」

ウォーフの主要な邦訳『言語・思考・現実』の前書きで、訳者の池上嘉彦は、日本語でもホピ語に似た現象が起きていると書いている。バスがやって来た場面で、英語では Here comes the bus と現在形を使う。一方、日本語では「バスが来た」と言う。日本語では、今まさに来ているバスにも、過去に来たバスにも「来た」が使える。英語とずれており、部分的にはホピ語と同じことが起きているのではないか、という指摘である。

堀元は、日本語でバスが入ってくる瞬間に「バスが来る」とは言わないと確認した。水野は「来ている」のようにアスペクトを足せば言える、と補った。そのうえで堀元は、ウォーフが日本に来ていたら「この人たちは今来ているバスを『来た』と言う。現在を過去として捉える感性の持ち主だ」と言いかねない、と冗談を飛ばした。

「従って」で飛躍する論法:ドイッチャーの批判

より厳しい批判として、水野は色彩シリーズでも引いたガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』を紹介する。ドイッチャーによれば、ウォーフが得意としたのは、まず風変わりな文法的特徴を1つ提示し、「だから」「従って」という一語を挟んで、極めて風変わりな思考の仕方を導き出すという論法だった。

堀元はこれを一発ギャグのようだと言い、水野は「Aだと思ったらBでした、ちくしょー」というコウメ太夫のネタの型と同じだと例えた。ウォーフの場合は「Aである、従ってBである」で、形式はほぼ同じだというわけだ。堀元がこのたとえに抵抗して二人は言い合いになったが、すぐに「くだらないからやめよう」と収めている。

具体例として水野は、『言語・思考・現実』154ページの表を挙げた。英語の he is running(彼は走っている)と he ran(彼は走った)が、ホピ語ではどちらも同じ形になっている。ホピ語では確定した事実を同じ形式で表すため、走っているのも走ったのも、確定した事実として同じように書く、ということだと水野は理解している。表には he will run や he runs も並んでいるが、単純なルールで訳せる形にはなっておらず、接辞がついたりしてホピ語の不思議さを示す作りになっている。

問題はその後である。ウォーフは、ホピ語話者が物理学の方程式を立てても、その中に t、つまり時間は含まれないことになるが、それで果たして機能するだろうか、という趣旨のことを書いている。ウォーフはホピ語には時間という名詞すらないとも書いていた。堀元の言うとおり、それは文法がそうなっているだけで、ホピ語話者も時間は分かっているのではないか。風変わりな文法的特徴から「従って」を挟んで大きく飛躍した想像を語る点が批判された、と水野はまとめた。

ひろゆき『1%の努力』との類似

この話を聞いて、堀元は既視感の正体に気づいたという。ひろゆきの著書『1%の努力』である。その本には「努力にはあまり意味がない」と書かれており、根拠として挙げられていたのがジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』だった。同書は、ヨーロッパ人がアメリカ大陸の人々を征服できたのは、ユーラシア大陸が東西に長く発展が早かったからだと論じている。ひろゆきの本では、そこから「大陸の形で誰が勝つかが決まってしまうので、我々が努力しても意味がない」という結論が引き出されていた、と堀元は紹介した。

堀元は、あれは人類の何万年もの歴史の話で、個人の人生に当てはめるものではないと突っ込む。努力の無意味さを言いたいなら、マイケル・サンデル『実力も運のうち』のように、もっと適した本があるはずだ。それなのに『銃・病原菌・鉄』から主張を導くのはエキセントリックで、感動したという。水野も、同じ論法でバズったという点でウォーフとそっくりだと応じた。

調査の中身への疑問

批判は論法だけでなく調査そのものにも向けられた。ウォーフはホピ語を長期にわたって慎重に観察したと述べていたが、実際には、ニューヨークに住んでいたホピ族のインフォーマント1人との対話が調査のベースだったという。堀元は「サンプルが偏りすぎている」と指摘した。

ドイッチャーの本には、ウォーフは一度もアリゾナに行ったことがないと書かれている。一方、『言語・思考・現実』の編者解説には、アリゾナ州のホピ保留地にしばらく滞在する機会を得たとある。記述が割れているが、水野は編者解説を信じたいとしたうえで、現地に行ったことはあっても、インフォーマントは基本的にニューヨーク在住の人物に頼っていたようだと述べた。

さらに、ウォーフはホピ語には時間に相当する単語も文法形式も表現もないと言ったが、ホピ語を野外調査した言語学者マロトキは著書『Hopi Time』で、多くの時間表現、テンス、アスペクトを記述している。両者の調査には40年の開きがあり、その間に劇的に変わったと仮定すればどちらも正しいことになる。ただ水野は、文法の変化には長い時間がかかるので、40年で急にテンスやアスペクトが発達するとは考えにくいと言う。堀元は、ウォーフが話を盛っているのではないかと述べた。

