代ゼミで37年、「接点T」の荻野暢也が語る講師人生:辞めかけた1年目、ネットでの拡散、引き際

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概要

代々木ゼミナールの数学講師、荻野暢也氏に、京大医学部生YouTuberのもご氏が話を聞いた対談の後編である。前編に続き、今回は代ゼミ講師としての37年間が中心になる。話題は、採用直後の過酷な1年目とそこからの立て直し、ネットで広まった「接点T」の授業動画への本人の受け止め方、X(旧Twitter)での炎上、結婚、そして講師をいつ辞めるかまで及んだ。荻野氏は冗談を交えながらも、仕事を続けるうえで気持ちの持ち方が大きかったこと、生徒の記憶に残る授業を目指してきたことを繰り返し語っている。

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高校教員から予備校へ

冒頭で荻野氏は、予備校講師になる前の高校教員時代の出来事に触れる。1年生と2年生で受け持った学年を、3年生でも自分が担任すると思っていた。ところが新しく赴任した先生が担任になり、強い不満を覚えて校長に掛け合ったという。この場面は字幕が断片的で、詳しい経緯ははっきりしない。

予備校講師への転身について荻野氏は、当時はバブルの真っ盛りで、予備校講師になりたがる人はほとんどいなかったと振り返る。採用試験では2問中1.5問ほどしか解けなかったが、それでも採用された。

収入は多くても「毎日辛かった」1年目

1年目は仙台、横浜、大宮、原宿、立川などの校舎を掛け持ちした。「18」という数字を覚えていると話しているが、何の数かは字幕からは判然としない。最初の月給は「50万だか60万だか」、あるいは80万円だったかもしれないという。「言っちゃいけないと言われた」と前置きしながら明かし、それまで見たこともない額だったと語る。

ただ荻野氏にとっては、金額よりも毎日の辛さのほうが大きかった。本人の説明では、予習に非常に時間がかかった。明け方までかけてやっと問題を解き、ノートを作って1時間だけ寝て出勤する。寝不足でふらふらになり、痩せてもいた。とくに立川の記憶は「嫌な思い出しかない」という。立川で夜7時半まで授業をしてから東京駅へ向かい、仙台に着くのは11時半。駅弁を食べながらまた予習をした。交通費やホテル代は十分に出たが、それよりも辛さが勝ったと話す。

毎週仙台では局長や教務長が「よろしくお願いします」と挨拶に来た。荻野氏は毎回そのたびに「今日で辞めさせてもらえませんか」と言おうと思っていたという。

評判も悪かった。荻野氏は、駿台の数学は必要十分条件をきちんと押さえるような論理的で根本的な空気だと感じており、自分もそうしなければと思って真似をした。しかし本人の感覚は「答えが出ればいい」くらいのもので、それは自分の色ではなかった。後から聞いたところ、授業アンケートはひどい結果で、受講生もどんどん減っていったという。夏期講習にはほとんど仕事が入らなかったが、「こんなに休める」とむしろ嬉しかったと笑う。

「人生は選択だ」で変わった2学期

転機はその夏だった。当時流行していた自己啓発系のセミナーに参加した。荻野氏によれば、人生を変えるといった怪しげなものもあったが、自分が受けたのはちゃんとしたものだった。そこで初めて「人生は選択だ」「自分が明日を作る」「今の自分は過去の自分が選んだ結果だ」という考え方に触れた。

2学期からは授業がうまくいくようになり、アンケートは2位になった。翌年の講習では仙台で300人の講座が締め切りになった。そのとき、世話になった仙台の課長から、実は1学期の時点でクビが決まっていて来年はないことになっていたと打ち明けられた。「頑張ってよかったですね」と言われたという。

この経験から荻野氏は、若い人が辛いのは体ではなく心の問題で、どう思うかによって全然違うと話す。当時、70歳を過ぎた先生が1日5コマ、6コマとこなしていた。自分は1日4コマで倒れそうになっていたので、あの先生は電気で動いているのではないかと思ったほどだという。結局は、嫌々やらされていると思うか、仕事をさせてもらえてありがたいと思うかで、同じ時間働いても辛さがまったく違う。これが荻野氏の結論である。

