エセ関西弁はなぜ関西人をモヤモヤさせるのか:アクセントの壁と「ツッコミ」という利他

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概要

ゆる言語学ラジオの水野太貴と堀元見が、前回に続いて関西方言を取り上げた回である。収録は観客のいるイベント会場で行われた。水野は冒頭で、関西方言について勉強するうちに「関西の人は利他的だ」と思うようになり、そこがエセ関西弁と本来の関西方言を分ける大きな要因ではないかと考えた、と問題提起する。前半は関西式アクセントがなぜ非関西人にとって再現しにくいのかを具体的な単語で確かめ、後半ではアクセントとは別の軸として、会話でツッコむかどうかという言語行動の違いを論じている。

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東京式と関西式のルールは「一点」だけ違う

前回の内容として、東京方言の名詞アクセントには3つの特徴があると確認される。1拍目と2拍目の高さが必ず違うこと、単語の中で一度下がったら再び上がらないこと、単語はどこかで高さを落とす力を持つが、その力をまったく持たないもの(「アメリカ」のような平板型)もあること、の3つである。

水野が関西式のルールを挙げていくと、「どこかでアクセントを下げる力を持ち、一部は持たない」「一度下がったら上がらない」という2点は東京式と同じだった。違うのは、関西式では1拍目と2拍目の高さが同じでもよいという点だけである。

水野に「これで種類はちょっとしか増えないか、かなり増えるか」と問われた堀元は、東京方言では1・2拍目が「低高」か「高低」の2パターンしかないのに対し、関西では2の2乗が許されるので2倍になるのではないかと予想した。水野によれば予想どおりで、理論上、n拍の名詞のアクセントの種類は東京方言のn+1に対して関西方言はちょうど2倍になる。ただし、理論上ありうる型の一部は実際には存在しないか、該当する単語がごくわずかしかないため、実際に観察されるのは2n−1種類になるという。堀元は「理論上はこうだが実態は違う」という話が社会科学には多く、綺麗ではないとぼやいていた。

2n−1で数えると、2拍名詞は東京も関西も3種類で差がない。3拍名詞では東京4種類・関西5種類、4拍では5種類と7種類、5拍では6種類と9種類となり、拍数が増えるほど差は広がる。堀元が「関西方言の方が優れているのか」と冗談めかして聞くと、水野は方言に優劣はないと返す。パターンが多ければ認知資源をそこに使うと水野が付け加えると、堀元は今度は「では東京方言の方が優れているのか」と言い、水野が慌てて打ち消す、というやりとりもあった。

東京式にはありえない型:高高高と低低高

水野によれば、厄介なのは種類が多いことだけではない。東京方言の話者からするとありえないアクセントパターンが含まれていることが問題だという。1・2拍目が同じ高さでよいのだから、「高高低」や「高高高」といった型が考えられる。

「高高高」の例として挙がったのが「サクラ」である。東京式では低いところから入って「低高高」になるが、関西では全部が高い。「カゼ(風)」も東京式の「低高」に対して関西では「高高」、道路の「ミチ(道)」も「高高」になる。水野が実際に発音してみたところ、関西出身のマネージャーが微妙な顔をし、何度か言い直す場面があった。水野によると、自分の関西弁を真似した動画がTikTokで流行っているらしく、「一番嫌なミームだ」と思いながら見ていたという。

ただし水野は、「高高高」は「ザ・関西弁」という響きなので、関西方言話者でなくても「サクラ」や「ミチ」はこう言うのだと覚えれば比較的再現しやすく、聞く側も関西方言だと気づきやすいとも述べる。堀元も、とりあえず高くしておけば関西弁っぽくなると思いそうだと応じた。

難しいのは「低低高」の型である。水野は「ヒダリ(左)」を何度も関西方言話者に直されたという。東京式では「低高高」の平板型だが、関西では「低低高」になる。水野が試すと声全体が低くドスの利いた「ひだり」になってしまい、堀元から「関西の人はそんな低い声で『左』とは言わない」とツッコまれた。低い・高いはあくまで単語内での相対的な高さであって、声全体を低くすることではない。一方、堀元が「左に曲がって」と言ってみると、会場の観客がうなずいていた。