別の研究者も、ホピ語には「1日」のような時間単位を表す語にも複数形があり、空間の表現が時間の表現に転用されることもあると指摘している。こちらもウォーフの調査から20年ほど空いており、その間に変わったのか、ウォーフが意図的に省いたのかは分からない、と解説には書かれていたという。

イヌイットの雪の語彙が「400以上」になるまで

水野は、スティーブン・ピンカーが紹介した批判にも触れた。イヌイットの言語には雪を表す語が400以上あるという俗説がある。ピンカーによれば、発端はサピアの師匠であるボアズが「イヌイットは互いに関連のない4つの語根で雪を表す」と述べたことだった。ウォーフがそれを7つに増やし、もっとあるかもしれないとほのめかした。ウォーフの論文があちこちで引用されるうちに、一時は400以上という話になったという。

堀元は、これはウォーフより後で数字を膨らませた人たちが悪いと言いつつ、ボアズの元の主張は地味すぎて、数字が大きくなるほどバズるのがおもしろいと反応した。

それでもウォーフを読むべき理由:西洋中心主義への反発

ここまで批判を並べたうえで、水野は、サピア=ウォーフの仮説やウォーフの主張がでたらめで無価値だったわけではない、というのが自分の意見だと述べ、現代的にどう受け止めるべきかを語った。

水野によれば、ウォーフの主張が注目を集めた背景には、当時広がっていた西洋中心の言語観・世界観があり、ウォーフはそれに猛烈に反発していた。ウォーフは著作の中で、印欧語をわざわざ「平均的ヨーロッパ標準語」と呼び、西洋中心主義に警鐘を鳴らしている。その価値観を相対化しようとしたからこそ、自説を「言語相対論」と呼んだのだろう、と水野は考える。西洋語が一番で先住民の言語が劣っているのではなく、それぞれに良さがあるという立場である。

堀元は、これまでの批判だけを聞くと、英語中心の視点から他言語を少しばかにしているようにも思えたが、動機は逆だったのかと驚いた。水野自身も『言語・思考・現実』を読むまでは分かっていなかったという。ウォーフは、英語などヨーロッパ系の言語は頂点でもなければ適者生存の結果でもなく、ただの偶然の産物だと書いている。また「科学と言語学」という論文では、言語学的な視点が科学にもたらす重要な貢献は、物を見る我々の視点を広げることだと述べている。水野は、ウォーフ自身が先住民の言語に触れることで、英語が一番優れているわけではないことを発見していったのだろうと見ている。師のサピアも同じ思想だったと思う、とも付け加えた。

その姿勢がよく表れた例として、水野は犬をめぐる一節を紹介した。ホピ語で犬を表す語は、愛玩用や飼育用の動物なら何でも指せる。「鷲」を付ければ愛玩用・飼育用の鷲という意味になる。これを「原始的な言語の気まぐれ」と思う人もいるかもしれない。そこでウォーフは英語の hand を持ち出す。his hand は体の一部だが、hour hand は時計の短針、hands は船の乗組員、a good hand at gardening は園芸の上手な人を指す。トランプの手札も hand で、gain the upper hand(優勢になる)に至っては、hand がもはや何も指していない。犬という語で鷲を指すのは変だと思うかもしれないが、英語もまったく変わらない、という論法である。

複数の動機が混ざった書き手としてのウォーフ

『言語・思考・現実』の解説によれば、ウォーフの文章には、純粋な学問的関心だけでなく、いくつもの欲望が表れているという。言語に感じた言葉にしがたい魅力をなんとか伝えたいという思い、西洋中心的な思想への反発、アメリカ先住民の言語に接して経験した驚きを称揚したい気持ち、そして言語学が有効な学問だと理解させたいという欲望である。そのため、読む人によってウォーフから読み取るものが違ってしまう。水野は、当時の西洋中心的な空気を知らずに読むとでたらめに見えるが、ウォーフの仕事は思想的な運動でもあったと読むべきだと主張した。

堀元はここにインフルエンサーの姿を重ねた。社会はこう変わるべきだ、ここに寄付すべきだと言いたいあまり、エキセントリックで強い主張をしてしまう人がいる。それに近いのではないかという見立てである。