2年目にはコマ数が増え、上位の授業も任されるようになった。もご氏が「超大型ルーキー」と言うと、荻野氏も当時はそういう目で見られていたと認めた。

「接点T」「FG'」はその場で生まれた

教え方がどう変わったのかと聞かれ、荻野氏は「明日この話をしてやろう、あいつらこう言ったら喜ぶかな」と考えるようになったと答える。もご氏は、自分が塾講師を始めた1年目は、いくら自分が問題を解けても生徒が本番で再現できなければ意味がないと考え、教え方の試行錯誤で頭がおかしくなりそうだったと話す。そのうえで、荻野氏はどう乗り越えたのかと尋ねた。

荻野氏の答えは、毎秒必死に声を出して授業をするうちにフレーズが生まれてきた、というものだった。「接点T」の「この点は出ねえよ」について本人は、あれは何の役にも立っていないと笑う。一方で「FG'(FGダッシュ)」も前日に準備したのではなく、その場で出てきた言葉だという。生徒がそういう目で聞いてくれたことも大きかったと付け加える。苦労して覚えなければならないことを、少しでも苦痛なく記憶に残る形にしたいと考えていたのだろう、と荻野氏は振り返る。

他の講師に真似されることについては、自分のネタを取られて怒る人もいるが、自分は逆に嬉しいという。63歳だからかもしれないが、「FG'」は自分が死んだ後も誰かが使ってくれる。それが嬉しいのだと話す。

2年目以降の順調さについては、カリスマがあったわけではないと否定した。当時の代ゼミは何万人もの生徒を集める最大手の予備校で、そのおかげで生徒が来てくれただけだという。

ネットに流出した授業動画と「メガネの女」

「接点T」の動画は2004年ごろに2ちゃんねるに上がり、同じ時期にニコニコ動画にも違法アップロードされた、ともご氏は整理する。荻野氏は、収録自体はもっと前で1990年代ではないかと言い、もご氏は30年ほど前、自分が生まれたころだろうと応じる。荻野氏によれば、あの授業では本当に怒っていた。20分ほど遅刻してきた生徒がいて、「先週も言っただろう」という流れからの3時間の授業だったので、ベースの機嫌が悪かったのだという。「メガネの女」の動画については「あれは僕じゃない、AIだけどね」と冗談で返し、もご氏に「まだ言ってる」と突っ込まれた。

もご氏が荻野氏を知ったのは2007年である。似た声のゲーム実況者の動画を見ていたら、コメント欄に「荻野」の名前が大量に流れ、調べてみたらめちゃくちゃ面白かったという。

ネットで話題になった当初の気持ちを聞かれると、荻野氏は「最初は腹が立った」と答える。どこへ行っても接点で馬鹿にされる。予備校としても良くないので、最初は権利者として削除を求めていた。しかし、いたちごっこで無限に出てくる。担当の職員からは「あんたのせいで忙しいんだよ」と言われ、結局、荻野氏の動画については何も言わなくなった。今は嬉しいというより「諦めている」という。

最近の出来事として、荻野氏は別の予備校の「T先生」と自分の授業映像が並んで流された動画の話を持ち出した。しばらくしてその動画を見に行くと、T先生の部分だけが「著作権者の要請により削除」され、自分の部分はそのまま残っていた。「なんでこっちだけクレームして、こっちは守らないんだ」と荻野氏が嘆くと、もご氏は、ニコニコでは荻野氏の音MADが大流行していて削除が追いつかなかったのだろうと説明した。

集客に役立ったのではないかという問いには、「しない」と即答した。知名度はあっても金にならない、アカデミックさがないので「いつもあんなふうに騒いでいる」というイメージを持たれてしまう、というのが荻野氏の見方である。これにもご氏は、いつもそうならもっと多くの動画が出回っているはずで、あれしかないということは、普段はいい先生なのだろうと返した。荻野氏は、メガネの女の動画と同じころに、最前列でウォークマンのゲームをしていた生徒の机を別の先生が蹴る動画も出回ったと話す。これで自分の件が沈静化すると思ったら、そちらのほうが消えてしまったという。もご氏が、自分の世代ではまだチョーク投げや机叩きもあったので、何が悪いのか分からなかったと言うと、荻野氏は「俺はそれしてないから」と否定した。