動詞と「高高低」:「話せ」「こうたら」

堀元は事前に動詞のアクセント型も頭に入れてきたといい、「曲がる」「走る」など「高高高」の動詞が多いので、とりあえず高く言っておけばなんとかなる部分があると話す。ただし「低低低」の動詞もある。堀元は「食べるは他動詞で、走るは自動詞」という例文でそれを実演し、観客から「関西人みたいだ」という声が上がった。もっとも本人は、頭の中で考えながら話しているので出力が遅いと認めている。ここで堀元が、観客の笑いに対して「笑うんだい。彼の関西弁は上手だよ」と返す場面があり、水野は「関西方言クリロナ」と反応した。このクリロナのくだりは、終盤でも再び持ち出される。

「高高低」の型もある。水野の例は「ハナセ(話せ)」で、誰かに捕まえられて「話せ」と迫るような場面を想定したものだ。東京式では「高高」で入ることはありえないうえ、「サクラ」とは違って「ハナ」まで高いのに「セ」で下げなければならない。

水野がより重要な例として挙げたのが、「購入したら」の意味の「こうたら(買うたら)」である。これも「高高低」の型だ。「買う」を「こうた」と言うのはいかにも関西方言らしいので、関西方言っぽく話そうとする人はこの語形を使いたくなる。しかし東京式アクセントのまま「この前お店に行ってガムこうたら、めっちゃ高かった」と言うと、関西方言話者からは、形式上は関西方言を使っているのに音声的には関西方言らしくないと聞こえる。堀元はこれを「仏作って魂入れず」とまとめ、水野も上っ面だけをなぞっているように聞こえるのだと同意した。

「ん」「っ」「ー」にアクセント核が来る

水野はさらにややこしい点として、関西方言では撥音「ん」、促音「っ」、長音「ー」がアクセント核(下がり目の位置)を担えることを挙げる。東京方言の話者は普段そこに下がり目を置かないので、非常に難しいという。

例の一つが「兄弟」である。実際にはほとんど「キョーダイ」と伸ばして発音されるが、関西ではこの伸ばし棒の部分で下がる。「今晩」も「ン」のところに核が来る。水野は「駆逐艦」を例に、発音するとき「ク」が小さい「ッ」になって「クッチクカン」のように言われることがあり、その「ッ」に核が来るという例を見つけたと話す。水野は何度練習してもうまくいかなかったそうだが、堀元が試すと正しく言えたようで、堀元はかなり喜んでいた。水野は、東京の話者からすると「そんなところにアクセント核を置いて大丈夫なのか」と感じる、常識破りの型が多いのだとまとめている。

対応規則はあるが、東京から関西へは一方向に決まらない

とはいえ、すべての単語で東京式と関西式のアクセントがバラバラに決まっているわけではなく、対応関係はあると水野は言う。東京方言で同じグループに属する単語は、関西方言でもおおむね規則的に対応させられる。グループの種類自体は一致していて、「このグループの名詞はこう変えれば関西式になる」「こう戻せば東京式になる」という関係がざっくり存在するという。

水野は国立国語研究所のYouTube動画の図を示した。右が東京式、左が大阪式で、赤字が高い位置を表す。多くのグループは矢印がまっすぐ対応しているが、一番下の第3グループだけ矢印が交差している。東京式で頭高型の「肩が」「雨が」「空が」「猿が」は、関西方言では最後が高くなる「肩が」「空が」のようなタイプと、「雨が」「猿が」のタイプの2つに分かれる。つまり、東京方言の話者がグループごとの対応を知っていても、頭高型の名詞ではどちらの型に行けばよいか決まらない。