悪い方向にバズった例:ヴァイスゲルバー

水野は、「言語が違えば見ている世界も違う」という主張はそもそもバズりやすい、と話を広げる。実際、ウォーフ以前にもバズった人物がいた。シリーズ1回目で触れたドイツの言語学者ヴァイスゲルバーである。ヴァイスゲルバーは、ある言語を使うことでその話者が認識する世界が形作られるという「言語的中間世界」の概念を唱えた。ところがこれが「母国語」という概念の強調につながり、本人の意図に反して国家主義的な思想と結びつけられた。その結果、ヴァイスゲルバーとその学説を継承する人々は、第二次世界大戦後に大学を追われたという。

水野は、この種の思想は悪い方向にバズることもあると強調する。たとえば「日本語話者にしか知覚できない世界がある」と言われれば、隣に住んでいるかもしれない非日本語話者とは分かり合えない、という言説に利用されかねない。サピア=ウォーフの仮説は、付き合い方に気をつけなければならない説だというのが水野の見方である。

1941年に日本語を「美しい」と書いたウォーフ

では、なぜウォーフはそうならなかったのか。水野によれば、ウォーフは当時非常に高い地位にあった印欧語を相対化する方向でこの考えを使った。すべての言語には他の言語では代えられない特徴があり、それを意識すれば人は謙虚になり、全人類への兄弟愛が導かれる、という趣旨のことをウォーフは書いている。

水野が特に驚いたのは、『言語・思考・現実』に収められた論文「言語と精神と現実」に、日本語論が含まれていることだという。ウォーフはそこで日本語の構造を「lovely」と形容し、日本語の美しいパターンの1つとして、1つの文に格の異なる2つの主語があってよいことを挙げている。いわゆる二重主語文、「象は鼻が長い」の構文である。

この論文が書かれたのは1941年、真珠湾攻撃の直前で、日米関係が最も冷え込んでいた時期だった。当時のアメリカの雰囲気に反して日本語の構造を美しいと書いたことに、水野は気骨を見ている。日本も戦時中、日本語が優れているという言説を生み出して植民地での日本語教育を正当化していた。そうした時代のただ中でこう書くには相当な勇気が必要だったはずだ、と水野は言う。人類の兄弟愛という地点を徹底していたからこそ、ウォーフはヴァイスゲルバーほど悪いバズり方をしなかった、というのが水野の解釈だ。堀元も、他の言語にも等しく素晴らしいところがあるという主張は帝国主義や植民地化の流れとは合わない、と同意した。水野はその意味で、ウォーフの思想は今またバズるべきであり、この本を今読む意味はあると述べた。

堀元は、主張の中身は分かるが論証が行き過ぎているという点で、やはりひろゆきの例と共通していると感想を述べた。努力しすぎなくていいという結論には共感するのに、その理由を大陸の形で説明されると違うと思ってしまう。ウォーフも同じで、結論はいいが論証がちょっと、という印象だという。水野は、当時知られていなかったアメリカ先住民の言語を紹介した点ではウォーフの方がプラスだとし、全部が対応するとまでは言えないものの、言わんとすることは分かると応じた。

方便だったのか、という問いと「水からの伝言」

終盤で水野は議論をまとめた。「食べた」を「食べられることが止む」と訳すようなことは英語でも日本語でもできてしまう。ホピ語に時間表現がないという調査内容が正しいかどうかにも疑義が呈されている。それでも、ウォーフはサピア=ウォーフの仮説を通じて、西洋語が一番だという西洋中心的な思想を相対化したかった。西洋中心の考えが強固だった時代には、風変わりな文法的特徴を示して一度驚かせ、その間に説得するという技術が必要だったのではないか。つまり、方便として大げさなことを言っていた可能性もある、と水野は読んだという。

これに対して堀元は、構造としては「水からの伝言」と同じではないかと指摘した。人に嫌なことを言うより褒めたほうがいいと普通に言っても伝わらないので、「悪口を聞かせた水を凍らせると汚い結晶に、よい言葉を聞かせると綺麗な結晶になる」と驚かせて話を聞いてもらう、という仕組みだ。これは科学への冒涜として批判されてきたものである。水野は、その理屈が通るなら水からの伝言も認めることになってしまう、とウォーフ擁護の論理が揺らいだことを認めた。いったん「水からの伝言はいい」と言いかけてすぐに撤回する一幕もあり、「方便としての誇張」をどこまで許容できるかという問いは、結論を出さないまま残された。

次回は、サピア=ウォーフの仮説を題材にしたSF映画『メッセージ』の感想回になると予告された。水野は、『言語・思考・現実』を読んだうえでなら、この映画をかなり批評できるのではないかと考えており、映画が本当は何を描きたかったのかという目で見てみたいと話している。