ピークは2001年、それでも今が楽しい

その後のキャリアについて荻野氏は、代ゼミの再編もあり、優秀な先生が次々に出てきたこともあって、自分のピークは2001年ごろで、そこからは下り坂だったと話す。ただ本人はあまり気にしていない。前日には今年の東大の第1問を授業で扱い、生徒が「おお」という反応で聞いてくれた。そうした問題で知的に興奮してくれる生徒が今の代ゼミにも大勢来てくれることが嬉しいという。昔の自分の授業を聞いて東大に行ってくれた生徒がいたなら本当にありがたいとも語った。

当時の受講生として石丸伸二氏の名前も挙がった。荻野氏によれば、石丸氏は広島でサテライン(衛星授業)を通じて文系トップクラスの授業を受けていた。代ゼミの授業を受けていたことは以前から知っていたが、文系なので自分の授業を取っていたとは思っていなかった。ところが講演会での発言が当時の自分の言葉とかなり符合する。遅刻や居眠りをする生徒によく言っていた「八王子で」という話も出てくる。それで、やはり受けていたのだと思ったという。

ドラクエ由来の講座名とゲームの話

講座名に「ベホマズン」などドラゴンクエストの呪文をつけていたことについて、荻野氏は「完全に中二病」と笑う。高校教員時代にドラクエ1をプレイし、攻略サイトもない時代なので、授業中に生徒へ「ドラゴンはどうやって倒すの」と聞き、「ラリホーをかければいい」と教わったこともあったという。

二人は女神転生シリーズが好きだという点でも盛り上がった。荻野氏は初代メガテンでマグネタイトを消費しない仲間3体を答えさせるクイズを出したが、もご氏は答えられなかった。荻野氏はスマホゲームに約160万円を課金して妻に怒られ、今はやめたとも明かした。ゲームに熱中していたのは主に1990年代で、2000年代以降は離れた。アクションゲームは苦手で、途中でやめたものが多いという。

講座名については、ネーミングに制約がかかった時期もあった。荻野氏によれば、カタカナが禁止されたような「闇の時代」が3年間あり、今はまた前のように遊び心を出そうという方向になっている。荻野氏は、代ゼミには褒め言葉としての「余裕」があり、生徒1人あたりの講師や職員の数も多く、手厚くケアしている、生徒にとって今の代ゼミは良い予備校だと話す。第一志望に落ちた生徒でも代ゼミの悪口を言う人はまずおらず、「代ゼミでよかった」と言ってくれるので、もっと来てほしいという。もご氏は、京大医学部の同級生にも荻野氏の授業を受けていた人がいて、みな受けてよかったと言っていると伝えた。

結婚と「どちらかがバカなほうがいい」

結婚は2005年か2006年ごろ、45歳くらいのときだった。相手は代ゼミの元生徒だが、荻野氏は「教えているときに付き合うなんてことはありえない」と強調する。卒業後、相手が大学生のときにたまたま再会したのだという。

誰と結婚するかで人生はまったく変わる、と荻野氏は言う。高校の教え子にも離婚したがっている人が多く、子どもがいなければとっくに離婚していると話す人もいる。もご氏がドラクエ5の結婚相手選び(ビアンカ、フローラ、デボラ)を持ち出すと、二人ともビアンカ派で一致した。荻野氏は、フローラを選んだという中学時代の友人に「人間性を疑われるから会社で言わないほうがいい」と言ったと語る。もご氏によれば、石丸氏はフローラを選んだという。

荻野氏の結婚観は、夫婦のどちらかがバカなほうがいい、というものだ。自分はバカ担当で、妻は頭が良く、何でもでき、性格も良く、大人だという。妻と結婚したことで運をすべて使ったのではないかと思っている。あとは誰か10億円くれれば文句はない、と締めくくった。

コンプライアンスとXでの炎上

代ゼミから流出した映像の話題にもなった。昨年の講習で結婚について「顔ではなく性格だ」という趣旨を語った場面の映像である。荻野氏は、上がるのが早すぎる、明らかに不正アップロードなのに消されずに放置されていると不満を述べる。この件では、自分が間違ったことを言ったとはまったく思っていないがコンプライアンスの面で注意を受けた、と明かした。