堀元は数学の写像の用語を持ち出し、単射や全射になっていないという話ではないかと言ったが、二人とも定義をうろ覚えで、水野は「調べて喋れよって話ですけど」と笑っていた。水野の整理では、関西から東京への変換はできるが、東京から関西への変換は一部の名詞で規則が働かない。そのため関西方言のアクセントを習得して使いこなすには相当な熟練が必要になる事情があるのではないか、というのが水野の見立てである。

高低は相対的なもの

話の途中で堀元は、ラーメンYouTuberのSUSURUが名乗るときの「すするTV」が「高高高」に聞こえ、関西を意識しているのではないかと言い出した。水野はそれを否定し、声を高く言っているだけだろうと指摘した。そのうえで、堀元がそう感じた気持ちはわかるとフォローする。アクセントの高低は相対的な基準で、声の高い人が話しても低い人が話しても、問題になるのは単語の中でのピッチパターン、つまり音程がどんな形を描くかである。高い声で話されたものを「高高高」と感じてしまうのは自然なことだという。

では関西方言の「低低低」と「高高高」はどう区別するのか。堀元が「後ろに来る言葉でわかるのではないか」と答え、水野はそのとおりだと言う。先ほどの「食べるは他動詞で、走るは自動詞」がまさにその確認で、「低低低」の「食べる」の後に続く「は」は高くなる。後続の助詞と比べて相対的に高いか低いかを見れば、「食べる」は低低低、「走る」は高高高だと見分けられる。

モヤモヤの別の原因:利他的なツッコミ

ここで話はアクセントを離れる。水野は、形式だけ関西方言的なのに音声的にそう聞こえないことや、「儲かりまっか」のようないわゆるコテコテの表現を今の話者はほとんど使わないため馬鹿にされていると感じることも、関西方言話者のモヤモヤの原因だろうと認める。そのうえで、あまり言語化されていない原因として、利他的なツッコミをするかどうかという軸があるのではないかと述べた。アクセントとは関係のない、言語行動の話である。

水野が手がかりにしたのは、以前「東北の人は失礼か」(結論は失礼ではない)という回で種本にした『ものの言いかた西東』である。近畿と東北の言語行動を比べた本で、関西方言の話者には演出性を好み、会話に参加している人を楽しませようとする傾向があると書かれているという。堀元は、「バーン」と撃つまねをすると死んだふりをしてくれる、というよく言われる話だと応じた。

同書に出てくる例として水野が紹介したのは、東京ディズニーランドのジャングルクルーズの話だ。本来はクルーが巧みに場を盛り上げるアトラクションだが、たまたま乗った船のクルーが新人でぎこちなかった。それを見た同乗の関西方言話者の男性が派手にリアクションし、それを見て恥ずかしい思いをした、というエピソードである。堀元は、その男性はちゃんと場を盛り上げていると評価した。

堀元も似た話として、明石家さんまが運転免許更新の講習で、講師が淡々と説明するのに「ほんまでっか」などと反応して大いに盛り上げたという話を挙げた。水野は、さんまが素人や東大生を集めた番組でも、出演者がぎこちなく話していてもうまく盛り上げて場全体を盛り上がっているように見せると指摘し、典型的な関西的言語行動だと述べた。

調査:ボケるのは皆同じ、差が出るのはツッコミ

水野が一番驚いたというのが、大阪の若年層、関東の若年層、大阪の高年層に、会話の中でボケるか、相手がボケたらツッコむかを尋ねた調査である。ボケることについては、関東の若者も含めてみな同じようにやると答えている。差が出たのはツッコミで、関西の若年層では99%が「会話の相手がボケたらすかさずツッコむ」と答えたという。関東の数字は水野が論文の載っている資料を手元に持っておらず、後からテロップで補うことになったが、いずれにせよ関東はずっと低いとのことだった。

堀元は、直前に体験したばかりだという話をする。会場近くでお好み焼きを食べたとき、水野が半分に切り分けて渡してくれたが形が崩れ、水野が「ゴメヌティウス発生」と言った。堀元はまったく反応せず、自然体で「ありがとう」と受け取って食べていたという。まさにツッコまない人だ、と自分で認めている。

水野はこの調査結果を小さく見えて大きい差だと考える。関東の人は関西的な振る舞いを「ボケ」だと思っているが、関西の人は「ツッコミ」だと思っている。だから関東の人が関西的に振る舞おうとすると、ボケまくるがツッコまない、ということになってしまう。堀元はこれを「ツッコんで人を助けようとしないくせに、ボケて自分がウケようとする嫌なやつ」と言い換え、水野もそのとおりだと答えた。

利他と利己の逆転がエセ関西弁の核心という仮説

水野によると『ものの言いかた西東』には、大阪人は面白いことを言うのに命をかけているというイメージがあるが、正確には会話全体をいかにテンポよく盛り上げるかに命をかけている、という趣旨のことが書かれていたという。関西方言の話者は、会話があればその場の全員が楽しめるよう演出する意図でツッコむ。自分はツッコミに回り、場全体を盛り上げるという点で、水野はこれを利他的な行動だと見る。逆に、ボケるだけでツッコまないのは利己的に映る。

そうすると、関西方言を話して関西的に振る舞う非関西人は、「あなたたちの真似をしていますよ」と言いながら、関西の利他的なリソースを利己的に使っているように見えるのではないか、というのが水野の仮説である。堀元は「一番見ていられない」と応じ、表面だけ真似して正反対のことをしている構図だと整理した。

堀元はYouTuberにも同じことがあると話す。東海オンエアの虫眼鏡が、東海オンエアの表面だけを真似して、本来いちばん大事な企画を置き去りにしているYouTuberが大勢いて、地元の友達とうるさく集まっているだけになっていると言っていたという。本質は利他なのに、利己的な部分だけを真似してしまうのと似ている、というのが堀元の受け止めである。水野は英語にもたとえ、英語を使えても英語話者的に振る舞わない人は本当に英語を話しているとはあまり言われないのと同じで、関西方言話者だと思われるほどに話そうとするなら、ツッコむ、場を盛り上げるといったところまでインストールする必要があるのではないかと述べた。

水野はこの話を前回の「聞き分け」の問題にも結びつける。前回、関西の人が見分けられなかったケースがあったが、指導を受けてセリフを読む役者なら、日常的にツッコんでいるかどうかは関係ない。一方、大学などで地方から来た人が関西方言を話していれば、日常レベルで関西的に振る舞っているかどうかは如実に出る。堀元は、関西人と非関西人を分ける違いは、アクセントが正確かどうかよりも、言語行動の方に出ているということかと確認した。水野は、これは自分の私見であって言語学者がそう言っているわけではないと断ったうえで、調査を見ていくとそう感じるし、関西方言話者にこの仮説をぶつけると、それなりに納得されることがあると話した。

堀元は、ボケてツッコまれないと寂しくなるし、適切にツッコまれると相手を好きになると言い、水族館デートのエピソードを披露した。相手が写真を撮ろうとした場面で思いつきのボケを言ったところ、相手がいいテンポでツッコんでくれて、「この子を好きかも」と思ったという。水野は、まったく面白くないことを言った堀元がまるで面白い人のようになっている、それこそ利他だと応じた。堀元自身も、思いついたから言っただけの自分のボケは利己的すぎたと認め、水野は、自己満足のボケこそ関西人が嫌うものではないかと笑っていた。

言語より言語行動:千原せいじと高野秀行

水野がここまでの話をまとめた後、堀元はこの話が語学全般に広げられるかもしれないと言う。例に挙げたのは千原兄弟の千原せいじである。外国語はまったく話せないのにコミュニケーションで困ったことがないといい、海外でのテレビの様子を見ると、ずっと日本語で話し続けている。相手の言うことがわからなくても悪びれずに「何言うとるかわからん」と返し、指さしながら「これ?こういうこと?」と確かめて、最後は「ありがとう」で会話が成立してしまう。外国語なしでよく外国に行けるなと聞かれ、相手にも自分にも言いたいことがあるのだから、それを言えばいいのであって、同じ言葉を使う必要はない、という趣旨のことを答えていたという。堀元はこれを抽象化して、言語そのものを操れるかどうかより、何をしたいかという言語行動の方に重きが置かれるのではないかと述べ、水野もそう考えていると同意した。