Xでも何度か炎上している。荻野氏によれば、炎上するのはいつも木曜の夜だ。1週間の授業を終えて新幹線に乗り、缶チューハイを飲んで気が大きくなって書き込むからだという。最近では、教員のストライキについて、生徒の迷惑になるからやるべきではないという趣旨を書いた。本人は間違ったことは言っていないと考えているが、静岡あたりを走っているころにはインプレッションが大変なことになっていて、翌日には上の立場の人から電話が来た。その後、政治的な内容を書いたときは妻に「また怒られるよ」と言われたが、待てど暮らせど電話が来ない。逆にクビになるのではと心配になり、本部長に電話したほうがいいのではと妻に話したという。炎上するとXから収益として2万円ほど入る、とも付け加えた。

辞め時と給料、参考書

代ゼミで37年目を迎えた荻野氏に、何歳まで続けるのかを聞いた。同僚の先生たちは70歳まで続けると言っているが、自分はそのつもりはないという。60歳を超えると目も耳も悪くなり、いろいろなことができなくなる。受講生に迷惑がかかるようになったらすぐ辞めなければならないと考えている。同じことをずっと続けているので、少しでも違うことをしたいという気持ちもある。自ら辞めることが所属先への最後の恩返しだ、という考えも語った。

給料は基本的に年数とともに上がるが、下がることもある。荻野氏によれば、人気講師で講座を多く持つ人には年収1億円を超える人もいた。昔は参考書を出す収入もあったが、今はああいう本は売れないという。自分も出しているが売れていない、と苦笑した。

モノマネ85点と「引く部分」

終盤、もご氏が自分の荻野氏のモノマネを披露し、点数をつけてもらった。「ABを……に引いたときの接点T、この点とこの点が出るわけだ、この点は出ねえよ」と演じると、荻野氏の評価は85点だった。もご氏は、初めて投稿した動画は練習なしだったが、その後コツを言語化したと話す。鼻にかけた声で喉を潰すように話し、語尾を伸ばすといった点である。荻野氏は、そんな声では喋っていない、やりすぎだと否定した。

荻野氏が大事だと指摘したのは、強く言う部分のあとに一段引く部分である。「でもね」と優しく入る「へりくだる」ような部分が肝心なのだという。

お笑い芸人(「サウザー」のモノマネで知られる人物)が荻野氏のモノマネをしていたことにも触れた。音声は荻野氏本人のものを流して顔だけ真似ていたが、自分を知ってくれていたのが嬉しかったという。自身のYouTubeについては、引退したらやりたいと話す。雑談はすぐネタが尽きるので、普通に数学の問題を解説したい。全員に公開するより、メンバーシップのような限定公開がいいかもしれないと考えている。

若者へのメッセージ

最後に受験生へのメッセージを求められ、荻野氏は、受験生に限らず若い人には、一度きりの人生なのでとにかく上を目指してほしいと語った。闇バイトのような目先の話に騙されて人生を棒に振る若者がいる。荻野氏は、そういう人たちもおそらく自分の子ども時代よりはるかに優秀で、外見も良く、スポーツもできただろうと見ている。だから自分の能力は低くないと自覚して上を目指してほしい、というのが荻野氏の考えである。生徒に欲しい車を聞くと「低燃費」と答える人が多くてぞっとする、買えなくてもフェラーリやロールス・ロイスと言ってほしいとも話した。4人で飲みに行くならタクシーは4台呼ぶ、といったバブル期の話を挙げ、「完全に中二病の考え方」と自覚しつつも、皆さんの力でバブルを取り戻してほしいと締めくくった。

もご氏が、受験生への最後の授業のようで胸がいっぱいになったと言うと、荻野氏は、浪人していても京大医学部に受かったのは大したものだと返した。もご氏は、荻野氏らの違法アップロード動画を見て、塾をやるならこういう先生になりたいと思ったと明かす。それを受けて荻野氏は、医者をしながらでもYouTubeでも何でもできるとしたうえで、京大医学部で得たものは普通の人が手に入れられない価値あるものだから、絶対に手放してはいけないと語りかけた。