水野は、地域ごとに人は文化圏の中で生きていて、形式だけをマスターしても文化までインストールしなければ、その土地のコミュニティに入ったとみなされるのは難しいとあらためて述べた。せいじはその側面の達人で、ノリに合わせてその場ですべき行動をしているから、言葉が話せなくても問題がないのだろうという。さらに水野は、ノンフィクション作家の高野秀行が『語学の天才まで1億光年』で、まずモノマネから入ると書いていたことを紹介した。例として、ある場面ではまず体をくねくねさせる、という話が出ていたという。何を話すかより、雰囲気を真似ることの方が重要だということである。

「正解」に向けて矯正すべきだという話ではない

最後に水野は注意を促す。エセ関西弁が悪く、関西方言という正解に向けて矯正すべきだとは思っていない、という。理由の一つは、自分がこの問題の当事者ではないのであまりポジションを取れないことだ。また水野は、以前どこかで、話した関西弁が関西弁かどうかを判定するような催しがあり、批判を受けたことに触れる。それはネイティブスピーカーが正しく、非ネイティブはダメだという序列関係になる。二人は第二言語習得論の回で福田先生から、ネイティブの英語以外に、日本人が学んだ英語にも同等に価値があると学んだ。それを踏まえれば、エセ関西弁はダメで関西方言はいいとする考え方は、ネイティブスピーカー神話につながってしまう。

水野の立場は、関西方言話者がモヤモヤしたり不満を表明したりするのはいいことだし、学習途中の人がそれを取り入れて直すことも構わないが、明確な序列化や、間違っている人への魔女狩りのようになるのはまずい、というものだ。堀元はそれを「クリロナの心持ち」と呼び、笑わずにすべてに接すればいいと応じた。

水野はさらに、この全2回を「そうなんだよ、わかる」と思って見に来た関西方言話者もいるだろうが、紹介した研究は他者を攻撃したり、多様性を否定したり、分断を煽ったりするためではなく、他者理解のためにあると自分は思っている、と述べる。鬼の首を取ったようにエセ関西弁を叩くことは研究者も望んでいないはずで、簡単ではないと認めつつ、モヤモヤと共存する道もあれば、うまく伝える道もあるので、適切に活かしてほしいと話した。堀元は、水野の仮説に沿うなら「ツッコんでないじゃん」とツッコんであげるのもいいかもしれないと付け加えた。

水野はもう一点、「利他」「利己」という善悪に結びつきやすい言葉でたとえたが、関西方言話者が他の地方に出て、その土地の言語行動に合わせなさすぎるという問題も当然あると補足する。東北で関西のノリでやりすぎて東北の人が困る、という事態も十分考えられるので、関西だけが偉いという話ではないという。

最後のエピソード:ボケ続ける人とツッコミ続ける人

締めくくりに堀元は、大ファンだというあるYouTuberと食事をしたときの話をした。その人はラジオと同じテンションでずっとボケ続け、ツッコまない。一緒にいる人間はツッコミ疲れしていく。ずっとツッコみ続けた人のことをその人は少し好きになるらしく、堀元はツッコみ続けて最後はちょっと気に入られたような気がするという。ただ多くの人は途中で自分もボケ始めてしまい、その人は頑なにツッコまないので、お互いにボケ続けて場がぐちゃぐちゃになって終わるらしい。

水野は、突っ込む人もボケる人も、それぞれの地域差も含めて、みんなが尊重し合って生きていけたらいい、という話だとまとめた。堀元は、最後に何が出てくるかと思えばまったくの蛇足ではないかと茶化し、水野は、これはお好み焼きの席での「ゴメヌティウス発生」に対する自分なりの逆襲だったと明かして回を終えた。